GON 中山雅史 本能むき出しの点取り屋 ハットトリック男 熱血、不器用、猪突猛進、侍エースストライカー

GON 中山雅史 本能むき出しの点取り屋 ハットトリック男 熱血、不器用、猪突猛進、侍エースストライカー

Q.好きな言葉は?「力」 Q.欲しいものは?「膝の軟骨、半月板、テクニック」Q. 中山雅史にあるものは?「負けず嫌いとサッカーを愛する気持ちだけ。ほかになにもないから中山雅史だった。なにもないからなにかを得ようともがき苦しみ、もがき苦しむことから抜け出すために、手を伸ばし、その先をつかもうと努力した。ずっとその繰り返しだった」


1993年、ヤマハ発動機はJリーグに上がるためにはJFL(ジャパンフットボールリーグ)を2位以内でシーズンを終えなければいけなかった。
「なにがなんでも勝つ!」
チームは狂気に包まれた。
キャプテンでゴールキーパーの森下申一は、富士通(現:川崎フロンターレ)戦で、オフサイドのジャッジに納得できずゴールマウスから飛び出し線審に迫り、中央防犯(現:アビスパ福岡)戦では、試合終了直後に右足でグラウンドの立て看板を蹴り倒した。
勝ちさえすればプロセスはどうでもよかった。
森下申一は中盤でボールを奪われるリスクを避けロングボールを前線に蹴りこんだ。
そのボールをワントップの中山雅史は待ち受けた。
開幕から7試合6ゴール。
1試合5ゴールもあった。
1993年8月、神奈川県の海老名公園陸上競技場で行われたJリーグの下部組織:JFL(ジャパンフットボールリーグ)1部、ジュビロ磐田 vs 東芝(現:コンサドーレ札幌)戦が行われた。
観客数は2500人。
3日前に東京の国立競技場で行われたJリーグ、ヴェルディ川崎 vs 名古屋グランパス戦は、54977人だった。
この時点でJFLの順位は
1位 フジタ(現:湘南ベルマーレ)
2位 ジュビロ磐田
3位 東芝
4位 ヤンマーディーゼル(現:セレッソ大阪)
Jリーグに昇格するためには2位以内でのシーズン終了が必要だった。
ジュビロ磐田のフォワードは、中山雅史とアントニオ・カルロス・アンドレ。
前半11分、アンドレの得点でジュビロ磐田が先制。
35分、東芝が同点に追いつく。
44分、中山雅史がペナルティキックを決めた。
89分、ジュビロ磐田の勝利かと思われたが東芝が同点ゴール。
延長戦に入り、ジュビロ磐田陣内でのボール争奪戦が続いた後、ボールは大きく蹴り出された。
明確な意図のあるパスではなく、とりあえず東芝陣内に蹴りこんでおこうというロングキックだった。
ボールはハーフラインの向こう5mに落ちた。
1番近くにいたのは東芝の石崎信弘。
2番目に近かったのは中山雅史。
2人は東芝ゴール方向に弾むボールを追いかけた。
中山雅史は石崎信弘を背中から追いかけ、ボールのツーバウンド目で追いつき、少し背中を丸め低い姿勢で石崎信弘の前に頭をこじ入れヘッドでボールを東芝ゴールに向けて押し進めた。
石崎信弘は中山雅史の腰に腕を回ししがみつきラグビータックル。
中山雅史はそれを引きずりながら前進。
振り切られた石崎信弘は地面に落ちて1回転した。
中山雅史はペナルティエリアに侵入。
再びゴールキーパーのラグビータックルを足首に受けながら左にかわしてシュートを決めた。
「俺がジュビロの中山だ~」
1993年シーズン、ジュビロ磐田は14勝4敗でフジタに次いで2位。
中山雅史は18試合18ゴール。
11月3日の夕方、磐田市に放送が鳴り響いた。
「ジュビロ磐田がJリーグに昇格しました」
市内数か所で花火が上がり、県道磐田停車場、愛称ジュビロードは人々で埋め尽くされた。
中山雅史は合宿を行っていたヤマハリゾートでマイクの前に立った。
「負けられない試合ばかりの本当に厳しい1年でした。
このチームでJリーグに入れたことが本当にうれしいです。
このシーズン、日本代表で活躍できたのもジュビロ磐田に残ってがんばった結果だと思います」

