怒涛の第1次UWF  うなるキック、軋む関節   社長逮捕 スポンサー刺殺 2枚の血判状

怒涛の第1次UWF うなるキック、軋む関節 社長逮捕 スポンサー刺殺 2枚の血判状

新日本プロレスの営業本部長だった新間寿が黒い感情を持って立ち上げたUWF.。しかしそれは選手やスタッフの熱くて純粋な思いに浄化され、超マイナーだが超前衛的なUWFは若者の圧倒的支持を受けた。しかしスポンサー会社社長刺殺、UWF社長の逮捕と事件が続き、ついに前田日明と佐山サトルのケンカマッチが起こってしまう。



1984年、アントンハイセル事件に端を発する一連の新日本プロレスのクーデター騒動の末、営業本部長だった新間寿は会社を追われた。
復讐に燃える新間は、自分の団体をつくることを決意。
フジテレビと水曜20時、銭形平次の後釜として自身の団体を放送することを契約。
猪木や長州力を新日本プロレスから引き抜き、引退したタイガーマスクも加入させ、アメリカのWWFとのパイプを使ってアンドレ・ザ・ジャイアントやハルク・ホーガンを呼び、自分を追い出した奴らを見返してやろうと目論んだ。
その復讐にための団体を
「UWF(Universal Wrestling Federation、ユニバーサル・レスリング連盟)」
と名づけた。
社長に大学の後輩、浦田昇を据えた。
結婚式場や喫茶店、輸入代理店などを営むサンフルト(株)の社長である浦田は、学生時代、中央大学レスリング部で全日本選手権と全日本学生選手権で優勝した経験があった。

新間は次に新日本プロレスに残っていた部下に声をかけ引き抜いた。
そしてアントニオ猪木に2500万円を渡し、UWFへの協力を要請。
猪木は、新日本プロレスの選手数名をUWFに移籍させること、UWFのリングに上がって挨拶をすることを約束。
新間は次に長州力に声をかけた。
長州力は、2000万円を受け取らず、UWF参加を断り、アニマル浜口、小林邦昭、寺西勇、キラーカーンと維新軍を結成し、新間同様、クーデター事件後、新日本プロレスを辞めた大塚直樹(元営業部長)のもとでテレビ朝日と契約を結んだ。
猪木、長州がダメとなれば、客を呼べるのはタイガーマスク=佐山サトルしかいない。
しかし佐山サトルは結婚問題や佐山の妻の父親にアントンハイセルへ投資させた件で新間に強い不信感を持っていた。
新間は佐山サトルを
「ニューヨークのアディソン・スクウェア・ガーデンでタイガーマスクの復帰戦をやろう。
WWF認定インターナショナルジュニアヘビー級タイトルマッチだ。
もちろん君が勝って新チャンピオンになって凱旋帰国した後はUWFのエースとして迎える。
UWFはフジテレビがゴールデンタイムで放映してくれるからメインイベンターである君には、これまでの数倍のギャラが払われる」
と口説き、佐山はそれに同意した。


1984年1月8日、東スポは
「現在引退中のタイガーマスクは、必ずこの手でリングに上げます。
3月26日のアディソン・スクウェア・ガーデンのリングに彼を出場させます」
という新間寿のインタビュー記事を掲載。
10日後、佐山サトルがテレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの!」に出演し、リング復帰を宣言。
後は

・3月26日にニューヨークで行われるWWFの定期興行にタイガーマスクが出場し、タイトルマッチに勝つ
・それは日本では4月4日にフジテレビの「激闘ザ・プロレス」で放映され、不死鳥のように復帰したタイガーマスクに日本中が歓喜
・その1週間後の4月11日にUWFの旗揚げ戦が大宮スケート場で行われる

という筋書きだった。
しかし新日本プロレスはWWFにクレームを入れた。
それはテレビ朝日とWWFの間には
「テレビ朝日と契約中の選手は他局の放送に出演できない」
という契約があり、まだ契約期間が残っている佐山がWWFのリングに上がってフジテレビが放映するのは契約違反。
その場合、新日本プロレスはWWFに違約金を請求せざる得ないと通告。
WWFは高額の契約金を払ってくれている新日本プロレスとモメるわけにいかず、新間に
「テレビ朝日と契約が残っている以上、サトル・サヤマをWWFのリングに上げることはできない」
と告げた。
こうしてタイガーマスクの再デビュー戦は中止となり、佐山サトルは激怒。
新間がギャラアップを提示したが応じず、UWF参戦を拒否。
猪木も長州もタイガーも呼べなかった新間にフジテレビも激怒。
銭形平次の後釜番組は、プロレスではなく西川きよし司会のクイズ番組「ザ・わかるっチャ!」になった。
フジテレビ、猪木、長州、タイガー、WWF、すべてを失い、復讐から絶望の団体に変わったUWFだったが、旗揚げ戦は1ヵ月に迫っていた。

1984年2月、佐山サトルは、東京、世田谷の高級スポーツジクラブの中に「タイガージム」をオープンさせ、長年の夢、理想の格闘技実現のための第1歩を踏み出した。
そして山崎一夫が新日本プロレスを退団し、タイガージムのインストラクターとなった。
タイガーマスク時代から佐山サトルの付き人だった山崎一夫は、高田延彦らと共に売り出し中だったが、クーデター事件で嫌気が差し、佐山サトルに引退を相談。
「辞めるのはもったいない」
といわれタイガージムに入った。
インストラクターとして指導しながら自分の練習も続け、佐山とスパーリングをして、サンドバックを蹴って、技を磨いた。
タイガージムは、入会金3万円、月会費1万5000円と高額ながら、タイガーマスク人気で入会者が殺到。
しかしスポーツクラブとの契約で格闘技を教えることは禁止され、会員は週1回、月4回、技を教わったりスパーリングをすることはなく、ひたすらブリッジやスクワットなどのトレーニングを繰り返した。

菊田早苗(総合格闘家、GRABAKA主宰、元ライトヘビー級キング・オブ・パンクラシスト、ADCC2001 88kg級優勝)は、小学6年生のときにスーパータイガージムに入門したが物足りなさを感じてすぐに退会した。
タイガージムの共同経営者にショウジ・コンチャがいた。
(佐山は社長、コンチャは会長)
本名、曽川庄司は、実業家で、新日本プロレスの興行を請け負っていたが、実は暴力団とも関係していて前科8犯。
それを知らない佐山は
「お父さん」
と呼んで慕っていた。
17歳で新日本プロレスに入門し、19歳で海外遠征に出て、帰国後すぐにタイガーマスクとして国民的スーパースターになってしまった佐山は、ある意味、世間知らず。
しかしやがてタイガージムが自分の理想とは程遠いどころか、高額な月謝を取りながら160名を超える会員にトレーニングをさせるだけというやり方や、インストラクターへの給料を支払わなかったり、佐山のサイン会などの売り上げを半分以上搾取するショウジ・コンチャをみて
「金儲けをしようとしているだけなのでは?」
と疑い始める。


