杉下茂(中日)
在籍チーム | 就任年 | 順位 |
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中日ドラゴンズ | 1959年 | 2位 |
中日ドラゴンズ | 1960年 | 5位 |
杉下茂は、「フォークボールの神様」と呼ばれた球界を代表する名投手で、史上初めて沢村賞を3回受賞し、わずか9年で200勝を達成したことでも有名です。
1958年、中日球団が "30歳以上の選手は不要" と明言する中、杉下だけには残留が要請されます。ただし、それは "監督就任" が条件。杉下はこれを受諾し、1959年、選手兼任監督に就任します。
結果的には、監督業に専念したため、選手としての出場は一度もありませんでした。一年目こそ、新人の江藤慎一など若手の起用が奏功してリーグ2位となりますが、二年目はリーグ5位に転落。わずか2年で、監督を退任しています。
1961年に選手として大毎に移籍しますが、わずか4勝に終わり、現役を引退。その後、杉下は、1966年に阪神の監督、1968年に再び中日の監督として采配を振っています。

杉下茂
中西太(西鉄)
在籍チーム | 就任年 | 順位 |
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西鉄ライオンズ | 1962年 | 3位 |
西鉄ライオンズ | 1963年 | 1位 |
西鉄ライオンズ | 1964年 | 5位 |
西鉄ライオンズ | 1965年 | 3位 |
西鉄ライオンズ | 1966年 | 2位 |
西鉄ライオンズ | 1967年 | 2位 |
西鉄ライオンズ | 1968年 | 5位 |
西鉄ライオンズ | 1969年 | 5位 |
1961年、西鉄は2年連続3位に終わり、川崎徳次監督が辞任。1962年、選手兼任監督に中西太、選手兼任助監督に豊田泰光、選手兼任投手コーチに稲尾和久が就任し、いわゆる "青年内閣" が誕生します。思い切った改革にも見えましたが、豊田は後に「ケチな球団の泥縄式人事」と批判しています。開幕当時、中西は28歳、豊田は27歳、稲尾は24歳でした。
就任2年目の1963年には、南海ホークスと14.5ゲーム差をつけられるも、大逆転で劇的なリーグ優勝を果たします。しかし、これが中西にとって最初で最後の優勝でした。翌年は、再びBクラスへ陥落。1965〜1967年はAクラス入りを果たすも、1969年、西鉄の選手も関与していた「黒い霧事件」の道義的責任とチーム不振の責任を負って、監督を辞任、同時に選手も引退しました。

中西太
村山実(阪神)
在籍チーム | 就任年 | 順位 |
---|---|---|
阪神タイガース | 1970年 | 2位 |
阪神タイガース | 1971年 | 5位 |
阪神タイガース | 1972年 | 2位 |
1969年、阪神の次期監督候補として名前が挙がっていたのは、選手兼任投手コーチの村山実と、選手兼任守備コーチの吉田義男でした。最終的に選ばれたのは村山。32歳11ヶ月での就任です。一方の吉田は、球団からの勧告により現役を引退しています。
村山は、就任初年から、5ヶ条の選手心得、幹部選手制度などを導入し、新たな改革に乗り出します。1970年は、田淵が頭部死球で戦線離脱するアクシデントもありながら、勝率.611で巨人と2ゲーム差の2位。自身も投手として、通算200勝を達成、14勝3敗、勝率.824、防御率0.98の成績で、最高勝率と最優秀防御率のタイトルを獲得します。監督としても選手としても、最高の一年となりました。
ところが、1972年には、投手陣強化策の一環として、投手専任に戻ることを希望します。シーズン途中から、金田正泰打撃コーチが監督代行を務め、村山はその年、選手も引退しました。背番号11番は、阪神の永久欠番です。

