「天下とったる」横山やすし vs 「小さなことからコツコツと」西川きよし 怒るでしかし!!

「天下とったる」横山やすし vs 「小さなことからコツコツと」西川きよし 怒るでしかし!!

1980年代に起こった漫才ブームの中で横山やすし・西川きよし、通称「やすきよ」は不動の王者だった 。実力派若手との共演、対決も多かったが「ライバルは?」と聞かれた横山やすしは「相方」と答えた。そして西川きよしは猛獣使いか調教師のごとき見事なムチさばきで荒ぶる相方と対峙した。


木村雄二は、終戦の前の年、母親の故郷、高知県、沖ノ島で生まれた。
生後間もなく父親の暮らす大阪府堺市神石市之町へ移ったが、母親は産後の肥立ちが悪く、島に残った。
1945年3月13日には大阪大空襲があり、そういう厳しい状況下でやすしを育てたのは近所に住むタキヨさんという女性で戦争が終わるとお母さんになった。
父親は堺市役所のコック。
タキヨは堺駅近くの竜神橋町で遊郭を経営し、家には3日に1度しか帰ってこず、毎日16時に帰ってくる父親のためにご飯をつくるのが雄二の仕事だった。
雄二は中学生のとき、同級生の岡田好弘を誘い、朝日放送ラジオの「漫才教室」という素人参加型オーディション番組に応募。
2人は雄二が書いた台本で練習。
大阪の放送局に向かうと審査員をしていた漫才作家、秋田實に絶賛された。
そして2人は中学卒業後、松竹芸能に入社。
秋田實の弟子となり「堺正スケ・伸スケ」と命名された。
入社して1ヵ月後、通常、新世界のジャンジャン横丁にある安物小屋「新花月」で経験を積んでから花の「角座」に出ることができるところ、堺正スケ・伸スケ は、
「天才少年漫才師」
というふれこみで、いきなり角座でデビュー。
会社の期待は大きかったが15歳という年齢で伸スケはいわく
「子供の発想で子供の言葉になってしまう」
「先輩の芸をまねようとするが、大人の会話にならん」
という子供でも大人でもない中途半端な漫才はすぐに飽きられてしまった。
売れなくなってしまうと正スケ(岡田くん)は
「もう辞めたい」
といって廃業。


デビュー2年で1人ぼっちになってしまった伸スケは
「いまさら家には帰れん」
と競艇選手を目指したが、競艇学校のテストの中の視力があり、合格基準は1.0だったが0.1しかなく不合格。
「コンビ別れをしたんか。
いっぺん遊びに来い」
横山ノックに誘われ、ノックの師匠である横山エンタツの漫才が好きだった伸スケは弟子になった。
横山ノックにしてみると師匠である自分の持ち物やそれがある場所を完全に覚え、タバコを吸おうとするとライターを出し、出かけるときは靴と靴べらを揃えるなど非常に気がつく
「天才的な弟子」
だったという。
そして
「日本一の漫才師になれ。
今日から横山を名乗れ」
とノックにいわれた堺正スケは「横山やすし」に改名した。


横山やすしが横山ノックに弟子だったのは1年間。
漫才をするには相方とコンビを組まなくてはならないが、この1年の間に

・横山プリンと「横山やすし・たかし」
・レツゴー三匹の正児と「横山やすし・たかし」

を組んだが、いずれも長続きしなかった。
「要領の良さは天下一品ですね。
例えばノックさんが引っ越されたときに2人でいくでしょ。
『師匠来ました!』『やりまーす』『はい、正ちゃん、机運ぼう』って大きな声でいうてね。
運んでるん僕ですわ。
『はい、次イスや、イス』『よっしゃよっしゃ』
向こうの部屋におるノックさん、やすしよう働いとるな思うでしょ。
ずっとそんなんですわ」
というレッツゴー正児は一緒に汗をかかないやすしに
「こんなんイヤやな」
と思い、コンビを解消。
やすしは
「コンビ別れの名人」
といわれるようになった。

「いつか天下とったる」
「いつか見返したる」
そう思いながら芸人として鳴かず飛ばずが数年続いた。
その間、スクーターの後ろに芸人やストリッパーのお姉さんを乗せて大阪中の劇場を回り白タクのアルバイト。
スクーターは、大卒の初任給が1万2千円だった時代に20万円のスクーターを買ってもらったもの。
生涯
「港、港に俺を待ってる女がいる」
といい続け、そういうことも上手なやすしは、いつの間にか女性と一緒に住み始め、やがてアルバイトもやめた。
「これではアカン」
と思いながらもズルズル溺れていってしまった。


しかし芸人としての生活はキッチリ守り続けた。
1足しかないクツは、いつもピカピカ。
1本しかないズボンは毎日アイロンがけ。
メシを抜いてでも床屋にいって自慢のオールバックのアイロンも欠かさない。
「コッペパンしか食べてへんときでも散髪はいっとりました。
ワシがパン食べていることはお客さんはわからんけど舞台でしっつれいなカッコウはしたらアカン」

しかし仕事はなくヒモ暮らし。
「情けない」
「ワシ、これからどないなるんやろう」
「一体いつ天下とれるんや」
女も随分泣かせたが、やすしも大阪の夜の底で泣いていた。
そんな状況をみかねた先輩芸人、歌謡浪曲師の中川礼子が
「あの子はどうやろ」
と当たりをつけてやすしに紹介した。

西川きよしは、まだかけ出しの新喜劇俳優。
初舞台は熊役、その後も端役で出演していたが、ある公演の最終日、幕が下りたステージ上でワンワンと泣き出したことがあった。
「どないしたんや」
「もうこんなエエ役、2度とないと思うたら・・・」
「お前、入ったばかりやないか」
周りは笑い、
「泣き虫キー坊と呼ぶようになった。
決して演技はうまくなかったが、なんでも一生懸命にやるきよしは、その健気さでかわいがられた。

西川きよしも横山やすしと同じ高知生まれの大阪育ち。
「ウチは何で貧乏なんやろう。
なんでお米が買えんのやろう。
なんで腹が減るんやろう。
いつも疑問に思っておりました」
事業で失敗した父親と逃れるようにやってきたため、大阪湾に面した町での生活は貧しかった。
しかしこれが西川きよしの原動力。
10歳のときから八百屋、牛乳配達、新聞配達などのアルバイト。
八百屋で野菜を売りながら
「スター」
「一攫千金」
を夢みていた。
中学でサッカーにハマり、高校でもサッカー部に入ることを希望していたが、タクシー運転手をしていた父親が十二指腸潰瘍で倒れ、進学を断念。
自動車修理工に就職したが手のやけどが原因で17歳のときに退社し、会社の先輩から芸人の道を勧められ吉本入り。