「いま思えばショウジ・コンチャは、僕が本気で格闘技をやろうとしているなんて信じてなかったんでしょうね。
だからタイガージムに関しても、金儲けとしか考えてなかった。
タイガージムでは契約上、会員に格闘技は教えられなかったけど、インストラクターや内弟子だけの練習ではガンガン格闘技の練習をしてたんですよ。
それで1度、僕の打撃で弟子が鼻血をドバッと出して、ジムの絨毯部分が真っ赤になっちゃったことがあるんですけど、ショウジ・コンチャは『まさか?本当に格闘技の練習をやってるとは思わなかった』みたいな感じで。
そもそもプロレスラーをバカにしていたような部分もあったと思います。
その後、いきなり『全日本プロレスに出てくれ』とかいろんなことをいい出したんで、いよいよ怪しいなと思ってきた頃、ある方(北沢幹之、力道山先生最後の弟子と呼ばれ、リングスのヴォルク・ハンやアンドレイ・コピィロフとスパーリングしても簡単に関節を極めさせなかった実力者)がショウジ・コンチャの正体を全部教えてくれたんですよ。
ある会社の社長なんですけど、以前コンチャにだまされた経験があって『あいつはとんでもない男だよ』って。
それでだまされていたことに完全に気づくんです」

結局、新間寿が集めたレスラーは、前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田の4人だけだった。
前田は、2月29日の合同練習を最後に新日本プロレスを離脱した。
新間は猪木の頼み込み、オープニングシリーズの5試合だけという期間限定で高田延彦が送ってもらった。
新間は全日本プロレスのジャイアント馬場にも頭を下げ、馬場はアメリカ、テキサス州のテリー・ファンクに3人の外国人レスラーをUWFに送るよう指示し、ロスにいたマッハ隼人にもUWFへの参戦するよう命じた。
3月10日、前田は新間と共に渡米し、2週間ほどWWFのツアーに帯同。
3月26日、佐山サトルの代わりにアディソン・スクウェア・ガーデンのリングに上がり、カナダの無名レスラー、ピエール・ラファイエルとWWFインターナショナル蛇級王座決定戦を戦い、10分32秒、コブラツイストで勝った。
翌3月27日、新間は旗揚げ戦を2週間後に控えた段階で、密かに

・UWFは旗揚げシリーズを最後にプロレス興行会社として再スタート
・UWF所属4名(前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田)は新日本プロレスのリングに上がる
・新日本プロレスはファイトマネーとして毎月200万円をUWFに支払う
・1985年以降の新日本プロレスはシリーズごとに2回のUWF興行を保障する
・UWFのリングは、新日本プロレスが価格交渉の上、引き取る
・UWFは、新日本プロレスのWWF所属選手の招聘に全面的に協力する

とUWFを新日本プロレスに吸収合併させる計画と同意書を作成した。


その後、大宮市周辺には、UWFスタッフによっての旗揚げ戦のポスターが貼られていった。
「今、新しいプロレススが始まる
わたしは数十人のレスラーを確保した
新間寿復活宣言
私はプロレス界に万里の長城を築く
UWFオープニングシリーズ
4月11日(水)大宮スケートセンター」
中央に、大きくマイクを握った新間寿。
右側に、アントニオ猪木、タイガーマスク、前田日明、ラッシャー木村、マサ斎藤、剛竜馬、藤原喜明、高田延彦、長州力、アニマル浜口の顔写真。
左側に、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、ローラン・ボック、ボブ・バックランド、アブドーラ・ザ・ブッチャー、キラー・カーンらの顔写真。
実はその多くが出演候補という、後で訴訟が起こってもおかしくないギリギリのポスターだった。

テリー・ファンクに電話で
「日本で新しく誕生したグループの試合に出てほしい」
と要請を受けたダッチ・マンテルは、テネシー州ナッシュビルのヒールレスラーで、4年前に全日本プロレスに参戦したことがあった。
そして5時間かけてロスアンゼルスに飛び、スコット・ケーシー、ボブ・スウィータンと合流し、11時間かけて日本に到着。
午後の早い時間に成田に到着した3人は迎えに来たUWFスタッフから
「最初の試合は今夜」
といわれた。
他のレスラーと共にバスで試合会場に着いたのが17時。
控室の扉に日本語と英語で対戦カードを描いた紙が貼られてあった。
ダッチ・マンテルは、相手のアキラ・マエダも、タイトルマッチだということも、そのWWFインターナショナルヘビー級というタイトルも初耳。
しかしやることは1つ。
最初はマエダを徹底的に痛めつけ、客の不安といら立ちがピークにっしたら、最後にこっぴどく負ける。
ヒールとして試合を盛り上げ、客を喜ばすために全力を尽くそうと思った。


大宮アリーナは超満員。
しかし出場していたのは選手は、前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田、マッハ隼人、高田延彦、そして外国人選手。
前座試合が終わり、メインイベント、前田日明 vs ダッチ・マンデルが始まった。
しかし試合は盛り上がず、退屈した観客が、
「フッジッワラ、フッジッワラ・・・」
と藤原喜明コール。
それを聞きながら前田日明が必死に攻撃。
しかし観客は
「イーノーキ、イーノーキ・・・」
「チョオシュー、チョオシュー・・」
「ドーラゴン、ドーラゴン・・・」
と観客は猪木、長州力、藤波辰巳を次々とコール。
ポスターに掲載されていた選手の出場を求めた。
自分が否定されているように感じた前田日明はキレた。
ダッチ・マンデルをロープに飛ばし、戻ってきたところにフライングヒールキック。
くるぶしがモロに顔面に入り、マンテルは一瞬、失神。
前田はほとんど意識のないマンテルをジャーマンスープレックスで投げ、8分13秒、フォール勝ち。
鼻、口、さらに目からも血が出ていたマンテルは数人のレスラーに支えられながら控室に戻った。
すると前田日明がやってきて
「ソーリー、ソーリー」
と何度も頭を下げた。
その後、マンテルは、スコット・ケーシー、ボブ・スウィータンと話し合った。
「日本人はワーク(試合を盛り上げる)の仕方を知らないのか?」
「ヤツらは最初から盛り上げるつもりなんかない。
ショートグループだ」
「普通じゃない。
80%がシュートで20%がワーク。
彼らは観客を楽しませるためではなく相手を叩きのめすためのトレーニングを積んでいる」

