1本立ちして間もなくさんまは、島田紳助を初めて第一久寿川荘の部屋に招待した。
さんまはまだ仕事中だったため、紳助は、雨が降る中、1人で先に第一久寿川荘に向かった。
さんまが地図を描いた地図を頼りにたどり着いたとき、時刻は18時を過ぎていて、辺りは暗くなっていた。
老朽化した階段を上がり、さんまの部屋の前に立つとダイヤル式のカギがかかっていた。
解錠番号は聞かされていない紳助は、ドアの中央に
「113」
と大きく書かれてあるのを発見。
半信半疑で番号を合わせるとアッサリ開いた。
首をかしげながら部屋に入ると、中は真っ暗。
手探りで壁を探したがスイッチは見つからない。
ライターをつけて照明のヒモを探したが見つからない。
仕方なくテレビのスイッチを入れると、どのチャンネルも砂嵐。
砂嵐によってぼんやり浮き出てきた部屋をみると、ビールケースを並べてベニヤ板を置いたベッドと小さなちゃぶ台。
窓はガラスはなくビニール袋が貼りつけられ、風が吹くと
「バサバサ」
と音がした。
押入れがあったが開ける勇気はわかず、書き置きを残し、食事に出かけた。
その後、さんまが帰宅。
扉は開いたままでテレビはつけっぱなし。
机の上に
「友達として泊まりに来たけど俺は家畜ではない。
人間としてこの部屋に泊まることはできない。
残念やけど俺は旅に出る。
紳助」
と書かれた紙があった。
40分後、食事を終えた紳助が戻って来て、再び「113」で鍵を開けて部屋に入ると自分が書いた書き置きの裏に
「君の言葉は胸に突き刺さった。
僕は今から死のうと思う」
と書かれてあった。
それを読んだ紳助は、さんまが隠れていると思い、真っ暗な部屋に向かって
「さんま、押入れに隠れてんのんわかってるんやぞ。
出て来い」
「カーテンの裏か!」
などと1人しゃべり続け、そこにお好み焼きを食べにいっていたさんまが帰ってきた。
後で確認すると「113」は「よいさんま」という意味で、紳助のためにその日だけさんまがドアに書いたものだった。
後日、さんまの部屋に遊びに行った紳助は、その番号を忘れてしまい、足で蹴るとドアは横に開かず縦に倒れた。
帰ってきたさんまが
「泥棒か!」
と焦って部屋に入ると中で紳助が寝ていた。
逆にさんまが京都の紳助の実家に泊まりに行ったとき、紳輔は彼女(現在の奥さん)を呼んで紹介した。
深夜3時頃まで3人で話した後、紳助と彼女がベッド、さんまは床で寝ることになった。
しばらくすると真っ暗な部屋の中で声がし始めた。
「ア、アカンて。
さんまさん起きてはるて。
・・・・アカン・・・・アカンて」
さんまは、
(1日くらいガマンせえよ)
と思いながらも気を利かせて
「スマン、紳助、ちょっとオレ外いってくるわ」
といった。
「どこいくねん?」
「前の公園で寝るわ」
さんまは紳助が止めてくれると思ったが、
「おうっ」
といって毛布を投げられた。
それを持って紳助の家の前にあった公園に移動するとホームレスの人に話しかけられた。
「兄ちゃん、若いのに」
「すんまへん、お邪魔して」
そしてベンチで寝て、朝になり帰るとき顔は蚊に刺されまくってボコボコになっていた。
正式な仕事は、不定期に入る花月のステージと落語会だけだったが、さんまは会社を通さない直の営業もこなしていた。
芸人同士、仕事を紹介し合って成り立つ直の営業、通称「余興」
そのギャラは1回5000円~1万円。
月に数万の収入となり、松之助からアルバイトを禁止されているさんまにとって生きていく命綱だった。
1976年5月、さんまと島田紳助は「余興」で奈良県大和高田市にできたニチイのオープニングイベントの司会をした。
1日2ステージでギャラは2人で5000円。
イベントは2日間行われ、必死に盛り上げようとしたが客は最後までクスリともしなかった。
