1984年8月29日~9月11日の2週間、UWFは「ビクトリー・ウイークス」が行った。
スローガンは「原点回帰」
UWFはこのシリーズからリアルファイト、真剣勝負という路線をハッキリ示し始める。
「UWF実力ナンバーワン決定戦」として、所属選手7人の総当たりリーグ戦が行われ、選手は1日2戦を戦い、勝ち星を争った。
第1戦
①木戸 修 vs 高田伸彦
②マッハ隼人 vs 前田日明
③藤原喜明 vs 山崎一夫
④ピート・ロバーツ&フィル・ラファイヤー vs ジョー・ソルコフ&ディーン・ソルコフ
⑤マッハ隼人 vs 高田伸彦
⑥木戸 修 vs 山崎一夫
⑦スーパー・タイガー vs 前田日明
第2戦
①スーパー・タイガー vs 山崎一夫
②藤原喜明 vs マッハ隼人
③前田日明 vs 高田伸彦
④ピート・ロバーツ&ディーン・ソルコフ vs フィル・ラファイヤー&ジョー・ソルコフ
⑤マッハ隼人 vs スーパー・タイガー
⑥木戸修 vs 前田日明
⑦藤原喜明 vs 高田伸彦
第3戦
①マッハ隼人 vs 山崎一夫
②スーパー・タイガー vs 高田伸彦
③藤原喜明 vs 木戸 修
④ピート・ロバーツ&ジョー・ソルコフ vs フィル・ラファイヤー&ディーン・ソルコフ
⑤前田日明 vs 山崎一夫
⑥木戸修 vs マッハ隼人
⑦藤原喜明 vs スーパー・タイガー
最終戦
①高田伸彦 vs 山崎一夫
②藤原喜明 vs 前田日明
③木戸 修 vs スーパー・タイガー
④ピート・ロバーツ vs ディーン・ソルコフ
⑤フィル・ラファイヤー vs ジョー・ソルコフ
⑥スペシャル・タッグマッチ タイガー&山崎 vs木戸&藤原(リーグ戦1位&4位 vs リーグ戦2位&3位)
「UWF実力ナンバーワン決定戦」は、最終的に佐山と木戸が10点で並び、優勝決定戦へ。
木戸は佐山の速いキックに防戦一方になり、最後は佐山がバックマウントからパンチを連打。
動かなくなった木戸をみてレフリーが試合を止めた。
その後、行われたスペシャル・タッグマッチでは、藤原が佐山の腕を極めタップさせた。
そして「UWFオフィシャル・ランキング」は
1位 スーパー・タイガー
2位 木戸修
3位 藤原喜明
4位 山崎一夫
5位 マッハ隼人、前田日明、高田伸彦
と決まった。
最高顧問、カール・ゴッチは
「まだまだ序章。
まずは選手を最大限まで鍛え上げる。
そしていずれはプロレス界全体に向けて問題提起していく」
とコメント。
UWFには従来のプロレスのように凶器攻撃や場外乱闘がなかった。
ロープに跳ばないし、ブレーンバスターもバックドロップも、リングアウトも引き分けもなし。
あるのは関節技とキック、そして完全決着。
フィニッシュは地味な寝技が多かった。
団体エースと目されていた前田日明は5位。
佐山サトルは、初代タイガーマスク時代のハデな空中殺法を控え、鋭い打撃と関節技で勝負。
マッハ隼人が藤原喜明に勝つなどプロレスでは考えられない結末。
意外なことが続出し、観客はリアルファイト、真剣勝負の醍醐味を感じた。
しかし実はケツ(フィニッシュと勝敗)は決められ、内容はアドリブというプロレスだった。
もちろん例外もあった。
中野巽耀は、第1回入門テストに合格したUWF入門後して2ヵ月でデビューしたが、試合前に
「普段、スパーリングでやっていることをそのままやればいいから」
と藤原喜明にいわれ、カリフラワー状態だった耳から注射器で血を抜いてもらった。
そして試合はブックのないセメントマッチで行われ、、安全を考慮して藤原喜明がレフリーを務めた。
1984年9月、後楽園ホールで佐山サトルと藤原喜明が対戦。
佐山はニードロップ、ムーンサルトプレス、藤原はパイルドライバー、4の字固めなどプロレス技も出した。
そして佐山の速い蹴りを繰り出し、藤原は関節技を極めた。