西川きよしの行動は早い。
新喜劇のマドンナ女優だったヘレンは、アイルランド系アメリカ人の父親と日本人の母親を持ち、その名はヘレン・ケラーに因む。
都合が悪くなると
「私外人やから、日本語わかりません」
とギャグと大阪弁をしゃべる美人外国人として大人気だった。
あるときうめだ花月でヘレンが高熱を出し、とにかくゆっくり休ませなくアカンと思った作家が
「誰か近くに住んどるヤツ、おらんか?」
と周囲に聞くと
「近くです」
と答えたのが西川きよし。
それからが早い。
「もうタクシー用意できてます」
といい
「おう、頼むで」
と作家がいい終わる前にヘレンを担いで消えた。
2日後、ヘレンの母親から作家に
「娘が家に帰ってこない」
と電話がかかってきた。
驚いて作家は西川きよしに確認。
「どないなってんねん」
「ヘレンは『まだ少し熱があるんで僕の家におる』というてます。
ウチのお母さんとキャーキャーいいながら仲良うしてますわ」
作家はなにかおかしいと思ったが、案の定、2人はその後、結婚するといい出した。
ヘレンの母親は
「海のものとも山のものともわからん男に娘は渡されへん」
と猛反対。
西川きよしが
「ヘレンを吉本喜劇から辞めさせます」
というと
「ヘレンのほうが会社に貢献してくれてる」
「何でヘレンが辞めるんや。
お前が辞めたらエエがな」
と吉本も大反対した。


一方は売り出し中のお姫様。
一方はただ目玉がデカいだけの男。
会社が反対するのも仕方なかったが、西川きよしは
「こんなハイエナだらけのとことに恋人を置いとけません」
「結婚を認めないなら2人そろって引退する」
と引かなかった。
それにきよしはただ目がデカいだけではなかった。
この数年前に時代劇風コメディ「てなもんや三度笠」で主演した藤田まことは、斬られ役とのかけ合いのオチで
「俺がこんなに強いのも当たり前田のクラッカー!」
と胸元からクラッカーを印籠のごとく出したが、これが大当たりし、最高視聴率、64.8%という人気番組となった。
これでスター街道を走りだした藤田まことは、馬面でアソコも馬並み。
平均日本人男性の倍はあるといわれ、
「銭湯で腰掛けると引きずって隣から流れてきたカミソリの刃でケガをした」
という伝説を持つ。
そして藤田まことと共に
「関西3馬」
といわれたのが、横山ノック、西川きよしだった。

会社と関係が悪化した西川きよしとヘレンは、愛はあるがお金はなく、食事はいつもインスタントのワンタンメン。
それを毎日続けてたが、そこに「アホの坂田」こと坂田利夫も居着き、実質、ヘレンが2人の男を食わしていた。
そんなとき、西川きよしは先輩の中川礼子に
「1度、お見合いしてみたら?」
といわれた。

きよしにとって横山やすしは2歳上。
コンビ別れを繰り返す男と聞いていたので緊張しながら指定された喫茶店にいった。
「おうっ!」
椅子に座っていたやすしは手を振って呼び、第一声で
「俺な、お前と漫才でけへんかったら困るんや」
といった。
「やってもらわな困るって・・・
僕まだ新喜劇に出てるわけですからね。
イコール、はよ芝居を辞めて俺と漫才してくれな困るぞということを初対面でいうわけですから・・・ビックリしました。
ほおーこんな人もおるんやなというね」
西川きよしは驚くと同時に
「リッチになれるかもしれない」
「ワンタンメンから逃れられるかもしれない」
と心を揺さぶられた。


1966年5月21日、「横山やすし・西川きよし」が結成された。
しかし西川きよしは、漫才は素人。
劇場のボイラー室や非常階段で、やすしとの猛烈な特訓が始まった。
「漫才というものは標本があって標本がない。
キャリアがあるからしゃべりが上手とか、新人だからしゃべりが下手だとか断定し切れるものではない。
しゃべりというのは個人の特技である。
それに色づけするテクニックを取り入れて初めてキャリアが裏づけ証拠するだけの話である」
そんな漫才哲学を持つやすしの書く台本は、同じ時間でも原稿用紙は倍。
つまりしゃべくりのスピードも倍。
きよしは、その台本を3度読んでから、やすしとネタ合わせ。
1つの漫才をモノにするために、ひたすらそれを繰り返す。
2人は毎日、必死に練習。
人生の勝負がかかっていた。


1966年6月、結成した次の月には京都花月で初舞台を踏んだ。
きよしはマジメで考え込むタイプ。
出番前、硬くなる相棒にやすしは声をかけた。
「リラックスせいよ。
好きにしゃべったらエエ。
ワイがうまい具合にやったるさかい」
いくらキャリアを積んでも、この構図は変わらなかった。
本番前はいつも舞台下で
「よーし」
とガッツポーズをとって気合を入れるきよし。
それをみて
「なにを力んでんねんな。
やる前から・・・」
とあきれるやすし。
すかさずきよしは
「いや、やる前やからや!」
といった。


横山やすし・西川きよしは、次々と笑いを起こしていった。
自分たちの発言で客席がドッと笑い、その波のようなエネルギーを全身で受けるのはステージ上に立つ者しかわからない快感だった。
しかし問題もあった。
劇場での漫才は、1日数ステージあるが、やすしは、ステージの合間に一杯飲むことがあった。
きよしは、それに強い違和感があった。
「ひょっとしたら次のステージも笑わしたるぞっという気持ちでビールを飲んで餃子を食べてたかも知れませんわ。
でも僕はちょっと違うのと違うかと内心思ってるんですけど、先輩でもありますし、漫才師としても力のある人ですし、こんなことくらいで日頃の腕が鈍るオレやないっていう雰囲気も持って帰ってくるわけですよ。
外からね。
でも酔ってちゃ間をはかれませんからね。
ほいで出ますわ。
もうやれませんもんね。
もう冷や汗ですわ。
大恥かいて帰るわけです」
(西川きよし)

(なんでこんな1杯や2杯の酒で負けなあかんのや)
頭にきたきよしは、バラバラで帰ろうとするやすしに
(いうべきことはいわなければいけない)
と無理やりついて一緒に帰り、やがて
「待てよ」
と声をかけた。
やすしは止まろうとしない。
「待ていうてるやろ」
ときよしは前に回った。
「2つ目の舞台全然アカンかった」
「なにをいうとんねん。
客、ドッカンドッカン笑うとったやないか」
「酒でロレツ回らんとな、舞台なんかできるかいな」
「そんなことか。
あれくらいの酒なんともあらへんわ」
やすしはいい捨て、歩き出した。
しかしこういうのがきよしには許せない。
「待て」
追いかけて肩をつかんで振り向かせ、顔を殴った。
2人は取っ組み合いの殴り合いを始めた。
その後も本番が終わる度、必ずといっていいほど舞台袖でアドリブや間のことなどでケンカ。
殴り合いに発展することもあったが、先に手を出すのは必ず西川きよしだった。

