因縁の巨人阪神

本拠地:兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場(収容人員、47,808人)
親会社:阪神電気鉄道
1935年にできた阪神タイガースは、巨人(1934年創立)に次いで2番目の長い歴史を持つ名門で、以来、関東と関西の2つのチームはライバル関係を続けている。
東京読売巨人の親会社である読売新聞社は、複数球団による3大都市(東京、名古屋、大阪)で職業野球リーグ戦開催を目指し、当時日本最大の球場だった甲子園球場を所有する阪神電気鉄道に打診。
こうして門前眞佐人、山口政信、藤村富美男、藤井勇、松木謙治郎が集まり、大阪タイガースが発足。
第2次世界大戦中、敵性語使用自粛のため「阪神軍」になったこともあったが、1961年に「阪神タイガース」になった。
大阪タイガースは、ダイナマイト打線と呼ばれた強力打線で人気を得た。
その中心となったのは、チャンスでの勝負強さと通常より8cmも長い「物干し竿」と呼ばれたバットで豪快なホームランをかっとばし、絶大な支持を得た「初代Mr.タイガース」、藤村富美男。
エースは、針の穴を通すコントロールで「精密機械」と呼ばれた小山正明。
小山と共に2枚看板の村山実は、投球フォームがマラソンのザトペックに似ているところから「ザトペック投法」と呼ばれた。

1959年6月25日、天皇、皇后両陛下を後楽園迎え行われた天覧試合で、タイガースは3回表に1点を先制。
5回裏、巨人は長嶋茂雄が小山正明からホームランを放つなど2点を入れて逆転。
6回表、タイガースはすかさず反撃。
藤村富美男が2ランホームランを含み3点をとり、4対2で再びリード。
7回裏、ルーキーの王貞治が2ランホームランを放って同点。
4対4で迎えた9回裏、長嶋茂雄が村山実からサヨナラホームラン。
以後、村山は長嶋に敵がいを燃やし、節目の記録となる三振は長嶋茂雄から奪うようにした。
巨人戦に燃える村山は、自信を持って投げた球をボールと判定され球審に猛抗議した末、涙を流しながら退場になったこともあった。
1960年代、エースとして活躍したジーン・バッキー投手は、巨人戦で外国人として初めてノーヒットノーランを達成。
1966年、18歳の江夏豊はプロ1年目で、225奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得し奪三振王の道を歩み出したが、チームの先輩である村山実に
「俺はこっち(長嶋)お前はあっち(王)や」
といわれ、王貞治には三振かホームランかの勝負を挑み、通算で57の三振を奪い、20本の本塁打も打たれ、死球は0。
王から最も多く三振を奪った投手は江夏で、江夏から最も多く本塁打を打った打者は王だった。
「よっさん」吉田義男

1975年、前年、V10を阻まれた巨人は、同じく前年に引退した長嶋茂雄が新監督となり期待された。
阪神タイガースも「よっさん」こと吉田義男が新監督に就任。
高2のの甲子園に出場し初戦敗退。
高3、最後の夏の甲子園は京都府予選決勝敗退。
そして立命館大学に進学したが、阪神タイガースのスカウトに
「藤村富美男さんが、君なら絶対プロでやっていけるといっている
と口説かれ大学を中退し、阪神タイガースに入団。
実はその殺し文句はウソだったが、入団後、グローブとボールとをいつも持ち歩き、時間があれば
「バシッ、バシッ、バシッ、バシッ」
と左手のグローブからボールをとっては投げ、とっては投げを繰り返した。
同部屋の選手は閉口したが、右手首の強さと瞬時に指の感覚でボールの縫い目を探す能力が鍛えられ、その捕球からスローイングまでの速さは
「捕るが早いか投げるが早いか」
「今牛若丸」
といわれ、俊足、巧打、好守のショートとして1年目から引退するまで16年間、不動のレギュラーだった。
このシーズン、阪神タイガースは、「赤ヘル旋風」を巻き起こした広島東洋カープ、中日ドラゴンズと優勝を争ったが3位。
巨人は球団史上初の最下位で終わった。

同シーズン、阪神タイガースの田淵幸一がホームラン王となり、王貞治の連続記録を13年で止めた。
それまで滞空時間が長い大きなホームランで「ホームランアーティスト」と呼ばれていた田淵幸一だったが、べーブ・ルースを抜いて世界記録、通算868本塁打をつくった王貞治全盛の時代にタイトルを獲るのは至難の業だった。
またシーズン終了後、阪神タイガースと野村克也監督率いる南海(現:ソフトバンク)で2対4(阪神:江夏豊、望月充、南海:江本孟紀、長谷川勉、池内豊、島野育夫)のトレードが成立。
5年目の江本は52勝、一方、江夏は完封44試合を含む159勝。
「なぜあんなレベルの選手と・・・」
(江夏)
「いいたい放題言いやがって・・・・」
(江本)
2人は舌戦を繰り広げた。
(1993年3月に江夏が覚醒剤取締法違反で逮捕されたとき、江本は法廷に立って江夏のために情状陳述を行った)
一方、吉田義男は
「自分で伝えるべきだった」
と江夏に移籍の話をフロントに通告をさせたことを後悔した。
そして2年後の1977年で監督を辞めた。
「初めて監督に就いた1975年は血気盛んな42歳です。
名将ビリー・マーチンのまねで、背番号1をつけてね。
優勝はできなかったけど、10年後に52歳のシーズンに生きたと思ってるんです」
(吉田義男)
「情熱のサイドスロー」小林繁

1979年、「情熱のサイドスロー」小林繁は、「空白の一日事件」「江川事件」の解決のため阪神タイガースに入った。
巨人に入って5年目、エース格だった26歳の小林繁はあるトラブルに巻き込まれた。
その年、巨人は掟破りに出た。
「怪物」江川卓は、高校卒業時、ドラフトで阪急に指名されたが巨人志望だったため拒否し法政大学へ。
大学卒業時にもクラウンライター(西武)に1位指名されたが拒否しプロ野球浪人していた。
ドラフト会議前日(1978年11月21日)、巨人はドラフト外で江川卓獲得を発表。
プロ野球協約の盲点をついた行動だったが、日本野球機構コミッショナーは、この契約を認めず、翌22日のドラフト会議は巨人がボイコットする中、阪神タイガースが江川と交渉権を獲得。
しかし巨人入団を強く望む江川との交渉は難航。
江川を獲得したのは巨人なのか阪神なのか?
世間が騒然とする中、12月21日、日本野球機構コミッショナーは
「巨人と江川の間で交わされた入団契約は認めない。
阪神が江川に対して交渉権を獲得したことを認める」
という裁定が下したが、翌22日には
「江川には一度、阪神との入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」
とつけ加えた。
12月31日、小林繁は宮崎キャンプのため羽田空港に向かった。
チームメイトを見つけ近寄ろうとしたとき、後ろから球団関係者に肩を叩かれた。
報道陣が駆け寄ってくるのがみえ、スーツの裾を引かれるままに走り、待ってた読売新聞社の社旗がついたハイヤーに乗せられた。
(えっ、俺だったのか)
茫然としていたままホテル・ニューオータニで5710号室に連れていかれると長谷川実雄球団社長が座っていた。
「もうわかっていると思うが阪神タイガースに行ってもらいたい。
これまで貢献してくれた君を手放したくはないんだが何とか事情を汲み取ってもらいたい」
「少し考える時間をください」
「早くしてくれ。
あまり時間がない」
小林繁の選択肢は3つ。
1 阪神に行く
2 巨人残留を望む
3 引退
2、あるいは3を選べばチームメイトの誰かが自分の代わりに放出されることになる。
それだけは避けたい。
だから決めた。
(阪神に行くしかない)
そして宮崎のホテルにいた王貞治に電話をかけた。
「コバ、一生の問題だ。
時間をかけて考えればいい。
でも俺は、たとえチームが違ったとしてもお前と一緒の野球がやりたい」
尊敬する先輩に「一緒に野球がやりたい」といってもらえただけで十分だった。
深夜、トレード発表の記者会見が開かれ、こう話した。
「ぼくはイヤで阪神に行くのではない。
期待されて行くんです。
誰からも同情の目で見てもらいたくない」
そして心に強く誓った。
(絶対に見返してやる)
翌シーズン、阪神タイガース1年目、22勝9敗、防御率2.89、巨人には8勝0敗。
古巣を5位に沈めた。
「浪花の春団治」川藤幸三

