若かりし大竹しのぶ    超マジメ! 超清純! 初めての男性と結婚! なのに「魔性の女」「あざとい」といわれてしまう業の深さ。

若かりし大竹しのぶ 超マジメ! 超清純! 初めての男性と結婚! なのに「魔性の女」「あざとい」といわれてしまう業の深さ。

超清貧な家に生まれ、高校1年生で芸能界入りした美少女は、清く正しく、そしてすごく押しの強い生き方を敢行。結果、自在に人を惑わし男を虜にする「魔性の女」と呼ばれるに至った。


大竹しのぶの母方の祖父は、吉川一水。
キリスト教の大家で、娘(大竹しのぶの母親)を「江すてる(エステル、旧約聖書に登場する名前)」と名づけた。
大竹しのぶの父親、章雄も熱心なクリスチャン。
吉川一水の聖書の講座に出席したとき、エステルと出会った。
大竹しのぶも「マリア」という洗礼名を与えられ、兄1人、姉2人、妹1人という5人兄弟の中で育った
小学校に入ったとき人見知りがひどく友達ができなかったが、秋に転機が訪れた。
学芸会の「桃太郎」でキジ役に選ばれ、それまで内気で自分から話すことなどできなかったのに、セリフはなぜか大声でいえたのである。
大きな声を出した後、恥ずかしくて下を向いてセーターのボタンをいじったが不思議な快感を覚えた。
そして本番、多くの父兄が見守る中、
「オーイ、船が出るぞ」
という最後のセリフをいった後、拍手を受け
「なんて気持ちいいんだろう」
以後、超活発な少女に変貌した。

東京電力に勤めていた父親が結核を患い、教員免許を活かし、空気のきれいな埼玉県入間郡の男子高校の数学教師となり、一家で引っ越し。
父親は毎週、日曜日、誰もいない学校に行き、1人、汗だくになりながらトイレ掃除。
自転車の後ろの乗ってついていった大竹しのぶは、半日がかりでトイレを掃除する父親をみて不思議に思った。
「お父さんがは先生でしょ。
偉いんでしょ。
なのになんでトイレ掃除しなくちゃいけないの?」
「トイレは汚いよね。
みんな、掃除なんかしたくないと思っているだろ。
誰かきれいにしなかったらずっと汚れたままじゃないか。
だからしてるだけだよ」
背中を向けたまま答える父親に
「意味はわからなかったけど、なんとなく胸にズシンと響いた」

しかしその後、父親の肺は悪化し、仕事を休んで自宅にいることが多くなり、母親が働き始めた。
参観日に父親が来ることになり、大竹しのぶはガラガラと戸を開ける音で振り返らなくても
「来たな」
とわかった。
独特の緊張感の中、授業が進む中、先生が問題を黒板に書いて
「さあ解いてみましょう」
生徒が全員、机のノートに集中し下を向くと、父親が動き出した。
教室を回って1人1人のノートをチェックするのをみて、大竹しのぶは
(みんな気づかないで)
と祈ったが
「ミッちゃん、答えが違うんじゃないかな。
もう1度考えてごらん」
という声がして、全員が父親と顔を真っ赤にするミッちゃんに注目。
(もうアウトだ)
と思ったが
「そうそうそう、それでいいんだよ、ミッちゃん」
というすっとんきょうな声がして、教室は爆笑に包まれた。


東京23区から埼玉の田舎に引っ越した大竹しのぶは、毎日、自然の中を1時間以上歩いて登校するようになり、さらにパワーアップ。
明るく、勝気で、目立ちたがり屋で、感動するとすぐ泣いてしまう大竹しのぶは、クラスの中心的存在。
普通は男子がやる学級委員長に、女子の圧倒的な支持を受け、小2からずっとに選ばれ続けた。
男子の反感を買って嫌がらせを受けることもあったが、絶対に負けず、クラスの文集に
「1度でいいから大竹を泣かしたい」
と書かれたこともあった。

体育の時間にフットベースボールをやったとき、男子に
「大竹、勝負しようぜ。
負けた方は罰ゲームで点差の数だけ校庭を走る。
どうだ」
といわれ
(売られたケンカは買うしかない)
と男子チーム vs 女子チームで対戦。
23点差で負け
「じゃあ走ってもらおうか。
23周だぞ」
といわれた。
「エーッ本当に走るの?」
「私、ヤダなあ」
「カンベンして」
嫌がり、逃れようとする女子もいたが
「みんな、頑張って走ろ。
ネッ」
といって校庭を走り始めた。
4時間目の授業時間が終わり、給食の時間になったが、まだ23周を走れない。
離脱する女子が次々と出る中、意地で走り続け、23周を走り切ったのは自分を含めて3人だけ。
ゴールした途端、2人が倒れてしまい、大竹しのぶは平気だった咄嗟に倒れた。
その後、救急車が呼ばれ、
「この子は大丈夫」
と自分だけ救急車に乗せてもれえず、教師に
「お前の責任だ」
と怒られた。

学級委員長をやっていてイヤだったのは、給食費を集めるときに
「・・さんと・・さんは明日、必ず持ってきてください」
といった後、必ず
「アッ、私もだった」
といわなければならないことだった。
それは誰かをかばおうとしたのではなく本当に払えなかったからだった。
働けない父親と5人も子供がいる家は、やがて生活保護を受けるようになった。
すると給食費は免除になって
「アッ、私もだった」
はいわなくてよくなったが、代わりに自分だけ先生に呼ばれて関係書類を渡されるようになって
「なにそれ?」
と聞かれると
「えー、わかんない」
とトボケた。

