逸見政孝さんの癌告白会見【マスコミに発表した『許される嘘』】

逸見政孝さんの癌告白会見【マスコミに発表した『許される嘘』】

1993年9月6日、日本テレビ麹町本社で行われた逸見政孝さんによる記者会見。冒頭、「私が今、侵されている病気の名前、病名は、癌です」との発言から始まった同会見。続けて、同年2月に入院した際に発表した病名について「大変申し訳無かったんですが、嘘の病名を発表しました。」と謝罪しています。その理由とは?


1993年 逸見政孝さん≪癌との闘い≫

「タモリ・ビートたけし・明石家さんま」によるBIG3を仕切ることができた稀有な司会者でありアナウンサーであった逸見政孝さん。真面目で堅物、そんなイメージを本人が見事に切り崩し、一躍お茶の間の人気者として輝いていた90年代前半、逸見さんを病魔が襲いました。

本稿では逸見さんの癌との闘いをまとめています。当時、異例だった癌告白の記者会見を一部文字起こししています。生前、逸見さんが闘病へと向かう直前の決意表明を、今一度ご覧ください。

※1993年9月の入院時まで

逸見政孝さん・病状経過

YouTube版ドキュメント動画

逸見さんが癌告白を行った記者会見の様子を短い動画にまとめています。記事と合わせてご覧いただければ幸いです。

≪1993年9月6日≫逸見政孝さんが胃癌であることを告白した記者会見

1993年9月6日、日本テレビ麹町本社で逸見政孝さんによる記者会見が行われました。当時、超が付くほどの売れっ子だったフリーアナウンサー・逸見さんの告白は生中継され、日本中に衝撃を与えました。

会見冒頭に逸見さんが発した「私が今、侵されている病気の名前、病名は、癌です」との告白は、彼が非常に深刻な状態であることを瞬時に伝え、ただならぬ覚悟を持って会見に臨んでいることを感じさせました。

息子である逸見太郎さんによると、会見前日の逸見さんは自室で告白内容や構成を黙々と考えていたそう。自身の癌罹患を告白するというとてつもない勇気のいる会見となりました。

1991年当時は現在の医療環境とは異なり、癌は不治の病との認識が強かった時代。ましてや自ら進んで世間に公表するのは考え辛いことでした。しかし、病名を明かし、三ヶ月間仕事を休養すると宣言することは、テレビ局や制作会社、スポンサー、そしてファンへ向けてであることを逸見さん自身が会見の中で語っており、会見自体が彼の誠実で真摯な性格が顕著に表れたものであることを物語っています。

マスコミに発表した「許される嘘」

逸見さんは会見の冒頭で、同年2月に入院した際にマスコミに対して発表した病名について「大変申し訳無かったんですが、嘘の病名を発表しました。」と謝罪しています。嘘の病名は「穿通性十二指腸潰瘍」でした。

続けて嘘をついた理由について「当時、本当のことを言うことによって、迷惑が掛かる人が大変多かった」と発言。おそらく人気タレントであるがゆえに様々な番組でキャスティングされていたことが、真実を語ることを妨げていたのだと思われます。

”恐ろしいです。でも生還したい…。衝撃の告白宣言から始まったガンとの凄絶な戦いの日々。回復の足音から一転…、今ここにガン闘病の真実が明かされる。”
(-内容(「MARC」データベースより)-)

逸見 政孝 (著)「ガン再発す」

また、嘘をつくことは心苦しかったが、「許される嘘」とも表現しています。ただ、本人にとってもその数か月後に癌の告白をする場面が来ることは予想していなかったようです。逸見さんの発言では「あえて嘘をついたんですが、その嘘は許される嘘だと思ってつきました。ただ、こういう形で、こんなに早く本当のことを申し上げなくてはならない事態になったということは、私は全く予想もしなかったことですし、非常に残念であります。」と辛い胸の内を明かしています。

会見での逸見政孝さん

逸見さんは両親に対しての気遣いもみせながら、続けて気丈に闘病への意気込みを語っています。

「私は1年後に亡くなるのは、本意ではありません。今から13年前にたった一人の弟を胃癌で亡くしております。お陰様で両親は健在なんですが、もう一人残った息子までも同じ癌でもっていかれるという事はおそらく忍びないと思います。」

「三ヶ月、ここで休養して闘ってみようという風に思いました。先生に、もし先生にお任せすれば治りますか?と聞いたんですけども。大丈夫、任せておけと胸を張って100%治ると言える状態ではないと言われました。要は逸見さんの気力、そして、先生たちのチームに任せていただけるのならば、チームとして全力を挙げて癌細胞をできるだけゼロに近い状態にするように努力すると、それは約束すると仰ってくれました。」

記者からの声援と拍手

会見の終盤、記者から「どうしても負けることはできませんね」と励ましにも似た質問が投げ掛けられた際、「もう一回ね、いい形で生還しましたと言えればいいなと」と語った所で、「生還して下さい!」と記者から声援が送られています。

その後の発言にも彼の矜持と強い精神力を感じることができます。

記者の「三ヶ月間、ご自身は何を思って病院生活を送ろうと思ってますか?」との質問に笑顔でこう答えています。「自分には難しいことですけど、仕事を忘れるということですね。一番それが難しいことじゃないかと思いますけどね。なるべくそうして、闘いに行ってきます。」

会見終了時に「頑張ってください!」と多数の掛け声と共に拍手で見送られる逸見さん。それが公の場での最後の姿となりました。

12月25日の訃報

世の中がクリスマスムードに包まれていた12月25日。逸見さんの訃報が届きました。逸見さん自身が掲げた休養期間の三ヶ月間を過ぎた頃でした。

”ゴッドハンド”と称された羽生富士夫教授の手術を経て、一か月が経過した10月下旬。腸閉塞により絶食状態になった逸見さん。その後は高栄養の点滴を付けることとなりますが、少しずつ元気を失っていくこととなりました。

