明石家さんま 若手極貧時代

明石家さんま 若手極貧時代

玄関はダイヤル鍵。解錠番号は「113(よいさんま)」風呂ナシ、WCナシ、照明も漏電で壊れてナシ。テレビは全チャンネル、砂嵐。ビールケースを並べてベニヤ板を置いたベッド。ガラスがなくビニール袋を貼りつけた窓。兵庫県西宮市のそんな部屋にお笑い怪獣は生息していた。


和歌山県生まれ、奈良育ちの明石家さんまは、高校卒業後、落語家の笑福亭松之助に弟子入り。
最初は奈良の実家から兵庫県西宮市鳴尾町の師匠の家まで90分かけて通っていたが、やがて西宮に4畳半1間、家賃5500円の部屋を借りた。
そして弟子になって2ヵ月後、異例の早さでデビュー。
それは新喜劇と並ぶ吉本の定番演劇、コントと歌とダンスで構成される「ポケットミュージカル」で、白塗り、女物の着物姿でオカマ役を10日間演じた。
その後、漫談でも舞台デビュー。
開演前の前座で、まともにをみている客はおらず、ギャラは250円。
さらに弟子入り半年足らずで「笑福亭さんま」として落語でもデビューし、1200円のギャラをもらった。

さんまは弟子っ子としての仕事や稽古が終わった後、よく奈良に帰って友人に会っていたが、ある日、高校時代の1番の相棒、大西康雄の家に向かう途中、幼馴染で高校まで一緒だった女性に遭遇。
喫茶店に入って1時間ほど昔話に花を咲かせた。
女性は、長い黒髪で顔はアン・ルイス似でスタイル抜群。
交際していた男性に何度も暴力を受け、少し前に別れていて、実家の両親とは合わず、外に出ればその男性が現れるのではないかと怯え、心が休まるときがないという。
そしてさんまのトークで笑顔になった女性はいった。
「ああ、何もかも捨てて2人でどこか遠くに行きたいなあ」
2人は、翌週の同時刻同場所で会うことを約束。
結局、つき合い始めた。
その後、さんまは
「コイツを守ってやれるのは俺しかいない」
「芸をとるか、愛をとるか」
「同棲しながら弟子修業はできない」
と悩み続けた。
「冷静に考えれば関西のどこかで一緒に住みながら弟子修業を続ければよかった」
が若さのせいか、「上京」という言葉に憧れがあったせいか、東京行きを決断。
女性に
「俺が先行って向こうで生活の基盤をつくるから、それから一緒に東京で住もう」
と伝えて同意を得た。

そして西宮のアパートを引き払った後、笑福亭松之助に電話。
「あ、師匠、さんまです」
「おお、どないした」
「師匠、電話ですんません。
やめさせていただきます」
「女か?」
明らかに寝不足でみるみるやつれていき、珍しく仕事でもミスをするさんまをみて、松之助はウスウス気づいていた。
「・・・は、はい。
ホンマすんません。
すんません」
さんまは、電話を切った後も謝り続けた。

東京に着くと高校時代の同級生が住む社員寮へ行き、翌日から部屋探し。
出した条件は

・家賃1万円以内
・場所は、映画「男はつらいよ」の主人公、車虎次郎の生まれ故郷、葛飾区柴又

そして探し当てたのが「幸楽荘」
木造2階建て、4畳半1間、風呂なし、炊事場、トイレ共用、家賃8000円。
同級生の部屋を出ると、翌日から職探し。
しかし簡単には見つからず、13万円あった所持金は残りわずかになり、高校時代に腕を磨いたパチンコ店へ。
以後、

喫茶店で朝食

10時からパチンコ

喫茶店で昼食

閉店までパチンコ

喫茶店で夕食

銭湯

というパチプロ生活が始まった。
角刈り頭、上下黒のジャージ、女物のピンクのサンダルという姿で、まだ手打ちだったパチンコ台を1日2~3回打ち止めにすることもあったが、ある日、
「パチプロお断り」
といわれ出入り禁止。
他のパチンコ屋に鞍替えするも勝率が下がり、瞬く間に所持金が減っていき、喫茶店に通うことも出来なくなった。
「もう夢もクソもなかった」
というさんまは2日間何も食べず、ずっと部屋で寝ていたことが6回。
その度に同級生に食事に連れていってもらった後、お小遣い5000円をもらった。
最初は恥ずかしかったが、最後は黙って手を出してお金を要求することができた。

1974年10月14日、38歳の長嶋茂雄が38歳で引退。
17年間で、通算444本塁打、首位打者6回、最多安打10回。
守備でも華やかなフィンプレーでファンを魅了し「ミスタープロ野球」と呼ばれた男は
「私は今日ここに引退いたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です」
コメント。
その勇姿をパチンコでとった5インチのポータブルテレビでみたさんまは、
「アカン、俺、スタート地点でつまづいてる」
いてもたってもいられなくなり浅草の演芸場を訪ねて回り
「大阪で芸人やってた者です。
幕前で結構ですから漫談やらせていただけませんか」
と頼んだが、どの劇場でも
「まず誰かの弟子について修行しないとダメ」
と断られた。
船橋のストリップ劇場も回ったがことごとく門前払い。
途方にくれた。