最後は何度蹴られても立ち上がる藤原に業を煮やした佐山が、スタンドからチキンウイングフェイスロック(相手の腕を極めて首を絞める技)を極め、ギブアップさせた。
スタンドからの関節技など、これまでのプロレスにはなかったクライマックスにファンは驚いた。
この試合は事前に決められた筋書きでは、佐山のキックで藤原がダウンして動かなくなりレフリーストップするというものだったが、藤原が何度も立ち上がったため、急遽、佐山が関節技で終わらせた。
4日後、佐山は前田日明と対戦し、ムエタイ式のしなる蹴りと空手式の重い蹴りが交錯。
173cmの佐山は192cmの前田にハイキックを繰り出して、最後は裸絞めで勝利。
10月、木戸&藤原 vs スーパータイガー&前田戦では、佐山は木戸の助走なしのドロップキックをスウェーバック(上体を後ろにそらす)だけでかわした。
そして前田の膝蹴りで額を割られ血だるまになった藤原に佐山がチキンウイングフェイスロック。
しかし藤原は投げ技で返し、逆にチキンウイングフェイスロックを極めてギブアップを奪った。
タイガーマスク、ザ・タイガー、スーパータイガーを通じて佐山が負けたのは3年半ぶり。
虎の不敗神話を終わらせた藤原は佐山に抱きついた後、その手を上げた。
観客は総立ち。
多くのファンが泣きながら拳を突き上げた。
この伝説の一戦は、資金力が乏しい団体らしく映像が残っていないが、感動したファンは試合が終わってもなかなか帰らなかったという。
一方、同日、従来のプロレスラーのスキルしかないラッシャー木村と剛竜馬がUWFを去った。
UWFはゴッチチルドレンだけになってしまった。
藤原喜明、佐山サトル、前田日明、高田延彦、彼らはゴッチを深く尊敬していた。
しかし佐山は
・サブミッションレスリングだけでなく打撃も本格的に習得している
・新しい格闘技を創始する志を持っている
・自らのジムを持っている
という点で異なっていた。
格闘技ショーではなく、
「打撃が急所にまともに入ったら立っていられない」
「関節技が極まれば絶対に逃げられない」
というリアルファイトの格闘技をつくることが何よりも大事で最優先。
そのための課題は、現時点で2つ。
・殴る、蹴る、極めるという総合格闘技を追求すれば、古代ローマで生死を賭けて行われたパンクラチオンに行きついてしまうが、これをいかにセーブして現在社会にマッチさせるか
・選手育成。
佐山にとってUWFはあくまでプロレス。
そこで得た資金を使い、選手を育て、リアルファイトの団体を起こす計画だった。
(UWFがその団体になることも十分にあった)
一方、藤原喜明、前田日明、高田延彦にとって、UWFは唯一の場所であり、生活の糧だった。
旗揚げから半年、資金もテレビ放映もスポンサーもないままUWFは生き残っていた。
従来のプロレスファンの一部がUWF信者となり、それまでプロレスを無視していた格闘技ファンがTV放映されないUWFを観るために会場に足を運んだ。
その迫力に、結末の決まったショーではなく真剣勝負の格闘技と信じ、ジャイアント馬場の全日本プロレスはもちろん、ストロングスタイルのアントニオ猪木の新日本プロレスも八百長ファイトにしかみえなくなっていた。
人気を得たUWFは、TBSと放映契約を結ぶことになった。
しかし1984年10月19日、UWF事務所に、突然、白手袋をはめた警察官が踏み込んできて、大声で動かないように指示。
警察はショウジ・コンチャの書いた念書を提出させ、浦田昇社長を逮捕した。
その容疑は、約2ヵ月前(1984年8月4日)に佐山サトルのUWF入団会見が行われたが、その2日前、東京都新宿区荒木町に本拠を置く暴力団、住吉連合会の牧睦会の会長代行、滝沢弘と共にショウジ・コンチャを東京、港区赤坂の喫茶店に呼び出し、
