バリ強! 田村(谷)亮子

バリ強! 田村(谷)亮子

柔道を始めて4ヵ月で男子相手に5人抜き(5連勝) うち2人は病院送り。中3で世界選手権4度優勝のカレン・ブリッグスを28秒で1本勝ち。国際大会初出場初優勝を果たす。


「とっとーと?(取っているの?)」
「すーすーすー(スースーする)」
「好いとーよ(好きだよ)」
「食べり(食べて)」
「早よ来んね(早く来て)」
「なんしよーと?(何してるの?)」
「ちかっぱ(力いっぱい)」
「バリ(すごく)」
「よか(良い、いい、これでいい?)」
「しゃーしい(うるさい、めんどうくさい、もういい)」
「どげんしたと?(どうしたの?)」
「どげんね?(どうですか?)」
「~やけんね(だからね)」
「~かいな?(~なの?)」
「はらかいとる(機嫌が悪い、拗ねてる)」
「私もかたらして(私も仲間に入れて)」
「よかろうもん(いいでしょ)」
「しとろうもん(してるでしょ)」
「あったろうもん(あったでしょ)」
「寒かろうもん(寒いでしょ)」
田村(谷)亮子はかわいい博多弁が飛び交う福岡県福岡市生まれ。

「面白そう!」
小2のとき見学にいった柔道教室でそう思って入門を決めた。
たくさんの優勝旗が飾ってあり、100人以上が練習する中でしゃべったり笑っている人は人間は1人もいない。
そんな「東福岡柔道教室」は、福岡県警の機動隊にいた稲田明が27歳のときに開き、数年後には全国大会に出るようになった道場。
稲田明は体が小さな田村亮子に相手の下にもぐり込むような背負い投げを教えた。
すると面白いように人間を投げることができ、田村亮子は柔道に夢中になった。
ケガをしていても、体調が悪くても、天気が悪くても、誰より早く道場にいき、掃除したり、ゴムチューブを引いたりして練習が始まるのを待った。
練習中も絶対に手を抜かず、小学生の部が終わった後も居残りし高校生や大人たちと夜10時半まで練習した。
城浜小学校では、ムツコウ(富安陸子)とリサコウ(小林理砂)という仲良しがいたが、休み時間になるとタムコウ(田村亮子)は彼女たちに足払いを見舞い、体育の授業でマットが使用されると目を輝かせ、背負い投げで転がした。
母:和代はたくさんの人が練習する道場の中で体が小さな娘をみつける目印として、また
「ちょっとでも女の子らしく、かわいらしくみせたい」
という思いから赤いゴムを髪につけた。

毎年、櫛田神社では「博多おくんち」という祭りがあり、その中で境内で奉納柔道大会が行われていて、柔道を始めて4ヵ月の田村亮子も参加。
「亮子、5人勝てれば、アレがもらえるとよ」
稲田明にいわれ、目は台の上に置かれた金メダルに釘づけになった。
(ヨシッ、あれをもらって帰ろう)
そして5人抜き(5連勝)を達成。
相手はすべて男子、すべて覚えたての背負い投げによる1本勝ちだった。
5人のうち2人は脳振盪を起こし病院送り、5人目は90kgはありそうな大きな子だった。
こうして最初に手に入れたメダルは金メダルだった。

小学6年生のとき、田村亮子は東福岡柔道教室チームの先鋒として全国少年錬成大会の団体戦に出場。
残る4人は男子だったが女の子の先鋒が勝っているのに負けるわけにいかず、必死で戦い、チームは優勝した。
田村亮子は他の道場に出稽古にいっていたが、そこでも男子を投げまくり
「道場破りだ」
といわれ、体も大きく年も上なのに投げられてしまいショックで柔道を辞めた男子もいた。
ある意味、男子にとって脅威の存在だった。
田村亮子より年下で男子としては小柄だった坂井秀行は、東福岡柔道教室でよく打ち込みや投げ込みの相手を務め、100本以上投げられることもあった。
練習を休もうとしても、仲間から
「亮子ちゃん、来とるとよ」
と電話がかかってくると急いで道場に走った。
夏休みには、田村亮子、坂井秀行、その姉の坂井みきの3人で自主トレを行った。
6時、博多湾に面した高台にある名島神社に集合。
砂浜を走って、階段をダッシュした。

マンガ「YAWARA!」の主人公、猪熊柔も髪にゴムをつけていた。
得意技は1本背負い、48kg級、柔の道を極めオリンピック制覇を目指すというストーリーは、谷良子をモデルにしたのではと思うくらい似ていた。
しかし実際のモデルは「女三四郎」と呼ばれた山口香。
谷亮子は中学生くらいのときにこのマンガと出会い、猪熊滋悟郎(猪熊柔の祖父、全日本5連覇、7段)の名言、
「柔の道は1日にしてならずぢゃ」
を本気で信じ、実践しようとした。

