「天下とったる」横山やすし vs 「小さなことからコツコツと」西川きよし 怒るでしかし!!

「天下とったる」横山やすし vs 「小さなことからコツコツと」西川きよし 怒るでしかし!!

1980年代に起こった漫才ブームの中で横山やすし・西川きよし、通称「やすきよ」は不動の王者だった 。実力派若手との共演、対決も多かったが「ライバルは?」と聞かれた横山やすしは「相方」と答えた。そして西川きよしは猛獣使いか調教師のごとき見事なムチさばきで荒ぶる相方と対峙した。



やすしは身なりをビシッと決めて、毎晩、夜の街を濶歩。
高級クラブで高い酒を浴びるように飲み、強いようにみせていたが実は弱いやすしはトイレで吐いた。
「タバコは吸うてエエもんと違う。
吸うんやったら女の乳でも吸うとけ」
というやすしはタバコも嫌い。
自分が吸わないだけでなく楽屋や店で吸われると取り上げて消して
「吸うな!」
と一喝。
それでトラブルになることもあった。
反面、事前に吸っていいかと聞かれると
「構へんよ」
と答えた。
ギャンブルも嫌いで、競艇で舟券を数十~百万円買うこともあったが、それはひいきの選手に対する応援、祝儀。
ついでに浮気はするが風俗は嫌い。
仕事の仲間が店に入っていっても、やすしだけは入らなかった。

1971年10月、やすしの嫁、澄子が、3歳の息子、一八と娘、雅美を連れて静岡県の実家に帰った。
そして25歳の澄子は水商売をやりはじめたが、以後、7年間、実家や親せきの家を転々とし、子供も転校を繰り返した。
やすしは
「ワシは漫才で負けたわけやない。
そやから仕事がのうてもA級漫才師の生活は維持せなアカン。
これは見栄やツッパリやない」
と落ち目になったとか、貧乏になったといわれるのがイヤで借金してでも豪勢に遊び続けた。
本心では気が気でなかったが
「今に見返したる」
「ワイは負けん」
「潰されんぞ」
と歯を食いしばって耐えていた。
一方、きよしは1人仕事を続けていた。
そしてメキメキと腕を上げ、ピンで週11本の番組を持つ超売れっ子となった。

1973年3月13日、事件から2年4ヵ月、横山やすしが、そしてやすきよが復活。
事件もネタにして、ヤンチャなヤッさん、マジメなキー坊は爆笑を起こしまくった。
「今もう一度振り返ってみて思うことは、芸能人という肩書で一時は世間に潰されたものの俺の人生にとっては強靭な試練を与えてくれたことに、俺は世間にあえて感謝してやる。
ガキの時分から負けることを知らない俺が負ける相手は息子と娘しかいないのだ」
と横山やすしは強気で肯定的な姿勢を崩さなかった。
一方、西川きよしもピンで経験を積んだため、ツッコミに加えボケもできるようになっていた。
両方がボケとツッコミができる横山やすし・西川きよしは、
「漫才の革命」
といわれ最強の時代を迎えた。

