カントリーロックの女王

アメリカ合衆国出身の女性歌手であるリンダ・ロンシュタット(Linda Ronstadt)は、米西海岸を代表する音楽アーティストの一人です。1970年代には、全米No.1を契機にソロシンガーとしてブレイク。米国を代表するエンタテイナーとして70年代最高の人気を誇る女性シンガーとなりました。それ以降も、ジャズ・カントリー・ラテンと音楽の幅を広げ活躍していましたが、残念なことに、1990年代半ばからの病気を発症して、2010年代以降にはやむなく引退することになります。その功績が称えられ、2014年には、ロックンロールの歴史やその発展に影響を与えたアーティスト・プロデューサー・エンジニアなどの著名人を展示記録している「ロックンロールの殿堂(Rock and Roll Hall of Fame, RRHOF)」にも、選出され展示されています。
あのイーグルスも

アメリカのロック・バンドであるイーグルス(Eagles)は、ウォール・ストリート・ジャーナルが発表した「史上最も人気のある100のロックバンド」で第7位に選ばれたアーティストです。2億前を超えるトータルセールスは、まさに一流の証明で、主な代表曲は、「テイク・イット・イージー」・「ならず者」・「呪われた夜」・「ホテル・カリフォルニア」などがあります。
実は、このイーグルスを結成するきっかけになったのは、リンダ・ロンシュタットのバックバンド編成でした。この際に集まったミュージシャンたちが、バンドを結成して後のイーグルスになり、リンダ・ロンシュタットが所属するアサイラム・レコードからデビュー。世界の一流バンドの仲間入りを果たすことになります。
カバー曲でオリジナルにも注目

今では一流のアーティストとして知られるカーラ・ボノフやJ.D.サウザーも、当時はまだまだ無名のミュージシャンでした。リンダ・ロンシュタットは、これらまだ知名度の低いミュージシャンの曲を取り上げてカバーすることで、彼らの名を世に送り出したことでも知られているんです。更には、ロイ・オービソンやバディ・ホリーなどは、リンダ・ロンシュタットがカバーしたことで、1970年代の若者たちに、偉大な先輩ミュージシャンといういことが、改めて認識されるようになりました。
ヒット曲がたくさん

リンダ・ロンシュタットの存在が、広く知られるようになったのは、1974年に発売されたアルバム「悪いあなた(Heart Like a Wheel)」からのシングルカットされた、「悪いあなた(You're No Good)」が全米の第1位に輝いてからです。元はベティ・エヴェレットのカバーでしたが、ここから一気に人気シンガーになり、それ以降、TOP40ヒットを21曲とTOP10アルバムを10作品を、世に送り出したのです。
悪いあなた(You're No Good)
リンダ・ロンシュタットが「悪いあなた(You're No Good)」をライブで歌うようになったのが、ストーン・ポニーズ時代の仲間だったケニー・エドワーズからすすめられたからだそうです。しかしリンダ本人は、レコーディング中から「ビートルズみたいで好きじゃない」と言ってたとか。でも、数多くの曲を聴いてきたリンダは、じっくりと聞き込んだ末には、当初の感想から一転して、素晴らしい曲だと納得したそうです。
その後、見事に全米1位という大ヒットに至るのですが、その後、リンダのどんなジャンルにも対応できる優れた選曲耳とどんなジャンルにも対応できる歌唱力、更にチャーミングなビジュアルも重なって、全米で最も人気のある女性シンガーの座へと突き進んでいくのです。
イッツ・ソー・イージー It's So Easy
「イッツ・ソー・イージー(It's So Easy)」は、バディ・ホリーとノーマン・ペティが作詞作曲した楽曲です。この曲は当初、ザ・クリケッツのシングルとして発売されましたが、チャートインには入りませんでした。しかし、リンダ・ロンシュタットのカバーバージョンは、ビルボード・ホット・100でトップ5に入ります。
「イッツ・ソー・イージー」は、1977年のアルバム「夢はひとつだけ」に収録された中の1曲で、「ブルー・バイユー」と同時にビルボードのトップ5に入ったのです。カナダでは9位・イギリスでも11位に達した「イッツ・ソー・イージー」、リンダ・ロンシュタットのバージョンは、2005年に上映された映画「ブロークバック・マウンテン」にも採用されています。
【アルバム】ミス・アメリカ(Living in the U.S.A.)

1978年に発売された、リンダ・ロンシュタット9枚目のアルバムとなる「ミス・アメリカ(Living in the USA)」は、ビルボード・アルバム・チャートで1位となった3枚目のアルバムです。エクササイズ・ウェアを身に着けたリンダ・ロンシュタットがローラー・スケートをする姿のジャケット写真は、当時のスケート人気を高くしたことでも注目されました。
アルバムに収録された曲の「バック・イン・ザ・USA」は、キャッシュボックスのトップ100チャートで11位・ビルボード・ホット100チャートで16位になり、更に多くのアルバム・ロック・プレイリストで1位になっています。そして、「ウー・ベイビー・ベイビー」は、ポップ・チャートで7位、イージー・リスニング・チャートでも2位のヒットとなった上に、カントリーおよびソウル・チャートでもヒットとなりました。その後に、「ジャスト・ワン・ルック」と「アリソン」の2曲もシングルもヒットし、「夢のように」と「モハメッドのラジオ」は、ラジオ局で人気の曲となっています。
次々と新たなジャンルに

1978年の大ヒットアルバム「Living In The U.S.A.」や1980年に出した「Mad Love(激愛)」では、エルヴィス・コステロの作品を収録曲に入れて、ファンを驚かせています。そして、1980年代以降のリンダ・ロンシュタットは、ポピュラー音楽史上類を見ないほどの広範な分野に踏み込んでいくのです。
スタンダードに挑戦した三部作が、1983年の「What's New」・1984年の「Lush Life」・1986年の「For Sentimental Reasons」。3枚合わせて米国内だけで800万枚を売り上げたベストセラーになりました。1986年には、長編アニメ映画「アメリカ物語」の主題歌「Somewhere Out There」を大ヒットさせます。1987年にはエミルー・ハリスとドリー・パートンとの競演アルバム「Trio」を発表、カントリーとポップの両方のチャートで話題になり、400万枚以上も売り上げるヒットになりました。
その他にも、いろんなジャンルに取り組んだリンダ・ロンシュタットは、次々とヒットを量産して、グラミー賞を始めとする様々な賞も獲得していきました。そして、1989年に出したアルバム「Cry Like A Rainstorm, Howl Like The Wind」の収録曲の「Don't Know Much」が全米2位の大ヒットに。しかし、これがチャート上位に入る最後のアルバムとなりました。
リンダ・ロンシュタットは、1970年代と1980年代において世界最高の売上げを記録したシンガーでしたが、1990年代に入ると、私生活を優先させるようになり、プロモーションも最低限のみになり、表舞台から距離を置くようになっていきます。
病気のために止む無く引退

1990年代の半ば、甲状腺疾患になってしまったリンダ・ロンシュタットは、その後長年に渡って闘病生活を送ることになりました。2011年には、故郷のアリゾナ地元紙のインタビューで、引退を明らかにしています。
2013年8月、パーキンソン病を患ったことから歌手活動をやめたことを明らかにしました。そして、9月には、自伝となる「Simple Dreams」を出版しました。ただ、パーキンソン病がわかった時点では、すでに執筆が終わっていたので、自伝ではこの病気にな関することは触れられていません。
たぐいまれな才能に恵まれたリンダ・ロンシュタット、このような病気でファンの前から姿を消してしまうのは、残念でなりません。