生粋のニューヨーカー

ジョン・マッケンロー(John McEnroe)が生まれたのは、1959年2月16日、父親がアメリカ空軍にいた関係でまだ西ドイツだったヴィースバーデン。
しかし9ヵ月後にはアメリカに帰国し、ニューヨーク市のクイーンズ地区のマンションで育った。
父親は軍を退役後、昼間、フルタイムで働いた後、夜、ロースクールに通い、数年後、弁護士となった。
小学生の頃、マッケンローは優等生だった。
教師に
「ベストを尽くしたのを認め快く敗北を受け入れることを学ばなければいけない」
と日誌に書かれるほど、かなり負けず嫌いで気性が激しかった。
8歳でテニスクラブに入り、初めてラケットを握った。
最初はコーチに話しかけられると母親の後ろに隠れてしまうような内気な少年だったが、競争心を刺激されメキメキと上達。
休日は朝からランチ持参で家を出て、1日中、クラブに入り浸った。
普通、10~12歳の頃は、ネット越しに単調にボールを打ち続けるだけだが、マッケンローは、まだ150cm(最終的には175cm)だった体で、コーナー、ギリギリをつくなどコートをいっぱいに使ってプレーを楽しだ。
テニスクラブのヘッドコーチで、かつてオーストラリアの名選手だったハリー・ホップマンは、非常に厳しい指導で知られていたが、ジョン・マッケンローに対しては、その才能と気質を大いに理解し、しっかり手綱を握りつつ、コートで自由に感情を爆発させることを容認していた。
「ジョンは教えやすい生徒ではないが、彼がニューヨーカーであることを考慮しなくてはならない」
マッケンローの何事にも囚われることのない自由なプレースタイルと「悪童」と呼ばれるほど強い自己主張はニューヨークで育ったということが大きいのかもしれない。

アメリカの北東、北はカナダ、東は大西洋に面するニューヨーク州。
ニューヨーク市は、その最南端、ハドソン川の河口部にあって、大陸と離島によって構成されている。
「自由の女神」は、その中の1つ、リバティアイランドという小さな島に建っている。
歴史的にアメリカは移民に寛容で、ニューヨークはその玄関口だった。
民族と文化の多様性が非常に高い街となり
「人種のるつぼ(Melting Pot)」
という言葉もニューヨークで生まれた。
現在でも市内の人口の約4割がアメリカ以外の国で生まれた人で、170近くの言語が話され、多種多様な人々が暮らしている。
だから古い村社会的な偏見や差別、生活しづらさは皆無で、日々、さまざまな文化や伝統が融合し新しい文化が生まれている。
競争は厳しいが、基本的に実力主義の街で、その人のバックグラウンドや年齢、資格、学歴などはあまり関係ない。
だからチャンスを求めたり、厳しい競争の中で自分の能力と可能性を試すためにさまざまな人が集まってくる。
自由の女神は、アメリカ独立100周年(1886年)を祝って独立を支援したフランスから贈られたものだが、130年以上たった現在でもアメリカへ渡ってくる人々を出迎え、自由、民主主義、アメリカンドリームのシンボルであり続けている。

ニューヨーク市は、北緯40度(日本の青森県)に位置し、夏は40℃を超え、冬は氷点下になる。
アメリカ最大にして、イギリスのロンドンと並んで、世界最高水準の都市で、多くの交通機関が24時間運行し「眠らない街」といわれる反面、自動車依存が低く、エネルギー効率の高いエコ都市でもある。
アメリカは、世界主要国の中で経済格差がワースト1位。
世界で最もビリオネア(10億ドル以上の資産を持っている人)が多く住むニューヨークの経済的不平等は、そのアメリカでもトップクラス。
アメリカのCDC(疾病予防管理センター)が行った、生活の満足度や幸福度についての調査でワースト1位。
華やかなイメージの裏で、大勢の人々がストレスと不満を感じている。
そんなアメリカで1番不幸な街は、
「ゴッサム(愚か者の町)」
というニックネームも持っていて、映画「バットマン」や「シン・シティ」では、ニューヨークがモデルと思われる街が登場し、凶悪で卑劣な権力者やマフィア、犯罪者と正義のヒーローが対決するストーリーになっている。