中2のとき、田村亮子は大人も出場する全日本選抜柔道体重別選手権大会の九州予選に出場。
準決勝で柳川高校3年生の衛藤裕美子(1993年、ドイツ国際優勝)に立技でポイントをとってリードしながら試合終了間際に寝技に持ち込まれ、残り時間20秒、送襟絞で
「参った」
し逆転負け。
試合後、稲田明に戦いを放棄したことに怒られ、初めて顔を叩かれた。
その後、大分県別府市で行われた全日本女子の強化合宿に参加。
乱取りが始まっても、まだ白帯で140cmそこそこの中学生を誰も相手にしようとしない。
やがてコーチにうながされた鈴木若葉(埼玉大学)が田村亮子に
「おいで」
と声をかけた。
イザッ乱取りが始まると田村亮子はすぐにその懐に飛び込み、背負い投げで鈴木若葉の体を宙に舞わせ、周囲をザワつかせた。
城香中学校でもムツコウ(富安陸子)とリサコウ(小林理砂)にニコニコしながら近づき
「みてて」
といって力を入れて筋肉を緊張させて制服のボタンが外して2人を驚かせた。

中3になると全日本女子のフランス遠征に参加し、練習試合で5戦全勝。
その実績を買われ、国際大会である福岡国際女子柔道選手権大会の48kg級日本代表に選ばれた。
1990年12月9日、地元、福岡の博多区にある福岡国際センターで第8回福岡国際女子が行われた
中学3年生の田村亮子は1ヵ月前に黒帯になったばかり。
体重は41kgしかなかった。
通常、48kg級の選手の多くは50kg台の体を絞って試合に出ている。
あまりに減量が大きいと不利だが、小さすぎるのも不利。
しかも重い階級ならともかく軽量級において数kgの差は非常に大きくなる。
しかし田村亮子は外国人相手に勝ち進んだ。
準決勝で1982、84、86、89年と4度世界チャンピオンになった「Queen of The JUDO」カレン・ブリッグス(イギリス)と対戦。
大内刈り、背負い投げ、大内刈り、田村亮子は試合開始から休む間もなく攻め続け、20秒、コーナーで
「練習してきた技を出してみよう」
と思い切ってかけた大内刈りからの体落としで女王の体が空中で半回転させた。
「技あり!」
カレン・ブリッグスは何が起こったのか理解できない様子で立ち上がった。
反撃にきたカレン・ブリッグスに田村亮子はすかさず大内刈りで
「技あり!」
28秒、合わせ技で1本勝ち。
カレン・ブリッグスは、生まれて初めての1本負け。
畳から下りると物陰に入ってしゃがみこみ頭からタオルをかぶって泣いた。
続く決勝戦、田村亮子は李愛月(中国)の内股を見切り、内股すかしで1本勝ち。
こうして15歳の少女が国際大会初出場初優勝。
衝撃的なデビューを飾った後も国内の大会で立て続けに優勝。
「柔ちゃん(ヤワラちゃん)」
と呼ばれ、一躍、人気者となった。
アニメ放映されていた「YAWARA!」の影響もあって、女子柔道ブームが起こり、全国の中学や高校で女子柔道部員が急増。
それまでほぼ皆無だった女子の大会も各地で行われるようになった。

全国の強豪高校から勧誘を受けながら田村亮子は地元の福岡工大付高に進学。
少し前まで男子校だった福岡工大付高は、田村亮子が中学1年生のときに普通科が設けられ共学となり、女子柔道部もそのときに創設された。
ここで田村亮子を指導したのは、1969年の世界選手権で兄弟優勝を果たした「園田兄弟」
まず柔道部部長の園田義男。
その指導法は、畳の縁で腕組みをして指示を出すのではなく、1対1で直接、体と技をぶつけて伝えるスタイルで、特に田村亮子はマンツーマンで鍛え上げた。
そしてモントリオールオリンピック金メダリストで福岡県警主席師範の園田勇。
園田勇は、東福岡柔道教室に息子を通わせ、指導も行っていたが、兄と田村亮子の練習もよく手伝った。
福岡工大付高に入ったとき、田村亮子は抜群の俊敏性と絶妙のタイミングによって相手を投げていた。
園田兄弟は、このスピードとタイミングに「力強さ」を加えることを目指した。
また軽量級だった園田義男は背負い投げ、中量級だった園田勇は内股、それぞれの得意技を教え込んでいった。

