UWFの道場では、毎日藤原喜明を中心に、前田日明が筆頭となって汗を流し、みんなで安チャンコをつついていた。
事件後、道場にまったく来ずにリーダーシップをとって好き勝手に決めていく佐山サトルに対してネガティブな感情が生まれていた。
藤原喜明は
「強くて、怖くて、面白いプロレス」
が理想で、前田日明は、
「プロレスはもともと総合格闘技。
ホンモノのプロレスは禁じ手のないもので、どんな手を使っても相手を倒せばいい。
佐山さんのルールは窮屈だ」
と感じていた。
佐山サトルは決して独断ではなく、UWFをよくするためにアイデアを出し、みんな同意を得ていた。
しかしスーパータイガージムを経営している佐山が
「試合は3週間に5試合」
といっても、スポンサーを失ったUWFしか収入がない選手やスタッフとは切実さが違う。
スタッフは試合数を増やすよう懇願したが、佐山は
「赤字になる地方はやめて都市部だけでやるほうが合理的」
といって譲らなかった。
選手もロクに道場にも来ない佐山サトルと話す機会もなく、フラストレーションを募らせていった。
「3週間に5試合なんで冗談じゃない。
UWFが赤字を解消するためには興行数の増加が必要なのに、金持ちの理想主義者には営業の苦しさがわからない」
(前田日明)
刺殺事件から3ヵ月後、9月2日、大阪府立臨海スポーツセンターで行われたスーパータイガー vs 前田日明戦は異様な試合となった。
2人はまるでかみ合わなかった。
ケンカ腰の前田といつものように試合をしようとする佐山。
前田はケンカ腰だが、完全にシュートではなく、ある一戦は越えないように抑えている。
最後は組み合った状態から前田がボディに膝蹴り。
佐山聡が金的に当たったとアピールししゃがみ込み、レフリーが試合を止め、反則負けとなった前田はさっさとリングを下りた。
このとき実際には金的には当たっていなかったが、このままだと危険だと判断した佐山がウソをついて試合を終わらせた。
試合後、前田は
「責任を取ってオレは辞めます」
といい以後、試合を欠場。
9月6日、藤原喜明 vs 木戸修で、
「顔面への拳、頭突き、肘、膝での攻撃は禁止」
とルールで決まっているのに藤原は木戸に頭突きを3連発。
レフリーも反則負けにしなかった。
2人はまるで佐山に従わないことを行動で表現したようだった。
9月11日、メインで藤原と佐山が対戦。
藤原は、両手で佐山の髪の毛をつかんで反則の頭突きを見舞い、19分31秒、わき固めで勝利。
総当たり戦で優勝した藤原は
「前田、逃げるな。
コレを獲ってみい」」
「俺はシューティングという言葉が好きじゃない。
俺はプロフェッショナルのレスラーだ」
とマイクアピール。
佐山からしてみれば理不尽な話だった。
たしかに新ルールを提案したが、みんなの同意は得ていたし、文句があるなら何故そのときいわないのか。
佐山はUWFを去った。
結局、この1985年9月11日が最後の試合となり、UWFは1年半で終わった。
1985年10月1日、佐山サトルが「ケーフェイ」を出版。
ケーフェイ (Kayfabe) はプロレス界の隠語で、語源は、「Be Fake(でっち上げ)」を逆さに読んだとする説やラテン語の「Cate Fabri(偽る)」を英語読みして「Kayfabe」となったという説などがあるが、いずれにしても、詐欺、インチキ、捏造などという意味。
多くのファンは佐山サトルと前田日明とのケンカマッチに
「佐山はシュートの団体をつくろうとしているのに、実際にシュート・マッチになると逃げた」
一方、前田日明には、
「勇気があって強い」
という印象を持った。
そして佐山サトルがUWFを去ると
「逃げた」
と思った。
株を大暴落させた佐山だったが、この本では自身の理想の格闘技「シューティング」について語った。
そして真剣勝負の格闘技とプロレスの違い、プロレスの裏側も暴露。
この本の作成に協力した週刊プロレスの編集長、ターザン山本とイラストレーター、更級四郎は、UWFから電話で
「これからは敵ですね」
といわれた。
ターザン山本は、
「佐山サトルがプロレスが八百長であることを明言したことは、前田日明や藤原喜明には決してできないこと」
「前田日明や藤原喜明たちは、カネと車と女が好きな典型的なプロレスラー」
と総合格闘技という新しいプロレスをつくるという同じ夢に向かって進みながら、理想の高い佐山と、現実的な団体経営を求めたメンバーとの対立がUWFが終わった原因としている。
佐山は、10代から新しい格闘技をクリエイトすることを考え、古今東西の格闘技を研究し続けていた。
前田日明も大の読書好きで、格闘技に大きな理想も持ち、多くの情報や知識も有していたが、思想は持っていなかった。
浦田昇社長は新日本プロレス、全日本プロレスとの業務提携交渉を開始。
全日本は前田日明と高田延彦を要求したが、本人たちが全員ではないことを理由に断った。
1985年11月25日、UWFのスタッフは、血判状を作成し、浦田昇社長に退陣を迫った。
浦田昇社長にとって2枚目の血判状。
1年半前、UWFを旗揚げしてから、たった5回興行をしただけで
「新日本プロレスと提携しよう」
という新間寿に
「どうしてですか?」
「なんでやめるんですか?」
と大反対し、浦田昇社長にUWFの継続を訴えたスタッフが1枚目の血判状を持ってきた。
そして今度は辞めてくれというわけである。
「私が事件を起こしたからスポンサーがつかない。
だから辞めてくれと。
いやいや、願ってもないことで(苦笑)」
浦田昇はUWFの借金2億円だけを引き受け、快く辞めた。