デカすぎてハミ出てしまう男 篠原信一(1) オリンピックすら凌駕するデカさ

デカすぎてハミ出てしまう男 篠原信一(1) オリンピックすら凌駕するデカさ

史上最強クラスの強さでシドニーオリンピックに乗り込み、誤審により銀メダル。しかし一切、審判を批判せず「自分が弱いから負けた」の一言だけ。侍のような精神力的強さも見せつけた。


篠原信一は、1973年1月23日生まれ、元SMAPの中居正広と同い年。
青森生まれ、神戸、長田区育ち。
両親は建設関連会社を営んでいて、2階建てのアパート、丸々一棟、全8部屋が自宅。
1階隅に両親、2階真ん中に祖父母、2階奥に篠原信一、その他の部屋には父親の会社で働く職人さんが住んでいた。
食事や風呂は両親の部屋に下りていき、終われば自分の部屋に戻るという生活スタイル。
各部屋にキッチンとトイレがあり、ドアも施錠できるため、プライバシーの保護はバッチリで
「1人でいろいろなことをたくさんすることができた」
という。

少年時代から背が高く、学校で高いところにあるものをとるときや、手の届かないところを掃除するときに大活躍。
顔について
「顔、デカッ」
「顔、長ッ」
「馬っぽい」
といわれ続け、
「うるさいわ」
「ほっとけ」
と返していたが、やがて「どうでもエエわ」と思い始めた。
得意科目は給食。
家で宿題をしたことはなく、勉強はまったくできなかった。
しんどい事が嫌いで、スポーツにもまったく興味がなく、山下泰裕がロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲ったことすら知らなかった。
「学校帰りに友達と遊んで帰ってご飯を食べて寝て、また学校に行くという生活だったが、十分楽しく満足していました」

中学校に入ったその年に柔道部ができて、180cmあった篠原信一は、怖そうな顧問に勧誘され、断れずに入部。
背は高いが筋肉がないヒョロヒョロの篠原信一は、投げられてばかりで、
「痛いわしんどいわ、柔道着はクサいわで、まったく柔道なんて好きになれませんでした」
と練習をサボりまくり、試合に出るとかんたんに負けた。
中学3年生のとき地区大会で3位になり、そのとき試合会場にいた育英高校柔道部監督、有井克己に
「うちに入って柔道やれ」
とスカウトされたが
「いや、俺、高校は行かへん」
と断った。
中学を卒業したら働いて、自分でお金を稼いで好きなことをしたいと考えていた。
しかし母親に進学を勧められ、成績的にいける高校が少なかった篠原信一は育英高校に進んだ。
育英高校柔道部は兵庫県でベスト8に入るくらい強く、篠原信一は、いつも投げられ、抑え込まれ、締められ、高校になると解禁になる関節技を極められた。
何度も辞めようと思ったが、有井克己が
「コイツやばいぞ」
と思うくらい半端なくコワかったので、辞めたいということができないまま、柔道の基礎を叩き込まれていった。
その結果、育英高校柔道部、創立91年目にして初の県大会優勝に貢献した。

篠原信一は中学生の頃からタバコを吸っていたが、有井克己に見つかったとき、
「メガトンパンチを落とされた」
という。
それでも吸いたくて安全な場所を探した。
定番とされる体育館裏はバレやすく危険で、最終的に道場と同じ建物の中にあるトイレが穴場であることに気づいた。
そのトイレは鍵がかかっていて誰も来ないのでバレない。
鍵は有井克己の机の中にあって、スキをついてそれをとってトイレに入り、一服。
吸い終わったら鍵をかけ、机に戻すということを繰り返した。
ある日、いつものようにトイレにこもって満喫していると、突然ドアが開き有井克己が現れた。
「なにタバコなんか吸っとんじゃ!」
その後、教育的指導が行われた。
タバコの臭いに気づいた有井克己は、トイレの対面にあったシャワールームに潜んで待っていたという。
しかし結局、篠原信一はタバコをやめることができず、オリンピックに出たときも吸っていた。
いろんな人に、「やめろ」「吸うな」と散々いわれたが
「こんな美味しいもん、やめるなんてアホちゃう」
と思っていた。