女子柔道部は全員が寮で生活し、6時50分から朝練開始。

ランニング×トラック10周
50mダッシュ×10本
タイヤ引き
タイヤ押し
ケンケン

などのトレーニングを行った後、15時25分まで学校で授業を受け、放課後の掃除などを行った後、16時から道場で練習開始。

立ち技 1時間
寝技 30分

残り時間をトレーニングに使って19時まで3時間練習。
週2回、20時から夜練があり

チューブ引き
前後左右に投げられるバレーボールを捕球
寝ころんだ状態から 両足の上げ下げ、横の揺さぶり、
つま先跳び、つま先後退り跳び
幅跳び

などのトレーニングを行った。
このときバーベルやダンベルは使わない。
農家に生まれた園田義男は、少年時代に家業を手伝って体が鍛えられるのを実体験。
また畑に切ったジャガイモをまいて土をかけ水をやると青い芽が出てくるのをみて、
「自然の力は人間の想像をはるかに超えている」
と感じた。
だから
「柔道の力や技は日常生活の中で自然につけるべきで専門の器具や科学的なトレーニングでつけるべきではない。
余計な筋肉がつくと技の邪魔になる。
筋肉とは必要な部分について初めて自分の筋力になる」
という考え方を持っていた。
田村亮子は、夜練がない日は東福岡柔道教室にいき2時間練習。
練習の合間には、仲間とショッピングに出かけたりパフェやケーキを食べて女子高生をエンジョイした。

高1の田村亮子は、全日本体重別選手権の決勝で江崎史子と対戦。
江崎史子は同大会5連覇中で、ソウルオリンピック銀メダリストという国内最強の柔道家。
また江崎史子は寝技が得意で、田村亮子はアリ地獄のような寝技をコマネズミのようにクルクルと逃げまくり、試合終了間際、少ない立技のチャンスに足払いを決めて「効果」を奪い、判定で勝った。
1991年7月、4年に1度行われる世界選手権がスペインのバルセロナで開催。
江崎史子に勝って日本代表となった田村亮子は準決勝でカレン・ブリッグス(イギリス)が2度目の対決。
リベンジに燃えるカレン・ブリッグスは、試合開始13秒、腰を引いた姿勢からいきなり巴投げ。
本来、外すと上から押え込まれる危険性が高い捨て身技だが、寝技が得意なカレン・ブリッグスにとっては合理的な攻め方。
実際、寝技に入るとカレン・ブリッグスはすぐに上になり、田村亮子は必死に逃げたが、最後は上四方固で押え込まれた。
こうして28歳のブリッグスは見事に復讐を果たした。

1991年11月10日、大阪でアジア選手権が行われ、田村亮子は、1回戦で湯礼江(中国)と対戦。
研究してきたのか、試合が始まると湯礼江はすぐに膝をついた低い背負い投げ、離れると頭を下げたままもろ手刈りとまともに組まずに攻めた。
焦る田村亮子が足をかけにいったところ、湯礼江は内股を合わせた。
田村亮子の右足首が湯礼江の体の下敷きになり、外側に捻じれて鈍い音が鳴った。
痛みで倒れこんでしまい、やがて畳の上に座って右足首をグルグルと回したが、結局、立ち上がることはできず背負われて退場。
負けた悔しさと右足首の痛みで泣きじゃくった。
まだ敗者復活戦が残っていたが、右足首は腫れ上がっていて、、ドクターは
「骨に異常はないと思うが、このまま安静にさせたほうがいい」
吉田信校長も
「これからの選手ですから・・・」
と棄権を勧めた。
しかし園田義男は
「足を引きずってでも戦え」
園田勇も
「勝ってこい」
と背中を押した。
テーピングで足首を固定してもらった田村亮子は、

敗者復活1回戦、不戦勝
2回戦、袖釣り込み腰で1本勝ち
3位決定戦、判定勝ち

と3位入賞。
その後、園田兄弟に交互におぶられて宿舎に戻った。
福岡に戻ると「右足首の靭帯損傷、全治3週間」の診断を受け、初の入院生活、そして初の柔道長期休暇に入った。

12月の福岡国際には1週間足らずの練習で挑んだ。
決勝戦の相手は江藤史子。
なかなか攻められず警告を受けながら、3分59秒、内股で1本勝ち。
残り時間1秒、ギリギリの勝利で2連覇を達成した。
世界選手権でのカレン・ブリッグス戦、アジア選手権での湯礼江戦、2つの敗戦を園田義男は
「亮子は攻める力はあるがしのぐ力がない。
変則柔道に対する免疫性もない」
と分析。

・寝技の強化
・どんな相手にも対応できる力を身につけること

を当面の課題とし、具体的には

・寝技を地道に強化
・寝技へ引き込もうとする相手への対策(例えば巴投げが来たら、右手を放して抜き相手だけが倒れるようにする)
・立技のテーマは「組手」、不利な組手から技をかけられるようにしていく

ということをやっていった。

1992年5月、バルセロナオリンピック代表の選考も兼ねた全日本体重別選手権が行われた。
高2の田村亮子は、ウォークマンで大好きなチャゲ&飛鳥の曲を聴きながら代々木第2体育館に入った。
その後も200人以上の報道陣が取り囲まれながら、できるだけリラックスし集中力を高め、

1回戦、不戦勝
2回戦、豊島さとみ(警視庁)に覚えたばかりの関節技で1本勝ち
3回戦、広瀬理英(湊川学園)に横四方固で1本勝ち
準決勝、永井淳子(筑波大)に内股で1本勝ち