25歳の前田日明は、新日本プロレスから移籍する前、新間寿に
「猪木もタイガーマスクもUWFに移ってくる。
フジテレビがゴールデンタイムに生中継してくれる」
といわれ、移籍金を受け取ってUWFとの契約書にサインした。
しかし猪木も佐山も来ず、フジテレビの話もなくなり、
「新間さんに騙された」
「猪木さんに捨てられた」
と思っていた。
そして旗揚げ戦の日、新間が会場に来なかったので
「逃げた」
と思った。
しかしピンチはチャンス。
いきなり団体のエース格となれたのも事実。
いずれにせよ前田日明はUWFにすべてを賭けるしかなかった。


旗揚げ戦こそ満員だったが、その後の第2戦、熊谷、第3戦、下関、第4戦、岐阜はガラガラ。
オープニングシリーズ最終戦となる第5戦は東京の蔵前国技館で行われ、客席は半分ほど埋まった。
メインイベントは、前田日明 vs アントニオ猪木の命で1試合限定でUWFに参戦した藤原喜明。
試合が始まると、2人はひたすら地味な寝技。
藤原喜明は体格でかなり劣るが、新日本プロレス時代から数年間、ほぼ毎日、前田と寝技のスパーリングをしていたが1度も負けたことはなく、この試合でも面白いように関節技を極めては放し、極めては放しを繰り返した。
プロレスファンからみれば、
「新日本を飛び出した裏切り者、前田を藤原が成敗する」
という構図になり、
「藤原さん、前田にプロレスを教えてやってください」
「折れ折れ折れ折っちまえ」
「首絞めろ」
「モノマネしかできねぇのかよ前田」
などと藤原への声援と前田に対する罵詈雑言も飛んだ。
寝技が8分続いた後、前田がフライングニールキックを放ったり、場外乱闘で流血した藤原を拳で攻撃したり、通常のプロレスに移行。
最後は10分37秒、両者リングアウトで引き分け。
しかし収まりのつかない観客の怒号に異例の10分間延長。
前田のジャーマンスープレックスに藤原が右足をフックしてディフェンスし、倒れた 2人は立ち上がれない。
レフリーのタイガー服部がカウントを数え始め、2分34秒、両者カウントアウト(ダブルノックダウン)で引き分け。
試合後、前田日明は
「今日の試合は今までの試合とは全然違うんだよ
お前たちにはわからないのか!」
とマイクで訴えたが、多くの観客は席を立ち、最後まで聞いていた者はほとんどいなかった。


数日後、新間寿はスタッフに
「このまま経営を続けても借金が増え続けるだけだ。
傷が浅いうちに新日本プロレスと提携しよう」
といい、作成した同意書をみせた。
みんな賛成してくれると思っていたが予想は外れ、
「どうしてですか?」
「なんでやめるんですか?」
と大反対を受けた。
逆に何1つ約束を果たさず、旗揚げ戦の会場に来なかったことを激しく責められた。
金も、スポンサーも、人も、新間もいない中、スタッフたちは、昼は宣伝カーで走り、夜はポスターを貼って、会場の準備をしていた。
それに新間によって新日本プロレスから引き抜かれたスタッフにしてみれば、たった5回、UWFで興行をした後、どのツラを下げて戻ればいいのか。
スタッフたちは血判状をつくり、社長の浦田昇の家を訪問。
浦田昇は、戦わずして逃げることをよしとしないスタッフの熱い思いは金では買えないと思った。
一方で新日本プロレスから資金をもらいながらやっていこうという新間の考えも理解できる。
板ばさみになって悩む浦田に、スタッフはさらに佐山サトルにも接触し
「新間がUWFを離れるなら可能性は十分ある」
と報告。
最終的に浦田は新間を辞めさせ、数千万円の借金を負って、自身は1銭も受け取らないままUWFを牽引する覚悟を決めた。


5月21日、京王プラザホテルで記者会見が開かれ、新間寿はアントニオ猪木がUWFに来なかったことを理由にしてUFWから身を引くと発表。
しかし実は復讐に燃えていた新間は、すでにUWFを崩壊させる計画を進めていた。
この時点で前田日明をアメリカのWWFへ、ラッシャー木村、剛竜馬はカナダに、グラン浜田はメキシコに遠征していた。
ラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田をハワイに呼び、
「悪いようにはしないから俺に一任してくれ」
と頼み、来れなかった前田日明にも電話で同様のことをいった。
そして4人を全日本プロレスのマットに上げるため、ジャイアント馬場の了承をとりつけた。
しかし6月1日、前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬は、飯田橋のホテルグランドパレスで再び記者会見を開き、
「これからもUWFで戦っていく」
と表明。
浦田社長も
「この世界に入ってまだ日が浅いですが、レスラーを第一に考え、クリーンなプロレス団体を目指します」
とコメント。
結局、新間に従ったのはグラン浜田だけだった。
こうしてUWFは、所属レスラーが3人に減った上、スポンサーなし、カネなし、外国人招聘ルートなし、なしなしずくしで再スタートした。

「週刊プロレス」でイラストを描いていたイラストレーター、更級四郎は、UWFに誌面で扱ってくれと頼まれた。
「存続は厳しいだろう」
と思いながら食事会に招かれ、前田日明が
「猪木にダマされた。
俺はもうダメですよ」
とこぼすのを聞いた。
前田は、髙田延彦を通じて新日本プロレスから
「お前だけは帰ってこい」
といわれていたが、自分だけなら戻り仲間を見捨てることをよしとせず、自分の将来を絶望しながらもUWFに踏みとどまっていた。
「前田さん、協力するよ」
更級四郎はUWFを救おうと思った。

そして「週刊プロレス」の記者、山本隆司、後のターザン山本に
「UWFの記事を書いて欲しい」
と頼んだ。
38歳の山本は喜んで請け負った。
更級は編集長の杉山頴男にも
「ゴングを突き放すチャンスですよ」
とライバル誌「週刊ゴング」の名前を出し、
「UWFが伸びれば、全日本や新日本との関係悪化を恐れ動けないゴングにぶっちぎりで勝てる。
もし新日本が何かいってきても猪木さんが取材拒否するはずはないから、ぶつかればぶつかるほどファンは週プロを買うよ」
と口説いた。
杉山頴男も激しく同意。
週刊プロレスは、UWFを全面的に応援し、新日本プロレスを恐れずに思ったことを書くことを決めた。
記者が新日本プロレスの道場や試合会場に取材に行けば車代が出たが、週刊プロレスは書きたいことを書くために接待を断った。