「とにかく働かないと」
さんまはパン屋の求人広告が貼ってるのを発見するとすぐに応募。
白い帽子と調理用の白衣をまとって肉まんとアンまんを販売。
そしてパチプロ時代に通っていた喫茶店ののマスターに
「ウチに来たら?
夕方から閉店まで手が足りないんだよ。
夕食つきで自給もウチのほうが高いし・・」
と誘われ、白いシャツに黒のスラックス、黒のボウタイを締め、16時半から24時までホールスタッフとして勤務。
いつもニコニコ笑顔、もみ手をして愛想よく接客。
1週間もすると常連客を大笑いさせるようになった。
閉店間際、蛍の光のBGMが流れ始めると
「ええ、皆様、本日はご来店、誠にありがとうございます。
本店は12時をもちまして本日の営業は終了となります。
本日も本店、ならびに杉本高文のために絶大なるご支援を頂きまして誠にありがとうございます。
本日の営業はこれで終わりますが我が本店は永久に不滅です!
またのご来店、お待ちしております」
と長嶋茂雄の引退スピーチをパロって大ウケ。
これが通常業務の1つとなり、この閉店間際に行われるスピーチや漫談に合わせて来店する客も現れた。
喫茶店の先輩店員は
「この人は何者なんだ」
と驚いた。

そんなとき奈良にいた女性が上京してきて、2人は一夜を過ごしたが、さんまは
「一緒に暮らそう」
といい出せない。
女性もそのことにふれないまま、翌日、帰っていった。
さんまはどうしようもない苛立ちを抱えながら新幹線を見送った。
喫茶店の先輩店員、宮島、坂本、松本はいずれも学生でさんまと同世代。
4人は仕事が終わると銭湯に行き、その後、喫茶店に戻ってマージャン。
喫茶店が休みの日は4人でパチンコ屋に行ったり、女子学生とコンパやナンパ。
さんまは、10時からパチンコ、夕方からアルバイト、深夜から朝までは仲間と遊ぶという生活をほとんど寝ないで送った。
楽しく過ごす時間はすべてを忘れさせてくれた。
一方、奈良の高校時代の同級生たちが次々と幸楽荘にやってきた。
さんまの才能を信じて疑わない彼らは旅費を出し合って代表者を東京に送り
「帰って来い」
「師匠に謝って修行し直たらええやないか」
と説得。
しかしさんまは女性と暮らすことはできないまま、東京で1人、年を越した。


2ヵ月後、喫茶店のマスターが千葉の松戸駅西口にライブハウス「DIME(ダイム)」をオープンさせ、さんまは毎週土曜の夜、そのステージに立った。
ギャラは破格の1万円。
さんまは感謝しながら精一杯、喫茶店とDIMEで仕事をした。
数回、DIMEのステージの立った頃、再び奈良から女性が上京してきた。
2人は幸楽荘で夜を過ごし、翌朝、さんまが目を覚ますと女性の姿はなく、ちゃぶ台の上に手紙があった。
そこに書かれた別れの言葉を読み返しながら、さんまはこの半年間を振り返った。
「俺は東京に何しに来たんやろう」
数日後、高校時代の1番の親友、大西康雄が上京。
「もう帰って来いや」
といわれると、もう抑えることはできなかった。
無我夢中で新幹線に乗った。


そして兵庫県西宮の松之助の自宅へ向かい、インターホンを押した。
ドアが開き、康子夫人と対面。
「ご無沙汰してます」
「寒かったやろう。
上がって」
「いや、僕はもう敷居またげませんから、表で待たせてもらいます」
「なにいうてるの!
早よ、上がりなさい」
「あっ、さんま兄ちゃんや」
松之助の2人の息子に手を引かれ、家の中へ。
(師匠に合わせる顔がない)
いますぐ逃げ出したいような気持ちでいると松之助が帰ってきた。
「お客さんか?」
玄関で男物の靴をみた松之助がいうとさんまの心臓がバクバクしてきた。
そして松之助が部屋に入ってくると
「師匠!」
とすがるように叫んだ。
この後、さんまは1度東京に戻って、挨拶と後片づけをして、再び大阪で松之助師匠の弟子となった。

そしてさんまは奈良の仲間に帰ってきたことを報告。
「よう帰ってきた」
「もう大丈夫や」
「もう寄り道せんと真っ直ぐいけよ」
「絶対売れる、俺が保障する」
と励まされた。
そして実家に向かい
「高文や。
高文が帰ってきた」
「早よ、入り」
といわれ、久しぶりの一家団欒を楽しんだ。
しかしその後、自分の部屋が物置のようになっているのをみて
「もうここは自分の居場所じゃない」
と2度と実家に戻らないことを決めた。

さんまは兵庫県西宮市今津久寿川町の第一久寿川荘に部屋を借りた。
トイレと炊事場は共同で家賃は8000円。
天井に照明器具がついていなかったので、裸電球がついた大きなチョウチンを花月からもらってきた。
夜、帰ってきてスイッチを入れると、それは漏電していて
「パチパチッ」
と音が鳴って天井に火花が散った。
さんまが
「線香花火みたい」
と思っていると
「ボンッ」
と電球が爆発しチョウチンが落ちてきた。

本来、修行を途中で投げ出した弟子は即破門。
松之助はそれを許したものの、このまま「笑福亭」を名乗らせていると
「いつか角が立つかもしれない」
と思い、自分の本名「明石」から「明石家」という屋号を与え、「笑福亭さんま」から「明石家さんま」に変名させた。
これはしきたりの多い落語界に縛られず自由に活動しやすいようにするという目的もあった。
またさんまに
「借りれるなら借りとけ」
と毎月5万円、実家から仕送りをしてもらうよう命じた。
その理由は
「アルバイトする時間があったら人の舞台や世間をみて1日も早く1人前になれ」
というもの。
さんまは実家と決別することを決めたばかりだったが仕送りをしてもらうことにした。


1975年4月、さんまは同期の島田紳助と再会。
「さんまが東京へ逃げた」
と聞いたとき、密かにコンビを組みたいと思っていた紳助はショックを受け、一時は東京に探しに行こうとまでした。
何よりさんまが黙って消えたことに怒り、オール巨人や桂小枝などまだ弟子っ子をしていた同期芸人に
「おい、俺らは友達や
さんまみたいに黙っていくのは絶対、ナシや。
やめるときは一言、声をかけてからやめようぜ」
といった。
みんなうなずいたが以後、半年足らずで、その大半が何もいわずに去っていった。
そして帰ってきたさんまに、紳助は思いのたけをぶつけた。
まくし立てる紳助に、さんまはまくし立て返し、2人は貪りつくようにしゃべり続けた。