仕事を終えた2人はトボトボと駅に向かった。
途中、さんまがコロッケを買った。
食べながら歩く姿をみて紳助は
「お前コロッケ似会うなあ」
「せやなあ。
ジャンパーも茶色やしな」
茶色のジャンパーを着ていたさんまが答えると2人は爆笑。
その後、歩いているとき、さんまが屁をこいて大袈裟に飛び上がると、紳助は再び爆笑した。
1ヵ月後、2人は京都ロイヤルホテルの営業に出た。
婦人会が会食する中、15分間、コントをするという仕事で、ギャラは2人で4万円と超高額。
2人は工事現場のコントをしたが、婦人たちは誰もこっちをみておらず大声でしゃべっていた。
2人は何とか注目させようと話しかけたが誰も応じてくれない。
「みなさーん、一生懸命やっておられるのですからみてあげてくださーい」
幹事の女性がいっても誰も耳を貸さない。
5分が経過したとき、突然、さんまはコントをやめて控え室に帰った。
紳助は破格のギャラのために最後までガマンするつもりだったが、仕方なく控え室に戻った。
さんまはすぐに着替え出し、幹事の女性が
「皆さんのお行儀が悪くてすみませんでした」
といってギャラが入った封筒を渡そうとしても
「いりません!
ちゃんとできてませんから」
と断った。
「いや、そういわずに・・」
という幹事の女性に紳助は
「ありがとうございます」
と封筒を受け取った。
そして会場を出るとさんまは
「おい、2万円渡せ」
といった。
さんまは落語は松之助に指導を受けたが、漫談は100%オリジナル。
街でみたり、身の回りで起こった出来事を脚色して面白おかしく話した。
ある日、うめだ花月に出演すると、客は20人くらいで寝ている人もいた。
「どうもこんにちは。
明石家さんまと申します。
温かくなってまいりまして、もう半袖でもよろしいな。
これでやっと落ち着いて眠れますわ。
というのは、今年の冬は異常に寒かったでしょう?
うちのアパートは隙間風がひどうて寝てる間も凍死するんやないかと思いまして、オチオチ寝てられへんかったんですわ。
いや、ホンマに寒かった。
あまりの寒さにうめだ花月の表で3人ほど凍ってましたからね。
それを支配人が湯ぅかけて回ってましたから。
まあそんなことはどうでもええんですけど・・・」
シーンと静まり返る中、2階席で1人、大笑いする男がいた。
「最近の若い女の子はパンツをはかない、ブラジャーをしない。
体のラインをきれいにみせるためにノーパンノーブラで街を歩く子がいてるそうで。
私の高校時分もねえ、パンツをはかない子がいてたんですわ。
いやあ京子ちゃん、パンツはいてへんの?
いやん、なんでわかるの?
あんた、スカートはいてへんもん」
2階の男は腹を抱えて笑った。
すると他の客も釣られて笑い始めた。
この2階席の男こそ、ラビット関根こと関根勤だった。
「なんでウケないのか、よくわかんなかった。
時代の先行ってましたよねぇ。
あそこで出てた人たちより、なんか都会的でアバンギャルドでしたもん」
(関根勤)
さんまと紳輔に吉本から仕事が入った。
現場は京都市内の中型遊園地、八瀬遊園の中にある八瀬グラウンドプール。
毎週、日曜日、13時と15時の2回、プールサイドでのトーク。
ギャラは2人で1日1万円。
2人はマイクを持ってトークしたが、みんな水遊びに夢中で聞いてくれない。
焦った2人は、毎週、手をかえ品をかえたが客は全然笑わなかった。
その日も炎天下、懸命にトークを繰り広げたが誰も聞いてくれない。
ステージ脇にロープが置いてあるのを発見したさんまは
「皆さーん、聞いて驚かないで下さいよ。
実はこの男、かの有名なマジシャン、引田天功の弟子なんです」
絶句する紳助を無視し
「早速その実力をごらん頂きたいと思います。