高校の最高成績は、団体戦全国5位、インターハイ2回戦進出。
卒業が迫ると、働いて好きなものを買って楽しもうと思っていたが、
「天理大学に行って柔道やれ」
と天理大学出身の有井克己にいわれると逆らえなかった。
天理大学柔道部は全国から強豪が集う名門。
監督は有井克己と同期の正木嘉美だった。
篠原信一はすぐに
「あ、ヤバいところに来てしまった」
と思った。
大学の入学式といえば基本的にスーツだが、天理大学柔道部には1年生新入部員は学ランを着るという伝統があり、篠原信一は坊主頭に学ランで入学式に参加。
道場は100人以上が汗だくになって練習してミストサウナかと思うほど熱気がこもっていた。
柔道の稽古は受け身、打ち込み、投げ込みなどいろいろあるが、1番白熱するのは「乱取り」といわれる試合形式の練習。
ボクシングでいうスパーリングだが、いかつい顔と体をした先輩が、目を血走らせながら乱取りをするのをみて、1年生の篠原信一はできるだけ目立たないようにしていた。
しかし道場で身長が1番高く目立つためか
「おい、そこの1年、ちょっと来い」
とよくお声がかかり、なすがままに投げられ、抑え込まれ、締められ、極められた。

天理大学柔道部は全寮制。
4年生は王様、3年生、2年生は貴族、そして1年生は奴隷で先輩にこき使われた。
寮の掃除。
先輩の柔道着の洗濯。
洗濯機は全自動ではなく2層式で手間がかかった。
大きくて重い柔道着によって洗濯機が壊れると手で洗い、手で絞った。
そして「肩を揉め」といわれたらマッサージ。
「アイス買ってきて」といわれたら炎天下をダッシュ。
「おい、篠原」
といわれたら、基本的に断ることはできないのでハードな言いつけでないことを祈るだけ。
当初は
「おい、誰か1年いるか?」
とお呼びがかかれば、
「はい」
といって出て行っていたが、やがて部屋の中で寝たふりをするという技を身につけた。

寮費はすべてコミコミで月26000円で、朝昼晩、3回、食事を用意してもらえた。
朝は白ご飯、みそ汁、漬物、そして山盛りの生卵。
卵は各自2個までで、生でも焼いても茹でてもOKというシステム。
しかし先輩が
「俺、卵4つ、半熟で」
「俺3つ、固めに焼いて」
とルールを無視するため、1年生は先輩の世話が終わった後、漬物と味噌汁で白飯をかきこんだ。
夜にカレーが出ても
「俺、肉大盛りで!」
と4年生から順番に肉をタップリ持っていき、3年、2年と減っていき、1年生はルーカレーになってしまう。
おかずが余ることはめったにないが、白飯は余ることがあった。
するとそれは1年生が夕食で平らげてしまわなければならなかった。
「篠原、今日はダブルな。
食って早く大きくなれ」
ダブルとは2つのドンブリにメシを入れてガチャンと合わせてマンガのような山盛り飯にすること。
背は高いが痩せていた篠原信一を重量級の体にするための先輩の愛情だった。
しかし白飯だけではなかなか食べ切れない。
すると先輩は
「これで食え」
と自分が食べ終わったカップラーメンの残り汁をダブルにかけた。
(食いたくねえよ)
篠原信一は心の中で毒づきながら完食。
こうして日々、練習、特訓、しごき、可愛がりが繰り広げられた結果、自分でもわからないうちに強くなっていた。
体も大きくなって、1年生で試合のメンバーに選ばれるようになった。

篠原信一は大学時代を通して、練習の後に、飲み放題、歌い放題、時間無制限で3000円ポッキリのスナックに行くことが生きがいとなった。
「定食屋で600円を5回食べるより、スナックに1回行くほうが上」
と外食は我慢し、食事は必ず寮で済ませる。
実家から高級なウイスキーを黙ってもらってきて、スナックで2本の安いウイスキーと交換してキープボトル。
そこまでしてスナックにいきたい理由は2つ。
1つは道場で一緒に苦しい稽古をした仲間と、どうでもいいバカ話で盛り上がる時間が何物にも代えがたいものだったこと。
もう1つは、近くに看護学校があって、そこの学生もよく店に来ていたこと。
女子とキャッキャッやることが楽しかった。
酒、バカ話、女子によって稽古で強張った心身は気持ちよくほぐれていった。
寮には点呼があって25時には帰り、見回りの先生が去るのを確認して、またスナックに戻った。