ニューヨーク市は、マンハッタン、ブルックリン、ブロンクス、クイーンズ、スタテンアイランドという5つの区に分かれている。
しかし一般にニューヨークといえば、自由の女神とマンハッタン(Manhattan)!
海と川に挟まれた南北に細長いマンハッタン島は、アメリカ人にとっても外国人にとっても夢の場所で、毎年4000万人以上の観光客が訪れる。
超高層ビルが建ち並ぶ姿は、ヨーロッパの低層建築とは違う、いかにもアメリカらしい力強さと美しさを併せ持つ。
国連本部、
ウォール街、
連邦準備銀行、
ニューヨーク証券取引所、
キングコングが登ったエンパイア・ステート・ビル、
911テロで標的となったワールドトレードセンター、
世界の交差点、タイムズスクエア、
巨大クリスマスツリーの点灯式とトップ・オブ・ザ・ロック展望台が有名なビル群、ロックフェラー・センター、
ホテル、グランド ハイアット ニューヨーク、
「モビルスーツ、ガンダム」ではなく、大規模なスポーツイベントや音楽イベントが開かれるMSG、マディソン・スクエア・ガーデン
40以上のミュージカル劇場が集まり、ミュージカルの代名詞ともなっているブロードウェイ街、
とても1日ではみて回れない規模を誇り「メット(Met)」という愛称で親しまれているメトロポリタン美術館、
音楽の聖地、カーネギーホール、
アメリカ最大の舞台芸術センター、リンカーンセンター
長さ4km、アメリカで最も来訪者の多い公園、セントラル・パーク・・・などなど、さまざまな政治、経済、芸術、文化の建物や団体、数々の大企業や学校がひしめき合い、音楽、ファッション、エンターテインメント、ショッピングなど娯楽も充実している。

マッケンローが育った1980年代、ブルックリン(Brooklyn)は、ユダヤ系、ラテン系、ロシア系、イタリア系、ポーランド系、中東系、カリブ、アフリカンアメリカ系、アイルランド系、ギリシャ系、中国系などさまざまな民族が住んでいた。
犯罪が多発するエリアもあり、マッケンローより7歳下のマイク・タイソン(MikeTyson)が育った場所は、黒人男性の平均寿命は25歳というエリアで、アメリカ最悪の「ゲットー(Ghetto)」と呼ばれていた。
その後、マンハッタンの地価高騰に伴い、賃料が安いブルックリンに多くの人々が住むようになると再開発が進んだ。
19世紀に建てられ、外国から到着したコーヒーや砂糖、毛皮などの保管していた倉庫が、外観をそのまま残して店舗やレストランに変化。
天井にはむき出しの配管、レンガやコンクリートの壁や床、廃材利用の家具・・・・・
素朴で飾らない、でもおしゃれ。
そんな「ブルックリンスタイル」は世界から注目された。
ブロンクス(Bronx)は、ニューヨーク市最北部に位置する区。
大リーグの「ニューヨーク・ヤンキース」のヤンキー・スタジアムがあり、試合があるたびに大盛り上がりをみせる。
古きよきニューヨークの雰囲気を残す店が多く、アル・カポネが生きていたとき「ギャングの街」といわれていた名残で危険なエリアも残っている。
ラップやヒップホップが誕生した地でもある。
マッケンローの実家があったクイーンズ(Queens)は、マンハッタンの東に位置し、マンハッタンよりも家賃や物価が安く、安全でのどかなベッドタウン。
ラガーディア空港、ジョン・F・ケネディ国際空港、大リーグ、ニューヨーク・メッツのシティ・フィールドスタジアム、そして毎年、テニスの全米オープンが行われるフラッシング・メドウズ・コロナ・パークもある。
スタテンアイランド(Staten Island)は、マンハッタンの南に位置する島で、ニューヨーク市で最も郊外にある。
ブルックリンとはヴェラザノ・ナローズ・ブリッジで、マンハッタンとはスタテンアイランド・フェリーで結ばれている。
無料のスタテンアイランド・フェリーは、自由の女神、エリス島、そしてマンハッタンの最高の眺めを楽しむことができる人気スポットとなっている。

