全球団勝利を達成した投手はわずか3人
セ・パ交流戦がなかった頃、公式戦でセ・パ全12球団から勝利を挙げるのは至難の業でした。交流戦があれば最低2球団に所属すれば達成できる記録ですが、交流戦がないと少なくともセ・パ各2球団(計4球団)に所属しないと達成できません。5球団を渡り歩いた大投手、あの江夏豊でさえも達成できなかった大記録。12球団になった1958年から交流戦が始まる前年の2004年までで、全球団勝利を達成した投手は以下の3人です。
野村収(1983年に達成)
古賀正明(1983年に達成)
武田一浩(2002年に達成)
今回はこの中から、史上初めて全球団勝利を達成した野村収の記録を振り返ります。
全12球団初勝利の記録を、時系列で見てみましょう。
1970年10月26日 ヤクルトアトムズ
野村は、プロ入り前は、駒澤大学のエースとして活躍。1年下の大矢明彦とバッテリーを組み、4年の春季リーグでチームを優勝に導きます。最高殊勲選手にも選ばれ、一躍プロ注目の選手に。史上最高の豊作と言われた1968年のドラフト会議では、大洋ホエールズから1位指名を受け、プロ入りを果たします。
入団初年は1試合の登板に終わるものの、1970年は主に中継ぎとして28試合に登板。この年唯一の勝利が、ペナントレース最終戦の10月26日ヤクルト戦でした。なんと先発で9回1失点に抑え、プロ入り初勝利、初完投勝利を同時に達成します。
1971年7月25日 広島東洋カープ
翌1971年からは先発ローテーションに加わり、登板機会が増えます。最初は2連敗しますが、7月は3連勝。その2勝目が、7月25日広島戦でした。9回を2失点に抑え、見事完投勝利を収めます。
1971年7月29日 阪神タイガース
そして、3連勝の3勝目が、7月29日阪神戦。9回を無失点に抑え、ついにプロ入り初完封勝利を収めます。
結局この年は、4勝3敗、防御率2.24の好成績でシーズン終了。チーム全体でも、平松が最多勝を上げ、山下、鬼頭らの活躍もあり、チーム防御率はセ・リーグ1位を記録しました。ところが、シーズンオフにまさかのトレード放出。江藤慎一との交換トレードが成立し、ロッテオリオンズに移籍します。

大洋ホエールズ時代の野村収
1972年5月20日 西鉄ライオンズ
ロッテに移籍すると、初年にいきなり大活躍。身近に長年手本にしていた大投手・小山正明がいたこともあり、大きな成長を遂げます。パ・リーグ初勝利は、5月20日西鉄戦。先発でエース東尾と投げ合い、見事完封勝利を収めます。
1972年5月23日 阪急ブレーブス
パ・リーグ初勝利の3日後、中2日ながら、5月23日阪急戦に登板。先発・小山正明の後を受け、同点の9回表からリリーフします。10回表まで無失点に抑えると、その裏、味方打線が1点取ってサヨナラ勝ち。勝利投手となりました。
1972年6月6日 近鉄バファローズ
5月31日東映戦は、8回を投げるも惜しくも引き分け。そして、中5日で6月6日近鉄戦に登板します。この日は、先発メンバー9人のみで戦い、野村は2失点完投勝利。この後、6月10日阪急戦、6月21日、28日西鉄戦にも勝利し、引き分けを挟んで6連勝を果たしました。
1972年8月5日 南海ホークス
7月は連敗を喫しますが、8月5日南海戦で勝利。南海の強力打線から8安打打たれるも、相手の拙攻や失策に救われ、2失点完投勝利を収めます。
1972年8月9日 東映フライヤーズ
中3日で登板した8月9日東映戦。味方打線が序盤で大量得点を挙げ、7回終わって7対1と楽勝ムードでした。ところがその矢先の8回、野村が捕まります。まず、8回に2失点。9回も打ち込まれ、結局完投できず、木樽がリリーフします。最後はなんとか逃げ切り、7対6の辛勝。野村は、6失点ながら勝ち投手となり、これで自球団を除く全てのパ・リーグ敵チームから勝ち星を挙げました。
この年の最終成績は14勝10敗。移籍初年で、初の二桁勝利を記録します。
1974年6月8日 ロッテオリオンズ
翌1973年は6勝10敗と成績を落とし、シーズンオフに日本ハムファイターズに移籍します。この時の交換トレードの相手がロッテ・金田正一監督の実弟、金田留広でした。
1974年は、球団名が日本ハムファイターズに変わった初年度です。いきなり4連敗を喫しますが、6月8日古巣のロッテ戦で勝利。ついに、パ・リーグ全球団から勝利を達成しました。
結局、この年は4勝9敗で負け越しに終わります。しかし、翌1975年は11勝3敗、勝率.786で、最高勝率のタイトルを獲得。翌1976年は一転、13勝16敗で最多敗を記録してしまいます。年によって波のある成績こそ、野村収を象徴する特徴と言えるでしょう。
1978年、古巣の大洋ホエールズに移籍します。
野村収 | 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE
1978年4月22日 中日ドラゴンズ
古巣に戻っての1年目。この年は、チームにとって、横浜スタジアムに本拠地が変わった歴史的な年で、チームも野村も絶好調でした。4月から順調に勝利を重ね、4月22日中日戦に勝利。以降もエース平松とともに活躍し、シーズン途中までヤクルト、巨人らと首位争いを繰り広げます。最終的に、チームは4位ながら勝ち越し。野村は、17勝11敗で最多勝のタイトルを獲得します。
しかし、巨人キラーの平松とは対照的に、野村は一度も巨人に勝てずじまい。11敗のうち5敗が巨人、という相性の悪さを露呈する結果に終わりました。
1980年6月22日 読売ジャイアンツ
結局、巨人戦初勝利は、移籍3年目の1980年まで飛びます。この年は、6月中旬まで6勝3敗と好調。6月22日巨人戦は、王、河埜にホームランを打たれるものの、5回2/3で(勝ち投手の権利を得たまま)早々に降板します。その後を遠藤がロングリリーフで締め、6対5で辛くも逃げ切り勝ち。ついに苦手の巨人から初勝利を収めました。
残る1球団は、自球団の横浜大洋ホエールズです。
1983年5月15日 横浜大洋ホエールズ
1983年に、加藤博一との交換トレードで、阪神タイガースに移籍。初年から先発で活躍します。
そして、その日はすぐにやってきました。5月15日古巣の大洋戦。先発として7回を2失点に抑え、最後の1球団から勝利を挙げます。ついに、プロ野球史上初めて全球団勝利を達成しました。奇しくもこの日、相手チームのリリーフ投手は古賀正明で、古賀も同じ年、全球団勝利を達成しています。
この年は12勝を挙げますが、翌年からは中継ぎに転向。阪神が優勝した1985年は、優勝を決めた10月16日に登板し、ナインから胴上げされています。1986年のシーズン後に引退しました。
引退後は、阪神、大洋、日本ハム、さらには、シドニーオリンピック日本代表のコーチを務めるなど、指導者としても活躍しています。

阪神タイガース時代の野村収
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