ある日、さんまが松之助の家の玄関先を掃除していると、大きなクラクションが鳴り、振り返ると自分と同世代の男が運転するスポーツカーがそばを走り抜けていった。
それをみていた松之助は声をかけた。
「掃除、楽しいか?」
「エッ?」
「さっきから一生懸命掃いてるけど楽しいか?」
「いえ、楽しくないです」
「せやろ。
そんなもん楽しいわけがない。
せやからやな、掃除をどないしたら楽しくなるか考えてみい。
楽しくなることを考えているときは楽しいやろ?
どないしたらイヤなことが楽しくなるか、一生懸命考えてみい。
同じやるなら楽しいほうがエエやろ」
以後、さんまは
「今日はテレビからやってみよ」
「今日は真ん中からやってみよ」
「歌を歌いながらやってみよ」
と工夫して掃除。
結局、掃除が楽しくなることはなかったが、どうすれば楽しく掃除できるかを考えれば楽しくなった。
「どうしたら面白くなるか?
どうすれば楽しくなるか?
ああしてみよう、こうしてみようとどうすれば楽しくなるかと考えていくと楽しい」
ということを発見。
さんまの笑いの軸の1つとなった。


さんまは落語にも真剣に取り組んだ。
勉強会に積極的に参加し、松之助以外の師匠クラスにも稽古をつけてもらった。
そして6歳上の同門、小禄と2人で落語会を開こうとしたが、無料で貸してくれる場所がなかなか見つからない。
あきらめかけて飛び込んだのが、祇園の酒場で流しをやっていたやしきたかじんと恋人がやっていた喫茶店。
2人は事情を聞いて快く承諾。
さんまと小禄は稽古を重ねたが、当日、京都は台風に直撃された。
開始時間を2時間過ぎても誰も来ず、喫茶店にいるのはさんま、小禄、たかじん、恋人の4人だけ。
みかねたたかじんが友人に
「みにきたって」
と電話をかけまくり、結果、知り合いのスナックのマスターが1人来店。
こうして2人落語会は3人の客の前で和やかに行われた。
このときさんまもやしきたかじんも共に無名。
後に
「あのとき客席で笑っていた男がこうなるとは」
「あのときのアレがコレになるとは、そらわからんわな」
と驚いた。


「最後にもう1度合って話をしたい」
東京で別れを告げられた女性のことを忘れることはできないさんまは、女性の実家に電話をかけたがつながらなかった。
芸人として修行に励みつつ、女性が利用する近鉄難波駅で、彼女が何時に通るのかわからないまま改札口で待つこともあった。
そして東京でフラれてから半年後、難波駅の改札で1時間待った後、地下街を歩いていると、スーツ姿の男性の腕をつかんで歩く女性を発見。
とっさに方向転換したが、背後から女性に呼び止められ、大袈裟に驚くフリをした。
「こないだ話した幼馴染で芸人さん」
女性に紹介されると男性は
「どうも初めまして。
お話はうかがってます」
と屈託のない笑顔で挨拶してきたので、さんまも会釈。
「ほな、またな」
「急いでるの?」
「おお、ちょっとな」
さんまは最後に男性に
「幸せにしてあげてください」
女性には
「ほんじゃあ」
といって去った。
地下街を足早に抜けて地上に出ると千日前商店街にアン・ルイスの「グッド・バイ・マイ・ラブ」がかかっていた。

さんまがうめだ花月の楽屋で師匠の出番を準備していると先輩芸人の森啓二に声をかけられた。
「さんまちゃん、出番終わったら行こか。
上本町行こう。
夕方、仕事帰りの若い女が地下からわんさか沸いて出てくる」
森啓二は同い年。
西川きよしの弟子だったが、すでに修行を終え、喜多洋司と漫才コンビを組んで活動していた。
2人はよく終電間際まで街を歩いてナンパをしていた。
ナンパの成否は
「ターゲットをいかに笑わせるか」
で2人で作戦を練った。
ターゲットを後ろから追い越し、距離を保って歩き続け、わざと片方の靴を脱いで気づかないフリで何歩か進んだ後、
「あっ靴忘れた!」
と大袈裟にいって取りに戻り、ちょうど脱いだ靴のところでターゲットと鉢合わせ。
そこで笑っていれば、そのまま話しかけ、喫茶店へ誘い込む。
運よく喫茶店に連れ込めれば、ひたすらしゃべってイヤというほど笑わせる。
店を出ると笑顔で女性を見送るというのが、いつものパターン。
たとえ収穫がなくても女性を眺めながら2人で会話するのが楽しくて仕方なかった。
この他にもさんまは、花月で仕事の合間や終わった後に芸人仲間と喫茶店に入り、コーヒー1杯で3時間ほど居座ってしゃべった。
特に美人ウエイトレスがいる店には通い続け、笑わせ、交際を申し込むこともあった。


笑福亭松之助は、酒が大好き。
普段は温和だが飲むとムチャクチャになってしまう。
酔って家に帰って鍵が閉まっていると手でガラスを割って開けたり、楽屋でもなにかあると怒鳴り散らした。
さんまは舞台袖で
「さんま、持っとけ」
といわれフラフラの松之助を帯を持って支え、出囃子が鳴るとリリース。
泥酔したまま舞台に上がった松之助は
「あっ、酔うてる」
と女性客にいわれ
「じゃかしい。
生理もないくせに」
といい返し、
「みなさん知ってまっか?
わたい、笑福亭松之助です。
お後がよろしいようで」
といってアッという間に降りてしまった。
次の出番のカウス・ボタンは、20分はやると思っていた松之助が5秒で降りてきたため、
「師匠、あきまへんがな。
着替えもしてへんのに」
と文句をいうと
「お前らがアカンねん。
高座は何があるかわからへんねん。
いつでも着替えて待っとけ!」
と逆に説教された。
松之助は酒で吉本から何度も注意を受け、前座に変えられてしまったこともあった。
さんまはよく酒を買いに行かされたが、一升瓶だと一気に飲んでしまうため、少しでも量を減らすために小さなカップ酒を1本だけ何度も買いにいくようにした。