1976年1月15日、明石家さんまが、月~金、深夜に放送されていた人気番組「11PM」に出演。
20歳になったさんまは、これがTV初出演。
放送5日前の1月10日は成人式で、男女30名の20歳の芸人が出演する「20歳の成熟度ピンクテスト」というコーナーで15名ずつ左右にわかれて座った。
前列中央のさんまは、他の落語家はみんな着物を着ているのに、少しでも目立とうと真っ赤なスーツ、ストライプのシャツ、黒のネクタイ。
司会は、藤本義一。
アシスタントは、海原千里、万里。
コメンテーターは、横山やすし、露乃五郎(落語家)、窪園千枝子(歌手、女優、性評論家)
若手芸人たちはスイッチを持って出題される性に関するアンケートに回答していった。
さんまは物怖じすることなくスキあらばしゃべり、質問が出れば真っ先に挙手、マイクを向けられると自らの性生活を明かした。
『性技の48手以外の技は?』
「逆さ十字落とし」
『それはどんな技なの?』
「女性を逆さに持ち上げまして、そのままベッドに落とすんですわ」
でドカーンとウケたところでCMに入った。
すると藤本義一が
「君、名前なんていうねん」
さんまはホメてもらえると思いながら
「あっさんまです」
と答えたが
「サンマかイワシか知らんけどな、テレビでいうてええことと悪いことがあるんや。
それくらい覚えてから出て来い!」
といわれ、盛り上がっていた現場はシーンとなった。
そしてCM明け、藤本義一がいった。
「それにしても君はしゃべるな。
名前はなんていうの?」
「明石家さんまです」
「師匠は誰?」
ここで横山やすしが割って入った。
「松之助師匠とこの弟子ですわ」
「ああそうか、松っちゃんとこの弟子かいな。
それならしゃーないわ」

生放送が終わり、さんまが控え室で帰り支度をしていると、突然、白いマリンキャップをかぶった横山やすしが入ってきた。
「おう、さんま君」
「はい」
「自分、吉本やな?」
「はい」
「そうか、飲みに行こう」
「あっ、はい。
よろしくお願いします」
「気に入った。
話が早い。
さすが松っちゃん師匠とこの弟子や。
お前らも来い。
連れてったる」
横山やすし、さんま、数人の芸人は2台のタクシーに分乗。
途中、機嫌がよかった横山やすしの表情がみるみる険しくなった。
「視界不良や」
といって後部座席から助手席のヘッドレストを取り外させ、
「オイ、コラ、運転手。
なにチンタラ走っとんねん。
ワシは吉本を担う若手を乗しとんねん。
恥かかすな、アホンダラ」
「アクセルはふかすためについとんねん。
ふかせ!ふかせ!
「さっさと前の車追い抜かんかい、アホンダラが」
「歩道を走れ、歩道を!」
と運転手を急かし続けた。
そして目的の居酒屋に着いて飲み始めると再び上機嫌に。
次々と注文し、さんまたちは急き立てられながら必死に食べて飲んだ。
「芸人として生きていくんやったら勝たなアカン。
負けたらしまいや。
とりあえず勝て。
評判は気にするな。
行くときは行かなアカン。
ハイペースで生きろ。
マイペースはアカン。
どんどんペースが落ちる。
スピードは落とすなよ。
腹くくっていけ」
横山やすしの話の大半は勝負論、そして精神論。
それが終わると競艇の話に移行。
店も変わり、他の若手芸人がグロッキーになっていく中、さんまだけが
「カッコよろしいなあ!」
と大きなリアクションで熱心に話を聞いた。
「気に入った!
お前はワシに似とる。
インからグッといくタイプや。
アウトからチンタラまくるタイプちゃう。
芸人はインからガーッといかなアカン。
よっしゃ、今からワシの家行こう。
アウトの連中はサッサと帰りさらせ」

こうして他の芸人は帰らされ、さんまだけが横山やすしの自宅へ。
「さんま君。
今からモーターボートのエンジン音聞かしたるさかい、よう聞いとけよ」
さんまはヘッドホンを手渡され、各メーカーのエンジン音を正確に聞き分けられるようになるまで、何度も何度も繰り返し聞かされた。
「ドヤッ、違いがわかってきたやろ。
モーターボートは奥が深いいんや。
また聞かせたるさかい、今日はもう帰れ。
ワシはもう寝る」
「やすし師匠、今日はいろいろありがとうございました」
「オッ、ほんだらな。
グッドラック!
はよ行け」
横山やすしの家を出たのは朝の6時。
衝撃と波乱に満ちたテレビデビュー日となった。
後日、さんまは
「飲みに連れていってもらったというより市中引き回しの刑に遭うた」
といって笑わせたが、160cm、42kgと華奢な横山やすしから圧倒的なオーラを感じていた。

