1999年12月、 世界大会を4連覇しながら、未だオリンピックの頂点とは無縁。
シドニーで3度目の失敗は許されない。
しかしアトランタオリンピック以降は接近戦が減って、得意の背負い投げも影を潜めていた。
「初心を取り戻したい」
田村亮子は練習の拠点を東京から故郷の故郷の福岡に移した。
朝、小学校時代に行っていたように名島神社にいって砂浜ランニングと階段ダッシュ。
階段ダッシュは狭く急勾配の110段を石段を6往復。
最後はヘロヘロになって膝を両手で押すようにして石段を上がっていった。
新トレーニングも導入した。
トレッドミルで3分間、全力で走った後、台の上に置かれたコップの前に立つ。
そしてその位置を記憶し、目を閉じてコップをとる。
コップをとった後は、またトレッドミルに戻って全力疾走。
そして再びコップの前に立つ。
それは疲労が蓄積しても集中力が切れないようにするトレーニングだった。
・「左!」「右!」とトレーナーの指示でコップをとる手をかえる。
・台との距離を長くして1歩前に出てからとる。
・目を閉じてジャンプしてからとる。
などとコップのとり方は段階的に難しくなる。
何度もコップがとれなかったり、台から落としたり失敗が続くとトレーナーが、
「疲労してからの正確性ね」
とトレーニングの目的を意識させた。
・ジャンプして1回転してからコップをとる
がなかなかできず、やっとできたとき田村亮子は思わず
「ヤァー」
と相手を投げたときのように声を出してしまった。
次の日は
・ジャンプして1回転して、一歩前に出てからコップをとる
に難易度を増した。
集中力を高めるトレーニングは道場でも行れた。
柔道は顔が向いている方向に相手を投げる。
そのために相手の顔や足の向きで投げようとしている方向がわかる。
田村亮子は、まず目を閉じて組み、相手が技に入ってもらい、その技がなにか判断するトレーニングを行った。
次に引手だけ、釣手だけで行い、最終的に相手の襟や袖に触れるだけで行う。
こうして集中力を研ぎ澄ます訓練を行った結果、目ではなく感覚で相手の技を察知し、瞬時に防御し攻撃するという神業のような動きができるようになった。
2000年4月9日、シドニーオリンピックの選考も兼ねた全日本体重別選手権が行われ、田村亮子は、左手小指の軟骨骨折、右手薬指の靱帯損傷というケガをしていたが、10連覇を決め、オリンピック行きのチケットを手に入れた。
1ヵ月後、熊本県でオリンピック代表の強化合宿が開始。
コーチの古賀稔彦から指導を受けた田村亮子は、その技術だけでなくオリンピックで大ケガを負いながら金メダルを獲った精神力も学ぼうと努めた。
5月下旬、個人的にシドニーに1週間滞在し、買い物や食べ歩きなどを楽しみながら現地を下見。
最大の目的は試合会場。
9月16日の本番の前にどうしても自分の目でみておきたかったという試合会場を40分間、歩きながらイメージを高めた。
これも過去2回のオリンピックでは行われなかった「メンタルリハーサル」というメンタルトレーニングだった。
7月下旬、オリンピック代表の3度目の合宿が北海道の清水町で行われた。
この合宿は強化の最終段階で、連日、6時間を超えるトレーニングと練習で、田村亮子を含め全選手の肉体は極限まで追い込まれていった。
10月、世界選手権の決勝で、田村亮子はアマリリス・サボン(キューバ)と対戦。
10連覇がかかった大一番を前に
「オリンピックの決勝と同じ。
絶対に結果を出さなくてはならない。」
と自分を追い込んだ。
試合開始1分、左手小指の軟骨を骨折。
1本どころか、有効も効果も奪えなかったが、粘り強く戦い、判定勝ち。
勝利への強い執念をみせた。
2000年、
「シドニーは最高でも金、最低でも金」
25歳の田村亮子は、3度目のオリンピックが近づくにつれ、この言葉を繰り返し口にするようになった。
柔道着と帯にニックネームと全日本、福岡国際の10連覇を合わせて
「柔 10」
と刺繍。
トレードマークの赤い髪ゴムも金ラメ入りにした。
9月8日、成田空港内で音楽MD(ミニディスク)を4枚購入したところ、合計金額が偶然、11111円になり
「縁起がいい」
と喜んだ。
9時間半のフライトは機内では夕食をとった後、すぐに寝た。
翌日早朝、シドニー空港に到着。
女子柔道日本代表は、シドニー郊外の菅生学園研修センターの柔道場に移動し、すぐに練習を行った。
9月11日、園田義男、福園田勇がシドニー入りし、練習に合流。
9月12日、練習後、田村亮子は、吉村和郎監督、山口香コーチらと共に試合会場を視察にいったが、爆発物のチェックが行われていて入ることができず、ショッピング街を歩き、気分転換を行った。
9月15日、シドニーオリンピック開幕。
この日から日本柔道代表の首脳陣が監、練習場の敷地内立ち入り禁止、選手への直接取材禁止など報道規制を敷き、ピリピリムードが漂う中、田村亮子は
「普段通りやればいいのにですね」
とスマイル。
9月16日、このオリンピックから柔道競技は軽い階級から試合が行われるようになり、田村亮子は初日に登場。
(最終日より初日のほうがプレッシャーがかからず有利だという。
実際、男子100kg超級の篠原伸一は、
「俺がトリか」
「俺がメインや」
「1番目立つ」
と喜んでいたが、途中からきっちりプレッシャーがかかってしまったという。
そして「世紀の誤審」といわれる不可解な判定によって銀メダルに終わった)
9000人収容の会場の1割以上を日本人を占め、その大声援を背に田村亮子はシドニーの畳の上に上がった。
初戦の趙順心(中国)戦は、長身の相手に奥襟をつかまれ内股で大きく体を浮かされるなど、ペースをつかめないまま進み、「判定負けかも?」と思われたが、残り1秒で相手の内またを返し、「有効」を奪って勝利。
「薄氷の勝利」といわれたが、続く2回戦は、ルスニコワ(ウクライナ)に払い腰で1本勝ち。
準決勝、チャ・ヒョニャン(北朝鮮)戦は、組手争いの応酬となり、両者に「指導」「注意」が与えられた。
残り1分20秒、主審は田村だけに「警告」を与えたが、副審が取り消し。
残り30秒、田村亮子は、背負い投げから寝技に持ち込み攻め、判定勝ち。
「あまり無理はしなかったですね。
4年前は無理にいって負けたから、その点では試合を冷静に判断して戦えました。」
と勝負への執念としたたかさをみせた。
そして決勝戦で、ヨーロッパ選手権2位、リュボフ・ブルレトワ(ロシア)に、開始36秒、内股を決め、
「1本」
田村亮子は、一気に喜びを爆発させた。
畳の上で何度も跳びはねながらガッツポーズ。
顔をクシャクシャにして涙を流した。
口を真一文字に結んだバルセロナ、顔が引きつったアトランタ、3度目のシドニーでは146cmの体が地鳴りのような歓声に包まれた。
表彰式の後、テレビ局回りを終え、選手村に戻ったのは、日付が変わった午前3時。
小学2年生で柔道をはじめ17年、3度目のオリンピックにして初めての金メダルを枕元に置いて寝た。