と寝技の成長をみせつけながら連続1本勝ち。
決勝戦は江崎史子と4度目の対決を予想していたが、昨年の高校チャンピオン、長井淳子(埼玉大学)が江崎史子に試合終了間際の内股で勝ち上がってきた。
ずっと江崎対策を練ってきた田村亮子は拍子抜けしてしまい、試合開始数秒、足払いで「有効」を奪われた。
こうなると攻めるしかなく、7秒後に「有効」を取り返し、その後も攻め続け、判定勝ち。
思わぬ辛勝でオリンピック日本代表を決めた。
自分のペースに持ち込んだときは無類の強さを発揮する一方、思わぬ展開になると空回りしてしまうという弱点を露呈。
まるで綱渡りのような不安定さがあり、見守る者をハラハラさせた。

7月19日、バルセロナに出発。
時差の関係で同日、到着すると、そのまま地中海に面した選手村に入った。
翌日から電車で40ほどのSt.Joanという町に移動し練習を開始。
経験したことのないような暑さの中、田村亮子は園田義男と報道陣を無視するようにガンガン稽古。
練習が一段落すると道場の隅にいき1人になって精神力を高めた。
選手村の食事はバイキング方式で、スペイン料理をはじめ、フランス料理、中華、パスタ、ピザ、白ご飯、みそ汁までそろっていて、自由に食べられた。
選手村の中にはゲームコーナーなど娯楽施設もあり、少し歩けばビーチが広がっていたが、田村亮子はプライベートタイムもほとんど外に出ず、とにかく体調を崩さないように気をつけた。
25日、開会式。
このオリンピックから女子柔道が正式種目となり、柔道競技は男女それぞれ7階級、体重が重いクラスから試合が行われていった。
女子は72kg超級の坂上洋子が銅、72kg級の田辺陽子が銀と好スタート。
その後、66kg級、61kg級はメダルがなく意気消沈するも、56kg級の立野千代里が銅、52kg級で溝口紀子が銀と盛り返した。
しかし金メダルは0個。
残るは田村亮子のみとなった。

8月2日、田村亮子は選手村からバスに乗り、リンドバーグ(ロックバンド)が自分のために作曲してくれた「オーバー・ザ・トップ」を聴きながら試合場に移動した。

1回戦、動きが悪い田村亮子はアマリリス・サボン(キューバ)に「効果」を奪われたが、その後、積極的に攻めて判定勝ち。
2回戦、ロドリゲス(ブラジル)に上四方固で1本勝ち。
3回戦、李愛月(中国)に内股で1本勝ち。

そして準決勝でカレン・ブリッグス(イギリス)と3度目の対決。
これまで1勝1敗のイーブン。
試合はしばらく組手争いが続いた後、カレン・ブリッグスがいきなり巴投げ。
田村亮子は練習してきた右腕抜きはできなかったが、うまく回避。
この投げでカレン・ブリッグスは肩を脱臼。
一旦、畳を下りてドクターに診てもらった後、なんと自分で肩を入れて、再び畳に上がった。
カレン・ブリッグスの不屈の闘志と容赦なく攻める田村亮子の武道精神に会場はヒートアップ。
しかしカレン・ブリッグスは痛みに顔を引きつらせ、その動きは悪くなる一方。
やがて主審が試合を止め、副審と協議した後、カレン・ブリッグスの「反則負け」を宣告。
田村亮子はカレン・ブリッグスに
「これからはあなたの時代」
という言葉を贈られ、涙をみせないように天井をみながら引き上げた。
(カレン・ブリッグスは3位決定戦でも敗れて5位に終わり、オリンピック後、引退)

