
斉藤仁は、1988年にソウルオリンピックで金メダルを獲得すると、1989年3月に現役を引退。
それまで国士舘大学の体育学部の助手という肩書きで柔道部で練習していたが、引退後は柔道部監督に就任。
大学の授業では
「筋肉は使わないと弱くなりますが、使いすぎるても弱くなります」
とバランスを重視した科学的なトレーニングを教えていたが、柔道部では一切の妥協を許さず、あまりの怖さと厳しさに音を上げる選手も多かった。
そして監督になって最初の全日本学生選手権は初戦敗退。
以後も自身の現役時代の練習法をそのまま学生達に叩き込んで鍛え上げようとしたが、思いのほか結果に結びつかなかった。

1992年、バルセロナオリンピックが終わった後、山下康裕が全日本代表の監督になると斉藤仁は重量級のコーチに就任。
山下康裕には明るくクリーンなイメージ、そして過去にとらわれず新しいことを導入する柔軟さやチャレンジ精神があった。
一方、山下康裕にずっと挑み続けた斉藤仁は、1984年のロスオリンピックでは無敵の強さで優勝した。
しかしそこからソウルオリンピックまでの4年間は地獄をみた。
肘と膝に大きなケガを負って、それまでのような柔道ができなくなったが、それでもなんとか勝つために、相手をよく観察し、寝技に持ち込んだりした。
豪快さは失ったが柔道家としても幅が広がった。
その苦しくてつらい経験によって人間としても大きく、指導者になった後も名選手にありがちなおごりがなかった。
苦労人の斉藤仁は、
「柔道とは何か」
ということを身にしみて理解していた。
だから若い選手に正しい柔道を指導し、世界に示すことが期待された。
実際、あるとき国際大会で、日本人選手が豪快な投げで1本勝ちした後、喜びのあまりなのか、寝転んだままなかなか起き上がらないことがあった。
すると斉藤仁は
「何やってるんだ!
立て!」
と猛然と怒り出した。
「なんで怒ったんだ?」
「見事な1本勝ちなのに・・・」
理解できない外国人の関係者に、斉藤仁は
「1本勝ちしたからといって寝転んでいたら相手に失礼です」
といった。

柔道は「礼に始まり礼に終わる」
試合は礼が終わるまで続いているというのである。
柔道はJUDOが進化すると、日本柔道は世界に目を向けざる得なくなった。
そしてプラスと思われることは受け入れ、共に進化してきた。
しかし同時に
「柔道はJUDOになってはいけない」
という意識が潜在的にあった。
組んで-投げて-抑え込むが流れるように行われる柔道。
豪快な投げで1本をとる柔道。
そして「精力善用」「礼に始まり礼に終わる」という精神。
「失ってはいけないものがある」
日本柔道にはそんな独特の意識と使命感があった。

後に斉藤仁と結婚する三恵子さんは、パリに住みながらフランスの航空会社の客室乗務員をしていた。
1993年、日本へ向かうフライトに乗務したとき、フランス遠征から帰国する柔道日本代表チームと乗り合わせたが、山下康裕監督や重量級担当コーチの斉藤仁をみても誰かわからず、
「体の大きい人だな」
と思っていた。
しかしフランスは柔道大国。
柔道ファンの男性乗務員に
「彼らは柔道の世界チャンピオンだよ」
に教えてもらった。
そしてその男性乗務員に
「通訳してくれ」
と頼まれたのが斉藤仁とのファーストコンタクトとなった。
この少し後、日本からパリへ向かう便に乗務したとき、偶然、柔道日本代表が乗っていて
「パリで試合をするのでよかったら皆さんでみにきてください」
と斉藤仁に誘われ、フランス国際柔道大会を観戦した後、日本代表と一緒に食事。
斉藤仁は熊のような体でタオルで汗を拭きながら話していたが、その素朴な人柄に好感を持ち、以後、日本代表がヨーロッパに来る度に試合を観にいき、やがて交際が始まった。
4年後、36歳の斉藤仁は、4年の交際を経て三恵子さんと結婚。
三恵子さんは結婚後、しばらく日仏を往復品しながらパリで仕事を続けていたが、妊娠を機に東京に住むことにした。
世田谷の家で斉藤仁はヨレヨレのジャージで外出し、車はコンパクトカー。
うわべはまったく気にしていない様子も三恵子さんのお気に入りだった。
「裏を返せば自分に自信があったということ。
俺が勝負しているのはそこじゃない。
大切なものは心の中にあるんだ。
ほかのことはどうでもいい。
そんな信念を秘めている人でした。
そこに私は惹かれたのです」