1976年1月15日、20歳になったさんまはテレビ初出演が決まった。
それは人気深夜番組「11PM」だった。
放送5日前、1月10日は成人式。
男女30名の若手芸人が「20歳の成熟度ピンクテスト」というコーナーに生放送で出演。
15名ずつが左右にわかれて座った。
前列中央に座ったさんまは、他の落語家はみんな着物を着ているのに、少しでも目立とうと真っ赤なスーツ、ストライプのシャツ、黒のネクタイ。
司会は、藤本義一。
アシスタントは、海原千里、万里。
コメンテーターは、横山やすし、露乃五郎(落語家)、窪園千枝子(歌手、女優、性評論家)
若手芸人はスイッチを持ち、出題される性に関するアンケートに回答していく。
さんまは物怖じすることなく、スキあらばしゃべり、質問が出れば真っ先に挙手し、自らの性生活を明かしていった。
『性技の48手以外の技は?』
「逆さ十字落とし」
『それはどんな技なの?』
「女性を逆さに持ち上げまして、そのままベッドに落とすんですわ」
これがドカーンとウケたところでCMに入った。
すると藤本義一が
「君、名前なんていうねん」
さんまがホメてもらえると思いながら
「アッ、さんまです」
と答えると藤本義一は
「サンマかイワシか知らんけどな、テレビでいうてエエことと悪いことがあるんや。
それくらい覚えてから出て来い!」
と怒り、盛り上がっていた現場はシーンとなった。
そしてCM明け、藤本義一がいった。
「それにしても君はしゃべるな。
名前はなんていうの?」
「明石家さんまです」
「師匠は誰?」
ここで横山やすしが割って入った。
「松之助師匠とこの弟子ですわ」
「ああそうか、松っちゃんとこの弟子かいな。
それならしゃーないわ」


生放送が終わり、さんまが控え室で帰り支度をしていると突然、白いマリンキャップをかぶった横山やすしが入ってきた。
「おう、さんま君」
「はい」
「自分、吉本やな?」
「はい」
「そうか、飲みに行こう」
「あっはい、よろしくお願いします」
「気に入った。
話が早い。
さすが松っちゃん師匠とこの弟子や」
お前らも来い。
連れてったる」
横山やすし、さんま、数人の芸人は2台のタクシーに分乗。
途中、あれだけ機嫌がよかった横山やすしが表情がみるみる険しくなって、
「視界不良や」
といって後部座席から助手席のヘッドレストを取り外させた。
そして運転手に
「オイ、コラ、運転手。
なにチンタラ走っとんねん。
ワシは吉本を担う若手を乗しとんねん。
恥かかすな、アホンダラ」
「アクセルはふかすためについとんねん。
ふかせ!ふかせ!
「さっさと前の車追い抜かんかい、アホンダラが」
「歩道を走れ、歩道を!」
と運転手を急かし続けた。


そして目的の居酒屋に着いて飲み始めると再び上機嫌に。
次々と注文し、さんまたちは急き立てられながら必死に食べて飲んだ。
「芸人として生きていくんやったら勝たなアカン。
負けたらしまいや。
とりあえず勝て。
評判は気にするな。
行くときは行かなアカン。
ハイペースで生きろ。
マイペースはアカン。
どんどんペースが落ちる。
スピードは落とすなよ。
腹くくって行け」
横山やすしの話は大半は勝負論。
芸の話が終わると競艇の話に移行した。
店も変わり、他の若手芸人がグロッキーになっていく中、さんまだけは
「カッコよろしいなあ!」
と大きなリアクションをとって熱心に話を聞き続けた。
「気に入った!」
お前はワシに似とる。
インからグッといくタイプや。
アウトからチンタラまくるタイプちゃう。
芸人はインからガーッといかなアカン。
よっしゃ、今からワシの家行こう。
アウトの連中はサッサと帰りさらせ」


こうして他の芸人は帰らされ、さんまだけが横山やすしの自宅へ。
「さんま君。
今からモーターボートのエンジン音聞かしたるさかい、よう聞いとけよ」
かつて本気で競艇選手を目指したが、視力が足らず競艇学校に入れなかった横山やすしはボートにのめり込んでいた。
淀川の近くに家を買い、モーターボート、計測機器、コーナーコーンなどを置いて練習場をつくり、花月のある戎橋までボート通勤していた。
さんまはヘッドホンを手渡され、各メーカーのエンジン音を正確に聞き分けられるようになるまで、何度も何度も繰り返し聞かされた。
「ドヤッ、違いがわかってきたやろ。
モーターボートは奥が深いいんや。
また聞かせたるさかい、今日はもう帰れ。
ワシはもう寝る」
「やすし師匠、今日はいろいろありがとうございました」
「オッほんだらな。
グッドラック!
はよ行け」
横山やすしの家を出たのは朝の6時。
衝撃と波乱に満ちたテレビデビュー日となった。
後日、さんまは
「飲みに連れていってもらったというより市中引き回しの刑に遭うた」
とネタ化したが、160cm、42kgと小柄で華奢な横山やすしから圧倒的なオーラを感じていた。