決勝戦で、田村亮子はセシル・ノワク(フランス)と対戦。
1991年の世界選手権では、直接対決はなかったものの、ノワクは1位、田村亮子は3位という成績。
しかしセシル・ノワクは(寝技ができない)立技の選手で、その立技なら田村亮子のほうが確実に上だった。
だから日本側の多くが
「イケる」
と思っていた。
しかしセシル・ノワクは、フランスナショナルチーム監督の村上清(京都府出身、8段)から
「田村の弱点は技を仕かけて戻るときに重心がフラつくところだ」
とアドバイスを受けていて、虎視眈々とそのチャンスを狙っていた。
村上清は数年前に全柔連がフランス遠征にきたとき、中学3年生の田村亮子がフランス3位の選手を投げるのをみて、その後、ビデオで研究を続け、弱点を見出していた。
試合開始早々、146cmの田村亮子は相手を引き倒した。
162cmのセシル・ノワクは倒れかけた瞬間、捨身のもろ手刈り。
この奇襲に田村亮子はあっさり倒され
「効果」
信じられないという表情で立ち上がった田村亮子はすかさず攻め始めた。
まともに組もうとしない相手を投げることができず、残り時間1分を切るとまるで速射砲のように技を繰り出した。
終了間際、強引に攻めたところを足をとられて押し倒され(踵返)、2つ目の
「効果」
を奪われた。
時間がない。
阿修羅のごとく攻めたが、終了のブザーが鳴り、銀メダルが確定。
試合後、セシル・ノワクは
「(45kgの)田村は小さすぎる。
勝てるわけがない。
16歳と若くきゃしゃでまったくく怖くなく、初めてだったが勝つ自信があった。」
と外国人JUDO家らしいストレートで挑発的なコメント。
一方、田村亮子は
「負けは負けです。」
と柔道家らしく謙虚かつ潔く負けを認めたが、
「ノワク選手の方が、私より上でした。」
といった瞬間、目に涙をたまり、天井を仰ぎ、こぼれ落ちるのをこらえた。
まだオカッパの髪形を母親にハサミで切りそろえてもらい、高校ではクラスメートに「タムコ」と呼ばれ、カーペンターズの音楽を聴きながらメロンを食べるのが大好きな女子高生だった。
しかしこの後、負けることを拒否。
連勝記録をつくっていく。
(それはなんと4年間続く)

年が明け、初稽古の日、田村亮子は
「金色の笑顔」
と書初め。
実家で飼っている犬が産んだ子犬は
「アトランタ」
と名づけた。
2月、フランス国際の決勝でアマリリス・サボン(キューバ)と対戦。
アマリリス・サボンはバルセロナオリンピックで田村亮子に1回戦負けした後、敗者復活を勝ち上がり3位に入っていた。
カレン・ブリッグス(イギリス)が引退し、セシル・ノワク(フランス)も階級を上げたため、48kg級では最大のライバルと目されていた。
この試合でアマリリス・サボンでいきなり巴投げをしかけた。
おそらく寝技に引き込む狙いだったが、田村亮子は腰を落として防いだ。
そして1分55秒、背負い投げで
「技あり」
そのまま流れるように寝技に移行。
逆に寝技を仕掛けられたアマリリス・サボンは慌てて逃げようともがいたが、崩れ上四方固で1本負け。
自分より力が強く体が大きな相手を投げて押さえ込む姿は柔道の理想そのものだった。

4月、高校3年生になった田村亮子は柔道部のキャプテンになった。
次の目標は10月にカナダのハミルトンで行われる世界選手権。
それに出るためには7月の全日本体重別選手権に勝って日本代表に選ばれる必要があった。
果たして7月の全日本体重別選手権で

1回戦、白檀地香(天理高)、内股1本勝ち
2回戦、菊池みどり(仙台育英学園高)、関節技1本勝ち
準決勝戦、衛藤由佳(ミキハウス) 、優勢勝ち
決勝戦、長井淳子(埼玉大学)、優勢勝ち

と優勝し同大会3連覇。
長井淳子に足をとられて倒れるなど苦戦するシーンもあったが、基本的にスピードとパワーで圧倒し、左体落としや左小内刈りなど新らしい技も出て、天井知らずの強さをみせた。
9月25日、成田空港からカナダに向け出発。
オンタリオ湖に面する港町、ハミルトンに着くと翌日から練習。
9月30日に世界選手権が始まったが、試合は重量級から行われていき、田村亮子の出番は最終日。
決勝戦の相手は、李愛月(中国)
これまで2戦2勝、バルセロナオリンピックでも勝っている選手。
この試合で田村亮子は李愛月はもろ手刈りをされ、倒れかけた後、すぐに同じ技でやり返して倒し、会場をドッと沸かせた。
そして優勢勝ちし優勝。
初めて世界の頂点に立った18歳の女子高生は、書初めの通り、「金色の笑顔」を輝かせた。
これまでは試合前でもアイスクリームやケーキを気兼ねなく食べていたが、この頃になると体が大きくなってそれができなくなり、減量時には食べ物の夢をみたという。

結局、田村亮子が高校3年間で負けたのは、バルセロナ世界選手権、アジア選手権、バルセロナオリンピックの3度だけ。
大学進学に際しては、拓大、天理大、日体大など複数からお誘いがかかった。
中でも日体大の古賀捻彦は、田村亮子にとって同郷(福岡県)の先輩であると同時にバルセロナオリンピックで直前に大ケガをしながら金メダリストになった大尊敬している人物で、日体大は理想的な進学先だった。
古賀捻彦から連絡を受け、ここまでマンツーマンで田村亮子を育ててきた園田義男は、
「マンツーマンで指導できるのか?」
と聞いた。
古賀捻彦は
「それはできません。
彼女だけにかかりっきりになることはできません。
部員が200人以上いるんですから・・・」
と答え、結局、田村亮子獲得はならなかった。
田村亮子は柔道部のなかった帝京大学に進み、福岡県警を辞めた稲田明と共に柔道部の創設メンバーとなった。