さらに週刊プロレスはUWFに新日本プロレスから藤原喜明を引き抜くようアドバイスした。
「藤原さんを『1番強いアンタが必要だ』といって引き抜いてくれ。
ファンがどんな試合をするかわかっている名の通ったレスラーはいらない。
UWFが)藤原さんを引き抜けば、みんな『どうして藤原なんだろう?」』と思う。
そこで週プロはUWFは『新日本プロレスの道場主、精神的支柱を引き抜いてしまった』と書けば、みんな、『なるほど』と思う。
だけど真の狙いはそこじゃない。
UWFは新日本とケンカするんです。
だから猪木、文句があるならいってこいという毅然とした態度で立ち向かってほしい」
UWFのスタッフは、週刊プロレスに
「金の話をしないように・・・」
と注意されたことを頭に入れながら藤原喜明にコンタクト。
藤原喜明は話を笑って聞くだけで
「いずれまた」
といって帰っていった。
その後、浦田昇社長も足立区の藤原の自宅を訪ねた。
「俺が必要ですか?」
「必要じゃなかったら、こんなとこまで来ませんよ」
藤原は「こんなとこ」といわれ、少しカチンとなったが、いろいろな話を聞いた上で
「若手を育てて欲しい」
といわれ
「わかりました。
1週間だけ時間をください」
と答えた。

このとき藤原喜明は35歳。
これまで新日本プロレスのリングで地位も給料も低かった。
坂口征二や長州力のように華やかなスポーツ歴があるわけではなく、藤波辰巳や前田日明のように大きな体や、佐山サトルのような身体能力もない。
しかし道場のスパーリングでは誰にも負けず、道場破りが来れば、必ず挑戦を受けて退け、新日本プロレスの「番犬」と呼ばれていた。
「どうせ俺の人生はゴミよ」
と吼えていた番犬は、UWFの話を猪木に相談してみようとタイミングを探った。
そして車の中で
「UWFに・・」
といった途端に
「えっ、お前と誰が行くんだ?」
といわれ
「なんだ、俺って新日本に必要ないんだって上に俺よりも誰かの方が大切なんだってことか」
という気持ちになって、数日、移籍話を受けることを決めた。
「堂々とUWFに移った。
俺は誰も裏切ってないからね」
そして藤原教室(新日本プロレスの道場で行われていた藤原喜明が関節技を教え、真剣勝負の寝技スパーリングをする教室)の教え子、高田延彦、小杉俊二、山田恵一(獣神サンダーライガー)、武藤敬司らにいった。
「俺は新日本プロレスをやめてUWFに行く。
一緒に来るヤツはいるか?」

22歳の高田延彦は、藤原喜明がUWFに行くことを決めたことを知って動揺した。
猪木や山本小鉄、先輩レスラーたちは依然として大きな存在だった。
その上1ヵ月後にはダイナマイト・キッドとのWWFジュニアヘビー級タイトルマッチが決まっていた。
長年苦労を積んで会社でポジションを上げてきた。
しかし高田延彦にとって
「強くなりたい」
ということがすべてだった。
プロレスという虚構の世界で藤原喜明の関節技だけは本物だった。
また実際に体をぶつけて自分を強くしてくれた前田日明のこともずっと気になっていた。
「シュートを教えてくれる人がいなくなれば俺はプロレスラーとしてやっていけない」
高田信彦は、バッグ1つもって、寮を出た。
そしてメジャー団体、新日本プロレスからマイナー団体、UWFへの移籍するため、前田日明の部屋の転がり込んだ。

1984年6月27日、UWFは東京、九段のホテルグランドパレスで記者会見を開き、

・藤原喜明と高田延彦が新加入したこと
・1ヵ月後の7月23、24日、後楽園ホールで「無限大記念日」を開催すること

を発表。
藤原喜明はウイスキービンを片手の持って登場し、席に着くとラッパ飲み。
「浦田社長にホレた。
あ、でも俺、オカマじゃないよ。
ただ社長(猪木)を裏切ったのは痛恨の極み。
こうなれば自分の持てる力すべてをUWFに注ぎ込みたい。
俺は前田と高田を殺人マシンにする」
「高田、本当にありがとう。
俺がUWFに行くといったら「僕も行きます」といってくれた。
うれしかったぜ。
UWFが潰れたら俺の全財産を全部お前にやるからな」
高田延彦も
「前田さんは兄のようなもの。
藤原さんがUWF行きを決めたことで自分も移籍を決めた」
と語った。
前田日明は、副鼻腔炎の手術を受けて入院中で、本来、この会見に出る予定ではなかったが、病院を抜け出して出席。
藤原にウイスキーを回されて飲まぬわけにいかず、結果、鼻血を出し、病院に戻ったときには扁桃腺炎も併発して40度の熱を出した。

さらに翌日、同じホテルでUWFが記者会見。

・タイガーマスク(佐山サトル)が「ザ・タイガー」と改名し「無限大記念日」で1年ぶりに復帰すること
・タイガージムのインストラクター、山崎一夫も参戦すること

を発表した。
しかし2人はUWFへ入るのではなく、タイガージム所属のまま
「UWFに協力するという」
というスタンスで、契約は2試合だけだった。
「やっとそろったな」
藤原喜明の言葉に、佐山、前田、高田、ゴッチを尊敬するセメントレスラーたちは笑い合った。
その後、藤原喜明は渡米し、フロリダ、オデッサのカール・ゴッチを訪ね、UWFへの協力を依頼。
ゴッチはUWFの最高顧問に就任した。

1984年7月16日、世田谷区大倉にUWFの道場ができた。
旗揚げから3ヵ月間、選手は各自、ジムでトレーニングするだけでスパーリングはしていなかった。
リングの運搬と設営を行うYMエンタープライズは、長年にわたって新日本プロレスの仕事をしていたが、関係悪化を恐れずにUWFにもリングを提供していた。
社長の廣瀬義輝は、道場探しにも協力したが、UWFが払える家賃でリングを常設できる広さがある物件はなかなか見つからなかった。
UWFのレフリー、北沢幹之と廣瀬義輝は、世田谷の第一自動車運送を訪問。
UWFの後援者だった寺島幸男社長は2つ返事で引き受け、150坪の倉庫を月20万円という破格の安値で提供した。
同じ世田谷区の野毛にある新日本プロレスの道場には大きな風呂や調理場や応接室があり、若手が寝泊りする寮が隣接している。
それに比べ、UWFの道場は倉庫にリングを置いただけ。
おまけにリングを置くために支柱を1本切ったため、サンドバッグを蹴ると2階で働いている寺島の机はグラグラと揺れた。
そして練習後、近くのスーパーで買った材料で安チャンコをみんなでつついた。