さんまは、横山やすしの家を出た後、少しだけ仮眠をとってうめだ花月に向かった。
漫才、落語、コント、音楽、様々な芸が披露された後、吉本新喜劇が始まるが、さんまはそのセットを組み立てる間、緞帳の前で漫談をする仕事が入っていた。
楽屋に入ると
「昨日、みたで。
ようしゃべってたなあ」
と5歳年上の先輩芸人、ナンバ四郎に声をかけられた。
コミックバンド「ザ・パンチャーズ」のベーシストで、演奏中に1拍遅れて、メンバーがズッこけるというギャグで当たっていた。
この1拍オクれるギャグで後に「Mr.オクレ」と改名する先輩とさんまは、すぐに意気投合し、よく遊ぶようになった。
Mr.オクレは、顔色は悪く、大きな黒縁メガネ、ガリガリの体に七三分け。
「腹減った。
なんか食わせ」
といってくるMr.オクレにさんまは
「お化け屋敷の営業やったらどうでっか?」
とすすめたが
「金だけくれ」
と返された。

笑福亭松之助の弟子となって2年。
その間、落語家として高座に上がったのは7本だけ。
(鶴瓶は、その内の1本、朝日放送でさんまが演じた落語を録ったテープを大事に保管し、ことあるごとに
「お前もモッサリとしたことやってたんやな」
とイジり続けている)
通常、弟子は、2、3年経つと師から「年季明け」、つまり修行期間終了をいい渡される。
しかし松之助が明確にそれを告げることはなかった。
さんまが弟子として家に通わなくなっても、それまでと同様、会えば話し込み、伝えたいことがあれば手紙を渡した。
さんまも機会があれば、師匠の世話を焼き続け、松之助の落語は舞台袖から勉強した。
そのとき顔は真剣そのもの。
口は師匠のいい回しや間をなぞって小刻みに動き、手には草履を持っていて、幕が下り、師匠が立ち上がるとさんまは駆け寄り
「師匠、ご苦労様でした。
勉強させていただきました」
と頭を下げ、松之助は
「おお」
と揃えて置かれた草履を履いた。
「外までお見送りさせていただきます」
「君、忙しいんやからエエで。
帰り道くらいわかるで。
子供やないんやから」
「師匠、ボケとるかもしれまへんで」
「アホなこというな。
ところで君誰や?」
「さすが師匠。
まだまだサビてまへんな!」
師匠と弟子は声を合わせて笑った。


1本立ちし自由の身となったさんまだったが、仕事は不定期に入る花月のステージと落語会だけ。
親からの仕送りもなくなり、時間はあるが金はなく、ひたすら仲間と街を徘徊。
喫茶店に入り浸り、
「50点」
「30点」
店の外を通り過ぎる女性を採点したり、ナンパして笑わせたりした。
結局、毎日4時間くらい歩き続け、仲間の1人が足の小指から軟骨が飛び出し、医者に
「歩きすぎです」
といわれ手術。
お金はなかったが怖いものもなく
「売れる」
「キャーキャーいわれる」
という夢だけがあった。

1本立ちして間もなくさんまは、島田紳助を初めて第一久寿川荘の部屋に招待した。
さんまはまだ仕事中だったため、紳助は、雨が降る中、1人で先に第一久寿川荘に向かった。
さんまが地図を描いた地図を頼りにたどり着いたとき、時刻は18時を過ぎていて、辺りは暗くなっていた。
老朽化した階段を上がり、さんまの部屋の前に立つとダイヤル式のカギがかかっていた。
解錠番号は聞かされていない紳助は、ドアの中央に
「113」
と大きく書かれてあるのを発見。
半信半疑で番号を合わせるとアッサリ開いた。
首をかしげながら部屋に入ると、中は真っ暗。
手探りで壁を探したがスイッチは見つからない。
ライターをつけて照明のヒモを探したが見つからない。
仕方なくテレビのスイッチを入れると、どのチャンネルも砂嵐。
砂嵐によってぼんやり浮き出てきた部屋をみると、ビールケースを並べてベニヤ板を置いたベッドと小さなちゃぶ台。
窓はガラスはなくビニール袋が貼りつけられ、風が吹くと
「バサバサ」
と音がした。
押入れがあったが開ける勇気はわかず、書き置きを残し、食事に出かけた。


その後、さんまが帰宅。
扉は開いたままでテレビはつけっぱなし。
机の上に
「友達として泊まりに来たけど俺は家畜ではない。
人間としてこの部屋に泊まることはできない。
残念やけど俺は旅に出る。
紳助」
と書かれた紙があった。
40分後、食事を終えた紳助が戻って来て、再び「113」で鍵を開けて部屋に入ると自分が書いた書き置きの裏に
「君の言葉は胸に突き刺さった。
僕は今から死のうと思う」
と書かれてあった。
それを読んだ紳助は、さんまが隠れていると思い、真っ暗な部屋に向かって
「さんま、押入れに隠れてんのんわかってるんやぞ。
出て来い」
「カーテンの裏か!」
などと1人しゃべり続け、そこにお好み焼きを食べにいっていたさんまが帰ってきた。
後で確認すると「113」は「よいさんま」という意味で、紳助のためにその日だけさんまがドアに書いたものだった。
後日、さんまの部屋に遊びに行った紳助は、その番号を忘れてしまい、足で蹴るとドアは横に開かず縦に倒れた。
帰ってきたさんまが
「泥棒か!」
と焦って部屋に入ると中で紳助が寝ていた。