1994年、全日本体重別の決勝で田村亮子は衛藤由佳(ミキハウス)と対戦。
前年の同大会準決勝で田村亮子に敗れた衛藤由佳は、フランスから日本に戻りミキハウスのコーチに就任した「タムラキラー」村上清 と1年間練習を積んできた。
バルセロナオリンピックでセシル・ノワクに勝たせた村上清は間違いなく「タムラキラー」だったが、かつて送襟絞で田村亮子を「参った」させた衛藤裕美子を姉に持つ由佳も、その素質と力を十分持っていた。
本来、衛藤由佳は背負い投げが得意だったが、村上清は田村亮子より身長で8cm高いことを理由に、奥襟を持ってその動きを封じて大外刈りをしかける特訓をさせた。
途中、衛藤由佳が
「もうできません」
というと村上清は、
「ノワクはそんなこといわんかったぞ」
と怒鳴り、ミキハウスの道場には怒号が飛び交ったという。
実際、この試合で衛藤由佳は強くなっていたが、田村亮子はそれを上回り、合わせ技で1本負けした。
「亮子ちゃんのパワーがすごくて1年間やってきたことが吹っ飛ばされた」

1995年9月、千葉県の幕張で世界選手権が行われ、田村亮子は4回戦で右肩を痛めた。
そして決勝戦で李愛月(中国)と対戦。
右肩をテーピングで固定した体で「有効」を2つ奪った後、試合時間残り10秒、いきなり
「来い、来い」
と挑発。
猛然と出てくる李愛月にもろ手刈りを決め、1本勝ち。
世界選手権2連覇を達成した。

田村亮子のフィジカルは1993年くらいがピークだったといわれる。
それ以後、ある時期から乱取りをしていても息が上がるのが確実に早くなっていき

1994年アジア大会 - 試合1ヵ月前に左足小指靭帯断裂、
1994年福岡国際 - 腹壁膿瘍(へその裏側にうみがたまる)
1995年全日本体重別 - 試合18日前に右膝靭帯部分断裂

などケガが多くなり、1本勝ちが減った。
体力をアップ、維持するために積極的に筋力トレーニングを行った。
その結果、1年前の服が着られなくなるほど肩まわりが大きくなり、上腕、大腿が太くなった。
採寸してつくったアトランタオリンピック用の柔道着も1ヵ月半で小さくなってしまい、つくり直すことになった。

1996年7月21日、アトランタオリンピック開幕。
バルセロナオリンピックの決勝戦以降、4年間、国内外を問わず公式戦80連勝中の田村亮子は、日本代表の全競技、全選手の中で最も「金メダル確実」といわれ期待されていた。
アトランタは映画「風と共に去りぬ」の舞台となった緑が多い美しい町。
コカ・コーラの本社があり、公民権運動家で暗殺されたキング牧師の出身地でもあったが、アトランタ空港に降り立った20歳の田村亮子の第一声は
「暑か!」
で、それは日本と似た湿気を伴った暑さだった。
柔道競技は、重い階級から進行していった。

初日
男子95kg超級、小川直也が準決勝でドイエ(フランス)に判定負けし、3位決定戦でもミュラー(ドイツ)に払い巻き込みで1本負け。
女子72kg超級、阿武敦子が1回戦、わずか30秒でダシルバ(ブラジル)の内股で1本負け。

2日目
男子95kg級、中村3兄弟の長男、佳央が4回戦敗退。
女子72kg級、田辺陽子がようやく銀メダルを獲得。

3日目
男子86kg級、吉田秀彦が1回戦1本負け。
女子66kg級、一見理沙が2回戦1本負け。

4日目
男子78kg級、古賀捻彦が銀メダル。
女子61kg級、恵本裕子が決勝でバンデカバイエに1本勝ちし金メダル第1号。

5日目
男子71kg級、中村3兄弟の兼三が金メダル。
女子56kg級、溝口紀子が準々決勝で惜敗。

6日目
男子65kg級、中村3兄弟の行成が決勝で判定負けし銀メダル。
女子52kg級、菅原教子が敗者復活を勝ち上がって銅メダル。

と金2、銀3、銅1個という成績。
そして7日目、男子60kg級の野村忠宏、女子48kg級の田村亮子が登場した。
田村亮子は、

1回戦、モスクビナ(ベラルーシ)、体落としで1本勝ち
2回戦、マルドナード(ホンジュラス)、背負い投げ1本勝ち
3回戦、トルトラ(イタリア)、優勢勝ち

と勝ち進み、準決勝で最大のライバルと目されていたキューバのアマリリス・サボンに大外刈りを炸裂させ、手をついてなんとか耐えたアマリリス・サボンにトドメの背負い投げで1本勝ち。
これで連勝記録を84に伸ばした。