天理大学柔道部には2歳下に野村忠宏がいた。
後にアトランタ、シドニー、アテネとオリンピックで3大会連続金メダルを果たす天才柔道家。
豪快だが愚直な篠原真一に比べ、野村忠宏はスター性があり、女性ファンも多かった。
191cmと164cmの凸凹コンビは、階級がまったく違うため直接的なライバルではないが、妙に張り合い、妙に仲がよく、漫才コンビのようなやり取りで周囲を笑わせた。
野村忠宏のセンスや才能をみて篠原信一は、もっと練習するしかないと思ったという。
「才能の差は小さい、努力の差は大きい、継続の差はもっと大きいねん」
(篠原信一)

後に嫁となる幸世とは、大学の授業で出会った。
幸世は、ハンドボール部に入っていて、年齢は1つ上。
学年をまたいで行われた授業で先輩に紹介された。
「第一印象は正直、特にかわいいとは思いませんでした。
だけどなんか気になる。
俺がかまってあげないといけない。
僕の中にある母性本能がくすぐられたわけです」
つき合い始めると柔道の練習後や休日にデート。
柔道部はアルバイト禁止で、お金がない篠原信一は、実家から学校に通ってアルバイトもしていた幸世に借りることもあった。
しかし1度も
「返して」
といわれたことがないという。

大学3年生のとき、体重無差別で争われる全日本学生選手権で大外刈りを武器に優勝。
決勝戦、たくさんの観客にみられる中、
「絶対に勝たなアカン」
という気持ちで体中が熱くビリビリと痺れた。
そして無我夢中で戦って勝ったとき、何かが一気に解放され、喜びが湧き上がり、日本武道館の歓声が自分の中に飛び込んできた。
それはいままで味わったことのない、日常の生活とは次元の違う感動だった。
大嫌いだった柔道が初めて好きになり、それまで「やらされていた」練習が
「俺、オリンピック、世界選手権、イケるんちゃうか?」
と大きな目標を持って
「やるぞ」
と前向きに取り組めるようになった。
朝の1時間のランニングは、それまで授業や午後の練習を考えて抑えていたが、後先考えずに全力疾走。
道場での3時間の稽古は、ほとんど休憩せず、力の限りやり、練習が終わると周囲が雑談やストレッチを行う中、畳の上で倒れこんでしばらく動けなかった。
やがてと立ち上がると部屋に戻って飲みにいく準備。
そして飲みに行っても力の出し惜しみはしない。
「明日、朝トレやからほどほどにしよう」
なんて考えたら負け。
力の限り盛り上がり、盛り上がり続けた。
点呼のために25時に一時帰宅した後、またスナックに戻って26時、27時なんて当たり前。
徹夜で遊び続け、6時15分に後輩に店までトレーニングシューズを持ってきてもらい、6時30分から朝練に参加し走り込みを行うこともあった。
「いつもMAXまで出し切る癖をつけないとスケールの大きな男になれない。
遊びで力を出し切れない人は仕事でも力を出し切れないんじゃないかと思います」
そして大学4年生のとき、講道館杯で小川直也に判定勝ちし優勝。
正力杯優勝。
全日本学生選手権2連覇。
フランス国際で世界チャンピオンのダビド・ドゥイエ(フランス)を破って優勝。
初対戦こそ勝ったものの、後にドゥイエは篠原信一の柔道人生において最大に試練となる。

天理大学を卒業後、旭化成に就職。
月の半分は、延岡市にある旭化成の総務部で仕事をした後、柔道部で練習。
もう半分は、天理大学柔道部で練習。
宮崎県と奈良県を往復しながら、全柔連の強化選手として合宿に参加。
目標は、世界選手権、オリンピックの頂点、最強の柔道家だった。
就職後の春、体重無差別で行われる全日本選手権に初出場し、決勝で小川直也に横四方固で1本負けし2位
すぐ後に行われた全日本選抜体重別では3位。
秋、世界選手権無差別級で3位に入った後、幸世と結婚。
式は神戸のホテルオークラ、藤原紀香と陣内智則と同じ「平安の間」で行われた。
貧乏学生から一転、一定のお金が手に入るようになった篠原信一は、延岡のネオン街で遊びに目覚めてしまい、柔道の練習に身が入らなくなってしまった。
このままではダメになってしまうと危惧した周囲によって天理の学生寮に強制送還。
新婚の幸世は、1年近く、延岡市で1人で暮らすことになった。

1996年は、ドイツ国際は初戦敗退、全日本体重別は小川直也に敗れ3位、全日本選手権(無差別)は3回戦敗退と結果が出ず、アトランタオリンピックの日本代表にはなれなかった。
野村忠宏が金メダルを獲得するのを行きつけの飲み屋のTVで観て
「良かったなあ」
と思いながら、あることに気づいた。
「テレビで柔道観るの初めてや!!」
こうして子供の頃からオリンピックをみたことがなかった篠原信一がオリンピック観戦を初体験。
しかし結局みたのは野村忠宏の試合だけだった。

