若かりし大竹しのぶ    超マジメ! 超清純! 初めての男性と結婚! なのに「魔性の女」「あざとい」といわれてしまう業の深さ。

若かりし大竹しのぶ 超マジメ! 超清純! 初めての男性と結婚! なのに「魔性の女」「あざとい」といわれてしまう業の深さ。

超清貧な家に生まれ、高校1年生で芸能界入りした美少女は、清く正しく、そしてすごく押しの強い生き方を敢行。結果、自在に人を惑わし男を虜にする「魔性の女」と呼ばれるに至った。



店に流れるBGMに気づいて
「アッ、この曲、すごく好きなんです」
「ケニー・ロジャースのレイディ。
僕も好きだよ。
よしっ、レコード探しにいこう」
「エッ、今から?」
2人はレコード店へ。
しかし「レイディ」はなく、次に本屋へ入った。
そこで服部は本を1冊買って
「これ、誕生日プレゼント」
と手渡した。
ラッピングもリボンもナシ。
大竹しのぶは、その表紙をみてドキドキした。
フランソアーズ・サガンの「熱い恋」という本だった。
8月の終わり、服部春治から電話があった。
「今、彼女とケンカして家を出たんだ。
僕はもう戻らない。
彼女とは別れる」
「えっ!」
うれしさと戸惑いが交錯し、返答に詰まった。
しかしこの日を境に2人の距離は急速に縮まり、大竹しのぶは初めて男性と心と身体で愛を交わした。

「17歳差!
清純派女優、2度の離婚歴がある中年テレビディレクターと熱愛!」
「中村晃子から略奪愛」
マスコミは2人の交際をスキャンダラスに報じた。
これまでロクに恋愛経験がない大竹しのぶは
「魔性の女」
と書かれて驚いた。
大竹しのぶの所属事務所は激怒してTBSに抗議。
服部春治は、会社(TBS)から
「ほとぼりが冷めるまでは行動を自粛するように」
といわれて身を隠さざる得なくなった。


大竹しのぶは周囲から
「あの人はプレイボーイだから絶対に浮気される」
「ひどい男だよ。
だまされている」
「遊ばれて、いずれは捨てられるよ」
などと服部春治の悪口やひどい話ばかりを聞かされ、会社には
「映画監督や演出家があなたお可愛がってくれたこと、わかっているでしょ?
このままじゃ、みんなからソッポを向かれる。
そしたら女優としておしまいなのよ」
と怒られ、とにかく交際に反対された。

しかし気持ちは変わらず、逆に
「自分からハッキリと交際していることを公表したい」
と申し出ると、会社は血相を変えて
「交際宣言するなんて絶対許さない。
それだけはいっちゃダメ。
一生のお願い。
絶対にいわないで。
約束して」
ちょうどスペシャルドラマ「山を走る女」の発表記者会見が迫っており、
「交際を公表したら大勢の人に迷惑かけることになるのよ。
だから逆に否定してちょうだい。
つき合っていませんって。
お願い」
と必死に頼まれた。

大竹しのぶは、自分の気持ちで素直でありたいと思ったが、周りに迷惑をかけてしまうことを考えると従うしかなく
「服部さんのことは尊敬しています。
でも好きっていう感情とは違うんですよねぇ。
もちろん交際はしていません。
本当に何でもないんです。
誤解を受けるような行動をした私がいけなかったんです。
ごめんなさい」
と交際を否定した。
これをマスコミは
「したたかな女」
とバッシング。
大竹しのぶは人生最大級の自己嫌悪に陥った。
「ウソをついた。
妙にはしゃいだりしながら。
どんなことがあっても正直でいようと、ずっと心がけてきたのに、とうとうその信条を曲げてしまった。
後で記者会見の映像をみたら、とても嫌な顔をしていた」