家にはテレビがなかったので、正直、みんなの話題についていけなかったが、
「面白かったよね」
といって輪の中に忍び込んだ。
ハツエちゃんの家が火事になって
「テレビも焼けちゃったんだって。
かわいそ」
という話を小耳にはさむと、ハツエちゃんに仲間意識、そしてテレビのない惨めさを分かち合える友ができたうれしさを感じた。
掃除の時間に1人で雑巾がけをしているハツエちゃんを見つけると
「今だ!」
と並んで雑巾がけ。
「大変だったね。
火事でテレビも焼けちゃったんだって?
あのね、今まで内緒にしてたけど実はウチもテレビがないの」
とついに秘密を告白。
ハツエちゃんはキョトンとしながら
「私んチ、もうテレビ買ったから」
思わぬ返しに衝撃を受けながら
「あ、そうなんだ。
よかったね」
つくり笑いをして、まるでなにもなかったように雑巾がけを再開した。

家の食事は、ずっとご飯と卵だけ。
あるとき両親が知人から借金したことを知ると、妹はパッと顔を明るくしていった。
「やった!
今日はおかずが出るかも!」
父親は、いつも横になって本を読んでいた。
テレビはないのに本はたくさんあり、父親は
「1日30分でいい、ページでもいいから本を読みなさい」
と勧めた。


また父親はクラシック音楽も好きで、特にベートーヴェンとチャイコフスキーが大好き。
レコードやステレオはないがラジオでクラシック音楽が流れると、目を閉じて、人差し指で指揮。
「しのぶ、おいで。
田園交響曲が始まるよ」
ある日、大竹しのぶは、ラジオの前に呼ばれてベートーヴェンの音楽鑑賞につき合うことになった。
父親は完全に世界に入り込み、
「ホラッ、村人たちが広場に集まってきたよ」
「みんな歌っているね」
「お祭りなんだ。
ダンスが始まるよ」
「あっ、嵐だ。
村人が逃げるように去っていくよ」
「雨が上がったみたいだね。
ほら空がだんだん明るくなってきた」
などと解説。
大竹しのぶは、美しい外国の村に天空から光が差し込み、広場に戻ってきた村人と一緒に踊る自分をイメージした。
本、音楽、父親の指導によって想像力を育んだ大竹家。
4姉妹が一緒になると誰かが自然と
「♪夏が来ーれば思い出す」
と歌い出し、残りの3人が
「♪はるかな尾瀬、遠い空」
と続き、ハモりながら合唱。
大竹しのぶは、お祭りののど自慢大会で「ドナドナ」を歌って2等賞になったこともあった。

中学校に進学し、入学式が終わろうとしたそのとき、保護者席から大きな声がした。
「あの、ちょっと一言いいですか?」
「どうぞ」
壇上の教師が答えると大竹しのぶの父親は静まり返る講堂の中をツカツカと進み出た。
そして登壇すると
「みなさん、覇気が足りない!」
といきなりぶちかまし、注目されながら平然と続けた。
「まったく元気が感じられません。
入学式だというのに、そんな顔をしてどうするんですか。
背筋を伸ばして、もっとシャキッとしなさい。
今日から中学生なんだから、イエスかノーか、ハッキリいえる人間になりなさい。
そのためには何が必要かわかるかな?
それはファイトだ。
みなさーん、これからはファイトをもって進んでください!」」
教師生徒、保護者、全員がアゼン。
父親だけが目をキラキラさせていた。

大竹しのぶも、正義感に燃えて、先頭に立って何かをするのが好きだった。
「小さな親切」運動で農家をしている同級生の家からリアカーを借り、
「廃品回収にご協力ください」
と叫びながら町内を回ったり
「私たちの力でビアフラ(独立後、凄惨な戦争をしていた国)をなんとかしなくちゃ」
といって毎週日曜日、街頭募金に立った。
かなりのお金が集まって、得意顔で教師の報告したが
「募金をするには許可がいるんだから、そんなことしちゃいけません」
と怒られ、そのいい方にショックを受けた。
「もう少し子供の気持ちを汲んでくれても・・・」

クラスで話し合った結果、文化祭の出し物が「リア王」に決定。
脚本と演出を任された大竹しのぶは、毎日、放課後、図書館に居残りして、原作からストーリーとセリフを抜粋していった。
1週間後、脚本が完成したが、せっかく全員が出演できるようにつくったのに、出たくないという男子が現れ、帰ろうとした。
大竹しのぶは許せず、追いかけてカバンを取り上げ
「みんなで練習してるんだから戻りなさいよ」
演出家として、配役は自分が独断で決めるのではなく投票で決めることにした。
結果、コーデリア王女役に選ばれた。
脚本家、演出家、そしてリア王に最も愛される末娘、コーデリア役とほぼ独壇場。
目立ちたがり屋の本領を発揮して張り切って練習。
結果、「リア王」は絶賛を浴びた。

東京にいる親せきが仕事を紹介してくれた。
それは病弱な父親でもできる倉庫の仕事で、家族で住める寮もついていた。
「清貧で自然を愛し神の前で平等」
というキリスト教の言葉が好きな父親は自然豊かな土地から離れたくなかったが、母親に
「だったら離婚してください。
子供を連れて東京に行きます」
といわれ江戸川区へ引っ越し、椅子に座って本を読みながら倉庫番の仕事をした。
中3で転校生となった大竹しのぶは環境の変化に
「自分の居場所がない」
「エネルギーを発散する手段がない」
悶々と日々を送っていたが、スポーツ万能、成績優秀というクラスで1番モテていた男子と初デートを体験。
一緒に下校して、途中、公園でおしゃべりするだけだったが、恋人気分を味わった。
中3の秋から始まった清い交際は高校へ進学すると自然消滅した。

1973年、大竹しのぶは、
都立高校の1年生のときに欠かさずみていたオーディション番組「スター誕生!」から、森昌子、桜田淳子、山口百恵が「花の中三トリオ」として大ブレイクするのをみて
「自分より1コ下の中学生がスターになってる」
と驚き、
「私も「スター誕生!」に出たいなあ」
と思った。
人気アイドルグループ、フォーリーブスのリーダー、北公次が初主演するドラマ「ボクは女学生」で、北の相手役が一般から募集されているのを知ると妹と一緒に応募し、オーディションを受けた。
5700人中11人の合格者の中に入ったが、与えられたのは女子生徒役で、大勢いる脇役の1人だった。
撮影はすぐに始まると聞いて
「なるべく学校を休まないでいいようにしてください」
と頼んだが、聞き入れてもらえず、中間テストまで学校を欠席しなければならなくなった。
「こんな生活を送っていていいのだろうか?」
と悩んでいると脚本家に
「プロダクションに入った方がいいよ」
とアドバイスされた。
いわれるがまま芸能事務所に入り、テストがあると訴えたが無視され、嫌気がさして
「ドラマの収録が終わったらやめる」
と決めた。