逆にさんまが京都の紳助の実家に泊まりに行ったとき、紳輔は彼女(現在の奥さん)を呼んで紹介した。
深夜3時頃まで3人で話した後、紳助と彼女がベッド、さんまは床で寝ることになった。
しばらくすると真っ暗な部屋の中で声がし始めた。
「ア、アカンて。
さんまさん起きてはるて。
・・・・アカン・・・・アカンて」
さんまは、
(1日くらいガマンせえよ)
と思いながらも気を利かせて
「スマン、紳助、ちょっとオレ外いってくるわ」
といった。
「どこいくねん?」
「前の公園で寝るわ」
さんまは紳助が止めてくれると思ったが、
「おうっ」
といって毛布を投げられた。
それを持って紳助の家の前にあった公園に移動するとホームレスの人に話しかけられた。
「兄ちゃん、若いのに」
「すんまへん、お邪魔して」
そしてベンチで寝て、朝になり帰るとき顔は蚊に刺されまくってボコボコになっていた。


正式な仕事は、不定期に入る花月のステージと落語会だけだったが、さんまは会社を通さない直の営業もこなしていた。
芸人同士、仕事を紹介し合って成り立つ直の営業、通称「余興」
そのギャラは1回5000円~1万円。
月に数万の収入となり、松之助からアルバイトを禁止されているさんまにとって生きていく命綱だった。
1976年5月、さんまと島田紳助は「余興」で奈良県大和高田市にできたニチイのオープニングイベントの司会をした。
1日2ステージでギャラは2人で5000円。
イベントは2日間行われ、必死に盛り上げようとしたが客は最後までクスリともしなかった。
仕事を終えた2人はトボトボと駅に向かった。
途中、さんまがコロッケを買った。
食べながら歩く姿をみて紳助は
「お前コロッケ似会うなあ」
「せやなあ。
ジャンパーも茶色やしな」
茶色のジャンパーを着ていたさんまが答えると2人は爆笑。
その後、歩いているとき、さんまが屁をこいて大袈裟に飛び上がると、紳助は再び爆笑した。

1ヵ月後、2人は京都ロイヤルホテルの営業に出た。
婦人会が会食する中、15分間、コントをするという仕事で、ギャラは2人で4万円と超高額。
2人は工事現場のコントをしたが、婦人たちは誰もこっちをみておらず大声でしゃべっていた。
2人は何とか注目させようと話しかけたが誰も応じてくれない。
「みなさーん、一生懸命やっておられるのですからみてあげてくださーい」
幹事の女性がいっても誰も耳を貸さない。
5分が経過したとき、突然、さんまはコントをやめて控え室に帰った。
紳助は破格のギャラのために最後までガマンするつもりだったが、仕方なく控え室に戻った。
さんまはすぐに着替え出し、幹事の女性が
「皆さんのお行儀が悪くてすみませんでした」
といってギャラが入った封筒を渡そうとしても
「いりません!
ちゃんとできてませんから」
と断った。
「いや、そういわずに・・」
という幹事の女性に紳助は
「ありがとうございます」
と封筒を受け取った。
そして会場を出るとさんまは
「おい、2万円渡せ」
といった。


さんまは落語は松之助に指導を受けたが、漫談は100%オリジナル。
街でみたり、身の回りで起こった出来事を脚色して面白おかしく話した。
ある日、うめだ花月に出演すると、客は20人くらいで寝ている人もいた。
「どうもこんにちは。
明石家さんまと申します。
温かくなってまいりまして、もう半袖でもよろしいな。
これでやっと落ち着いて眠れますわ。
というのは、今年の冬は異常に寒かったでしょう?
うちのアパートは隙間風がひどうて寝てる間も凍死するんやないかと思いまして、オチオチ寝てられへんかったんですわ。
いや、ホンマに寒かった。
あまりの寒さにうめだ花月の表で3人ほど凍ってましたからね。
それを支配人が湯ぅかけて回ってましたから。
まあそんなことはどうでもええんですけど・・・」
シーンと静まり返る中、2階席で1人、大笑いする男がいた。
「最近の若い女の子はパンツをはかない、ブラジャーをしない。
体のラインをきれいにみせるためにノーパンノーブラで街を歩く子がいてるそうで。
私の高校時分もねえ、パンツをはかない子がいてたんですわ。
いやあ京子ちゃん、パンツはいてへんの?
いやん、なんでわかるの?
あんた、スカートはいてへんもん」
2階の男は腹を抱えて笑った。
すると他の客も釣られて笑い始めた。
この2階席の男こそ、ラビット関根こと関根勤だった。
「なんでウケないのか、よくわかんなかった。
時代の先行ってましたよねぇ。
あそこで出てた人たちより、なんか都会的でアバンギャルドでしたもん」
(関根勤)


さんまと紳輔に吉本から仕事が入った。
現場は京都市内の中型遊園地、八瀬遊園の中にある八瀬グラウンドプール。
毎週、日曜日、13時と15時の2回、プールサイドでのトーク。
ギャラは2人で1日1万円。
2人はマイクを持ってトークしたが、みんな水遊びに夢中で聞いてくれない。
焦った2人は、毎週、手をかえ品をかえたが客は全然笑わなかった。
その日も炎天下、懸命にトークを繰り広げたが誰も聞いてくれない。
ステージ脇にロープが置いてあるのを発見したさんまは
「皆さーん、聞いて驚かないで下さいよ。
実はこの男、かの有名なマジシャン、引田天功の弟子なんです」
絶句する紳助を無視し
「早速その実力をごらん頂きたいと思います。
今からこの押田天功がロープで手足を縛られプールに飛び込みます。
見事、脱出した暁には拍手喝采。
題して、水中縄抜けショ~~~」
そうコールすると客が集まり始めた。
「おい!」
「エエからエエから。
このまま飛び込んだらエエねん。
すぐ助けたるから安心せえ」
「イヤじゃ、お前がやれや」
「大丈夫やて。
ほらお客さんも期待してはるがな。
根性みせたれ」
さんまはそういって立っている紳助の両手両足を縛った。
「さあ、これで押田天功は身動きが取れません。
それでは飛び込んでもらいましょう」
といい、紳助をプールに突き落とした。