1999年、斉藤仁が監督になって10年後、国士舘大学が初めて日本一となった。
このとき国士舘高校3年生時にインターハイ100kg級で優勝した鈴木桂治は1年生。
高校時代から大学生が道場に来て稽古をつけてもらっていたが、そのとき斉藤仁も来ていてその厳しさをみて大学には行きたくないと思っていた。
「なんというか、次元の違う怖さなんです」
(鈴木桂治)
国士舘大学に進み、実際に指導を受けるようになると、その柔道のレベルの高さに驚いた。
斉藤仁は「もっと走れ」とか「もっとウエイトトレーニングをしろ」などトレーニングに関してはあまりうるさくいわない。
ひたすらいうのは技術的なことで、その技術は決して大学生が覚えられるようなものではなかったが、とにかく1つのことができるまでトコトン反復させられた。
例えば、背負い投げでも1つの投げ方だけでなく、少し変化させた多くの種類があり、そのすべてをやらされる。
1つできれば
「じゃあ、次はこれやってみろ」
とドンドン課題が与えられるが、途中で間違えると
「そんなんじゃねえ!」
と怒鳴られる。
斉藤仁に
「あと、膝をこれだけ曲げてみて」
といわれ、斉藤仁の足が太すぎて、これだけがどれだけかわからず感覚的に曲げる。
1回でドンピシャになることは少なく、5回、6回と曲げて、ようやく
「おお、そこ」
となる。
そして指示通りに身体を使うと投げやすくなったり相手が軽く感じられるという。

その身体の動きを覚えるために同じことを何万回とやらされることもあった。
それは「何回やればOK」「ここまでやればOK」ではなく、斉藤仁が「終わり」というまでやり続けなければならない。
16時に練習が始まり、与えられた課題ができなければ21時まで延々やらされる。
通常なら練習が終わると
「続きはまた明日」
となって寮に帰るが、たまに22時の寮の点呼のときに
「柔道着を持って来て」
とマネージャーから呼び出しがかかり、道場にいくと斉藤仁がいて、27時近くまで練習することもあった。
27時近くまでというのは「27時を過ぎると朝練はナシ」というルールがあったため、斉藤仁は26時55分になると
「よしっ、今日はここまで。
続きはまた明日」
といった。
その後、フラフラになった部員は授業で寝た。
「稽古というより修行という感じでした。
千日回峰行をTVでみたりすると、その修行僧の気持ちがわかる気がしますから」
(鈴木桂治)

