
松本家は、
祖父、昇次郎
父、譲一
母、秋子
長男、隆博
長女、直美
次男、人志
の6人家族。
長男、松本隆博の1番古い記憶は、幼稚園のときに松本家が兵庫県尼崎市の長洲から潮江に引っ越ししたこと。
兵庫県で1番の高級住宅地といえば芦屋。
その中でもダントツの富裕層が集まる六麓荘町は、山頂上付近。
海側から山側に行くほどリッチになっていくという法則は尼崎にも当てはまり、1番北側を走っている阪急電鉄沿線は高級住宅地街。
南にJR、阪神電鉄と下っていくと庶民的町になっていき、最終的に工場地帯となり、尼崎には海はあるがビーチはない。
松本家のあった潮江は、JR尼崎駅付近にあった。

大阪と隣接する尼崎は、兵庫県でありながら電話番号の市外局番は「06」
実際、大阪と雰囲気が似ていて利便性は最高。
震災後、再開発が進むと、「住みたい街ランキング」で上位に食い込み、「穴場だと思う街ランキング」では3年連続1位になったこともある。
しかしそれ以前は
「ガラが悪い」
「怖い」
というイメージ強かった。
神戸市灘区に山口組の総本部がある兵庫県は基本的に暴力団事務所が多いが、尼崎もヤクザが肩で風を切って歩き、抗争による殺人事件も起きていた。
「飲む、打つ、買う」がそろい、酔っ払いやすぐにキレるオッサン、歩きタバコ、ポイ捨てなどマナーの悪い人も多かった。

松本家のあった潮江もアスファルトの道路から少し入ると舗装されていない細い路地が入り組み、お湯を張ったタライに女性が裸で入っていたり、窓から大声で
「田中(角栄、当時の総理大臣)のボケェーッ」
という叫び声が聞こえたり、個性がある人が多く住んでいた。
松本隆博は、繁華街には行くとき、ヤンキーにカツアゲされるのを防ぐため、逃げやすいように靴を履いて、財布は小銭だけを入れてお札は靴下にしまっていた
一方、ヤンキーも団地に自転車を盗みに行って住民に上から包丁を落とされるなど、決してノビノビ生きているわけではなかった。
そういったデンジャラスな雰囲気がある一方、尼崎は気さくで親切な人が多い。
地元愛、尼崎愛が強く、みんな
「アマが好き」
とにかく明るく
「8割の人がボケとツッコミができる」
といわれるほどオモロい人が多い。

松本家は、お笑いに非常にシビアで
「面白くなければダメ」
が家訓。
食事をしているとき、父、譲一が
「ああ、腹減った。
ああ、でも腹も痛くなってきた。
どうしよ」
とボケはじめても家族は無視してご飯を食べ続けた。
「この矛盾、オオサンショウウオの小さいやつクラスの矛盾や」
とボケ続けたが無視。
「腹痛いけどメシ食いたいし。
出したいけど食いたい。
こうなったらしゃあない」
父、譲一はご飯に正露丸をかけて食べ出した。
「あーうまいなあ正露丸ご飯。
たまらんわ。
おかわり!」
それでも家族は無視し続け、人志に至っては次の食事のとき、父親と時間をズラして1人で食べた。

祖父、昇次郎の腕には入れ墨が入っていた。
いつも下駄を、それも先に鋼を入れた特注の下駄を履いていて、孫たちに
「なんでそんなんついてるん?」
と聞かれ
「ああ、これか。
・・・・これはな・・・飾りや」
と答えたが、実はケンカになったとき相手を蹴るためだった。
若い頃、北海道に住んでいた昇次郎は孫に
「寒かったで」
と当時の話をしたことがあった。
「なんでも凍るんや。
しょんべんしても下に落ちたらもう凍ってるんや。
じいちゃん、ドラム缶くりぬいて切ってきた木を燃やすんやけど、燃やすもんがなくなてきてなあ。
家の周りにぎょうさん野犬がおって、子犬とか呼んだらこっち来るんよ。
で、しゃあないがな。
その子犬をこうして(首を持って)・・・・」
「エッ!?」
「エェー!?」
「ウワァーなにすんの、じいちゃん」
ショックを受けた孫たちをみて昇次郎は
「ンッ・・・嘘やがな」
と恐らくウソをついて訂正。
昇次郎は人志の名付け親で、人志は
「人を志すって、まるで人じゃないバケモンみたいやないか」
と非常に気に入っている。

ある日、松本家に親戚がカルピスセットを持ってやってきた。
原液を水で薄めるカルピスは、子供たちにとって最高級飲料。
それが3本セットで、しかも1本は初めてのオレンジのカルピス。
早速、冷蔵庫に水と一緒に入れて冷やし、楽しみにして待っていた。
しばらくすると
「ガッシャンッ」
という音として、松本隆博が台所をみると、割れたオレンジカルピスと床をふく母、秋子、泣き叫ぶ3つ下の弟、人志がいた。
「アーッ待って」
雑巾がオレンジ色に染まっていくのをみて松本隆博は叫んだが、どうしようもなかった。

松本隆博は、毎日、ギリギリまでテレビをみて、8時27分に弟、人志と共に潮小学校に登校。
早めに登校して校庭で遊んでいる子供を
「元気やのう」
「アホちゃう」
と冷めた目でみながら教室に入った。
松本隆博、人志は、兄弟そろってB型で左利き。
シャワーを浴びると条件反射的にオシッコをしてしまうのも同じ。
礼儀、団体スポーツ、団体行動が苦手。
納得できないこと、意味がないことが嫌い。
人見知りで生意気。
そういう自分の性格を
「タチが悪いのではなく純粋でピュア」
と思っているのも同じ。
そしてそれが人には理解されず
「オレ、嫌われている?」
と思うと悲しくなるのも同じだった。