エビのようにバタつき、もがき苦しむ紳助をさんまは笑いながら実況。
客は爆笑。
紳助は縄を抜けようとしようとしたがロープが濡れて固くなってできない。
次に必死に体を動かして浮上しようとした。
最初、ゴボゴボという音がして、次に水の中で客の笑い声を聞いたが、体が沈んでいくとそれも消えていき、
「ああ、死ぬんや」
と覚悟。
そのとき3人の監視員が飛び込んだ。
引き上げられた紳助が、水を吐きながらさんまをみるとこちらをみながら大爆笑していた。
「死ぬとこやったぞ!」
と本気で怒る紳輔にさんまは
「ウケたなあ」
といって笑い続けた。
命がけの頑張りが認められ、プールの季節が終わっても2人は八瀬遊園内の水族館でアザラシショーの後にトークする仕事を続けた。
さんまが
「人間ポンプやります」
といって紳助が赤色と黒色の金魚を飲み、
「赤から出します」
といったが、金魚は出てこず、
「明日の朝、みにきてくれ」
といってオチをつけた。

冬、さんまと紳助は奈良で仕事があり、さんまの実家に泊まることになった。
奈良の田舎に建つさんまの実家は大きく、トイレは家の外にあった。
夜中1時、小便をするために外に出た紳助は、トイレの横に白い鹿がいるのをみた。
以前、さんまに
「白い鹿を捕まえたことがある」
と聞かされ、
「どうせ嘘に決まってる」
と思っていた紳助はビックリ。
捕まえようとしたが、よくみるとそれは足を捻挫し四つん這いで歩く、白いジャージの上下を着た祖父、杉本音一だった。
さんまの実家は水産加工業をしており、さんまの開きは冷凍のさんまを解凍するところから始まる。
さんまの父、垣は紳助に
「持っていき」
といって冷凍のさんまをダンボールで1箱を渡した。
近鉄電車の中でそれはポタポタと解け始め、さんまの臭いが立ち込め、紳助は
「もう小さなテロやん」
と思った。
一方、 さんまは京都の紳助の実家に泊まりにいったとき、部屋の照明がついているのに布団を頭までかぶって懐中電灯で本を読む紳助の父親を目撃。
紳助に
「オヤジは本が好きやから」
と説明された。


紳助は、漫才がやりたかった。
同期が弟子を卒業し次々とデビューしていく中、1年半、戦略ノートと実家の部屋の壁に張った棒グラフや折れ線グラフでデータ取りと研究を続けた。
優秀な相方をみつけてNHK漫才コンクールや上方漫才新人賞など関西で賞を獲ってレギュラー番組を持ち、やがて東京に進出するという計画を立てていた。
だからさんまに
「俺とコンビ組もう」
と誘ったが、
「俺はピンでやっていくわ。
1人の方が気楽やし、動きやすいし、ピンで笑い取るんが1番すごいやろ」
と断られた。
その後、現在に至るまで2人はずっとツレであり続けている。


しかしピンでは仕事が少ないさんまは、アルバイト感覚で小禄とコンビを組んで「若手漫才選手権」に出場。
予選で敗退したものの敗者復活を勝ち上がり、年末に開催される「若手漫才選手権グランプリ」への出場権を得た。
この活躍が認められ、2人は新番組「爆笑三段跳び」の前説を任されることになった。
この番組の司会は、超人気落語家、笑福亭仁鶴。
ピンで活動し「笑いの爆弾男」と呼ばれていた仁鶴を、さんまは深く尊敬していた。
番組は毎週、土曜日、なんば花月で収録され、さんまと小禄は満員の客の前で前説。
人気絶頂の仁鶴の入り時間はバラバラで30分以上しゃべることもよくあった。
ある日、前説を始めて1時間経っても仁鶴が現れず、ネタが尽き、なんとかつないでいたが徐々に追い込まれていった。
さんまはかつて、落語の高座で
「巨人の堀内恒夫がバックスクリーンにホームランを打たれたところ」
と前フリしてから形態模写をして、その日1番の笑いをとったことを思い出した。
(イケるかもしれん)

「ええ、それでは今から、今年、見事優勝を果たしました読売ジャイアンツの選手の形態模写を・・・
まずは1番バッター、柴田!」
と無言でそのバッティングフォーム。
高田、張本、王と続き、8番までそれぞれのバッティングを夢中で再現。
小禄も汗だくでフォロー。
「最後にエース、小林繁」
さんまマウンド上で小林繁がキャッチャーのサインに首を振って、投げた後、ポーズを決めるまでを再現。
大きな笑いを奪った。
その後、仁鶴が到着し、2人は窮地を乗り切った。
この貢献が認められ、本番でもチョイ役で出演できるようになった。
仁鶴は木魚のようにさんまの頭の叩きながら
「長いこと前説しやがって~」
「アンタが遅いせいや!」

「爆笑三段跳び」の放映が開始されてから約2ヵ月後、さんまは「スタジオ2時」の芸人相撲大会で、お尻にバツマークに絆創膏を貼って、2度目のテレビ出演を成功させた。
その翌日、「若手漫才選手権グランプリ」に、さんまと小禄は黒のタキシードに大きな赤い蝶ネクタイをつけ、形態模写を入れたネタで勝負。
小禄の実況に合わせ、さんまがプロ野球だけでなく大相撲の力士など旬のスポーツ選手のマネをしていった。
しかし優勝したのはオール阪神・巨人。
オール巨人は、さんまと同期。
素人時代から人気ラジオ番組「MBSヤングタウン」にオール阪神と共にレギュラー出演。
吉本入りすると新喜劇の座長をしていた岡八郎に弟子入り。
1年後、5歳年下のオール阪神が吉本に入ってくるとコンビを組んだ。
『お前、鳩胸やな』
「フォロッフォー」
『怒り肩やん』
「なんジャイ、コラ」
『獅子鼻やん』
「ブヒィーン」
『猫背やな』
「ミャーン」
などとしゃべくり漫才で人気を獲得。
反面、コンビ仲は悪く、しょっちゅうケンカをしていた。
ある日、さんまは阪神・巨人と一緒に歩いていた。
タクシーを止めるために1番年下の阪神が前に出ると巨人がいきなりいった。
「おい、阪神。
お前の背中みてるけどな、お前一生モテへんわ」
「なんやとぉー」
「だからお前の背中みたらモテへんちゅう話や」
「じゃかしいわ」
2人はタクシーの前で大喧嘩を始め、さんまは
(わけわからん)
と思いながら、あわてて止めた。
さんまいわく落語家、あるいはピン芸人は
「ライバルは自分」
しかし漫才やコンビになると、必ずと言っていいほど芸のことでモメ、横山やすし・西川きよしなどは出番が終わるとステージ袖でよく殴り合った。