しかしそんなことは知らない事務所は、映画のオーディションを受けるように指示。
所属している以上、従わねばならず、学校を休んで会場へ。
映画の名前は「青春の門」
田中健演じる主人公の恋人、牧織江役のオーディションだった。
面接審査で
「ちょっと横を向いてみて。
うん、横顔は浅田美代子に似てなくもないな」
といわれ、イヤイヤ受けていたのにうれしくなってしまった。
数日後、事務所から面接に通ったことを知らされた。
こうして無名ながらヒロインに抜擢され、それから1ヵ月間、吉永小百合、仲代達也、小林旭らと一緒に九州で撮影。
東京に戻った後も学校に通いながらスタジオ撮影を行った。
1974年12月、ラブシーンの撮影があった。
ラブシーンどころか、まだ男の子と手をつないだこともなかった17歳の大竹しのぶは、シーンと静まり返るスタジオで服を脱いで裸になって田中健と抱き合った。


「青春の門」の撮影をしているとき、事務所の指示でNHK朝の連続テレビ小説「水色の時」のオーディションを受けて合格。
NHK朝の連ドラ、最年少ヒロインとなった。
週5日、東京でリハーサルか長野で撮影があった。
長野県の日は学校に行けなかったが、東京の日は、1度も遅刻せず高校3年生として登校。
3時間目の授業が終わるとダッシュで渋谷のNHKのスタジオへいき、24時までリハーサル。
大竹しのぶは、「青春の門」と「水色の時」の演技で、ブルーリボン賞、テレビ大賞の新人賞を獲得した。
ドラマ、映画、NHKドラマに続き、CM[も初体験、
初にして1975~1983年まで起用され、自己最長となる風邪薬の「ルル」のCMは、毎年、1週間かけて撮影された。


結局、まともに高校に通ったのは1年生の途中までだったが、3年生はイベントで熱くなった。
文化祭では、クラスで20分間の短編映画を作成。
シナリオから主題歌まですべてを生徒でつくり、大竹しのぶは主人公を演じた。
「これが私の記念すべき初主演映画」
クラスで合唱祭の曲を決めるとき、「流浪の民」を提案。
ロベルト・シューマン作曲の4重唱、かつ
「宴寿(うたげほが)い賑わしや」
「女立(おみな)ちて忙しく」
「厄難(なやみ)祓う祈言(ねぎごと)を」
「語り告ぐる嫗(おうな)あり」
「愛(めぐ)し乙女舞い出(いで)つ」
「東空(ひんがし)の白みては」
など訳詞が文語体(古い時代の言語)という難しい曲だったが、
「ありきたりの選曲じゃなくて、レベルが高い歌にした方が絶対にみんなビックリすると思います。
きっと優勝できるはず。
だからコレにしよう」
と熱弁。
「そんな歌知らねえよ」
「なにいってるんだよ」
と反対意見も出たが
「練習すれば大丈夫。
私を信じて」
と説き伏せた。
大竹しのぶは、ソプラノのソロも担当することになった上、提案者として練習を仕切り、放課後になると率先して机を片づけてスペースをつくって
「サッ、練習しよう」
みんなの前で担任に
「先生、もし優勝したら私たちの合唱曲をレコードにしてくれませんか?」
と約束を取りつけてモチベーションを高め、本番前日、
「みんな、家から白いシーツを持ってきて。
制服で歌うのはつまらないでしょ。
シーツを衣装にして歌おう」
といい、当日、全員が白いシーツを巻いて肩に赤いバラをつけた。
結果、優勝。
しばらくして担任は1ヵ月分の給料を使って、生徒1人1人にソノシート(塩化ビニール製の薄くて柔らかいレコード)を贈った。

短大に進学した春、映画「天保水滸伝、大原幽学」、ドラマ「たぬき先生騒動記」をかけ持ちしていたところ、さらにレコードデビューが決定し
「ウソでしょ?」
と驚いた。
それは阿久悠作詞、大野克夫作曲の「みかん」という曲だった。
東京のスタジオで深夜までドラマの収録。
それから車で千葉に向かって、翌日、映画のロケ。
ほとんど寝られない中、カメラマン助手に
「アンパンマンみたいな顔でカメラの前に立たないんで欲しいんですけど」
といわれ、
「グサッと来た」
ドラマと映画の合間に「みかん」で歌番組に出たり、キャンペーンで各都市を回った。
あまりの忙しさに気持ちに余裕がなくなっていき、ある日、1人で夜道を歩いていたとき空を見上げるとタメ息が漏れた。
そこにはキラキラと星が輝いていて
「私、星をみる余裕もなかったんだ。
こんな生活やめなくちゃいけない」
翌日、事務所に
「辞めさせてください」
しかし許されなかった。

恋愛や男子とは、まったく縁がなかった。
短大の親友、メグとマコも同じで、コンパで即席カップルが消えていくと
「フケツー」
「許せなーい」
とささやきあっていた。
そんな中、「若きハイデルベルヒ」という舞台が始まって間もなく、恋人役の歌舞伎役者、2歳上の中村勘九郎から
「近いうちに絶対、一緒に遊びに行こうよ。
しのぶちゃんはどこ行きたい?」
と誘われ
20歳の大竹しのぶは一瞬ためらった後、
「遊園地」
「じゃあ、お芝居のオフの日にいこう。
明後日はどう?」
こうして中3以来、5年ぶりのデートすることが決定。