尼崎の小学校では、勉強ができるより、走るのが速いよりも、ケンカが強いより、オモロいことが1番エラい。
みんなお笑いに命をかけていた。
お楽しみ会のとき、お笑いを披露するのが当たり前。
人見知りでありながら人前で面白いことをするのは大好きという矛盾を抱えた兄弟、松本隆博、人志も相方を探して漫才をやった。
漫才でいい相方に恵まれなかった松本隆博は
1人でできる落語をはじめ、家族の前でも披露。
(大学では落研に入った)
それをみて母、秋子も負けじと手品を始めたため、一時期、松本家は寄席のようになった。
松本隆博は
・近所でも評判の「面白い子」だった
・人志が吉本に入ったとき、近所の人は「てっきりお兄さんのほうだと思った」といった
と自分はかなり面白かったと主張している。
実際、素人参加型の公開放送番組「素人名人会」2回出場は、人志の1回を上回っている。
「面白くない人っていないと思うんですよ。
恥ずかしがっているだけ。
それがムカつくんです。
恥ずかしい、恥ずかしいって、なんでそこでフタをするんや!
誰もみてへん思うてやれやって。
そこはまったく人志と同じですね」
(松本隆博)

また松本隆博は、B’zの松本孝弘と漢字違いの同姓同名で同い年だが、ロックではなくフォークミュージックの大ファン。
質屋で売られていた3000円の白いギターを買って、南こうせつや長渕剛を弾き始めた。
ギターは1日中弾いても全然苦にならないほど好きで、ずっと続けた。

松本家のトイレはクミトリ式で、2、3ヵ月に1回、バキュームカーが吸い取っていた。
松本隆博が小2のとき、学校から家に帰ると、玄関先で悲壮感丸出しの顔で弟、人志が立っていた。
「どうしたん」
「・・・カッカ・・」
「なんて?」
「カパ・・・・」
「なんて?」
「カッパ!」
「カッパってあのカッパ?」
「うん、カッパがな、ウンコしてたらおってん」
泣きながらいう弟、人志によると、ウンコをしていると下で気配がして、股の間からのぞくとカッパが見上げていて目が合ったという。
そしてカッパは片手を腰に当て、もう片方の手で顔にかかったウンコを払っていたと真剣に訴えた。
「それはないやろ」
松本隆博はいったが、以後、2人はウンコをする前に、必ず
「ウンコするでぇ。
どいてやあ」
と下に向かって断るようにした。

松本家の両親は共稼ぎ。
土曜日、午前中で学校が終わると子供たちは自分で昼飯をつくった。
人志の好物はチキンラーメン&ライス。
マルシンのハンバーグがあれば、ソース、ケチャップ、醤油などをブレンドしオリジナルソースをつくる。
そしてフォークをティッシュでつつんで捻り、洋食屋を演出。
みるのは、いつも吉本新喜劇だった。

松本家の食費は母、秋子の担当。
秋子は、朝、ミドリのおばさん(学童擁護員)をやった後、積水化学のセキスイパン工場で勤務。
朝、横断歩道で旗をもって立ち、我が子がやって来ると
「人志!
顔洗ったんか?
ホンマか?
目ヤニついてるで」
といってツバをハンカチにつけて拭いた。
浜田雅功も
「あんた散髪行きや。
もうお母ちゃんカッコ悪いわ。
もうガッソ(髪の毛が伸びて山賊のようになっていること)やで、ガッソ」
といわれた。

秋子は交通安全期間中、ミドリのおばさんとして各学校を回り、表彰を受けたこともあった。
あるとき父、譲一が、
「ワシもやる」
といい出し、2人で一緒に同じ横断歩道に立つようになった。
しばらくしてそれが新聞に載ることになり、新聞記者の取材を受け、日曜日なのに近所の子供を集めて横断歩道で撮影も行われた。
新聞に掲載されたタイトルは
「肝っ玉母さん」
一家の家計を支えるお母さんを称える記事だった。
それをみた譲一は
「ワシが悪者扱いや」
と不満気味。
しかし尼崎市から支払われていた時給は譲一の方が少なかった。

譲一は、よく転職し、しょっちゅう大酒を飲んで酔っ払って帰っていたので、松本家の子供は
「家の主役はオカン、オヤジは脇役」
と認識していた。
しかし松本隆博は、
「先天的な部分はオヤジ、後天的な部分はオカン」
と人志の芸風、シュールな発想と感覚は間違いなく父親だという。

松本家の子供は、世渡りの上手さ、食糧確保能力、そして人の顔の色を見る能力には自信があった。
父、譲一は、さっきまで笑っていると思ったら急に怒り出す、瞬間湯沸かし器のような人だった。
それは理由はあるのだろうが、あまりにも唐突で、松本隆博は何をしたかわからないまま、銭湯で湯船に放り込まれ湯をいっぱい飲んだことがあった。
水面の向こうのユラユラとした父親がニヤニヤと笑っているのをみて
「殺される」
と思った。
子供たちは父、譲一が帰ってきてガラガラと玄関を開ける音や、食事のときに箸を置く音などからキゲンを察知。
欲しいものがあっても絶対に買ってくれないことがわかっているので1度も
「買って」
とねだったことはない。
逆に譲一にドツかれる可能性もあり、ハイリスク、ノーリターン。
松本隆博は、寿司屋に連れて行ってもらっても気を遣って安そうなタコばかり食べた。
人志は自転車が欲しかったがいえず、乗っているフリをして「エアー自転車」で町を走り、ちゃんととエアーでスタンドまで立てて店に入った。
人志作詞、槇原敬之作曲&コーラス、そして浜田雅功が歌う「チキンライス」(2004年11月17日リーリス)の
「♪子供の頃たまに家族で外食
いつも頼んでいたのはチキンライス
豪華なもの頼めば二度とつれてきては
もらえないような気がして
親に気を遣っていたあんな気持ち
今の子供に理解できるかな?」
も実体験から書かれた。