14歳なるとマッケンローは、マンハッタンのトリニティースクールに通い始めた。
トリニューヨーク市マンハッタン地区の高級住宅街アッパーウェストにあり、幼稚園から12年生まで幼小中高一貫校で、約1000人の学生が在籍し、6人の学生に対して教師1人という割合で行き届いた教育が特長で、9年生から12年生までの1年間の学費は34535ドル(約325万円)と高額。
卒業生の多くが、アイビー・リーグ、マサチューセッツ工科大学、スタンフォード大学へ進学している。
マッケンローは、クイーンズの家から、この学校まで片道90分かけて通学し、ニューヨークの空気にふれた。
いろいろな人と文化が入り混じった街では、最低限のマナーさえ守れば、周囲を気にしたり空気を読む必要はなかった。
電車の中で大声でしゃべったり電話してもOK。
授業中、先生の喋ってる途中、トイレに立ってもOK。
道やエスカレーターで横並びになって後ろが詰まっても、立ちッパでOK。
それが当たり前。
イライラするヤツがいても気にしない。
すごく礼儀知らずだが、すごく楽。
大事なのは周りより自分。
マッケンローは、そんな街でティーンエイジャーとしてキャンパスライフをエンジョイしつつ、テニスに打ち込んだ。

高校3年生になると奨学金でトップレベルの大学へ進むことを目指し、1977年5月の全仏オープンの混合ダブルスに、幼い頃からのテニス仲間であるメアリー・カリロ(プロテニスプレーヤー、膝の故障で引退後、スポーツ・キャスター)と出場。
決勝でイワン・モリナ(コロンビア)&フロレンツァ・ミハイ(ルーマニア)組を、7-6、6-3で破って優勝し、初の4大大会タイトルを獲得。
続く6月のウィンブルドン(全英オープン)では、シングルスで予選から出場し、準決勝で世界ランキング1位のジミー・コナーズに敗れた。
ウィンブルドンは、大会6週間前から参加申し込みが始まり、全参加希望者の中からランキングの上位104名と主催者推薦の8名、計112名が予選なしで本戦に出場できる。
さらにこの選考からもれた選手の中から、ランキング上位120名と主催者推薦の8名、計128名による予選が行われ、予選で3勝した16選手が本戦トーナメントに進出。
決勝トーナメントは、128名で行われ、7回勝たなくては優勝できない。
もし予選から出場して優勝するなら10回勝たなくてはならない。
18歳のマッケンローは準決勝で敗退したが、「予選からベスト4進出」は史上初の快挙だった。
ただ勝ち進むだけでなく、審判のたてつき怒鳴るシーンもあり、無名の高校生は観客は強い印象を与えた。
「ジュニアよりはるか上のプロと試合をして勝ち進みながら、私は考えていました。
自分が想像していたほど相手が強くなかったのか、あるいは思っていた以上に自分が強かったのかもしれない。
結局、どちらも正しいとわかりました」
(ジョン・マッケンロー)
1977年、高校を卒業後、マッケンローはテニスで奨学金を受け、カリフォルニア州にあるスタンフォード大学に進んだ。
スタンフォード大学は、世界最高クラスの私立大学で、オックスフォード大学、ハーバード大学、カリフォルニア工科大学、マサチューセッツ工科大学と共に世界屈指の名門校の1つとされている。
マッケンローは、1978年春の全米学生選手権で優勝。
「大学進学」という親との約束を果たし、1年間在籍し、学生チャンピオンになった後、プロに転向した。
弱肉強食のプロテニス

プロテニスでは、過去1年間(52週間)の成績がポイントに換算され、その累計によって世界ランキングが決まり、毎週、更新され、発表されている。
ポイントは、誰に勝ったなどは関係なく、その試合の格の大きさと勝敗で決まる。
選手は、とにかく試合に勝って、ポイントが稼ぎ、ランキングを上げていくことを目指す。
その頂点は、「グランドスラム」と呼ばれる4大大会。
・全豪オープン(毎年1月、オーストラリア、メルボルン)
・全仏オープン(毎年5月末、パリ、赤い土のクレー(土)コートが印象的)
・全英オープン(毎年6月末、「Wimbledon(ウィンブルドン)」とも呼ばれる)
・全米オープン(毎年8月末、ニューヨーク郊外で開催)
これらの大会のコートに立つことは、テニス選手の憧れで、優勝者には、「世界最強」の称号が与えられる。
1つのグランドスラムタイトルを獲得するだけでも大変なことなのに、すべての4大大会で優勝すると
「キャリアグランドスラム」
さらに1年の間に4大大会で優勝すれば
「年間グランドスラム」
と呼ばれ、偉業の達成者となる。
シュテフィ・グラフ、アンドレ・アガシ、ラファエル・ナダル、セリーナ・ウィリアムズは、「年間グランドスラム」を達成した上、オリンピックで金メダルを獲得し
「ゴールデンスラム」
を達成した。