約束をしてしまったものの、2人きりで遊園地に行くことを想像すると気が重くなった。
「ボーイフレンドでもない男の人と2人きりで会うなんて常識から明らかに外れている」
かといって断るのも悪いので、
「メグかマコを連れていこう」
当日、勘九郎は、弁当と称してお手伝いさんが詰めたお重を持参。
それがかさばったため、待ち合わせ場所からタクシーで谷津遊園地へ。
到着すると3人で観覧車に乗って食べた。
大竹しのぶは「若きハイデルベルヒ」のラストシーンで勘九郎に
「あなたが殿下なのね」
といいながら造花を渡していたが、最終日に
「本物のお花をあげたい」
と白いトルコ桔梗を買っていった。
それを受け取った勘九郎は、枯れるのを恐れて冷凍庫に入れた。
奇妙な3人デートはメグとマコが入れ替わりながら続き、後楽園や豊島園、いろいろな遊園地を巡った。

日本水産のCM撮影が2週間、カルフォルニアで行われ、初海外、20歳の大竹しのぶは行きの10時間のフライトで緊張して眠れなかった。
「アルコールを飲めば」
といわれて数えるほどしか飲んだことはなかったがオーダー。
運ばれてきたワインを飲むと、すぐに顔が火照ってきて、寝る前にトイレへ。
フラつきながらトイレにたどり着いて入ったまではよかったが、次の瞬間、目の前が大回転し、気がつけば倒れた自分を上から数人の顔がのぞき込んでいた。
「大丈夫か」
よくわからないまま抱えられて自分の席に戻るとスチュワーデスがやってきて「non alcohol」と書かれたシールを座席に貼りつけた。
ロサンゼルスに着くと毎日、CM撮影があったが拘束時間は短かく
「遊びの合間に仕事をするという感じ」
5日目にはディズニーランドへ。
朝から興奮状態で行きのバスの中で遠足の小学生のようにはしゃいだ。
開園時間に到着し、興奮状態でいくつかの乗り物に乗った後、「イッツ・ア・スモールワールド」へ。
船に乗って水路を回るアトラクションで、世界中の国々の民族衣装を着けた子供の人形が、それぞれの国の言葉で同じ歌っていた。
「世界はひとつ♪」
というフレーズを聞いて大竹しのぶは嗚咽を漏らしながら号泣。
「そう、世界はひとつ。
戦争なんかしちゃいけない!」
イッツ・ア・スモールワールドは3回乗って3回とも号泣した。

22歳のとき、ドラマのロケでハワイへ。
オワフ島のパールハーバーにある公園で撮影があり、そこには日本の真珠湾攻撃で命を落としたアメリカ人兵士の墓があるのに、淡々と準備をするスタッフをみて
「ちゃんとお参りしてから始めるべきでは・・・」
と思ったが言い出せず、悶々としたまま撮影。
お昼の休憩時間、
「せめて自分だけでもお参りしよう」
と1人で墓地にいき、1つ1つのお墓に手を合わせた。
墓石には名前と戦死したときの年齢が刻まれていて、ほとんどが18、19、20歳の若者ばかりで
「私たち日本人が彼らを殺したんだ」
と思うと涙がボロボロ流れた。
すると公園の掃除をしていたオジサンがやってきて
「どうしたの?
なぜ泣いているの?」
大竹しのぶは、未熟な英語で必死に訴えた。
「私たちが殺したの。
ごめんなさい」
「我々だって多くの日本人を殺した。
お互い、同じことをしたんだ」
その言葉を聞いてオジサンに抱きつき、さらに大泣きした。

23歳のとき、「恋人たち」というドラマに出演した大竹しのぶは、TBSのディレクター、41歳の服部晴治と知り合った。
「オシャレで優しそう」
というのが第1印象で
「服部さんってかっこいいよね」
と共演していた田中裕子と盛り上がり、最終的に
「ジャンケンで負けた方が服部さんに電話しよう」
ということになった。
そして公衆電話のダイヤルを回したのは大竹しのぶだった。
ドキドキしながら自分の名を告げると、
「何?
僕と結婚したいの?」
ダンディな声でいわれると動悸がして倒れそうになり、あわてて田中裕子に受話器を渡した。
すると田中裕子も同じセリフをいわれて卒倒しそうになった。
服部春治にノックアウトされた2人だが、その後も機会をみては電話した。

大竹しのぶは、服部春治が過去に2度離婚していて、現在は女優の中村晃子と交際中と知ってガッカリ。
それでも5月の服部春治の誕生日の前に妹とプレゼントを買いにいった。
「恋人と暮らしているから、いかにも女性からのプレセントみたいなものだと困るよね」
「彼女がみたらイヤな思いするかもね」
「そうだ。
エンピツ削りにしよっと。
服部さん、台本のカット割りにエンピツ使うから」
こうしてスヌーピーの鉛筆削りを購入し、妹と連名で贈ることにしたが、プレゼントを買えたことがうれしくて妹と渋谷のスクランブル交差点を全力疾走した。
2人で映画を観にいったときに渡し、
「ありがとう。
家に帰ってから開けるね」
と感動する服部春治をみて、
(もっと高価なものにすればよかった)
と後悔した。

3ヵ月後の8月、服部春治に
「食事しよう」
と誘われた。
7月17日が大竹しのぶの誕生日だったが、仕事で海外にいっていたので1ヵ月遅れでお祝いをしようという。
「何着ていこう」
とウキウキしながらピンクのシンプルなワンピースをチョイス。
そして六本木の中華料理店で食事をしながら唐突に質問した。
「中村さんと結婚するんですか?」
「うーん、わからないなあ。
だって彼女と結婚したら、しのぶちゃんとこんな風に会えないでしょ」
(それってどういう意味?)
身体の中に衝撃が走り、心臓が高鳴った。