基本的に斉藤仁と部員に間に、フレンドリーなコミュニケーションはなかった。
部員は返事、そして実行あるのみ。
たとえ一緒に食事をしても、緊張で味わうことができない。
斉藤仁はとにかくたくさん食べさせようと大量に注文した。
それが行きつけの店ならキャベツを何個も千切りしてもらって
「お前ら、残すなよ」
といって食べさせた。
部員にしてみれば練習の延長のようだった。
「斉藤先生に会った人はよく「優しいですね」といいますが、そんな先生をみたことがない。
柔道部員がみていたのは、私たちは「歌舞いている」といっていたのですが、怒りのあまり歌舞伎の隈取ろをしたような顔になった斉藤先生ばかりだったのです。
本当に鬼以外のなにものでもない」
(鈴木桂治)
2000年、シドニーオリンピックの100kg超級で篠原信一は順当に勝ち上がった。
中学生の頃からタバコを吸っている篠原信一は、試合と試合の合間に控室を抜けて一服していて、斎藤仁は注意した。
「篠原、今日は吸いすぎるなよ。
何本吸ったんだ?」
「あんまり吸ってないですよ。
5本です」
「吸いすぎだろ!」
篠原信一は、準決勝でトメノフ(ロシア)に大外刈で逆転勝ち。
決勝戦の相手は、ドゥイエ(フランス)
バルセロナ銅メダリスト、アトランタ金メダリスト、そして1997年の世界選手権の決勝で篠原信一を敗っている(不可解な判定で反則勝ち)選手。
一方、篠原信一もドゥイエに敗れた以来、7年間無敗だった。
1分30秒、ドゥイエが帯をつかんで内股。
篠原信一は跳ね上がってくる脚をすかして、相手の上半身を捻って投げる「内股すかし」
ドゥイエの体は空中を舞った後、背中から畳に落ちた。
篠原信一も投げた勢いで肩から畳に落ちたが、しっかりと投げた手応えがあり
(勝った!)
と思わずガッツポーズ!
勝ち名乗りを受け、礼をするために中央に戻ろうとしたとき、主審の
「有効」
の判定が目に入った。
(エッ!なんで有効なん?)
わけがわからないまま
「はじめ」
のコールがかかって試合再開。
頭の中には
(今のは絶対に1本やった)
という思いがずっとあった。
「待て」
がかかったとき、斎藤仁は叫んだ。
「信一、お前(ポイントを)取られているぞ!」
1本でなかった上、有効のポイントはドゥイエに与えられていた。
(なんでやねん!)
試合は続いたが、篠原信一の心の中は疑念でいっぱいで集中することができない。
「信一、攻めろ!」
斎藤仁は大声で叫んだ。
篠原信一はがむしゃらに攻めたが、なかなか組ませてもらえなず、やがてドゥイエに
「注意!」
が与えられた。
「有効」と「注意」はポイントとしては等しいが、このまま判定になれば、投げてとった「有効」より「注意」は不利。
(ヤバい、このままでは負ける)
焦る篠原信一は、組もうとして逃げられ、技をかけてかわさを続けた。
残り1分、強引に繰り出した内股を返され
「有効」
と逆にポイントを奪われた。
試合終了のブザーが鳴り、ドゥイエが判定勝ち。
山下泰裕は両手を広げて審判団に詰め寄った。
斉藤仁は畳を降りようとする篠原信一を押しとどめた。
しかし判定は覆らなかった。

2000年、シドニーオリンピックの後、斉藤仁は全日本代表監督に就任。
(山下康裕は全柔連の男子強化部長)
「日本代表という集団は柔道家のトップ中のトップ。
練習は誰よりも量をこなし誰よりも質を求めなくてはいけない」
という斉藤仁が監督になると全日本の合宿は、
・早朝トレーニング
・午前
・午後
・夜
の4部制となり、量も内容もハードになった。
その妥協を許さない厳しい稽古のやり方に、篠原信一は
「理不尽、イソジン、斉藤ジン」
井上康生は
「いい意味で異常」
と悪口をいっていたが、斎藤仁はそれを知ると嬉しそうに怒った。

また組手の練習として、夜の道場で電気をつけず真っ暗闇の中でやったり、軍手をつけて稽古したり、自衛隊に体験入隊したり、独特の練習もあった。
自衛隊では、80mほどの高さに張った網の上で腕立て伏せをやったり、10mの高さからワイヤーをつけて降下訓練。
選手たちは
「何の意味があるんだ」
「普通じゃない」
と思いながら、ほふく前進で泥だらけになった。
自らを
「段取りくん」
と称し、
「リーダーは細かくなくてはダメ」
という斎藤仁は、選手たちが金メダルを獲るためにはどういう環境をつくればいいのか真剣に考え、準備など細部まで気を配った。
その姿をみた井上康生は、斎藤仁の異常さは、
「柔道に対する異常なほど深い愛」
であると理解した。

斉藤仁が日本代表監督に就任にすると嫁、三恵子は、次男の出産もあり、実家のある大阪の平野区に移り、斉藤仁は1人暮らしとなった。
このとき長男の一郎は幼稚園。
次男の立(たつる)は、大阪で生まれた。
兄弟にとって斉藤仁は優しい父親だった。
食事のときはうるさいくらいしゃべり続け、
「ハワイに行きたい」
といえば連れて行ってくれるし
「お小遣い頂戴」
といえばお札をくれる。
「遊ぶときは思い切り遊べ」
といってスキーやスケートを教えてくれるし、プールに行くと水の中で100kg以上の巨体を一本背負いで投げさせてくれた。