頂点である4大大会の少し下に、「グランプリ」や「チャレンジャー」と呼ばれる大会がある。
世界ランキング100位くらいの選手が、その対象となり、各地で試合するために「世界ツアー」をまわる。
賞金も高額で、正真正銘のプロテニス選手といえる。
さらにその下には、ランキング下位グループや、プロ志願のジュニア上がりの若手、アマチュアなどが対象となる「フューチャーズ」「サテライト」という大会がある。
サテライトとは、「衛星」とか「本体から離れて存在するもの」という意味。
世界中からエントリーでき、どの大会に出るかは自由だが、交通費や宿泊費は自分持ちなので、できるだけ近くで行われるトーナメントに申し込むことが多い。
サテライトは地方で行われることが多く、移動距離が長い場合、バスや電車の他、仲間とレンタカーをシェアして移動する場合もある。
現地に着くとルームシェアすることもあるが、その場合、ランキングが下の選手が床に寝ることになる。
試合によっては、観客が1人もおらず、ボールボーイがいないからボールは自分でとりにいき、ラインズマンもいないので自分たちでジャッジする。
サテライトツアーを回る間、選手は、練習を休んでも、夜遅くまで遊んでも何をやろうと自由。
自主性がすべてで、勝ってランキングを上げる選手もいれば、負けてラケットを投げ出してしまう選手もいる。
怒る悪童

プロ入り後、マッケンローは、持ち前のテニスセンスで、半年間で50万ドル以上の賞金を獲得。
国別対抗戦であるデビスカップにもアメリカ代表として出場。
自国を6年ぶりに優勝に導いた。
「彼のような反逆児が国のために戦う姿に人々は圧倒されました。
彼には愛国心がありそれが原動力だったのでしょう」
(デニス・ミラー、アメリカのトークショーの司会者)
マッケンローは愛国心が強く、世界ツアーを優先してデビスカップを欠場する選手に対して苦言を呈したこともある。
1979年、20歳になると、マッケンローは世界中のトーナメントに出場。
夏には実家から数kmの場所で行われた全米オープンに出場し、シングルスで初のグランドスラムタイトルを獲得した。
ギャラの良さから多くの選手が南アフリカでエキシビションを行っていたが、マッケンローは
「1日100万ドルなんてウサン臭いし、そんな機会を利用して金銭の授受を正当化するのは情けない気がしました」
とアパルトヘイトに反対する立場からオファーを断った。
これに対してデビッド・ディンキンズ(政治家、アフリカ系アメリカ人として初にして唯一のニューヨーク市長)は
「引き受ければ名声と大金を得られたのに彼は自分の主義を貫き拒否した」
と評価している。

20歳のマッケンローは、すでに有名でお金持ちだったが、ホテルの部屋は散らかし放題で、洗濯物はバッグに詰め込んで持ち帰って母親に洗ってもらうなど、まだまだ大人ではなかった。
コートでも、審判への暴言、対戦相手への挑発、メディアへの噛みつき、観客とのケンカなど、感情を抑えることができなかった。
多くの人は、
「お金持ちのお坊ちゃん」
「彼はまだ子供」
「才能があっても感情が制御できない若者」
と認識し
「そのうち克服するだろう」
と見守っていた。