しかし周囲はそれを決して止めない。
それは劇場を何よりも大事に考える吉本のルールだった。
「我々は終生、製造メーカーに徹しないといけない。
新製品を次々と世に送り出す。
劇場はそのためのショーウインド、ショールーム。
テレビは芸の出来高を発表するメディア。
劇場で鍛えられたタレントの息は長い。
消耗品になりたくなければ舞台で腕を磨きなさい。
芸のないお方は淘汰されてしかるべきでしょう。
芸の修理が利くのは舞台。
舞台では笑いの値打ちがすぐに計算できる。
ウケなかったらどこが悪いか研究し直して次の舞台で修正すればよろし。
テレビはそれができん。
だから吉本は劇場を大事にするんです。
漫才でもウケないと舞台を降りてからどつき合いのケンカをしてます。
それでも周囲が仲裁に入ってはいけません。
死なん程度にトコトンやらせればいい。
それが吉本の芸人訓練法ですな」
(林裕章、創業者一族の林正之助の娘と結婚し吉本に入社し、最終的に会長となった)


1967年4月5日、横山やすし・西川きよしは上方漫才退床新人賞を受賞した。
そのときの横山やすしは
「勝負はやっぱり勝たなアカンよ」
とコメント。
その後も賞を総ナメにしていった。
横山やすし・西川きよしは売れっ子芸人に仲間入りし、TVの仕事もドンドン増えて寝る暇もないほどの忙しさになった。
9月27日、西川きよしとヘレンが周囲の反対を押し切って結婚。
「トンビが揚げをさらった」
といわれた。

「白黒つかん勝負は好かん」
というやすしはスポーツなら個人競技派。
野球は基本的に嫌いだが高校球児の情熱は好き。
プロ野球は
「金がからんどる」
と大嫌い。
そして自身、
「マラソンの練習や」
といって毎日、走った。
家から花月までマラソン通勤したり、テレビ、ラジオと忙しい合間もストイックに走り続けるやすしの目標は
「フルマラソンの国際大会出場」
あるとき高速道路の出口手前で渋滞に巻き込まれ
「走ろう」
といって現場に向かってきよしと一緒に走ったこともあった。

1968年、
「大卒者が社会に出る歳までに家を建ててやる」
そう思っていた西川きよしは、22歳になる前に自分の家を建てた。
この後も収入が増えるに従って次から次へ大きな家に引っ越していったが、ずっと坂田利夫はついてきた。
「だんだんだんだん売れて収入が、少しのお金が、大きい幸せになってくれるんですよ」
という西川きよしだが、仕事を終えて家に帰ると坂田利夫が待っている。
「キー坊、まあ一杯飲め」
「アホか、俺の酒や」
「なに怒ってんねんな。
まあ座れ」
「俺の家や!」
「キー坊、なんか最近、家が狭くなってきたなあ」
「お前がおるからやろ!!」
西川きよしはついに目をむいた。

順調に愛と幸せを育んでいく西川きよし。
一方、横山やすしは、売れれば売れるほど、なぜか怒りっぽくなっていった。
売れなかった頃に冷たかった人間が手のひらを返したように近寄ってくる様をみて
「なれなれしゅうすな、ドアホッ!」
と思っていたのだ。
当たり前のことかもしれないが、やすしはこういうことが許せなかった。
1969年4月、きよしがマイホームを建てた翌年、やすしは澄子と住之江競艇上のボートの上で結婚式を挙げた。
7ヵ月後、やすしの長男、一八が、その4ヵ月後には、きよしの次男、弘志が生まれ、2人は同級生として仲良く育った。
一八は西川家に泊まりにいったとき、家族全員が同じパジャマ、そして健康のためにノーパンで寝ているのに驚いた。
しかもパジャマは囚人服で、みんな頭におそろいの帽子までかぶっていた。
一八もそれを着さされ、スースーとノーパンを初体験した。


1970年12月2日深夜、TV局での仕事が終わった横山やすしは、友人と酒を飲んだ後、家に向かって高速道路を運転していた。
すると追い越し車線から前に入ってきたタクシーが接触した上、そのまま走っていく。
「オドレ、待たんかい!」
怒るやすしはパッシングとクラクションを連発させながら追走。
下道におりて停まったタクシーに歩み寄った。
「コラァ」
出てきた運転手もケンカ腰で相手をにらんだが、横山やすしだとわかった途端、
「アンタ、横山さん?
TVに出てる横山やすしさんとちゃう?」
と態度を軟化。
しかしやすしはこういうのが1番嫌い。
「やすしやったらどやっちゅうねん。
人と人が話してんねやろが!
芸能人なんか関係あらへんわ!」
すると売り言葉に買い言葉で相手も激昂。
口論が続き、やがてウンザリしたやすしは財布からお金を取り出し
「もうこれでええやろ」
「フンッやっぱり自分が悪いんやないか」
これで限界。
「なんやとコラァ」
やすしは運転手をボコボコにしてしまった。

一般人なら単なる傷害事件だが、横山やすしがやったとなると新聞の一面に載る大事件。
その見出しは
「酔って『正義やでぇ』」
その衝撃は日本中をかけ抜け、やすしは激しい非難の嵐を浴びた。
全番組降板、無期限謹慎処分となった上、連日、マスコミに追いかけられた。
「こういう事件を起こすとは想像もできませんでした。
口ではいいますけど手を出すってことは想像できませんでした」
という西川きよしは裁判を傍聴。
判決は懲役3ヵ月、執行猶予2年。
「なんでこんなにイジメられななアカンのや」
やすしは悔しくて悔しくて仕方がない。
「申し訳ない」
と思うのは運転手に対してではなく相方。
「コンビ解消されてもいかしかたない」
と覚悟。
しかし西川きよしは
「心配せんでも帰ってくるまで待つがな」
といった。

謹慎生活が始まると3ヵ月後に行われる別府大分毎日マラソンを目指し、練習に打ち込んだ。
そして同大会4連覇、東京オリンピックにも出場しクラレ(倉敷レイヨン)の監督をしていた寺沢徹に、練習に参加させてほしいと手紙を書き、鳥羽市で合宿していたクラレ陸上部と合流した。
「夕方から新人の選手と2人で『軽い練習』といわれたが、冗談、冗談、エラいキツい練習やった。
その夜初めて初めて選手の合宿の雰囲気に触れ、和やかなムードに酔ってしまい、ついでに酒にも酔ってしまった。
翌朝、朝食前に昨日の選手と谷村選手と俺と3人で準備運動の後、海岸通りを走った。
走り出したときは2人に合わせてしゃべっていたが、2、3km走るにつれてしゃべっていると足がついてこない。
自然と黙りこむと、すかさず谷村選手が話しかけてくるのはしんどかった。
さすがにこの人たちはよく走ると思った」
「寺沢さんがビールを注いでくれはったので頂戴しながら話を聞いていると、ランナーとして1番大切なことは走ることなのだそうである。
1に走り、2に走り、3に走ると、4に勝つといった風に話の内容を俺は俺なりに解釈していた。
とにかく勝つためには走る以外には手法はない」
その後もやすしは黙々と走り続けた。

