GON 中山雅史 本能むき出しの点取り屋 ハットトリック男 熱血、不器用、猪突猛進、侍エースストライカー

GON 中山雅史 本能むき出しの点取り屋 ハットトリック男 熱血、不器用、猪突猛進、侍エースストライカー

Q.好きな言葉は?「力」 Q.欲しいものは?「膝の軟骨、半月板、テクニック」Q. 中山雅史にあるものは?「負けず嫌いとサッカーを愛する気持ちだけ。ほかになにもないから中山雅史だった。なにもないからなにかを得ようともがき苦しみ、もがき苦しむことから抜け出すために、手を伸ばし、その先をつかもうと努力した。ずっとその繰り返しだった」


鬼瓦ゴン蔵

静岡県中部、海から5㎞ほど入ったところに日本サッカー界のスーパーアイドル:中山雅史が生誕した藤枝市岡部町はある。
実家は築100年を超え、父;中山儀助は、300羽の鶏、ミカン畑、茶畑を保有し、町議会議員も務めたことがある名士。
中山雅史は小4で岡部サッカースポーツ少年団に入った。
火木土は家から10分の小学校のグラウンドで練習、日曜は試合だった。
小6のとき、チームが志太リーグで優勝。
中山雅史は得点王。
さらにさわやか杯(静岡県大会)で優秀選手となって表彰された。
「プロのサッカー選手になりたい」
まだJリーグなどないころからの夢だった。
岡部中学ではサッカー部に入部。
最終戦は3年生のときに地区予選。
チームは敗退し県大会にも進めなかった。
その他にもコーラス部でテナーを担当し、東日本大会で優秀校になった。
陸上部の駅伝にも助っ人出場し、志田駅伝2位、藤岡駅伝で優勝し、中山雅史は区間1位だった。

1983年、中山雅史は、藤枝高校に進学後もサッカー部に入った。
藤枝高校は、1924年に創設され、2年後に文武両道を目指した初代校長が蹴球部を設立。
サッカー部顧問となったのは、国語教師:長池實。
長池實は海外から書籍を取寄せ研究し、約20年間の指導で、全国大会(全国高校サッカー選手権大会)、インターハイ(全国高校総合体育大会)、国体(国民体育大会)で、1度の3冠達成を含む8回の優勝を経験した。
15歳の中山雅史は、パスやドリブルだけでなく、練習に対する態度も不器用で、まったく手を抜くことができなかった。
「放っておいてもいつも全力で練習し出し切ることができる子は初めて」
そういう鎌田昌治監督は、藤枝サッカー部出身で、1970年に高校サッカー選手権で優勝したときのキャプテンだった。
「個人の技術は大切だがそれを伸ばすのに3年間は短い」
と鎌田昌治監督は技術的なミスにはある程度目をつぶった
重視したのは、全力の姿勢。
「これだけやったのだから負けるハズがない」
勝負所で思えるだけの練習を部員に求めた。
特に中山雅史の代のチームは素質に恵まれておらず練習は激しさを増した。
練習試合で不甲斐ない負け方をしたとき、鎌田昌治監督はいった。
「走ろう」
ゴールラインから向こうのペナルティエリアまで約80mを13秒以内で走り、戻りは47秒。
合計1分。
そして合図に合わせて再びスタートする。
10本を過ぎた。
「もう1本」
15本が過ぎ
「もう1本」
中山雅史は思った。
(何本走るんだろう)
30本を終えた。
「あと10本」
(いつまで続くんだ)
部員は時間ギリギリに転がり込み、立ち上がり、もがくようにスタートに向かった。