1981年、遠征中、小林繁と川藤幸三は酒を買い込んでホテルの部屋で話し込んだ。
小林繁は2歳年上の川藤幸三を
「おっさん」
と呼んでいた。
「浪花の春団治」、川藤幸三は福井県三方郡美浜町出身。
同郷にTVドラマ「スクール☆ウォーズ」の「泣き虫先生」、山口良治がいた。
山口良治は野球部出身で自分が在籍していた中学の野球部が人手不足だと知ると小学6年生の川藤幸三を強引に入れた。
福井県立若狭高校でエースとなった川藤幸三は春夏連続で甲子園出場し阪神タイガースに入団。
プロ入り後、俊足と強肩で活躍したがレギュラーにはなれず、アキレス腱断裂もあり、10年目には完全に代打専門になった。
それでも勝負強さを発揮し、4年連続3割台、多数のサヨナラ打を記録していた。
「おっさん優勝しようや。
このメンバーで優勝できんのはおかしい。
巨人は長嶋さんでも王さんでも上からいわれることには絶対服従だった。
組織の一員としての教育ができていた。
僕が阪神に来て一番に感じたのはオレがオレがの選手が多く、そういう意識が選手にないこと。
この戦力で優勝できないのは、みんなバラバラだから。
それがまとまったらどれだけの力になるか。
だからおっさん中心でまとめてほしい」
「ちょっと待て、コバ。
いうとくがオレは補欠やぞ。
明日2軍に落とされるかもしれん。
できるわけないやろ」
「できる。
いや、おっさんしかいない。
掛布も岡田も真弓もおっさんのいうことなら聞く。
優勝したくないの?」
「そら、したいわい」
「だったら頼むよ」
2人の話し合いは朝まで続き、結局、川藤幸三が野手を小林繁が投手の面倒をみることになった。
2年後の1983年、小林繁は引退。
年俸1300万円の代打屋、川藤幸三はシーズン7安打に終わった。
年俸5480万円の4番、掛布雅之が1安打当り約38万円なのに対し、川藤は1安打約185万円の計算となり、戦力外通告を受けたが60%ダウンの480万円で残留した。
2人の夢が叶うのは、さらに2年後のことだった。
1985年、伝説のハジマリ

1985年、開幕前、阪神タイガースを優勝候補にあげる専門家は皆無だった。
1964年にセリーグ優勝したきり、最近では1976年の2位になった後、4位、6位、4位、5位、3位、3位、4位、4位ときていて、その気配すらなかった
監督は2期目となる吉田義男が新監督に就任。
外野を守ることが多かった岡田彰布をセカンドに、セカンドだった真弓明信を外野手にコンバートし、新しく木戸克彦をキャッチャーに、平田勝男をショートに起用した。
「スローガンは「3F」でした。
Fresh(フレッシュ)、Fight(ファイト)、For the Team(フォア・ザ・チーム)
今なら信じられないようなコンバートもやりました。
笠間(雄二)、山川(猛)の捕手は木戸(克彦)に代え、外野の岡田(彰布)は内野に郷愁があったし、平田がググッと伸びてた。
内野から外野に転向した真弓(明信)が「試合に出れるならどこでも守る」といってくれたのは助かった。
コーチの一枝(修平)、トレーナーの猿木(忠男)が大丈夫といった岡田をセカンドに、平田をショートに据えました。
岡田、平田の2人でよくゲッツーをとったし、中堅の弘田(澄男)と北村(照文)がビッグプレーをみせた。
センターラインの確立です。
守備位置をコロコロ代えたらあきませんな」
しかし当初、吉田 義男は今すぐに優勝争いができるチームとは考えておらず
「土台づくり」
「我々は挑戦者」
「一丸野球」
を繰り返し、景気のいい言葉はなかった。

実際、スタートは最悪だった。
4月13日、開幕戦の相手は、前年、4度目のリーグ優勝と3度目の日本一を果たした広島。
試合は3対3で延長に突入し、10回表、阪神タイガースは、代打、北村照文のライト前ヒット、1番、真弓明信の送りバントで1アウト2塁という絶好のチャンスをつくった。
打席は、この試合2安打の2番、弘田澄男。
しかし次の瞬間、
「アウト!!」
2塁ベースのすぐ横で北村が尻もちをつきへたり込み、その横で広島のセカンド、木下富雄が、ボールを持った右手を挙げていて、広島市民球場はカープファンの歓声に包まれた。
隠し球だった。
真弓の送りバントのとき、一塁ベースカバーに入り送球を受けた木下は、投手、大野豊に歩み寄り、ボールをグラブに押しつけるようにして渡したが、次の瞬間、素早く引き抜いて左の脇の下に隠した。
そして左脇を締め、左手のグラブを広げ、右手もパーにして守備位置へ戻っていた。
1アウト2塁が、一気に2アウト、ランナーなし。
試合の流れは変わり、その裏、広島はサヨナラ勝ちした。
「いろいろありますなあ。
隠し球にやられてしもうたなあ」
「8年ぶりの采配?
こんなもんですわ」
「池田がいいピッチングをしてくれていたのに」
「クリーンアップが打てまへんでしたなあ」
記者に囲まれて京都弁でハンナリと答えていた吉田義男監督だったが、少しずつふるえ始め、我慢の限界に達すると、かぶっていた帽子をとって
「バシッ!バシッ!バシン!」
と3度、ベンチに叩きつけた。
「この悔しさを忘れたらあきまへん!!
1年間、絶対に忘れたらあきまへん!!
ええ、私は忘れまへんで!!」

この開幕戦を含め阪神タイガースの基本オーダーは
1 真弓明信
2 弘田澄男
3 ランディ・バース
4 掛布雅之
5 岡田彰布
6 佐野仙好
7 平田勝男
8 木戸克彦
9 (ピッチャー)
真弓、バース、掛布、岡田を筆頭に打線に切れ目がなかった。
「8番の木戸がまた勝負強くていいところで打っていたんだよ。
強いていえば平田のところでちょっとだけホッとできる感じだったかな。
とにかく真弓を含めてホームランバッターがズラリとそろっていた」
(八重樫幸雄、ヤクルト、キャッチャー)
「恐怖の1番打者」真弓明信

社会人野球、太平洋クラブライオンを経て、田淵幸一、古沢憲司との世紀のトレードで阪神タイガースに移籍し、1年目から強打、堅守、俊足、そして内野も外野も守れるマルチプレーヤーとして活躍。
1982年7月、11連勝か8連敗を重苦しい雰囲気で漂う移動バスの中、突然、チームメイトとバカ騒ぎをはじめた真弓明信にコーチがに謝りながら鉄拳制裁。
その光景が面白かったため雰囲気が一変、その後、チームは連敗から脱出できた。
また8月31日には「審判集団暴行事件」が起きた。
阪神タイガースのバッターの3塁フライを大洋のサードがグラブに当てて落球。
しかし塁審は「ファール」と判定。
阪神タイガースは塁審を取り囲み猛抗議し、2人のコーチが暴力行為で退場処分となったが、このとき真弓明信だけは止めに入った。
まさにリードオフマン(1番打者)としてチームをまとめ牽引する存在だった。
1985年は、岡田彰布と入れ替わる形でセカンドから外野手に転向。
「前の年から優勝ということをかなり具体的に考えていました。
点を取ることに関しては申し分ないチームだったんです。
掛布がいて岡田も打ち出していたし、バースも日本の野球に慣れてきた。
とにかくピッチャーさえなんとかなれば、優勝できるかどうかは別にして絶対に優勝争いはできると思っていたんですね。
僕は外野手になったらとにかく打たないとダメだと思ったんです。
それもヒットじゃなくて大きいのをね。
ショートやセカンドをやっていれば競争相手はほとんど日本人で、しかもそんなに大型選手はいない。
でも外野となると長打も打てないとだんだん物足りなく感じられるんです。
そうなったらいつ外国人選手が入ってきてポジション争いをさせられるかわからない。
そう思わせない選手でないとダメだと心に決めたんですね」
粘ってフォアボールを選んだり、バントでも単打でもとにかく塁に出るという従来型ではなく、初球から打っていく超攻撃的な1番打者となり、最終的に打率.322、84打点、初回先頭打者本塁打6本を含む34本ものホームランを放った。
「史上最強の助っ人」「神様、仏様、バース様」ランディ・バース