12月30日、鳥羽での練習を終えて大阪に戻ると日本陸連から郵便が届いており
「別府大分毎日マラソン出場停止」
と書かれてあった。
理由は傷害事件。
やすしはその文字の上に赤マジックで
「絶対に勝ってやる」
と書いた。
しかし走ることはやめてしまった。


やすしは身なりをビシッと決めて、毎晩、夜の街を濶歩。
高級クラブで高い酒を浴びるように飲み、強いようにみせていたが実は弱いやすしはトイレで吐いた。
「タバコは吸うてエエもんと違う。
吸うんやったら女の乳でも吸うとけ」
というやすしはタバコも嫌い。
自分が吸わないだけでなく楽屋や店で吸われると取り上げて消して
「吸うな!」
と一喝。
それでトラブルになることもあった。
反面、事前に吸っていいかと聞かれると
「構へんよ」
と答えた。
ギャンブルも嫌いで、競艇で舟券を数十~百万円買うこともあったが、それはひいきの選手に対する応援、祝儀。
ついでに浮気はするが風俗は嫌い。
仕事の仲間が店に入っていっても、やすしだけは入らなかった。

1971年10月、やすしの嫁、澄子が、3歳の息子、一八と娘、雅美を連れて静岡県の実家に帰った。
そして25歳の澄子は水商売をやりはじめたが、以後、7年間、実家や親せきの家を転々とし、子供も転校を繰り返した。
やすしは
「ワシは漫才で負けたわけやない。
そやから仕事がのうてもA級漫才師の生活は維持せなアカン。
これは見栄やツッパリやない」
と落ち目になったとか、貧乏になったといわれるのがイヤで借金してでも豪勢に遊び続けた。
本心では気が気でなかったが
「今に見返したる」
「ワイは負けん」
「潰されんぞ」
と歯を食いしばって耐えていた。
一方、きよしは1人仕事を続けていた。
そしてメキメキと腕を上げ、ピンで週11本の番組を持つ超売れっ子となった。

1973年3月13日、事件から2年4ヵ月、横山やすしが、そしてやすきよが復活。
事件もネタにして、ヤンチャなヤッさん、マジメなキー坊は爆笑を起こしまくった。
「今もう一度振り返ってみて思うことは、芸能人という肩書で一時は世間に潰されたものの俺の人生にとっては強靭な試練を与えてくれたことに、俺は世間にあえて感謝してやる。
ガキの時分から負けることを知らない俺が負ける相手は息子と娘しかいないのだ」
と横山やすしは強気で肯定的な姿勢を崩さなかった。
一方、西川きよしもピンで経験を積んだため、ツッコミに加えボケもできるようになっていた。
両方がボケとツッコミができる横山やすし・西川きよしは、
「漫才の革命」
といわれ最強の時代を迎えた。

1976年1月15日、明石家さんまが、月~金、深夜に放送されていた人気番組「11PM」に出演。
20歳になったさんまは、これがTV初出演。
放送5日前の1月10日は成人式で、男女30名の20歳の芸人が出演する「20歳の成熟度ピンクテスト」というコーナーで15名ずつ左右にわかれて座った。
前列中央のさんまは、他の落語家はみんな着物を着ているのに、少しでも目立とうと真っ赤なスーツ、ストライプのシャツ、黒のネクタイ。
司会は、藤本義一。
アシスタントは、海原千里、万里。
コメンテーターは、横山やすし、露乃五郎(落語家)、窪園千枝子(歌手、女優、性評論家)
若手芸人たちはスイッチを持って出題される性に関するアンケートに回答していった。
さんまは物怖じすることなくスキあらばしゃべり、質問が出れば真っ先に挙手、マイクを向けられると自らの性生活を明かした。
『性技の48手以外の技は?』
「逆さ十字落とし」
『それはどんな技なの?』
「女性を逆さに持ち上げまして、そのままベッドに落とすんですわ」
でドカーンとウケたところでCMに入った。
すると藤本義一が
「君、名前なんていうねん」
さんまはホメてもらえると思いながら
「あっさんまです」
と答えたが
「サンマかイワシか知らんけどな、テレビでいうてええことと悪いことがあるんや。
それくらい覚えてから出て来い!」
といわれ、盛り上がっていた現場はシーンとなった。
そしてCM明け、藤本義一がいった。
「それにしても君はしゃべるな。
名前はなんていうの?」
「明石家さんまです」
「師匠は誰?」
ここで横山やすしが割って入った。
「松之助師匠とこの弟子ですわ」
「ああそうか、松っちゃんとこの弟子かいな。
それならしゃーないわ」

生放送が終わり、さんまが控え室で帰り支度をしていると、突然、白いマリンキャップをかぶった横山やすしが入ってきた。
「おう、さんま君」
「はい」
「自分、吉本やな?」
「はい」
「そうか、飲みに行こう」
「あっ、はい。
よろしくお願いします」
「気に入った。
話が早い。
さすが松っちゃん師匠とこの弟子や。
お前らも来い。
連れてったる」
横山やすし、さんま、数人の芸人は2台のタクシーに分乗。
途中、機嫌がよかった横山やすしの表情がみるみる険しくなった。
「視界不良や」
といって後部座席から助手席のヘッドレストを取り外させ、
「オイ、コラ、運転手。
なにチンタラ走っとんねん。
ワシは吉本を担う若手を乗しとんねん。
恥かかすな、アホンダラ」
「アクセルはふかすためについとんねん。
ふかせ!ふかせ!
「さっさと前の車追い抜かんかい、アホンダラが」
「歩道を走れ、歩道を!」
と運転手を急かし続けた。
そして目的の居酒屋に着いて飲み始めると再び上機嫌に。
次々と注文し、さんまたちは急き立てられながら必死に食べて飲んだ。
「芸人として生きていくんやったら勝たなアカン。
負けたらしまいや。
とりあえず勝て。
評判は気にするな。
行くときは行かなアカン。
ハイペースで生きろ。
マイペースはアカン。
どんどんペースが落ちる。
スピードは落とすなよ。
腹くくっていけ」
横山やすしの話の大半は勝負論、そして精神論。
それが終わると競艇の話に移行。
店も変わり、他の若手芸人がグロッキーになっていく中、さんまだけが
「カッコよろしいなあ!」
と大きなリアクションで熱心に話を聞いた。
「気に入った!
お前はワシに似とる。
インからグッといくタイプや。
アウトからチンタラまくるタイプちゃう。
芸人はインからガーッといかなアカン。
よっしゃ、今からワシの家行こう。
アウトの連中はサッサと帰りさらせ」