道場ができたとき、後楽園ホールの「無限大記念日」は1週間後に迫っていた。
試合前日、どのような感じになるのか、藤原喜明、佐山サトル、前田日明、高田延彦、タッグマッチで対戦する4人はスパーリングを行った。
するとどうしてもグラウンドでの膠着が続いてしまう。
こんなリアルなファイトを客に理解できるのか?
みんな呆然となってしまった。
藤原喜明はいった。
「プロレスを100%無視して100%ゴッチ流格闘術というのは無理があるのかもしれない。
ところどころ従来のプロレスのエッセンスを入れないとファンは納得しない」
無限大記念日は、タイガーマスクが復帰すると聞いたファンが押し寄せ超満員になった。
藤原喜明、佐山サトル、前田日明、高田延彦は限りなく格闘技に近いプロレスを行った。
そこには4人が4人、自分の求めるスタイルが現れていた。
前田日明にロープに振られた佐山サトルは、リバウンドして戻らず、ロープに腕をからませて止まった。
会場は
「オオっ」
とどよめいた。

その後楽園ホールから2週間後、1984年8月4日、午前、佐山サトルがUWFと契約し、午後、東京、新宿のホテルセンチュリーハイアットで記者会見が開かれ、

・佐山サトルが正式入団したこと
・ザ・タイガーから「スーパー・タイガー」への改名したこと
・29日から「ビクトリー・ウイークス」の始まること

が発表された。
前回、佐山はタイガージム所属のまま2試合だけ出場という契約だったが、今回はUWFに入るという。
当然、タイガージムでのトラブルが懸念されたが、佐山は
「この1年間面倒をみてくれた会長には感謝しているし、UWF入りは会長の了承もとっている」
と否定。
4日後、ショウジ・コンチャは、

・佐山サトルはタイガージムを閉鎖に追い込む状況を生み、多大な被害を与えた
・UWFはタイガージムに圧力をかけて一方的に移籍を強要した
・佐山の行動は社会的に許されない
・法的手段をとる

という趣旨の声明文を出したが、タイガージムの管理は、佐山サトルが行った。

その後、山崎一夫が佐山を追う形で、そして新日本プロレスにいた木戸修もUWFへ入った。
木戸修は、新日本プロレス創設メンバーの1人で、藤波辰巳と共にアメリカでカール・ゴッチの指導を受け
「ムスコ」
「私の領域に一番近づいた男」
と評された。
帰国後、寡黙な性格と地味なファイトスタイルでスター性抜群の藤波と、前座レスラーとメインイベンターまで差がついた。
体調を崩し入院し新日本プロレスの試合を欠場していたところ、見舞いに来たゴッチに説得され移籍を決意した。
その「いぶし銀」と呼ばれたグラウンド・テクニックはUWF向きと思われた。


1984年8月29日~9月11日の2週間、UWFは「ビクトリー・ウイークス」が行った。
スローガンは「原点回帰」
UWFはこのシリーズからリアルファイト、真剣勝負という路線をハッキリ示し始める。
「UWF実力ナンバーワン決定戦」として、所属選手7人の総当たりリーグ戦が行われ、選手は1日2戦を戦い、勝ち星を争った。

第1戦
①木戸 修 vs 高田伸彦
②マッハ隼人 vs 前田日明
③藤原喜明 vs 山崎一夫
④ピート・ロバーツ&フィル・ラファイヤー vs ジョー・ソルコフ&ディーン・ソルコフ
⑤マッハ隼人 vs 高田伸彦
⑥木戸 修 vs 山崎一夫
⑦スーパー・タイガー vs 前田日明

第2戦
①スーパー・タイガー vs 山崎一夫
②藤原喜明 vs マッハ隼人
③前田日明 vs 高田伸彦
④ピート・ロバーツ&ディーン・ソルコフ vs フィル・ラファイヤー&ジョー・ソルコフ
⑤マッハ隼人 vs スーパー・タイガー
⑥木戸修 vs 前田日明
⑦藤原喜明 vs 高田伸彦

第3戦
①マッハ隼人 vs 山崎一夫
②スーパー・タイガー vs 高田伸彦
③藤原喜明 vs 木戸 修
④ピート・ロバーツ&ジョー・ソルコフ vs フィル・ラファイヤー&ディーン・ソルコフ
⑤前田日明 vs 山崎一夫
⑥木戸修 vs マッハ隼人
⑦藤原喜明 vs スーパー・タイガー

最終戦
①高田伸彦 vs 山崎一夫
②藤原喜明 vs 前田日明
③木戸 修 vs スーパー・タイガー
④ピート・ロバーツ vs ディーン・ソルコフ
⑤フィル・ラファイヤー vs ジョー・ソルコフ
⑥スペシャル・タッグマッチ タイガー&山崎 vs木戸&藤原(リーグ戦1位&4位 vs リーグ戦2位&3位)


「UWF実力ナンバーワン決定戦」は、最終的に佐山と木戸が10点で並び、優勝決定戦へ。
木戸は佐山の速いキックに防戦一方になり、最後は佐山がバックマウントからパンチを連打。
動かなくなった木戸をみてレフリーが試合を止めた。
その後、行われたスペシャル・タッグマッチでは、藤原が佐山の腕を極めタップさせた。
そして「UWFオフィシャル・ランキング」は

1位 スーパー・タイガー
2位 木戸修
3位 藤原喜明
4位 山崎一夫
5位 マッハ隼人、前田日明、高田伸彦

と決まった。
最高顧問、カール・ゴッチは
「まだまだ序章。
まずは選手を最大限まで鍛え上げる。
そしていずれはプロレス界全体に向けて問題提起していく」
とコメント。

UWFには従来のプロレスのように凶器攻撃や場外乱闘がなかった。
ロープに跳ばないし、ブレーンバスターもバックドロップも、リングアウトも引き分けもなし。
あるのは関節技とキック、そして完全決着。
フィニッシュは地味な寝技が多かった。
団体エースと目されていた前田日明は5位。
佐山サトルは、初代タイガーマスク時代のハデな空中殺法を控え、鋭い打撃と関節技で勝負。
マッハ隼人が藤原喜明に勝つなどプロレスでは考えられない結末。
意外なことが続出し、観客はリアルファイト、真剣勝負の醍醐味を感じた。
しかし実はケツ(フィニッシュと勝敗)は決められ、内容はアドリブというプロレスだった。
もちろん例外もあった。
中野巽耀は、第1回入門テストに合格したUWF入門後して2ヵ月でデビューしたが、試合前に
「普段、スパーリングでやっていることをそのままやればいいから」
と藤原喜明にいわれ、カリフラワー状態だった耳から注射器で血を抜いてもらった。
そして試合はブックのないセメントマッチで行われ、、安全を考慮して藤原喜明がレフリーを務めた。

