足をもつれさせながら必死に立ち上がろうとするトレバー・バービックの姿は、「宇宙遊泳」といわれた。
マイク・タイソンの一瞬で勝負をつける、まるでショーのような戦慄のKOシーンに人々は興奮した。
この試合でもカーク・ダグラス、エディ・マーフィ、シルヴェスター・スタローンがリングサイドにいたが、マイク・タイソンの試合には多くの著名人がかけつけた。
マイク・タイソンは特別な存在だった。
ヘビー級の中では小柄なマイク・タイソンがKOの山を築き上げていく姿はアメリカンドリームそのもので、一種の社会現象となった。
「バービックはとても強かった。
自分と同じくらい強いとは全然思っていなかったけど・・・俺の打ったすべてのパンチには相手を破壊しようとする悪意が込められていた。
永遠に王者でい続けたい。
負けるくらいなら死んだほうがマシだ。
俺は相手を破壊するために、世界ヘビー級選手権を奪い取るためにやってきて、それを成し遂げた。
この試合を偉大な守護者カス・ダマトに捧げたい。
きっと彼は天国から見ていて、過去のいろんな名ボクサーたちと話をして、自分の息子を自慢しているだろう。
変わり者だったけど間違いなく天才だった。
彼がこうなるとずっと言い続けてきたことが現実になったんだ。
次の対戦相手?
誰でもかまわない。
偉大な選手になるには誰とでも戦わなくちゃいけない。
誰とでも戦ってやる」
マイク・タイソンは、その晩はずっとベルトを外さなかった。
腰に巻いたままホテルのロビーを歩き、ラスベガスのヒルトンホテルの向かいのバーでの祝勝会でも巻いたままだった。
一同は一晩中、飲み明かしたが、ウォッカでしたたかに酔ったマイク・タイソンは、夜更けにいろんな女の子たちの家を回ってチャンピオンベルトをみせた。
「セックスはしていない。
しばらく一緒に過ごして出ていって、他の女の子に電話して、その子の家に行って一緒に過ごした」
早朝、ホテルの部屋に戻ったときもベルトを腰に巻いたままだった。
マイク・タイソンがWBC世界ヘビー級チャンピオンになった同年(1986年)の7月12日、クルーザー級で11連勝した24歳のイベンダー・ホリフィールドがWBA世界クルーザー級チャンピオン、ベテランのドワイト・ムハマド・カウイに挑戦。
1Rは的確なパンチを当てて優勢だったが、その後は距離を詰められ苦戦。
10R終了時にはドワイト・ムハマド・カウイ優勢だった。
11Rは未体験だったがイベンダー・ホリフィールドの熱い闘志は尽きなかった。
「この試合で7㎏減った。
腎臓を傷めたようだが死ななきゃいいと思ってた」
両者はガッツむき出しで15Rを戦い抜き、イベンダー・ホリフィールドがドワイト・ムハマド・カウィに判定勝ちしWBA世界クルーザー級チャンピオンになった
「死なずに最後まで戦い抜き褒美にベルトをもらった」
バーナード・ホプキンスは、トレバー・バービック vs マイク・タイソン戦を刑務所の中でみた。
「俺なら倒せる」
その後、17歳で入った刑務所を23歳で仮出所したが、そのとき看守に予言された。
「半年で戻ってくる」
「いいや、2度とここには戻って来ない」
バーナード・ホプキンスは、そういって厚生施設に入った。
実際、多くの者はまた刑務所の戻った。
例えば、ニューヨーク州の刑務所には、理容師の訓練プログラムがあり、服役期中だけでなく出所後も使える技術が学べるが、犯罪歴があると理容師免許は取得できない。
10代後半を刑務所で過ごし、仕事もスキルもないまま、いきなり社会に放り出され、地元に戻り、近所の同年代や若者が新車を乗り回すのをみると自分が情けなくなる。
そして昔の仲間とつき合えば、ドラッグなどに接近し、悪い生活に戻る可能性は高い。
「結局、誰も助けてくれないし、自分で自分の環境を変える必要があった」
バーナード・ホプキンスは、ボクシングを仕事にしようと決意。
すべてを賭けられるのはボクシングしかなかった。
そして元に戻るまいと、麻薬、アルコール、ジャンクフードを断ち、地元のフィラデルフィアのホテルのキッチンで鍋やフライパンを洗ったり、屋根掃除の仕事をしながら、練習とトレーニングをを続け、仮釈放期間を無事に過ごし、その後、トレーナーのブイエ・フィッシャーが所有する自動変速機の修理店で働いた。
1987年3月7日、WBC世界ヘビー級チャンピオン、マイク・タイソンは2つ目のタイトルを獲りにいった。
試合開始のゴングと同時にWBA世界ヘビー級チャンピオン、ジェームス・スミスは足を使って、マイク・タイソンが懐に入るとクリンチでかわすという展開になった。
ファンの期待は何ラウンドでKOするかだったが、結局マイク・タイソンは倒せず判定勝ちし、WBC、WBA統一世界ヘビー級チャンピオンとなった。
マイク・タイソンは無類の女好きで、多いときには一晩で24人もの女性と寝たというがトレバー・バービック戦やジェームス・スミス戦は淋病の治療中だった。
1987年5月15日、WBA世界クルーザー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールドがIBF世界クルーザー級チャンピオン、リッキー・バーキーを3R KO。
WBA、IBF統一世界クルーザー級チャンピオンとなった。
1987年8月1日、WBC、WBA統一世界ヘビー級チャンピオン、マイク・タイソンがIBF世界ヘビー級チャンピオン、トニー・タッカーと対戦。
3Rまではトニー・タッカー優勢だったが、それからマイク・タイソンの猛攻が始まり大差の判定でマイク・タイソンが勝ち、WBC、WBA、IBF統一世界ヘビー級チャンピオンとなり、世界最強の男となった。
モハメド・アリ以降、低迷していたボクシング人気はマイク・タイソンによって再び火がついた。
モハメド・アリとマイク・タイソンは、共に偉大なボクサーとして名声と富を得たが、ボクシングスタイルは典型的なアウトボクサーとインファイターで異なる。
またモハメド・アリは人格者だったが、マイク・タイソンはそうではなかった。
モハメッド・アリは、ローマオリンピックで、アメリカ代表としてライトヘビー級の金メダルを獲ったにもかかわらず、白人専用レストランで
「ニガーに出す料理はない」
と入店を拒否され、
「こんなもの何の役にも立たない」
とメダルを川に投げ捨てた。
プロになると史上初めて対戦相手を挑発するコメントやパフォーマンスを行い、技術的にもヘビー級ボクシングに改革を起こし、ベトナム戦争の徴兵を拒否し世界ヘビー級チャンピオンのタイトルを剥奪されても屈っせず、アメリカの黒人差別(人種差別)とも戦い、全盛期を政府の奪われた後、世界ヘビー級チャンピオンに返り咲き、合計3度、世界ヘビー級チャンピオンになった唯一無二の存在だった。
それに対しマイク・タイソンは、セレブ的な生活をを嗜好し、これみよがしに浪費し、誇示した。
朝から夜までストイックに練習し、夜になると女と格闘。
飽きてくると別の女の家に向かい、2~3人ハシゴした挙げ句、夜更けに部屋に帰って、また別の女を電話で呼び出して、一緒に過ごした。
「もうやりたい放題やった。
ヴェガスのホテルの部屋に女を10人はべらせたこともあった。記者会見に出るときに1人だけ連れていって、残りは会見が終わったときのために部屋に置いてきた。
裸になってチャンピオンベルトを巻いてセックスしたこともあった。
その気のある相手がいるかぎりはやりたかった。
滑稽な話だが、全員を満足させようとしたんだ。
そんなことは不可能なのに。相手は頭のネジがぶっ飛んだやつらだしな。
しばらくすると、アメリカ中の女で住所録が埋まった。
ヴェガスの女、ロサンジェルスの女、フロリダの女、デトロイトの女。
まったく、何をやってたんだ
若造がカネを握ると、こんなろくでもないことしかやらないものさ」
女性関係は乱れに乱れたが、中には世界的なスーパーモデルもいた。
「ジェット機で世界を飛びまわって王族との晩餐会に出るようなファッション界の重鎮たちの集まりでのことだ。
当時はあるモデルと付き合っていたんだが、ある友人はカネをめぐってその女に腹を立てていた。
『マイク、あいつのことは忘れろ。
たぶん世界でいちばんきれいな女と付き合わせてやるから。
まだ10代だが、すぐにトップモデルになる。
今のうちにツバをつけておけ
2、3年はコッソリつき合えるぞ』
そういってそのとびきりの女が出席するパーティに招待してくれた。
会場は5番街の豪奢なマンションだ。
手持ち無沙汰にしていると、その友人ががそのモデルを連れてきて、俺と引き合わせた。
友人がのいっていた通りの女で、その上、ビックリするほど綺麗なイギリス英語を話すんだ。
業界のトップに立つであろうことは、ひと目みればわかった。
話を始めると彼女は俺のことを知っていて興味があるみたいだった。
電話番号を交換し、翌日、彼女のくれたメモをみた。
電話番号と一緒に”ナオミ・キャンベル”という名前が書き添えられていた。
驚くべきことに、俺たちはつき合い始めたんだ。
彼女は情熱的で性的な好奇心も旺盛だった。
2人にはいろんな共通点があった。
彼女も片親に育てられていた。
彼女の母親は必死に働いて、娘をイギリスの私立学校に通わせられるだけカネを貯めたそうだ。
少女時代、ナオミはずっと特別扱いされていた。
ナオミとは喧嘩もよくやった。
俺はしょっちゅうほかの女たちと遊び、彼女はそれが気に入らなかったんだ。
互いに夢中ってわけじゃなかったが彼女とは一緒にいてすごく居心地がよかった。
また彼女はすごく仕事熱心で、意志の固い人間だった。
俺が喧嘩に巻き込まれたときも、彼女は俺のそばを離れず戦うことを恐れない。
俺のことで誰にもとやかくいわせなかった。
若くして自力で道を切り開こうとしていた2人だ。
あの頃の俺たちは人生について何も知らなかった。
少なくとも俺は知らなかった。
しかし彼女は数年で世界のトップに立ち誰も太刀打ちできなくなった。
地球上のどんな男でも手に入っただろう。
彼女の存在は強烈すぎた。
男は屈するしかない。
ところが、俺は1人の女に落ち着く気がなかった。
だから気軽にセックスできる女たちを抱えた上に、シュゼット・チャールズとも付き合い始めたんだ。
シュゼットは準ミス・アメリカだったが、ミスに選ばれたヴァネッサ・ウィリアムスが『ペントハウス』誌にヌード写真を掲載されてタイトルを返上し繰り上がりでミス・アメリカと認められていた。
すごくいい子だったよ。
大人だったし、俺より2~3歳年上だった。
これだけの女と付き合えたというのに、どうして俺は女をとっかえひっかえしていたんだろう?