しかし小学生になって2人が大阪の町道場で柔道を始めると父親はガラッと変わった。
兄弟は
(鬼だ!)
(多重人格者か?)
と思った。
大阪の家の和室に柔道用の畳が敷き詰められた。
東京から斉藤仁が来ると
「ちょっと来い。
教えたるわ」
といって地獄が始まる。
投げ込みは床が抜けるのでできないが、打ち込みを徹底的に反復。
足が踏み込む位置が1cmでもズレたら
「やり直し」
なかなかできないと
「なんでできねんだよ!
もう1回やってみろ!」
とヒートアップし、声だけでなく手も飛んだ。
斉藤仁は町道場の練習にも顔を出し、兄弟に打ち込みをさせ、できないとみんなの前で
「やめちまえ」
と怒鳴った。
(なんて理不尽なんだ)
兄弟は思った。

兄弟は、父親がいると家でも気を緩めることができなくなった。
あるとき母親のいうことを聞かない兄弟に斉藤仁が立腹。
「頬っぺたを出せ」
といって手をあげると長男、一郎は目をつむった。
「なに逃げてる!
いわれたら潔く頬を出せ!」
と何度もビンタ。
それをみていた次男、立は、自分の番になると自ら顔を差し出した。
「おっ」
斉藤仁は少し驚き
「それでいいんだ」
と笑った。
長男はセーフになった弟に少し腹が立った。
「次はいつ帰ってくるんだ?」
かつてあんなに楽しみだった父親の帰宅はないほうがよくなった。
父が帰ってくる日は朝から憂鬱で、
「頼むから夜遅くに帰ってきてくれ」
と祈り、学校から帰ってきて玄関に大きな靴があると泣きそうになった。

東京の家に遊びに行っても、国士舘の道場に連れて行かれ
「コイツらボコボコにしていいから」
といわれ、大学生に投げられ続けて泣き出すと
「これが柔道だ!」
と鬼の形相でいわれた。
小学生の兄弟は
(普通、東京に遊びにきたらディズニーランドやろ!)
と思っていた。
しかし彼らは斉藤仁の唯一の弱点を知っていた。
それはあるとき大阪の家で練習しているとき、1度ヒートアップすると抑えられない斉藤仁は、嫁に
「もうやめて」
といわれても兄弟に怒り続けていた。
しかしそのとき近くに住んでいる嫁の母親がやって来ると一変、ニコニコ顔になって優しくなった。
「いい人と思われたがってる」
と見抜いた斉藤三恵子は、以後、何かあると実家に
「ちょっと来て」
と電話するようになった。
2003年春、全日本体重別選手権100kg級の決勝で鈴木桂治が井上康生を決勝で破って優勝し、2連覇。
直後、全日本選手権(無差別)の決勝で井上康生は鈴木桂治に内股で豪快に1本勝ちし、3連覇。
秋の世界選手権の100kg級の代表に井上康生が選ばれると、納得できない鈴木桂治はメディアの取材に不満を漏らした。
すると斉藤仁から電話がかかってきて
「文句があるなら来年の全日本で勝て!」
と怒られた。
その後、世界選手権で、井上康生が100kgで、棟田康幸が100kg超級で、鈴木桂治が無差別級で優勝。
日本柔道の重量級を牽引する3人が金メダルを獲得。
しかし翌年のオリンピックでは、無差別級がないため、重量級で日本代表になれるのは2人だけだった。

2003年、大阪で世界選手権が行われた。
この大会はNHKではなくフジテレビが放送。
メインキャスター、藤原紀香、加藤晴彦。
MC、三宅正治。
コメンテーター、吉田秀彦。
実況、長坂哲夫、佐野瑞樹、森昭一郎、竹下陽平、西岡孝洋。
応援ソングはくずの「全てが僕の力になる」
そして秋山成勲が銀色、矢嵜雄大が赤色に髪を染めて出場し、話題となった。
矢嵜雄大は
「自分が最も力を出せる色。
柔道界の古い体質に一石を投じる意味もある」
とその理由を述べた。
その後、全柔連は日本代表としてふさわしい品位、身だしなみを求めるガイドラインが作成。
「身だしなみ(服装、髪形・髪の色等)を整え、品位を保ち、礼法においても代表の地位を汚さないよう範を示すものでなければならない」
と通達を出した。

