衝撃の映画「八つ墓村」とは?
映画「八つ墓村」のあらすじ
八つ墓村にまつわる言い伝えは、400年前の戦国時代にさかのぼる。山間のある村に落ち武者8人がたどり着いた。
しかし村人たちは落ち武者たち尼子一族にかけられた恩賞金に目がくらんでしまったことでなんと!落ち武者たち8人皆殺しにしてしまう。
その後、怪しく不思議なことが次々起こる。それが殺された落ち武者たちの祟りだとその村は「八つ墓村」と呼ばれるようになった。
その村の出身で忌まわしい血をひく辰弥が妖艶な未亡人・美也子と一緒にこの八つ墓村に帰ってきた。
村人は再び落ち武者の祟りに恐れる中、戦慄の事件が次々起こる。これはやはり祟り?それとも何者かが計画的に行った殺人事件なのか。
本当にあった八つ墓村「津山三十人殺し事件」
津山三十人殺し事件とは
21歳の青年が猟銃と日本刀で30人を襲撃……82年前の世界的事件「津山三十人殺し」とは――2020上半期BEST5(文春オンライン) - Yahoo!ニュース
それにしても、30人亡くなった方の中には子供もいたというのはどんなに恐ろしい光景だったのかと想像してしまいます。
こんな恐ろしい事件は映画の中だけでに、、、と思いましたが実際にあった事件だったということが衝撃です。
「津山三十人殺し事件」の犯人・都井 睦雄について
犯人・都井 睦雄の生い立ち
犯人の都井睦雄は2歳の時に父を、3歳で母を肺結核で亡くしています。姉もいましたが二人を引き取ったのは祖母でした。まもなくして生まれ育った岡山県苫田郡加茂村大字倉見から引越し、6歳の時には祖母の故郷である貝尾集落に引っ越しています。
生まれ育った家は比較的裕福な家で資産もあり、両親が亡くなった後も裕福な環境は変わらず、生活に困窮することはなく育っています。
祖母は盲目的愛で睦雄を育てていきます。そのせいで睦雄はわがままに育っていった様です。
小学校高等科2年を卒業しますが、病気がちではあったものの勉強はとてもよくできた睦雄です。同級生たちとの関係も良く、級長や副級長に選ばれていて、強いて言えば、とても模範的な小学生時代を過ごしていたとのことです。
ただ性格的には、病気がちで学校をよく休むことがあったせいか、陰性であって快活明朗な感じではなかったということです。
何となく寂しさのある生徒だったということである。生来孤独の質で先輩、親族、友人間には指導者となったり親交を結んだりした者もなく、その他、本人の性格に特別の影響を与えた人物は全くない
https://bunshun.jp/articles/-/38563?page=5(5ページ目)21歳の青年が猟銃と日本刀で30人を襲撃……82年前の世界的事件「津山三十人殺し」とは | 文春オンライン
「津山三十人殺し事件」犯人の人間形成
幼いころに両親を亡くし、祖母に引き取られるも親の愛情に飢えていたことは間違いないようです。
それが成長期や大人になってからも大きく関わっていったというのはあるのでしょうか。
親からの愛情不足に加えて、成績が良かったため学校の先生から進学を進められるも、祖母が睦雄を手放さなかったということで家にそのままいることなります。
そして卒業間近の春に肋膜炎を患ったことで3か月もの間、療養生活をしたことで将来の目標も持たず、体力を使う農業をすることもできずの生活が次第に孤独なものとなっていったということです。
その孤独さに拍車をかけたのが睦雄17歳の時に、姉が村を出て他の地域へと嫁いだことがキッカケになったそうです。
両親がなくなったときから祖母の愛情は受けていたといいつつ、睦雄自身が本当に心を休ませ甘えられる場所はなかったということでしょうか。心の中に満たされないものが蓄積していった幼少期~思春期と感じられます。
「津山三十人殺し事件」の背景にあったもの

都井 睦雄は起こしたこの「津山三十人殺し事件」の背景にあったものはこの3つです。
それは?