また明石家さんまの先輩、鶴瓶は、深夜番組の罰ゲームでやすしの家にイタズラ電話をかけさせられ
「明日の南海電車の始発の時間を教えてくれませんか?」
と聞き
「お前誰や!!
横山やすしと知っての狼藉か!」
と激怒され、すぐに電話を切った。
さんまの同期、オール巨人のモットーは、
「芸人は、清く正しく面白く」
だが、ある生放送番組で、やすしが海外で車を現地の邦人に費用を立て替えてもらって買って、まだ支払っていないという話をした。
それをみていたやすしはTV局に電話。
番組スタッフがスタジオにつなぐと
「コラッ巨人!。
俺、ちゃんと金払っとるんじゃい!コラッ!
みてもないのに偉そうに抜かしやがってアホんだら!カス!」
とまくしたてた。
「すみません」
番組では大先輩の顔を立て巨人だったが、後日、やすしに会ったとき
「師匠、ホンマは払ってはりませんやん。
今度あんなことあったら『メガネ外せ!』いいますからね」
とクギを刺した。
すると
「おらっ!巨人」
だったやすしが、以降、
「巨人君」
「巨人ちゃん」
と呼ぶようになった。


1977年4月、横山やすし・西川きよしは、2度目の上方漫才大賞を受賞。
1979年10月、日曜日21時に放送されていた関西テレビ「花王名人劇場」内に「おかしなおかしな漫才同窓会」というコーナーができ、新旧の漫才師が競演。
すると13~16%という異例の高視聴率となった。
同年、横山やすし・西川きよしは上方お笑い大賞を受賞。
またやすしは10歳の息子、一八、妹の雅美を引き取り、2人目の嫁、啓子と3人で暮らし始めた。
やすしもボンボンだったが、啓子も実家が由緒ある神社で鉄工所も経営していたので、大卒の初任給が1万2千円だった時代に5万円のお小遣いをもらっていたお嬢さん。
ピーク時は
「30分の漫才で2人で1500万円」
というやすしは、なにかあれば数千万円をお金を使い、足りなくなると啓子の実家から千万円単位で借りた。
そんな年間、数億あった収入よりも多く使ってしまうドンブリ勘定夫婦だったが、一八は、夜中、家に着くとカギを持っているのに
「啓子っ!啓子っ!」
と大声で叫んで嫁を起して玄関を開けて出迎えさせる父親を目撃した。

1980年1月、「花王名人劇場」は、「激突!漫才新幹線」というコーナーで、横山やすし・西川やすし、星セント・ルイス、B&Bという関東と関西の人気漫才師を競演させ、18%超え。
4月、横山やすし・西川きよしは3度目の上方漫才大賞
「花王名人劇場」の成功をみて各局が新しいバラエティー番組を製作。
どのチャンネルを回しても漫才がみられるようになった。
同月、「THE MANZAI」が放送されると空前の漫才ブームが勃発した。
フジテレビの横澤彪プロデューサーと佐藤義和ディレクターらがつくる「THE MANZAI」は革新的だった。
放送は3ヵ月に1度。
毎回数組の漫才コンビが漫才を披露するというシンプルな内容ながら、フジテレビの第10スタジオに豪華でポップなセットを組んで、大学生を中心に客を入れ、古臭いイメージを一掃。
漫才の前には必ずショートPRムービー、そして登場時の出囃子はフランク・シナトラの「When You're Smiling(君が微笑めば)」。
横山やすし・きよし、中田カウス・ボタン、星セント・ルイス、ツービート、B&B、ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シロー、オール阪神・巨人、島田紳助・松本竜介など出演順は抽選で決まり、楽屋には緊張感が漂い、舞台では真剣勝負が行われた。
「ライバルは?」
と聞かれた横山やすしは
「相方やね」
と答えた。
このとき横山やすしは36歳。
ビートたけしと西川きよしは34歳。
漫才ブームの後に「笑っていいとも!」でブレイクを果たすタモリは35歳だった。
1980年10月19日、啓子が「光」を出産。
やすしは一八を
「おう、長男」
雅美を
「長女」
光も
「長女」
と呼んだ。