松本隆博が小4のとき、松本家は初めてピクニックへ行った。
しかしそれは午前中に決定、午後、出発という突発的なもの。
イラチ(せっかち)な父、譲一はすぐに着替えて玄関で待機。
そのとき母、明子はまだ家着のままおにぎりを握っていた。
すでに玄関を離れ、通りに出てイライラする父、譲一。
3人子供は玄関で
「お願い、ケンカはやめて」
と祈っていた。
「おーい、まだか」
「誰かぁ、アレ知らん?
もう、どこやったの」
「おい、行かへんのか」
「もう、出したら元のとこ戻しや」
ついに譲一は、嫁、子供を無視し、先に駅まで歩いていった。
ゴタゴタを乗り越え、家族は目的地に到着。
おにぎりを食べることになったが、譲一が
「塩コブないんか?」
いうと秋子が
「そんなんヤンヤンいわれてもイッペンにでけへんわ」
と返したため、ケンカが勃発。
モメる両親をみて、松本隆博は思った。
「そもそも計画もなしに急に決まったピクニック。
一家心中するつもりやな」
人志も
「捨てられるな」
と思い、その後、父親に背中を向けないようにした。

家族で海水浴も1度だけ行った。
尼崎から電車で明石まで行き、そこからフェリーに乗って淡路島へ。
甲板の上は強風が吹いていて、松本隆博がかんでいたガムを海に向かって
「ペッ」
と飛ばすと、風で弟の髪の毛にひっついた。
ソッととれば問題なかったものを、人志は
「ワー」
とパニくって髪の毛にからませてしまい、泣き出した。
「チッ」
譲一は舌打ちし、カミソリを取り出した。
「アンタ、あんまり切りなや」
秋子がいう中、髪の毛を切られた人志はまた号泣。
「あー大丈夫や。
全然わからん」
家族全員に半笑いでいわれ、さらに泣いた。

民宿へ到着すると泳ぎが得意な譲一は、さっそく海へいこうとした。
しかし家族全員の水着が入ったカバンが見当たらない。
「海パンは?」
「えっアンタ持ってるんちゃうの?」
「なんでや!
お前ら持ってないんか?」
「・・・・・」
フェリー会社に電話したが見つからず、民宿の人に忘れ物を貸してもらうことになった。
しかし譲一の海パンは、なぜか肌色。
遠目には全裸の変質者のようだった。
秋子は海嫌いな上、泳げない。
「アンタ、絶対フザけんといてよ」
と警告。
「わかった、わかった」
といいながら譲一は、遠くから潜って嫁の足をつかんだ。
「ぎゃあーーー
もう何するのぉーー
殺す気かー」
と海水浴場に叫び声がこだました。

「死ぬまでに1回でいいから腹いっぱいプリンが食べたい」
松本隆博がいうと
「兄ちゃん、食べたいなあ」
と弟、人志も同意。
2人はお小遣いを出し合ってハウスのプリンを2箱買った。
そして協力し液体をつくり、どんぶりに流し込んで冷蔵庫へ。
数時間後、やっと固まったプリンをカレースプーンで食べたが、途中で胸が悪くなり残してしまった。
家庭科でみたらし団子をつくった松本隆博が、
「みたらし団子を作る技術を手に入れたぞ」
というと弟、人志は大喜び。
2人でお小遣いを出し合って材料を買って、みたらし団子づくりに挑戦。
団子が完璧に出来たが、みたらしがうまくできず2人で大泣きした。

松本隆博はカールが大好きだった。
あのフワッ、シュワッとする食感がたまらない。
しかしたまにカリッとするものも混じっていて、
「不良品や。
つくる工場のオッサンが焼きすぎたんや。
やっぱりカールは熟練工に焼いてほしいわ」
とグチった。
弟、人志が遠足にいくときも
「おやつはカールが最高やで。
ぎょうさん食べた気になるやろ」
とアドバイスした。
テレビをみていて
「♪それにつけてもおやつはカール♪」
とカールのCMが流れると弟、人志は
「何につけるねん!」
と怒り気味でツッコんだ。
松本隆博は
「それはとにかくカールにしとけっていう意味ちゃうか」
と諭したが、その後も弟、人志は
「せやから、何につけるんじゃ」
「チッお前、せやから何につけるんじゃ」
と怒り続けていた。

あるとき松本家は毎朝、ビン牛乳を取り始めた。
子供3人に毎朝2本が配達され、
「飲んで、飲んで、休んで、ちゅうことで」
という方式がとられた
母、秋子は仕事に行く前に3人の子供の弁当を作っていたが、多忙のためか、キレイに布で包んであるのに弁当の中は空っぽのときがあった。
あるときはご飯の真ん中にサバの缶詰が缶のまま刺さっていて、松本隆博は
「缶切りは?」
と思いながら、仕方なくご飯を食べていくと、ご飯の下、弁当箱の端のほうに缶切りが埋まっていた。
夜ごはんが夕食が焼きソバだった次の日、弁当箱に焼きソバだけが詰まっていた。
固まってほぐれず箸でブロック状にカットして食べながら、松本隆博は
「四角脳みそ模様」
と名づけた。