その後も2人は人目を避け、都心から離れた場所でデートを続けた。
交際して約1年後、1982年8月12日、役所に婚姻届けを提出。
さらに2ヵ月後の10月12日、結婚式を挙げた。
2時間の披露宴の間、大竹しのぶは泣きっぱなしだった。
「妻たるもの、毎日夫に美味しい手料理を食べさせなければ」
全く料理ができなかった大竹しのぶは、分厚い本を購入。
材料から調味料まで本と寸分たがわぬ分量で、書いてある通りに料理。
「おいしい」
といわれるのがうれしくて仕事と同じくらいの情熱とエネルギーを料理に注ぎ込み、朝、夜だけでなく弁当までつくった。
「今日は部下を連れて帰るから」
といわれるとバイブルの料理本からおもてなし料理をそっくりそのままつくり、テーブルに並べた。
頑張りすぎた結果、稽古中に倒れてしまった。
あまりに料理に集中しすぎて、つくる過程でお腹がいっぱいになってしまい、自分はまともに食べていなかった。
「しのぶは仕事があるんだから家のことでそんなに無理しなくてもいいよ」
病院で点滴を受けながら服部春治にいわれたが、
「手を抜こうとはサラサラ思わなかった」
特にイベントごとには力が入り、クリスマスのチキンは
「ナイフを入れると中からチーズがトローリ溶け出すという凝りよう」
初めてのおせち料理も
「カマボコまで手作り」

1度だけ、忙しくて時間がなく、インスタントを使ったことがあった。
味の素の「麻婆茄子」に少し手を加えたものを
「今日はクックドゥなの」
といわなくてはならないと思いつつ、いえないまま食卓へ。
すると
「いつものようにおいしいね」
と服部春治にいわれ、まず驚き、自分も食べてみると本当においしくて、再び驚き、
「今まで自分が作ってきた料理は何だったの?」
と思った。
「妻たるものは」編み物にも挑戦。
おしゃれでファッションにこだわりがあった服部晴治は、25歳の妻が編んだセーターやおそろいの帽子をかぶった。
そして仕事でパーティーに出席すると
「どういう席順だったの?」
「春治さんの隣は誰が座ったの?」
と問い質された。

結婚して約1年後、服部春治が
「胃が痛い」
というので病院で診てもらうと
「神経性胃炎」
といわれた。
その後、症状は悪化したが、忙しさにかまけて病院に行かず、半年後、ついに耐え切れなくなり再検査。
医者は服部春治には胃潰瘍と知らせたが、大竹しのぶを別室に呼んで胃にガンらしきものがあると告げた。
大竹しのぶは涙をポロポロ流しながら
「彼はどれくらい生きられるんですか?」
「だいたい1年くらいです」
大竹しのぶは意識が遠のきそうになるのを必死にこらえた。
(今泣いてはいけない)
(取り乱しちゃいけない)
と自分にいい聞かせて病室へ。
服部春治から鋭い視線を受け、自分の病状を読み取ろうとしているのがわかったので自分を奮い立たせ目をそらさず
「もう情けなくて、思わず泣いちゃった。
どうして潰瘍がこんなにひどくなるまで放っておいたのかって叱られたよぉ。
気づかなくて本当にごめんね」
大竹しのぶは、医者と話し合って告知はしないと決めていた。
(あと1年しか生きられないなんて絶対に信じない。
私が必ず治してみせる。
スタートだ。
ここからだ)