店に流れるBGMに気づいて
「アッ、この曲、すごく好きなんです」
「ケニー・ロジャースのレイディ。
僕も好きだよ。
よしっ、レコード探しにいこう」
「エッ、今から?」
2人はレコード店へ。
しかし「レイディ」はなく、次に本屋へ入った。
そこで服部は本を1冊買って
「これ、誕生日プレゼント」
と手渡した。
ラッピングもリボンもナシ。
大竹しのぶは、その表紙をみてドキドキした。
フランソアーズ・サガンの「熱い恋」という本だった。
8月の終わり、服部春治から電話があった。
「今、彼女とケンカして家を出たんだ。
僕はもう戻らない。
彼女とは別れる」
「えっ!」
うれしさと戸惑いが交錯し、返答に詰まった。
しかしこの日を境に2人の距離は急速に縮まり、大竹しのぶは初めて男性と心と身体で愛を交わした。

「17歳差!
清純派女優、2度の離婚歴がある中年テレビディレクターと熱愛!」
「中村晃子から略奪愛」
マスコミは2人の交際をスキャンダラスに報じた。
これまでロクに恋愛経験がない大竹しのぶは
「魔性の女」
と書かれて驚いた。
大竹しのぶの所属事務所は激怒してTBSに抗議。
服部春治は、会社(TBS)から
「ほとぼりが冷めるまでは行動を自粛するように」
といわれて身を隠さざる得なくなった。


大竹しのぶは周囲から
「あの人はプレイボーイだから絶対に浮気される」
「ひどい男だよ。
だまされている」
「遊ばれて、いずれは捨てられるよ」
などと服部春治の悪口やひどい話ばかりを聞かされ、会社には
「映画監督や演出家があなたお可愛がってくれたこと、わかっているでしょ?
このままじゃ、みんなからソッポを向かれる。
そしたら女優としておしまいなのよ」
と怒られ、とにかく交際に反対された。

しかし気持ちは変わらず、逆に
「自分からハッキリと交際していることを公表したい」
と申し出ると、会社は血相を変えて
「交際宣言するなんて絶対許さない。
それだけはいっちゃダメ。
一生のお願い。
絶対にいわないで。
約束して」
ちょうどスペシャルドラマ「山を走る女」の発表記者会見が迫っており、
「交際を公表したら大勢の人に迷惑かけることになるのよ。
だから逆に否定してちょうだい。
つき合っていませんって。
お願い」
と必死に頼まれた。

大竹しのぶは、自分の気持ちで素直でありたいと思ったが、周りに迷惑をかけてしまうことを考えると従うしかなく
「服部さんのことは尊敬しています。
でも好きっていう感情とは違うんですよねぇ。
もちろん交際はしていません。
本当に何でもないんです。
誤解を受けるような行動をした私がいけなかったんです。
ごめんなさい」
と交際を否定した。
これをマスコミは
「したたかな女」
とバッシング。
大竹しのぶは人生最大級の自己嫌悪に陥った。
「ウソをついた。
妙にはしゃいだりしながら。
どんなことがあっても正直でいようと、ずっと心がけてきたのに、とうとうその信条を曲げてしまった。
後で記者会見の映像をみたら、とても嫌な顔をしていた」

その後も2人は人目を避け、都心から離れた場所でデートを続けた。
交際して約1年後、1982年8月12日、役所に婚姻届けを提出。
さらに2ヵ月後の10月12日、結婚式を挙げた。
2時間の披露宴の間、大竹しのぶは泣きっぱなしだった。
「妻たるもの、毎日夫に美味しい手料理を食べさせなければ」
全く料理ができなかった大竹しのぶは、分厚い本を購入。
材料から調味料まで本と寸分たがわぬ分量で、書いてある通りに料理。
「おいしい」
といわれるのがうれしくて仕事と同じくらいの情熱とエネルギーを料理に注ぎ込み、朝、夜だけでなく弁当までつくった。
「今日は部下を連れて帰るから」
といわれるとバイブルの料理本からおもてなし料理をそっくりそのままつくり、テーブルに並べた。
頑張りすぎた結果、稽古中に倒れてしまった。
あまりに料理に集中しすぎて、つくる過程でお腹がいっぱいになってしまい、自分はまともに食べていなかった。
「しのぶは仕事があるんだから家のことでそんなに無理しなくてもいいよ」
病院で点滴を受けながら服部春治にいわれたが、
「手を抜こうとはサラサラ思わなかった」
特にイベントごとには力が入り、クリスマスのチキンは
「ナイフを入れると中からチーズがトローリ溶け出すという凝りよう」
初めてのおせち料理も
「カマボコまで手作り」

1度だけ、忙しくて時間がなく、インスタントを使ったことがあった。
味の素の「麻婆茄子」に少し手を加えたものを
「今日はクックドゥなの」
といわなくてはならないと思いつつ、いえないまま食卓へ。
すると
「いつものようにおいしいね」
と服部春治にいわれ、まず驚き、自分も食べてみると本当においしくて、再び驚き、
「今まで自分が作ってきた料理は何だったの?」
と思った。
「妻たるものは」編み物にも挑戦。
おしゃれでファッションにこだわりがあった服部晴治は、25歳の妻が編んだセーターやおそろいの帽子をかぶった。
そして仕事でパーティーに出席すると
「どういう席順だったの?」
「春治さんの隣は誰が座ったの?」
と問い質された。

結婚して約1年後、服部春治が
「胃が痛い」
というので病院で診てもらうと
「神経性胃炎」
といわれた。
その後、症状は悪化したが、忙しさにかまけて病院に行かず、半年後、ついに耐え切れなくなり再検査。
医者は服部春治には胃潰瘍と知らせたが、大竹しのぶを別室に呼んで胃にガンらしきものがあると告げた。
大竹しのぶは涙をポロポロ流しながら
「彼はどれくらい生きられるんですか?」
「だいたい1年くらいです」
大竹しのぶは意識が遠のきそうになるのを必死にこらえた。
(今泣いてはいけない)
(取り乱しちゃいけない)
と自分にいい聞かせて病室へ。
服部春治から鋭い視線を受け、自分の病状を読み取ろうとしているのがわかったので自分を奮い立たせ目をそらさず
「もう情けなくて、思わず泣いちゃった。
どうして潰瘍がこんなにひどくなるまで放っておいたのかって叱られたよぉ。
気づかなくて本当にごめんね」
大竹しのぶは、医者と話し合って告知はしないと決めていた。
(あと1年しか生きられないなんて絶対に信じない。
私が必ず治してみせる。
スタートだ。
ここからだ)