1984年9月、後楽園ホールで佐山サトルと藤原喜明が対戦。
佐山はニードロップ、ムーンサルトプレス、藤原はパイルドライバー、4の字固めなどプロレス技も出した。
そして佐山の速い蹴りを繰り出し、藤原は関節技を極めた。
最後は何度蹴られても立ち上がる藤原に業を煮やした佐山が、スタンドからチキンウイングフェイスロック(相手の腕を極めて首を絞める技)を極め、ギブアップさせた。
スタンドからの関節技など、これまでのプロレスにはなかったクライマックスにファンは驚いた。
この試合は事前に決められた筋書きでは、佐山のキックで藤原がダウンして動かなくなりレフリーストップするというものだったが、藤原が何度も立ち上がったため、急遽、佐山が関節技で終わらせた。
4日後、佐山は前田日明と対戦し、ムエタイ式のしなる蹴りと空手式の重い蹴りが交錯。
173cmの佐山は192cmの前田にハイキックを繰り出して、最後は裸絞めで勝利。
10月、木戸&藤原 vs スーパータイガー&前田戦では、佐山は木戸の助走なしのドロップキックをスウェーバック(上体を後ろにそらす)だけでかわした。
そして前田の膝蹴りで額を割られ血だるまになった藤原に佐山がチキンウイングフェイスロック。
しかし藤原は投げ技で返し、逆にチキンウイングフェイスロックを極めてギブアップを奪った。
タイガーマスク、ザ・タイガー、スーパータイガーを通じて佐山が負けたのは3年半ぶり。
虎の不敗神話を終わらせた藤原は佐山に抱きついた後、その手を上げた。
観客は総立ち。
多くのファンが泣きながら拳を突き上げた。
この伝説の一戦は、資金力が乏しい団体らしく映像が残っていないが、感動したファンは試合が終わってもなかなか帰らなかったという。
一方、同日、従来のプロレスラーのスキルしかないラッシャー木村と剛竜馬がUWFを去った。
UWFはゴッチチルドレンだけになってしまった。

藤原喜明、佐山サトル、前田日明、高田延彦、彼らはゴッチを深く尊敬していた。
しかし佐山は

・サブミッションレスリングだけでなく打撃も本格的に習得している
・新しい格闘技を創始する志を持っている
・自らのジムを持っている

という点で異なっていた。
格闘技ショーではなく、
「打撃が急所にまともに入ったら立っていられない」
「関節技が極まれば絶対に逃げられない」
というリアルファイトの格闘技をつくることが何よりも大事で最優先。
そのための課題は、現時点で2つ。

・殴る、蹴る、極めるという総合格闘技を追求すれば、古代ローマで生死を賭けて行われたパンクラチオンに行きついてしまうが、これをいかにセーブして現在社会にマッチさせるか
・選手育成。

佐山にとってUWFはあくまでプロレス。
そこで得た資金を使い、選手を育て、リアルファイトの団体を起こす計画だった。
(UWFがその団体になることも十分にあった)
一方、藤原喜明、前田日明、高田延彦にとって、UWFは唯一の場所であり、生活の糧だった。

旗揚げから半年、資金もテレビ放映もスポンサーもないままUWFは生き残っていた。
従来のプロレスファンの一部がUWF信者となり、それまでプロレスを無視していた格闘技ファンがTV放映されないUWFを観るために会場に足を運んだ。
その迫力に、結末の決まったショーではなく真剣勝負の格闘技と信じ、ジャイアント馬場の全日本プロレスはもちろん、ストロングスタイルのアントニオ猪木の新日本プロレスも八百長ファイトにしかみえなくなっていた。
人気を得たUWFは、TBSと放映契約を結ぶことになった。
しかし1984年10月19日、UWF事務所に、突然、白手袋をはめた警察官が踏み込んできて、大声で動かないように指示。
警察はショウジ・コンチャの書いた念書を提出させ、浦田昇社長を逮捕した。
その容疑は、約2ヵ月前(1984年8月4日)に佐山サトルのUWF入団会見が行われたが、その2日前、東京都新宿区荒木町に本拠を置く暴力団、住吉連合会の牧睦会の会長代行、滝沢弘と共にショウジ・コンチャを東京、港区赤坂の喫茶店に呼び出し、
「半殺しにするぞ」
と脅迫し、佐山サトルに関する一切の権利を放棄する念書を書かせたというもの。
逮捕後、浦田社長は以下のように説明した。
コンチャは暴力団とトラブルを抱えており、居場所を探していた滝沢はUWFに電話。
事務所の人間は浦田社長と喫茶店で会っていることを教えた。
そして浦田社長とコンチャが喫茶店で話し合っていたところに滝沢が現れ、コンチャを店の奥に連れて行った。
そして話を聞いて浦田社長に恩を売って後で金を請求するつもりで
「念書を書け」
と命じた。
浦田社長は何も知らないまま、その念書を受け取った。

しかし検察は信用せず、4日間、ぶっ続けで取り調べを行い、衰弱した浦田社長は、それまで否認してきた検察のストーリーが書かれた調書にサイン。
検察は脅迫よりも罪が重い「強要罪」が適用。
裁判では証拠が微妙な上、コンチャの証言に誇大妄想的な部分が認めらたたため、数ヶ月という短い禁固刑でしかも執行猶予つきの判決。
しかし有罪であること自体、不服な浦田社長は控訴したが、
「自白調書がある」
と認められず、弁護団はあきれて上告を勧めたが、浦田社長は
「日本の刑事裁判は信用できない。
もうイヤだ」
と拒否し、有罪が確定。
コンチャから損害賠償請求はなかった。
浦田昇社長の勾留中、スタッフは出てくるまで頑張ろうと誓い、選手も黙々と練習した。
この間、道場として自社の倉庫を提供した寺島幸男から500万円を提供を受けるなど周囲の厚情にも支えられた。
一方、逮捕の数日前に放映を決めていたTBSはすぐに撤退した。

警察に事務所に踏み込まれて1ヵ月後の11月10日、3人の若者が週刊プロレス編集部を訪問し
「UWFテレビ放映熱望署名」
と書かれたノートを9冊、差し出した。
みると関東の大学のプロレス研究会の学生が署名を集めていて、週刊プロレスはそれを各TV局に届けた。
5日後、UWFは新シリーズ「イヤーエンドスペシャル」と開始。
開幕戦の後楽園ホールは3200人の超満員。
試合前、リング上で行われるスパーリングを食い入るようにみつめた。
藤原喜明は新日本プロレス時代から試合前スパーリングを続けていたが、関節技や寝技の攻防で客が
「おおっ」
と声を漏らすのを初めて聞き、客のみる目が肥えてきているのを感じた。
彼らは試合が始まっても真剣にみていた。
12月5日、イヤーエンドスペシャル最終戦、メインイベントは、スーパータイガーvs 藤原喜明。
佐山サトルは藤原に55発のキックを叩き込んでKO勝ち。
悲鳴が上がるほどの惨劇だったが、3日後、藤原喜明は、ビールのロング缶片手に早稲田大学でトークイベントに参加。
その顔に変形するほどの腫れや傷はなかった。
藤原のタフネスによるものなのか、イベントの主催者、早稲田大学プロレス研究会を含め、多くの人にはわからなかった。