決勝戦の相手は、ワイルドカード(3者委員会招待国枠)で出場し、勝ち上がってきた16歳の桂順姫(ケー・スンヒ、北朝鮮)。
もはや金メダルは間違いないと思われた。
敗者復活戦と3位決定戦が行われる間、田村亮子は控え室でウォークマンで安室奈美恵の曲を聴き、ウォーミングアップしたり、集中力を高めた。
決勝戦、作戦なのか、桂順姫は、「右前」にするべき柔道着を「左前」で着用し畳に上がった。
後に改正されたが、この時点で「右前」はルールとして明確化されていなかったため、試合はそのまま続行。
相手の襟を握る釣手(右手)の勝手が違う田村亮子は組手で苦戦。
一方、身長で10cm以上上回る桂順姫は、田村亮子の奥襟を持って、その動きとスピードを殺した。
試合は桂順姫ペースで進み、残り時間1分、
「もういくしかない」
田村亮子は思い切って払腰をかけたが軸足が滑って崩れ、逆に桂順姫が小外刈りで倒し
「効果」
を奪った。
残り時間23秒、焦る田村亮子は強引に技をかけ、それを審判が「偽装的攻撃(かけ逃げ)」とみなし
「指導」
までとられ試合終了。
試合が終われば速やかに開始線まで戻らなければならないが、田村亮子は畳にヘタリ座り込んで動けなかった。
2大会連続、銀メダル。
連勝記録ストップ。
衝撃的な、悪夢のような敗戦だった。

4年間、積み重ねた練習と連勝記録、そして自信は4分間で失われた。
前大会ではすぐに「4年後に金メダル」といえたが、今回はシドニーオリンピックについて聞かれても「金メダル」と答えることは決してできなかった。
しばらくの間、何もする気が起こらず、約2ヵ月間休んだ後、福岡国際に向け練習を再開。
動きの鋭さやタイミングの絶妙さなど、らしさがなく、周囲には以前より小さくみえた。
「もう1度やり直そう」
そう思えるまで1年以上かかった。
1998年にトヨタ自動車に入社した田村亮子は、日体大大学院に通いながら、大学や警察などこれまでいったことのない道場に出稽古にいき、新しい環境、新しい緊張感、新しい練習、新しい相手、新しいストレスに身をさらした。
常に「明日がオリンピックのつもりで」練習。
足の位置を微妙に変えたり、捻りを加えたり、力学を応用したり、技の研究と改良にも取り組んだ。
1999年1月、福岡国際女子で9連覇を達成。
1999年10月、世界選手権4連覇を達成。
しかしまだ「シドニーで金メダル」というコメントは出てこなかった。

1999年12月、 世界大会を4連覇しながら、未だオリンピックの頂点とは無縁。
シドニーで3度目の失敗は許されない。
しかしアトランタオリンピック以降は接近戦が減って、得意の背負い投げも影を潜めていた。
「初心を取り戻したい」
田村亮子は練習の拠点を東京から故郷の故郷の福岡に移した。
朝、小学校時代に行っていたように名島神社にいって砂浜ランニングと階段ダッシュ。
階段ダッシュは狭く急勾配の110段を石段を6往復。
最後はヘロヘロになって膝を両手で押すようにして石段を上がっていった。

新トレーニングも導入した。
トレッドミルで3分間、全力で走った後、台の上に置かれたコップの前に立つ。
そしてその位置を記憶し、目を閉じてコップをとる。
コップをとった後は、またトレッドミルに戻って全力疾走。
そして再びコップの前に立つ。
それは疲労が蓄積しても集中力が切れないようにするトレーニングだった。

・「左!」「右!」とトレーナーの指示でコップをとる手をかえる。
・台との距離を長くして1歩前に出てからとる。
・目を閉じてジャンプしてからとる。

などとコップのとり方は段階的に難しくなる。
何度もコップがとれなかったり、台から落としたり失敗が続くとトレーナーが、
「疲労してからの正確性ね」
とトレーニングの目的を意識させた。

・ジャンプして1回転してからコップをとる

がなかなかできず、やっとできたとき田村亮子は思わず
「ヤァー」
と相手を投げたときのように声を出してしまった。
次の日は

・ジャンプして1回転して、一歩前に出てからコップをとる

に難易度を増した。


集中力を高めるトレーニングは道場でも行れた。
柔道は顔が向いている方向に相手を投げる。
そのために相手の顔や足の向きで投げようとしている方向がわかる。
田村亮子は、まず目を閉じて組み、相手が技に入ってもらい、その技がなにか判断するトレーニングを行った。
次に引手だけ、釣手だけで行い、最終的に相手の襟や袖に触れるだけで行う。
こうして集中力を研ぎ澄ます訓練を行った結果、目ではなく感覚で相手の技を察知し、瞬時に防御し攻撃するという神業のような動きができるようになった。