1997年、ロシア国際の2回戦でタメルラン・トメノフ(ロシア)に有効を3つも取られて負けながらも、敗者復活戦を勝ち上がり3位。
その後、フランス国際では5試合オール1本勝ちで優勝(2年ぶり2度目)
全日本体重別、初優勝。
全日本選手権(無差別)、3回戦負け。
世界選手権は3回戦でトメノフに大外刈でリベンジ。
決勝戦でドゥイエ(フランス)と2度目の対戦。
前回の対戦は、大学4年生のとき、同じフランス国際で篠原信一が勝っていた。
この試合、お互い好戦的ながら、なかなか組み合わず、主審が両者に「指導」
その後も同じような展開が続き、篠原信一だけに「指導」
直後、篠原信一は内股でドゥイエを空中に舞わせ、ドゥイエは半身で畳に落ちたが、ポイントはなし。
その後、ドゥイエが内股をかけたが、篠原信一に潰された。
以後、なかなか技が出ない両者に主審が「指導」
それでも展開は変わらず、試合時間残り数十秒、主審が副審を呼んで協議。
そして両者に「指導」を与え、4度「指導」を受けた篠原信一は反則負けとなり、ドゥイエの勝ちが宣告された。
内容的には間違いなくが勝っていた篠原信一は思った。
「なんで俺が反則負けやねん」
一見、公正ながら実際に試合をみるとやはり納得のいかない不可解なジャッジだった。
篠原信一は、トメノフ(ロシア)、ドゥイエ(フランス)と7年後、シドニーオリンピックで戦うことになるが、このときもジャッジで問題が起こる。

1998年、全日本体重別で優勝。
全日本選手権(無差別)も、東海大学2年生の井上康生を合技1本で破って初優勝。
体が大きすぎるせいか、ルックスのせいなのか、柔道界のプリンス、井上康生と対戦すると篠原信一は完全にヒール(悪役)となった。
投げると
「キャーやめてー」
倒れた井上康生に寝技で覆いかぶさると
「ダメー」
と女性の叫び声が飛んだ。
篠原信一は、
「ケッ」
と思いつつ
「このたくさんの井上康生のファンに紛れて自分のファンもいる。
きっと自分のファンは落ち着いた人ばかりなので、人前でキャーキャーいったりせず、寝る前に自分のことを思い出すようなタイプの人なんだ」
と信じていた。
野村忠宏もよく女性ファンから花や手紙をもらっていて、篠原信一は、
「ケッ」
と思いつつも
「自分は野村のようにチャラチャラしていないから、自分のファンは声をかけて気を遣わせたり手紙を渡すと迷惑なんじゃないかと遠慮しているんだ」
と信じていた。
篠原信一はそんな奥ゆかしくて控え目な隠れファンに支えられていた。

1999年は全日本選抜体重別で明治大学1年生の棟田康幸を破って優勝。
全日本選手権(無差別)でも棟田康幸から大外刈の技ありをとって2連覇。
世界選手権は、100kg超級で大外刈、無差別級で内股を決めて優勝。
11試合中10試合で1本勝ちという圧倒的強さで、山下泰裕、小川直也、ドゥイエに続き史上4人目の世界選手権2階級制覇を達成した。


2000年、全日本体重別で優勝。
全日本選手権(無差別)では井上康生を破って3連覇。
そしてシドニーオリンピックの日本代表に選出された。
山下康裕監督と斉藤仁コーチが率いる代表合宿のあまりの厳しさに、
篠原信一は
「理不尽、イソジン、斉藤ジン」
井上康生は
「いい意味で異常」
と悪口をいい合っていたが、斎藤仁はそれを知ると嬉しそうに怒ったという。
日本代表合宿では、ビデオで対戦相手を研究する「ビデオ研究」の時間が設けられていたが、斎藤仁コーチに
「やったことにしといてください」
とお願いし欠席。
事前の頭の中での対策より、どんな相手がどんな動きで来ても大丈夫なくらい体で強くなることが大事と信じていた。