今じゃ想像もできない」
1988年1月22日、マイク・タイソンはモハメド・アリが引退後、1970年代後半から1980年代に長期政権を築いた名チャンピオン、ラリー・ホームズを4R KO。
1988年2月7日、マイク・タイソンが女優のロビン・ギブンスと結婚。
1986年3月にTVでロビン・ギブンスをみて気に入ったマイク・タイソンが強引に会ったのが始まりだった。
ロビン・ギブンスはマイク・タイソンと同じニューヨーク出身のアフリカ系アメリカ人で年齢は2歳上。
10歳でアメリカンドラマティックアーツアカデミー(AADA、ハーバード大学教授のフランクリン サージェントにより創設された演劇学校)に入学し、15歳でサラ・ローレンス大学に飛び級入学した才女だった。
マイク・タイソンはロビン・ギブンスに
「妊娠した」
といわれ結婚。
「美女と野獣夫婦」といわれた。
1988年2月17日、マイク・タイソンが、バブル景気の真っ只中の日本に降り立った。
この試合、ドン・キングは、殺人の前科が問題となって試合直前になるまで入国できなかった。
まだ海外のボクシングをTVで観ることなど不可能な時代。
「世界で1番強いのはどんな男だろう?」
と想像を膨らませていたファンは熱狂した。
東京ドームのこけら落としとして開催される「WBA、WBC公認世界ヘビー級タイトルマッチ In Big Egg、マイク・タイソンvsトニー・タッブス」の10万円のリングサイドチケットは発売から3日で売り切れた。
マイク・タイソンは、ホテルニューオータニの1泊15万円するジュニアスイートルームでは全裸で過ごし、世界一物価の高い東京で1個8000円のメロンや1粒2000円のサクランボを含め食べたいものを食べたいだけ食べた。
部屋には多くの女性が出入りし、性欲も、満たしたいときに満たした。
早朝4時からのロードワークを行い、ジムワークは、スピードや技術もすごいが、220ポンド(100㎏)の筋肉の塊がムチのようにしなり襲いかかる姿は、殴りたいから殴るという感じで殺人本能を持った獣のようだった。
一方、相撲部屋に連れて行ったり、著名人に会ったり、パチンコを打ったりしてテレビのロケやマスコミの取材にも協力。
浅草寺に行ったとき、ファンをかき分けながら境内へと進むと、たくさんの鳩がいた。
マイク・タイソンは足元にいた一羽をサッと捕まえ、優しい顔でソッとそっと撫でた。
1988年3月21日、試合当日、東京ドームに集まった観衆は51000人。
マイク・タイソンは、激しく上体を振りながらジグザグな軌道でタップスの懐に飛びんでボディに右フック。
前屈みになったトニー・タップスに右アッパー。
体が反ってかわすトニー・タップスに、右ボディフック、右フック顔面、右アッパー顔面。
トニー・タップスはなにもできずに倒れ、マイク・タイソンが 2R KO勝ち。
354秒の試合にために買った高額チケットはまるで馬券のようだった。
このときアメリカでは、カス・ダマト亡き後、チーム・タイソンを牽引していたジム・ジェイコブスが白血病で亡くなっていた(58歳)
1988年4月9日、WBA、IBF統一世界クルーザー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールドがWBC世界クルーザー級チャンピオン、、カルロス・デ・レオンに8R TKO勝ち。
WBC、WBA、IBF統一世界クルーザー級チャンピオンとなった。
この後、ヘビー級への野望をあらわにしてクルーザー級のタイトルを無敗のまま返上。
スピード、パワー、スタミナ、1階級上げるために科学的なトレーニングを導入し徹底的に鍛えた。
そして
「いつかはやることになる」
とマイク・タイソンの試合を全部、注意深くみて研究し
「やれば厳しい試合になるだろう」
と思った。
1988年5月、いつまでたってもお腹が大きくならないことに変だと思っていたマイク・タイソンが聞いてみるとロビン・ギブンスは
「流産した」
といった。
以後、関係が悪化。
財産目当ての結婚だった疑いが強まった。
1988年6月27日、マイク・タイソンがマイケル・スピンクスと対戦。
マイケル・スピンクスは、モンタナ州セントルイスの悪名高いゲットー、プルーイット・アイゴー出身。
モントリオールオリンピックで兄弟揃って金メダルを獲得したレオンとマイケルはプロでも兄弟チャンピオンとなったが、ヘビー級での兄弟チャンピオンは史上初にして唯一である。
77年プロ入りしたマイケル・スピンクスは順調に勝ち進むが、翌年、兄レオンが世紀の番狂わせでモハメド・アリを破り、その世話をするのに忙しかったため、10ヶ月のブランクをつくった。
レオンが王座転落後、復帰し、自分ボクシング生活に専念し、WBAライトヘビー級チャンオンになった。
WBCライトヘビー級チャンピオン、ドワイト・カウイを判定で下して王座を統一し、タイトルを10度防衛するなど、ライトヘビー級ではスピンクス・ジンクスといわれた右ストレートで無敵を誇り、ヘビー級転向後も48連勝中のラリー・ホームズに挑戦し判定勝ちし、IBFヘビー級世界チャンピオンとなった。
マイク・タイソン、34戦全勝30KO。
スピンクス、31戦全勝21KO。
無敗同士の最強決定戦ということもあり
「OneceAndForAll」
というコピーがつけられ、当時のイベント記録をことごとく塗り替えたビッグマッチとなった。
開始からエンジン全開で飛び出たマイク・タイソンに対して、スピンクスは足を使ってロープづたいに動く格好となった。
1R1分経過、マイク・タイソンの右がスピンクスのボディにめり込むとマイケル・スピンクスはあっけなくダウン。
再開直後、無謀にも前に出ていくマイケル・スピンクスの顎をマイク・タイソンのアッパーが直撃。
リングに沈みロープを頼って立ち上がろうとするが身動きできず、マイケル・スピンクスは、そのまま10カウン トを聞いた。
試合開始からたったの91秒。
1RKO負けを喫したマイケル・スピンクスは引退した。
22歳のマイク・タイソンの報酬は2200万ドル(約30億円)だったが、試合前、マイク・タイソンとビル・ケイトンは報酬の配分で揉めた。
ビル・ケイトンは1/3(約10億円)を要求。
「私はデビューから君の面倒をみてきた。
マネージャー料として1/3を受け取るのは当然の権利だ!!」
「リングで戦うのは俺だ。
それは取り過ぎだ!!」
結局、マイク・タイソンの言い分が通ったが、試合後、ビル・ケイトンは解雇された。
さらに我がままで怠惰になりがちなマイク・タイソンを叱り励まし続けたトレーナーのケビン・ルーニーも方針面の相違から解雇された。
こうしてカス・ダマトが遺したチーム・タイソンは崩壊。
マイク・タイソンは、新トレーナーとして当時、まだ経験が浅かったアーロン・スノーウェル、新マネージャーとして、なんとドン・キングと契約した。
ジム・ジェイコブス、ビル・ケイトン、ケビン・ルーニー、マイク・タイソンは、カス・ダマトを父とする家族だった。
カス・ダマトの死後も一緒だった3人から離れたマイク・タイソンは急激に乱れ始めた。
ドン・キングは、カス・ダマトが生前、
「絶対に組んではいけないプロモーター」
と嫌っていた男だった。
ドン・キングはロビン・ギブンスを通じてマイク・タイソンに接近したといわれているが、同じゲットー出身という共感性、ヘビー級のトップボクサーの多くがドン・キングの契約下にあり試合が組みやすいという点、また金脈を大事に扱うドン・キングの待遇は破格だった。
儲けられなくなるなればゴミのように捨てるのは目にみえていたが、そんなプロフェッショナル同士のドライな関係は、アスリートにとってはある意味好ましいものかもしれない。