アメリカでは
「ニューヨークからロサンゼルスまで飛ばす男」
といわれながらも、幼少時に足を複雑骨折した影響で足が遅く、メジャーに昇格することはなく2軍に当たるマイナーでプレー。
1983年に年俸2000万円という破格の安さで阪神タイガースに入団。
オープン戦でデッドボールを受け、左手首を骨折し、復帰後、15打席連続ノーヒッの球団ワースト記録。
チームが新しく外国人投手を獲得したため、1チーム外国人選手3名までというルール上、バースも解雇の候補に挙がったが、パワー、態度、努力、人格が評価され残留。
その後、35本塁打、82打点と長打力をみせつけた。
しかし1984年は、27本塁打に終わり、球団には岡田をサード、掛布をファースト、バースは解雇をいう案もあったが、吉田義男監督が
「守備力の低さを差し引いてもお釣りがくる。
絶対必要」
といい、再契約に至り、31歳のランディ・バースは3年目を迎えていた。
「パワーのあるチームだったね。
掛布、岡田、真弓、みんな力があっていいチームだったよ。
だからあのシーズンが始まる前には、自分がもう少しうまくいって、打てれば優勝も夢ではないんじゃないかという感触はあったんだ。
ピッチャーは弱かったけど、打線でカバーできるくらいのパワーがあった。
結果的には私が(ホームランを)前の年の2倍打ったからね。
だから思っていた通り、優勝を手にできたというわけさ」
「4代目Mr.タイガース」 掛布雅之

高校3年生のとき、掛布雅之は甲子園にいくことができず、175cmと小柄なこともあってか、プロからのお誘いもなかった。
しかしあきらめず、ドラフト直前の11月、テスト代わりに2軍秋季キャンプに参加。
見事、ドラフト6位で入団。
初めて1軍の練習をみたとき、周りは化け物のように大きくみえた。
「特に田淵(幸一)さんは2mあると思ったくらい。
俺の入るべき世界じゃなかったのかなと不安になりました」
3代目Mr.タイガースの田淵幸一は、18歳の掛布雅之に自分のバットと
「小さくても、うまくなれるから面白いんだ」
という言葉を贈った。
チャンスはすぐに来た。
藤田平が自身の結婚式のため、野田征稔が実母の逝去で、それぞれ欠場したため掛布雅之はオープン戦に出場。
そこで好成績を残し、まさかの開幕1軍。
「初対決はセカンドゴロに打ち取ったはずだが、1球目、ものすごいスイングでファウルチップ。
こいつは大物になる」
(星野仙一、中日、投手)
その後は同期でドラフト1位の佐野仙好と激しくポジションを争った。
練習で猛ノックを受け疲れ果て、試合中に居眠りしたこともあったが、佐野仙好を外野へと追いやって、サードでレギュラー定着。
打撃は、豪快なフルスイングも魅力ながら、本来、中距離打者で、安定感が最大のウリだった。
衝撃のトレードで田淵幸一が西武へ去ると、4番と4代目Mr.タイガースの宿命を背負い、肉体と打法の改造に着手し、多くの打球をスタンドに叩き込むようになった。
掛布雅之は、腕力ではなく腰の回転で打った。
ボールを呼び込み、速いスイングで弾き返す打法は、引っ張るだけでなく流し打ちもでき、投手が右利きでも左利きでも対応しやすかった。
サイン色紙には「いつもあこがれ」と書く。
背番号「31」は、巨人のON、長嶋茂雄の「3」と王貞治の「1」を足したもの。
彼らを敬愛する掛布雅之は
「巨人を倒すことが、長島さんや王さんへの1番の恩返し、1番喜んでもらえること」
と考えていた。
巨人戦で出塁したとき、王貞治に
「いつあんなバッティング覚えたんだ」
と声をかけられ感動した。
長嶋茂雄は掛布雅之について
「君には巨人戦で数多くのホームランを打たれて悔しい思いもした。
悔しいが、誰にも負けない大きな拍手を、心から君のホームランには贈っている」
といっている。
スランプに陥った掛布雅之が長嶋茂雄に電話で助言を求めたときは
「そこにバットある?
あったら振ってみて」
電話越しに素振り音を聞いた長嶋茂雄は
「雑念を取り払え、無心で振れ!」
と指示。
掛布雅之はさらに数度振りを聞いてもらうと
「そうだ、今のスイングだ。
忘れるな!」
これで電話は終わり、その後、掛布はスランプを脱した。
酒癖は悪いが、ギャンブルとタバコはやらず、いつも純朴な笑顔の掛布雅之だが、打席に入ると豹変する。
人気シナリオライターの市川森一は、
「殺気を秘めながら座敷の隅で黙々と刀を研いでいるかのような、黒澤明監督の名作に登場させたいほどの存在感」
と評した。
「最高の5番打者」岡田彰布

大阪で町工場を経営する父親は阪神タイガースの有力な後援者で、岡田彰布も少年時代からよく甲子園へいった。
しかし陣取るのはタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵が入っている三塁ベンチの横。
至近距離からヤジを飛ばすためだった。
甲子園には高校1年生のとき1回だけ出場。
早稲田大学野球部のセレクションを受けて15打数14安打14本塁打という驚異的な打撃をみせ合格。
1年生で法政大学の江川卓から3安打、2年生から5番サードに定着し、3年生で3冠王、4年生で主将となり東京6大学野球リーグ連覇、日米大学野球では4番。
ドラフトで6球団から1位指名され、阪神タイガースに入団。
1980年、1年目、阪神タイガースのサードには掛布がいた上、ドン・ブレイザー監督は
「岡田はまだ新人なので、じっくり鍛えた方がいい」
と岡田彰布を即戦力として積極的に使わなかった。
これにファンは
「なぜ岡田を出さないのか」
と猛反発。
球団はドン・ブレイザーを解任し、コーチだった中西太を監督に昇格させ、出場機会が増えた岡田彰布は打率.290、18本塁打、54打点で新人王を獲得。
(中西太は、5月にブレイザーの後を受けて監督に就任し、わずか5ヵ月間で体重が10kg以上も減り、何度も精密検査を受けるほどの体調不良で10月には辞意表明)
2年目からセカンドレギュラーとなり、毎年、2ケタ本塁打を放ち続けた。
圧倒的な打撃力を有していながら、真面目な性格の岡田彰布はチームのことを考えたバッティングを行うためタイトルこそ少ないが、「ココぞ」という場面で恐ろしい力を発揮する「最高の5番打者」だった。
前年、ファーストやライト、慣れぬ守備に戸惑った岡田彰布はセカンドにコンバートされ
「野球が楽しい」
と素直に喜んだ。
そして1985年シーズン、27歳の岡田彰布は、打率.342(バースに次ぐ2位)、35本塁打(リーグ4位)、101打点(リーグ5位)を叩き出し、チームの日本一に貢献することになる。
座右の銘は
「道一筋」
で周囲の不理解や反対があっても自分の信じた道を突き進む。
そして口癖は
「そらそうよ」
巨人の大落球、伝説のバックスクリーン3連発
1勝1敗で広島から甲子園に戻ると巨人との3連戦が始まった。
4月16日、1戦目、0対2とリードされた4回裏2アウト、掛布雅之がソロホームランで1対2。
岡田彰布がフォアボールで出た後、佐野仙好の平凡なショートフライを巨人の河埜和正がまさかの落球。
岡田は一塁から一気にホームにかえって2対2。
そこからタイガース打線が爆発。
一挙7点のビッグイニング。
最終的に10対2。
4月17日、巨人の先発は21歳の槙原寛己。
阪神打線は、150km/h台の速球にグイグイ押された。
7回裏、1対3、2アウト1、2塁の場面でバッターボックスは、3番のランディ・バース。
「ストレートを待って、ハードに叩くことだけを考えた」
という打球はバックスクリーンへ1号となる逆転3ラン。
「あの打席はまったく平常心で入ったと思いますね」
続く4番の掛布雅之が同じくバックスクリーン方向へ1号ソロ。
5番、岡田彰布も
「もうインコースは投げてこんやろ」
と狙いを絞ってバックスクリーンへソロ。
「2アウトながら、ランナーを2人置いて、バースに打順が回ってきた。
投げた球種は、シュートです。
普段はあまり投げないボールでしたが、実はその前の打席でもシュートを放ってゲッツーを取っていたんです。
それも頭にあったと思うんですが同じ球を打たれた。
逆転の3ラン。
勝っていた試合をひっくり返されてしまった。
ものすごい1発でした。
それでショックを受けているところに、今度は掛布さんに高めの真っ直ぐを打たれた。
普通ならフライになるボールだったと思います。
それをうまくバットをかぶせてバックスクリーンまで運ばれました。
この時点で、もう放心状態ですよ。
3人目の岡田さんのときは、ホームランを打たれたのは覚えているけど、その後の記憶がまったくありませんから。
誰がマウンドに来て、どんなふうに交代させられたのか。
ベンチに帰ってどうしたのか。
アイシングをしたのかどうか。
それどころか宿舎に帰って何をしていたのか、その日のことはまったく覚えていないんです」
(槇原寛己)
「ターニングポイントは、バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発です。
4番に誰を起用するかは迷いました。
相手は掛布が脅威で、みな3番バースで勝負してくれた。
佐野(仙好)も勝負強かった。
派手な3連発に隠れているのは2年目だった中西(清起)をストッパーに起用して成功したことです。
山本(和行)と中継ぎの福間(納)が踏ん張った。
巨人に勝たな優勝はない。
あの3連発が巨人に勝てるという自信と勢いになった」
吉田義男監督がいうように結果的に、このバックスクリーン3連発は日本一へ狼煙となった。
阪神タイガースは巨人3連戦を3勝。
4月を9勝3敗1分で終えて、開幕ダッシュに成功。
以後、広島、巨人と優勝争いを繰り広げていく。