こうして他の芸人は帰らされ、さんまだけが横山やすしの自宅へ。
「さんま君。
今からモーターボートのエンジン音聞かしたるさかい、よう聞いとけよ」
さんまはヘッドホンを手渡され、各メーカーのエンジン音を正確に聞き分けられるようになるまで、何度も何度も繰り返し聞かされた。
「ドヤッ、違いがわかってきたやろ。
モーターボートは奥が深いいんや。
また聞かせたるさかい、今日はもう帰れ。
ワシはもう寝る」
「やすし師匠、今日はいろいろありがとうございました」
「オッ、ほんだらな。
グッドラック!
はよ行け」
横山やすしの家を出たのは朝の6時。
衝撃と波乱に満ちたテレビデビュー日となった。
後日、さんまは
「飲みに連れていってもらったというより市中引き回しの刑に遭うた」
といって笑わせたが、160cm、42kgと華奢な横山やすしから圧倒的なオーラを感じていた。

また明石家さんまの先輩、鶴瓶は、深夜番組の罰ゲームでやすしの家にイタズラ電話をかけさせられ
「明日の南海電車の始発の時間を教えてくれませんか?」
と聞き
「お前誰や!!
横山やすしと知っての狼藉か!」
と激怒され、すぐに電話を切った。
さんまの同期、オール巨人のモットーは、
「芸人は、清く正しく面白く」
だが、ある生放送番組で、やすしが海外で車を現地の邦人に費用を立て替えてもらって買って、まだ支払っていないという話をした。
それをみていたやすしはTV局に電話。
番組スタッフがスタジオにつなぐと
「コラッ巨人!。
俺、ちゃんと金払っとるんじゃい!コラッ!
みてもないのに偉そうに抜かしやがってアホんだら!カス!」
とまくしたてた。
「すみません」
番組では大先輩の顔を立て巨人だったが、後日、やすしに会ったとき
「師匠、ホンマは払ってはりませんやん。
今度あんなことあったら『メガネ外せ!』いいますからね」
とクギを刺した。
すると
「おらっ!巨人」
だったやすしが、以降、
「巨人君」
「巨人ちゃん」
と呼ぶようになった。


1977年4月、横山やすし・西川きよしは、2度目の上方漫才大賞を受賞。
1979年10月、日曜日21時に放送されていた関西テレビ「花王名人劇場」内に「おかしなおかしな漫才同窓会」というコーナーができ、新旧の漫才師が競演。
すると13~16%という異例の高視聴率となった。
同年、横山やすし・西川きよしは上方お笑い大賞を受賞。
またやすしは10歳の息子、一八、妹の雅美を引き取り、2人目の嫁、啓子と3人で暮らし始めた。
やすしもボンボンだったが、啓子も実家が由緒ある神社で鉄工所も経営していたので、大卒の初任給が1万2千円だった時代に5万円のお小遣いをもらっていたお嬢さん。
ピーク時は
「30分の漫才で2人で1500万円」
というやすしは、なにかあれば数千万円をお金を使い、足りなくなると啓子の実家から千万円単位で借りた。
そんな年間、数億あった収入よりも多く使ってしまうドンブリ勘定夫婦だったが、一八は、夜中、家に着くとカギを持っているのに
「啓子っ!啓子っ!」
と大声で叫んで嫁を起して玄関を開けて出迎えさせる父親を目撃した。

1980年1月、「花王名人劇場」は、「激突!漫才新幹線」というコーナーで、横山やすし・西川やすし、星セント・ルイス、B&Bという関東と関西の人気漫才師を競演させ、18%超え。
4月、横山やすし・西川きよしは3度目の上方漫才大賞
「花王名人劇場」の成功をみて各局が新しいバラエティー番組を製作。
どのチャンネルを回しても漫才がみられるようになった。
同月、「THE MANZAI」が放送されると空前の漫才ブームが勃発した。
フジテレビの横澤彪プロデューサーと佐藤義和ディレクターらがつくる「THE MANZAI」は革新的だった。
放送は3ヵ月に1度。
毎回数組の漫才コンビが漫才を披露するというシンプルな内容ながら、フジテレビの第10スタジオに豪華でポップなセットを組んで、大学生を中心に客を入れ、古臭いイメージを一掃。
漫才の前には必ずショートPRムービー、そして登場時の出囃子はフランク・シナトラの「When You're Smiling(君が微笑めば)」。
横山やすし・きよし、中田カウス・ボタン、星セント・ルイス、ツービート、B&B、ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シロー、オール阪神・巨人、島田紳助・松本竜介など出演順は抽選で決まり、楽屋には緊張感が漂い、舞台では真剣勝負が行われた。
「ライバルは?」
と聞かれた横山やすしは
「相方やね」
と答えた。
このとき横山やすしは36歳。
ビートたけしと西川きよしは34歳。
漫才ブームの後に「笑っていいとも!」でブレイクを果たすタモリは35歳だった。
1980年10月19日、啓子が「光」を出産。
やすしは一八を
「おう、長男」
雅美を
「長女」
光も
「長女」
と呼んだ。


1980年12月11日、横山やすし・西川きよしは文化庁の芸術祭優勝賞を受賞。
名実、共に日本一に漫才師となった。
「ファンは今だけだけのファン。
俺にはファンは不安や」
西川きよしはそういいながら、子供からお年寄りまで愛されようと努力し続け、城のような家を建てた。
一方、
「信じられるのは己だけ」
というやすしの家は50坪。
摂津市一津屋、淀川の堤防沿いの建て売り住宅。
表札には大きく「木村」、そしてその左下に小さく「横山やすし」と書かれてあるが、ごくごく普通の簡素な住まいだった。
やすしは収入が増えても食べるものも着るものも変わらず、付き合う人間が名士になるなどの変化もしなかった。
この淀川から300mの家を選んだ理由はボート。
吉本に
「節税のために個人事務所を持った方がいいですよ」
といわれても
「節税は脱税」
といって聞かなかったやすしは、代わりに淀川にボートの練習場をつくった。
マリーナ、競艇用ボート、ターンマーク、計測用の時計を置き、そしてボートチームもつくって、メンテナンス、遠征などに数千万円を使った。
そして摂津から道頓堀の戎橋までボート通勤。
淀川を管轄する摂津市は見て見ぬふり。