1980年12月11日、横山やすし・西川きよしは文化庁の芸術祭優勝賞を受賞。
名実、共に日本一に漫才師となった。
「ファンは今だけだけのファン。
俺にはファンは不安や」
西川きよしはそういいながら、子供からお年寄りまで愛されようと努力し続け、城のような家を建てた。
一方、
「信じられるのは己だけ」
というやすしの家は50坪。
摂津市一津屋、淀川の堤防沿いの建て売り住宅。
表札には大きく「木村」、そしてその左下に小さく「横山やすし」と書かれてあるが、ごくごく普通の簡素な住まいだった。
やすしは収入が増えても食べるものも着るものも変わらず、付き合う人間が名士になるなどの変化もしなかった。
この淀川から300mの家を選んだ理由はボート。
吉本に
「節税のために個人事務所を持った方がいいですよ」
といわれても
「節税は脱税」
といって聞かなかったやすしは、代わりに淀川にボートの練習場をつくった。
マリーナ、競艇用ボート、ターンマーク、計測用の時計を置き、そしてボートチームもつくって、メンテナンス、遠征などに数千万円を使った。
そして摂津から道頓堀の戎橋までボート通勤。
淀川を管轄する摂津市は見て見ぬふり。


落語家の林家木久扇もやすしが気が合った1人だった。
番組でやすしと一緒になって電話番号を交換。
それから何日も経たないうちに、夜、電話がかかってきた。
「もしもし。
ワイや。
横山やすしや。
テレビの収録が終わったから、これから六本木に飲みに行くで。
出てこんかい」
「すいません。
明日も朝、早いので」
「なにいうとんのや。
芸人が夜遊ばんでどないするんや。
ええから来い」
それでも木久扇は丁重に断わり続け、やっと電話を切った。
「やれやれ」
しかし1時間後、家の前でタクシーが停まり、
「ここや、ここ」
という大きな声が聞こえたので居留守を決めた。
やすしは
「コラッ、おるんやろ。
出てこんかい」
と叫び、物干しざおで雨戸を叩き始めた。
「コラッ、顔みせんかい」
近所迷惑も考え木久扇が仕方なく窓から顔を出すと
「おるやないか、コラ!
下りてこいや!。
六本木に行くで」
と待たせていたタクシーで、そのまま六本木に連れていかれた。
店に入るとニコニコして飲んでいたのに突然
「コラッ、なんやお前」
「コラッ、貧乏人」
と隣りの客を蹴り始めたので
「すいません、すいません」
とひたすら謝った。
「ひどい目に遭わされ、お金まで払ってあげて、そういう状況も含めて面白かった
行動も発想も放つオーラも独特だった。
いつ何が起こるか、どこでどんな反応をするかわからない。
常識をまったく気にしない。
わざと型破りを演じていたわけでもなく自然体だったんです。
常に自分の気持ちに正直に行動して、人生を目いっぱい楽しんだんじゃないでしょうか」


一八は小学校高学年の頃、やすしにクラブに連れていかれ、オレンジジュースを飲みながら父親がいい匂いがする女性とイチャつくのをみていた。
やがて眠くなりアクビをすると
「長男、ホテルに帰れ」
といわれタクシーでホテルへ帰って寝ていた。
深夜、目が覚めると背後でベッドがきしむ音と
「こ、どもに、聞こえる」
「大丈夫や」
という声が聞こえた。
起きていることがバレないようジッとし、押し殺すような女性の喘ぎ声を聞き続けた。
またやすしは1度、東京のホテルで愛人といるところを嫁、啓子に踏み込まれたことがあった。
娘の光を伴って現れた啓子は愛人とケンカを始め、やすしは
「光、危ないから隠れとこ。
後は2人で決めてくれ」
といって娘とバスルームへ逃げた。

