女子プロレスのアイドル
70年代後半から80年代、女子プロレスの人気は凄まじかった!日本が世界に誇る、そして世界でも類を見ない文化といえる女子プロレス。最初に大人気となったのはジャッキー佐藤とマキ上田からなる「ビューティ・ペア」でした。
ビューティペア以降も続々と魅力あふれる女子プロレスラーが登場し、アイドル的な人気を集めました。
人気の秘密は、当時はちょっと考えられなかったのですが、彼女たちはリング上でマイクを握り、歌謡ショーを行っていたんですよ。歌ってました。踊ってました。黄色い声が飛び交いました。そう、紛れもなく彼女たちはアイドルだったのです。
70年代後半から80年代に花咲いた女子プロレスの女神たちの、忘れ去られた最強のアイドル歌謡を特集します。
マッハ文朱
女子プロレスラーとして最初にレコードを出したのはマッハ文朱です。女子プロ界最初のアイドルレスラーといってもいいでしょう。何と言っても、長身、ルックスの良さ、もって生まれたスター性と三拍子そろってましたからね。試合後にリングで歌を披露するなど、マッハ文朱の登場は従来の女子プロレスのイメージを変えました。
リングデビューは1973年。歌手としてのデビューは1975年3月のシングル「花を咲かそう」です。

花を咲かそう
そもそも歌手志望で、13歳の時に「スター誕生!」に出場し、決戦大会まで進んだという実力の持ち主ですから流石に歌は上手いです。
「花を咲かそう」は、なんとなんと40万枚ものヒットとなりました。
マッハ文朱を名乗ってからわずか2年8ヵ月、1976年には早々にプロレスラーを引退し芸能活動へと移行しています。短い期間でしたがマッハ文朱が切り開いた女子プロレスラーのスタイルはその後に現れるアイドルレスラーたちの雛形となりました。
ビューティペア
マッハ文朱がリングを去ったその年、1976年の2月24日に結成されたのがビューティ・ペアでした。それまではオジサンばかりだった女子プロの会場に女性ファンが詰めかけるという現象が起こり、ビューティ・ペアは女子プロレスの状況を一変させたのです。
そして1976年11月、デビューシングル「かけめぐる青春」が発売されます。

かけめぐる青春
「かけめぐる青春」は売上80万枚という大ヒットとなりました。
ビューティペアはマッハ文朱とは逆に試合前のリング上で歌うという斬新なスタイルだったですね。
コンビ結成から3年後、二人はビューティ・ペアの解散と女子プロレス引退を懸けたタイトルマッチを行ったことはファンならずとも多くの方がご存じですね。
今にして思えば僅か3年ですが、ビューティ・ペアは強烈な印象を残しました。
クィーン・エンジェルス
1978年にルーシー加山とトミー青山で結成されたクイーン・エンジェルス。レコードデビューはビューティペア解散の年の1979年3月。デビュー曲はファンカブルな「ローリング・ラブ」で、ビューティペアをはるかに上回るパフォーマンスを見せてくれました。