「半殺しにするぞ」
と脅迫し、佐山サトルに関する一切の権利を放棄する念書を書かせたというもの。
逮捕後、浦田社長は以下のように説明した。
コンチャは暴力団とトラブルを抱えており、居場所を探していた滝沢はUWFに電話。
事務所の人間は浦田社長と喫茶店で会っていることを教えた。
そして浦田社長とコンチャが喫茶店で話し合っていたところに滝沢が現れ、コンチャを店の奥に連れて行った。
そして話を聞いて浦田社長に恩を売って後で金を請求するつもりで
「念書を書け」
と命じた。
浦田社長は何も知らないまま、その念書を受け取った。
しかし検察は信用せず、4日間、ぶっ続けで取り調べを行い、衰弱した浦田社長は、それまで否認してきた検察のストーリーが書かれた調書にサイン。
検察は脅迫よりも罪が重い「強要罪」が適用。
裁判では証拠が微妙な上、コンチャの証言に誇大妄想的な部分が認めらたたため、数ヶ月という短い禁固刑でしかも執行猶予つきの判決。
しかし有罪であること自体、不服な浦田社長は控訴したが、
「自白調書がある」
と認められず、弁護団はあきれて上告を勧めたが、浦田社長は
「日本の刑事裁判は信用できない。
もうイヤだ」
と拒否し、有罪が確定。
コンチャから損害賠償請求はなかった。
浦田昇社長の勾留中、スタッフは出てくるまで頑張ろうと誓い、選手も黙々と練習した。
この間、道場として自社の倉庫を提供した寺島幸男から500万円を提供を受けるなど周囲の厚情にも支えられた。
一方、逮捕の数日前に放映を決めていたTBSはすぐに撤退した。
警察に事務所に踏み込まれて1ヵ月後の11月10日、3人の若者が週刊プロレス編集部を訪問し
「UWFテレビ放映熱望署名」
と書かれたノートを9冊、差し出した。
みると関東の大学のプロレス研究会の学生が署名を集めていて、週刊プロレスはそれを各TV局に届けた。
5日後、UWFは新シリーズ「イヤーエンドスペシャル」と開始。
開幕戦の後楽園ホールは3200人の超満員。
試合前、リング上で行われるスパーリングを食い入るようにみつめた。
藤原喜明は新日本プロレス時代から試合前スパーリングを続けていたが、関節技や寝技の攻防で客が
「おおっ」
と声を漏らすのを初めて聞き、客のみる目が肥えてきているのを感じた。
彼らは試合が始まっても真剣にみていた。
12月5日、イヤーエンドスペシャル最終戦、メインイベントは、スーパータイガーvs 藤原喜明。
佐山サトルは藤原に55発のキックを叩き込んでKO勝ち。
悲鳴が上がるほどの惨劇だったが、3日後、藤原喜明は、ビールのロング缶片手に早稲田大学でトークイベントに参加。
その顔に変形するほどの腫れや傷はなかった。
藤原のタフネスによるものなのか、イベントの主催者、早稲田大学プロレス研究会を含め、多くの人にはわからなかった。
しかし格闘技をやっている人間はUWFが100%プロレスであると確信していた。
「相手を倒すためには中心部にインパクトを与えフォロースルーを加えることが必要になる。
フォロースルーがあるからこそ相手にダメージを与えることができるんです。
UWFのキックはインパクト(当たる)まで速くみせて、そこで止める。
レガースをした足はパーンといい音を立てるけど、フォロースルーがないから相手にダメージを与えない。
プロレス的にうまく蹴っているなという印象です」
(正道会館館長、石井和義)
打撃だけでなく、投技や寝技、関節技についても専門家がみれば、UWFは真剣勝負としては疑問な場面が多々あった。
つまりバレていた。
しかし多くの若者たちは超マイナーで超前衛的なUWFに強く魅了され強く支持していた。
このトークイベントに17歳の星名治がいた。
タイガージムに入会し、会場に足を運んでUWFの試合を観続けていた星名は、勇気を振り絞って藤原喜明に入門を直訴し新弟子となった。