横山やすしの長男、一八と西川きよしの次男、弘志は、
「お前らが来たらみんなお年玉あげなあかんから禁止」
といわれていたが、
「どうなるんやろう}
と正月のなんば花月に潜入。
普通に公演を観に行ていたが、いろいろな人から声をかけられ、そして1人、86万円ずつもらった。
そして一八は預金口座をつくってもらい、弘志は全額没収された。
一八は中学校卒業後に芸能界入り。
所属は吉本興業で、TVドラマ「毎度おさわがせします」の主役に抜擢され、中山美穂と共演。
一躍、人気者となった。

ボートにのめりこむやすしは、仕事に遅刻したり休んだりすることが増えた。
マネージャーが仕事をとってくると、基本的にやすしは2つ返事でOK。
一方、きよしは、ギャラは?、待遇は?、内容は?と細かく聞いた。
しかし1度約束すればきよしは必ず仕事場にやって来たが、やすしはボートのために現場に来ないということが普通にあった。
やすしが酒を飲んで現れたり 遅刻してくるときよしは怒り、ときには殴った。
「こわいやすし師匠が殴られているところを直視できなかった」
(島田紳助)
「一緒の出番のとき、やすし師匠がエラい遅れてきて、いつもキレイなオールバックが全部前になってて・・・
きよし師匠にワァーいわれて『キー坊、違うがな、違うがな』いうて」
(松本人志)
その怒りで若手を驚かせていた西川きよしだったが、実はさみしさを感じていた。
「どっちが大事いうたら漫才よりボートという時期が何年かあったんですよ。
堂々とそれをおっしゃるときに、僕はせやない、それは違ゃうでと思うんだけど、先輩がいうてるわけですしやすしさんがいうてるわけですから・・・
とやかくいえる筋合いのもんではないわけですよ」
やすしは、いつもギリギリに現場入りし、2日酔いで来ることも多かった。
結果、横山やすし・西川きよしは、舞台袖で簡単な打合をするだけでライトの下に駆け込んだ。
ハタ目には面白い漫才でも、西川きよしには
(遅れたで)
(間が違うで)
(ツッコミわいな)
と不満だらけ。
このような状態が続くうち、お互い、ピンの仕事が増え、漫才をする機会は減っていった。


日本テレビ「久米宏のTVスクランブル」が開始。
毎週、日曜21時、旬の話題を取り上げスタジオのパーソナリティがコメントする生放送番組。
NHKの大河ドラマが裏という番組に久米の相手役として、久米自身の強い希望で横山やすしが起用された。
選挙特番中にくしゃみをして、スタジオの観客に
「鼻かみ(ティッシュペーパー)持ってないか」
と話しかけ、久米は
「生放送中なんだからティッシュペーパーなんか取りに行かないで!!
誰かティッシュあげて下さい!!」
と声を荒らげた。
ゲストの国会議員に対し
「あほんだら」
と放送禁止用語を含めて口撃。
批判を浴びると次の回は
「×」
を大きく書いたマスクをつけて出演し
「今日は黙秘権」
といったきり、発言拒否。
酒に酔った状態で出演したり、悪態をついたり、本番中に勝手にトイレにいったり、寝てしまったり、番組終了を待たずにスタジオからいなくなったりもした。
しかしやすしの毒舌と本音トークは大ウケ。
「本音のやすし」
とフューチャーされた。


学校から帰ってきた中2の一八は、父親に
「ちょっとアメリカいくぞ」
といわれた。
「いつ?」
「これからや」
「えっ」
「アメリカで飛行機買うんや
お父さんが飛行機買うところ、お前が見届けろ」
やすしは息子を拉致し、銀行で7000万円を下ろし、着替えも持たずにアメリカへ。
「ナンボや」
「キャッシュで払うんやで」
「コストダウン・プリーズ」
大阪弁とジェスチャー、英単語で交渉し、セスナ機を1500万円値切って5500万円で購入。