ある日、松本隆博は
「卵焼きが甘すぎる」
とクレームを入れると、母、秋子は
「(砂糖を)入れたほうがおいしい」
といった。
「食べるのは俺やん。
その本人が甘いゆうてるねんで」
「あーわかった。
明日から入れへんから」
秋子はそういったが松本隆博は
(ヤツはそういっていつも入れる)
と翌朝、気づかれないように弁当づくりを監視。
秋子が卵を割って箸で混ぜ始めたところで
「オカン!」
と出ていき、現場を押さえた。
「なんやのアンタ」
「みたで。
砂糖入れたよな」
「入れてないよ」
「見てたで。
ホラ、ここに砂糖が落ちてるし」
「・・・・入れたほうがおいしいに決まってるがな。
栄養満点やないの!」

「アレちゃうか」
松本隆博が小学校5年生のとき、家族で食事中、父、譲一が柱に下げてある水枕を指した。
松本家ではよくゴキブリが出て、夜中、ゴソゴソと音がして、電気をつけるとサーっと消える。
一体どこにいくのか謎だったが、どうもそのアジトが水枕の裏ではないかというのだ。
「よし、やろか」
「うん」
家族はアウンの呼吸で立ち上がり、各自、殺虫剤、新聞紙、スリッパなど武器を持った。
「ええか?」
父、譲一が水枕をのけると、水枕の形にゴキブリがかたまっていた。
そして放射線状に飛んだり走ったり、いっせいに逃走。
父、譲一は殺虫剤を家族にかけ、母、秋子は絶叫、姉、直美は泣き、人志はパニック。
松本隆博は気を失った。

テレサ・テンがデビューしたとき、それまで歌手というと美男か美女しかなれないと思っていた松本家の兄弟は、
「え、なんで」
「ブサイクやん」
「それも腹立つブサイクさやん」
と驚いた。
それからというものテレビでテレサ・テンが出るのを待つようになり
「あー兄ちゃん、出てるで」
「出てる?
あー腹立つわ」
「うわっ、めっちゃ腹立つ」
歌っている最中にカメラ目線になると
「わーーーー」
「腹立つブサイクやなあ」
「はっら立つわ、もー」
と大盛り上がり。
テレサ・テンは兄弟でブームになった。

松本家は、「長助」という猫と「ペル」という犬を飼っていた。
ペルは2代続き、初代ペルはマルチーズと何かのミックス。
主に父親、長男、次男が、交代でペルを散歩連れていった。
あるとき人志は散歩中、ペルを公園の木にリードで縛って、悲しそうな顔で
「ペル、もうお前のことを飼えなくなってもうたんや。
すまんな」
とドッキリを仕掛けた。
「ク~ン、ク~ン」
悲しむペル。
「これで終わりや」
人志が離れるとペルは絶叫。
その声を聞いて人志は泣いてしまい
「策士、策に溺れる」
と反省した。

松本隆博が中学1年生のとき、夜、ご飯の後、家族でテレビをみていると、近所から
「犬が車にはねられた」
という情報が入った。
「まさか」
と思いながらいってみると、それはペルだった。
目撃者によると車はそのまま走り去り、ペルははねられた後、数歩、家に向かって歩いて力尽きたという。
松本家はパニックになり、松本隆博は泣きながら血が出るほど柱を殴り、人志も部屋中を走りながら泣き叫んだ。
以下、人志が小6のときに書いた作文。
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イヌ
6年2組 松本人志
ぼくが4年の時の夏に犬をもらった。
まっ白で小さかった。
本でくらべるとテリアに一番似ていた。
はじめは全然なかなかった。
その頃、もう夏休みは、3日ほどにせまっていた。
そして、兄と一緒に犬のくさりを買いに行った。
一番小さいのを買った。
首輪も一番小さいのを買った。首輪はまだ大きくて桐で穴をあけた。
そして学校が始まった。
学校が終わると急いで家に帰り、犬をくさりからはずして、家のそばで遊んだ。
そして名前はいろいろ考えた上「ペル」にした。
ペルはすぐ大きくなり、1月頃にはぼくでも抱けないほどだった。
1月29日9時ごろ、父と兄と3人でお風呂に行った。
その時父が「もうペルのくさり離したで」と言った。
ぼくは、「何で」と言った。
「もう大きくなったから、勝手にどっか行って、おなかすいたら帰ってくるやろ」と言った。
そして、お風呂から帰ってきて、ペルを探しても全然いなかった。
だんだん心配になってきた。
そしたら、どっかの人が「この辺で犬が車にひかれた」と言っていた。
そして、「ダンボールの中にその犬の死体がある」と言っていた。
ダンボールの中の犬はペルだった。
そして、ぼくが5年の夏に新しい犬をもらった。
今度は黒と白の犬だった。
今度はぜったい大事にしようと思った。
そして名前はまた「ペル」にした。
今でもペルは、大きくすくすく育っている。
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ある日曜日、松本隆博は小学校の校庭で2代目ペルを放して走らせた。
同じグラウンドで少年サッカーの試合をやっていて、ペルはそのピッチ内に乱入。
試合は中断。
みんなが見守る中、ペルはピッチのど真ん中に穴を掘って、ウンコ。
その上、それを食べた。