しかしマッケンローの怒りがおさまることはなかった。
特に審判に激しく抗議するシーンが多かった。
弁護士の父親の影響か、審判の判定が間違っていると感じると黙っていられず
「アレがみえない?」
「そこで座ってなにやってんだ!」
「今すぐアンタをイスから引きずり下ろしておろしてやる」
「お前は、失業者で、アホで、間抜けだ。
それ以外に、何か問題があるか?」
「お前は人類の恥だ」
「おい、審判。
俺が何をいったって?
いえよ。
いってくれよ」
「あんたが台無しにしたポイントは、どんなに大切なことか、わかっているのか?
ムカつくぜ」
「お前がコートで仕事をすることは2度とないからな。
わかってるのかよ?
哀れな奴だ」
「お前は、俺の人生でみた中で最低の審判だ。
お前が別の試合を仕切ることは2度とないぞ」
などと激しく抗議。
たとえそれが自分に有利な判定であっても反発し、スコアを訂正するために自らポイントを棒に振ることもあった。
明らかに誤審だったケースもあり、抗議の内容に味方する者はいたが、無礼ないい方と態度を擁護する者はあまりいなかった。
マッケンロー自身、ひどい言動をしてしまった試合の後は、自らを恥じ後悔。
周囲から改めるようアドバイスされると
「ご指摘、ありがとうございます」
「もう2度としません」
と答えた。
しかしイザ、試合になると同じ過ちを繰り返した。
同じプロテニスプレーヤーで、4歳下のジョン・マッケンローとダブルスを組んで多くのタイトルを獲得した相棒、ピーター・フレミングも、
「彼はカンシャクを抑えろといわれ、それが正しいアドバイスだということもわかっていましたが、自分がおとなしくなってしまうことを恐れていました。
自分がここまで強くなれたのは、持って生まれた激しい気性に負うところが大きいと思っていたからです」
と分析している。

マッケンローの怒りは、審判の納得できない判定だけでなく、相手にポイントを奪われたり、うまくプレーができなかっり、自分のミスに対してもカンカンに怒ることがあった。
このことについて有名なメンタルトレーナーであるジム・レイヤーは、
「怒ることでエネルギーを得ている」
と分析。
ジム・レイヤーは、試合中のスポーツ選手の行動について
・絶対にあきらめるな
・絶対に怒るな(自分以外の何かに当たるな、自分を責めるな)
・絶対にビビるな
・チャレンジしろ
と指導する。
もし誤審があった場合にも
「それが自分ではコントロールできないできないことなら、それがたとえ間違っていたり理不尽なことでも受け入れるほうがプラスになることがある」
とし、怒ったり、マイナスの感情を引きずるのを避けるべきだという。
そしていつも「チャレンジ精神」を持ち続けることこそ最高のメンタルの状態であり、どんなに困難な状況になっても、まるで「台本」があるように、あきらめずに、怒らずに、ビビらずにチャレンジし続ける選手を「演じる」ことが必要であるという。
怒ることでやる気をかりたてる行為は、火に油を注ぐのと同じで、それでうまくいくこともあるが、火が大きくなり自分がヤケドを負ったり自爆してしまうことのほうが多い。
「スッとする」
「エネルギーを得る」
「プレッシャーを減らす」
「高揚する」
「ビビるのを防ぐ」
「周囲の人に自分は力はこんなものではないと知らせる」
などという一時的な効用があっても、やはり怒りの感情はネガティブなもので、力の発揮を妨げ、楽しさや喜びを奪い、戦争のような戦いになり悲劇で終わることが多い。
ジム・レイヤーは、すぐ怒ったり、かんしゃくを起こす選手に対して
「ポジティブな感情で闘争心に火をつけられない」
とし、マッケンローについては
「あの悪癖がなければ、よりフィジカルとスキルを向上させ、より偉大な選手になれただろう」
といっている。

一方、マッケンローの怒りについて
「観客とのコミュニケーションとして有効」
「観客と怒りを分かち合い、楽しませる手段」
「怒りで冷静さを失うというのは誰もが共感できること。
才能ある選手が怒りを爆発させると人は親近感を覚え、多くの人はそれをみることを楽しむ」
など、プロのアスリート、プロのエンターテイナーとして肯定的な評価もある。
実際、マッケンローが怒りを爆発させると、観客は大いに盛り上がり、楽しんでいた。
神聖なコート上でもおかまいなしに舌を鳴らすマッケンローの悪童ぶりは、やがてお約束として期待されるようになった。
多くの人が、マッケンローの怒りは、決して傲慢なものではなく、いかにも人間らしいものだったり、1球1球に真剣に取り組む姿勢の現れであると気づいたからである。
またお偉いさんをまったく意に介さないマッケンローの反逆ぶりは、過度に権威的だったテニス界に変革をもたらしたことも事実で、古い体質や権力への挑戦を支持するファンも多くいた。
氷の男と対決
1980年6月、ウィンブルドンに第2シードで出場したマッケンローは、順当に勝ち上がり、準決勝でジミー・コナーズと対戦。
1セットを先取した後、ラインコールに納得できず
「いつになったらまともな判定ができるんだ!」
と猛抗議。
その後、冷静さを失い、11ゲーム連続で失った。
もはや勝負はついたかと思われたが、ここから驚異的な粘りをみせて持ち直し、最終的に逆転勝利した。
この試合についてマッケンローは
「必死でした。
勝つためにはあきらめず頑張るしかありません」
と語ったが、本当にベストを尽くすことになるのは、翌日の決勝戦だった。