そのセスナ機は、日本だと1億円を超える代物だったが、維持費もすごかった。
燃料は、通常のガソリンより品質も値段も高い航空ガソリンで、1時間のフライトで1万円。
八尾空港に置いておく駐機料金が、月12~15万円。
50時間に1回の定期検査、年1回の耐空検査がそれぞれ80~120万円。
年1回の無線検査が約15万円。
着陸料、停留料が1千円。
これに任意保険、そしてパイロットの資格を持っていないやすしは、パイロットを雇って副操縦士として操縦席に座ったためにパイロット代もかかった。
1983年1月1日、娘の名をとって「激昂」ではなく「月光」と名づけられたセスナに家族全員を乗せ、富士山を目指し、
「こんな初日の出、普通の人はできへんど」
といった。
またあるときは
「これで相方の家見下ろしたるねん」
「死ぬときはこれで落ちたるねん。
要するに空飛ぶ棺桶やがな」
といって笑わせた。


1982年、吉本は弟子制度をやめて芸人の養成学校、NSCをつくった。
同年放送された「ザ・テレビ演芸」は、若手が芸を披露するコンテスト番組。
審査員は、大島渚、糸井重里、高信太郎。
司会は横山やすしだったが、気に入らないと
「収録やめ」
といい延々と説教を始める。
それは1時間や2時間になることもあった。
NSC第1期生のダウンタウンも「ライト兄弟」という芸名、「殺したい家族」という漫才で出演。
「お笑いには良質な笑いと悪質な笑いがあるんや。
お前らのは悪質や」
「ライト兄弟やと?
航空ファンに迷惑かけるような名前つけるな。
どアホ」
と1時間半説教されてキツい洗礼を受けた。
ハイヒールのリンゴは、同じく1期生としてNSCに入学したもの父親の猛反対を受けていた。
その父親が空港で横山やすしと遭遇。
「やすきよが1番偉い」
と思っていた父親は
「ウチの娘が吉本に入ったんや。
辞めさせてくれ」
と直訴。
次の日、リンゴは
「ハイヒールってどいつや。
知らんがな」
といわれた。


ほとんど弟子を取らないきよしとは対照的に、やすしは生涯20数人も弟子をとった。
口癖は
「やるからには1番にならなアカン」
でほんの一瞬でもミスや失態をすれば鉄拳や蹴りが飛び、同じミスを犯せば即刻破門という超スパルタ教育。
ミスといっても
「ああじゃこうじゃいわんとな、3000ccなんやからふかせ。
600や700cに負けるな、アホンダラ」
と公道でレーサー運転を要求するなど基準が理不尽なことも多かった。
やすし家の2階に住み込んでいた弟子が階段を下りて戸を開け
「師匠、お時間です」
というと
「アホンダ、階段くらい静かに降りぃ!」
と怒られ、次の日、ソーッと下りて
「お時間です」
というと嫁と真っ最中で
「アホ、音出さんかい!」
と怒られた。
結局、その世界で生き残った弟子は3人。
佐野隆仁は競艇の弟子(日本モーターボート選手会専務理事を2期4年間を務めた)
「1万発くらいはドツかれました」
「阪神高速で車から降ろされて置き去りにされた」
「てっちり屋の2階の窓から屋外に蹴落とされた」
という横山たかし・ひろしは、親の虐待から子供が保護されるように周囲の計らいで吉本から松竹へと円満移籍。

やすしにとって放送がある日曜日はボートレースに参加する日で、「久米宏のTVスクランブル」は、生放送開始直前に東京のスタジオ入り。
レース中の事故で歯を折って顔を腫らせて出演したこともあったが、穴をあけたことは1度もなかった。
しかし1984年8月19日、初めて番組を欠席。
表向きの理由は
「過労と肝臓病によるダウン」
とされたが前夜から飲酒し知人宅で寝てしまっていた。
さらに3ヵ月後の1984年11月11日には無断で番組を欠席してしまう。
後に
「渋滞が原因で飛行機に乗り遅れた」
と発表されたが、この1件で「久米宏のTVスクランブル」は降板。
吉本からもタクシー運転手暴行事件以来、2度目の無期限謹慎処分を下されてしまった。
トラブルを起こし続けたため、ヤンチャ、破天荒を、本音のやすしを超えて、
「無茶苦茶」
いうイメージが定着しつつあった。


