1985.阪神タイガース優勝劇 阪神が優勝すれば日本は変わる!バックスクリーン3連発、道頓堀ダイブ、カーネル・サンダースの呪い

1985.阪神タイガース優勝劇 阪神が優勝すれば日本は変わる!バックスクリーン3連発、道頓堀ダイブ、カーネル・サンダースの呪い

1985年、虎が長い眠りから覚めると、日本は熱狂のジャングルと化し、その優勝劇は、まさに「Tigers The Movie」、まるで映画のようでした。


因縁の巨人阪神

本拠地:兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場(収容人員、47,808人)
親会社:阪神電気鉄道
1935年にできた阪神タイガースは、巨人(1934年創立)に次いで2番目の長い歴史を持つ名門で、以来、関東と関西の2つのチームはライバル関係を続けている。
東京読売巨人の親会社である読売新聞社は、複数球団による3大都市(東京、名古屋、大阪)で職業野球リーグ戦開催を目指し、当時日本最大の球場だった甲子園球場を所有する阪神電気鉄道に打診。
こうして門前眞佐人、山口政信、藤村富美男、藤井勇、松木謙治郎が集まり、大阪タイガースが発足。
第2次世界大戦中、敵性語使用自粛のため「阪神軍」になったこともあったが、1961年に「阪神タイガース」になった。
大阪タイガースは、ダイナマイト打線と呼ばれた強力打線で人気を得た。
その中心となったのは、チャンスでの勝負強さと通常より8cmも長い「物干し竿」と呼ばれたバットで豪快なホームランをかっとばし、絶大な支持を得た「初代Mr.タイガース」、藤村富美男。
エースは、針の穴を通すコントロールで「精密機械」と呼ばれた小山正明。
小山と共に2枚看板の村山実は、投球フォームがマラソンのザトペックに似ているところから「ザトペック投法」と呼ばれた。

1959年6月25日、天皇、皇后両陛下を後楽園迎え行われた天覧試合で、タイガースは3回表に1点を先制。
5回裏、巨人は長嶋茂雄が小山正明からホームランを放つなど2点を入れて逆転。
6回表、タイガースはすかさず反撃。
藤村富美男が2ランホームランを含み3点をとり、4対2で再びリード。
7回裏、ルーキーの王貞治が2ランホームランを放って同点。
4対4で迎えた9回裏、長嶋茂雄が村山実からサヨナラホームラン。
以後、村山は長嶋に敵がいを燃やし、節目の記録となる三振は長嶋茂雄から奪うようにした。
巨人戦に燃える村山は、自信を持って投げた球をボールと判定され球審に猛抗議した末、涙を流しながら退場になったこともあった。
1960年代、エースとして活躍したジーン・バッキー投手は、巨人戦で外国人として初めてノーヒットノーランを達成。
1966年、18歳の江夏豊はプロ1年目で、225奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得し奪三振王の道を歩み出したが、チームの先輩である村山実に
「俺はこっち(長嶋)お前はあっち(王)や」
といわれ、王貞治には三振かホームランかの勝負を挑み、通算で57の三振を奪い、20本の本塁打も打たれ、死球は0。
王から最も多く三振を奪った投手は江夏で、江夏から最も多く本塁打を打った打者は王だった。

「よっさん」吉田義男

1975年、前年、V10を阻まれた巨人は、同じく前年に引退した長嶋茂雄が新監督となり期待された。
阪神タイガースも「よっさん」こと吉田義男が新監督に就任。
高2のの甲子園に出場し初戦敗退。
高3、最後の夏の甲子園は京都府予選決勝敗退。
そして立命館大学に進学したが、阪神タイガースのスカウトに
「藤村富美男さんが、君なら絶対プロでやっていけるといっている
と口説かれ大学を中退し、阪神タイガースに入団。
実はその殺し文句はウソだったが、入団後、グローブとボールとをいつも持ち歩き、時間があれば
「バシッ、バシッ、バシッ、バシッ」
と左手のグローブからボールをとっては投げ、とっては投げを繰り返した。
同部屋の選手は閉口したが、右手首の強さと瞬時に指の感覚でボールの縫い目を探す能力が鍛えられ、その捕球からスローイングまでの速さは
「捕るが早いか投げるが早いか」
「今牛若丸」
といわれ、俊足、巧打、好守のショートとして1年目から引退するまで16年間、不動のレギュラーだった。
このシーズン、阪神タイガースは、「赤ヘル旋風」を巻き起こした広島東洋カープ、中日ドラゴンズと優勝を争ったが3位。
巨人は球団史上初の最下位で終わった。