ワールドカップアメリカ大会 「ドーハの悲劇」 日本代表 最終予選最終戦ロスタイムで同点にされ本大会出場ならず

1993年、翌年に行われるワールドカップアメリカ大会に向け、アジア予選が開始された。
1次予選はA~F組にわかれ6ヵ国が通過。
最終予選はその6ヵ国が総当たり戦を行い、上位2ヵ国がワールドカップの出場権を得る。
日本は1次予選F組を7勝1分けで通過。
カタールの首都:ドーハに移動し最終予選に挑んだ。
通常は各国代表は別々のホテルに別れるが、湾岸戦争(1990年8月2日、イラク軍がクウェート侵攻、1991年1月17日、多国籍軍がイラクを空爆、1992年3月3日、暫定停戦協定)の影響で日本、韓国、北朝鮮、イラン、イラク、サウジアラビアは1つのホテルの同フロアに宿泊し厳しく警備された。
日本はスタッフが9階、選手が8階。
別棟7階にキッチンと食堂、ミーティングルームを確保した。
オフト監督は食事を大事にしたが、UAEで行われた1次予選のときはホテルの厨房の使用許可が下りず、ドーハでは自分たちのキッチンを用意した。
日本から同行したシェフは、朝、昼、晩、毎食バイキング形式で食事を用意した。
納豆などは無事空港を通ったが、米など持ち込めなかった食材は現地で調達された。
そして

第1戦、サウジアラビア 0対0
第2戦、イラン 1対2
第3戦、北朝鮮 3対0
第4戦、韓国 1対0

と第5戦を残し、日本は1位。
2位 サウジアラビア
3位 韓国
4位 イラク
5位 イラン
6位 北朝鮮
と続いた。
第4戦で、これまで40年間勝っていなかった韓国を1対0で破ったことで、第5戦が残っているのにまるでもうワールドカップ本大会出場が決まったような雰囲気が生まれた。
「まだ終わっていないよ」
ラモスが選手たちにしつこくいった。
実際、第5戦の結果次第で北朝鮮以外の5ヵ国に本大会出場のチャンスが残されていた。
第5戦の組み合わせは
日本 vs イラク
サウジアラビア vs イラン
韓国 vs 北朝鮮
だった。
日本は勝てば、他の試合の結果にかかわらずワールドカップ本大会出場が決定。
引き分けても
・サウジアラビア vs イラン戦が引き分け
・イラン勝利、
・韓国 vs 北朝鮮戦が引き分け、
・北朝鮮勝利
・韓国が1点差以下で勝利
の場合はワールドカップ本大会出場が決定するという、かなり有利な立場だった。
3位の韓国は自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で北朝鮮に勝っても日本とサウジアラビアが勝てば本大会出場ができない状況だった。

1993年10月28日、日本 vs イラク戦がアル・アリ競技場で開催された。
両国の対戦は9年半ぶりで、過去の対戦成績は日本の0勝3敗1分け。
この試合から出場停止中だった主力2名が復帰するはずだったが、試合当日朝にペナルティーの延長が決まった。
イラクは最終予選を通して不利な判定を受けていた。
イラクとワールドカップ開催国:アメリカは湾岸戦争で敵国。
イラクがアメリカ大会に出場することを阻止する配慮があったのではないかとまことしやかに囁かれていた。
にもかかわらずここまで最終予選を1勝2分け1敗。
イランに勝ち、韓国、サウジアラビアと引き分け、北朝鮮戦も2対0でリードしていたが途中退場者を出て負けた。
しかも得点数は6ヵ国中1位。
間違いなく強かった。
日本の前線には三浦知良、中山雅史、長谷川健太が立った。
イラクは出場停止処分が重なり主力数名を欠いていた。
前半5分、中山雅史のポストプレーから長谷川健太がシュート。
クロスバーに弾かれたボールを三浦知良がヘディングで押し込んだ。
勝利しか本大会出場の望みがないイラクは、ボールを奪うとカウンターを仕掛ける展開。
前半は1対0で終了。
このとき他の2会場は
『サウジアラビア 2対1 イラン』
『韓国 0対0 北朝鮮』
このまま勝敗が進めば日本とサウジアラビアが勝ち抜けとなる。
ハーフタイムではオフト監督が
「Shut Up(黙れ)」
と何度も怒鳴らなければならないほどロッカールームに引き上げてきた選手たちは興奮状態で、各々勝手に話し合っていた。
選手たちの会話がどこで起こっているのかわからない異様な状況が続き、オフト監督が
「U.S.A. 45min(アメリカまであと45分)」
とホワイトボードに書いて説明しようとしたら後半のブザーが鳴ってしまった。