服部春治は、1983年11月30日に入院し、手術を受け、12月31日に退院し、年が明けると仕事に復帰。
半年後の1984年6月、大竹しのぶが妊娠していることがわかった。
服部春治は、最初の結婚で2人、2度目の結婚で1人、合計3人の子供がいたため、さらに子供を持つことに戸惑い、出産に反対。
大竹しのぶは、初めてケンカした。
最終的に服部春治が
「天から授かった命をどうすべきかと一瞬でも迷った自分が恐ろしいよ。
葬るなんて許されるわけがない。
それに何よりしのぶが子供を望んでいる。
躊躇して悪かった」
と謝った。
これまで励まし続けてくれた服部春治の担当医も
「父親が抗ガン剤を服用している場合、障害を持った子供が生まれる可能性が高いんです。
それに父親がいない子供を産むつもりですか」
と出産に反対。
大竹しのぶは、、この2人目の反対者に対しても
「どうしても産みたいんです」
と訴え、胎児の異常を専門にしている大学病院の医師に紹介状を書いてもらった。
「どんなことがあっても絶対にこの子は産む。
たとえどういう状態で生まれてこようと立派に育ててみせる」
と決めていた。
妊娠3ヵ月のとき、撮影で転ぶシーンがあり、
「がんばれ。
ちゃんとしがみついていてね」
とお腹の赤ちゃんにメッセージを送り、無事、シーンを撮り終えた
その後、育休に入ると服部春治と生まれてくる子供の話をすることが多くなった。
「しのぶ、僕たちの子供はきっと男の子だよ」
「そうだね。
ヨシッ、日に焼けた元気な子に育てよう。
2人でね」

1985年1月29日、大竹しのぶは、男の子を出産。
服部春治は
「2000年に羽ばたく」
という願いを込めて
「二千翔(にちか)」
と命名。
大竹しのぶは、産後7ヵ月後で仕事に復帰。
しかしいきなり名古屋で1ヵ月ほど滞在しなければならない仕事で、二千翔は同居している自分の母親に預けたが、会いたくて仕方なかった。
同年、服部春治が演出を務めるドラマに出演。
服部春治の依頼で台本は書き直され、妻に病気で先立たれた原田芳雄のセリフは
「僕はもう45歳でしょ。
今でもこんな風に人を愛したことはなかったし、これからもこんな風に誰かを愛することは2度とないだろう」
となった。
大竹しのぶはドラマを観た友人に
「あのセリフ、服部さんがしのぶに宛てたラブレターじゃないの?」
といわれ、服部春治に
「そうなの?」
「そうだよ。
よくわかったね」
「ありがとう」
大竹しのぶは服部春治に抱きついた。

1986年は、家族3人で正月を迎えた。
医師のいった余命1年は過ぎ、大竹しのぶは
「もしかすると彼はガンに勝ったんじゃないだろうか」
と思った。
仕事をしているときは病気のことを忘れることができ、不安を紛らわすためにもセーブはしなかった大竹しのぶは、「奇跡の人」という、見えない、聞こえない、喋られない、3重の障害を持つヘレン・ケラーの舞台からオファーが来ると
「やった!
ヘレン・ケラーをやれる」
と喜んだ。
しかし実際にヘレン・ケラーを演じたのは、1973年生まれの安孫子里香。
1957年生まれの大竹しのぶは、20代後半という自分の年齢と図々しさを痛感。
そして1ヵ月間の公演中、休みなしで昼と夜に舞台に立った。
「奇跡の人」には、この1986年以降も、1987年、1992年、1997年、2000年、2003年と出演。
暴君、ヘレンのもとにやってきた、ケンカ早くて不器用な家庭教師のアニー・サリヴァンを演じた。

7月には「男女7人夏物語」で明石家さんまと共演。
明石家さんまは、大竹しのぶより2歳上。
まだ通い弟子をしながら兵庫県西宮市の家賃7500円のオンボロアパートで1人暮らしをしていた頃、家具は瓶ビールのケースを並べた上に板を置いたベッドと小さなテレビだけという極貧生活だったが、NHKの朝の連続テレビ小説「水色の時」で17歳だった大竹しのぶをみて憧れを抱いた。
そして軽妙なしゃべりで爆発的な人気を得て、東京に進出し、25歳のとき、大竹しのぶと初めて出会った。
自叙伝「ビッグな気持ち」とCD「Bigな気分」をリリースした明石家さんまは、朝のワイドショーで歌うことになり、テレビ局へ。
その廊下で服部春治と付き合い始めた頃の大竹しのぶとスレ違った。
大竹しのぶはガラガラ声で歌う明石家さんまをみて
「この人はきっとすごい大病を患っている人だ。
若くてしてもうすぐ死ぬ人のためにテレビ局の人が最後に出させてあげたんだ」
と思い、泣きそうになった。
大竹しのぶの母親も家で番組をみていて
「あんな声で・・・
かわいそうに・・・」
と思った。