人志が虫歯で顔が腫れて学校を休むことになり、母、秋子はパートに行く前に
「大事な電話が昼かかってくるから、普通やったらお母ちゃん帰ってきてその電話出るつもりやったんやけど、その電話だけ出といて」
と頼んだ。
「おう、わかった」
そういって人志は顔にサロンパス貼って寝転んだ。
やがて
「ドンドンドンドン」
誰かがドアを叩き
「松本さん、ぺルが逃げてるよーーー!!」
といった。
(もし誰かを噛んだらシャレならん)
人志はあわてて裏から出た。
そしてグランドで2代目ペルを発見。
しかしペルは遊んでもらえると思ってはしゃぎ、なかなか捕まらない。
「そんなんちゃうねん!」
人志はガッっと捕えたが、首輪が抜けてしまっていて、つかむところがなくヘッドロック状態で家まで連れて帰った。
つなごうとしているとき、電話の鳴る音が聞えた。
「電話や!」
あわてて玄関を開けようとしたがカギがかかっている。
裏口に回って家に入ったが電話は目の前で
「チーン」
と切れ、外をみるとペルが走り回っていた。

あるときネコの長助が近くの寿司屋からマグロの短冊をくわえて帰ってきて、父、譲一は頭を叩いて吐き出させ、刺身にして食べた。
またあるとき長助の息がくさいということになり、松本隆博が両腿で長助の頭はさんで前足を押さえ、人志がその歯を磨いた。
「どや?」
「うーん、まだくさいわ、兄ちゃん」
「そうかー、まだアカンか。
じゃあ正露丸塗ろ」
人志は正露丸を指でつぶして塗った。
「どや?」
「うーん、歯のにおいは取れたけど正露丸くさいわ」

夏の暑い日、ドテーッと寝ている長助をみて、兄弟はムカついた。
「猫の分際で態度デカいな」
「こいつ宿題ないしな」
「そや、こいつ冷やしてみよ」
「そやな、それええな」
意見がまとまり長助を冷蔵庫に入れてみた。
5分後、取り出すといい感じに冷えていて、兄弟は長助を抱いた。
「おお、エエわあ」
「兄ちゃん、冷やしネコやな」
体温が戻った長助は再び冷蔵庫へ入れられた。

ある日の食事中、機嫌が悪かった父、譲一は、突然、
「うちの子供で必要なのは隆博だけやな」
と発言。
家族全員が唖然となり、人志は箸を落とした。
中学生だった松本隆博はその場はこらえたが、後で1人になったときに
「それはないやろ。
兄弟の仲を親が引き裂く気か」
と号泣した。

松本隆博はよく勉強ができ、公立の進学高校に進んだ。
一方、弟、人志は成績が悪く中3のとき3者面談で担任に、
「公立は無理ですね」
といわれた。
公立に行ってほしい母、秋子は、
「そこを何とか・・」
と粘った。
「いや無理ですね」
「この子、ほんとにいい子なんです」
「いやあー無理ですね」
「先生、この子、ほんとに親孝行なんですよお。
私が熱出したとき、寝ずに看病してくれたんです」
人志は
(ウソや)
と思った。
「お母さん、親孝行でもそれは点数に含まれないんです」
「それはおかしいがな。
そこが1番大事なんちゃいますか。
この子はやったらできる子なんです。
私が責任取りますから、公立受けさせて下さい」

結局、人志は公立高校を受験することになったが
「私立も危ない」
といわれている身分で公立1校に絞ったため、落ちれば中卒で働くことになるかもしれない。
以後、2ヵ月間、松本隆博に教えてもらいながら受験勉強に励んだ。
松本隆博は
「イチかバチか、ヤマを張るしかない」
と数学は相似形、確率、と因数分解、国語は四時熟語、社会は昭和~明治までと範囲を決めて勉強させた。
そして人志は見事合格。
本当にやればできる子だった。
こうしてなんとか高校に入った人志だったが、半年くらいすると異変が起こった。
朝8時になってもまだ寝ている弟に松本隆博は
「なに寝てんねん。
学校行かんか」
「あんなしょうもない学校、もう行けへんねん」
松本隆博はキレて、初めて弟をドツき回した。
その後、冷静になり、
「誰でもたまには調子悪いときもある。
悪いことしたなあ」
と反省した。

そして松本隆博も、高校でタバコを吸ってるのを見つかってしまった。
1学期の終業式でみんなが集まっているとき、トイレで一服やったのだが、学級委員長だった分、厳しく怒られた。
与えられた罰は、丸坊主の上、自宅謹慎。
といっても次の日から夏休みだったので、10日間学校にいき反省文を書くことになった。
その初日、母、明子も学校に呼ばれ、夏の暑い中、2人で自転車で登校し、校長室に通された。
校長、教頭、生活指導、担任がいて、
「松本隆博!」
(教頭)
「はい」
(松本隆博)
「起立せい!」
(担任)
「はい」
「お前は○月○日、未成年でありながら東3階のトイレ内にてタバコを所有し、また・・・・」
(教頭)
教師は、まるで裁判のように追及していく。
「吸うたな?
間違いないな?」
「・・・・・・」
「返事せんか!
これは学則の○○違反になり最悪の場合、退学に・・・」
ここで秋子が出た。
「なんやの。
コレ何?
裁判やないの。
ウチの子を罪人扱いするんか?」
とりなそうとする教師に秋子は大爆発。
「アアッ?
タバコくらいええやないの。
なんなのよ」
そしてタバコを取り出し、火をつけ
「隆博、ホレ、ここで吸うたれ」
「まあまあお母さん」
「ウチの子、そんな悪い子ちゃうで。
タバコ吸うて迷惑かからんやろが。
どうせアンタ(担任)も吸うてたやろ?
大人が寄ってたかって、そのほうが恥ずかしいわ」
こうして裁判は終了したが、松本隆博は
「俺が1番悪い。
オカン、すまん」
とずっと泣きそうだった。
そして
「もう絶対に学校ではタバコは吸わん」
と誓った。
後日、担任は松本家にいき
「お母さん、実は僕、高校のとき吸ってました」
と告白した。