服部春治は、1983年11月30日に入院し、手術を受け、12月31日に退院し、年が明けると仕事に復帰。
半年後の1984年6月、大竹しのぶが妊娠していることがわかった。
服部春治は、最初の結婚で2人、2度目の結婚で1人、合計3人の子供がいたため、さらに子供を持つことに戸惑い、出産に反対。
大竹しのぶは、初めてケンカした。
最終的に服部春治が
「天から授かった命をどうすべきかと一瞬でも迷った自分が恐ろしいよ。
葬るなんて許されるわけがない。
それに何よりしのぶが子供を望んでいる。
躊躇して悪かった」
と謝った。
これまで励まし続けてくれた服部春治の担当医も
「父親が抗ガン剤を服用している場合、障害を持った子供が生まれる可能性が高いんです。
それに父親がいない子供を産むつもりですか」
と出産に反対。
大竹しのぶは、、この2人目の反対者に対しても
「どうしても産みたいんです」
と訴え、胎児の異常を専門にしている大学病院の医師に紹介状を書いてもらった。
「どんなことがあっても絶対にこの子は産む。
たとえどういう状態で生まれてこようと立派に育ててみせる」
と決めていた。
妊娠3ヵ月のとき、撮影で転ぶシーンがあり、
「がんばれ。
ちゃんとしがみついていてね」
とお腹の赤ちゃんにメッセージを送り、無事、シーンを撮り終えた
その後、育休に入ると服部春治と生まれてくる子供の話をすることが多くなった。
「しのぶ、僕たちの子供はきっと男の子だよ」
「そうだね。
ヨシッ、日に焼けた元気な子に育てよう。
2人でね」

1985年1月29日、大竹しのぶは、男の子を出産。
服部春治は
「2000年に羽ばたく」
という願いを込めて
「二千翔(にちか)」
と命名。
大竹しのぶは、産後7ヵ月後で仕事に復帰。
しかしいきなり名古屋で1ヵ月ほど滞在しなければならない仕事で、二千翔は同居している自分の母親に預けたが、会いたくて仕方なかった。
同年、服部春治が演出を務めるドラマに出演。
服部春治の依頼で台本は書き直され、妻に病気で先立たれた原田芳雄のセリフは
「僕はもう45歳でしょ。
今でもこんな風に人を愛したことはなかったし、これからもこんな風に誰かを愛することは2度とないだろう」
となった。
大竹しのぶはドラマを観た友人に
「あのセリフ、服部さんがしのぶに宛てたラブレターじゃないの?」
といわれ、服部春治に
「そうなの?」
「そうだよ。
よくわかったね」
「ありがとう」
大竹しのぶは服部春治に抱きついた。

1986年は、家族3人で正月を迎えた。
医師のいった余命1年は過ぎ、大竹しのぶは
「もしかすると彼はガンに勝ったんじゃないだろうか」
と思った。
仕事をしているときは病気のことを忘れることができ、不安を紛らわすためにもセーブはしなかった大竹しのぶは、「奇跡の人」という、見えない、聞こえない、喋られない、3重の障害を持つヘレン・ケラーの舞台からオファーが来ると
「やった!
ヘレン・ケラーをやれる」
と喜んだ。
しかし実際にヘレン・ケラーを演じたのは、1973年生まれの安孫子里香。
1957年生まれの大竹しのぶは、20代後半という自分の年齢と図々しさを痛感。
そして1ヵ月間の公演中、休みなしで昼と夜に舞台に立った。
「奇跡の人」には、この1986年以降も、1987年、1992年、1997年、2000年、2003年と出演。
暴君、ヘレンのもとにやってきた、ケンカ早くて不器用な家庭教師のアニー・サリヴァンを演じた。

7月には「男女7人夏物語」で明石家さんまと共演。
明石家さんまは、大竹しのぶより2歳上。
まだ通い弟子をしながら兵庫県西宮市の家賃7500円のオンボロアパートで1人暮らしをしていた頃、家具は瓶ビールのケースを並べた上に板を置いたベッドと小さなテレビだけという極貧生活だったが、NHKの朝の連続テレビ小説「水色の時」で17歳だった大竹しのぶをみて憧れを抱いた。
そして軽妙なしゃべりで爆発的な人気を得て、東京に進出し、25歳のとき、大竹しのぶと初めて出会った。
自叙伝「ビッグな気持ち」とCD「Bigな気分」をリリースした明石家さんまは、朝のワイドショーで歌うことになり、テレビ局へ。
その廊下で服部春治と付き合い始めた頃の大竹しのぶとスレ違った。
大竹しのぶはガラガラ声で歌う明石家さんまをみて
「この人はきっとすごい大病を患っている人だ。
若くてしてもうすぐ死ぬ人のためにテレビ局の人が最後に出させてあげたんだ」
と思い、泣きそうになった。
大竹しのぶの母親も家で番組をみていて
「あんな声で・・・
かわいそうに・・・」
と思った。

好感度ナンバーワンタレントとなった明石家さんまは、お笑い芸人として初めてトレンディドラマの主役に抜擢された。
「男女7人夏物語」の初顔合わせの日、明石家さんまはジミー大西の運転でいきなり遅刻。
「今井良介役の明石家さんまさんです」
と紹介された後、隣に座っていた神埼桃子役の大竹しのぶに話しかけられた。
「ねえ、さんまって芸名、気に入ってるの?」
「気に入るも何も・・」
「イワシじゃイヤだったの?」
「・・・・師匠がつけてくれたんで」
「あ、そうなんだ。
師匠、魚が好きなんだ」
「・・いや」
「明石家サバでもよかったかも」