1986年3月24日、
「高校しか出てない人間が一生懸命やったらどれくらいのことができるか、またどれくらいのことしかできんか、やってんみたいです」
と西川きよしが涙ながらに参院選へ出馬を表明。
きよしにしてみれば、世間でトラブルを起こし続け、酔った状態でTVに出て、その上、生放送の番組で穴をあけたやすしに見切りをつけたのかもしれない。
一方、やすしには相方がなぜ政治家を目指すのか、わからない。
周囲には
「キー坊が選挙通ったら、ワシもなんか1番とらなあかんな」
といいつつ
「アイツが選挙に通ったら、ワシ、置いてけぼりにされてさみしい」
という気持ちがあり、もっといえば
「裏切り」
だった。
4月、やすしは吐血し緊急入院。
5月13日、西川きよし後援会事務所開きに、吉本興業の林正之助会長をはじめ数々の芸人仲間が訪れたが、やすしは現れなかった。
別の場所で
『選挙応援には出るんでしょ?』
記者に問われたやすしは
「いや、それはできん。
せんつもりや」
と答えた。
『それはまたなんで?』
「どういうことかいうたらね。
あのね、まあコンビが夫婦やったら師弟関係は親子や。
なっ?!
俺の師匠の親いうのはノックや。
俺の、まあ女房いうたらキー坊や。
ところが嫁助けたら今度は親が立たずや。
だからワシは応援せん」
と横山ノックは西川きよしの対立候補、中村鋭一を応援していることを理由に応援できないと語った。

選挙事務所が開いて3日後の16日、埼玉県で仕事があったやすしは、夜、東京の赤坂東急ホテルに帰った。
そして23時、吉本の社員に呼ばれ、ホテル内の24時間営業のコーヒーハウスに入り
「明日、大阪に行ってきよしさんの事務所に顔を出して挨拶してほしい」
といわれた。
翌日は選挙の公示日だった。
世間ではコンビ別れが囁かれており、それは選挙的にも、やすきよという吉本の大看板的にも大きなマイナスだった。
社員はそういったネガティブなイメージを払しょくするには
「明日しかない」
と思い
「応援にはいかない」
というやすしを説得にかかった。
「また後々、漫才やるときのために!」
「ここでいっとかないと禍根を残して2人が一緒にやることが永遠にできなくなりますよ」
夜中3時まで説得を受けたやすしは、朝1番の飛行機に乗って大阪の西川きよしの選挙事務所へ。
17日、やすしは7時の飛行機に乗って8時に大阪に着いて、9時に選挙事務所入り。
出陣式が行われる事務所は活気に満ちていたが、やすしだけはムカつき顔で黒いオーラを発していた。
そして
「みなさま、お集まりいただいてありがとうございます。
えーっ、まあ、相方よりも、嫁さんを泣かさんように1票を入れてやって欲しい。
そういうことで、一つよろしくお願いします」
と挨拶。
お立ち台から降りたやすしに後ろで控えていた西川きよしは
「お疲れさん、ありがとう」
と深々と頭を下げた。
しかしやすしは目も合わせようとせず無視。
マイクだけをつき返し、歩き出した。
きよしは下げた頭を回転させ、その背中を目で追った。
その表情は怒りに満ちていた。
控え室に戻ったやすしは
「エラい短い挨拶やったな」
と桂三枝にいわれると一気に笑顔になり、饒舌にしゃべり始めた。
結局、吉本社員の思惑は外れた。
2人の間に溝があることは明白だった。