UWF道場での練習は10時開始。
星名たち新弟子は、それまでに掃除や準備を行う。
道場のある世田谷区に住む前田日明、高田延彦、山崎一夫は定刻にやってきて、中でも前田日明は自転車通勤。
足立区に住む藤原喜明はよく遅刻。
佐山サトルは、ほとんど来なかった。
みんな仲がよく道場の雰囲気は最高で、ゴッチ式を含むトレーニングと打撃、寝技、投技の技術練習、そしてスパーリングを行う。
星名は、寝技のスパーリングで腕や脚をアメのように曲げられながら、少しずつ逃げ方を覚えていった。
藤原はとにかくうまく、前田はとにかく怖く、高田はとにかく力が強く、木戸や山崎は比較的優しかった。
カールゴッチは、当たり前のように肋骨や背骨を強く押したり、ケツの穴に指を入れるなどエゲツなかった。
星名は、試合の日、会場で佐山サトルのキックをミットで受けたが、そのスピードの速さにビックリした。
数ヵ月後、自分のデビュー戦が決まったが、試合直前、レフリーが
「今日コレな」
といって拳を握って親指を下に向けた。
負け役という意味だった。
それまで何度も道場で強かった先輩が試合でアッサリ負けるのをみていたので、試合の結末が決まっていることはわかっていた。
「でも僕の中で何も変わらなかった。
自分がやっていることは間違ってないと思っていたからです。
試合の中身は試合時間も含め何も決まっていません。
決められているのは勝敗とフィニッシュだけです」
(星名治)
1985年1月、UWFは「サンライズ・ウイークス」を開始。
開幕戦、1月7日の後楽園は超満員。
続く、千葉県松戸市 、千葉県市原市、東京都福生市、愛知県豊川市、長野県飯田市では観客数は伸びなかったものの、1月16日の大阪府立臨海スポーツセンターでは再び超満員。
メインイベントは、スーパータイガー vs 藤原喜明。
勝敗は、KO、ギブアップ、レフリーストップ、ドクターストップのみで、3カウントのフォールもロープブレイクも認められないという特別ルール。
佐山サトルは一方的に蹴りまくった。
藤原喜明は倒れ、倒れた後も蹴られ続けたが、組みついて素早くグラウンドに持ち込み、チキンアームアームロックで佐山の左肩を極めた。
佐山はうめき声を上げ、前田や高田があわててかけよった。
佐山は左肩を脱臼した-とされたがすべて決められた演出だった。
1985年5月2日、、UWFに「海外タイムズ」というスポンサーがついた。
海外タイムズは大会ポスターやチケットに社の広告を入れることを条件に月1000万円を払った。
UWFは「海外UWF」に社名を変更。
グアムキャンプが敢行され、11ヵ月間、給料が出ず、清算されない領収書を保管し続けていたUWFスタッフたちにも給料が出た。
羽振りがよくなると、すぐにテレビ東京で中継も決定した。
1985年6月、UWFは
・7月からリーグ制を導入
・試合は3週間に5試合
・レガースとキックシューズをつけない場合、キック攻撃禁止
・試合中はダウンとロープエスケープをロストポイントとしてカウント
・グラウンドでの打撃は禁止
・顔面への拳、頭突き、肘、膝での攻撃は禁止
と新ルール、新制度を発表した。
リーグ制は、週刊プロレスが発案で、Aリーグ、Bリーグにわかれて総当たり戦を行う。
勝ち=1点、負け=0点、引き分け、0.5点でポイントを争い、Aリーグ最下位はBリーグ降格、Bリーグ最上位者はAリーグ昇格になる。
選手の向上心を煽ると共に、得るものも失うものもあまりない弱小団体で悲しみと喜びを生み出そうという目論見もあった。
その他はすべて佐山サトル考案によるもの。
試合数を減らし間隔をあけることで、練習、トレーニング、技術、コンディショニングの向上を図り、その結果、試合の質が良くなり、観客にも認めてもらえると主張した。