ある日、松本家に
「お宅に松本譲一さんでいてます?」
という電話が入った。
父、譲一が酔い潰れているらしい。
このとき家にいたのは、母、秋子と高校生の人志。
2人は仕方なく阪神尼崎駅までタクシーで迎えにいった。
駅に着いたが、どこで酔い潰れているのかわからない。
散々探したが結局、見つからず、徒歩で1時間かけて帰宅。
道中、
「ホンマあのオッサンむかつくわ」
と毒づく母親に人志は
「オカン、そんなこと言うてやるな。
いろいろあるんやと思うで」
といった。
秋子はその優しさに涙が止まらなかった。
そしてやっと家に着くと譲一が玄関の前でグーグーいびきをかいて寝ていた。
2人は家に引き上げようとしたが何か臭う。
みると譲一のズボンが半分脱げ、尻にウンコが挟まっていた。

就職が決まっていた人志が
「NSCに入る」
といったとき、松本隆博は
「売れる」
と思った。
家族で反対したのは父、譲一だけで他の者に違和感はなかった。
人志と浜田雅功はNSCに入って早々から
「間違いなく売れる」
と太鼓判をもらっていた。
しかし実際は同期のハイヒールやトミーズが先行。
理由は、
・人見知り
・生意気
・礼儀が出来ない
・ガンコ(納得できないことはしない)
という性格。
ド新人時代から、エラいさんが来ても元気よく挨拶することができず、ダラダラとした態度で接っしてしまう愛されない2人だった。
NSCを卒業後、仕事がなく自分の部屋にいることが多い人志に、母、秋子は
「アンタも出させてもらえへんの?」
といい、松本隆博は
「媚を売るとかそういうことちゃうけど、お互いが気持ちよく過ごしていけるようにして、そっから芸で勝負すると思えばいい」
とアドバイスした。
松本隆博が大阪電気通信大学卒業を出て、豊中信用金庫で働き出したとき、人志はまだ売れておらず、車を貸したりお小遣いをあげたりした。
やがてダウンタウンは頭角を現しはじめ、伝説の番組「4時ですよーだ!」がスタート。
松本隆博はそ公開生放送番組を会場まで観にいき
「放送禁止用語いうたら芸能界永久追放されるんちゃうか」
とヒヤヒヤしながら
「人志、落ち着いて落ち着いて」
と自分が1番緊張しながら観た。

こうしてダウンタウンは遠回りしたが、売れ始めると大ブレイク。
松本隆博にも
「サインが欲しい」
「チケット欲しい」
「会いたい」
というリクエストが殺到した。
人志が実家にいた頃は問題なかったが、やがて大阪のマンションに引越すると大変になった。
「松本さん、社長から電話です」
と呼び出され
「娘がエラいファンでな、サインもらえないか?」
といわれ
「浜田と2人は無理やけど、人志だけなら」
とうけおい、深夜、大阪までサインをもらいに行き、
「すまんなあ」
と謝りながら受け取り、翌日社長に渡した。
すると社長は
「昨日はありがとう。
いとこも欲しいいうてなあ・・・」
と言い出し、再び深夜、大阪まで行ってサインをもらい
「ありがとう」
といって帰った。
その後もリクエストは延々と続き、エエ加減しんどくなった松本隆博は、かつて実家で人志がサインの練習をした少年ジャンプを
「これは将来、カネになるかもしれん」
ととっておいたのを思い出した。
早速、それを取り出し、
「オレ、書けるかも・・・」
とサインの練習。
以後、大阪に行くことはなくなった。

松本隆博は基本的に自ら弟が有名人であることを明かさない。
しかしどうしてもというときは
「実は私、弟が松本人志でして・・・」
と告白。
驚く相手に
「アニキは大変ですよ。
みんな僕のこと『お兄さん』って呼びますから『アンタのお兄ちゃん違う』ゆうてね」
「向こうが僕に似てるんです」
などといってウケをとった。
歩いていて
「お兄さんですよね?」
といわれ写メを撮られたり、飲み会やコンパに誘われたりすることもあった。
「お兄さん、お兄さんと呼ばれてね。
宴会でもオチを期待されて、プレッシャーですよ」

バレンタインディには、1日中、松本家にチョコレートが届いた。
それ用に用意したダンボールの中には、チョコだけではなく
「HITOSHI LOVVE」
と縫いこまれた手縫いの毛糸のマフラーやセーターや帽子もあった。
しかし人志が、それらを食べたり着たりすることは100%なかった。
だからチョコレートは家族で食べ、松本隆博は
「捨てるのはもったいない」
と気に入ったものをもらって着た。