今からこの押田天功がロープで手足を縛られプールに飛び込みます。
見事、脱出した暁には拍手喝采。
題して、水中縄抜けショ~~~」
そうコールすると客が集まり始めた。
「おい!」
「エエからエエから。
このまま飛び込んだらエエねん。
すぐ助けたるから安心せえ」
「イヤじゃ、お前がやれや」
「大丈夫やて。
ほらお客さんも期待してはるがな。
根性みせたれ」
さんまはそういって立っている紳助の両手両足を縛った。
「さあ、これで押田天功は身動きが取れません。
それでは飛び込んでもらいましょう」
といい、紳助をプールに突き落とした。
エビのようにバタつき、もがき苦しむ紳助をさんまは笑いながら実況。
客は爆笑。
紳助は縄を抜けようとしようとしたがロープが濡れて固くなってできない。
次に必死に体を動かして浮上しようとした。
最初、ゴボゴボという音がして、次に水の中で客の笑い声を聞いたが、体が沈んでいくとそれも消えていき、
「ああ、死ぬんや」
と覚悟。
そのとき3人の監視員が飛び込んだ。
引き上げられた紳助が、水を吐きながらさんまをみるとこちらをみながら大爆笑していた。
「死ぬとこやったぞ!」
と本気で怒る紳輔にさんまは
「ウケたなあ」
といって笑い続けた。
命がけの頑張りが認められ、プールの季節が終わっても2人は八瀬遊園内の水族館でアザラシショーの後にトークする仕事を続けた。
さんまが
「人間ポンプやります」
といって紳助が赤色と黒色の金魚を飲み、
「赤から出します」
といったが、金魚は出てこず、
「明日の朝、みにきてくれ」
といってオチをつけた。
冬、さんまと紳助は奈良で仕事があり、さんまの実家に泊まることになった。
奈良の田舎に建つさんまの実家は大きく、トイレは家の外にあった。
夜中1時、小便をするために外に出た紳助は、トイレの横に白い鹿がいるのをみた。
以前、さんまに
「白い鹿を捕まえたことがある」
と聞かされ、
「どうせ嘘に決まってる」
と思っていた紳助はビックリ。
捕まえようとしたが、よくみるとそれは足を捻挫し四つん這いで歩く、白いジャージの上下を着た祖父、杉本音一だった。
さんまの実家は水産加工業をしており、さんまの開きは冷凍のさんまを解凍するところから始まる。
さんまの父、垣は紳助に
「持っていき」
といって冷凍のさんまをダンボールで1箱を渡した。
近鉄電車の中でそれはポタポタと解け始め、さんまの臭いが立ち込め、紳助は
「もう小さなテロやん」
と思った。
一方、 さんまは京都の紳助の実家に泊まりにいったとき、部屋の照明がついているのに布団を頭までかぶって懐中電灯で本を読む紳助の父親を目撃。
紳助に
「オヤジは本が好きやから」
と説明された。
紳助は、漫才がやりたかった。
同期が弟子を卒業し次々とデビューしていく中、1年半、戦略ノートと実家の部屋の壁に張った棒グラフや折れ線グラフでデータ取りと研究を続けた。
優秀な相方をみつけてNHK漫才コンクールや上方漫才新人賞など関西で賞を獲ってレギュラー番組を持ち、やがて東京に進出するという計画を立てていた。
だからさんまに
「俺とコンビ組もう」
と誘ったが、
「俺はピンでやっていくわ。
1人の方が気楽やし、動きやすいし、ピンで笑い取るんが1番すごいやろ」
と断られた。
その後、現在に至るまで2人はずっとツレであり続けている。
しかしピンでは仕事が少ないさんまは、アルバイト感覚で小禄とコンビを組んで「若手漫才選手権」に出場。
予選で敗退したものの敗者復活を勝ち上がり、年末に開催される「若手漫才選手権グランプリ」への出場権を得た。
この活躍が認められ、2人は新番組「爆笑三段跳び」の前説を任されることになった。
この番組の司会は、超人気落語家、笑福亭仁鶴。