・村の「風習」
・結核
・イジメ
これが大きく関わっています。
村の「夜這い」の風習
睦雄が14歳のころに肋膜炎になり3か月ほどで治りますが、これが事件の背景になるまず一つ目です。この「病気のせい」で働くこともできずに毎日家にいて暇と言えば暇なそんな生活をしていたといいます。
そして早熟だった睦雄が村の風習でもある「夜這い」で村の女性たちと関係していく...この状況が彼の唯一の村人とのつながりになっていたのかもしれません。
結核
この戦前の時代の結核というと死因の1位にもなるほどの感染力の強い病気で20代前半の若者の死因の半分になったこともある恐ろしいものでした。
睦雄が当時の小学校卒業の14歳のころに肋膜炎に3か月で治癒したということですが、その後19才の時に両親も患って亡くなった肺結核に睦雄自身も冒され始めます。
この結核になったことがのちに噂となり、睦雄と関係があった女性たちも知るところとなったことで女性たちが睦雄から離れていきます。
イジメ
ある意味、結核になったことで女性たちから拒絶された状態、そして村の中でも噂は広がっていった様です。その女性たちの手のひら返しが睦雄にとって憎しみとなっていきます。
もともと大人しく勉強もできた睦雄が変わっていったのは、小学校教員検定試験の勉強中から神経衰弱となり、次第に狂暴となってきたと事件後の話として出てきます。
将来が見えない、自分のもとから誰も居なくなってしまった以上に村八分の様な状態だったのではないでしょうか。
小さな村の中で人との関りがない生活..自分自身が否定されていると感じるのも無理はないですね。そうしてついにというか、まさに映画「八つ墓村」のヒントにもあった本当の事件が起こることになります。
「津山三十人殺し事件」事件決行の引き金
事件は突発的なものではなく、 睦雄によって計画的に行われたものです。予め事件の2~3年前から猟銃など用意しています。すでに村全体でも睦雄に対して警戒が大きくなったともいわれています。
睦雄はまさに決行の日を待っていたのです。
決行の日の決め手は自分と以前、関係を持ったがその後、結核になったことで自分のもとを去り裏切った女性二人が貝尾の村に来たことで思いついたということです。
津山事件 - Wikipedia
「津山三十人殺し事件」犯行決行
21歳の青年が猟銃と日本刀で30人を襲撃……82年前の世界的事件「津山三十人殺し」とは | 文春オンライン
津山事件のイメージともなっており、事件の猟奇性をさらに掻き立てます。用意を終えると都井睦雄は屋根裏部屋から下の階に降り祖母の首を斧で切断して殺害しています。
その都井睦雄は犯行後に記した遺書の中で、祖母には済まない事をしたが、残される不憫を思うと殺すしかなかったといった趣旨の事を書いています。また、既に嫁いでいた姉に対しても謝罪の言葉を綴っています。
「津山三十人殺し事件」犯人の遺書
犯人・睦雄が残した遺書は自宅に2通、自殺した場所に一通残されています。事件後、その遺書も公開されているということで睦雄側の心の内を知ることとなります。
長年病と闘った自分を裏切って離れて嫁いでいった女性に対しての恨み、自分を虐待した村全体への恨み..その人たちへの復讐心が書かれています。
自分にとって懐かしいを萌える過去は先生からかわいがられていた小学校代だとも書かれていたようです。
自殺現場に残された遺書の一部はこちらです。
21歳の青年が猟銃と日本刀で30人を襲撃……82年前の世界的事件「津山三十人殺し」とは――2020上半期BEST5(文春オンライン) - Yahoo!ニュース
長年の怨恨によって引き起こされた陰惨な復讐事件だと言えます。
まとめ
この事件を知った人の中には様々な思いや感じるものがあることでしょう。
病気で長く苦しみ、将来の夢を持てなかった一人の青年が残虐な殺人事件に至るまでの恨みつらみがあったというが、誰かひとりでも心許せて睦雄に寄り添える人がいたならなにか変わっていたのかもしれません。
ただ身勝手な恨みつらみの犠牲者になってしまった多くに方々がいるのは事実ですね。
今の日本が睦雄の様な人間を生まない社会になっているのか......考えていきたいです。