コナーズ戦の翌日、初めてウィンブルドンの決勝に進出した21歳のマッケンローの相手は、この大会4連覇中の世界ランキング1位、24歳のビヨン・ボルグ(スウェーデン)だった。
彫刻のような美しい顔立ちをしているボルグは、自らのテニスのルーツについて
「私の父は優れた卓球選手でした。
父が故郷スウェーデンで地元の大会に出場したとき、賞品として獲得したテニスラケットを私が貰うことになりました。
7歳か8歳のときです。
翌日にはコートへいき、友人たちとテニスをしました。
最初の5分で、すっかりテニスの虜になってしまいました。
12歳でジュニア大会に出場したとき、それまでにないほど不機嫌な状態で、ラケットを放り投げ、叫び、不正を働きました。
コート上でひどい態度を取ったのです。
そしてクラブから6ヵ月間の謹慎処分を受けました。
復帰以降は、口数が減りました。
またテニスを謹慎させられることを恐れたのです。
そして自分自身の感情をすべて内に秘めることを学び始めたのです」
と語り
「より安全に、より確実に、我慢を重ねて勝つ」
をモットーとするサイボーグのような強さを持つテニスの鉄人、絶対王者だった。
2人は、これまで7度対戦し、マッケンローの3勝4敗で、これが8度目の対決。
2人共、180cm、70kg前半と同体格ながら、ボルグとマッケンローは好対照だった。
マッケンローは、左利き。
ボルグは、右利き。
マッケンローのバックハンドは片手打ち。
ボルグのバックハンドは両手打ち。
極端に緩いガットと薄いグリップのラケットのマッケンロー。
極端に硬く張ったガットと厚いグリップのラケットのボルグ。
サーブ&ボレー(サーブを打つとネットに走り、相手の返球を打ち返す)を得意とするマッケンロー。
強打で相手を突き放すボルグ。
激しやすい「悪童」
並外れた忍耐力と冷静さを持つ「アイスマン(氷の男)」
異なる個性を持つ強者同士の頂上対決に人々は注目した。