後半、日本は運動量が落ち、イラクがボール支配率を高め攻勢を強めた。
後半15分、アーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ1対1の同点。
他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねていて、日本は勝たなければ予選敗退となる。
後半24分、ラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドラインギリギリで抜け出した中山雅史が受け、ゴール右角にショートを決め、2対1。
ゴールシーンをベンチ正面から見ていた都並敏史は
「こりゃオフサイドだ。
これ、くれるか」
とつぶやいた。
ラモスは主審の笛が日本寄りな雰囲気を感じ、微妙な判定なら流すと予想していた。
この勝ち越しゴールも中山雅史がオフサイトポジションに出た瞬間を狙ってスルーパスを出した。
その後、両チームとも疲労が激しく膠着状態が続き日本勝利かと思われた。
後半44分50秒、武田修宏がまだ味方が詰め切れていないイラクゴール前へセンタリング。
このルーズボールをラモスが回収し、最終ライン裏へ浮き球のスルーパスを通そうとした。
イラクはこのパスをカットし、自陣からカウンターアタックを仕掛け、最後はコーナーキックのチャンスを得た。
試合時間は後半45分を超えてロスタイムに突入した。
ロスタイムに入り、いつ主審が試合が終わらすかわからない状況ではコーナーキックはゴール前へ直接センタリングを蹴るのが常識。
しかしキッカーのライト・フセインは、意表を突きショートコーナー。
三浦知がプレスに走りスライディングをかけた。
しかしフセイン・カディムは振り切らりセンタリング。
オムラム・サルマンがヘディングでシュート。
ボールはゴールキーパー:松永成立の頭上を放物線を描いてゴールに吸い込まれた。
2対2。
イラクはすぐにセンターサークルにボールを戻し、最後まで勝利を目指す姿勢をみせた。
日本はキックオフから前線へロングパス。
しかしをボールがタッチラインを割った時点で笛が鳴り試合は終了した。
ベンチに下がっていた中山雅史は頭を抱えながら崩れ落ちるように倒れこんだ。
この試合はテレビの生放送されていたが、
「決まった!」
と現地で実況中継していたアナウンサーが叫んだ後、同じく現地にいた解説者も、東京のスタジオでゲスト出演していた釜本邦茂(ガンバ大阪監督)、森孝慈((浦和レッズ監督)、柱谷幸一(浦和レッズ、日本代表キャプテン:柱谷哲二の兄)らも誰も一言も発せず、まるで放送事故のようだった。
「仕方ないですね」
沈黙が30秒近く続いた後、なんとかアナウンサーが続けた。
試合終了後、画面がスタジオに戻っても釜本邦茂も森孝慈も柱谷幸一も何もいうことができない。
柱谷幸一は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。
深夜にもかかわらず番組の視聴率は48.1%を記録。
ワールドカップ出場を直前で逃した日本代表には、帰国後、厳しい批判にさらされることが予想された。
日本の多くのファンは、日本代表を好意的に受け止めていて、成田国際空港に到着した日本代表は多数のファンに温かく迎えられた。
しかし数日後、日本サッカー協会強化委員会は
「修羅場での経験不足」
を理由に翌年5月まで契約が残っていたオフト監督の解任を決定した。