ピンで活動し「笑いの爆弾男」と呼ばれていた仁鶴を、さんまは深く尊敬していた。
番組は毎週、土曜日、なんば花月で収録され、さんまと小禄は満員の客の前で前説。
人気絶頂の仁鶴の入り時間はバラバラで30分以上しゃべることもよくあった。
ある日、前説を始めて1時間経っても仁鶴が現れず、ネタが尽き、なんとかつないでいたが徐々に追い込まれていった。
さんまはかつて、落語の高座で
「巨人の堀内恒夫がバックスクリーンにホームランを打たれたところ」
と前フリしてから形態模写をして、その日1番の笑いをとったことを思い出した。
(イケるかもしれん)
と
「ええ、それでは今から、今年、見事優勝を果たしました読売ジャイアンツの選手の形態模写を・・・
まずは1番バッター、柴田!」
と無言でそのバッティングフォーム。
高田、張本、王と続き、8番までそれぞれのバッティングを夢中で再現。
小禄も汗だくでフォロー。
「最後にエース、小林繁」
さんまマウンド上で小林繁がキャッチャーのサインに首を振って、投げた後、ポーズを決めるまでを再現。
大きな笑いを奪った。
その後、仁鶴が到着し、2人は窮地を乗り切った。
この貢献が認められ、本番でもチョイ役で出演できるようになった。
仁鶴は木魚のようにさんまの頭の叩きながら
「長いこと前説しやがって~」
「アンタが遅いせいや!」
「爆笑三段跳び」の放映が開始されてから約2ヵ月後、さんまは「スタジオ2時」の芸人相撲大会で、お尻にバツマークに絆創膏を貼って、2度目のテレビ出演を成功させた。
その翌日、「若手漫才選手権グランプリ」に、さんまと小禄は黒のタキシードに大きな赤い蝶ネクタイをつけ、形態模写を入れたネタで勝負。
小禄の実況に合わせ、さんまがプロ野球だけでなく大相撲の力士など旬のスポーツ選手のマネをしていった。
しかし優勝したのはオール阪神・巨人。
オール巨人は、さんまと同期。
素人時代から人気ラジオ番組「MBSヤングタウン」にオール阪神と共にレギュラー出演。
吉本入りすると新喜劇の座長をしていた岡八郎に弟子入り。
1年後、5歳年下のオール阪神が吉本に入ってくるとコンビを組んだ。
『お前、鳩胸やな』
「フォロッフォー」
『怒り肩やん』
「なんジャイ、コラ」
『獅子鼻やん』
「ブヒィーン」
『猫背やな』
「ミャーン」
などとしゃべくり漫才で人気を獲得。
反面、コンビ仲は悪く、しょっちゅうケンカをしていた。
ある日、さんまは阪神・巨人と一緒に歩いていた。
タクシーを止めるために1番年下の阪神が前に出ると巨人がいきなりいった。
「おい、阪神。
お前の背中みてるけどな、お前一生モテへんわ」
「なんやとぉー」
「だからお前の背中みたらモテへんちゅう話や」
「じゃかしいわ」
2人はタクシーの前で大喧嘩を始め、さんまは
(わけわからん)
と思いながら、あわてて止めた。
さんまいわく落語家、あるいはピン芸人は
「ライバルは自分」
しかし漫才やコンビになると、必ずと言っていいほど芸のことでモメ、横山やすし・西川きよしなどは出番が終わるとステージ袖でよく殴り合った。
「若手漫才選手権グランプリ」で優勝は出来なかったもの大きなインパクトを残したさんまと小禄は、朝のワイドショー番組「小川宏ショー」への出演が決定。
さんまは京都花月の楽屋に
「さんま、小禄 12月31日 フジテレビ 小川宏ショー ネタはなんと4分」
と書いた紙を貼ってアピール。
さらに新しい靴を買って備えたが、西川のりおに
「そんなブーツ、アカンで」
といわれた。
「靴の裏がボコボコやってん。
90度くらいの坂、登れるような、ものすご硬そうな素材で、真っ白なズボンはいて・・・」
(西川のりお)
出演前日、さんまは京都花月の前座の仕事があった。
1回目のステージを終えて戻ると
「飛行機の時間、遅れるなよ」