シドニーオリンピックでは準々決勝まであまり手こずることなく勝ち進み、試合と試合の間にはTシャツに着替え
「タバコ吸ってくる」
といって控室を抜け、会場の外に出て、かなり離れた場所で気づかれないようにタバコを吸った。
「篠原、今日は吸いすぎるなよ
何本吸ったんだ?」
「あんまり吸ってないですよ。
5本です」
「吸いすぎだろ!」
斎藤仁に軽く怒られながら、準決勝を迎えた。
怪力のトメノフ(ロシア)にポイントをリードされるも大外刈で逆転勝ち。
この日、初めての激戦に汗だくになりゼイゼイいいながら控室に戻った。
控室で少し体が落ち着くのを待ってタバコを吸いに行こうと思ったが、決勝戦の時間がわからない。
一応、タイムテーブルは貼ってあるが、予定時間はあてにならない
「ちょっと聞いてきて」
と付人に頼むも、周囲は外国人ばかりでわからない。
スピーカーから聞こえてくる会場アナウンスも英語なのでわからない
試合前、ここから名前を呼ばれ、3コール目までに試合場に入らなければ失格となる。
(タバコを吸いに行っても大丈夫なのか?
大人しくいたほうがいいのか?)
結局、タバコをガマンして待つことにした。
試合直前の過ごし方は、寝ころんだり、イヤホンで音楽を聴いたり、タオルを顔にかけて集中力を高めたり、様々だが篠原信一の場合は雑談。
「タバコ吸いたいなあ」
『はあ』
「終わったら何食いに行く?」
『ガッツリ肉食いたいですね』」
と付人と他愛のない話をした。
そうして臨んだ決勝戦。
相手は3度目の対戦となるドゥイエ(フランス)
バルセロナで銅、アトランタで金、そして1997年の世界選手権で篠原信一に不可解な反則勝ちしている強豪。
一方、篠原信一も世界選手権でドゥイエに敗れた後、7年間は無敗だった。

なかなか思うように組むことができない中、どうやって1本をとるか、全身で集中し探った。
1分30秒、ドゥイエが帯をつかんで強引な内股。
篠原信一は跳ね上がってくる脚を外すようにすかし、相手の上半身を捻って投げる「内股すかし」
ドゥイエの体は空中を舞った後、背中から畳に落ちた。
篠原信一の体も投げた勢いで肩から畳に落ちたが、しっかりと投げた手応えがあった。
(勝った!)
と思わず両手でガッツポーズ!
勝ち名乗りを受け、礼をするために中央に戻ろうとしたとき、主審の
「有効」
の判定が目に入った。
(エッなんで有効なん?)
わけがわからないまま
「はじめ」
のコールがかかって試合再開。
頭の中には
(今のは絶対に1本やった)
という思いがずっとあった。
「待て」
がかかったとき、
「信一、お前(ポイントを)取られているぞ!」
という斎藤仁の叫び声が聞こえた。
(なんで)
そこで自分がポイントを奪われていることに気づいた。
(なんでやねん!)
試合は続いたが、心の中は疑念でいっぱいで、ドゥイエに集中することができない。
柔道の試合で誤審があれば、中断し協議が行われ判定をやり直すことがある。
篠原信一はきっと『やっぱりさっきのは1本でした』といわれて、試合が終わるのを期待していた。
しかしその気配は一向になく、電光掲示板を確認してもドゥイエの有効という表示は変わらない。
「信一、攻めろ!」
斎藤仁が叫び、篠原信一もがむしゃらに攻めたが、なかなか組ませてもらえない。
やがてドゥイエに
「注意」
が与えられた。
ポイントで並んだが、このまま判定になると投げてとった「有効」に「注意」は及ばない。
(ヤバい、このままでは負ける)
焦る篠原信一は、組もうとして逃げられ、技をかけてかわさを続けた。
残り1分、強引に繰り出した内股を返され
「有効」
と逆にポイントを奪われた。
試合終了のブザーが鳴り、ドゥイエが判定勝ち。
篠原信一は控室で頭にタオルをかけて号泣。
誰も声をかけられなかった。