制作発表の記者会見で大竹しのぶは、
「私は今までどちらかというと思い役が多かったと思うんです。
テレビの前のみなさんが観終わった後に疲れたと感じるような。
今回はさんまさんの力で私の明るい面や軽い部分を引き出していただけたらいいなあと思っています」
とコメント。
撮影が始まるとカメラが回っていなくてもテンションを下げず共演者やスタッフを笑わせる明石家さんまに大竹しのぶは
「笑いのためなら何でもやるってことだよね」
「そうそう、面白ければイイ」
明石家さんまを筆頭に出演者は売れっ子が多く、全員が揃うシーンを撮る機会は少なかった。
ときには24時から撮影が始まって終わったときは空が明るくなっていたり、深夜にスタジオ撮影をして数時間後に野外ロケに出発するなど過酷なスケジュールとなった。
出演者にとっては移動のバスの中だけ唯一の睡眠時間だったが、そこでも明石家さんまだけは1人でしゃべり続けた。
大竹しのぶは
「ねぇ、わかってる?
みんな眠りたいと思っているのよ」
と注意した。

超売れっ子の明石家さんまは、よく遅刻した。
あまりの遅刻の多さに激怒していた大竹しのぶと生野慈朗監督が
「驚かせてやろう」
とドッキリを企画。
遅れてきた明石家さんまにADが
「大変です。
大竹しのぶさんが怒って帰っちゃいました」
と伝えると
「そうでっか。
すんまへんなぁ。
ほな今日は終わりでんな。
お疲れっス!」
といって帰ろうとしたため、少しは凹むかと思っていた大竹しのぶは飛び出ていって
「何、いっているの!」
と怒った。
その後、
「堪忍してくれいうとるやないか」
とひたすら謝る明石家さんまと
「何いってるの。
みんな笑っているけれどスタッフがどんな思いをしているのか知っているの?」
と怒りはおさまらない大竹しのぶ。
周囲は、
「2人で夫婦漫才ができるわ」
と笑った。


成田空港でのラストシーンの撮影では、事前に許可をとったにもかかわらず別の映画のロケとバッティング。
空港の担当者は「男女7人夏物語」の撮影を中止させようとしたが、やめるわけにいかず怒鳴り合いの押し問答の末に撮影を強行。
すぐそばでスタッフが空港関係者をブロック中、階段を下りていく大竹しのぶを明石家さんまが見送るシーンが撮影された。
「男女7人夏物語」は、毎週金曜日21時から放送され、若い男女の気持ちがうまく描いた内容と大竹しのぶと明石家さんまのかけ合いが話題となり、最高視聴率は31%の大ヒット。

「男女7人夏物語」の収録が終わった後、大竹しのぶは家族3人で静岡県の下田温泉へ。
しかし運が悪いことにその日は「男女7人夏物語」のオンエア日。
「春治さんと二千翔に100%の愛情を注がないと・・・・」
と思いつつ、でも
「観たい」
葛藤の末、ホテルの部屋にあったテレビのスイッチをつけてしまった。
大竹しのぶは気づかなかったが、服部春治がドラマを観る妻をカメラで撮った。
後日、大竹しのぶは家族旅行の写真をみていて、その1枚に気づき、罪悪感を感じた。

一方で
「このドラマで役の幅が広がったんじゃないかと思う。
さんまさんに自分の違う一面を引き出してもらった」
と本人にはいわなかったが明石家さんまに感謝していた。
友人に
「さんまさんってすごく面白い人なの」
と話すと
「なんか嬉しそうに話してない?
しのぶ、人妻としてそれはまずいよ。
あなたには服部さんという大切なダンナ様がいるじゃない」
と注意されたが、当の服部春治は、
「3人で食事をしよう」
といった。
そして初対面で明石家さんまと意気投合。
その後も一緒にテニスを楽しむ仲となった。
こうして服部春治は、1986年も生き抜いた。
「もう大丈夫。
奇跡は起きる」
大竹しのぶはそう信じた。

1987年3月、大竹しのぶは映画の撮影で長崎から1週間に1回、東京に帰っていたが、あるとき服部春治をみて
(目が黄色い)
と感じた。
もし黄疸なら病気の進行を意味していて、すぐに病院で診てもらうと不安は的中し、再入院が決まった。
「早く帰りたい」
と思いながら長崎で仕事をこなし、すべての撮影が終わって東京に戻った日、服部春治は入院した。
大竹しのぶは医師に呼ばれ、
「ご自宅にはもう帰れないでしょう。
最後の入院だと思ってください」
と告げられ、呆然となったが、病室に戻ると服部春治の前で必死に平静を装った。
そして夜は「男女7人夏物語」のNGシーンをみながら明石家さんまとトークするという番組の収録のためにTBSへ。
自分の運命を呪った。
「こんなときに、よりによってバラエティに」

4月、「男女7人夏物語」の続編、「男女7人秋物語」の製作が決定。
撮影は夏からスタートするといわれ、大竹しのぶは、数日間、悩んだ末に出演を断ることにした。
それを誰よりも先に明石家さんまに、それも自分の口で伝えようとオフィスを訪ねた。
「今度のドラマ出られそうにないんです。
ごめんなさい」
怪訝そうな顔をする明石家さんまに
「悪いけど、理由は聞かないで」
と機先を制し
「本当にごめんなさい。
今回は他の女優さんと組んでお仕事してください」
「わかりました」
そう答えた明石家さんまは、その後、ドラマのプロデューサーに
「大竹さんに出演を断られてしまいました。
できれば別の女優さんで考えたいんですが・・・」
といわれたとき
「いやダメです。
大竹さんが出られへんのやったら僕も降ろさせてもらいますわ」
とキッパリと断った。
しかし大竹しのぶからドラマを降板したことを聞いた医師は、
「それはいけない。
服部さんに懸念を与えるようなことは避けた方がいいです。
奥さんは今まで通りふるまってください」
と反対。
服部春治も
「絶対にやるべきだよ」
といって大竹しのぶを「男女7人秋物語」に出演させ、明石家さんまに手紙を送った。
「僕が遊んであげられない分、秋からしのぶを楽しませてあげてください」