同シーズン、阪神タイガースの田淵幸一がホームラン王となり、王貞治の連続記録を13年で止めた。
それまで滞空時間が長い大きなホームランで「ホームランアーティスト」と呼ばれていた田淵幸一だったが、べーブ・ルースを抜いて世界記録、通算868本塁打をつくった王貞治全盛の時代にタイトルを獲るのは至難の業だった。
またシーズン終了後、阪神タイガースと野村克也監督率いる南海(現:ソフトバンク)で2対4(阪神:江夏豊、望月充、南海:江本孟紀、長谷川勉、池内豊、島野育夫)のトレードが成立。
5年目の江本は52勝、一方、江夏は完封44試合を含む159勝。
「なぜあんなレベルの選手と・・・」
(江夏)
「いいたい放題言いやがって・・・・」
(江本)
2人は舌戦を繰り広げた。
(1993年3月に江夏が覚醒剤取締法違反で逮捕されたとき、江本は法廷に立って江夏のために情状陳述を行った)
一方、吉田義男は
「自分で伝えるべきだった」
と江夏に移籍の話をフロントに通告をさせたことを後悔した。
そして2年後の1977年で監督を辞めた。
「初めて監督に就いた1975年は血気盛んな42歳です。
名将ビリー・マーチンのまねで、背番号1をつけてね。
優勝はできなかったけど、10年後に52歳のシーズンに生きたと思ってるんです」
(吉田義男)

「情熱のサイドスロー」小林繁

1979年、「情熱のサイドスロー」小林繁は、「空白の一日事件」「江川事件」の解決のため阪神タイガースに入った。
巨人に入って5年目、エース格だった26歳の小林繁はあるトラブルに巻き込まれた。
その年、巨人は掟破りに出た。
「怪物」江川卓は、高校卒業時、ドラフトで阪急に指名されたが巨人志望だったため拒否し法政大学へ。
大学卒業時にもクラウンライター(西武)に1位指名されたが拒否しプロ野球浪人していた。
ドラフト会議前日(1978年11月21日)、巨人はドラフト外で江川卓獲得を発表。
プロ野球協約の盲点をついた行動だったが、日本野球機構コミッショナーは、この契約を認めず、翌22日のドラフト会議は巨人がボイコットする中、阪神タイガースが江川と交渉権を獲得。
しかし巨人入団を強く望む江川との交渉は難航。
江川を獲得したのは巨人なのか阪神なのか?
世間が騒然とする中、12月21日、日本野球機構コミッショナーは
「巨人と江川の間で交わされた入団契約は認めない。
阪神が江川に対して交渉権を獲得したことを認める」
という裁定が下したが、翌22日には
「江川には一度、阪神との入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」
とつけ加えた。
12月31日、小林繁は宮崎キャンプのため羽田空港に向かった。
チームメイトを見つけ近寄ろうとしたとき、後ろから球団関係者に肩を叩かれた。
報道陣が駆け寄ってくるのがみえ、スーツの裾を引かれるままに走り、待ってた読売新聞社の社旗がついたハイヤーに乗せられた。
(えっ、俺だったのか)
茫然としていたままホテル・ニューオータニで5710号室に連れていかれると長谷川実雄球団社長が座っていた。
「もうわかっていると思うが阪神タイガースに行ってもらいたい。
これまで貢献してくれた君を手放したくはないんだが何とか事情を汲み取ってもらいたい」
「少し考える時間をください」
「早くしてくれ。
あまり時間がない」
小林繁の選択肢は3つ。