しかし格闘技をやっている人間はUWFが100%プロレスであると確信していた。
「相手を倒すためには中心部にインパクトを与えフォロースルーを加えることが必要になる。
フォロースルーがあるからこそ相手にダメージを与えることができるんです。
UWFのキックはインパクト(当たる)まで速くみせて、そこで止める。
レガースをした足はパーンといい音を立てるけど、フォロースルーがないから相手にダメージを与えない。
プロレス的にうまく蹴っているなという印象です」
(正道会館館長、石井和義)
打撃だけでなく、投技や寝技、関節技についても専門家がみれば、UWFは真剣勝負としては疑問な場面が多々あった。
つまりバレていた。
しかし多くの若者たちは超マイナーで超前衛的なUWFに強く魅了され強く支持していた。

このトークイベントに17歳の星名治がいた。
タイガージムに入会し、会場に足を運んでUWFの試合を観続けていた星名は、勇気を振り絞って藤原喜明に入門を直訴し新弟子となった。
UWF道場での練習は10時開始。
星名たち新弟子は、それまでに掃除や準備を行う。
道場のある世田谷区に住む前田日明、高田延彦、山崎一夫は定刻にやってきて、中でも前田日明は自転車通勤。
足立区に住む藤原喜明はよく遅刻。
佐山サトルは、ほとんど来なかった。
みんな仲がよく道場の雰囲気は最高で、ゴッチ式を含むトレーニングと打撃、寝技、投技の技術練習、そしてスパーリングを行う。
星名は、寝技のスパーリングで腕や脚をアメのように曲げられながら、少しずつ逃げ方を覚えていった。
藤原はとにかくうまく、前田はとにかく怖く、高田はとにかく力が強く、木戸や山崎は比較的優しかった。
カールゴッチは、当たり前のように肋骨や背骨を強く押したり、ケツの穴に指を入れるなどエゲツなかった。
星名は、試合の日、会場で佐山サトルのキックをミットで受けたが、そのスピードの速さにビックリした。
数ヵ月後、自分のデビュー戦が決まったが、試合直前、レフリーが
「今日コレな」
といって拳を握って親指を下に向けた。
負け役という意味だった。
それまで何度も道場で強かった先輩が試合でアッサリ負けるのをみていたので、試合の結末が決まっていることはわかっていた。
「でも僕の中で何も変わらなかった。
自分がやっていることは間違ってないと思っていたからです。
試合の中身は試合時間も含め何も決まっていません。
決められているのは勝敗とフィニッシュだけです」
(星名治)

1985年1月、UWFは「サンライズ・ウイークス」を開始。
開幕戦、1月7日の後楽園は超満員。
続く、千葉県松戸市 、千葉県市原市、東京都福生市、愛知県豊川市、長野県飯田市では観客数は伸びなかったものの、1月16日の大阪府立臨海スポーツセンターでは再び超満員。
メインイベントは、スーパータイガー vs 藤原喜明。
勝敗は、KO、ギブアップ、レフリーストップ、ドクターストップのみで、3カウントのフォールもロープブレイクも認められないという特別ルール。
佐山サトルは一方的に蹴りまくった。
藤原喜明は倒れ、倒れた後も蹴られ続けたが、組みついて素早くグラウンドに持ち込み、チキンアームアームロックで佐山の左肩を極めた。
佐山はうめき声を上げ、前田や高田があわててかけよった。
佐山は左肩を脱臼した-とされたがすべて決められた演出だった。

1985年5月2日、、UWFに「海外タイムズ」というスポンサーがついた。
海外タイムズは大会ポスターやチケットに社の広告を入れることを条件に月1000万円を払った。
UWFは「海外UWF」に社名を変更。
グアムキャンプが敢行され、11ヵ月間、給料が出ず、清算されない領収書を保管し続けていたUWFスタッフたちにも給料が出た。
羽振りがよくなると、すぐにテレビ東京で中継も決定した。

1985年6月、UWFは

・7月からリーグ制を導入
・試合は3週間に5試合
・レガースとキックシューズをつけない場合、キック攻撃禁止
・試合中はダウンとロープエスケープをロストポイントとしてカウント
・グラウンドでの打撃は禁止
・顔面への拳、頭突き、肘、膝での攻撃は禁止

と新ルール、新制度を発表した。
リーグ制は、週刊プロレスが発案で、Aリーグ、Bリーグにわかれて総当たり戦を行う。
勝ち=1点、負け=0点、引き分け、0.5点でポイントを争い、Aリーグ最下位はBリーグ降格、Bリーグ最上位者はAリーグ昇格になる。
選手の向上心を煽ると共に、得るものも失うものもあまりない弱小団体で悲しみと喜びを生み出そうという目論見もあった。
その他はすべて佐山サトル考案によるもの。
試合数を減らし間隔をあけることで、練習、トレーニング、技術、コンディショニングの向上を図り、その結果、試合の質が良くなり、観客にも認めてもらえると主張した。
シューティングレガースとシューティングシューズは佐山サトル考案で、初代タイガーマスクのマスクをつくったOJISAN企画の豊嶋祐司が製作。
かつて1977年10月に行われたアントニオ猪木 vs チャック・ウェップナー(映画「ROCKY」のモデル)戦でも佐山サトル考案のオープンフィンガーグローブが使用されたが、UWFのレガースの中身は発泡スチロールで表面は本皮。
シューズも同じ素材を使用し、甲の部分にクッションが入り、ヒモはハイキックを蹴ったときに目に入らないよう踵部についていた。