テニスは、4ポイントとると、1ゲーム獲得。
4-4になると「デュース」となり、2ポイント差がつくまで継続。
6ゲームとると、1セット獲得。
そしてこの試合は、5セットマッチで、3セットをとったほうが勝ちとなる。
第1セット、昨日の準決勝で審判に暴言を吐いて警告を受けたマッケンローを温かく迎えようとしない観客もいたが、マッケンローが6-1であっさりと先取。
第2セットもマッケンロー有利で進んでいたが、第12ゲーム、これまでマッケンローのサーブに手を焼き、リードを許していたボルグが、初めてリターンエースを決めた。
その後、試合は一気にヒートアップ。
ボルグの強打が針の穴を通すようにマッケンローの横を抜けたかと思えば、マッケンローの飛びつきざまのボレーが相手コートに吸い込まれるように落ちた。
しかし波に乗ったボルグの勢いはすさまじく、第2セット、第3セットを連取し、セットカウント1-2で一気に王手をかけた。
この時点で試合時間は2時間を過ぎていた。
第4セット、ボルグの攻勢は止まらず、4-5でマッチポイントを迎えた。
「勝負あった」
と思われたが、マッケンローはボルグの2本のマッチポイントを跳ね返し、その後、6ポイントを連続で奪った。
第4セットはスコアが6-6となり、タイブレークに突入した。
セットとるためには、
・6ゲームを先にとる
・2ゲーム以上の差をつける
と2つの条件をクリアしなければならない。
「6-0」「6-1」「6-2」「6-3」「6-4」になればセットは終了するが、「6-5」では終わらない。
「6-5」から、「7-5」になれば終わるが、「6-6」になった場合は、タイブレークというミニゲームに突入する。
タイブレークは
・先に7点とった方が勝ち
・6-6となった場合、デュースとなり、2点差がつくまで続けられる
というルール。
緊迫する空気の中、タイブレークでもボルグが優勢で、5回、マッチポイントを得た。
しかしマッケンローはそれをことごとくブレーク。
最終的に18-16で逆転勝利を収め、第4セットを奪い、セットカウント2-2とし、試合を振り出しに戻した。
第5セットは、22分間のタイブレークを落とした「ボルグ不利」と思われた。
マッケンローも
「タイブレークを落として気落ちしないやつはいない」
と思っていた。
しかしボルグの強さは周囲の予想をはるかに上回っていた。
タイブレークで負けた影響など微塵もみせず、うなりを上げるようなボールで、第5セットを8-6でとって試合を終わらせ、ウィンブルドン5連覇を達成した。
3時間55分に及ぶ激闘は、テニス史に残る名勝負として語り継がれている。
「You Cannot Be Serious!」
敗れたマッケンローは、2ヵ月後の全米オープンの決勝戦、1年後(1981年)のウィンブルドンの決勝戦で、いずれもボルグに勝って、(全米は2度、目、全英は初の)優勝を果たした。
その(1981年の)ウィンブルドンの1回戦で、マッケンローは、トム・ガリクソンと対戦。
センターライン上に決めたはずのサーブをエドワード・ジェイムズ主審に「フォールト」と宣告されたマッケンローは、怒り、
「You Cannot Be Serious!
(まさか本気でいってないよな、真面目にやれ!)」
と声を張り上げた。
「オンラインだろ。
チョークが舞い上がったじゃないか!」
とミスを指摘された上
「最低な奴」
と罵られたエドワード・ジェイムズ主審は、「バッドマナー」で罰金のペナルティを与えた。
しかしマッケンローは、かけつけた大会レフリーに、
「最低な奴だから最低な奴だといったんだ」
とバッドな言葉を連呼した。

試合後の記者会見が開かれたが、会見前から会見場には、マッケンローの行為に対して批判的なイギリスメディアとマッケンローの母国、アメリカメディアの間で険悪な雰囲気が漂っていた。
そんな中、イギリス人記者のナイジェル・クラーク(Nigel Clarke)が、マッケンローにガールフレンドについて質問。
「テメエの知ったことか、クソッ」
とマッケンローは罵声を浴びせ退席。
それをきっかけに記者同士で乱闘が始まり、ナイジェル・クラークはアメリカ人記者のチャーリー・スタイナー(Charlie Steiner)にタックルした。
「いすの上に立って下の連中をパンチするぐらいの冷静さは持ち合わせていた」
(ナイジェル・クラーク)
試合に負けたトム・ガリクソンは
「みんなが(マッケンローを)恐れてるんだ。
もし120位ぐらいの選手が同じことをしたら失格だっただろう」
とコメント。

失格にならなかったマッケンローは、勝ち進み、決勝戦で昨年、敗れたボルグを破ってウィンブルドン初優勝。
そのときTVアナウンサーは
「最も憎まれたアメリカの若者が勝つとは歴史の最大の皮肉だ」
と実況。
優勝賞金の約1/3、14750ドルの罰金を科されたマッケンローは、優勝者スピーチと大会終了後のパーティーを拒否。
ウィンブルドンの主催者であるオールイングランド・クラブ(All England Lawn Tennis and Croquet Club)は、これまで優勝者に贈ってきた名誉会員資格を見送った。
こうしてマッケンローは、ウィンブルドン104年の歴史と伝統の中で最も歓迎されないチャンピオンとなった。
既存勢力から非難の対象となり、同時に、古くさい慣習が残るテニスが健全なメジャースポーツになるための道しるべともなった。
「大切な事は、負けるたびに教訓を得ること。
人生は1つの学習過程なんだから、自分にとって何がベストかそこから学び取ろうとしなきゃ。
いいかい、壁に 向かって頭を打ちつけているだけじゃ、人生楽しくないよ。
僕の心の奥に、いつも僕にはまだ何か可能性が残っている。
それを試さずにやめるのは卑怯じゃないか。
自分自身を騙しているという気持ちがあったんだ」
(ジョン・マッケンロー)