困ったのは家に直接やってくる突撃型のファン。
松本家はそういったファンに対しては、
「1人でもOKにすると他が断れなくなる」
ということですべて拒否することにした。
ある冬の日、女子中学生3人が現れ、インターホン越しに
「お小遣い貯めて和歌山から来ました」
といった。
1人、実家にいた松本隆博は
「寒い中、中学生が尼崎まで数時間、数千円かけてきたのか・・・」
と思いながらも居留守を使った。
しかし何度もインターホンを鳴らされ、ついに
「アカン、断れへん」
と玄関を開け、手作りのセーターやクッキーを受け取った。
さらに家に入れ、お茶も出し、人志の話をした。
フンフンと真剣に聞く3人に人志の部屋を見せ、写真を撮ってあげ、
「何か記念になるものが欲しい」
といわれ、人志が使用したエンピツをあげた。
また人志宛てに山のように届く、ゴルフ会員権やマンション、車の販促郵便物を
「はい、これ海外別荘のハガキね」
「はい、あなたはBMWね」
と1通ずつあげた。
3人からすれば「松本人志」と印字されているだけですごくうれしかった。
数週間後、彼女らは人数を増やして松本家を再訪。
松本隆博はいなかったが
「おっちゃんが『またおいで』っていうてくれた」
と訴え、家の中に入れてもらった。
こうして休日、松本家は観光ツアーの名所のようになり、ピーク時は家の近くでたこ焼きの屋台が出た。

毎週土曜日、12~ 13時生放送されていた「ノックは無用!」にダウンタウンが出演。
松本家の面々はコタツに入って昼ごはんを食べながら
「緊張するなー」
「大丈夫やって」
などといいながらそれをみていた。
そして番組が無事終わると
「よかった」
となったが、3、40分後、突然、人志が家に帰ってきた。
服装は衣装のままで、まるでテレビから抜け出てきたようだった。
コタツの上は、まだ食べかけご飯やシーチキン、永谷園のふりかけやザーサイ、甘納豆、醤油、ソース、新聞、メガネ、爪切り、アメちゃんなどが乗っていて、人志の第一声は
「汚っない部屋やな!」
書類を取りに帰ってきたという人志は、
「衣装が汚れる」
とコタツに入らず、何かの台に腰掛けた。
そして
「アニキ、灯油入れてって」
車のトランクに灯油缶が入っているといわれた松本隆博は
「わかった」
とすぐにスタンドまで走った。
それを受け取ると人志は
「ほな帰るわ」
といった。
「ええ、もう帰るの?
今来たところやないの。
せっかくおでん作ってるのに」
「いや、時間ないねん、ほなっ!」
母、秋子はあわてて台所に走った。
「これ持って帰り!」
「もう帰ったで」
松本隆博が教えると秋子は表に走り出て、人志の車を追いかけた。
「待ってえ。
これ持って帰りー」
その手には生卵が入ったビニール袋が握りしめられていた。

人志は女性スキャンダルが多かった。
すると実家にも取材が入ることがあった。
『あのー○○(雑誌名)の者ですが、人志さんの○○○○の報道の件で・・・・』
「知りません。
ほんとに何も聞いてません」
『今お付き合いされている方おられますよね』
「そりゃおるでしょうね。
でもいちいち聞かないし知りません」
『一部報道で出てますが・・・』
「そんなこと私らもテレビ見てしったくらいです」
『東京でデートされてたとか・・・』
「あのねえ、息子も大人やし、いちいち親がむすこがどこどこでデートしたとか、何をしたとか知らんわ」
インターホン越しに、母、秋子とやり取りが続き、収穫がないと記者は時間を置いて再訪。
「お兄様も今日はおられるということで・・」
となれば松本隆博も同じようなやり取りをする。
翌朝、また同じ記者が来たので、根負けした松本隆博は玄関に入れた。
昨晩、ホテルに泊まったという記者は、何かネタをつかまないまま帰ると交通費も滞在費も出ないから帰れないと訴えた。
泣き落としとわかっていたが、松本隆博は彼を救うための当たり障りのないコメントを与えた。
後日、その雑誌には
「松本の情報に詳しい関係者」
と書かれてあった。
2002年8月25日、早朝4時25~30分、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで! 」で浜田雅功に走り幅跳び対決で敗れた松本人志に対し、罰ゲームを執行。
日本テレビの駐車場で、家族戦隊松本レンジャイの5人
おとんレンジャイ(父)
おかんレンジャイ(母)
たかひろレンジャイ(長男)
なおみレンジャイ(長女)
ひとしレンジャイ(次男)
が力を合わせて悪の黒鬼軍団からヘイポー少年を助け、戦いの後、松本隆博の生ギターに合わせて「松本レンジャイのテーマ」を歌った。
この他にも松本隆博は、人志、あるいはスタッフから依頼されれば、
「少しでも数字的に貢献できたら・・」
と番組に出て、トークにギターに、その中途半端な素っぷりで盛り上げた。
一方、有名な弟を持つ素人の兄は
「弟の七光り」
「弟様様やな」
と揶揄されてきた。
そういうネガティブな意見に対しては、
「人志の兄ということだけじゃなしに、俺だってやれるんだぜということを見せてやりたい」
と逆にエネルギーにして仕事を一生懸命がんばった。

姉、直美が離婚して、慰謝料をもらわずに電子レンジだけ持って帰ってきたとき、人志は
「手切れ金に電子レンジもろた。
2人の間も冷め切ったってちゅうことで」
とテレビでネタ化し、父、譲一を激怒させたが
「そんなもん、芸人の家族の宿命」
と一蹴した。
直美は他にも、人志に
「鏡台の裏にハナクソをつけていた」
「背中にキスマークがあった」
「パンツにウンコがついていた」
などとテレビでいわれていたが、自身もトイレに行こうとする5歳の人志を羽交い絞めにして漏らさせたり、食事のときに自分が食べているものをのぞいてくる人志の眉間に箸で突いたりしていた。
またビーフジャーキーやポテトチップスなどの異文化を松本家に持ち込み、人志に
「姉ちゃんはザビエル」
といわれた。
人志はビーフジャーキーを初めて食べたときレーザービームで頭を撃ち抜かれたような衝撃を受けたという。
人志いわく、常に前へ前へ出ようとする松本隆博より、ボソリと放つ一言で笑いをとる姉、直美のほうが意外と面白いときがあったという。