海外タイムズは、実は純金ファミリー契約証券という2000億円以上を騙し取っていた豊田商事の子会社だった。
豊田商事の永野一男会長は無類の格闘技好きで、ボクシングの協栄ジムの後援者だった。
協栄ジムの金平正紀の紹介でUWFはスポンサードを受けることになった。
浦田昇社長は、数回、永野一男会長に会っていたが、海外タイムズや豊田商事が何をしている会社なのかはまったく把握していなかった。
やがて豊田商事は自転車操業の末に破綻。
被害者は、高い利息を約束され投資したにも関わらず、元金さえ戻らなくなり、自殺者まで出た。
UWFの新ルール発表から10日後、6月18日、大阪市北区天神橋の永野一男のマンションの前で、大勢の報道陣が張りつく中、2人の男が現れ、窓を破壊し部屋に侵入。
永野一男をメッタ刺しにして殺した。
たくさんのマスコミの前で起こったショッキングな殺人事件に世間は驚愕。
UWFはあわてて「海外UWF」から「UWF」に名前を戻したが、テレビ東京との中継話は消えてしまった。
浦田社長の逮捕、TBS撤退、スポンサー会社の社長の刺殺事件、テレび東京撤退、異常事態の連続でUWFのスタッフの精神状態はボロボロだった。

1985年7月8日には安生洋二がデビュー。
幼稚園から小4までニュージーランドで過ごしたため、小5で英検2級を取得。
東大に行けると騒がれた。
中学生のとき、タイガーマスクに憧れ、高田延彦の試合をみて、高校卒業後、UWF入りを志願した。

UWFの道場では、毎日藤原喜明を中心に、前田日明が筆頭となって汗を流し、みんなで安チャンコをつついていた。
事件後、道場にまったく来ずにリーダーシップをとって好き勝手に決めていく佐山サトルに対してネガティブな感情が生まれていた。
藤原喜明は
「強くて、怖くて、面白いプロレス」
が理想で、前田日明は、
「プロレスはもともと総合格闘技。
ホンモノのプロレスは禁じ手のないもので、どんな手を使っても相手を倒せばいい。
佐山さんのルールは窮屈だ」
と感じていた。
佐山サトルは決して独断ではなく、UWFをよくするためにアイデアを出し、みんな同意を得ていた。
しかしスーパータイガージムを経営している佐山が
「試合は3週間に5試合」
といっても、スポンサーを失ったUWFしか収入がない選手やスタッフとは切実さが違う。
スタッフは試合数を増やすよう懇願したが、佐山は
「赤字になる地方はやめて都市部だけでやるほうが合理的」
といって譲らなかった。
選手もロクに道場にも来ない佐山サトルと話す機会もなく、フラストレーションを募らせていった。
「3週間に5試合なんで冗談じゃない。
UWFが赤字を解消するためには興行数の増加が必要なのに、金持ちの理想主義者には営業の苦しさがわからない」
(前田日明)

刺殺事件から3ヵ月後、9月2日、大阪府立臨海スポーツセンターで行われたスーパータイガー vs 前田日明戦は異様な試合となった。
2人はまるでかみ合わなかった。
ケンカ腰の前田といつものように試合をしようとする佐山。
前田はケンカ腰だが、完全にシュートではなく、ある一戦は越えないように抑えている。
最後は組み合った状態から前田がボディに膝蹴り。
佐山聡が金的に当たったとアピールししゃがみ込み、レフリーが試合を止め、反則負けとなった前田はさっさとリングを下りた。
このとき実際には金的には当たっていなかったが、このままだと危険だと判断した佐山がウソをついて試合を終わらせた。
試合後、前田は
「責任を取ってオレは辞めます」
といい以後、試合を欠場。


9月6日、藤原喜明 vs 木戸修で、
「顔面への拳、頭突き、肘、膝での攻撃は禁止」
とルールで決まっているのに藤原は木戸に頭突きを3連発。
レフリーも反則負けにしなかった。
2人はまるで佐山に従わないことを行動で表現したようだった。
9月11日、メインで藤原と佐山が対戦。
藤原は、両手で佐山の髪の毛をつかんで反則の頭突きを見舞い、19分31秒、わき固めで勝利。
総当たり戦で優勝した藤原は
「前田、逃げるな。
コレを獲ってみい」」
「俺はシューティングという言葉が好きじゃない。
俺はプロフェッショナルのレスラーだ」
とマイクアピール。
佐山からしてみれば理不尽な話だった。
たしかに新ルールを提案したが、みんなの同意は得ていたし、文句があるなら何故そのときいわないのか。
佐山はUWFを去った。
結局、この1985年9月11日が最後の試合となり、UWFは1年半で終わった。

1985年10月1日、佐山サトルが「ケーフェイ」を出版。
ケーフェイ (Kayfabe) はプロレス界の隠語で、語源は、「Be Fake(でっち上げ)」を逆さに読んだとする説やラテン語の「Cate Fabri(偽る)」を英語読みして「Kayfabe」となったという説などがあるが、いずれにしても、詐欺、インチキ、捏造などという意味。
多くのファンは佐山サトルと前田日明とのケンカマッチに
「佐山はシュートの団体をつくろうとしているのに、実際にシュート・マッチになると逃げた」
一方、前田日明には、
「勇気があって強い」
という印象を持った。
そして佐山サトルがUWFを去ると
「逃げた」
と思った。
株を大暴落させた佐山だったが、この本では自身の理想の格闘技「シューティング」について語った。
そして真剣勝負の格闘技とプロレスの違い、プロレスの裏側も暴露。
この本の作成に協力した週刊プロレスの編集長、ターザン山本とイラストレーター、更級四郎は、UWFから電話で
「これからは敵ですね」
といわれた。
ターザン山本は、
「佐山サトルがプロレスが八百長であることを明言したことは、前田日明や藤原喜明には決してできないこと」
「前田日明や藤原喜明たちは、カネと車と女が好きな典型的なプロレスラー」
と総合格闘技という新しいプロレスをつくるという同じ夢に向かって進みながら、理想の高い佐山と、現実的な団体経営を求めたメンバーとの対立がUWFが終わった原因としている。
佐山は、10代から新しい格闘技をクリエイトすることを考え、古今東西の格闘技を研究し続けていた。
前田日明も大の読書好きで、格闘技に大きな理想も持ち、多くの情報や知識も有していたが、思想は持っていなかった。

浦田昇社長は新日本プロレス、全日本プロレスとの業務提携交渉を開始。
全日本は前田日明と高田延彦を要求したが、本人たちが全員ではないことを理由に断った。
1985年11月25日、UWFのスタッフは、血判状を作成し、浦田昇社長に退陣を迫った。
浦田昇社長にとって2枚目の血判状。
1年半前、UWFを旗揚げしてから、たった5回興行をしただけで
「新日本プロレスと提携しよう」
という新間寿に
「どうしてですか?」
「なんでやめるんですか?」
と大反対し、浦田昇社長にUWFの継続を訴えたスタッフが1枚目の血判状を持ってきた。
そして今度は辞めてくれというわけである。
「私が事件を起こしたからスポンサーがつかない。
だから辞めてくれと。
いやいや、願ってもないことで(苦笑)」
浦田昇はUWFの借金2億円だけを引き受け、快く辞めた。

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