落語家の林家木久扇もやすしが気が合った1人だった。
番組でやすしと一緒になって電話番号を交換。
それから何日も経たないうちに、夜、電話がかかってきた。
「もしもし。
ワイや。
横山やすしや。
テレビの収録が終わったから、これから六本木に飲みに行くで。
出てこんかい」
「すいません。
明日も朝、早いので」
「なにいうとんのや。
芸人が夜遊ばんでどないするんや。
ええから来い」
それでも木久扇は丁重に断わり続け、やっと電話を切った。
「やれやれ」
しかし1時間後、家の前でタクシーが停まり、
「ここや、ここ」
という大きな声が聞こえたので居留守を決めた。
やすしは
「コラッ、おるんやろ。
出てこんかい」
と叫び、物干しざおで雨戸を叩き始めた。
「コラッ、顔みせんかい」
近所迷惑も考え木久扇が仕方なく窓から顔を出すと
「おるやないか、コラ!
下りてこいや!。
六本木に行くで」
と待たせていたタクシーで、そのまま六本木に連れていかれた。
店に入るとニコニコして飲んでいたのに突然
「コラッ、なんやお前」
「コラッ、貧乏人」
と隣りの客を蹴り始めたので
「すいません、すいません」
とひたすら謝った。
「ひどい目に遭わされ、お金まで払ってあげて、そういう状況も含めて面白かった
行動も発想も放つオーラも独特だった。
いつ何が起こるか、どこでどんな反応をするかわからない。
常識をまったく気にしない。
わざと型破りを演じていたわけでもなく自然体だったんです。
常に自分の気持ちに正直に行動して、人生を目いっぱい楽しんだんじゃないでしょうか」


一八は小学校高学年の頃、やすしにクラブに連れていかれ、オレンジジュースを飲みながら父親がいい匂いがする女性とイチャつくのをみていた。
やがて眠くなりアクビをすると
「長男、ホテルに帰れ」
といわれタクシーでホテルへ帰って寝ていた。
深夜、目が覚めると背後でベッドがきしむ音と
「こ、どもに、聞こえる」
「大丈夫や」
という声が聞こえた。
起きていることがバレないようジッとし、押し殺すような女性の喘ぎ声を聞き続けた。
またやすしは1度、東京のホテルで愛人といるところを嫁、啓子に踏み込まれたことがあった。
娘の光を伴って現れた啓子は愛人とケンカを始め、やすしは
「光、危ないから隠れとこ。
後は2人で決めてくれ」
といって娘とバスルームへ逃げた。

横山やすしの長男、一八と西川きよしの次男、弘志は、
「お前らが来たらみんなお年玉あげなあかんから禁止」
といわれていたが、
「どうなるんやろう}
と正月のなんば花月に潜入。
普通に公演を観に行ていたが、いろいろな人から声をかけられ、そして1人、86万円ずつもらった。
そして一八は預金口座をつくってもらい、弘志は全額没収された。
一八は中学校卒業後に芸能界入り。
所属は吉本興業で、TVドラマ「毎度おさわがせします」の主役に抜擢され、中山美穂と共演。
一躍、人気者となった。

ボートにのめりこむやすしは、仕事に遅刻したり休んだりすることが増えた。
マネージャーが仕事をとってくると、基本的にやすしは2つ返事でOK。
一方、きよしは、ギャラは?、待遇は?、内容は?と細かく聞いた。
しかし1度約束すればきよしは必ず仕事場にやって来たが、やすしはボートのために現場に来ないということが普通にあった。
やすしが酒を飲んで現れたり 遅刻してくるときよしは怒り、ときには殴った。
「こわいやすし師匠が殴られているところを直視できなかった」
(島田紳助)
「一緒の出番のとき、やすし師匠がエラい遅れてきて、いつもキレイなオールバックが全部前になってて・・・
きよし師匠にワァーいわれて『キー坊、違うがな、違うがな』いうて」
(松本人志)
その怒りで若手を驚かせていた西川きよしだったが、実はさみしさを感じていた。
「どっちが大事いうたら漫才よりボートという時期が何年かあったんですよ。
堂々とそれをおっしゃるときに、僕はせやない、それは違ゃうでと思うんだけど、先輩がいうてるわけですしやすしさんがいうてるわけですから・・・
とやかくいえる筋合いのもんではないわけですよ」
やすしは、いつもギリギリに現場入りし、2日酔いで来ることも多かった。
結果、横山やすし・西川きよしは、舞台袖で簡単な打合をするだけでライトの下に駆け込んだ。
ハタ目には面白い漫才でも、西川きよしには
(遅れたで)
(間が違うで)
(ツッコミわいな)
と不満だらけ。
このような状態が続くうち、お互い、ピンの仕事が増え、漫才をする機会は減っていった。


日本テレビ「久米宏のTVスクランブル」が開始。
毎週、日曜21時、旬の話題を取り上げスタジオのパーソナリティがコメントする生放送番組。
NHKの大河ドラマが裏という番組に久米の相手役として、久米自身の強い希望で横山やすしが起用された。
選挙特番中にくしゃみをして、スタジオの観客に
「鼻かみ(ティッシュペーパー)持ってないか」
と話しかけ、久米は
「生放送中なんだからティッシュペーパーなんか取りに行かないで!!
誰かティッシュあげて下さい!!」
と声を荒らげた。
ゲストの国会議員に対し
「あほんだら」
と放送禁止用語を含めて口撃。
批判を浴びると次の回は
「×」
を大きく書いたマスクをつけて出演し
「今日は黙秘権」
といったきり、発言拒否。
酒に酔った状態で出演したり、悪態をついたり、本番中に勝手にトイレにいったり、寝てしまったり、番組終了を待たずにスタジオからいなくなったりもした。
しかしやすしの毒舌と本音トークは大ウケ。
「本音のやすし」
とフューチャーされた。


学校から帰ってきた中2の一八は、父親に
「ちょっとアメリカいくぞ」
といわれた。
「いつ?」
「これからや」
「えっ」
「アメリカで飛行機買うんや
お父さんが飛行機買うところ、お前が見届けろ」
やすしは息子を拉致し、銀行で7000万円を下ろし、着替えも持たずにアメリカへ。
「ナンボや」
「キャッシュで払うんやで」
「コストダウン・プリーズ」
大阪弁とジェスチャー、英単語で交渉し、セスナ機を1500万円値切って5500万円で購入。

そのセスナ機は、日本だと1億円を超える代物だったが、維持費もすごかった。
燃料は、通常のガソリンより品質も値段も高い航空ガソリンで、1時間のフライトで1万円。
八尾空港に置いておく駐機料金が、月12~15万円。
50時間に1回の定期検査、年1回の耐空検査がそれぞれ80~120万円。
年1回の無線検査が約15万円。
着陸料、停留料が1千円。
これに任意保険、そしてパイロットの資格を持っていないやすしは、パイロットを雇って副操縦士として操縦席に座ったためにパイロット代もかかった。
1983年1月1日、娘の名をとって「激昂」ではなく「月光」と名づけられたセスナに家族全員を乗せ、富士山を目指し、
「こんな初日の出、普通の人はできへんど」
といった。
またあるときは
「これで相方の家見下ろしたるねん」
「死ぬときはこれで落ちたるねん。
要するに空飛ぶ棺桶やがな」
といって笑わせた。