ドン・キングは、多くのトップボクサーと契約を結び、ビックマッチ、統一トーナメント、8大タイトルマッチなどを手がけるやり手と評価される一方、マフィアと繋がり、不正行為、ファイトマネーの搾取、契約違反、金銭トラブルなど悪評も併せ持つプロモーターだった。
ゲットーで育ち、地元の中学と高校を経てケース・ウェスタン・リザーブ大学に進学。
大学中退後、合法、非合法を問わず様々な職を経験し、違法賭博場を開き胴元となり、違法賭博や交通違反などで35回もの逮捕歴を重ね、賭博場に盗みに入ったとされる男を背後から射殺。
この1人目は正当殺人と見なされたが、その後、600ドルを貸していた賭博場の元従業員を踏み殺した。
脅迫や賄賂のせいか目撃者の多くが証言を変えたが、現場を目撃していた巡査が
「キングの横で拳銃を持った男が見守っていた」
「元従業員の男の頭が地面にゴムマリのようにはねるほど頭を強く踏みつけていた」
と証言。
ドン・キングは、、第2級殺人罪で懲役20年の有罪判決を受け、仮釈放されるまで3年11ヶ月を刑務所で過ごした。
出所後、地元に戻り、自宅ベッドへ横たわっていると突如髪の毛が1本ずつ逆立ち始め
「神の啓示を受けた」
「神の啓示以来、髪の毛を切ったりセットしたりしたことはなく、触れることもない」
というドン・キングは、経営危機に陥っていた病院のためにボクシングのチャリティー大会を企画。
モハメド・アリに交渉し、エキシビジョンマッチに出場させ、8万ドルを黒字を出した。
ラリー・ホームズのマネージャー、ドン・バトラーを口説いて共同マネージャーになったり
(2年後には仲たがいしたバトラーから告訴された)
アフリカのザイール(現:コンゴ)の・キンシャサで、モハメド・アリ vs ジョージ・フォアマン戦をプロモート。
圧倒的不利とみられていたモハメド・アリの劇的なノックアウト勝利は「キンシャサの奇跡」と呼ばれた。
フィリピンのマニラでのモハメド・アリ vs ジョー・フレージャー戦、「スリラ・イン・マニラ」もプロモート。
シュガー・レイ・レナード vs ロベルト・デュラン戦で、シュガー・レイ・レナードに1000万ドルを支払った。
輝きが強い分、その闇は深かった。
モハメド・アリは、ラリー・ホームズ戦のファイトマネーのうち110万ドルが未払いだとしてドン・キングを告訴しようとした。
ドン・キングは、モハメド・アリの旧友、エレミヤ・シャバスに5万ドルが入ったスーツケースと書類を渡し、入院中のモハメド・アリにサインをもらって来るよう頼んだ。
病気を患い金が必要だったモハメド・アリは5万ドルを受け取り、告訴を取り下げるだけでなくモハメド・アリのプロモート権をキングに与えると書かれた文書にもサインをしてしまった。
モハメド・アリの弁護士は、なんの相談もなくたった5万ドルのために訴訟を取り下げてしまったことに涙した。
ラリー・ホームズは、
・ドン・キングが陰のマネージャーとしてファイトマネーの25%を搾取していた上に
・ケン・ノートン戦では契約は50万ドルだったが受け取ったのは15万ドル、アーニー・シェイバース戦の契約は20万ドルだったが受け取ったのは5万ドル、その他、モハメド・アリ戦では200万ドル、テクス・カッブ戦では70万ドル、レオン・スピンクス戦では25万ドル低く支払われ、
・ゲーリー・クーニー戦は200万〜300万ドルが未払い
と合計1000万ドルを騙し取られたとドン・キングを告訴。
ドン・キングは、示談金15万ドルを払い、今後、自身についてネガティブな情報を公表しない事に合意させた。
「俺がボクシングで犯した唯一のミスはキングと契約したことだ。
俺はあいつの中に悪魔をみた。
あいつがあんな変な髪型をしてるのは角を隠すためだ。
あいつから離れようとすると足をヘシ折ってやるとかいって脅されたよ」
(ラリー・ホームズ)
ティム・ウィザスプーンは、ドン・キングから独占契約を結ばなければボクシング界から追放すると脅され、弁護士の同席を許されないまま4枚の"奴隷契約書"に署名をした。
1枚目は、ドン・キングを独占プロモーターとする契約書。
2枚目は、“表向きの偽物の”契約書で、キングの継息子カール・キングをマネージャーに迎え33%の報酬を支払うとした契約書。
3枚目は、”本当の”契約書でカール・キングをマネージャーに迎え、ほとんどのボクシング・コミッションが定めた上限を超える50%の報酬を支払うとした契約書。
4枚目は、完全に白紙の契約書だった。
ラリー・ホームズ戦の契約は15万ドルだったが、カール・キングが報酬50%とWBCの認可手数料を天引きし、ティム・ウィザスプーンが受け取ったのは5万2750ドル。
グレグ・ペイジ戦は25万ドルだったが、トレーニング経費、スパーリングパートナー代、キングの家族と友人達の飛行機チケット代と試合観戦チケット代を天引きされ、受け取ったのは4万4460ドル。
明記されていたトレーニング費10万ドルは支払われなかったばかりか、モハメド・アリが無料で使ってよいといってくれたジーアレイクのキャンプ地の代わりに、オハイオ州のドン・キング所有のキャンプ地を使うことを強制され、利用料として1日150ドルを徴収された。
この試合でもカール・キングは50%の報酬を受け取ったが、ドン・キング・プロモーションズは33%しか受け取っていないと虚偽の報告をした。
フランク・ブルーノ戦では50万ドルを受け取ることになっていたが、ティム・ウィザスプーンが受け取ったのは9万ドルだった。
(ティム・ウィザスプーンは、ドン・キングに対し2500万ドルの損害賠償訴訟を起こし最終的に示談金100万ドルを手にした)
ドン・キングは、マネージャーやボクサーから100件以上の訴訟を起こされ、裁判費用として3000万ドル以上を費やしたといわれる。
その他にも、選手の戦績改ざん、八百長試合、ランキングの売買、不正操作でFBIから捜査を受けたり、脱税容疑や保険金詐欺など9つの容疑で起訴されたが、すべて無罪となった。
1988年7月16日、イベンダー・ホリフィールドがヘビー級で初試合を行い、ジェームス・ティルスを的確なコンビネーションとフックで6R TKO。
10ポンド(4.54 kg)ほどの増量だったため、まだヘビー級としては小柄だったが、クルーザー級時代の硬質でキレのあるパンチとコンビネーション、スピード、回転力は落ちていなかった。
1988年8月、マイク・タイソンは、以前に対戦した(プロ21戦目、判定勝ち)ミッチ・グリーンと路上でストリートファイトし右手を骨折。
1988年9月、マイク・タイソンは、運転していた車を自宅の木に激突させ病院へ担ぎ込まれた。
1988年10月11日、23歳のバーナード・ホプキンスがライトヘビー級でデビューしたが、いきなり負けた。
落胆した彼は1年以上リングへは上がらず、16ヵ月後の2戦目以降は、ミドル級で試合経験を重ねた。
同時期、ロビン・ギブンスはマイク・タイソンと一緒に出演したインタビュー番組で
「マイクは感情をコントロールできないの。
躁鬱病だから本当に怖い。
怒鳴られ、体を激しく揺さぶられ、押し倒されそうになったり」
と激白し世間に大きな衝撃を与えたが、怒ったマイク・タイソンは自宅で大暴れ。
その後、ロビン・ギブンスがDVを理由に離婚を申請し2人は別居。
離婚協議してる間もマイク・タイソンは
「毎日彼女の家にセックスをしに行ってた」
が、ある日、ロビン・ギブンスがブラッド・ピットがいるところに遭遇した。
「ヤッてる現場を押さえたわけじゃないんだよ。
最中じゃないんだ。
ヤる直前だったんだよ。
離婚弁護士のところに行く前に妻と一発ヤろうと思って家に戻ったんだよ。
オレたちが住んでいた家だしさ。
みんな、離婚前にヤるだろ?