「若手漫才選手権グランプリ」で優勝は出来なかったもの大きなインパクトを残したさんまと小禄は、朝のワイドショー番組「小川宏ショー」への出演が決定。
さんまは京都花月の楽屋に
「さんま、小禄 12月31日 フジテレビ 小川宏ショー ネタはなんと4分」
と書いた紙を貼ってアピール。
さらに新しい靴を買って備えたが、西川のりおに
「そんなブーツ、アカンで」
といわれた。
「靴の裏がボコボコやってん。
90度くらいの坂、登れるような、ものすご硬そうな素材で、真っ白なズボンはいて・・・」
(西川のりお)

出演前日、さんまは京都花月の前座の仕事があった。
1回目のステージを終えて戻ると
「飛行機の時間、遅れるなよ」
と小禄から電話があった。
2回目のステージが始まる直前にも
2「今から2回目の出番やろ。
俺はもう空港に着いてるから巻きでやってすぐにこっちに来い」
といわれた。
そして大阪空港に18時に到着。
飛行機の出発は20時40分。
「ネタ合わせしよう」
と小禄がいい、2人はトイレで2時間稽古。
東京のホテルに入ってくつろいでいると小禄に呼び出され、深夜までネタの確認を行った。
そして1976年12月31日、朝7時半、迎えの車に乗ってフジテレビへ。
「小川宏ショー」が始まり、2人は「1976年を飾った男たち」というコーナーで、この年に活躍したスポーツ選手を形態模写を交えて紹介していった。
最初のネタは「アントニオ猪木 vs モハメド・アリ」
小禄が猪木、さんまがアリの形態模写で滑り出しは順調。
しかし途中、小禄がネタをトバしてしまい、4分の持ち時間が2分半になってしまい、1976年を不完全燃焼で終えた。


西川のりおは、さんまより4歳上。
森啓二、Mr.オクレと共にさんまが多くの時間を過ごした先輩芸人だった。
高校時代、応援団員として活躍しダミ声になったのりおは、毎日放送ラジオ「ヤングタウン」のオーディションを受けていた。
そして同級生と花月にいって横山やすし・西川きよしをヤジったところ、西川きよしに
「後で楽屋に来い」
とイジられ、ほんとうに楽屋を訪問。
その後もしばしば楽屋を訪れた末、高校卒業前に弟子入り。
弟子入り後、友達のような関係だった西川きよしが急に厳しくなり、耐え切れず実家に逃げ帰ったこともあった。
さんまが出会った頃、のりおは横山エンタツ・花菱アチャコの「横」、中田ダイマル・ラケットの「中」を足した「横中バックケース」というコンビで舞台に立っていた。
出だしに自作のアカペラソング「漫才は楽しいな」を歌い、相方を舞台から放り投げたり、緞帳にぶら下がって引きずり下ろしたり、マイクにかみついて
「感電するで」
ツッコまれ
「俺はもうしびれてるんじゃ」
とやり返したり、クイズネタで無茶苦茶な問題をふっかけ
「なんの関係があるんや」
という相方に
「その答えを待ってたんや!」
とビンタ。
その暴走っぷりで客よりもさんまを含む芸人仲間を楽しませ、自滅。

横中バックケース解散後、のりおは上方よしおと「西川のりお・上方よしお」を結成。
しかしこのときも一悶着があった。
上方よしおは、2代目「B&B」としてNHK上方漫才コンテスト最優秀話術賞受賞するなど超売れっ子だったが、相方の島田洋七と大ゲンカして解散。
そのとき
「よしおは芸能界を引退する」
と受け取っていた島田洋七の師匠、今喜多代は、西川のりお・上方よしおの結成を知ると
「筋を通してない」
と激怒。
西川きよしと上方よしおの師匠、上方柳太が仲に立ってやっとコンビを組むことを許された。
のりおにコンビ結成を知らされたさんまは
「次は仲良うやってくださいよ」
といった。
暇なとき、2人は昼間からコーヒー1杯で喫茶店に4、5時間居座り
「さんま、もっと売れたいなあ」
「売れたいですね」
「今はこんなんやけど将来は俺が全国ネットの番組の司会してお前はパネラーや」
「そうでんなあ、兄さん」
と将来の夢を語り合い、夕方になると「パトロール」に出て、女の子に声をかけた。

西川のりおの実家は自転車屋を営んでいた。
さんまはその店舗兼住宅をみて
「大きなビルとビルに挟まれて、エンピツみたいなビルやな。
よう建てたな」
と思いながらも、よく泊めてもらっていた。
3歳上の先輩、ぼんちおさむの家にも泊まったことがあったが、夜中、おさむが何度も、頭を叩いて舌で音を鳴らす練習や、
「オッ、オッッッおさむちゃんで~す!」
の練習をして、顔を真っ赤にしてジャンプしまくるため、まったく寝られなかった。

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