好感度ナンバーワンタレントとなった明石家さんまは、お笑い芸人として初めてトレンディドラマの主役に抜擢された。
「男女7人夏物語」の初顔合わせの日、明石家さんまはジミー大西の運転でいきなり遅刻。
「今井良介役の明石家さんまさんです」
と紹介された後、隣に座っていた神埼桃子役の大竹しのぶに話しかけられた。
「ねえ、さんまって芸名、気に入ってるの?」
「気に入るも何も・・」
「イワシじゃイヤだったの?」
「・・・・師匠がつけてくれたんで」
「あ、そうなんだ。
師匠、魚が好きなんだ」
「・・いや」
「明石家サバでもよかったかも」

制作発表の記者会見で大竹しのぶは、
「私は今までどちらかというと思い役が多かったと思うんです。
テレビの前のみなさんが観終わった後に疲れたと感じるような。
今回はさんまさんの力で私の明るい面や軽い部分を引き出していただけたらいいなあと思っています」
とコメント。
撮影が始まるとカメラが回っていなくてもテンションを下げず共演者やスタッフを笑わせる明石家さんまに大竹しのぶは
「笑いのためなら何でもやるってことだよね」
「そうそう、面白ければイイ」
明石家さんまを筆頭に出演者は売れっ子が多く、全員が揃うシーンを撮る機会は少なかった。
ときには24時から撮影が始まって終わったときは空が明るくなっていたり、深夜にスタジオ撮影をして数時間後に野外ロケに出発するなど過酷なスケジュールとなった。
出演者にとっては移動のバスの中だけ唯一の睡眠時間だったが、そこでも明石家さんまだけは1人でしゃべり続けた。
大竹しのぶは
「ねぇ、わかってる?
みんな眠りたいと思っているのよ」
と注意した。

超売れっ子の明石家さんまは、よく遅刻した。
あまりの遅刻の多さに激怒していた大竹しのぶと生野慈朗監督が
「驚かせてやろう」
とドッキリを企画。
遅れてきた明石家さんまにADが
「大変です。
大竹しのぶさんが怒って帰っちゃいました」
と伝えると
「そうでっか。
すんまへんなぁ。
ほな今日は終わりでんな。
お疲れっス!」
といって帰ろうとしたため、少しは凹むかと思っていた大竹しのぶは飛び出ていって
「何、いっているの!」
と怒った。
その後、
「堪忍してくれいうとるやないか」
とひたすら謝る明石家さんまと
「何いってるの。
みんな笑っているけれどスタッフがどんな思いをしているのか知っているの?」
と怒りはおさまらない大竹しのぶ。
周囲は、
「2人で夫婦漫才ができるわ」
と笑った。


成田空港でのラストシーンの撮影では、事前に許可をとったにもかかわらず別の映画のロケとバッティング。
空港の担当者は「男女7人夏物語」の撮影を中止させようとしたが、やめるわけにいかず怒鳴り合いの押し問答の末に撮影を強行。
すぐそばでスタッフが空港関係者をブロック中、階段を下りていく大竹しのぶを明石家さんまが見送るシーンが撮影された。
「男女7人夏物語」は、毎週金曜日21時から放送され、若い男女の気持ちがうまく描いた内容と大竹しのぶと明石家さんまのかけ合いが話題となり、最高視聴率は31%の大ヒット。