「髪の毛の問題は当時、柔道界に限らずサッカーや野球、いろんな競技でも問題になっていて、「柔道界も考え方が柔らかくなって進歩した」といわれる方もおられた。
ただ大阪の世界選手権頃からテレビで大々的に放送され、特別番組なんかも作られるようになって、それ自体は非常にありがたいことだけれども、選手がバラエティ番組なんかに出る機会も増えて、だんだん舞い上がっていったのも確かです。
大阪の世界選手権を大成功させるんだということで、選手・監督・コーチ、みんながひとつになって盛り上げてくれといわれてテレビに出演したりしたんだけれども、やっぱり1番は試合で勝たなきゃダメなんですよ。
世界選手権前の最終合宿が終わったとき、
『常識のある髪の色で、髪の形で来い。
決して自分たちの常識じゃないぞ』
という話を選手にしたんだけども、結局、ああいう奇抜なカラー、ヘアスタイルで大会に臨んだ選手がいた。
あのときは、我々の気持ちが伝わらなかったということと、選手の意識の低さがとても残念でしたね。
結局、坊主頭で挑んだ井上康生、鈴木桂治、棟田康幸が優勝して、批判されるような髪の色、髪型をした選手はみんな負けた。
その結果もあり、多くの人からいろんなクレームが寄せられ、ガイドラインを決めることにしたわけです。
現場の私も選手たちに
『髪の色を染めないと柔道ができないんだったら、もう柔道やめていいよ。
全日本から出ていってくれ』
といいましたが、それからは茶髪にする選手はいなくなりました。
コーチの中でも、個性を潰しちゃいけないんじゃないかとか、自分の意思表示なんだから、という意見もあったけど、ある意味、その当時の社会の風潮を象徴したできごとだったのかもしれないですね。
日の丸を背負うことの意義をちゃんと理解した選手が代表になっていると思いたいけど、髪の毛に関しても、「髪の色で日の丸がどうとかって関係あるんですか」と言ってくる。やっぱり柔道選手に限らず、人というのは成長すればするほど、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざじゃないですけど、だんだん頭が下がってくる、謙虚になってくると思うんですね。
だからそういうことをいう選手というのはまだ十分に成長できていないというか、人間として不十分なんだろうなと。
ただそういう選手たちが普段の練習において手を抜いているかというと全然そうじゃない。
それどころかすごく一生懸命頑張っていた。
多分、テレビに出て注目されるようになって、本番に近づくにつれ緊張感も高まり、肩に力が入ってきて、それで髪の色や形に逃げるというか、そんなふうになっちゃったのかなとも思いますね」
(斉藤仁)

柔道界のプリンス、絶対的エース、井上康生が放つキラキラな輝きのせいで、完全に影の存在となってしまっている鈴木桂治は燃えていた。
「たくさんの人に応援され、愛され、全てを味方につける井上康生に嫉妬していた。
その味方になってる人も倒したいと思っていた」
井上康生は鈴木桂治より3歳上で、山下泰裕が教える東海大学柔道部出身。
井上康生 vs 鈴木桂治のライバル関係は、山下康裕 vs 斉藤仁の代理戦争ともいわれた。
実際、斉藤仁は強烈なライバル心をむき出しにして鈴木桂治に、
「俺は山下さんに1度も勝てなかったからお前は勝たなきゃイカン」
と励ました。
2004年4月4日、全日本体重別選手権100kg級で鈴木桂治は準決勝敗退。
優勝は井上康生。
2004年4月29日、 全日本選手権(無差別)では、鈴木桂治が優勝。
2位は井上康生。
3位は棟田康幸。
2004年8月、アテネオリンピック100kg超級で鈴木桂治が金メダルを獲得
100kg級の井上康生は、準々決勝で背負い投げで1本負け。
敗者復活戦も3回戦で大内刈りを返され1本負け。
オリンピック2連覇の夢は叶わなかった。
「アテネでは 3つの金を獲ったんだけれども、最も金メダルに近いと言われた井上康生が獲れなかった。
あいつは組み合わせの関係で、決勝戦で優勝するまで白の柔道衣しか着ないということで、青の柔道衣を部屋に置いてきて持ってこなかったんですね。
やっぱり持っていくということは負けて敗者復活を意味するんだと。
勝負師、井上康生にとってそれは許されることじゃなかった。
「絶対に決勝まで上がれるという慢心があったんじゃないか」という人もいたけど、「退路を断って、自分を追い込む」、それが井上康生なんですよ。
その勝負師・井上康生を勝たせることができなかったことは監督として、無念というか非常に悔しかった」
(斉藤仁)