5月6日、 阪神タイガースが中日戦で40打数23安打でチームとして1試合での最高打率の日本プロ野球新記録、5割7分5厘。
5月19日、後楽園での巨人戦、7回表、0対0で先頭打者の掛布が出塁。
続く岡田に三塁コーチはバントのサイン。
「絶対失敗したろ」
岡田はバントしたがファイル。
カウントがワンツーになると、サインはエンドランになり、岡田は江川卓から8号ツーランホームラン打った。
5月23日、甲子園で広島戦で、広島の北別府学投手がライトポール際に放ったホームランの判定を不服とした阪神ファンが線審にチェーンを投げつけ負傷させたため現行犯逮捕。
裁判で
「阪神への不利な判定に腹が立った」
と情状酌量を求め、反省の色無しと判断され実刑判決を受けた。
6月15日 、木戸克彦が大洋戦(甲子園で)1試合3本塁打
6月23日 、掛布雅之が通算300本塁打。
6月28日、バックスクリーン3連発を喰らった槇原寛己が、同じ甲子園で1号ホームランを打って一矢を報いた。
それは球団通算5000号のメモリアルアーチだった。
6月30日、甲子園での巨人戦が天候不良で直前になって試合中止が決定。
ライトスタンドにいた阪神ファンの一部がグランドに乱入し、リリーフカーでグランド内を暴走させたり、ベンチに乱入した。
7月10日 、真弓明信が通算150本塁打
7月13日 、 岡田彰布が後楽園での巨人戦の9回表に代打で出場し西本聖から15号を放って通算100本塁打。
7月18日 、 平田勝男が広島戦で日本プロ野球タイ記録の1試合4犠打。
7月20~23日、前年、日本一になった広島東洋カープの古葉竹織監督率いる全セと阪急ブレーブスの上田利治監督率いる全パがオールスターゲームで対決。
2勝1敗で全セが勝利。
阪神タイガースからは、バース、真弓、掛布、岡田、山本一行(投手)が選ばれていた。
「球宴前の広島戦もポイントです。
2ゲーム差で広島にいって連敗で4差。
岡山での3戦目は広島と新幹線で呉越同舟になった。
岡田が負傷したので球宴監督の古葉(竹識)に「今日の試合は出ないがオールスターは出してほしい」といったら「出します」といってくれた。
その岡山で岡田に代わった和田(豊)が4安打、平田が4つの犠打を決め、チュンタ(中田良弘)が力投するんです。
オールスター折り返しが5差か3差では大違いでした」
(吉田義男)
トラキチ

勝ちまくる阪神にファンは熱狂し、グッズは飛ぶように売れ、結果的に甲子園には年間で、前年を65万人近く上回る250万6000人が来場した。
たとえ歴史の長さは巨人に負けてもファンの数なら阪神タイガースが球界No.1。
一般的なファンに加え、熱狂的なトラキチ(タイガース気違い、侮蔑的な意味ではなくホメ言葉)を含め、阪神タイガースのファンは、陽気で、強い一体感がある。
他球団のファンではあり得ないほど、阪神ファンにとって阪神は生活の一部だった。
球場にいけば観戦はなく参戦。
家のテレビで試合を観ていても血圧は上昇し、観戦後は心拍数低下と心理的ストレスの軽減が図られる。
彼らはたとえ病気やケガで入院しても、甲子園でジェット風船を飛ばすことや道頓堀でダイブすることを目標に、高い意欲でリハビリに取組むという。
球場での応援スタイルは熱狂的で、特に阪神巨人戦では甲子園が揺れる。
試合前やホームランが出たとき、勝利が決まったときは「六甲おろし」を合唱。
レギュラークラスの選手は1人1曲、オリジナルのヒッティングマーチがあり、彼らが打席に立つとき、ファンはそれを歌いメガホンを叩く。
投手には「ヒッティングマーチ1番」、新人などヒッティングマーチがない選手にも「ヒッティングマーチ2番」がある。
「ラッキー7」の7回、阪神タイガースの攻撃前には一斉にジェット風船を打ち上げる。
甲子園球場に一斉に上げられたジェット風船の音は95dB(デシベル)を超えることもある。
電車が通ったときのガード下や地下鉄の構内が100db。
カラオケ店の中、怒鳴り声が90db。
そしてスイス政府は、停止している状態で95dBを超える音を発するバイクは禁止にしようとしている。
阪神がリードして守りについた9回や延長回。
2アウトになるといよいよ勝負が決まりそうになると、
「あと1人」
を連呼。
2アウト2ストライクになると
「あと1球」
が連呼される。
熱狂的な応援が高じて、対戦チーム、選手、ファン、審判に対し、誹謗中傷、威嚇、暴力、グラウンドにモノを投げ込みプレーの妨害を行うファンもいる。
危険なデッドボールや誤審、阪神が相手チームや審判とモメるとグラウンドに乱入するファンや、逆に阪神タイガースの不甲斐ないプレーに激怒しグラウンドになだれ込むファンもいた。
相手チームを応援するファンとのイザコザやケンカを起こし、流血するオッサンが多いのも阪神タイガース。
熱いのは素晴らしいことだが、球団や球場は、フーリガン化するファンの問題行為に対し、缶や瓶の持ち込み禁止、ジェット風船の打ち上げを認めていない球場での禁止、立ち見応援の規制など安全で楽しく観戦、応援できるようなマナーを呼びかけている。