シューティングレガースとシューティングシューズは佐山サトル考案で、初代タイガーマスクのマスクをつくったOJISAN企画の豊嶋祐司が製作。
かつて1977年10月に行われたアントニオ猪木 vs チャック・ウェップナー(映画「ROCKY」のモデル)戦でも佐山サトル考案のオープンフィンガーグローブが使用されたが、UWFのレガースの中身は発泡スチロールで表面は本皮。
シューズも同じ素材を使用し、甲の部分にクッションが入り、ヒモはハイキックを蹴ったときに目に入らないよう踵部についていた。
海外タイムズは、実は純金ファミリー契約証券という2000億円以上を騙し取っていた豊田商事の子会社だった。
豊田商事の永野一男会長は無類の格闘技好きで、ボクシングの協栄ジムの後援者だった。
協栄ジムの金平正紀の紹介でUWFはスポンサードを受けることになった。
浦田昇社長は、数回、永野一男会長に会っていたが、海外タイムズや豊田商事が何をしている会社なのかはまったく把握していなかった。
やがて豊田商事は自転車操業の末に破綻。
被害者は、高い利息を約束され投資したにも関わらず、元金さえ戻らなくなり、自殺者まで出た。
UWFの新ルール発表から10日後、6月18日、大阪市北区天神橋の永野一男のマンションの前で、大勢の報道陣が張りつく中、2人の男が現れ、窓を破壊し部屋に侵入。
永野一男をメッタ刺しにして殺した。
たくさんのマスコミの前で起こったショッキングな殺人事件に世間は驚愕。
UWFはあわてて「海外UWF」から「UWF」に名前を戻したが、テレビ東京との中継話は消えてしまった。
浦田社長の逮捕、TBS撤退、スポンサー会社の社長の刺殺事件、テレび東京撤退、異常事態の連続でUWFのスタッフの精神状態はボロボロだった。
1985年7月8日には安生洋二がデビュー。
幼稚園から小4までニュージーランドで過ごしたため、小5で英検2級を取得。
東大に行けると騒がれた。
中学生のとき、タイガーマスクに憧れ、高田延彦の試合をみて、高校卒業後、UWF入りを志願した。
UWFの道場では、毎日藤原喜明を中心に、前田日明が筆頭となって汗を流し、みんなで安チャンコをつついていた。
事件後、道場にまったく来ずにリーダーシップをとって好き勝手に決めていく佐山サトルに対してネガティブな感情が生まれていた。
藤原喜明は
「強くて、怖くて、面白いプロレス」
が理想で、前田日明は、
「プロレスはもともと総合格闘技。
ホンモノのプロレスは禁じ手のないもので、どんな手を使っても相手を倒せばいい。
佐山さんのルールは窮屈だ」
と感じていた。
佐山サトルは決して独断ではなく、UWFをよくするためにアイデアを出し、みんな同意を得ていた。
しかしスーパータイガージムを経営している佐山が
「試合は3週間に5試合」
といっても、スポンサーを失ったUWFしか収入がない選手やスタッフとは切実さが違う。
スタッフは試合数を増やすよう懇願したが、佐山は
「赤字になる地方はやめて都市部だけでやるほうが合理的」
といって譲らなかった。
選手もロクに道場にも来ない佐山サトルと話す機会もなく、フラストレーションを募らせていった。
「3週間に5試合なんで冗談じゃない。
UWFが赤字を解消するためには興行数の増加が必要なのに、金持ちの理想主義者には営業の苦しさがわからない」
(前田日明)
刺殺事件から3ヵ月後、9月2日、大阪府立臨海スポーツセンターで行われたスーパータイガー vs 前田日明戦は異様な試合となった。
2人はまるでかみ合わなかった。
ケンカ腰の前田といつものように試合をしようとする佐山。
前田はケンカ腰だが、完全にシュートではなく、ある一戦は越えないように抑えている。
最後は組み合った状態から前田がボディに膝蹴り。
佐山聡が金的に当たったとアピールししゃがみ込み、レフリーが試合を止め、反則負けとなった前田はさっさとリングを下りた。