村山実
野村克也(南海)
在籍チーム | 就任年 | 順位 |
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南海ホークス | 1970年 | 2位 |
南海ホークス | 1971年 | 4位 |
南海ホークス | 1972年 | 3位 |
南海ホークス | 1973年 | 1位 |
南海ホークス | 1974年 | 3位 |
南海ホークス | 1975年 | 5位 |
南海ホークス | 1976年 | 2位 |
南海ホークス | 1977年 | 2位 |
1969年、戦後初の最下位に終わった南海は、野村克也選手に兼任監督を要請します。野村は、球団からのバックアップを条件に1970年に就任。この時まだ34歳です。
選手と監督を兼任すると、どっちつかずになったり、選手としての成績が落ちたりしますが、野村の場合は、監督としても選手としても成績を残しました。
就任1年目は、早くも監督としての手腕を発揮し、ペナントレースは2位。自身も42ホームランを打ち、最後までホームラン王争いに名を残しました。1973年は、前後期制の初年で、前期優勝、プレーオフも勝利し、監督就任以来、初のリーグ優勝を果たします。選手としても打率.309、28ホームラン、96打点の好成績を残し、5度目のパ・リーグMVPに選出されました。
選手の再生にも手腕を発揮し、東映から獲得した江本孟紀は、前年0勝から16勝を挙げ、南海のエースへ。その江本とトレードで阪神から獲得した江夏豊は、リリーフ専任として最優秀救援投手のタイトルを獲得し、投手分業制の先駆けとなりました。
1977年、当時愛人だった野村沙知代が選手起用に口出ししたことなどの公私混同から、監督を解任されます。その後を追うように、江夏豊、柏原純一も自らトレードを志願。大幅に戦力が低下した南海は、長い冬の時代を迎えます。

野村克也
江藤慎一(太平洋クラブ)
在籍チーム | 就任年 | 順位 |
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太平洋クラブライオンズ | 1975年 | 3位 |
太平洋クラブは、1975年、大洋ホエールズとの交換トレードで、選手兼任監督として江藤慎一を獲得します。
江藤新監督の方針は、"個性重視"。その方針の下、選手がタイトルを獲得しやすいよう、打順や登板の調整が行われます。その結果、近鉄から獲得した土井正博がホームラン王、日本ハムから獲得した白仁天が首位打者、西鉄時代から在籍するエース東尾修が最多勝利のタイトルを獲得しました。江藤は、選手としても88試合に出場しています。
チームも、前期2位、後期4位、通期では3位と、1967年の2位以来、8年ぶりのAクラスを果たします。しかし、球団やフロントとの確執で、江藤はわずか1年で退団。金田正一監督からの誘いで、選手としてロッテオリオンズに復帰しました。

江藤慎一
古田敦也(東京ヤクルト)
在籍チーム | 就任年 | 順位 |
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東京ヤクルトスワローズ | 2006年 | 3位 |
東京ヤクルトスワローズ | 2007年 | 6位 |
2005年、若松勉監督退任の際、後任として白羽の矢が立ったのが古田敦也です。2006年から2年間の契約で、監督も兼務することになりました。恩師である野村克也(元南海監督)以来、約30年ぶりの選手兼任監督の誕生です。
就任初年は攻撃的な布陣を敷き、リーグ最多のホームラン数、得点数を記録。見事、Aクラスに復帰します。しかし、翌年はまさかの最下位に転落。選手としての成績も振るわず、監督退任だけでなく、現役引退も決意しました。シーズン終盤には、選手として多くの試合に登場し、敵チームからも歓声を受けます。自ら代打で出る際に球審に告げたとされる "代打オレ" は、当時の流行語になりました。
古田は、通常の監督業以外にも、球団改革構想「F-Project」を立ち上げ、ファンサービスの向上や地域密着を図っています。球団名に「東京」を冠し、「東京ヤクルトスワローズ」としたのはその一環です。こうした功績から、背番号27は、球団初の「名誉番号」に指定されています。

古田敦也
谷繁元信(中日)
在籍チーム | 就任年 | 順位 |
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中日ドラゴンズ | 2014年 | 4位 |
中日ドラゴンズ | 2015年 | 5位 |
2013年に12年ぶりのBクラスとなり、退任した高木守道監督の後任として、選手兼任監督に就任したのが谷繁元信です。GMに就任したばかりの、落合博満元監督の推薦によるものです。
2014年は監督としてよりも、自身の新記録オンパレードのシーズンでした。しかも、いずれも同じく選手兼任監督だった野村克也の記録に関連するものです。新人から26年連続ホームランは野村の記録を更新、選手兼任監督のホームランは1977年の野村以来37年ぶり、捕手としての2922試合の公式戦出場も野村の記録を34年ぶりに更新しました。しかし、チームはBクラスのまま、4位に終わります。
翌2015年は、選手兼任監督ではなく、監督兼選手の肩書きに変わります。この年も個人記録の更新ラッシュで、27年連続ホームラン記録はリッキー・ヘンダーソンを上回り、ギネス世界記録に認定。通算3021試合出場は、野村の記録を更新し、史上1位となりました。しかし、監督業は結果が出ず、チームは5位に終わります。
翌2016年から、現役を引退し監督専任になりますが、ついに最下位にまで転落。シーズン途中で退任しました。

谷繁元信