それでも不屈の精神力をみせていた逸見さんでしたが、11月に入り抗癌剤の投与が始まると、副作用により吐き気や意識の朦朧などの病状が顕著になっていきました。

さらに腸に転移した癌も見つかり、年を越せるか、それすら厳しいといった状態となります。12月20日頃には、父に学校を疎かにすると怒られるからと留学先のアメリカに留まっていた長男の太郎さんも帰国。

そして、12月24日に意識不明の危篤となり、翌12月25日の午後、家族に見守られながら息を引き取りました。48歳の若さでした。

タカラトミーのゲーム「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」

逸見さんの最後の言葉は「3番が正解です」だったとされています。意識朦朧の中で発した言葉でした。おそらく「たけし・逸見の平成教育委員会」や「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」などのクイズ番組で司会を務めることが多かったためではないでしょうか。

仕事を忘れることが一番難しいと話していた逸見さん。やはり最後まで大好きな仕事を全うした人生だったのかも知れません。

通夜・告別式、芸能界からの悲しみの声

通夜は12月26日に、葬儀と告別式は12月27日に行われました。出棺後、逸見さんを乗せた自動車は民放各局やNHKに寄りながら斎場へと向かっています。

古巣であるフジテレビ(当時は河田町本社)に自動車が到着した際には、社員一同が正面玄関に整列。皆で手を合わせて逸見さんを迎えていました。その際、逸見さんと親交の深かった安藤優子さんが生中継でレポート。悲しみを抑えつつ「今掛けられる言葉はたったひとつです。本当にありがとうございました。そして、お疲れ様でした。」と感謝の言葉を述べています。

安藤優子(著)「ひるまない」

また、逸見さんの訃報に接し、芸能界から悲しみの声も多く挙がりました。

「いつみても波瀾万丈」(日本テレビ系)で共演していた野際陽子さんは「まだ半年も経たない内に、まさかそんなに早く。絶対戻ってくると信じていたのに…」とコメント。「夜も一生けんめい。」(日本テレビ系)で共演していた美川憲一さんも「クリスマスの日に逸見さんが亡くなるなんて…だから一生、忘れられないわね」とコメントしています。

フジテレビの先輩アナウンサーであり、そのキャスターぶりを逸見さんが著書で絶賛していた露木茂さんも「ひと言で早過ぎたという感じです。逸見君の仕事が円熟して味が出てくるのはこれからだなと陰ながら期待していた。それが叶わず逝ってしまった。まさに人生を駆け抜けていったような感じがして残念でなりません。」とコメントしています。

露木茂(著)「露木茂がおハナシします」

また、「たけし・逸見の平成教育委員会」(フジテレビ系)で共に冠番組を作り上げたビートたけしさんは、告別式にて号泣。「いい人ばかり先に死んじゃうんだ。俺がもっと悪いことを教えてあげれば良かった」と語っています。

さらに「平成教育委員会」の最終回時に行った記者会見では「逸見さんと最後までやりたかった。それが心残り」と語っています。
そして、最終回の放送で、最後にコメントを求められたビートたけしさんは今にも泣きだしそうな様子で「やっぱり色々ね色んな人のことを...」と言った後深々とお辞儀をし、小さく「ありがとう」と言って番組を締めくくっています。

残された家族の活躍

逸見さんの死後、長男・太郎さんと長女・愛さんも芸能界で活躍しています。

太郎さんは北野武監督の映画「HANA-BI」(1998年)で俳優デビュー。さらに父親同様にニュースキャスターとしても活動し、「5時に夢中!」(TOKYO MX)などにも出演しています。オカルトバラエティ番組「緊急検証」(株式会社ファミリー劇場)では、大槻ケンヂさんや辛酸なめ子さん、山口敏太郎さんといった濃い面々に対しても臆する事なく名司会ぶりを発揮しています。

また、2019年には46歳で待望の第一子である長男の誕生を報告。「パパ一年生、喜びをかみしめながら人の親として責任を持ち精進して参りたいと思います。平成最後の日にうれしい報告ができたことを幸せに思います」と力強く語っています。

愛さんはイギリス留学を経て、女優として「OUT〜妻たちの犯罪〜」(フジテレビ系)などに出演。他にも「ズームイン!!SUPER」(日本テレビ系)のスポーツコーナーにも出演しています。

二人の母であり、逸見さんの妻であった晴恵さんは、逸見さんに関する書籍を書き上げ、エッセイストとして活躍。講演会で全国を回っています。

高額な自宅のローンや維持費を捻出するためにも働いていたとされ、数億円にもなる返済額をほとんど返しています。しかし、骨髄異形成症候群や肺胞蛋白症を併発し、2010年に亡くなっています。

プロフィール

1945年02月16日生まれ、大阪府大阪市阿倍野区出身。ニックネームは「いっつみい」。

早稲田大学卒業後にフジテレビへ入社。「FNNスーパータイム」の初代メインキャスターや「3時のあなた」のサブ司会者を担当。他にもボクシングなどのスポーツ中継でも活躍しました。

1988年のフジテレビ退職後はフリーとなり、さらなる人気者として「たけし・逸見の平成教育委員会」「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」などの人気番組で司会を務めました。

逸見政孝(著)「マジメまして逸見です」

逸見政孝さんに関連した特集記事

80,90年代に活躍した各局名物アナウンサー(フジテレビ編) - Middle Edge(ミドルエッジ)

みんなが大好きだった逸見政孝の出世番組『クイズ世界はSHOW by ショーバイ !!』 (page 2) - Middle Edge(ミドルエッジ)

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