1 阪神に行く
2 巨人残留を望む
3 引退

2、あるいは3を選べばチームメイトの誰かが自分の代わりに放出されることになる。
それだけは避けたい。  
だから決めた。 
(阪神に行くしかない)
そして宮崎のホテルにいた王貞治に電話をかけた。
「コバ、一生の問題だ。
時間をかけて考えればいい。
でも俺は、たとえチームが違ったとしてもお前と一緒の野球がやりたい」
尊敬する先輩に「一緒に野球がやりたい」といってもらえただけで十分だった。
深夜、トレード発表の記者会見が開かれ、こう話した。
「ぼくはイヤで阪神に行くのではない。
期待されて行くんです。
誰からも同情の目で見てもらいたくない」
そして心に強く誓った。
(絶対に見返してやる)
翌シーズン、阪神タイガース1年目、22勝9敗、防御率2.89、巨人には8勝0敗。
古巣を5位に沈めた。

「浪花の春団治」川藤幸三

1981年、遠征中、小林繁と川藤幸三は酒を買い込んでホテルの部屋で話し込んだ。
小林繁は2歳年上の川藤幸三を
「おっさん」
と呼んでいた。
「浪花の春団治」、川藤幸三は福井県三方郡美浜町出身。
同郷にTVドラマ「スクール☆ウォーズ」の「泣き虫先生」、山口良治がいた。
山口良治は野球部出身で自分が在籍していた中学の野球部が人手不足だと知ると小学6年生の川藤幸三を強引に入れた。
福井県立若狭高校でエースとなった川藤幸三は春夏連続で甲子園出場し阪神タイガースに入団。
プロ入り後、俊足と強肩で活躍したがレギュラーにはなれず、アキレス腱断裂もあり、10年目には完全に代打専門になった。
それでも勝負強さを発揮し、4年連続3割台、多数のサヨナラ打を記録していた。
「おっさん優勝しようや。
このメンバーで優勝できんのはおかしい。
巨人は長嶋さんでも王さんでも上からいわれることには絶対服従だった。
組織の一員としての教育ができていた。
僕が阪神に来て一番に感じたのはオレがオレがの選手が多く、そういう意識が選手にないこと。
この戦力で優勝できないのは、みんなバラバラだから。
それがまとまったらどれだけの力になるか。
だからおっさん中心でまとめてほしい」
「ちょっと待て、コバ。
いうとくがオレは補欠やぞ。
明日2軍に落とされるかもしれん。
できるわけないやろ」
「できる。
いや、おっさんしかいない。
掛布も岡田も真弓もおっさんのいうことなら聞く。
優勝したくないの?」
「そら、したいわい」
「だったら頼むよ」
2人の話し合いは朝まで続き、結局、川藤幸三が野手を小林繁が投手の面倒をみることになった。
2年後の1983年、小林繁は引退。
年俸1300万円の代打屋、川藤幸三はシーズン7安打に終わった。
年俸5480万円の4番、掛布雅之が1安打当り約38万円なのに対し、川藤は1安打約185万円の計算となり、戦力外通告を受けたが60%ダウンの480万円で残留した。
2人の夢が叶うのは、さらに2年後のことだった。

1985年、伝説のハジマリ

1985年、開幕前、阪神タイガースを優勝候補にあげる専門家は皆無だった。
1964年にセリーグ優勝したきり、最近では1976年の2位になった後、4位、6位、4位、5位、3位、3位、4位、4位ときていて、その気配すらなかった
監督は2期目となる吉田義男が新監督に就任。
外野を守ることが多かった岡田彰布をセカンドに、セカンドだった真弓明信を外野手にコンバートし、新しく木戸克彦をキャッチャーに、平田勝男をショートに起用した。
「スローガンは「3F」でした。
Fresh(フレッシュ)、Fight(ファイト)、For the Team(フォア・ザ・チーム)
今なら信じられないようなコンバートもやりました。
笠間(雄二)、山川(猛)の捕手は木戸(克彦)に代え、外野の岡田(彰布)は内野に郷愁があったし、平田がググッと伸びてた。
内野から外野に転向した真弓(明信)が「試合に出れるならどこでも守る」といってくれたのは助かった。
コーチの一枝(修平)、トレーナーの猿木(忠男)が大丈夫といった岡田をセカンドに、平田をショートに据えました。
岡田、平田の2人でよくゲッツーをとったし、中堅の弘田(澄男)と北村(照文)がビッグプレーをみせた。
センターラインの確立です。
守備位置をコロコロ代えたらあきませんな」
しかし当初、吉田 義男は今すぐに優勝争いができるチームとは考えておらず
「土台づくり」
「我々は挑戦者」
「一丸野球」
を繰り返し、景気のいい言葉はなかった。

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