「アイドル~優勝請負人~鉄腕」工藤公康

所属した西武、ダイエー、巨人の3球団で日本シリーズを制覇したことから、優勝請負人と呼ばれた工藤公康
江川卓が絶賛する工藤公康の投球フォーム
江川卓をもってして「小学生が真似るべきは工藤投手のフォーム。まさにお手本」と言わしめる程、多くの解説者に賞賛される投球フォームを持つ。足が胸につく程にまで上げるのが特徴。工藤は、雑誌の付録の江夏豊など往年の名投手の投球フォームの分解写真(右投手なら鏡に映したという)を参考にし、子供の頃に礎を完成させた、と語っている。辻内崇伸など若い投手にも工藤のフォームを参考にした投手は多い。
工藤の特徴は、大きなカーブと優れたコントロールにある。高校時代からこのカーブはすぐにでもプロに通用すると高く評価されていた。このカーブが投げられるようになった理由を、この夏の甲子園の間の練習中に、何の気なしに親指をボールに立てて投げたら大きく曲がるようになった、と当時のテレビで話していた。
工藤の球種は主にストレート・カーブと少ないが(歳を重ねる事にスライダー、フォーク、シンカー、カットボール等は投げるように)、工藤は「ストレートとカーブだけではプロは抑えられません。でもそれぞれを何種類か持っていればいいんです。要は緩急をつけることです。」と語っており、ストレートは130km/h台後半と140km/h台後半、カーブは100、110、120、130km/h台を使い分けていたという。また、ストレートの最速は149km/h。
20代後半に故障して科学的トレーニングで復活を果たした経験を持つことから、ウエイトトレーニングや「骨格の正しい動き」などの重要性を主張している。日本プロ野球におけるこの分野の先駆者でもある。トレーニングと平行してアフターケアにも力をいれており、専属のマッサージ師と契約している。また、40歳前後でフォークボール(スプリット)やスクリューボールを習得するなど、年齢を全く感じさせない。身体への配慮、野球への探究心が、40歳を超えても好調時は146km/h、不調の2006年も140km/h前後を計測させた。
工藤公康のキャリア「プロ入り前」

名古屋電気高等学校時代は山本幸二とバッテリーを組んだ工藤公康
工藤公康のキャリア「西武時代」

西武時代の工藤公康
工藤公康のキャリア「ダイエー時代」

ダイエー時代の工藤公康
工藤公康のキャリア「巨人時代」

巨人時代の工藤公康
工藤公康のキャリア「横浜時代」
![2007年1月7日、横浜から巨人にFA移籍した門倉健の人的補償のプロテクト枠28人に入らなかったことが判明したこと、また、それに対して横浜は215勝左腕の経験を評価して獲得候補の一人と考えていることなどが先行して報道された。なお、巨人フロント側は本来秘密裏に行われるはずの交渉が報道先行になったことに対し「遺憾の意」を表明している。そして1月9日、横浜への移籍が正式に決定した。
自身がFA移籍をし、なおかつFAの人的補償となったのは2006年の江藤智に続き2例目。江藤は工藤と同じ2000年に巨人へFA移籍している。横浜へ移籍後も背番号は47。
マスコミからは、トレードで同じく横浜に移籍した仁志敏久と共に巨人との「因縁の対決」が期待されていたようではあるが、1月11日放送の報道ステーションのインタビューで「自分がフロントだったら43歳の選手をプロテクト枠には入れない」と在籍した球団のチーム事情へ理解を示し、「自分を欲しいと言ってくれる球団があることに感謝している」と明るく語った。
横浜球団には「明るいイメージの球団。ただ投げる以外でも貢献したい」とメッセージを送り、「もうトレーニング先でクルーンに会った」と早くもチームメイトへのメッセージを飛ばしている。2007年1月19日の正式入団の記者会見ではTBSアナウンサー・青木裕子の「ハマの何と呼ばれたいですか?」の質問に対し「じゃ、ハマのおじさんでいいです。」と、茶目っ気たっぷりに答えた。
年俸は前年の2億9000万円から2億円減の9000万円(他に最高5000万円の出来高払い)と、プロ野球史上最大の減俸額(当時)となった(金額は推定)。
2007年4月1日、対巨人戦に登板し一軍での実働年数が26年になり、野村克也の持つプロ野球最長記録に並んだ。5月23日、対西武戦に登板し勝利投手になったことで、米田哲也と並んでいた22年連続勝利記録を更新し23年連続勝利を達成した。また、44歳以上での勝利投手は史上2人目の記録。
2007年7月12日の対中日戦で、6回裏に中田賢一から中前打を放ち44歳2か月というセ・リーグ最年長安打記録を樹立、さらに9月26日の阪神戦では5回裏に橋本健太郎から左前打を放ち44歳4か月と自身の記録を更新した[11]。2007年7月24日の対巨人戦に先発し、勝利投手となったことで史上初の近鉄を含めた全13球団から勝ち星を挙げた投手になった。開幕当初は打ち込まれ二軍落ちも経験したが、再昇格以降は安定した投球を続けた。同年オフの契約更改では、2000万円増の年俸1億1000万円で更改した。
2008年、4月1日の対ヤクルト戦で先発して実働27年となり、野村と並んでいた実働26年を更新し歴代単独1位となるも、肘を故障しこの1試合のみで二軍に降格した。9月9日の日本ハム対湘南戦(鎌ヶ谷)16回戦に先発して5イニングを投げ、イ・リーグ最年長勝利投手となった。しかし、一軍では1勝も出来ず、1984年以来24年ぶりの一軍未勝利に終わる。同年オフの契約更改では、野球協約で定められている減額制限を超える約55%減の年俸5000万円プラス出来高払いで更改した。
2009年には、代名詞となった背番号47の着年数が26年に達し、プロ野球新記録となった。4月8日には古巣の対巨人戦に先発し、自らの持つ実働年数記録を28年に更新した。この試合に8失点でKOされると、その後の二軍での調整を経て、チームの方針からリリーフに転向。工藤の本格的なリリーフは1989年以来20年ぶりのこととなった。5月5日の対巨人戦では、自身初のホールドを記録。
同5月25日の対楽天戦で4番手で9回表に登板し無失点で抑えると、チームが逆転サヨナラ勝ちしたことにより、自身が持っていた44歳4か月のセ・リーグ最年長勝利記録を46歳20日に更新した。この勝利で通算223勝とし、村山実を上回り単独13位。また40歳以降37勝目となり、36勝で並んでいた大毎の若林忠志を上回り単独1位となった。7月1日の対ヤクルト戦で1-2とリードされていた6回表二死から登板し打者1人をわずか4球で抑え、その裏チームが逆転しそのまま9-5で勝利したため通算224勝目を挙げた。
この試合は地方である山梨・小瀬球場で開催されたためファンサービスも兼ねての登板であったが、結果としてこれがプロ野球生活最後の勝利となった。9月15日、選手の若返りを図りたい球団本部から、戦力外通告とシーズン終了をもって自由契約となる旨の通知を受ける。現役続行の意思を示し、古巣の西武が獲得の意向を示した。](/assets/loading-white-036a89e74d12e2370818d8c3c529c859a6fee8fc9cdb71ed2771bae412866e0b.png)
横浜時代の工藤公康
工藤公康のキャリア「西武復帰~引退」

西武復帰後、引退した工藤公康
2015年からは福岡ソフトバンクホークスの監督に就任

2015年より福岡ソフトバンクホークスで指揮を執る工藤公康
80年代から大人気だった工藤公康の人物譚
工藤公康 - Wikipedia