ローリング・ラブ
ジャケットの左がルーシー加山で、右がトミー青山です。それにしても難しい曲だと思いますが、二人とも歌が上手い!よく歌いこなしてるなと感心します。
歌詞は旅行中に男に騙され観光地近くに捨てられるという女の情歌です。な、な、なんでこんな歌を!と思わず後ずさりしてしまいそうな内容ですね。相手はレスラーやぞ、ただではすまんぞ。この男、分かっとんのか?!と思わず関西弁で心配してしまいます。
トミー青山が1980年に右膝を負傷し、手術を行うも回復せず8月には引退してしまいます。負けっぷりの気持ち良いクイーン・エンジェルスでしたが残念ながら短命となってしまいました。
クラッシュギャルズ
80年代に入ると新たなタッグユニットが女子プロレス人気に火を付けます。その名はご存じクラッシュギャルズ。結成は1984年8月で、ビューティ・ペア以来の大ブームを巻き起こしています。
クラッシュギャルズはアイドルレスラーの完成形ともいわれ、試合会場は連日女性ファンで溢れ返りました。
レコードデビューは1984年の「炎の聖書」。聖書と書いて「バイブル」です。
![リングネーム:長与 千種
本名:長與 千種
身長:166cm
体重:71kg
誕生日:1964年12月8日
出身地:長崎県大村市
デビュー:1980年8月8日
引退:2005年4月10日
リングネーム:ライオネス飛鳥
本名:北村 智子
ニックネーム トモさん
身長:170cm
体重:70kg
誕生日:1963年7月28日
出身地:埼玉県蓮田市[1]
デビュー:1980年5月10日
引退:2005年4月3日](/assets/loading-white-036a89e74d12e2370818d8c3c529c859a6fee8fc9cdb71ed2771bae412866e0b.png)
炎の聖書
作詞は森雪之丞で、作曲が後藤次利。カップリングの「熱風撫子」も、作詞が松井五郎で作曲が馬飼野康二という分かる人には分かる超豪華な布陣。
結果「炎の聖書」は大ヒットし、女子プロレスは大ブームとなったのですからそれだけの価値があったという訳です。
後に二人とも復帰することにはなるのですが、1989年に長与千種が、1990年にライオネス飛鳥がそれぞれ引退し、クラッシュギャルズは解散してしまいます。
ビューティペアの時もそうですし、クラッシュギャルズの場合もそうなのですが女子プロレス・ブームは女性ファンが作り出しています。
では男性の女子プロレスファンは何をしていたのかと言うと、ちゃんと美人レスラーを応援していました。次に紹介する“女子プロレスラー史上最高の美女”との呼び声の高いキューティ鈴木です。
キューティ鈴木
その容姿の美しさから、テレビ番組、映画、CM、グラビアなどなど多くのメディアから引っ張りだこだったキューティー鈴木。“女子プロレスラー史上最高の美女”という言葉に偽りなしでしょう。因みに、リングネームの名付け親はAKB48などでお馴染みの秋元康です。
で、そのキューティー鈴木、リングデビューは1986年。ブレイクするのは1989年で、デビュー曲「泣かないで」も1989年7月に発売されています。
そのデビュー曲を含むアルバム「キューティー・スペシャル」は1991年4月25日の発売なのですが、もうジャケ買い必至の逸品となっとります。

キューティー・スペシャル
可愛いだけの事はあって、写真集は現在までに女子プロレスラー最多の14冊も出ています。勢い余ってヘアヌードまで出してくれたのは嬉しい限りですよ。
で、肝心のプロレスの方はどうだったかというと、弱かった。次第に強くなっていったもののデビュー当初のキューティー鈴木は弱かった。そこんとこがまた男性心理的に良かったというわけです。
他に可愛いくて弱い女子プロレスラーと言えば、1978年のデビュー戦以来、驚異の87連敗と言う記録を打ち立てたミミ萩原がいます。私は大好きです。もともと歌手ですから歌の方も素晴らしく、彼女のシングル「スタンド・アップ」は是非一度聞いて頂きたい。
ただ「スタンド・アップ」もそうですが、女子プロレスラーのレコードは近年急騰しており、尚且つYouTubeなどでもなかなか聞けないのが残念です。
デビル雅美
プロレスには悪役がつきものです。女子プロレスも同様で、そう言ってるそばからダンプ松本やブル中野といった強面が脳裏に浮かび、うなされそうになります。おそらく今夜、私は悪夢を見ます。
で、彼女たちもレコードを出しているのですが、そんな中、もっとも歌の上手いのはデビル雅美ではないでしょうか。いえ、デビル雅美は歴代の全女子プロレスラーの中でも歌の上手さは断トツですよ。

デビル・命の限り
1枚目の「燃えつきるまで」も2枚目の「デビル・命の限り」も楽曲、ジャケット共に良し!いえ、それ以降の曲も良くって、演歌からロックまで見事に歌いこなしています。プロレス技同様に、引き出しの多いレスラーというわけです。
中でも是非とも聞いて頂きたいのが「サイレント・グッバイ」。これがまた意外なほどに聞かせるんですよ。
デビル雅美は、シングルを5枚、アルバムを1枚残しています。1985年に唯一発売されたアルバム「Rain of Tears」はプロデュースをマーク・ゴールデンバーグが手掛けていることからも想像できる通りシティ・ポップ!しかも名盤だ!マーク・ゴールデンバーグと言えば、サントリーのCMや、リンダ・ロンシュタット、オリビア・ニュートン・ジョン等を手掛けたことでも知られていますね。
他にも歌の上手い女子プロレスラー、名曲、迷曲が多々あります。どれもアイドル歌謡として味わい深いものばかりです。しかし、女子プロレス界のベストボーカル、ベストアルバムを挙げるとすれば、それはやはりデビル雅美そして「Rain of Tears」で決まりでしょう。是非一度聴いてみてください。