「男女7人夏物語」の収録が終わった後、大竹しのぶは家族3人で静岡県の下田温泉へ。
しかし運が悪いことにその日は「男女7人夏物語」のオンエア日。
「春治さんと二千翔に100%の愛情を注がないと・・・・」
と思いつつ、でも
「観たい」
葛藤の末、ホテルの部屋にあったテレビのスイッチをつけてしまった。
大竹しのぶは気づかなかったが、服部春治がドラマを観る妻をカメラで撮った。
後日、大竹しのぶは家族旅行の写真をみていて、その1枚に気づき、罪悪感を感じた。

一方で
「このドラマで役の幅が広がったんじゃないかと思う。
さんまさんに自分の違う一面を引き出してもらった」
と本人にはいわなかったが明石家さんまに感謝していた。
友人に
「さんまさんってすごく面白い人なの」
と話すと
「なんか嬉しそうに話してない?
しのぶ、人妻としてそれはまずいよ。
あなたには服部さんという大切なダンナ様がいるじゃない」
と注意されたが、当の服部春治は、
「3人で食事をしよう」
といった。
そして初対面で明石家さんまと意気投合。
その後も一緒にテニスを楽しむ仲となった。
こうして服部春治は、1986年も生き抜いた。
「もう大丈夫。
奇跡は起きる」
大竹しのぶはそう信じた。

1987年3月、大竹しのぶは映画の撮影で長崎から1週間に1回、東京に帰っていたが、あるとき服部春治をみて
(目が黄色い)
と感じた。
もし黄疸なら病気の進行を意味していて、すぐに病院で診てもらうと不安は的中し、再入院が決まった。
「早く帰りたい」
と思いながら長崎で仕事をこなし、すべての撮影が終わって東京に戻った日、服部春治は入院した。
大竹しのぶは医師に呼ばれ、
「ご自宅にはもう帰れないでしょう。
最後の入院だと思ってください」
と告げられ、呆然となったが、病室に戻ると服部春治の前で必死に平静を装った。
そして夜は「男女7人夏物語」のNGシーンをみながら明石家さんまとトークするという番組の収録のためにTBSへ。
自分の運命を呪った。
「こんなときに、よりによってバラエティに」

4月、「男女7人夏物語」の続編、「男女7人秋物語」の製作が決定。
撮影は夏からスタートするといわれ、大竹しのぶは、数日間、悩んだ末に出演を断ることにした。
それを誰よりも先に明石家さんまに、それも自分の口で伝えようとオフィスを訪ねた。
「今度のドラマ出られそうにないんです。
ごめんなさい」
怪訝そうな顔をする明石家さんまに
「悪いけど、理由は聞かないで」
と機先を制し
「本当にごめんなさい。
今回は他の女優さんと組んでお仕事してください」
「わかりました」
そう答えた明石家さんまは、その後、ドラマのプロデューサーに
「大竹さんに出演を断られてしまいました。
できれば別の女優さんで考えたいんですが・・・」
といわれたとき
「いやダメです。
大竹さんが出られへんのやったら僕も降ろさせてもらいますわ」
とキッパリと断った。
しかし大竹しのぶからドラマを降板したことを聞いた医師は、
「それはいけない。
服部さんに懸念を与えるようなことは避けた方がいいです。
奥さんは今まで通りふるまってください」
と反対。
服部春治も
「絶対にやるべきだよ」
といって大竹しのぶを「男女7人秋物語」に出演させ、明石家さんまに手紙を送った。
「僕が遊んであげられない分、秋からしのぶを楽しませてあげてください」

5月に入ると服部春治は体の数値が良くなって退院。
医師に
「この状態で退院できた患者さんは初めてです」
といわれ、大竹しのぶは
(奇跡が起きた!!)
と思った。
しかし7月に再び入院。
それ以降は急激に悪化し、自分で立てなくなるほど弱ってしまった。

