「西武VSヤクルト」
2年連続同一カードとなった1992、93年の日本シリーズは、森・野村二人の智将による激しい戦いとなりました。
1992年 狸と狐の化かし合い
シリーズ開始前は森、野村両監督の舌戦が話題となった(ただし、野村の側から一方的に仕掛けた面が強い)。シリーズも互いの策が火花を散らすこととなり「狸と狐の化かし合い」という声もあった。
野村は「俺は中小企業の社長、森は大企業の中間管理職」「初めの勝ちは、嘘の勝ち」などの名言を残した。
戦前の舌戦からアツかった1992年の日本シリーズ
1993年 常勝西武が遂に陥落
ヤクルトが前年の雪辱を果たす
共に名将、違いは「常勝西武」と「弱小ヤクルト」を率いた立場の差
ID野球の徹底浸透
ID野球:野村克也
1990年、データを重視するという意味の「ID野球」(IDは、Important Dataを意味する造語)を掲げてチームの改革を図る。主砲の池山隆寛や広沢克己らには、三振を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。
結果として、広沢は後に打点王のタイトルを獲得し(1993年)、池山もその90年にキャリアハイの打率.303打点97(本塁打は31)を記録した。
80年代後半~90年代中期のヤクルト主軸を担ったイケトラコンビ!「ブンブン丸」池山隆寛と「トラ」広沢克己。 - Middle Edge(ミドルエッジ)
1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、巨人の極度の不振(1979年以来12年ぶりにBクラスに転落)などもあってAクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得して一流打者への仲間入りも果たした。
二塁手から中堅手へ再度コンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁で注目を浴びた。高津臣吾に「日本を代表する抑えになれ、西武の潮崎(哲也)のシンカーを参考にしてシンカーを投げろ」と助言し、その成長を促した。
なお、IDバレー(眞鍋政義監督)やIDサッカー(作陽高校の野村雅之監督)など、他のスポーツでも「ID○○」という言葉が、後に使われるように。
1992年に混戦を制してセ・リーグ優勝。胴上げ投手はこの年ケガから復活したベテラン伊東昭光だった。この年は前述の選手に加え、投手では西村龍次、岡林洋一、内藤尚行、高野光、野手では荒井幸雄、橋上秀樹、笘篠賢治、ジャック・ハウエルらが活躍。
ベテラン選手の渋い活躍もあったほか、9月には故障から4年越しで復帰した荒木大輔の起用もあった。他球団から移籍してきた新浦壽夫、角盈男、金沢次男らは中継ぎ投手として、ヤクルト一筋の杉浦享や八重樫幸雄は代打として働いた。日本シリーズでは最終第7戦までもつれ込む激闘を演じたが、西武に敗れた。
1993年は長嶋一茂を巨人に金銭トレードで放出し、前年のリーグ優勝で自信を深めた古田、広沢、レックス・ハドラー、ハウエル、池山、荒井、飯田、秦のレギュラー陣が安定した活躍を見せた。
投手では、新人の伊藤智仁が前半戦で大活躍。伊藤は酷使が祟ったのか故障で後半戦を棒に振るが、先発の伊東、西村、この年にカムバック賞を受賞した川崎憲次郎、中継ぎの内藤、8年目でブレイクした山田勉、リリーフエースとして定着した高津らの働きもあり、チームはそのままリーグ優勝。
前年に続いて西武との対戦となった日本シリーズを、再び最終第7戦までもつれ込む激闘の末に制し、遂に日本一に輝いた。
常勝軍団を率いた智将
「当たり前のことを当たり前にやる野球」を掲げ、チームプレーと確率を重んじ、ディフェンスを主体として走塁やバントを多用するなど、基礎を積み重ねた緻密な野球を展開し、9年間で8度のリーグ優勝(優勝を逃したのは1989年のみ)6度の日本一に輝くなど西武黄金時代を築いた。
とりわけ1990年から1994年までの5年連続のリーグ優勝はパ・リーグでいまだに破られていない記録である。この時期にはすでに広岡時代の選手の多くは現役を退いており、育成面でも森の優れた才能が評価されることになった。
玄人好みの職人・辻発彦はいかにして「日本球界最高の二塁手」と称されるようになったか? - Middle Edge(ミドルエッジ)
森西武の野球の凄みをよく示すエピソードは巨人と対決した1987年の日本シリーズ第6戦であろう。この試合、8回裏二死から辻発彦が安打で一塁に出塁した。この二死一塁の場面で、続く秋山幸二はセンター前へ安打を放つ。
ところが巨人の中堅手ウォーレン・クロマティの緩慢な返球の間に辻はなんと一気にホームまで駆け抜けて西武が得点してしまった。実は森はじめ西武側は、クロマティの送球に難がありながら、そのことに巨人が何も手を打っていないことを事前のデータ収集とミーティングで知り抜いていた。
その緻密な事前研究を監督の森が選手各人に徹底していたことがこの辻の劇的な好走塁に結びついたのである。このシリーズは、事前予想では攻撃力に勝る巨人の優位といわれていたが、この辻の走塁にみられる西武の緻密なディフェンス野球が逆に巨人を圧倒し、西武が2年連続日本一を獲得している。
当時の主力選手の一人だった辻が自著「プロ野球 勝つための頭脳プレー」で語ったところによると、試合でエラーをして落ち込んだ辻のところに深夜、森から気遣いの電話があったり、遠征先や合宿先で選手が食事に満足しているかどうかを気にして尋ねたりということがよくあったという。
広岡の監督時代も経験した辻によれば「広岡さんは選手をほめることがそもそもなくてそれが持ち味だった監督だけど、森さんは選手のいいプレーを必ずミーティングでほめてくれた」という。また選手達がゲームボーイなどの新しい遊び道具に熱中しているのをみると、叱るより前にまず森自身が買ってやってみて、その面白さを自分で体感してから「ほどほどにしなさいよ」というような穏当な理解者の面ももっていた。
森は選手の管理について「時代背景というものはどんどん変わっていく。若い選手の時代背景を理解しないままに、『あれをやってはいけない・これをやってはいけない』ということは指導者として絶対に言ってはいけないことだ」と言っている。
また有名な逸話として、優勝時にチャンピオンフラッグを持って球場を一周するときの様子があげられる。通例ではたいてい監督がフラッグを持って先頭を歩くものだが、森はそれをせず、石毛宏典・辻などの主力選手にフラッグを持たせ、自身は常に列の一番後ろを歩いていた。これは「選手が主役、監督は脇役」のポリシーを森がずっと持っていたことを示している。
清原和博をルーキーイヤーの年から、周囲の批判に抗してスタメンで使い続けたのは森の強い意向による。コーチ陣や野球評論家の多くは清原を二軍でしばらく鍛えることを主張していた。しかし森は清原のスター性からして、華やかな実戦舞台で使い続けた方が伸びるというふうに判断した。
開幕当初は不振だった清原であるが、次第に森の期待に答え始め、ついに新人王を獲得、プロ野球を代表する選手になっていく。清原は今なおこのときの森の起用を深く恩義に感じており、今でも森とは家族ぐるみでの付き合いが続いている。2005年の森の野球殿堂入りのときは祝賀式にかけつけ、一番に森に対し祝辞を述べている。
名将に倣う
座右の銘は「忍」
ともに派手さはありませんでしたが、たしかに強いチームを率いた名将でした。