このとき実際には金的には当たっていなかったが、このままだと危険だと判断した佐山がウソをついて試合を終わらせた。
試合後、前田は
「責任を取ってオレは辞めます」
といい以後、試合を欠場。
9月6日、藤原喜明 vs 木戸修で、
「顔面への拳、頭突き、肘、膝での攻撃は禁止」
とルールで決まっているのに藤原は木戸に頭突きを3連発。
レフリーも反則負けにしなかった。
2人はまるで佐山に従わないことを行動で表現したようだった。
9月11日、メインで藤原と佐山が対戦。
藤原は、両手で佐山の髪の毛をつかんで反則の頭突きを見舞い、19分31秒、わき固めで勝利。
総当たり戦で優勝した藤原は
「前田、逃げるな。
コレを獲ってみい」」
「俺はシューティングという言葉が好きじゃない。
俺はプロフェッショナルのレスラーだ」
とマイクアピール。
佐山からしてみれば理不尽な話だった。
たしかに新ルールを提案したが、みんなの同意は得ていたし、文句があるなら何故そのときいわないのか。
佐山はUWFを去った。
結局、この1985年9月11日が最後の試合となり、UWFは1年半で終わった。
1985年10月1日、佐山サトルが「ケーフェイ」を出版。
ケーフェイ (Kayfabe) はプロレス界の隠語で、語源は、「Be Fake(でっち上げ)」を逆さに読んだとする説やラテン語の「Cate Fabri(偽る)」を英語読みして「Kayfabe」となったという説などがあるが、いずれにしても、詐欺、インチキ、捏造などという意味。
多くのファンは佐山サトルと前田日明とのケンカマッチに
「佐山はシュートの団体をつくろうとしているのに、実際にシュート・マッチになると逃げた」
一方、前田日明には、
「勇気があって強い」
という印象を持った。
そして佐山サトルがUWFを去ると
「逃げた」
と思った。
株を大暴落させた佐山だったが、この本では自身の理想の格闘技「シューティング」について語った。
そして真剣勝負の格闘技とプロレスの違い、プロレスの裏側も暴露。
この本の作成に協力した週刊プロレスの編集長、ターザン山本とイラストレーター、更級四郎は、UWFから電話で
「これからは敵ですね」
といわれた。
ターザン山本は、
「佐山サトルがプロレスが八百長であることを明言したことは、前田日明や藤原喜明には決してできないこと」
「前田日明や藤原喜明たちは、カネと車と女が好きな典型的なプロレスラー」
と総合格闘技という新しいプロレスをつくるという同じ夢に向かって進みながら、理想の高い佐山と、現実的な団体経営を求めたメンバーとの対立がUWFが終わった原因としている。
佐山は、10代から新しい格闘技をクリエイトすることを考え、古今東西の格闘技を研究し続けていた。
前田日明も大の読書好きで、格闘技に大きな理想も持ち、多くの情報や知識も有していたが、思想は持っていなかった。
浦田昇社長は新日本プロレス、全日本プロレスとの業務提携交渉を開始。
全日本は前田日明と高田延彦を要求したが、本人たちが全員ではないことを理由に断った。
1985年11月25日、UWFのスタッフは、血判状を作成し、浦田昇社長に退陣を迫った。
浦田昇社長にとって2枚目の血判状。
1年半前、UWFを旗揚げしてから、たった5回興行をしただけで
「新日本プロレスと提携しよう」
という新間寿に
「どうしてですか?」
「なんでやめるんですか?」
と大反対し、浦田昇社長にUWFの継続を訴えたスタッフが1枚目の血判状を持ってきた。
そして今度は辞めてくれというわけである。
「私が事件を起こしたからスポンサーがつかない。
だから辞めてくれと。
いやいや、願ってもないことで(苦笑)」
浦田昇はUWFの借金2億円だけを引き受け、快く辞めた。