3ヵ月後の1986年6月19日、徳山青年会議所の「横山やすし 本音で語る 言いたい放題」と題された講演で、やすしは登壇した直後、客に大声で
『西川きよしさんは当選しますか?』
と聞かれ
「落ちる」
と即答。
笑いをとった。
果たして7月7日、西川きよしは当選。
7月12日、当選直後のTV番組の収録で2人は4ヵ月ぶりに共演。
「よかったよかった、おめでとう」
やすしは手を差し伸べて握手。
アナウンサーを交え3人でのトークは最初はいい雰囲気だった。
が、きよしが
「西川きよしに投票するヤツはアホやみたいな発言があったときは、ハッキリいって20年間ってなんだったのかというさみしさは、そらありました」
とこぼすとやすしは眉間にしわを寄せた。
「ワシもそら半々の気持ちでね。
まっ、通ってもエエなあ、落ちてもエエなあ。
落ちたほうが1番漫才を維持しやすいわね」
不穏な空気を感じたアナウンサーがあわてて
『なるほど!
でもそういう機会が少なくなるけれども、その少ない中で・・・』
ととりなそうとすると、しかさずきよしもそれに呼応。
「僕は漫才を・・・・」
『やりたい?』
「やりたいし、してもらいたい、また力を貸してもらいたい!」
そういってアナウンサーときよしはうなづき合った。
しかしやすしは
「いや俺はね、キー坊には悪いけどね、俺は他人のために漫才はやせえへんよ」
といって穏便に収まりかけた空気をブチ壊した。

それはコンビ結成20年目の夏のことだった。
漫才コンビは、家族でも、夫婦でも、お金でもない不思議な関係。
かつてひたすら練習し、ドつき合い、ののしり合いながら日本一を目指して走り続けた横山やすし・西川きよしは、こうして終わった。
「舞台の上では相棒の左半分の唇だけがみえるわけです。
その唇をみながら、鼻の先っちょあたりをみながらだいたいわかりますもん。
舞台の上での23年間、やすしさんのほとんど顔の左側だけをみて、そして舞台の上でも芸のことばっかり、実は考えているということではやっぱりないんです。
たまに間が空いて、お客さんがド~ッと波打って笑っていただいたときに、次のことはもちろん考えてますけれども、笑っていただいているときにホッと目を合ったときには一瞬ですけど、本名の自分たちに帰るときがあるんですよ。
一瞬、パッと『ようウケてんな』っていうやすしさんの顔みながら『長いことやってきてよかったなあ』とか『これからも頑張ろうぜ』とか、あるときは『エラいスケジュールやなあ、たまには休みたいなあ』いうのとか、いろんなことがこう、瞬時にしてパッッパッパッといろんな火花が散るんです。
戦いに火花やのうて愛情の火花が散ったんです」
(西川きよし)


「ノックときよしが漫才を二の次にして政治家としての道を選んだことに、強い失望感を持ったのではないか」
(上岡龍太郎)
「あれで横山さんの歯車が狂ってしまったと思う」
(やすしのマネージャー、松岡由里子)
その後、やすしは石が転がるように転落していった。
1987年12月、日本テレビ「スター爆笑Q&A」に酔ったまま出演し、司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切ってゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかった。
舞台裏でマネージャー(松岡由里子)にビンタされて同番組を降板。
「俺、わがままか」
と聞かれた松岡由里子は
「わがままですよ」
と答えると、やすしは
「俺はこれでしか自分をはかれへんのや」
といった。
1988年10月、2日酔いを理由に毎日放送「三枝やすし興奮テレビ」の出演を直前にキャンセルしたために降板。
1988年11月25日、俳優として順風満帆だった19歳の一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こして逮捕。
吉本は一八との契約を解消。
出演中のTVドラマ「疑惑の家族」「はぐれ刑事純情派」も降板。
一八は少年院送りになり、被害者への多額の損害賠償は吉本が肩代わりし、やすしは自ら無期限謹慎を申し出た。

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