負けることは嫌いだが、いいわけはもっと嫌い。

1994年、新しいシーズンが始まった。
「ようやくスタートラインにたどり着けた。
ここから本当の戦いが始まる。
遠回りしていいる間に開いてしまった差を少しでも早く縮めたい」
充実した気持ちで練習をしていたとき、腹部に張りを感じ、やがて痛みとなり、シュートを放つと激痛が走った。
やがて腹部の痛みはひどくなり寝返りを打つのも苦痛になったが、やっと上がれたJリーグを休みたくなかったので我慢して練習を続けた。
3月12日、ヴェルディ川崎戦でジュビロ磐田がJリーグデビュー。
前半36分、中山雅史は左サイドからのセンターリングに反応し、ディフェンダーの間に走りこんでヘディング。
ゴールキーパーは1歩も動けず、ボールはその左横を通り抜けた。
しかし腹部の痛みはひどく試合翌日から3、4日はジョギングのみで、試合前々日、あるいは前日に全体練習に参加し、当日、痛み止めを打って出場。
そんなことを続けていたが、4月27日の名古屋グランパス戦を最後にチームを離れた。
病院の診断は、「恥骨結合炎」だった。
骨シンチグラフィ検査を行うと恥骨が疲労骨折寸前の状態だった。
積極的な治療法はなく安静にして炎症が消えるのを待つしかなかった。
毎日プールの中で水中歩行する以外は運動も禁止された。
しかし5ヵ月経っても痛みは消えなかった。
(一体いつ復帰できるのだろう?)
不安と腹立たしさの中、菊原志郎や福田正博が似たような痛みを経験しドイツで手術を受けて復帰したという情報が入り日本を離れた。
ドイツでの診断の結果は「グローインペインシンドローム(鼡径部痛症候群)」
中山雅史は、3ヵ所、腹膜から筋肉が飛び出ていた。
「恥骨結合炎」は痛みの本当の原因ではなかった。
グローインペインシンドローム(鼡径部痛症候群)は、骨盤の捻じれや歪みが原因で痛みが起こる障害。
日本では子供や妊娠や出産直後の女性に起こるものとされていたため見落とされてしまった。
キックやランニングの繰り返すサッカーでは、鼠径部、股関節周辺、骨盤にメカニカルなストレスが加わり、体幹から股関節、下肢の筋力低下、柔軟性低下、拘縮、そして鼠径部周辺の痛みが起こる。
手術を受けて、2ヵ月間のリハビリを重ねて帰国した。
結局、1994年は8ヵ月間、ピッチを離れシーズンを棒に振った。
1995年3月22日、中山雅史はガンバ大阪戦でヘディングでゴール右隅にボールを叩き込んだ。
そして大きく跳び上がり右拳を突き上げた。
343日ぶりのゴールだった。

1996年、中山雅史は、ジュビロ磐田のキャプテン、そして最年長になった。
練習では常に先頭に立ち、1番速く走り、1番激しくプレーした
1番早くグラウンドにいき1番遅く出た。
負けることは嫌いだが、いいわけはもっと嫌い。
ウォームアップのストレッチができないほど膝の状態は悪くても、絶対にケガのせいにしなかった。
「中山さんがあんなにやってるんだから俺らもやらないわけにはいかない」
名波浩、藤田俊哉、川口信男などの若い選手は自然に引っ張られた。
1997年、前年11月に手術で半月板を削った右膝のリハビリが始まった。
右膝は、まだ大きく腫れ、真っすぐ伸ばすことも深く曲げることもできなかった。
長いときは9時から22時までジムでリハビリが行われたが
『1時間休息をとりましょう』
「どうして?やろうよ」
と決して休もうとしない中山雅史に、トレーナーはどうしてそうしなければならないか、どうしてそうしてはいけないか、説明した
『明日は休みましょう』
「休み?どうして?」
『体を休めないとリハビリの効果は上がりません』
「いや、やろう」
『休みましょう』
「やらないよりやったほうがいい。
やろう」
『お願いです。
休んでください』
「僕はサッカーがしたいんだ」
決して休もうとしない中山雅史に、リハビリプログラムをみせ、1つ1つのメニューの理由を説明した。
3週間後、
『明日は休みましょう』
「わかった。やらないほうがいいっていうんなら休む」
そして中山雅史は悔しそうな顔で続けた。
「僕はやれると思うんだけど」
やがてピッチに復帰すると200%の力で走り始めた。
試合翌日、リカバリートレーニングで5000mのジョギングを行うと何人かは4000mでやめたが、中山雅史は10000mを走ろうとしてトレーナーに止められた。
第2ステージで中山雅史は初ハットトリック(1試合3得点)を決め、ジュビロ磐田も優勝した。