と小禄から電話があった。
2回目のステージが始まる直前にも
2「今から2回目の出番やろ。
俺はもう空港に着いてるから巻きでやってすぐにこっちに来い」
といわれた。
そして大阪空港に18時に到着。
飛行機の出発は20時40分。
「ネタ合わせしよう」
と小禄がいい、2人はトイレで2時間稽古。
東京のホテルに入ってくつろいでいると小禄に呼び出され、深夜までネタの確認を行った。
そして1976年12月31日、朝7時半、迎えの車に乗ってフジテレビへ。
「小川宏ショー」が始まり、2人は「1976年を飾った男たち」というコーナーで、この年に活躍したスポーツ選手を形態模写を交えて紹介していった。
最初のネタは「アントニオ猪木 vs モハメド・アリ」
小禄が猪木、さんまがアリの形態模写で滑り出しは順調。
しかし途中、小禄がネタをトバしてしまい、4分の持ち時間が2分半になってしまい、1976年を不完全燃焼で終えた。
西川のりおは、さんまより4歳上。
森啓二、Mr.オクレと共にさんまが多くの時間を過ごした先輩芸人だった。
高校時代、応援団員として活躍しダミ声になったのりおは、毎日放送ラジオ「ヤングタウン」のオーディションを受けていた。
そして同級生と花月にいって横山やすし・西川きよしをヤジったところ、西川きよしに
「後で楽屋に来い」
とイジられ、ほんとうに楽屋を訪問。
その後もしばしば楽屋を訪れた末、高校卒業前に弟子入り。
弟子入り後、友達のような関係だった西川きよしが急に厳しくなり、耐え切れず実家に逃げ帰ったこともあった。
さんまが出会った頃、のりおは横山エンタツ・花菱アチャコの「横」、中田ダイマル・ラケットの「中」を足した「横中バックケース」というコンビで舞台に立っていた。
出だしに自作のアカペラソング「漫才は楽しいな」を歌い、相方を舞台から放り投げたり、緞帳にぶら下がって引きずり下ろしたり、マイクにかみついて
「感電するで」
ツッコまれ
「俺はもうしびれてるんじゃ」
とやり返したり、クイズネタで無茶苦茶な問題をふっかけ
「なんの関係があるんや」
という相方に
「その答えを待ってたんや!」
とビンタ。
その暴走っぷりで客よりもさんまを含む芸人仲間を楽しませ、自滅。
横中バックケース解散後、のりおは上方よしおと「西川のりお・上方よしお」を結成。
しかしこのときも一悶着があった。
上方よしおは、2代目「B&B」としてNHK上方漫才コンテスト最優秀話術賞受賞するなど超売れっ子だったが、相方の島田洋七と大ゲンカして解散。
そのとき
「よしおは芸能界を引退する」
と受け取っていた島田洋七の師匠、今喜多代は、西川のりお・上方よしおの結成を知ると
「筋を通してない」
と激怒。
西川きよしと上方よしおの師匠、上方柳太が仲に立ってやっとコンビを組むことを許された。
のりおにコンビ結成を知らされたさんまは
「次は仲良うやってくださいよ」
といった。
暇なとき、2人は昼間からコーヒー1杯で喫茶店に4、5時間居座り
「さんま、もっと売れたいなあ」
「売れたいですね」
「今はこんなんやけど将来は俺が全国ネットの番組の司会してお前はパネラーや」
「そうでんなあ、兄さん」
と将来の夢を語り合い、夕方になると「パトロール」に出て、女の子に声をかけた。
西川のりおの実家は自転車屋を営んでいた。
さんまはその店舗兼住宅をみて
「大きなビルとビルに挟まれて、エンピツみたいなビルやな。
よう建てたな」
と思いながらも、よく泊めてもらっていた。
3歳上の先輩、ぼんちおさむの家にも泊まったことがあったが、夜中、おさむが何度も、頭を叩いて舌で音を鳴らす練習や、
「オッ、オッッッおさむちゃんで~す!」
の練習をして、顔を真っ赤にしてジャンプしまくるため、まったく寝られなかった。