1982年、吉本は弟子制度をやめて芸人の養成学校、NSCをつくった。
同年放送された「ザ・テレビ演芸」は、若手が芸を披露するコンテスト番組。
審査員は、大島渚、糸井重里、高信太郎。
司会は横山やすしだったが、気に入らないと
「収録やめ」
といい延々と説教を始める。
それは1時間や2時間になることもあった。
NSC第1期生のダウンタウンも「ライト兄弟」という芸名、「殺したい家族」という漫才で出演。
「お笑いには良質な笑いと悪質な笑いがあるんや。
お前らのは悪質や」
「ライト兄弟やと?
航空ファンに迷惑かけるような名前つけるな。
どアホ」
と1時間半説教されてキツい洗礼を受けた。
ハイヒールのリンゴは、同じく1期生としてNSCに入学したもの父親の猛反対を受けていた。
その父親が空港で横山やすしと遭遇。
「やすきよが1番偉い」
と思っていた父親は
「ウチの娘が吉本に入ったんや。
辞めさせてくれ」
と直訴。
次の日、リンゴは
「ハイヒールってどいつや。
知らんがな」
といわれた。


ほとんど弟子を取らないきよしとは対照的に、やすしは生涯20数人も弟子をとった。
口癖は
「やるからには1番にならなアカン」
でほんの一瞬でもミスや失態をすれば鉄拳や蹴りが飛び、同じミスを犯せば即刻破門という超スパルタ教育。
ミスといっても
「ああじゃこうじゃいわんとな、3000ccなんやからふかせ。
600や700cに負けるな、アホンダラ」
と公道でレーサー運転を要求するなど基準が理不尽なことも多かった。
やすし家の2階に住み込んでいた弟子が階段を下りて戸を開け
「師匠、お時間です」
というと
「アホンダ、階段くらい静かに降りぃ!」
と怒られ、次の日、ソーッと下りて
「お時間です」
というと嫁と真っ最中で
「アホ、音出さんかい!」
と怒られた。
結局、その世界で生き残った弟子は3人。
佐野隆仁は競艇の弟子(日本モーターボート選手会専務理事を2期4年間を務めた)
「1万発くらいはドツかれました」
「阪神高速で車から降ろされて置き去りにされた」
「てっちり屋の2階の窓から屋外に蹴落とされた」
という横山たかし・ひろしは、親の虐待から子供が保護されるように周囲の計らいで吉本から松竹へと円満移籍。

やすしにとって放送がある日曜日はボートレースに参加する日で、「久米宏のTVスクランブル」は、生放送開始直前に東京のスタジオ入り。
レース中の事故で歯を折って顔を腫らせて出演したこともあったが、穴をあけたことは1度もなかった。
しかし1984年8月19日、初めて番組を欠席。
表向きの理由は
「過労と肝臓病によるダウン」
とされたが前夜から飲酒し知人宅で寝てしまっていた。
さらに3ヵ月後の1984年11月11日には無断で番組を欠席してしまう。
後に
「渋滞が原因で飛行機に乗り遅れた」
と発表されたが、この1件で「久米宏のTVスクランブル」は降板。
吉本からもタクシー運転手暴行事件以来、2度目の無期限謹慎処分を下されてしまった。
トラブルを起こし続けたため、ヤンチャ、破天荒を、本音のやすしを超えて、
「無茶苦茶」
いうイメージが定着しつつあった。


1986年3月24日、
「高校しか出てない人間が一生懸命やったらどれくらいのことができるか、またどれくらいのことしかできんか、やってんみたいです」
と西川きよしが涙ながらに参院選へ出馬を表明。
きよしにしてみれば、世間でトラブルを起こし続け、酔った状態でTVに出て、その上、生放送の番組で穴をあけたやすしに見切りをつけたのかもしれない。
一方、やすしには相方がなぜ政治家を目指すのか、わからない。
周囲には
「キー坊が選挙通ったら、ワシもなんか1番とらなあかんな」
といいつつ
「アイツが選挙に通ったら、ワシ、置いてけぼりにされてさみしい」
という気持ちがあり、もっといえば
「裏切り」
だった。
4月、やすしは吐血し緊急入院。
5月13日、西川きよし後援会事務所開きに、吉本興業の林正之助会長をはじめ数々の芸人仲間が訪れたが、やすしは現れなかった。
別の場所で
『選挙応援には出るんでしょ?』
記者に問われたやすしは
「いや、それはできん。
せんつもりや」
と答えた。
『それはまたなんで?』
「どういうことかいうたらね。
あのね、まあコンビが夫婦やったら師弟関係は親子や。
なっ?!
俺の師匠の親いうのはノックや。
俺の、まあ女房いうたらキー坊や。
ところが嫁助けたら今度は親が立たずや。
だからワシは応援せん」
と横山ノックは西川きよしの対立候補、中村鋭一を応援していることを理由に応援できないと語った。

選挙事務所が開いて3日後の16日、埼玉県で仕事があったやすしは、夜、東京の赤坂東急ホテルに帰った。
そして23時、吉本の社員に呼ばれ、ホテル内の24時間営業のコーヒーハウスに入り
「明日、大阪に行ってきよしさんの事務所に顔を出して挨拶してほしい」
といわれた。
翌日は選挙の公示日だった。
世間ではコンビ別れが囁かれており、それは選挙的にも、やすきよという吉本の大看板的にも大きなマイナスだった。
社員はそういったネガティブなイメージを払しょくするには
「明日しかない」
と思い
「応援にはいかない」
というやすしを説得にかかった。
「また後々、漫才やるときのために!」
「ここでいっとかないと禍根を残して2人が一緒にやることが永遠にできなくなりますよ」
夜中3時まで説得を受けたやすしは、朝1番の飛行機に乗って大阪の西川きよしの選挙事務所へ。
17日、やすしは7時の飛行機に乗って8時に大阪に着いて、9時に選挙事務所入り。
出陣式が行われる事務所は活気に満ちていたが、やすしだけはムカつき顔で黒いオーラを発していた。
そして
「みなさま、お集まりいただいてありがとうございます。
えーっ、まあ、相方よりも、嫁さんを泣かさんように1票を入れてやって欲しい。
そういうことで、一つよろしくお願いします」
と挨拶。
お立ち台から降りたやすしに後ろで控えていた西川きよしは
「お疲れさん、ありがとう」
と深々と頭を下げた。
しかしやすしは目も合わせようとせず無視。
マイクだけをつき返し、歩き出した。
きよしは下げた頭を回転させ、その背中を目で追った。
その表情は怒りに満ちていた。
控え室に戻ったやすしは
「エラい短い挨拶やったな」
と桂三枝にいわれると一気に笑顔になり、饒舌にしゃべり始めた。
結局、吉本社員の思惑は外れた。
2人の間に溝があることは明白だった。