ワールドカップフランス大会「ジョホールバルの歓喜 」日本代表ワールドカップ初出場

1997年、加茂茂が日本代表監督となった。
ワールドカップフランス大会アジア1次予選グループ4、第4戦マカオ戦で三浦知良が6得点を挙げ勝利。
最終予選B組第1戦のウズベキスタン戦でも三浦知良は4得点を挙げ、日本代表は6対3で勝利。
しかしその後、UAE戦(アウェイ)を0対0で引き分け、韓国戦(ホーム)は、1対2で負け、カザフスタン戦(アウェー)はロスタイムに追いつかれ1対1の引き分け。
試合後、加茂周監督は更迭された。
この時点で

1位 韓国 勝ち点13
2位 UAE 勝ち点7
3位 日本 勝ち点6

UAEがカザフスタンに勝てば絶望的だったが負けたため、日本はホーム(国立競技場)でUAEに勝てば2位浮上という希望が生まれた。
前半3分、呂比須が豪快なシュートで先制。
しかし前半のうちに同点に追いつかれ、試合はドローに終わり、自力での予選突破の可能性は消滅した。
一部のサポーターが暴徒化し罵声を浴びせた。
「お前なんてやめちまえ」
「腹を切れ」
イスを投げつけられ応戦する三浦知良の姿が放映された。
その後、1位通過が決まっている韓国とソウルで対戦し2対0で勝利。
カザフスタン戦も5対1。
3勝1敗4分でUAEを抜いて2位となった日本は、アジア地区の第3代表決定戦をイランと戦うことになった。
試合前日の練習で、イランのフォワード、ダエイ選手とアジジ選手が病院に直行し車椅子でホテルに姿を現した。
(おそらく心理的な作戦)
11月16日、日本代表は、中山雅史と三浦知良が2トップを組んだ。
前半40分、中田英寿のスルーパスで中山雅史はゴールキーパーと1対1になった。
そして左足のインサイドで左に流、先制点。
後半1分、アジジに同点弾を決められ、次いでダエイに逆転ゴールを奪われた。
ここで岡田武史監督は中山雅史と中山雅史を下げ、城彰二と呂比須ワグナーを入れた。
交代理由は、試合前のミーティングで
「フリーキックは中田(英寿)、もしくは名波(浩)が蹴る」
と決めていたのに三浦知良が、それを無視して蹴って大きく外したためだったが、このとき
「オレ?」
と三浦知良は自分を指差した。
「ゴン(中山雅史)? 俺? どっち?」
というジェスチャーだったが多くの人は
「まさか俺?」
というように解釈した。
試合は代わって入った城彰二が2点目を叩き出して延長戦へ突入。
最後は中田英寿のパスから野人:岡野雅行が劇的ゴールを決めた
日本代表が初めてワールドカップ本大会出場を決めたこの試合は、
「ジョホールバルの歓喜」
といわれている。
また
「カズからヒデへ」
世代交代が鮮明になった試合でもあった。
帰国後、中山雅史は鹿島アントラーズとのチャンピオンシップで3ゴールを挙げてMVPとなる活躍をみせ、磐田のリーグ初制覇に貢献した。

ハットトリック男

1998年、1993年の発足時、10クラブだったJリーグは18クラブまで数を伸ばした。
日本代表もFIFAワールドカップフランス大会に向け準備を進めた。
中山雅史は、
4月15日 セレッソ大阪戦で5得点
4月18日 サンフレッチェ広島戦で4得点
4月25日 アビスパ福岡戦で4得点
4月29日 コンサドーレ札幌戦で3得点
と4試合連続ハットトリック。
しかし浮かれることはなかった。
「フランスのメンバーに選ばれる保証はない。
津波が引くのは早い。
この調子をワールドカップまでに落としたくない」
実際、代表の最終メンバー争いはし烈を極めた。
スイスでの本大会直前合宿に代表候補25人が招集された。
三浦知良も、これまで何度も読み心の糧にしていた尊敬するモハメド・アリの自伝を持参し参加した。
しかし北澤豪、市川大祐と共に、本大会の出場メンバーには選ばれなかった。
「俺たちがやってきたことは間違いない。
大事なのはこの後だ」
落選翌日、三浦知良は北澤豪と合宿先のスイスからイタリア・ミラノへ移動し一泊20万円を借りてで豪遊した。
(ホテル代金は、後日日本サッカー協会に請求)
そして金髪に染め上げて帰国し成田国際空港で会見を行った。
「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」
(三浦知良)

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