8月12日 、日本航空123便墜落事故が発生し520人の乗客、乗務員が犠牲になり、4日後、球団社長、中埜肇の遺体が確認された。
事故機の直前のフライト(日本航空366便)で搭乗していたタイガースナインはショックを受けた。
「球宴後の8月12日に日航機墜落で中埜球団社長が亡くなった。
翌日から巨人に3つ、広島に連敗で5連敗。
後で知るんですが選手会長の岡田が決起集会を開くんです。
監督としてうれしかったし、横浜に1つ負けて6連敗してから勝ち続けました」
(吉田義男)
8月24日、 ランディ・バースが通算100本塁打(史上142人目)
8月終了時点で1位阪神と2位の巨人は0.5ゲーム差、3位の広島は1ゲーム差という大混戦。
9月4日 、左の抑え投手、山本和行が中日戦、試合前にアキレス腱を断裂で戦線離脱。
9月7日、8日の敵地での広島戦で連勝
9月10日、大洋戦で1試合10個の2塁打(セ・リーグ新記録)
9月11日、優勝マジック22が点灯
9月17日、岡田彰布が本塁打を放ち、ランディ・バース、掛布雅之、真弓明信に続き、30本達成。
最終的には、真弓34本、バース54本、掛布40本、岡田35本となる。
9月、阪神タイガースは13勝5敗1分と勝ち越し。
広島は6勝11敗1分、巨人も6勝13敗と失速。
投手陣

10月12日、 ランディ・バースが広島戦で48号を放ち、日本プロ野球の外国人シーズン本塁打記録(近鉄のチャーリー・マニエル)、球団シーズン本塁打記録(掛布雅之)、またセ・リーグのシーズン勝利打点(試合で最後に勝ち越した打点、巨人の原辰徳の20)を更新。
10月15日、 広島戦の8回裏、6対3、3点リードでの場面で登板した福間納が、そのまま広島打線を封じ込め今季初セーブを飾った。
阪神タイガースは、124試合目にして初めて中西、山本和行以外の中継ぎ投手にセーブをつけた。
「今年は1つも付かなくていいと思っていたんだ。
そういう数字に出ない働きをする者が必要、それがオレなんだとね。
そんなことより、西を1試合でも休ませてやることが出来たのが嬉しいんだ。
アイツは同点でも負けていてもどんな場面でもイヤな顔ひとつせずに「オレが投げますわ」といってマウンドに上がっていった。
なんとしても中西を胴上げ投手にさせてやりたい。
そう思っているのはオレだけじゃない。
工藤も池田も佐藤やノムさん(野村)だって・・・」
福間納は9回に回ってきた打席でホームランを狙った。
しかも30万円の懸賞金がかかったポール直撃の一発を!
「それだけありゃ、中西を誘ってみんなでパーッと飲みに行けるだろ」
福間のバットは快音を発し、打球は右翼ポールめがけて一直線。
だがわずか20cm右に切れファウル。パ
ーッと豪快にはいかなかったが、福間と中西たちはその夜、広島の街で祝杯をあげた。

「弱投」
「打線は一流、投手陣は三流」
「エース不在」
といわれた阪神タイガース投手陣もチーム防御率4.16は2位、広島の4.1と比べても立派な数字だった。
打撃陣に比べ投手陣は日陰の存在だったが、彼らが我慢して失点を抑えているうちに打線が爆発し、負け試合をひっくり返したことも多かった。
先発
リッチ・ゲイル
池田親興
中田良弘
伊藤宏光
仲田幸司
中継ぎ、抑え
中西清起
福間納
工藤一彦
山本和行
佐藤秀明
先発は、シーズンを通じてローテーションを守ったのはゲイル1人。
先発が5回くらいまで投げた後は継投、継投の勝負だった。
中継ぎの要となったのは工藤一彦、福間納。
そしてWストッパー(クローザー)として山本和行は、中西清起が最後を抑えた。
しかし山本の負傷によって中西清起は63試合、福間納も58試合に登板、フル回転した。

10月14日、 広島戦でランディ・バースが50号、51号を放って4試合連続勝利打点(日本プロ野球新記録 )
チームもシーズン137犠打(セ・リーグ新記録)で7対3で快勝し、優勝マジックを「1」とした.
シーズン早々からマスコミが
「21年ぶりの優勝」
というフレーズを使い、ファンが騒ぎ、記者に
「優勝のプレッシャーがないですか?」
と聞かれても吉田義男監督は
「ほとんどの選手は経験したことないからわからんのと違いますか」
優勝マジックが1となったときでさえ
「これで王手ですね」
「いよいよリーチですよ」
といわれても
「王手とリーチはどう違いますんかな?」
とトボケ続けた。
「周りは優勝、優勝と騒ぎ出したが、わたしは絶対口にしなかった。
選手、監督として経験もあったし、勝負はゲタを履くまでわからんとたたき込まれてましたからね。
だから今の選手がヒット打ったぐらいではしゃぐのはもってのほかですわ。
相手投手にも失礼だと思うんです。
勝負は厳しいですからね。
時代といえばそれまでだが、喜ぶのはナベのフタを開けた後でええんです。」
(吉田義男)
21年ぶりのリーグ優勝

10月16日午後、神宮球場周辺に大阪ナンバーの車や黄色いハッピ、頭に鉢巻きを巻いた男たちが集まり始めた。
試合前、超満員のスタンドには、すでに「阪神21年ぶり優勝!おめでとう!」の横断幕と多数のガードマンや警察官が配置された。
大歓声とトランペットマーチを浴び、阪神タイガースベンチには優勝のプレッシャーが重くのしかかっていた。
「おうおぅ、ぎょうさんトンボが飛んどるぞ。
秋やのう。
けどまだ黄色や。
もうすぐコイツらも赤くなるんやなぁ」
「カワさん、トンボは紅葉とちゃいまっせ」
「えっ、ホンマか?
コイツら赤とんぼにならんのか?」
川藤幸三のボケに大爆笑しチームは一気にリラックスした。
18時、試合開始。
2回裏、ヤクルトが1点先制。
4回表、先頭打者の、1番、真弓が33号同点ホームラン。
6回表、1アウト3塁でバースがバックスクリーン右へ52号2ランを叩き込み、3対1。
6回裏、ヤクルトが四球、ヒット、ヒットで2点を返し、3対3。
阪神タイガースはピッチャーを交代させたが、その後も打たれ、3対5。
「今日の優勝はお預けやな」
誰もが思った。
9回表、先頭の掛布が1ストライク3ボールからレフトポール直撃の39号。
続く岡田もフェンス直撃の2塁打。
バントで送って1アウト3塁。
そしてセンターフライからタッチアップした岡田が同点のホームを踏んだ。
阪神ベンチの末永正昭マネジャーは記者席へ飛び込んで聞いた。
「あのう、引き分けの場合、ウチは優勝するんでしょうか?」
一瞬の沈黙の後、
「何いうてんのや。
優勝や。
優勝に決まっとるがな!」
「ハイッありがとうございます!」
そして末永正昭マネージャーは、
「優勝やでぇー」
と叫びながらベンチに飛び込んだ。
「引き分けで優勝なんてそんなアホな話あるかい!とずっと思とった。
みんながホンマやというから、そういうもんかいなと」
(川藤幸三)
「ボクも最後まで知らなかった。
延長10回裏の最後の守りでマウンドに野手が集まったとき「どうなの?」と聞いたような。
ふとベンチをみたらカワさんがバンサイしている。
それで優勝するんだとわかったんですよ」
(掛布雅之)
「ほんま、オレも知らんかったわ。
同点のホームを踏んでベンチに帰ったらマネジャーが飛び込んで来て『優勝やでぇ!』と叫んだからわかったんよ。
ええんちゃう。あの年のオレらは勝つことしか考えてへんかったから」
(岡田彰布)
岡田彰布のいうように、阪神タイガースの凄さはそこだった。
どんなチームでも早い回に大量失点でもすればゲームを捨てる。
しかし阪神タイガースは点を取られても取り返す逆転劇を何度も繰り広げた。
年間130試合で70勝すれば優勝できるとすれば60敗してもいい計算になる。
絶対負ける試合は粘らず疲労を蓄積させない方が、次の試合や年間の勝敗を考えればプラスかもしれない。
逆にすべての試合に勝とうとすれば疲労も大きくなり、1敗が1敗でなくなってしまうこともある。
だが1985年の阪神タイガースは、すべての試合で勝とうとし勝ちにいった。
「初回の5失点ぐらいは平気だったね。
必ず2、3回までに2、3点返していたし、まあ5、6回までの6点差だったら大丈夫。
さすがに10点差は僕らも諦めたけど」
(掛布雅之)
実際、何度も奇跡を起こした。
例えば5月22日、甲子園球場での広島戦で1回につかまり、衣笠の6号3ランを含め5失点。
3回にも2点を追加されて0対7。
普通なら捨て試合にするところだが虎は勝負を捨てなかった。
問答無用の猛打爆発。
引き分けなんて狙わない。
ましてや試合を捨てるなんてとんでもない。
常に勝つことを求めた。
「そらそうでんがな。
ウチは勝ち星を計算出来るチームやおまへん。
挑戦者なんです。
それを忘れたらあきまへん」
(吉田義男)
勝っても負けても一生懸命。
それがみるものを興奮させた。
延長10回裏、最後の打者が倒れると、挑戦者たちはみんな雄叫びをあげてベンチを飛び出した。
神宮球場は、あまりの歓喜によって三塁側から地鳴りのような揺れが起こった。
その瞬間を伝えるために「夜のヒットスタジオ」が放送開始を遅らせたテレビの最高視聴率は約75%。
神戸や大阪の街は、「六甲おろし)」が響きわたり歓喜するファンの熱狂で包まれた。
ブラックマヨネーズの吉田敬は、野球ファンでも阪神ファンでもないが、この夜はハッピを着て、ハチマキを巻いて、メガホンを持って大阪で女性をナンパ。
それを目撃した先輩に
「ハッピを着てナンパしたんじゃないんです。
ナンパしてハッピ着たんです。
俺は阪神の力は借りてないんです」
と言い訳した。
道頓堀ダイブ

