都井 睦雄は起こしたこの「津山三十人殺し事件」の背景にあったものはこの3つです。
それは?
・村の「風習」
・結核
・イジメ
これが大きく関わっています。
村の「夜這い」の風習
睦雄が14歳のころに肋膜炎になり3か月ほどで治りますが、これが事件の背景になるまず一つ目です。この「病気のせい」で働くこともできずに毎日家にいて暇と言えば暇なそんな生活をしていたといいます。
そして早熟だった睦雄が村の風習でもある「夜這い」で村の女性たちと関係していく...この状況が彼の唯一の村人とのつながりになっていたのかもしれません。
結核
この戦前の時代の結核というと死因の1位にもなるほどの感染力の強い病気で20代前半の若者の死因の半分になったこともある恐ろしいものでした。
睦雄が当時の小学校卒業の14歳のころに肋膜炎に3か月で治癒したということですが、その後19才の時に両親も患って亡くなった肺結核に睦雄自身も冒され始めます。
この結核になったことがのちに噂となり、睦雄と関係があった女性たちも知るところとなったことで女性たちが睦雄から離れていきます。
イジメ
ある意味、結核になったことで女性たちから拒絶された状態、そして村の中でも噂は広がっていった様です。その女性たちの手のひら返しが睦雄にとって憎しみとなっていきます。
もともと大人しく勉強もできた睦雄が変わっていったのは、小学校教員検定試験の勉強中から神経衰弱となり、次第に狂暴となってきたと事件後の話として出てきます。
将来が見えない、自分のもとから誰も居なくなってしまった以上に村八分の様な状態だったのではないでしょうか。
小さな村の中で人との関りがない生活..自分自身が否定されていると感じるのも無理はないですね。そうしてついにというか、まさに映画「八つ墓村」のヒントにもあった本当の事件が起こることになります。
「津山三十人殺し事件」事件決行の引き金
事件は突発的なものではなく、 睦雄によって計画的に行われたものです。予め事件の2~3年前から猟銃など用意しています。すでに村全体でも睦雄に対して警戒が大きくなったともいわれています。
睦雄はまさに決行の日を待っていたのです。
決行の日の決め手は自分と以前、関係を持ったがその後、結核になったことで自分のもとを去り裏切った女性二人が貝尾の村に来たことで思いついたということです。
津山事件 - Wikipedia
「津山三十人殺し事件」犯行決行
21歳の青年が猟銃と日本刀で30人を襲撃……82年前の世界的事件「津山三十人殺し」とは | 文春オンライン
津山事件のイメージともなっており、事件の猟奇性をさらに掻き立てます。用意を終えると都井睦雄は屋根裏部屋から下の階に降り祖母の首を斧で切断して殺害しています。
その都井睦雄は犯行後に記した遺書の中で、祖母には済まない事をしたが、残される不憫を思うと殺すしかなかったといった趣旨の事を書いています。また、既に嫁いでいた姉に対しても謝罪の言葉を綴っています。
「津山三十人殺し事件」犯人の遺書
犯人・睦雄が残した遺書は自宅に2通、自殺した場所に一通残されています。事件後、その遺書も公開されているということで睦雄側の心の内を知ることとなります。
長年病と闘った自分を裏切って離れて嫁いでいった女性に対しての恨み、自分を虐待した村全体への恨み..その人たちへの復讐心が書かれています。
自分にとって懐かしいを萌える過去は先生からかわいがられていた小学校代だとも書かれていたようです。
自殺現場に残された遺書の一部はこちらです。