松本隆博は、大阪電気通信大学を卒業後、
豊中信用金庫
内田洋行
松下システムソフト
松下電器IT教育研究所
と一貫してSE(システム・エンジニア)をやっていた。
そして40歳のときに、ヒューマンアカデミーで講演を行ったとき、自分の夢をしっかり持って、なりたい自分をめざしている18歳や19歳の若者と出会い
「俺、なりたい自分をずっとおいてけぼりやんけ」
と気づかされた。
そして2002年、ヒューマンアカデミーと松下電器の共同出資によってヒューマックス株式会社を設立され、松本隆博は取締役になった。
会社設立がうまくいくと、勤め人としてずっと鬱積しているものが弾け、
「好きなことをどんどんやってやろう」
という欲求が止められなくなった。
ブログ「取締役 松本隆博」は人気になると
「音楽でとことんやれるところまでやらせてくれてもええんちゃうかあ」
と思い、ヒューマックスの経営+音楽活動をどこまでやれるかに挑戦し始めた。

2004年11月17日、人志作詞、槇原敬之作曲&コーラス、そして浜田雅功が歌う「チキンライス」がリーリス。
人志は深夜に電話が鳴ったため、みると松本隆博だったので無視して寝た。
後で留守録を聞くと、
「人志ぃー兄ちゃんやでえ。
チキンライス聞いて」
と松本隆博がテンションが高い声で前置きした後、ギターを弾いて歌い出したので、人志は速攻で切った。

2006年12月20日、「取締役 松本隆博のフォークギター教室」フォークギターの教則DVDをリリース。
フォークギターを愛する人に手っ取り早く弾いてしまえるエンタメ奏法を伝授。

2007年7月1日、「松本の兄」が発売。
これはブログ「取締役 松本隆博を元にしてつくられた。

2007年7月11日、CD「尼崎なオカン♪」をリリース。
こうして松本隆博は数か月間の間に、DVD、書籍、CDでデビューを飾った。
「尼崎なオカン♪」は、東京で起業し1人暮らししながら、携帯電話を立たせて尼崎の実家の母、秋子に聴かせた事が始まり。
インターネットや着うたで、それなりに売れたが、母、秋子には
「あんた歌出したっていったけれど全くテレビで流れてないで。
あんたレコード会社に騙されたんと違う?」
といわれてしまった。
まったくインターネットをしない母、秋子にはテレビで流れないと聴くことはできない。
親孝行のつもりでつくった歌が不安がらせて親不孝になってしまっていることに心を痛め、
「よし次から曲出す時は決して僕の口から話しない。
売れてテレビから流れてくる僕の曲を聴かせよう。
そして母が必ず観るテレビの音楽番組と言えば年末のNHK紅白歌合戦だ。
これに出場しよう。
それによって母も安心するだろう。
それが親孝行になるだろう、僕からの親孝行の集大成として目標にしよう」
とNHK紅白歌合戦出場を狙うことを決めた。

一方、松本隆博がCDを出したことを知った人志は
「自分の好きな草原で遊んでいる分はいい。
でも草原から出たら即、撃ち殺されるぞ」
と思い、周囲には
「そんなCD買わんでいい。
そんな金あったら「大日本人」観に行って」
といった。

「松本さんのお兄さんを渋谷でみました」
という情報が後輩から人志に入った。
このとき松本隆博が嫁を大阪に残し、東京に単身赴任中。
後輩は若い女性を腕を組んで歩いていたという。
「なんやそれ。
なにしとんねん」
人志は、それを母、秋子と電話で報告。
「オカンのほうからもちょっというとけよ」
というと
「ホンマかいな。
アレでなかなかダンディやからな」
と怒るどころか、むしろ誇らしげにいった。
人志は
(ダンディじゃないし、ダンディの使い方間違うてる)
と思った。
ある後輩がインターネットをしていて松本隆博のホームページをみて
「松本さんのお兄さん、エラいことなってますよ」
と人志に報告。
「なんやねんな」
「今度、ワンマンライブやるみたいですよ」
「マジで!?」
「なんかライブハウスみたいなところでやりはるみたいですよ」
そのホームページには、古畑任三郎のようにスーツを着て顎の下に手を置いた松本隆博が
「♪松兄ギターライブ、尼崎な家族♪
しゃべり&ギター
終了時刻は気分次第で夜明けまで(嘘です)」
と告知していた。
人志は
(怖い)
と思った。
松本隆博は2008年12月、ヒューマックス株式会社取締役を辞任し、2009年、シンガーソングライターとして始動。
トークライブで全国を奔走した。
場所は都心のライブハウスではなく、地方の公民館、学校、障がい者施設などで、料金は無料を含む低額。
生きること、働くこと、家族、笑顔などをテーマに、男1人しゃべって歌う、1時間から2時間の1本勝負で会場を笑いと感動の渦に巻き込んでいく。
「お金なんて必要ない。
食べていけるだけで充分。
残りは全部社会貢献的に使っていくべきものだ」
という松本隆博の日本中を導火線のごとく感謝の連鎖で明るく元気にしていくこと。
2013年、5年間通算1千回のイベント回数を達成。
警視庁からの依頼で「振り込めさぎ撲滅ライブ」も各地で開催。
中学校の教科書にもしの活動が2ページに 渡り掲載された。
座右の銘は「やればできる できるしかない」である。