大竹しのぶは病院から仕事に通った。
病室では、ずっと服部春治の手を握り、寝るのは「奇跡の人」の稽古の休憩中に舞台装置のベッドで少し横になるだけ。
ある日、稽古を終え、帰ろうとするとスタッフに呼び止められ、振り向くと大きなケーキと
「おめでとう」
という声。
そこで初めて自分の30歳の誕生日であることに気づいた。
みんなに祝福されて嬉しいがツラく、やっとの思いで笑って、ケーキを一口食べた後、
「本当にごめんなさい」
といって稽古場を飛び出した。
病院に着くと看護師に呼び止められた。
心電図をつけなければならないというが、そんなことをすれば病状がわかってしまう。
「心電図つけなくちゃいけないんですか?」
「ごめんなさいね。
ほんとは必要ないんだけど、今日は人手が足りなくて」
「えーそんなぁ」
打ち合わせ通りにやりとりすると服部春治は
「しのぶ、いいんだよ。
病院にも事情があるんだから」
作戦は成功した。
翌朝8時、稽古場に向かわなければならず
「じゃ、いってくるね」
「ちょっと待って。
そこの引き出しの中をみて」
服部春治にいわれて引き出しの中をみるとラッピングされた箱があり、開けるとカルティエのペンダントが入っていた。
「誕生日おめでとう。
自分で買いに行けないから姪っ子に頼んだんだ」

入院10日目、大竹しのぶは「奇跡の人」のプロデューサーと演出家、テリー・シュライバーに事情を説明し、1日2回の稽古を1回してほしいと頼んだ。
すると
「これは人に命を吹き込む芝居です。
この芝居をすることであなたにも観ている人にも命が与えられるのです。
だから頑張りましょう」
といわれた。
それから間もなく服部春治はモルヒネ注射が必要な状態になり、医師は
「会わせたい人がいるなら今のうちに会わせてあげてください」
といい、それまで事情を知らされなかった服部春治の母親や仕事の関係者が病室へやって来た。
大竹しのぶは、一睡もしない日が続き、夜、病室で服部春治の手を握っていると周りがグルグル回って、2人だけ静止しているような不思議な感覚に陥ったこともあった。
最後の夜、危篤状態になったときも強く手を握り締め、息を引き取るのを見届けた。
そのとき二千翔は、
「泣いちゃダメよ」
といいながら祖母や叔母のホッペを叩きながら病室を歩き回っていた。

こうして服部春治は47歳でこの世を去った。
告別式のとき、祭壇の前で二千翔が
「お父さん、飛んできて」
といったので
「飛んできてくれた?」
と聞くと
「ここにいるよ」
といって自分の胸をトントンと叩いた。
それから時折、遠くを見つめるような目をしていた二千翔が、あるときポツリといった。
「今日、お父さん、お空にお家建てたね」
そして不思議なことに眉間の、服部春治と全く同じ場所にホクロができた。

服部春治の告別式から1週間後、大竹しのぶは「奇跡の人」の舞台に復帰。
それを観にいった明石家さんまは楽屋を訪れ、
「カーテンコールのとき、表情みてわかりました。
もしかしたら大竹さんに仕事をさせるために服部さんはいなくなったのかもしれない。
あんたはずっと仕事をしていく人なんや」
といった。
明石家さんまは、何度かお見舞いにいったが、自らの死期が近いことを悟った服部春治から密かにいわれた。
「僕がいなくなってから、しのぶのことを面倒みてやってくれ」
一方、大竹しのぶは、服部春治の死後、夜になると涙がこぼれて眠れなくなった。
睡眠薬を飲んだこともあったが、すると今度は朝起きられなくなり、あるとき
「起きて、起きて」
と必死に叫ぶ二千翔の声で目が覚めた。
父親を失った息子が朝、目覚めない母親に恐怖にかられたのをみて
「どんなことがあっても薬は飲んではいけない」
と誓った。
そして夜、眠れないと強い孤独感を紛らわせるために友達に電話。
しかしいくら親しい友人でも毎晩かけるわけにはいかなかった。

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