2005年、石井慧が国士舘大学に進学。
大阪の名門、清風高校にいた石井慧は、高校1年生で大阪の予選を勝ち抜きインターハイに出場。
清風の道場で自分より強い人間がいなくなったことに
「強くなれない」
「人生がダメになる」
と焦り、国士舘高校に転校。
引き換えに1年間、公式試合出場停止となった。
(親の転勤など例外はあるが、転校から1年間は公式戦出場停止となる)
朝は5時に起きてランニングしてから、6時から朝練に参加。
授業で体を休ませ、道場には誰よりも早くいき、20時に全体練習が終わった後、深夜までウエイトトレーニング。
乱取りになると必ず1番強い人とやる石井慧は、国士館大学に出稽古にいけば鈴木桂治に向かってダッシュ。
講道館の強化合宿にいけばキョロキョロ見回して、井上康生を見つけた途端にダッシュ。
そして目の前で
「お願いします」
と頭を下げた。
それは相手が試合前でもおかまいなしだったので
「ケガさせたらどうするんだ」
と周囲に止められることもあった。
そして高3でインターハイ優勝、アジアジュニアと世界ジュニア選手権をオール1本勝ちで優勝。
講道館杯で前年チャンピオン、大学生の穴井降将に豪快な大外刈りで勝利した。
そんな練習マニアの石井慧も国士舘大学に入って斉藤仁の指導を受けると
「本当にキツい」
と恐れた。

大学に入ると石井慧は、朝練2時間、16~19時までの合同練習、2時間のウエイトトレーニングが日課。
時間があれば警視庁や明治大学、片道2時間ほどかかる小川直也の小川道場へ出稽古。
そして日曜日は必ず休んだ。
「負けると思ったら負ける。
ダメだと思ったらダメになる。
勝てると思っている中に無理かもしれないという気持ちがあれば、絶対に無理になる。
すばしっこくて強い者だけが勝つのではない。
自分はできると信念を持っている人が勝つ。
世の中をみろ」
という国士舘大学の道場に張ってあったナポレオン・ヒル(アメリカの作家、成功哲学の第1人者)の言葉が書かれた紙をみて
「これは自分の言葉にするしかない」
と石井慧は自分の部屋に持っていったため、その後、道場で騒ぎが起こった。
2006年4月、全日本選手権の準決勝で石井慧が時間稼ぎをするような勝ち方をしたため、斉藤仁は
「あんなのはお前の柔道じゃあないだろう」
と渇を入れた。
石井慧は
「殺されるかと思った」
という。
決勝戦では、国士舘大学の先輩でアテネオリンピックメダリストの鈴木桂治と対戦。
両者ポイントが奪えないまま時間が過ぎていき、旗判定では鈴木桂治有利かと思われたが、残り6秒、石井慧が大内刈りで有効をとり勝利。
山下泰裕が持っていた全日本選手権最年少優勝記録、19歳10ヵ月を19歳4カ月に更新した。