大阪ミナミでも、優勝に沸くファンが梅田の阪神百貨店前に集まり大騒ぎしていた。
「御堂筋パレードや!」
誰かが叫んだのをきっかけに車道である御堂筋を埋め尽くし、歩行者天国ばりにパレード。
そして心斎橋までたどり着くと、夜中にもかかわらず、多数のファンが戎橋(えびすばし)から道頓堀川に飛び込んだ。
「道頓堀ダイブ」だ。
最初に道頓堀ダイブを決行したのは巨人ファンで高校生だった桂福若(落語家)。
「21年も優勝しなかった阪神が優勝するわけない」
「優勝したら道頓堀に飛び込んでやる」
と見栄を切ったのがきっかけだった。
最初に飛び込んだ男、道頓堀のパイオニアは、道頓堀ダイブをきっかけに高校を退学し、今度は落語の世界に飛び込んでいった。
「僕が最初に道頓堀に飛び込んだのですが、実は巨人ファンなんです。
高2だった1985年秋、阪神は快調でしたが、阪神ファンの友達に「阪神が優勝するわけないやろ!」といってしまいました。
「ほんなら優勝したらどないするねん!」とケンカっぽくなってしまい「道頓堀に飛び込んだるわ!」と約束したらホンマに優勝してしまった。
もともとは罰ゲームだったんです。
そして11月2日、阪神が日本一になり道頓堀にいって橋の上に立ちました。
阪神ファンだらけで「お前、はよ飛び込めや!」とかいろいろいわれて焦りましたね。
飛び込まな生きて帰られへん雰囲気になってパンツ一丁になって飛び込みました。
ジェットコースターの急降下のような感じで命がけでしたよ。
水の中は真っ暗で目を開けたらアカンと思いました。
岸まで泳いで地上に上がるとみんなに胴上げしてもらいましたよ。
まさか巨人ファンを胴上げしていると思っていなかったでしょうね。
そして僕が飛び込んだ後に何人か飛び込みました。
ミナミはお祭り騒ぎでした。
ものすごかったです。
飛び込んだ後も、その場で知り合った阪神ファンと六甲おろしを歌いながら長居公園までいって、また池に飛び込みました。
快感でしたね。
そして翌日に「昨日の再現や」と学校の池に飛び込んだら退学になったんです。
公立校で退学ですよ。
それまでもだいぶ目立つことはしていたので最後のきっかけになったのかもしれないですね。
オヤジ(桂福團治、落語家)には「なんてカッコ悪いことしたんや」っていわれましたが、近所のおっちゃんには「ウチの町内から立派なヤツが出た」とか「ようやった!」ってホメられました。
「実は巨人ファンです」とはいわれへんかった」

さらに戎橋近くにあったケンタッキーフライドチキン道頓堀店(現在しない)のカーネル・サンダース像が、店員の制止もむなしく担ぎ出され、ランディ・バースに見立てられ胴上げされた後、道頓堀川に投げ込まれた。
実はこのとき「くいだおれ太郎」も狙われたが、店の営業部長が体を張って死守。
株式会社くいだおれは、戦後、焼け野原となった大阪で食堂から道頓堀にくいだおれビルを建て、「くいだおれ太郎」は大阪のマスコットキャラクターになったが、創業者:山田六郎の遺言は「支店を出すな」「家族で経営せよ」「看板人形を大切にせよ」だった。
10月22日 甲子園で行われたセリーグ最終戦、巨人vs 阪神戦。
試合前、巨人の吉村禎章は、出塁率で2位のバースに9厘の大差をつけトップ。
しかし巨人は優勝や順位争いにまったく関係がなかったこの試合に先発、フル出場させ、吉村は4打席凡退。
また試合前の時点で、バースも王貞治が持つシーズン本塁打記録にあと1本と迫っていた。
これをさせまいとしたか、巨人の投手陣は勝負を避け、バースは1安打4四球で全打席出塁。
結果、9厘の大差を1試合で大逆転させ出塁率でトップになった。
結局、足が遅く内野安打がないバースは打率が3割5分を含み、3大打撃タイトル(打率、本塁打、打点)で3冠王、そして最高出塁率、最多勝利打点、セリーグMVPを獲得。
岡田彰布もこの試合で3打点を挙げシーズン101打点。
バース、掛布、岡田、3人全員、3割30本100打点を超えた。
チームとしても219本塁打を放ち、731得点。
投手陣でも中西清起が、最多セーブ投手、最優秀救援投手。
日本シリーズ 最強の獅子 vs 虎