3ヵ月後の1986年6月19日、徳山青年会議所の「横山やすし 本音で語る 言いたい放題」と題された講演で、やすしは登壇した直後、客に大声で
『西川きよしさんは当選しますか?』
と聞かれ
「落ちる」
と即答。
笑いをとった。
果たして7月7日、西川きよしは当選。
7月12日、当選直後のTV番組の収録で2人は4ヵ月ぶりに共演。
「よかったよかった、おめでとう」
やすしは手を差し伸べて握手。
アナウンサーを交え3人でのトークは最初はいい雰囲気だった。
が、きよしが
「西川きよしに投票するヤツはアホやみたいな発言があったときは、ハッキリいって20年間ってなんだったのかというさみしさは、そらありました」
とこぼすとやすしは眉間にしわを寄せた。
「ワシもそら半々の気持ちでね。
まっ、通ってもエエなあ、落ちてもエエなあ。
落ちたほうが1番漫才を維持しやすいわね」
不穏な空気を感じたアナウンサーがあわてて
『なるほど!
でもそういう機会が少なくなるけれども、その少ない中で・・・』
ととりなそうとすると、しかさずきよしもそれに呼応。
「僕は漫才を・・・・」
『やりたい?』
「やりたいし、してもらいたい、また力を貸してもらいたい!」
そういってアナウンサーときよしはうなづき合った。
しかしやすしは
「いや俺はね、キー坊には悪いけどね、俺は他人のために漫才はやせえへんよ」
といって穏便に収まりかけた空気をブチ壊した。

それはコンビ結成20年目の夏のことだった。
漫才コンビは、家族でも、夫婦でも、お金でもない不思議な関係。
かつてひたすら練習し、ドつき合い、ののしり合いながら日本一を目指して走り続けた横山やすし・西川きよしは、こうして終わった。
「舞台の上では相棒の左半分の唇だけがみえるわけです。
その唇をみながら、鼻の先っちょあたりをみながらだいたいわかりますもん。
舞台の上での23年間、やすしさんのほとんど顔の左側だけをみて、そして舞台の上でも芸のことばっかり、実は考えているということではやっぱりないんです。
たまに間が空いて、お客さんがド~ッと波打って笑っていただいたときに、次のことはもちろん考えてますけれども、笑っていただいているときにホッと目を合ったときには一瞬ですけど、本名の自分たちに帰るときがあるんですよ。
一瞬、パッと『ようウケてんな』っていうやすしさんの顔みながら『長いことやってきてよかったなあ』とか『これからも頑張ろうぜ』とか、あるときは『エラいスケジュールやなあ、たまには休みたいなあ』いうのとか、いろんなことがこう、瞬時にしてパッッパッパッといろんな火花が散るんです。
戦いに火花やのうて愛情の火花が散ったんです」
(西川きよし)


「ノックときよしが漫才を二の次にして政治家としての道を選んだことに、強い失望感を持ったのではないか」
(上岡龍太郎)
「あれで横山さんの歯車が狂ってしまったと思う」
(やすしのマネージャー、松岡由里子)
その後、やすしは石が転がるように転落していった。
1987年12月、日本テレビ「スター爆笑Q&A」に酔ったまま出演し、司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切ってゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかった。
舞台裏でマネージャー(松岡由里子)にビンタされて同番組を降板。
「俺、わがままか」
と聞かれた松岡由里子は
「わがままですよ」
と答えると、やすしは
「俺はこれでしか自分をはかれへんのや」
といった。
1988年10月、2日酔いを理由に毎日放送「三枝やすし興奮テレビ」の出演を直前にキャンセルしたために降板。
1988年11月25日、俳優として順風満帆だった19歳の一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こして逮捕。
吉本は一八との契約を解消。
出演中のTVドラマ「疑惑の家族」「はぐれ刑事純情派」も降板。
一八は少年院送りになり、被害者への多額の損害賠償は吉本が肩代わりし、やすしは自ら無期限謹慎を申し出た。

やすしは4ヵ月の謹慎後、1989年3月、きよし司会の毎日放送「すてきな出逢い いい朝8時にゲスト出演。
「今度こそ心を入れ替えてがんばりや。
みんなに見捨てられるで」
といわれ、
「今度こそ心を入れ替えて頑張ります」
と宣言。
1989年4月15日、横山やすし・西川きよしが2人で「MAGMA30」で司会。
その2日後、1989年4月17日、やすしはラジオ大阪「入川保則の日産さわやか文庫」にゲスト出演した後、酒気帯び運転でバイクと人身事故を起こし、相手の男性に軽傷を負わせた。
事故直後の会見で
「決してわざわざ事故しようと思ってやったのと違いますので、ひとつ宜しくお願い致します」
と語るやすしをみて、ついに吉本は専属芸能契約解除を決定。
事実上の解雇通告を受けたやすしは報道陣に
「やめる。
もう漫才やめる」
と嗚咽しながら話した。

その後もさみしがり屋のやすしは、よく自宅に仲間を集めた。
基本的にやすしは鍋奉行。
それも具は入れる順番から場所まで取り仕切り、おツユが飛べばティッシュをもって移動しふき取るなど、異常なほどマメに動く名奉行だった。
しかし酔ってくると奉行は暴君に。
「コラっお前ら
なにくっちゃんべってんねや」
「金がないなら気を遣え」
と私語もアクビも禁止。
腕時計をみれば外させて鍋に投入。
こうしてひとしきり騒いだ後、やすしが寝てしまうとお開きとなる。
さみしいくせに人を寄せつけないようなことをしてしまうやすし。
さみしさは年を追うごとにひどくなり、ご無体の数も増えていった。
啓子はNHKの集金のパートタイマーとして働き出し、光は、大きくなったときには父親が家にいたので、やすしの盛期を知らない。
しかし宮川大助・花子の長女、宮川さゆみ(1人っ子)と「さゆみ・ひかり」という漫才コンビを組むことになった。
人生は小説より奇っ怪であった。

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【歌謡曲】ありえないシチュエーション!歌詞がおもしろくて笑ってしまう歌謡曲5選!

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昭和の歌謡曲には、現代ではお蔵入りしてもおかしくないほど、ありえないシチュエーションを描いた詞が数多くあります。その中には、残酷な人物像や露骨な情景描写もあり、思わず笑ってしまうような歌詞もありました。今回は、筆者の独断と偏見で、歌詞がおもしろくて笑ってしまう歌謡曲を5曲ご紹介します。