そして数時間後、出てきた笑福亭松之助は、さんまにいった。
「ワシの弟子になりたいん?」
「はい!」
「なんでワシの弟子になろう思たん?」
「いや、師匠はセンスありますんで」
「ガッハッハッハ」
笑福亭松之助は大笑い。
「ほな今からラジオあるさかい、一緒においでぇな」
「はい!」
こうしてそろって近畿放送へ。
ラジオ番組への出演を終えた笑福亭松之助は行きつけのラーメン屋に移動。
ラーメンをすすりながら2人は初めてまともに話をした。
「死んだ新聞に載るような有名人になりたいんです」
「ワシもや!
でもこの世界はかんたんにメシ食われへんぞ」
「わかってます」
「それわかってんねんやったらええわ。
とにかく親にちゃんと事情を説明していっぱん連れて来ぃ」
そういって笑福亭松之助は去っていった。
「俺、落語家になるわ」
さんまが家族に経緯を説明すると、家業を継がせたい父、恒は
「許さん。落語家みたいなもん、誰がならすか!」
と声を荒げて猛反対。
互いに一歩も引かず、後日、親戚が集まって会議が行われることになった。
「高文ちゃんやったらやれるんちゃうか」
「イケる、イケる」
「落語家になれ!」
結局、反対したのは父、恒だけ。
圧倒的多数の賛成を受け、1974年2月、さんまは高校卒業を待たずに弟子入り。
自慢の長髪を
「全部刈ってこい」
といわれ丸坊主になって芸人の道を歩み始めた。
入門初日、笑福亭松之助がレギュラー出演するラジオ「ポップ対歌謡曲」に同行。
共演者はさんまが毎週欠かさずみていたドラマ「おさな妻」で主演していた浅田ルミだった。
「サイン、もらっていいですか?」
「お前、あんなもんのファンなんか?」
2人のやり取りを笑いながら聞いていた浅田ルミはサインと握手をしてくれた。
1ヵ月後、高校の卒業式にさんまは坊主頭で参加すると会場はどよめいた。
さんまは、住み込みではなく、毎日、奈良の実家から兵庫県西宮市鳴尾町の笑福亭松之助の家まで90分かけて通う、通い弟子。
まずは朝食づくり。
だったが、最初は米のとぎ方も知らず、笑福亭松之助に教えてもらった。
朝食後は笑福亭松之助の長男を小学校、次男を幼稚園に送り届け、掃除、犬の散歩。
劇場におくと笑福亭松之助の世話をして、舞台を見学。
出番を終えた笑福亭松之助の背中をふいて、着物を畳み、酒を買いに行かされた。
酒を受け取った笑福亭松之助は、さんまに小遣いを与え
「世間をみてこい」
こうして2回目の出番までは自由時間となり、さんまは芸人仲間としゃべったり、町を歩いたり、映画を観たりした。
松之助の出番が終わると帰りの電車で松之助から芸について話を聞く。
あるとき舞台に立つときの心構えについて説きながら、松之助は
「わかってんのか」
といいながら何度もさんまの脇腹を拳で突いた。
さんまは何度もうなずきながらありがたく話を聞いていたが、電車が甲子園駅に着いて歩き出したとき、脇腹が痛み出し、へたり込んでしまった。
「そのとき初めてボディブローは追い追い効いてくるってわかってん」
夕食を終えると芸の稽古。
落語を教えてもらうのは週3回で、後は笑福亭松之助の体験談。
そして翌日のスケジュールを聞いてから帰った。
笑福亭松之助は
「落語家である前に人間であれ」
という主義で、自身、禅や人生論などさまざまな本を読み
「ワシのカバンもって噺がうまくなるわけない」
とカバンをさんまに持たすことはなかった。
テレ屋の笑福亭松之助は、さんまが帰るときによく手紙を渡した。
さんまがそれを後で読むと、そこには松之助自身の体験談や本からピックアップしたいい話が、紙いっぱいに書いてあった。
さんまは教わったことをノートの書き留めた。