5月に入ると服部春治は体の数値が良くなって退院。
医師に
「この状態で退院できた患者さんは初めてです」
といわれ、大竹しのぶは
(奇跡が起きた!!)
と思った。
しかし7月に再び入院。
それ以降は急激に悪化し、自分で立てなくなるほど弱ってしまった。

大竹しのぶは病院から仕事に通った。
病室では、ずっと服部春治の手を握り、寝るのは「奇跡の人」の稽古の休憩中に舞台装置のベッドで少し横になるだけ。
ある日、稽古を終え、帰ろうとするとスタッフに呼び止められ、振り向くと大きなケーキと
「おめでとう」
という声。
そこで初めて自分の30歳の誕生日であることに気づいた。
みんなに祝福されて嬉しいがツラく、やっとの思いで笑って、ケーキを一口食べた後、
「本当にごめんなさい」
といって稽古場を飛び出した。
病院に着くと看護師に呼び止められた。
心電図をつけなければならないというが、そんなことをすれば病状がわかってしまう。
「心電図つけなくちゃいけないんですか?」
「ごめんなさいね。
ほんとは必要ないんだけど、今日は人手が足りなくて」
「えーそんなぁ」
打ち合わせ通りにやりとりすると服部春治は
「しのぶ、いいんだよ。
病院にも事情があるんだから」
作戦は成功した。
翌朝8時、稽古場に向かわなければならず
「じゃ、いってくるね」
「ちょっと待って。
そこの引き出しの中をみて」
服部春治にいわれて引き出しの中をみるとラッピングされた箱があり、開けるとカルティエのペンダントが入っていた。
「誕生日おめでとう。
自分で買いに行けないから姪っ子に頼んだんだ」

入院10日目、大竹しのぶは「奇跡の人」のプロデューサーと演出家、テリー・シュライバーに事情を説明し、1日2回の稽古を1回してほしいと頼んだ。
すると
「これは人に命を吹き込む芝居です。
この芝居をすることであなたにも観ている人にも命が与えられるのです。
だから頑張りましょう」
といわれた。
それから間もなく服部春治はモルヒネ注射が必要な状態になり、医師は
「会わせたい人がいるなら今のうちに会わせてあげてください」
といい、それまで事情を知らされなかった服部春治の母親や仕事の関係者が病室へやって来た。
大竹しのぶは、一睡もしない日が続き、夜、病室で服部春治の手を握っていると周りがグルグル回って、2人だけ静止しているような不思議な感覚に陥ったこともあった。
最後の夜、危篤状態になったときも強く手を握り締め、息を引き取るのを見届けた。
そのとき二千翔は、
「泣いちゃダメよ」
といいながら祖母や叔母のホッペを叩きながら病室を歩き回っていた。

こうして服部春治は47歳でこの世を去った。
告別式のとき、祭壇の前で二千翔が
「お父さん、飛んできて」
といったので
「飛んできてくれた?」
と聞くと
「ここにいるよ」
といって自分の胸をトントンと叩いた。
それから時折、遠くを見つめるような目をしていた二千翔が、あるときポツリといった。
「今日、お父さん、お空にお家建てたね」
そして不思議なことに眉間の、服部春治と全く同じ場所にホクロができた。

服部春治の告別式から1週間後、大竹しのぶは「奇跡の人」の舞台に復帰。
それを観にいった明石家さんまは楽屋を訪れ、
「カーテンコールのとき、表情みてわかりました。
もしかしたら大竹さんに仕事をさせるために服部さんはいなくなったのかもしれない。
あんたはずっと仕事をしていく人なんや」
といった。
明石家さんまは、何度かお見舞いにいったが、自らの死期が近いことを悟った服部春治から密かにいわれた。
「僕がいなくなってから、しのぶのことを面倒みてやってくれ」
一方、大竹しのぶは、服部春治の死後、夜になると涙がこぼれて眠れなくなった。
睡眠薬を飲んだこともあったが、すると今度は朝起きられなくなり、あるとき
「起きて、起きて」
と必死に叫ぶ二千翔の声で目が覚めた。
父親を失った息子が朝、目覚めない母親に恐怖にかられたのをみて
「どんなことがあっても薬は飲んではいけない」
と誓った。
そして夜、眠れないと強い孤独感を紛らわせるために友達に電話。
しかしいくら親しい友人でも毎晩かけるわけにはいかなかった。

8月の終わり、「男女7人秋物語」の撮影がスタートすると大竹しのぶは明石家さんまに電話した。
「もしもし、さんまさんですか?
夜分遅くにすみません。
大竹です」
「ああ、どうも。
どないしたん」
「ごめんなさい。
なんか全然眠れなくて」
以後、毎日かけ続け、深夜に他愛のない話を2~3時間した。
「この真夜中の電話にどれほど救われたことか」

ドラマの収録が終わりに近づいたある日、
「なんでやろうなあ」
「何が?」
「なんで俺は毎晩、まっすぐ家に帰ってきて電話を待ってるんやろうと思って」
「うん」
「別に彼女でもないわけやろ」
「彼女?」
「俺にはちゃんと彼女がいてるのに、こうしてアンタの電話を待ってるのはなんでなんや?」
明石家さんまに恋人がいることを知った大竹しのぶは、
(本当は電話をするのをやめるべきかもしれない)
とも思ったが、夜になると受話器に手が伸びてしまい、12月に「男女7人秋物語」の収録が終わっても電話をかけ続けた。
「やっと元気になったみたいやな。
よかったわ」
「ありがとう」
「でもなんでやろ。
俺はやっぱり毎晩家で電話を待ってるんや」
「・・・・・・・・」
「電話くれたのに自分が家にいなかったら悪いなあと思って。
なんや、待機してることが義務みたいな感じになってますわ」
互いに好意を持っていることは明らかだった。

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