だってまだ正式には離婚してないんだしほかに付き合ってる人がいないんだから溜まった時には家に戻ってセックスするだろ?
まぁ、そういうわけで家に着いたんだけど、誰もいなくて静かなんだ。
そしたらBMWが滑り込んできたんだよ。
すぐに彼女の車だとわかった。
オレが買ってあげたBMWだからね。
助手席に誰かが乗っていて彼女が女友達を連れて来たんだなって思った。
でも違った。
男だったんだ。
激怒したよ。
嫉妬したしね。
今でも少し嫉妬してるくらいだ。
オレをみた彼女はビックリして、『マイク!』って叫んだ。
ヤツはさ、オレをみずに『チィ~ッス』って。
神に助けを求める気分だったね。
これがオレとブラッドとの最初の出会い。
ヤツは真っ青な顔で『お願いだから殴らないでくれ、台本の読み合わせをしていただけなんだよ』って必死に弁解した。
ロビンは、ブラッドが半殺しの目に遭うとおびえていたがオレは殴ろうなんて思っていなかった」
TVシリーズ「Head of the Class」でロビン・ギブンスと共演し、当時、まだほとんど無名のブラッド・ピッドは、彼女と離婚前から90年代前半まで交際した。
マイク・タイソンは、トレーニングでも集中力を欠き、フランク・ブルーノ(イギリス)戦は延期を繰り返し、あれだけ頻繁にリングに上がり続けていたマイク・タイソンが初めてブランクをつくった。
「マイクは至上最高のヘビー級ボクサーとして勝ち続ける事が出来ただろう。
100戦100勝だって可能だった。
だがマイクは自分自身を最低な連中で取り囲み、連中がマイクの金を使って毎日パーティしてたんだ。
マイクは巨額の金を手に入れていたが、それはジミーとビルのお陰だ。
彼等がマイケル・スピンクス戦で2千万ドル(22億円以上)という当時至上最高のファイトマネーをマイクに提供するよう話を決めたんだ。
日本でトニー・タブ戦のときは10億円をマイクに提供している。
またマイクは日本でTVコマーシャル出演で、何億円も稼いだ。
その後マイクはロビン・ギブンズと結婚するがドン・キングがやってきてマイクをかっさらって行ったんだ。
でもマイクには「カスはこんな事教えてくれなかった!」なんてことはいわせないぞ。
甘ったれちゃイカン!
マイクには最高のチームがついてたんだ!
自分が最高から最低に転落したからってナイーブに犠牲者ぶっちゃイカン!
それはマイク自身が悪いんであって、すべてマイク自身の責任だ!
マイクは自分自身も傷付けたし、俺やビルを裏切ってドン・キングのところへいってしまった。
でもマイクはキングにひどい目にあった。
マイクは自分をトップに連れて行ってくれた人達と一緒に居るべきだったんだよ。
でもキングを選び、しくじった。
散々キングに絞り取られたがマイクはもう少し相手を選ぶべきだったな」
(ケビン・ルーニ)
1989年2月14日、マイク・タイソンとロビン・ギブンスの離婚が確定。
結局、1年持たずのスピード離婚でマイク・タイソンは、500万ド(約5億7,000万円)の家と1000万ドル(約11億円)を渡すハメになった。
ロビン・ギブンスは
「金目当てに結婚した悪女」
「白人のイケメンの方がいいわけ!」
「史上最高のビッチ!」
「アメリカで最も嫌われた女性」
と大バッシングを受けて仕事が激減した。
1989年2月25日、8ヵ月ぶりにリングに上がったマイク・タイソンは、開始早々、フランク・ブルーノからダウンを奪ったが、1R終盤、不用意に右フックを大振りしたところに右をもらって一瞬腰が落ちた。
5R、左ボディーから右アッパー連打でフランク・ブルーノを棒立ちにさせ、レフリーに試合をストップさせた。
しかし全体的にフランク・ブルーノを攻めあぐねる展開が続き、スピードや爆発力に欠け、ボクシングが緩慢で雑だった。
「カスが教えたものは何もかも失われていた。
左右への動き、コンビネーション、タイミング、忍耐、最も基本的な左ジャブ・・・
そして、カス・ダマトと深い繋がりのあったコーナーマン達もそこにはいなかった・・・」
(ホセ・トーレス、元ライトヘビー級世界チャンピオン、カス・ダマト門下としてマイク・タイソンの兄弟子に当たる)
「マイクは俺から離れてから頭を動かさなくなった。
マイクについたトレーナーは、俺がやった「マイクの心の中からものをみる」ということをやっていない。
俺は伝説のトレーナーであるカスにコーチを受けたトレーナーだ。
だからマイクは俺のいうことを信じて疑わなかった。
一般の人は何も知らないが偉大なるファイターになるには継続なる自己戒律(忍耐)と反復が必要だ。
ボクシングとは80%が精神的なもので残りの20%程度が肉体の要因となる。
だから誰でもエクササイズで引き締まった体を得られてもチャンプにはなれないんだ。
マイクが雇ったトレーナー達は何もわかっちゃいない。
マイクは俺に対しては絶対バカなマネはできなかった。
特にボクシングのスタイルとテクニックにかけてはマイクは一切口答えしなかった。
マイクに雇われたトレーナー連中はマイクに何をいうべきかわからなかったんだよ。
俺はマイクをコーチするようになって「頭を動かせ!」というのが口癖になったよ。
でもそれをマイクにいうのは誰にでもできるわけじゃないんだ」
(ケビン・ルーニー)
1989年7月21日、マイク・タイソンは長身でジャブの巧いカール・ウィリアムズを左フック一撃で沈め、1R33秒TKO勝ち。
6度目の防衛に成功。
37戦37勝KO。
試合は短時間で終わったが、マイク・タイソンの動きにかつてのキレがなく、解説の浜田剛史も首を傾げた。
1990年1月8日、マイク・タイソンは試合のため、東京行きの飛行機に乗ったが、この時点で体重は、いつもの試合時より30ポンド(13.61 kg)重かった。
。
ドン・キングは、2月11日の試合までいつもの体重に戻っていたらボーナスを出すといった。
相手は、WBA 4位、WBC3位、29歳のジェームス・ダグラス。
3年前、(マイク・タイソンが勝った)トニー・タッカーに10R TKO負けしていた。
1200万円の白のミンクコートを羽織り、取り巻きを大勢引き連れ成田空港に登場したマイク・タイソンは、無数のフラッシュを浴びると笑みをみせ、黒のリムジン6台に乗り込んで消えていった。
その後も、一昨年のトニー・タッブス戦とは違いマイク・タイソンはまともに練習せず遊びまくった。
一方、捨て身のジェームス・バスター・ダグラスは懸命に練習した。
「バスター・ダグラスは大した相手じゃないと侮っていた。
ビデオで試合を観ることさえしなかった。
あいつをKOしてきたボクサー全員に楽勝していたからだ。
アンソニー・ピッツは早起きして俺のスパーリング・パートナーのグレッグ・ペイジと走っていたが、俺はやる気になれなかった。
アーミーブーツに防寒マスクで走り込んでいるバスターをよくみかけるとアンソニーがいっていた」
常に3人のボディーガードを付き添わせたマイク・タイソンはアメリカン・エキスプレスのプラチナカードをみせて