やがて少しずつ興奮が冷めてくると試合展開が思い出されてきた。
頭の中で繰り返されるのは、内股すかしを決めた瞬間ではなく、その後の3分間半。
「なぜあのとき気持ちを切り替えて、集中力を取り戻し、もう1度投げて1本をとるという気持ちになれなかったのか」
という後悔が押し寄せてきた。
「そのとき最後まであきらめず戦い続けていたら金メダルを獲ったのは自分だった」
そう思うと悔しくて悔しくて、また涙があふれてきた。
最終的に篠原信一は自分の中で答えを出した。
「結局、自分が弱かったんだ」
表彰式のために試合場に戻り、銀メダルを首にかけられたが、悔しさしかなく涙が出た。
それを観た人は
「篠原は誤審で負けて悔しがっている」
と思ったがそうではなかった。
試合後、山下康裕や斎藤仁が審判や国際柔道連盟に猛抗議したが判定は覆らなかった。
篠原信一はそれをまったく知らなかったし、そもそも誤審だったかかどうかなど考えもしなかった。
その後、記者会見があったが
「出たくない」
と拒否。
説得され、なだめすかされ、なんとか会見に出て、カメラのフラッシュをバシバシたかれながら
「自分が弱いから負けたんです」
と一言でサッサっと切り上げた。

記者会見が終わるとドーピング検査があった。
大量の汗と涙を流したためか、なかなかオシッコが出ず、水を飲んで出るのを待った。
長引いた検査を終え、ロッカーを出ると、最終日だったので会場の撤収作業が始まっていた。
日本のチーム関係者も、役員もみんな帰ってしまっていたが、野村忠宏だけが待っていてくれた。
作業で騒然とする通路で何時間も1人で待っていた野村忠宏は頭を下げた。
「先輩、お疲れさまでした」
この大会で金メダルを獲得した野村忠宏は、篠原信一のバッグを持ったり、会場を出て焼肉を食べるときも積極的にバカ話をして優しさをみせた。
「ヒロが1人で待っとってくれたんです。
自分にどう声かければいいんだって、あんな試合の後ですから、そりゃあアイツも困っとったでしょうね。
でもあのときヒロの顔みてハッと我に返った感覚になれましたね。
そうだ、もう切り替えようって」
篠原信一は感動したが、帰国後、天理で行われたパレードでは、
「先輩、銀ですからね。
自分より目立っちゃ駄目ですよ」
といわれた。

オリンピック後、篠原信一の「弱いから負けた」発言は、
「柔道の精神そのもの」
「潔い」
「まさに侍」
と絶賛され、全柔連には、篠原信一を称え、慰め、励ますメッセージが殺到した。
「篠原が『自分が弱いから負けた』といってくれたから日本の威信が保たれた」
という柔道関係者も多かった。
篠原信一はありがたいなと思ったが、中でもある幼稚園の子供たちが折り紙とボール紙でつくってくれた金メダルをみたとき思わず涙をこぼしてしまった。
世間に美談として持ち上げられて、篠原信一は最初はとまどっていたが、やがて
「持ち上げてくるならノッてやろう」
と思うようになった。
柔道は決して天才ではなかったが「調子ノリ」という競技があれば確実に金メダルの篠原信一は、面白トークを展開していった。

シドニーオリンピックが終わった後、ドゥイエは引退。
主審を務めたMonaghan Craigは脅迫状が送りつけられ、ニュージーランドの自宅にまで取材が押しかけてきた。
技が決まって2人が倒れたとき、主審のMonaghan Craigは彼らの背中側からみていたが、その逆側からみていた副審のMattar Emanoelは「1本」のジェスチャーをしている。
副審のMattar Emanoelは、試合後、
「どちらに技に1本としたのか?」
と確認されると
「日本」
と答えた。
日本代表監督だった山下泰裕は
「篠原選手の1本。
主審は内股すかしを見極められていない」
と主張したが、主審が内股すかしを知らなかった可能性もあった。
柔道が国際化を急いだ結果、起こった審判レベルの格差も誤審の一因とされ、シドニー後、各国で審判の研修会が頻繁に行われるようになった。
数年後には国際柔道連盟が

・審判の判定を検証、訂正するジュリー(審判委員)制度
・2台のビデオカメラで2方向から撮影し判定をサポートするビデオ判定制度

を導入した。
デカすぎる男、篠原信一の功績は大きかった。

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ギタリスト 鈴木茂が、『鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブ~Autumn Season~』を11月13日にビルボードライブ大阪、16日にビルボードライブ東京にて開催する。今回は、1975年にリリースされた1stソロアルバム「BAND WAGON」の発売50周年を記念したプレミアム公演となる。


【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

2025年(令和7年)は、1965年(昭和40年)生まれの人が還暦を迎える年です。ついに、昭和40年代生まれが還暦を迎える時代になりました。今の60歳は若いとはと言っても、数字だけ見るともうすぐ高齢者。今回は、2025年に還暦を迎える7名の人気海外アーティストをご紹介します。