一方、パリーグでもロッテの落合博満が2度目の3冠王を獲得していた。
チームでみると最多得点をマークしたのは阪急。
広岡達朗監督が率いる西武ライオンズは、打線が振るわず、圧倒的な投手力で勝ちを積み重ね、優勝した。
この年のドラフトで、清原和博、桑田真澄のKKコンビが世間を賑わせたが、西武が清原和博を1位指名したのは必然だった。
広岡達朗は現役時代、吉田義男はライバルだった。
早稲田から大争奪戦の末、巨人へ入団し、ショート、レギュラーで新人王を獲得し、女性ファンも多く「貴公子」といわれた。
ファーストは「打撃の神様」川上哲治で、守備はあまりうまくなかった。
「あれくらいの球、捕れなくて何がプロだ」
広岡達朗が吐き捨てた言葉を記者が川上に伝えたことで2人の関係はギクシャクし始め、
正しいと思えば相手がコーチでもいい負かしてしまう広岡達朗は、首脳陣からも煙たがられ、川上哲治が監督となるとオフのたびにトレードの話が出るようになった。
しかし基本技術を徹底し、どんな簡単なゴロも雑に扱うことはなく可能な限り打球の正面に入って素早く送球する堅実な守備は、ますます安定感を増し、レギュラーの座を守り続けた。
吉田義男の華麗な守備と比較され
「甚だ迷惑した」
という広岡達朗は監督になると
「巨人より正しい野球をする」
とウエイトトレーニングを導入し、自身、家にも帰らずコーチらと選手を鍛え、
「麻雀・花札・ゴルフ禁止」
「禁酒(練習休みの前日のみ食事時に可)」
「炭酸飲料禁止」
「ユニフォーム姿では禁煙」
「練習中の私語禁止」
など選手の食事、生活、体調も管理し、球団創設から低迷を続けていたヤクルトを1年目から初優勝、日本一へ導いた。
豪放磊落な野球で「野武士」といわれた西鉄ライオンズにも徹底した「管理野球」を布いて1年目からリーグ優勝、日本一。
翌年も連続日本一。
3年目は3位に甘んじたが、4年目の1985年は再びパリーグを制し、自身2年ぶり3度目の日本シリーズ出場を決めた。
選手は練習日、試合日とも球場から車で数分のところにある西武園競輪場に隣接する「共承閣」での合宿生活。
共承閣は、競輪開催期間中、不正防止のため、選手と外部の接触を断つための宿泊施設。
4~5人ほど収容できる部屋のドアの覗き窓は外側からのみ開閉できる。
しかし食事は豪華だった。
「アル・カポネの気分」
「いつも監視されているようで落ち着かない」
「楽しみは食べることだけ」
選手たちの反発と衝突を重ねながら、あくまで基本を忠実に「管理野球」を行い常勝軍団を育てる名将だった。
「さすがに西武には勝てんやろ」
そういう関西弁も多かった。
日本シリーズ数日前、西武ライオンズ球場での練習中、突然、スピーカーから大音量の音楽が流れた。
音響の操作ミスかと思いきや、広岡達朗監督の要望だった。
「甲子園球場の大声援は(選手たちが)経験したことないだろう。
声の連係なんか消されてしまうから少しでも慣れるためなんだ」
10月26日、日本シリーズが開幕し、獅子と虎が戦い始めた。
西武ライオンズの本拠地:西武球場にもかかわらずスタンドには多くの阪神ファンが陣取り、西武ファンと五分五分の応援合戦を繰り広げた。
西武、松沼博久、阪神、池田親興の投手戦となり、西武は8回表、工藤公康を投入したがバースがレフとスタンドへ流し打ちホームラン。
「あれなら(セ・リーグ最下位の)ヤクルトの方が怖いですよ」
完封勝利した池田親興は、西武打線の印象を質問されいい放った。
10月27日、第2戦、阪神のリッチ・ゲイルが西武、石毛宏典にソロ本塁打を浴びるもバースが逆転の3ラン。
8回裏、1アウト1、3塁で、西武、辻発彦が1塁側にスクイズ。
バースはダッシュし素手でつかみスローイングしホームで三塁走者を刺した。
シリーズ開幕前、
「阪神の弱点はバースの守備」
といっていた広岡達朗監督に
「あの怪物にはアメリカに帰ってもらいたいですね」
といわしめた。

10月29日、第3戦、日本シリーズは甲子園球場に舞台を移し、有料入場者数は51355人で日本シリーズ最多入場者数新記録。
スタンドのブルーの一団はレフト側スタンドの一団のみで99%が黄色。
阪神打線の打球は平凡なものでも
「ワ~ッ!」
の大歓声。
一方、西武の選手が本塁打を打っても
「シ~ン」
2回表、西武が1アウト2塁から3塁打、センター前ヒット、2ラン本塁打で4点。
3回裏、バースの3ラン(3試合連続本塁打)で阪神タイガースは1点差に追い上げる。
4回表、西武はソロ本塁打、8回にも加点し3点差と突き放した。
9回裏、途中出場の嶋田宗彦が史上初の新人初打席ソロ本塁打を放ったが、後が続かず、西武が逃げ切った。
10月30日、第4戦、甲子園は51554人を集め、昨日更新したばかりの記録を超えた。
6回表、西武は2アウトから2ランホームランで先制。
6回裏、阪神タイガースは真弓のソロで1点差。
8回裏、西武のエラーと真弓のセカンドゴロで進んだ三塁ランナーがセンターフライからタッチアップし同点。
9回表、西武が福間から2ラン本塁打を放ち勝ち越し。
西武は厳しい環境の中で西武は3、4戦と連勝し2勝2敗の五分に持っていった。
一方、阪神タイガースは本拠地での日本一胴上げの可能性が消滅。

10月31日、第5戦、甲子園は入場者51430人で3日連続日本シリーズ最多入場者数新記録を更新。
阪神タイガースは、敵地で2連勝しながら甲子園で2連敗。
一気に優勝どころか王手をかけられる可能性も出てきた。
「ええか、甲子園での最後のゲームくらい、お客さんに喜んでもらおうやないか。
ワシらはチャレンジャーや。
チャレンジャーらしく気迫と気力でぶつかるんや。
ええな」
試合前、吉田義男はハッパをかけた。
1回裏、真弓明信の内野安打、ランディ・バースの四球で1アウト1、2塁。
打席は4番、掛布雅之。
「今日のカケはいい目しとる。
いくでぇ、これは」
ベンチの川藤幸三はつぶやいた。
ここまで日本シリーズ4試合でバースが3本塁打8打点なのに比べ、掛布は3安打0打点。
チームとしても猛打でセリーグの球団を震え上がらせた打線が4試合で2ケタ安打なし。
敵に傾いた流れを取り戻すためには4番の一撃が必要だった。
西武の先発は小野和幸。
1ストライク2ボールからの4球目のストレートは真ん中へ
掛布が
「タイミングがズレて詰まったが振り切ったことが良かった」
という打球はグングン伸びて一直線にセンターバックスクリーンを直撃。
特大の先制3点弾となった。
重苦しい雰囲気を打ち破った一撃だった。
眠りから覚めたように大歓声が起こり、揺れる黄色いメガホンが揺れ紙吹雪が舞った。
この後、前日、3安打だった猛虎打線に火がつき、西武の繰り出した6投手から10安打。
守っても3回表、1アウト満塁のピンチに登板した福間が、前日に決勝2ランを打たれた西岡をショートゴロに抑え、最後は中西でゲームセット。
ロングリリーフの2番手福間が勝ち投手となった。
球団初の日本一に王手をかけた。
「やっとウチらしい攻撃ができた。
これで絶対有利になったと思う。
あと2試合あるけど次の試合で決める気で戦う」
お立ち台に立った掛布雅之は日本シリーズ突入後初めて笑った。
試合終了後、再度所沢へ向かうため、チームは伊丹空港から飛行機に乗り込んだ。
空港にも多くのファンが集まっていたが、機内にも選手と一緒に攻め上ろうとする一般人の同志が20人ほどいて、「GoGo掛布」を合唱し機内は甲子園と化した。

11月2日、第6戦、西武球場の入場者数は32371人。
1回表、2アウトからバースが四球、掛布がヒット、岡田がピッチャー返しの内野安打で満塁。
試合前、甲子園は、ライトからホームへ冷たい北風が強く吹き、
今日は、左打者はかなり不利だね」
といわれていたが、長崎啓二は逆らうようにライトスタンドに満塁本塁打を放ち4点を先制。
大阪、北陽高校からドラフトで阪神に指名された長崎啓二は、高知県生まれ、大阪府大阪市阿倍野区育ちの大のトラキチだったが、一般の職に就くことを望んでいた母親の反対を受け、法政大学経営学部へ進学。
大学野球で活躍し、卒業後、ドラフト1位で大洋ホエールズに指名されプロ入り。
そして1985年、安打製造機はトレードで阪神タイガースに入った
「阪神に移籍したとき、レフトは仙ちゃん(佐野仙好)がいましたから代打での起用が多くなることはわかっていました。
その中で、ナイターの試合がある日、朝11時くらいに球場へいくと川藤幸三さんが座ってコーヒーを飲んでいた。
これは何かあるなと思い翌日さらに早くいってみると黙々と打撃練習をしていたんです。
そこで私も早く行き一緒に練習し、そのことを若手に伝えるとみんな練習に来るようになりました。
そしていつしか控え選手たちに和ができていき、狙い球などを話し合ったりするまでになりました」
阪神タイガース1年目の長崎啓二は、サヨナラ本塁打を打ったり、自打球を当て骨折したランディ・バースの代わりを務めるなど68試合に出場し、セ・リーグ制覇に貢献。
日本シリーズでは第5戦で2ランホームラン、そして第6戦1回に勝利を決定づける満塁ホームランを放った。
「俺を必要としてくれた阪神に、恩返しができた」