2008年4月、全日本選手権の決勝は3年連続で鈴木桂治 vs 石井慧となり、石井慧が優勢勝ちし2年ぶり2度目の優勝。
北京行きのチケットを手に入れた。
その後、オリンピックまで木村政彦の「3倍努力」を超える「5倍努力」を目指した。
5時に起床し6時からトレーニング。
警視庁などに出稽古に行き、午後、授業に出た後、国士舘で練習。
練習前のウォーミングアップではトランス系の音楽が流れ、石井慧を含め103名の部員はそれに合わせてモチベーションを上げていく。
そこから3時間以上練習。
その後も出稽古。
電車の移動中は、試合で「外国の選手をボコボコに投げる」イメージトレーニング。
そして試合後、斉藤仁に「褒められるバージョン」と「怒られるバージョン」の2種類をイメージトレーニングを行った。
寮に戻るのは深夜だった。
6月、石井慧は右足親指を脱臼。
極度の不安に見舞われ抗ウツ剤を飲まなくてはならなかった。
そしてケガを不安視するマスコミに対し
「ウツでも金!」
と世の中の多くの悩める人を勇気づける名言。
8月14日、北京オリンピック男子柔道100kg級で鈴木桂治は、1回戦でツブシンバヤル(モンゴル)戦に1分26秒、もろ手刈りで1本負け。
敗者復活戦でも1回戦でベールラ(ドイツ)に34秒、横落としで1本負け。
2階級制覇を目指した2度目のオリンピックは120秒で終わった。
8月15日、北京オリンピック柔道競技最終日。
ここまで金メダルは、66kg級の内柴正人の1個のみ。
100kg超級としては小柄な180cmの石井慧は、初戦で190cm、145kg、ビアンケシ(イタリア)に内股で1本勝ち。
その後も
シェハビ(エジプト) 大内刈り 1本勝ち
トメノフ(ロシア) 横四方固め 1本勝ち
グゼジャニ(グルジア) 上四方固め 1本勝ち
と4連続1本勝ち。
決勝戦では、無難な戦い方でタングリエフ(ウズベキスタン)に指導2つの優勢勝ち。
畳を下りた直後、インタビューを受けた。
「自分が全日本選手権のチャンピオンなんで、自分が負けたらもう日本の負けだって、斉藤先生から耳にタコができるくらいいわれてたんで、勝ててよかったです。
まあオリンピックのプレッシャーなんて、あの、まあこんなんいうたら失礼ですけど、斉藤先生のプレッシャーに比べたら、もう屁のツッパリにもなりません」
『いま何がしたいですか?』
「いましばらく、あのぉ~遊びたいッス。
(何かに気づいたような顔をして)
アッ練習したいッス」

「北京オリンピックは、自分が描いていた最悪のイメージがピタッとはまってしまった。
最後に石井慧が勝ったけれども、それまでの負け方がひどかった。
メダルにも絡めなかったっていうのはね。
金丸(雄介)は肩脱臼しちゃったし、小野(卓志)もどうしようもなかった。
(泉)浩なんか論外、完全な減量失敗。
負け方でも次につながる負け方もあるけど、あれは次につながらない。
泉はカイロ世界選手権で優勝して、ちょっと慢心になっていたのかもしれません。
だからそれを考えたら4日連続で負けたあとに石井はよく勝ったと思う。
石井の「他人は関係ねぇ」というあの性格が、あの場面でうまくはまった。
考え方や人間性を除いたら、石井は素晴らしいと思いますよ。
自分の目的や目標を達成するためなら、人の足を引っ張ろうがお構いなし。
その貪欲さと、それに向かう実行力に関しては、本当に頭が下がる」
そういう斉藤仁は、山下泰裕監督下で重量級コーチを2期8年、監督として2期8年、合計16年間、柔道日本代表を現場で指導し続けた。
そして北京オリンピックの後、篠原信一に監督のバトンを渡した。

2013年夏、52歳の斉藤仁の体に異変が起こった。
それまで糖尿病を抱えていたが、食事管理と適度な運動をしていればいい軽度なもので健康オタクの斉藤仁は、毎日薬を飲んで、毎月血液検査を受けていた。
ところが検査で肝機能の数値が基準値の数倍に急上昇。
薬が変わったばかりだったので様子をみることになったが、2ヵ月経っても改善されず、CT検査も受けたが
「画像に何か映っているけど、脂肪の塊かな?」
といわれた。
結果的におそらくそれが腫瘍だった。
11月、MRIを受けると
「胆管に影がみえます」
といわれ、年明けに入院が決まった。

大晦日から年明けまで斎藤家は沖縄へ家族旅行。
ホテルの部屋に入るなり、斉藤仁は息子に体落としの練習をさせ、レストランで順番待ちをしている間も
「おい、やってみろ」
と練習させた。
「人が見てるわよ」
嫁、三恵子に怒られても
「うるせえ、外野は関係ねえんだ!」
ときかなかった。