「飛行機だって買えるんだぜ」
といいながらホテルの高級ブティックで買い物にふけった。
練習は、脂肪を燃焼するスープを飲み、ときどきトレーニング場で運動したりスパーリングしたりする程度で、メインのトレーニングは女だった。
たくさんの女性とデートして楽しみ、チップをはずんだ。
前回のトニー・タッブス戦で来たとき知り合い、ロビン・ギブンスが買い物に出かけたすきにデートした日本人女性の部屋にも行った。
「初めて会ってからの2年間で、すごく大人になっていた。」
1990年1月23日、ドン・キングが1人60ドルの有料公開スパーを開いた。
マイク・タイソンはスパーリングでグレッグ・ペイジのパンチをもらいダウン。
周囲は静まり返った。
スパーは2Rの予定だったがトレーナーが1Rで打ち切った。
「俺はあのときは有料だってことさえ知らなかった。
ドンはカンカンだった。
一儲けしたかったんだ。
俺の状態があんなに悪いなんて知らなくて。
ボクシングはズブの素人だったからな。
調子の良し悪しの区別もつかなかった」
そういうマイク・タイソンもスパーリング後、グレッグ・ペイジに
「何やってるんだ?」
といわれた。
1990年2月10日、試合前日、計量が行われ、ジェームス・ダグラスは105㎏。
マイク・タイソンは100kgで、デビュー以来1番重かったが、それでもボーナスをせしめ、試合前夜だというのに何人もの女と楽しんだ。
「俺は知らなかったが、ダグラスにはこの試合に懸ける理由があった。
1989年の7月、あいつは信仰を新たにし、その後、妻に捨てられ、産みの母親は病気の末期状態に陥り、キャンプ中の1月上旬に亡くなった。
その話は全然知らなかったし、関心もなかった。
HBO(アメリカのケーブルTV)は母親のために戦うダグラスを大きく取り上げていたが、当時の俺の傲慢さを考えると、その話を聞いていたら、母親のところに送り込んでやるとかいっていただろう」
1990年2月11日、試合当日、東京ドームには51600人が入った。
ピッチャーマウンドがリングだとして外野手が守っている位置ぐらいの席が3万円。
20万円のリングサイド席には、次期挑戦者、イベンダー・ホリフィールドもいた。
実業家のドナルド・トランプが、6月にマイク・タイソン vs イベンダー・ホリフィールド戦を自らのホテルで開催する予定をしていた。
イベンダー・ホリフィールドは、クルーザー級から転級後、ヘビー級の上位ランカーを次から次へとKO。
「ファイナルチャレンジャー」
と呼ばれていたが、それは
「タイソンを倒すとしたら、この男」
という意味ではなく、
「ホリフィールドをかたづけたら、タイソンにはもう敵はいない」
という意味だった。
試合は生中継アメリカのゴールデン・タイムに合わせるため、前座試合は午前9時に開始され、時間調整のためのアンダーカードも用意されていた。
その前座試合でプロ2戦目の辰吉丈一郎がリングに上がり、バンタム級ノンタイトル10回戦で元タイ王者、チュチャード・エアウサンパンと対戦。
「なんでプロ2戦目で10回戦なんだ」
とヤジも飛ぶ中、辰吉丈一郎はダウンを奪われながら、2R2分18秒、左ボディでKO勝ち。
「何て凄いボクサーなんだ・・・」
観客は大器を感じた。
12時27分、メインイベントのマイク・タイソン vs ジェームス・ダグラス戦のゴングが鳴った。
ジェームス・ダグラスは、筋肉が太い体型ではないが、フットワークは軽く、リーチが長く、ジャブはスピードがあり、ロングレンジからジャブジャブ右ストレートというボクシングスタイル。
ニックネームは「Buster"(バスター、破壊者)」
しかし37戦33勝33KOの「Iron」が早い回でKOしてしまうと誰もが思っていた。
マイク・タイソンは両拳を顎に当てピーカブースタイルで構えたが、小刻みな頭の動きはなく、踏み込みが甘く、逆に身長で13㎝、体重で5kg、リーチで31cmセンチ上回るジェームス・ダグラスの左ジャブ、右ストレートをがヒット。
ジェームス・ダグラスは、左ジャブを間断なく突いて右ストレートを当てていき、マイク・タイソンが接近するとクリンチでしのいで、左右のフック、右アッパーを命中させていく。
5R、マイク・タイソンの左目が腫れ上がった。
しかし誰もがマイク・タイソンの逆転を信じて疑わなかった。
そしてそれは突然やってきた。
8R、残り5秒、勝利を意識したのか、この試合で始めて強引に攻めに出たジェームス・ダグラスの顎を、ロープへ詰められたマイク・タイソンがもの凄い右アッパーでとらえた。
ジェームス・ダグラスの顎が跳ね上がり背中からダウン。
それまで沈黙していた東京ドームは鬱憤を晴らすかのような大歓声に包まれた。
ダウンと同時にリング下のタイムキーパーがカウントを開始。
レフリーはこれに合わせなければならないが、キーパーがカウント「4」に差し掛かろうというとき、メキシコ人レフリーのオクタビオ・メイランは、なぜか「1」から数え始め、「5」といったとき、ジェームス・ダグラスは8秒間倒れていた。
ロングカウントだった。
ジェームス・ダグラスは片膝をついたまま少し息を整え、カウント「9」で立ち上がった。
倒れてから13秒が経過していたが、そのままラウンド終了のゴングに救われた。
ドン・キングは
「今のはノックアウトだ!!」
とWBAやWBCの会長が陣取る席にいき大声で訴えた。
9R、マイク・タイソンはゴングと同時につめ寄ったが、パンチが続かず仕留められなかった。
逆にジェームス・ダグラスが猛然と打ち返し、マイク・タイソンがロープに釘付けにするとドームに悲鳴に起きた。
これまでダウンを知らないマイク・タイソンは、足元をグラグラと揺らせながら何とかゴングに救われた。
10R、、1分過ぎ、ジェームス・ダグラスがアッパーでマイク・タイソンは顎を跳ね上げられ、続いて顔面に無情の拳が突き刺さると背中からゆっくりと倒れていった。
「ドーンッ」
口からマウスピースがこぼれ落ちた。
5万人は声を失い、誰もがもう立ち上がれないと思った。
マイク・タイソンは混濁する意識の中で左手でキャンバスを掴むと膝をつき、這ったままマウスピースを探すと、それを右のグローブで掴み、咥え、立ち上がろうとした。
なぜ、立てるのか。
なぜ、立とうとするのか。
KOだけではない、もう1つのマイク・タイソンの戦慄シーンだった。
ようやく立ち上がったとき、すでにカウント10を数え終えたレフリーはマイク・タイソンを抱きかかえ、手を大きく振った。
隣でジェームス・ダグラスが拳を突き上げた。
10R 1分23秒、TKO負け。
マイク・タイソンは、無敗記録を止められた上、世界ヘビー級チャンピオンのタイトルも失った。
ボクシングの神様は敗者を容赦しなかった。
大番狂わせに、リングサイドにいたイベンダー・ホリフィールドも驚きを隠せなかった。
13時に試合が終わった後も、ドン・キングは
「レフリーのミスは明らかだ!