1回裏、西武はソロ本塁打で1点を返したが、阪神は2回表、真弓のソロ本塁打、5回表、掛布の犠牲フライ、7回表、バースのヒット、9回表、掛布の2ランホームランで点差を広げ、ゲイルが西武打線を7安打3失点に抑え完投。
阪神タイガースが西武ライオンズにに9対3で圧勝し、日本一を決めた。
「日本シリーズは下馬評も芳しくなかったし、西武に勝てると思わなかった。
ファンの方々の声援が我々を奮い立たせてくれました。
晴天で風が強い日でした。
3勝2敗で敵地に乗り込んだ第6戦は初回2死満塁で長崎(慶一)が逆風の中で満塁ホームランを放って一方的に勝つんです。
デーゲームの試合後は夕日が差し込んだ。
わたしの指示でトレーナーをはじめ裏方ら、すべてに招集をかけたんです。
「一丸」「挑戦」「当たり前のことを当たり前にやれ」とうるさくいい続けた。
選手は“また監督いうとるで”といった感じだが、最後は信頼関係につながったと思います。
だから全員集合で写真を撮りたかった。
日本一で慰安旅行の話になった際、フロントと2軍は沖縄というので、それは違うといいました。
お金の出し方は別にして、全員でハワイに行った。
ファンも含めて飛行機7機ぐらいで9泊10日の大名旅行ですわ」
(吉田義男)
セ・リーグ新記録となる219本塁打などの猛打が注目されたが、犠打もセ・リーグ新記録。
完投できる投手が少ないので細かな継投を駆使。
豪快さと手堅さを併せ持った采配で正力松太郎賞を受賞した。
「あとで正力亨(巨人オーナー)さんとゴルフでご一緒したときに「こんな前例作ってもらっては困るやないか」と叱られましたわ。
正力賞の賞金500万円は選手会に配った。
自分がもらったんではないですから。
逆転勝ちも多かったので、こっちは苦しいけどファンは喜んでくれた。
阪神フィーバーは社会現象にもなったんです。
わたしの天国でしたわ」

「毎日ファンに夢をみさせた大変な人。
人間はライバルがいないと進歩しない。
吉田さんには大変感謝しています」
日本シリーズ終了6日後、広岡達朗が監督退任を発表。
知らせを聞いた西武の選手たちは大きな歓声を上げた。
それは厳しい管理野球から解放される喜びだったが、この中から、東尾修、石毛宏典、伊東勤、秋山幸二、渡辺久信、田辺徳雄、大久保博元、工藤公康、森繁和、辻発彦など10人が後に監督となり、多かれ少なかれ「広岡野球」を継承している。
Curse of the Colonel カーネル・サンダースの呪い

1986年、前年の日本一チームは、開幕戦で3連敗。
その後、掛布雅之がデッドボールで右手首骨折、エース格の池田親興も踵を骨折するなど故障者が続出。
唯一、バースだけが好調をキープし2年連続3冠王となった。
チームは夏頃まで巨人、広島と首位を争ったが脱落して3位でシーズンを終えた。
1987年、開幕前に掛布、バースが相次いで交通違反。
4月後半に7連敗を喫し最下位に転落。
6月、掛布が腰痛で2軍落ち。
チーム打率.242の打線で最下位を独走。
最終的に4年ぶりにリーグ優勝した巨人に37.5ゲーム、5位の大洋にも15ゲーム離され、球団ワーストの勝率.331で9年ぶりの最下位に終わった。
阪神タイガースは、2年前の優勝が嘘のように低迷にあえいだ。
シーズン中、バースが雑誌のインタビューで吉田義男監督批判を行い、打撃コーチ補佐の竹之内雅史も吉田義男と采配などで対立し退団するなどチームの雰囲気は悪かった。
試合終了後、ロッカールームから出たときに向けられたカメラのフラッシュに嫌気がさした吉田義男は
「傘さしたろか?」
とつぶやいたが、翌日のスポーツ紙には
「傘刺したろか?」
と報道された。
シーズン終了後、吉田義男の退任と村山実の就任に決まると「祝」という見出しを付けた在阪のスポーツ紙もあった。
まるで21年ぶりに優勝に導いた功績がなかったような扱いだったが、球団は退任にあたり吉田義男の背番号を、藤村富美男、村山実に次いで3人目の永久欠番に指定した。
吉田義男は
「天国(優勝)と地獄(最下位)を体験した」
と「天地会」という親睦会をつくった。

このように1985年以降、阪神タイガースは、急激に弱体化し、冬眠しないはずの虎が穴にこもるように暗黒期を迎えた。
その原因は、優勝時に胴上げされた末、道頓堀川に投げ込まれたカーネル・サンダース像の呪いではないかと囁かれ始め、一部のファンは像が回収されるまで優勝は無理だと信じた。
1988年3月、ABCテレビの「探偵!ナイトスクープ」は、初回放送で「道頓堀に沈んだカーネル・サンダースを救え!」を企画。
槍魔栗三助(やりまくり さんすけ)探偵が、街で広まる「カーネル・サンダースの呪い」の伝説を追い、像を探し出し呪いを解こうとした。
翌4月も、このネタを2回放送し、計3回中2回、ダイバーが川に潜り1m²ずつ移動しながら数十m²にわたり川底をしらみつぶしに捜したが発見できなかった。
以後、呪いはより定着し、サンダース像は、阪神ファンの集いに貸し出されたり、ハッピを着せられたりした。

2002年6月24日、サッカーFIFAワールドカップ日韓大会、日本vsチュニジア戦が大阪の長居スタジアムで行われ、2対0で日本が初めて決勝トーナメント進出を決めた。
例によって大阪ミナミの戎橋は人で埋め尽くされお祭り騒ぎとなった。
そしてサッカー日本代表のユニフォームを着たサポーターが笑顔で道頓堀川に落ちていった。

2003年7月、阪神が首位を独走する中、大阪府知事:太田房江は
「マジックを順調に減らしている阪神と今回の清掃が無関係とはいわないが、大阪への注目度を上げるためきれいにしたい」
とし
「飛び込み奨励ではない」
とクギをさしつつ、ボート上から網でゴミをすくうなど道頓堀川の清掃作業を行った。
道頓堀川は、川側面に歩道を設ける工事が実施中で、橋には川は汚染が深刻であるため飛び込みを止めるようにと警告する看板が掲げられた。
その水からは100mmℓ当たり18000個以上の大腸菌が検出され、海水浴場の「不適」基準の18倍以上という調査結果が出ていた。
「一般細菌の数は1mmℓに660個。
なかなかハッキリとした例は難しいですが、例えばトイレの便器には10cm²あたり83個、便座には50個の一般細菌があるんです。
だから、飛び込むということは、便器に顔をなすりつけているようなものですね。」
(日本分析化学専門学校の報告)
同校副校長の佐藤智子氏
9月15日、阪神タイガースのセリーグの優勝が決まるかもしれないこの日、道頓堀川の戎橋には機動隊などの警察官300人が配置された。
それでも14時半、試合開始30分後、1人目が阪神勝利を確信しフライングダイブ。
星野仙一監督率いる阪神タイガースがリーグ優勝を決めると
「危険だからやめなさい!」
という警察の制止にも耳を貸さず、
「優勝!」
「最高!」
「飛び込まずにいられまっか」
と16日未明までに延べ5300人を超えるファンが道頓堀川に飛び込み、18年分のうっぷんを晴らした。
パリのセーヌ川のアルマ橋から川に飛び込んだり、ロンドンのトラファルガー広場で噴水に飛び込んだファンもいた。
ダイブ後は、体や服から異臭を放ち、タクシーにも乗れず銭湯にも入らせてもらえない上、2人が頭に軽傷、3人が救急車で搬送された。
2009年3月10日、道頓堀川の新戎橋(しんえびすばし)の下流約5m水深2mのヘドロの中からカーネル・サンダースの上半身が、翌日には下半身と右手が発見され、24年を経て救出された。