2000年4月9日、シドニーオリンピックの選考も兼ねた全日本体重別選手権が行われ、田村亮子は、左手小指の軟骨骨折、右手薬指の靱帯損傷というケガをしていたが、10連覇を決め、オリンピック行きのチケットを手に入れた。
1ヵ月後、熊本県でオリンピック代表の強化合宿が開始。
コーチの古賀稔彦から指導を受けた田村亮子は、その技術だけでなくオリンピックで大ケガを負いながら金メダルを獲った精神力も学ぼうと努めた。
5月下旬、個人的にシドニーに1週間滞在し、買い物や食べ歩きなどを楽しみながら現地を下見。
最大の目的は試合会場。
9月16日の本番の前にどうしても自分の目でみておきたかったという試合会場を40分間、歩きながらイメージを高めた。
これも過去2回のオリンピックでは行われなかった「メンタルリハーサル」というメンタルトレーニングだった。
7月下旬、オリンピック代表の3度目の合宿が北海道の清水町で行われた。
この合宿は強化の最終段階で、連日、6時間を超えるトレーニングと練習で、田村亮子を含め全選手の肉体は極限まで追い込まれていった。
10月、世界選手権の決勝で、田村亮子はアマリリス・サボン(キューバ)と対戦。
10連覇がかかった大一番を前に
「オリンピックの決勝と同じ。
絶対に結果を出さなくてはならない。」
と自分を追い込んだ。
試合開始1分、左手小指の軟骨を骨折。
1本どころか、有効も効果も奪えなかったが、粘り強く戦い、判定勝ち。
勝利への強い執念をみせた。

2000年、
「シドニーは最高でも金、最低でも金」
25歳の田村亮子は、3度目のオリンピックが近づくにつれ、この言葉を繰り返し口にするようになった。
柔道着と帯にニックネームと全日本、福岡国際の10連覇を合わせて
「柔 10」
と刺繍。
トレードマークの赤い髪ゴムも金ラメ入りにした。
9月8日、成田空港内で音楽MD(ミニディスク)を4枚購入したところ、合計金額が偶然、11111円になり
「縁起がいい」
と喜んだ。
9時間半のフライトは機内では夕食をとった後、すぐに寝た。
翌日早朝、シドニー空港に到着。
女子柔道日本代表は、シドニー郊外の菅生学園研修センターの柔道場に移動し、すぐに練習を行った。
9月11日、園田義男、福園田勇がシドニー入りし、練習に合流。
9月12日、練習後、田村亮子は、吉村和郎監督、山口香コーチらと共に試合会場を視察にいったが、爆発物のチェックが行われていて入ることができず、ショッピング街を歩き、気分転換を行った。
9月15日、シドニーオリンピック開幕。
この日から日本柔道代表の首脳陣が監、練習場の敷地内立ち入り禁止、選手への直接取材禁止など報道規制を敷き、ピリピリムードが漂う中、田村亮子は
「普段通りやればいいのにですね」
とスマイル。

9月16日、このオリンピックから柔道競技は軽い階級から試合が行われるようになり、田村亮子は初日に登場。
(最終日より初日のほうがプレッシャーがかからず有利だという。
実際、男子100kg超級の篠原伸一は、
「俺がトリか」
「俺がメインや」
「1番目立つ」
と喜んでいたが、途中からきっちりプレッシャーがかかってしまったという。
そして「世紀の誤審」といわれる不可解な判定によって銀メダルに終わった)
9000人収容の会場の1割以上を日本人を占め、その大声援を背に田村亮子はシドニーの畳の上に上がった。
初戦の趙順心(中国)戦は、長身の相手に奥襟をつかまれ内股で大きく体を浮かされるなど、ペースをつかめないまま進み、「判定負けかも?」と思われたが、残り1秒で相手の内またを返し、「有効」を奪って勝利。
「薄氷の勝利」といわれたが、続く2回戦は、ルスニコワ(ウクライナ)に払い腰で1本勝ち。
準決勝、チャ・ヒョニャン(北朝鮮)戦は、組手争いの応酬となり、両者に「指導」「注意」が与えられた。
残り1分20秒、主審は田村だけに「警告」を与えたが、副審が取り消し。
残り30秒、田村亮子は、背負い投げから寝技に持ち込み攻め、判定勝ち。
「あまり無理はしなかったですね。
4年前は無理にいって負けたから、その点では試合を冷静に判断して戦えました。」
と勝負への執念としたたかさをみせた。
そして決勝戦で、ヨーロッパ選手権2位、リュボフ・ブルレトワ(ロシア)に、開始36秒、内股を決め、
「1本」
田村亮子は、一気に喜びを爆発させた。
畳の上で何度も跳びはねながらガッツポーズ。
顔をクシャクシャにして涙を流した。
口を真一文字に結んだバルセロナ、顔が引きつったアトランタ、3度目のシドニーでは146cmの体が地鳴りのような歓声に包まれた。
表彰式の後、テレビ局回りを終え、選手村に戻ったのは、日付が変わった午前3時。
小学2年生で柔道をはじめ17年、3度目のオリンピックにして初めての金メダルを枕元に置いて寝た。

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