マイクの8R KO勝ちだ!」
と白髪を天に向かって逆立てまくし立てていた。
IBFはジェームス・ダグラスを新チャンピオンを認めたが、WBAとWBCは
「タイソン側から8ラウンドのレフリーのカウントに疑義があったという提訴を受けた。
その結論が出るまで、誰が新チャンピオンなのかはいえない」
と勝敗を保留した。
(3日後に認定)
オクタビオ・メイランは、WBCの母国、メキシコを代表するレフリーだった。
シュガー・レイ・レナード、ロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズ、アレクシス・アルゲリョ、マービン・ハグラー、ウィルフレド・ゴメス、アズマー・ネルソン、マッチョ・カマチョ、数々の有名選手の世界戦を担当し、WBCの終身会長であるホセ・スライマンからの信頼も厚かったが、リングを下りた後、東京ドームの控え室で
「お前のせいで2億ドルのファイトがパーになってしまったぞ」
と怒鳴られた。
「2度とあのレフリーを世界タイトルマッチで使うな!」
ドン・キングもすごい剣幕だった。
ドナルド・トランプには何もいわれなかったが、
「きっと彼は私が英語がよくわからないと思ったんじゃないかな」
そういうオクタビオ・メイランは宿泊先のホテル・ニューオータニでもホセ・スライマン会長に罵られたが
「自分のレフリングは間違っていない」
と謝罪はしなかった。
もしマイク・タイソンが勝っていれば2億ドル(220億円)のビジネスといわれたイベンダー・ホリフィールド戦が実現し、ドン・キングやドナルド・トランプは潤い、WBCも承認料もらえるはずだった。
オクタビオ・メイランは、この後に世界タイトルマッチに登場することはなかった。
1度だけライセンスを発行してもらいWBOのフライ級の世界戦を裁いたが、1993年までメキシコシティで定期ファイトを受け持ち、ボクシングとの関係を断った。
「もしあの試合で私に過失があったとすれば、起き上がったダグラスのグローブをシャツで拭かなかったことだ」
そういうオクタビオ・メイランの誤審も大変なことだったが、ファンにとって最大の問題はマイク・タイソンが弱くなっていたということだった。
プロ5年目、38戦目で初めて負けたマイクタイソンのを味わったタイソンの左目は完全に塞がっていた。
ヘビー級では小柄なマイク・タイソンが、トレーニング不足(アンダーワーク)やオーバーワークでコンディションが崩せばかんたんに負けてしまう危険があったが、実際、フィジカルもボクシングも衰え、無敵のピーカーブースタイルは相手に突進するだけブルファイトスタイルになっていた。
試合後、ホテルニューオータニのロビーは前日までの騒ぎがウソのように静かだった。
「See you・・」
左目にガーゼが当てたマイク・タイソンは、少なくなった報道陣にマスコミに対してポツリといって去っていった。
1990年6月16日、東京ドームでの衝撃の敗戦から4ヵ月後、マイク・タイソンがタイトル奪回を目指して再起。
アマチュア時代、ロサンゼルスオリンピックの国内予選決勝戦で敗れたヘンリー・ティルマン を1RKO。
1990年10月25日、WBA・WBC・IBF世界ヘビー級チャンピオン、ジェームス・ダグラスにイベンダー・ホリフィールドが挑戦。
イベンダー・ホリフィールドは、、ヘビー級転向後、5戦5KO。
WBA、WBC、IBFのいずれも世界1位にランクされていた。
ピンクロン・トーマス、マイケル・ドークスと、2人の元世界チャンピオンも破り、クルーザー級時代から通算すると23戦23勝19KO。
試合前、マイク・タイソンはインタビューで勝者を予想した。
「あいつ(ジェームス・ダグラス)は実力もないくせにチャンピオンぶっている。
間抜けな犬のような奴だ。
ホリフィールドが勝つだろう」
8ヵ月前、マイク・タイソンに勝ったときとは別人のような肥満体でリングに上がったジェームス・ダグラスは、ギリシャ彫刻のような体をしたイベンダー・ホリフィールドに押された。
イベンダーホリフィールドにはスキがなく、パンチは重く硬く強く速かった。
3R、ジェームス・ダグラスが上体をグッと沈めて右アッパート。
イベンダー・ホリフィールドは、それを最小限のバックステップでかわし、後ろ足を着地と同時に踏ん張って右ストレート。
大きなアッパーの空振りで無防備になったところに右ストレートをもらったジェームス・ダグラスはダウン。
東京ドームでマイク・タイソンを番狂わせで破って4ヵ月、1度も防衛はできなかった。
イベンダーホリフィールドは、ヘビー級転向後、6連続KO勝利でWBA・WBC・IBF統一世界ヘビー級チャンピオンとなった。
しかし
「タイソンを倒してないから本物のチャンピオンじゃない」
と世間の評価は低かった。
「みんな彼こそ真のチャンピオンと思っていた。
実際は俺もベルトを獲得したのに」
イベンダー・ホリフィールドは怒りをこらえ、マイク・タイソン戦に向けて準備を続けた。
一方、ジェームス・ダグラスとの雪辱戦を望んでいたマイク・タイソンのターゲットは、イベンダー・ホリフィールドに変わった。
1990年12月25日、マイク・タイソンがアレックス・ステュワートを一方的に攻めまくって1RTKO。
1991年、3月18日、マイク・タイソンがドノバン・ラドックを7RKO。
1991年4月19日、WBA・WBC・IBF統一世界ヘビー級チャンピオン、28歳のイベンダー・ホリフィールド vs 「象をも倒す男」、元世界ヘビー級世界チャンピオン、42歳のジョージ・フォアマンの「Battle of the Ages」が行われた。
1987年に10年ぶりに現役のリングに大きなお腹で帰ってきたジョージ・フォアマンに世間の目は冷ややかだった。
しかしカムバック後、24連勝23KO。
オールドグレートの「本気」は、ファンの注目を集めていき、ついに16年ぶりの世界ヘビー級タイトルマッチにまでたどり着いてみせた。
ジョージ・フォアマンは見た目は変わったが、パワーの凄まじさは相変わらずで、アディルソン・ロドリゲスを粉砕したハードな左ジャブ、ジェリー・クーニーを失神させた左右のアッパー、ハードブローで若くて速いチャンピオンを追い詰める場面もあった。
初防衛戦となるイベンダー・ホリフィールドは、その攻撃を堂々と受け止める威厳ある戦いをみせ、回転の速いコンビネーションで多くのヒットを奪った。
しかしジョージ・フォアマンは倒れずに強打を当ててイベンダー・ホリフィールドがふらつく場面も。
激しい打ち合いの末、116-111、115-112、117-100でイベンダー・ホリフィールドが判定勝ちしたが、両者に拍手を送りたくなる感動的なファイトとなった。
「俺は逃げなかった。
堂々と戦った。
恥じる必要はない。」
試合後、ジョージ・フォアマンはいったが、3年半後、マイケル・モーラーをノックアウトして20年ぶりにヘビー級王座に返り咲いた。
1991年6月28日、マイク・タイソンがドノバン・ラドック に12R判定 勝ち。
ドノバン・ラドックとの2連戦は、イベンダー・ホリフィールドへの挑戦権をかけたサバイバル戦だった。
ドノバン・ラドックは「スマッシュ」と呼ばれる強打の左アッパーを武器にマイク・タイソンと真っ向から打ち合った。
マイク・タイソンに打ち勝ち後退させる場面もあったが、勝つことはできなかった。
1991年11月8日、イベンダー・ホリフィールド vs マイク・タイソン戦が行われる予定だったが、マイク・タイソンのケガにより延期。
1991年11月23日、イベンダー・ホリフィールドは代役のバート・クーパーとの2度目の防衛戦に臨んだ。
バート・クーパーは、元NABFチャンピオンで、クルーザー級上がりながらハードパンチと常に前に出るエキサイティングな試合で人気を博していた。
1R、イベンダー・ホリフィールドはスピードに乗ったコンビネーションで硬いパンチを打ちこみ、体格で劣るバート・クーパーをボディブローでダウンさせた。
3R、イベンダー・ホリフィールドが左ロングフックをダブルヒット。
バート・クーパーはボディを返す。
イベンダー・ホリフィールドは頭をつけてボディを返した。
バート・クーパーの右フックをもらったイベンダー・ホリフィールドがふらつき、さらに右を被弾してロープ下に膝をついた。
イベンダー・ホリフィールドの初のダウンだった。
バート・クーパーはここぞとばかりにフックを振り回したがイベンダー・ホリフィールドはふらつきながらクリンチ。
そして右クロスカウンター。
今度はバート・クーパーがふらつき左右フックで打たれるままになった。
最終的にイベンダー・ホリフィールドは7R、TKOで勝ったが、格下相手にダウンするという大失態によって世界ヘビーチャンピオンとしての評価を落とした。
1992年3月、「ミス・ブラックアメリカコンテスト」の出場者、ディズィリー・ワシントンが、1991年の夏にホテルでレイプされたとしてマイク・タイソンを訴えた。
「夜中の1時過ぎにマイクから電話があったの。
パーティをやってるから来ないかって。
それで出かけたわ。
部屋に入るとマイクは私を押さえつけて自由を奪い酷いことをしたの。
やめてって懇願したけど彼はお構いなしだった。
逆らえば殺される。
そう確信したわ」
マイク・タイソンは合意の上でのSEXだったと話した。
「あの女がホテルまで来て自分からパンツを脱いだんだ。
ファック準備完了ってやつさ。
だから俺はファックした。
体の隅々まで舐めてやった。
アソコもケツも舐めてやったなのに俺はあいつのケツをヤッた(レイプした)という事になってる。
どうせ最初っから全部計画してたんだろうよ。
今じゃ俺は最低のゲス野郎さ。
もう慣れちまったがな」
1992年4月10日、平仲明信がメキシコでWBA世界ジュニアウェルター級チャンピオン:エドウィン・ロサリオに挑戦。
1R、エドウィン・ロサリオをロープに詰め、怒涛の連打。
王者も逃げずに応戦したが平仲明信が打ち合いで圧倒。
エドウィン・ロサリオは立ったまま白目をむいて失神。
1R 1分32秒、レフリーが止めTKOで平仲明信がニュー世界チャンピオンとなった。
エドウィン・ロサリオはドン・キングと契約していたが、試合後、ドン・キングはリングに上がって
「ヒラナカーッ!ヒラナカッー!」
と叫び平仲明信の手首をつかんで上に挙げた。
そのとき平仲明信は初めてまじかでドン・キングをみたが、腕時計にはダイヤモンドがちりばめられ、顔は笑っていたが眼はトカゲのように冷たかったという。
1992年4月15日、婦女暴行罪の他にも2つの違法行為および監禁罪など4つの罪で起訴され、インディアナ州マリオン郡高裁により実刑6年罰金3万ドルの判決を受けたマイク・タイソンが、同州ペルドルトンの刑務所に収監された。
この裁判は、状況証拠が一切なく被害者であるディズィリー・ワシントンの証言のみの心証裁判だった。
その後、ディズリィー・ワシントンの友人、ウェイン・ウォーカーが、マイク・タイソンの冤罪を主張して控訴しようとしたが、証拠不十分で再裁判の要求は却下された。
ディズリィー・ワシントンは高校時代、友人の男子生徒をレイプで告発しようとしたことがあり、捏造だと判明して警察と学校から厳重注意を受けたという。
このようにいわくつきの裁判となったが、間違いなくマイク・タイソンが犯ったという人、素行が悪いマイク・タイソンの世間の評価だという人、そしてマイク・タイソンがハメられたと思っている人もいる。
「俺の言葉は1つとして彼ら(判事と陪審員)の心に残らなかった。
裁判は始めから有罪と決まっていた。
公正じゃなかったと今でも思ってる。
だけど彼らを恨んでも仕方がない。
すべては俺自身の未熟さが招いたことだ」
(マイク・タイソン)
「マイクは、ハメられたのさ。
夜中の2時に女が部屋へやって来て自分から下着になってベッドの中にもぐり込んできたら、あんたいったいどうする?