2014年1月、東大病院に入院して検査を行った。
「肝内胆管ガンで原発のガンは6cmくらいになっています。
すでにリンパ節に転移もみられます」
「ステージでいうとどの段階ですか?」
「ステージ4です」
手術はできず、通院による抗ガン剤治療が始まった。
斉藤仁は自分がガンであることを、山下康裕、上村春樹、岩淵公一などごく一部にしか明かさず、1人暮らしをしながら仕事を続け、合宿や海外遠征にも参加した。
数ヵ月後、食べてもガン細胞の栄養になってしまい、急激に痩せていったが、周囲には
「糖尿病のせい」
と話した。
11月になると全身にガン細胞が散らばり状態が悪化。
12月、会話ができるうちに少しでも多く家族と過ごすために東大阪の病院に転院。
やがて意識がハッキリしない時間が増えたが、うわ言でいうのは柔道のことばかりだった」
大晦日、大阪の自宅に一時帰宅。
介護タクシーで利用し、斎藤仁が乗るストレッチャーを、嫁、息子2人、運転手の4人がかりで移動。
斎藤仁は寝たままだったが、8時間、家族は一緒に過ごした。

それから19日後の2015年1月19日、数日前からインフルエンザにかかりっていた次男、立は、午前中、病院で
「もう登校してよし」
といわれた後、学校に行く前に父親を見舞いに行った。
(今日が最期になるかもしれない)
と思っていた嫁、三恵子は、目を閉じたまま寝ている斉藤仁に、
「今日は稽古に行かさんとここにいさせよか?」
と聞いた。
立は内心
(稽古、休める、ラッキー)
と喜んでいたが、斉藤仁は低い声で
「稽古に行け」
といったため、学校にいって夜まで練習。
久々の練習を終え、家に帰ると、次の日は朝練のために6時に起床しなければならず、すぐに寝た。
しかし夜中、
「起きろ」
と兄、一郎に蹴飛ばされ、起きた。
時間は25時。
叔父の車で病院に直行。
「お父さん、ありがとう。
教えてくれたことは全部覚えている」
(長男、一郎)
「お父さん、オレ頑張るから。
お父さんみたいに強くなるから」
(次男、立)
病室で家族に声をかけられた斉藤仁は目を閉じたまま涙をあふれさせ、直後、亡くなった。
まだ54歳だった。

「後悔はないと思うけれど、東京五輪とか息子たちのことを思うと、心残りはあったと思う」
そういう嫁、三恵子は、かつて小学校をお受験させようと長男、一郎を塾に通わせたことがあった。
斉藤仁に
「お前さ、一体コイツらに何をしたいの?
まさか医者とか弁護士とかそういうのになってほしいわけ?」
と聞かれ
「ええ、そうなってくれたら、すごくうれしいわ」
と答えた。
すると斎藤仁は納得できない様子でいった。
「そういうありきたりな人生でいいの?」
また中学校に上がった次男、立が問題を起こし学校に呼び出されたとき
「アカンわ、この子」
と報告。
すると斉藤仁は意外にも
「いいんだ、いいんだ」
といって怒らなかった。
どんな目に遭うのだろうとビクビクしていた次男も拍子抜けしたが、ただ一言、
「立、謙虚になれ」
といわれた。
斉藤仁にとって受験や就職などは大きな問題ではなかった。
一般的な学業や仕事では味わえない、ほんものの感動こそ人生の価値があると思っていた。
斉藤仁は柔道を通して、そういう心が揺さぶれれる瞬間を何度も経験していた。
次男、立は、ほんとうに父親の死を自覚できたのは、1ヵ月後、日本代表の強化合宿に参加したときだった。
父親の教え子が多く参加している合宿で、たくさん人に声をかけられ、心の中で何かが弾けた。
(お父さんは死んでしまったんだ!)
一気に悲しみがあふれてきて、あわててトイレに駆け込んで大声で泣いたという。
「本気でやらなアカン!!」
これまでの柔道は、常にやらされている感じがあった。
しかし生まれて初めて本気で
「強くなりたい」
「がんばろう」
と思った。