だいたいレイプで訴えられて会計弁護士をつけて勝てるか?
あの事件のすぐ前だがマイクがドン・キングを離れてハロルド・スミスのところに移籍する噂が流れてたんだ。
それを考慮に入れると大体わかるだろう」
(ケビン・ルーニー)
「あの裁判はでっち上げに等しいね。
ディズリーの言い分だけさ。
無罪の人間が3年半もブタ箱に放り込まれたんだ。
ディズリーとの行為は、あくまで合意の上だったと信じているよ。
俺はマイクを25年間知っているが、もし本当に彼がレイプをしていたら、この映画(『TYSON』)を絶対に製作していなかったよ。
彼は、当時あらゆる女性から声をかけられたり追っかけられていたんだ。
彼自身も認めているが、そのあらゆる女性たちといろいろなことをしてきたと話している。
だが決してレイプのようなひどいことではないんだ。
それだけは理解しなくてはいけない。
もちろん実際に起きたことは2人以外、誰にもわからないが、あの裁判はマイクの中で真実からほど遠く、不正に行われた裁判によって3年半刑務所に入ってしまった堪え難い事件と思っている。
ディズリィーとの性交は同意のもとで行われたと今でも強く主張しているんだよ。
出所後、友人たちは「あの事件から離れて生きていかなければならない」と助言したが、彼はいまだにあの不幸な結果が脳裏に焼き付いているらしく、人生を変えてしまった事件として今でもそのことを考えると「夜は眠れない」といっている」
(ジェームズ・トバック、映画監督、脚本家、マイク・タイソンの友人、映画『TYSON』では友人にカメラを向け栄光とドン底の人生を赤裸々に語らせた)
刑務所に入ったマイク・タイソンは、最初、ほとんどの時間を電話に費やした。
「タイソン、お前、1時間も話しているぞ」
順番待ちの受刑者からいわれても
「訴訟がこじれてるんだよ」
と返し友達や女性と話し続けた。
電話をしていないときは、部屋で本を読んだ。
毛沢東、チェ・ゲバラ、マキアヴェリ、トルストイ、ドストエフスキー、マルクス、シェイクスピア、ヘミングウェイ、いろいろ読んだが、心を魅かれたのはレジスタンスや革命の話。
もともと社会に腹を立てていたが、毛沢東やチェ・ゲバラを読んで、いっそう反体制的になった。
売店では、日用品やお菓子、煙草などが売っていたが、金銭的に裕福なマイク・タイソンはポテトチップが欲しいが金がない受刑者に1袋渡して相手の名前を書き留め、後日、2袋で返済させた。
返済や支払いを渋る受刑者やつには力を振るい、他の誰かに借りさせても払わせた。
在庫はドンドン増えていった。
「(刑務所では)誰が1番強いのか確かめたがる奴が多いんだ。
ああいうところにいるときの俺は無敵だよ」
有名人が訪ねてくれば一緒に写真を撮り、
「おい、ブラザー、この写真をみろ。
少なくとも50ドルはする代物だ」
とファンの受刑者に売って、10ドルずつ小分けにして、50ドルを完済させた。
手紙と一緒に自分のエッチな写真を送ってくる女性ファンもいたが、マイク・タイソンは写真と手紙を別々に売った。
コレクトコールで友人に電話し、友人は女性とセックスして受刑者に聴かせるテレホンセックスのサービスも行った。
オプションで受刑者の名前を事前に伝え、
「Oh、〇〇〇〇、もう濡れてきちゃった」
とその受刑者の名前を女性にいってもらうサービスもあった。
外の友人たちに女を抱かせることもあった。
手紙を送ってきた女性を友人のクラブに送り込み、上物かどうか確かめさせた。
「あれは将来への投資だった。
いい女だったら出所したとき会いにいこうってことだ」
金を渡せばどんなことでもする刑務官もいて、マイク・タイソンは、ピザ、中華料理、ケンタッキーフライドチキン、ハンバーガー、ロブスター、バーベキューなんでも好きなものを注文して、刑務官に届けさせた。
家庭料理が恋しくなると友人に電話をして、その嫁に料理をつくってもらい届けさせた。
マイク・タイソンは、ほかの受刑者とうまくつき合い、塀の中にいる間、1度も酒を飲まずマリファナも吸わなかった。
1992年6月、イベンダーホリフィールドがラリー・ホームズに大差で判定勝利。
しかし勝利が確実視されていた試合でKOできないイベンダー・ホリフィールドのパフォーマンスに不満の声を上げるファンもいた。
イベンダー・ホリフィールドは、実力は認められていたが、世界ヘビー級チャンピオンとして何かが足りなかった。
そんな中、マイク・タイソン不在のヘビー級戦線に2人のネクストジェネレーションが台頭してきた。
1人は、1988年のソウルオリンピックのスーパーヘビー級で金メダルを獲得したレノックス・ルイス(Lennox Lewis)
もう1人は、レノックス・ルイスに敗れ銀メダリストとなったリディック・ボウ(Riddick Bowe)
2人がプロに転向した1989年、マイク・タイソンが快進撃が続けていたが、翌年、東京ドームでジェイムス・ダグラスにまさかの敗北した。
レノックス・ルイスは、196cm、112kgの恵まれた肉体、テクニック、ハードパンチ、クレバーさを兼ね備えた次世代のファイターだった。
自慢のドレッドヘアーは
「尊敬するボブ・マーリーと、ジャマイカの神の影響さ」
という。
「ジャマイカ移民の血が流れているんだ。
生まれたのはイングランドで、12歳のとき母親と共ににカナダに移住して、そこで育った。
だから国籍は2つ持ってる。
子供の頃からバスケット、フットボール、テニス、チェス、何でも得意だったなぁ。
カレッジはバスケットの推薦で入ったんだよ。
でもいつの間にかボクシングがメインになった。
で、オリンピックで勝って、プロに誘われてね。
学問はカムバックできるけどボクシングは人生の一時期しかできないだろう。
それで中退したんだけど、引退したらもう1度勉強し直すつもり。
哲学を学んでみたいんだ。
教育って、人間が生きる上で必要不可欠なものだろう。
どんな理由があるにせよ、若い世代には学ぶ機会をつくってあげないと。
世界中すべての子供を救えはしないけれど、自分にできることをやろうと、ロンドンにレノックス・ルイス・カレッジを設けた。
カレッジっていっても、通うのは小中学生だけどね。
今はイングランドに家を持っていて、トレーニングはアメリカでして、バケーションはジャマイカっていうスタイルなんだけど、いずれはジャマイカに住みたいね」
一方、リディック・ボウは、マイク・タイソンが育った場所と目と鼻の先のニューヨーク、ブルックリンブラウンビルで13人兄弟の12番目として生まれた。
朝、通りで人間の死体が転がっているのは日常だった。
ボクシングをみつけ、犯罪人生を脱出し、ニューヨークで最高のファイターに成長し4つのゴールデングローブで優勝した。
1988年のソウルオリンピックで銀メダルを獲得し、1989年、プロに転向し、1990年、アメリカ国内のヘビー級チャンピオンとなった。
196㎝という身長を生かしたボクシング、優れたジャブと鈍器のような重いパンチで
「モハメド・アリの再来」
といわれ、才能ではオリンピック決勝で2度ダウンを奪われRSC負けしたレノックス・ルイスに決して負けていなかった。
1992年10月31日、レノックス・ルイスは、かつてマイク・タイソンを苦しめ、自身がアマチュア時代に唯一負けた相手、ドノバン・ラドックと対戦し、3度ダウンさせて2RTKO勝ち。
これで22連勝。
WBCランキング1位になった。
1992年11月13日、イベンダーホリフィールドとリディック・ボウが対戦。
試合はボクシング史上に残る大激戦となった。
2人は開始から激しく打ち合い、イベンダー・ホリフィールドは大柄なリディック・ボウに燃えるような闘志で前に常に出続けた。
リディック・ボウはジャブとアッパーを駆使してイベンダー・ホリフィールドはダウン。
キャリア初のダウンを奪われたイベンダー・ホリフィールドは、あきらめずにファイトし続けたが、10Rにはストップ寸前にまで追い詰められた。
それでも果敢に打ち合いを挑んでいき、最終ラウンド終了のゴングが鳴ったあと、立ち尽くすイベンダー・ホリフィールドの姿はたくさんの人に勇気と感動を与えた。
しかし判定で負け、王座から陥落。
リディック・ボウは体がシャープでパンチもコンビネーションもキレていた。
体格で優っているため遠い間合いでは必然的に有利だったが、接近戦でもインサイドからパンチを打ち、10Rには右アッパーでイベンダー・ホリフィールドをフラつかせた。
こうして26歳のリディック・ボウは、プロ4年目、32戦無敗でWBA、WBC、IBF統一世界ヘビー級チャンピオンとなった。
その後、リディック・ボウは、ジョージ・フォアマンと初防衛戦話が持ち上がったが、フォアマンサイドが高額なファイトマネーを要求したため破談。
WBCは、指名試合でリディック・ボウにWBCランキング1位のレノックス・ルイスとの対戦を義務づけた。
しかしリディック・ボウは拒否。
記者会見でWBCのベルトをゴミ箱に捨てるパフォーマンスを行った。
これについて、ボウが逃げた、ボウは精神病、ボウは脳障害だった、ボウはルイスとの試合を望んでいたがマネージャーとの確執があったなど、いろいろいわれたが真相は不明。
しかしリディック・ボウはすごく体が大きいが精神的には子供であることは間違いないだろう。
1992年12月14日、WBCは、タイトルの決定戦を行わず、レノックス・ルイスルイスを新チャンピオンに認定すると発表。
こうして1987年にマイク・タイソンが統一した最重量級の主要3団体のベルトは分裂することになった。
両親の祖国、ジャマイカで休暇を過ごしていたレノックス・ルイスは、国際電話でそれを告げられた。
世界ヘビー級チャンピオンの座がイギリスが来たのは1899年以来のことだった。
「夢に描いていた世界ヘビー級チャンピオンになれたのだから、当然、嬉しかった。
でも少なからず虚しさも感じたよ。
やっぱり戦ってベルトを手に入れたかった。
ボウとはやりたかった。
もちろん勝算もあったしね。
オリンピックのファイナルが楽な試合だったとはいわないし、ボウもプロとしてキャリアを積んで進歩していただろう。
でも自信はたっぷりあったんだ」
レノックス・ルイスがそういうように認定による王座獲得はあまりよいことではなかった。
チャンピオンベルトを他国に持ち去られたアメリカのファンは、レノックス・ルイスを
「ぺーパーチャンプ」
と非難。
長年、世界ヘビー級タイトルを独占していたアメリカにとって認定で王座に就いたイギリス人は腹立たしい存在だったのかもしれない。
以降、レノックス・ルイスはアメリカのリングに上がるたびにブーイングを浴びた。
1993年11月6日、リディック・ボウに敗れてタイトルを失い「もう終わった」といわれたイベンダー・ホリフィールドが1年ぶりに復帰。
WBCのベルトをゴミ箱に捨てた後、WBA・IBF世界ヘビー級チャンピオンとして2度、防衛に成功していたリディック・ボウとのリマッチに挑んだ。
試合開始直後からガンガン前に出るリディック・ボウに、イベンダー・ホリフィールドは右を振り回してジャブを放ち、リディック・ボウの長いジャブで顔を弾かれながらイベンダー・ホリフィールドは果敢に前に出た。
5R、リディック・ボウは目の上をカットし流血したが、ガードを固めながらの攻撃でもパワーの差を見せつけた。
リディック・ボウはよりダメージを与えるパンチを、イベンダー・ホリフィールドは速いコンビネーションなど見栄えのよいパンチを当てた。
7R、パラシュート男がリングに落下。
試合は20分中断。
再開後、イベンダー・ホリフィールドはステップを踏んで間合いを取ってジャブ。
右ストレートを被弾したリディック・ボウは右アッパーを返した。
2人は12Rを戦い抜いた。
判定は115-114、115-113、114-114。
2-0でイベンダー・ホリフィールドが勝利し2団体(WBA、IBF)統一世界ヘビー級チャンピオンに返り咲いた。
一方、リディック・ボウは3度目の防衛戦で王座から陥落した。
この試合の判定は今でもよく議論されるほど微妙で、リディック・ボウが勝っていたというファンも多い。
1994年4月22日、WBA、IBF世界ヘビー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールドは、初防衛戦で元WBOヘビー級チャンピオンのマイケル・モーラーと対戦。
マイケル・モーラーは、ライトヘビー級世界チャンピオンとして9度の防衛に成功した後、WBOとマイナーながら、サウスポーとして初めて世界ヘビー級チャンピオンとなった。
ヘビー級として体格は小さいものの左のパワーは凄まじかった。
この試合、イベンダー・ホリフィールドの動きは重く、2Rにダウンを奪いながらも右ジャブと左ストレートを駆使するマイケル・モーラーにフラつかされる場面もあり、一進一退の攻防の末に判定負け。
わずか半年で王座から陥落したイベンダー・ホリフィールドは、ネバダ州アスレチック委員会に心臓病と診断されたことを理由に引退を発表。
ネバダ州アスレチック委員会は、イベンダー・ホリフィールドの心臓病は、禁止薬物であるヒト成長ホルモン(hGH)の使用による副作用の可能性があると発表した。
その後、イベンダー・ホリフィールドは、テレビで宗教家のベニー・ヒンをみて興味を持ち面会を希望。
2人は友人関係となった。
イベンダー・ホリフィールドは多額の寄付をし、ベニー・ヒンは心臓の治療を行った。
そしてネバダ州アスレチック委員会の再検査を受けると心臓病は完治していたので引退を撤回した。
1994年9月24日、WBC世界ヘビー級チャンピオン、レノックス・ルイスが、4度目の防衛戦で、身長は188㎝ながらリーチが208㎝もあるハードパンチャー、オリバー・マッコールと対戦。
1R、レノックス・ルイス優勢。
2R、オリバー・マッコールの右でレノックス・ルイスはダウン。
ダメージは大きく、なんとか立ち上がり続行の意思を示したものの、レフリーがストップし、TKO負け。
プロ26戦目にして初敗北し王座から陥落した。
「派手にやられたな。
カークラッシュのような敗戦だった。
まあラッキーパンチってやつじゃないか。
でもあの敗北のお陰で強くなれたと思う。
モハメド・アリだって2度王座から滑り落ち、強さを増して帰って来ただろう。
負けがメンタル、フィジカルをパワーアップさせたのさ。
俺も同じだよ」
レノックス・ルイスはオリバー・マコールのコーナーにいたエマニュエル・スチュワード(Emanuel Steward)をトレーナーとして迎え入れ、自身の弱点を熟知した指導者と共に再スタートを切った。
「彼はビッグファイトの経験が少ないので、知名度の低いチャンピオンなのかもしれません。
ですが今後、誰もがレノックスの名前を覚えることになるでしょう。
間違いなく現在最強のヘビー級ボクサーです。
ホリフィールドと戦っても、タイソンと戦ってもKOで勝つでしょう。
彼の特徴は、左右の破壊力抜群のパンチを、正確に、シャープにヒットできる点です。
さらにスピードのあるコンビネーションを覚えれば、歴史に残るヘビー級王者になれるでしょう。
1年後には、驚くほどの選手になっていると思いますよ」
そういうエマニュエル・スチュワードの最高傑作といわれるのが、驚異的な射程距離、スピード、破壊力を併せ持ったフリッカージャブでKOの山を築いた、「ヒットマン」、トーマス・ハーンズだった。
「ハーンズは尊敬するボクサーの1人だし、エマニュエルの論理的な指導には説得力があるんだよ。
彼のいうことはすごく理解しやすいんだ。
もう1度出直して、さらにスケールの大きいチャンピオンを目指すには、どうしても彼のアドバイスが必要だった」
この後、距離を取り、緩いボクシングをすることもあったレノックス・ルイスが、徹底的な攻撃的スタイルへと変貌していった。