1984年、中山雅史は、2年生のとき第63回全国高校サッカー選手権大会静岡県予選決勝で東海大学第一と対戦。
戦前の「東海大一有利」の予想通り、藤枝高校は押され続けたが、前半30分、縦パスに反応した中山雅史がディフェンダーを振り切ってゴール。
ワンチャンスをモノにし試合の流れを引き寄せた藤枝高校が3対1で勝ち、5年ぶり18回目の全国大会出場を果たした。
全国大会準決勝で長崎県立島原商業高等学校と対戦しPKで負けた。
藤枝高校は、4試合で0失点、中山雅史は4試合2得点だった。
チームが苦しいときに流れを変えるゴールを決めてくれる選手だったが、後にJリーグで157ゴールを決めワールドカップでも得点する選手になろうとは、鎌田昌治監督は想像もしなかった。
「もし中山が器用で高校でテクニックを評価されていたら今の中山はいないかもしなれい。
自分がうまくないことを中山は自覚していた。
足りない部分を何で補い周囲にどのようにアピールしていけばいいか。
そういうことを高校のときからすでに理解し実践していた・
トコトン頑張る選手であることは確かだが、それ以前にすごく賢い選手だった」
1986年、中山雅史は、筑波大学体育に入学してサッカー部に入部。
俺たちひょうきん族」でビートたけしが演じる鬼瓦権蔵に似ていると「ゴン」と呼ばれるようになった。
ヤマハ発動機との練習試合で筑波大学は3対0で負けたが、中山雅史は、どんな相手にも恐れず競り合い、1タッチ、2タッチ、早く、高く、ボールと相手の間がないに等しい空間に鼻先をこじ入れようとし、何点負けていようと最後まで全くあきらめようとしなかった。

うまい選手や速い選手はたくさんいるが、ゴンのようないい選手はそうはいない

1990年4月、中山雅史は静岡県磐田市のヤマハ発動機に入社し、サッカー部に入部。
サッカー部員の出社を免除する部署もあったが、中山雅史が配属された人事部は、現役を終えた後のために少しでも仕事をしていたほうがいいと仕事をさせた。。
1日の仕事ははラジオ体操から始まった。
朝礼が終わると机に向かった。
「もしもし人事部の中山です。
主査はいらっしゃいますか?」
「はい、私ですが」
「先日のセミナーの提出書類がまだのようですがどうなっていますでしょうか?」
「あれっ、出していなかったっけ」
「はい、まだなんですが」
「・・・・・・・・・・・・ああ、あったあった」
「早急に人事部に提出していただけますか」
引き出しに入った封筒をサイズごとにそろえ、中間管理職に電話をかけ受講したセミナーや講習会のレポートの提出を促し、青年海外協力隊の希望者の面接を行った。
業務は11時半で終了。
やり切れなった仕事は寮に持ち帰ることにして、社食で昼食をとって練習に向かった。
ジュビロ磐田の前身であるヤマハ発動機サッカー部は、1972年に設立され1978年に自前のグラウンド:ヤマハ発動機東山グラウンド(現:ヤマハスタジアム)をつくり、1982年、後に日本代表監督にもなるハンス・オフトをコーチに迎え、日本サッカーリーグ(JSL)1部へ昇格、天皇杯全日本サッカー選手権で優勝。
国内では読売クラブ、日産自動車に次ぐ3番手のクラブとして認知されていた。
ヤマハ発動機の練習グラウンドは、かつて野球場だったので通常のサッカーグラウンドより広かった。
しかし中山雅史が入団したての頃は、まだ内野の部分は土のままで練習は外野で行われた。
クラブハウスもなく、車で10分ほどの誠和寮で着替えてからグラウンドにいかなければならなかった。
そして練習後は誠和寮に戻り風呂に入ってから家に帰ったが、夏はグラウンド脇の水道からホースを引いて水浴びをした。
やがて更衣室とシャワーがグランドの隅に建てられると「部室」と呼ばれた。

入団当時、シュートを外すとよくうつむいていた中山雅史に内山篤は声をかけた。
「大丈夫。
誰だって外すんだ」
「顔を上げよう」
「次のチャンスに入れることを考えよう」
内山篤は、1982年にヤマハ発動機サッカー部に入り、3年後には日本代表に選ばれ、1986年から3年間、ヤマハ発動機サッカー部キャプテンとなり、1988年には日本サッカーリーグ初制覇にチームを導いた。
1991年、中山雅史が入団して2年目、長澤和明監督にコーチ就任を請われ、引退。
「チームが苦境に立たされたとき頑張れない選手は、『俺はやっている。悪いのはアイツだ』と人のせいにする。
いい選手は人のせいにしない。
チームが苦しくなればなるほど頑張る。
うまい選手や速い選手はたくさんいるが、いい選手はそうはいない。
ゴンのようないい選手を育てたい」
(内山篤)

ヤマハ発動機 Jリーグに入れず 「最短でも3年の遠回りになるが・・・」

1991年、ブラジルで2年前に現役を引退しスポーツ担当大臣をやっていたジーコが日本リーグの2部リーグに所属していた住友金属に入団し現役に復帰。
初めて住友金属の土の練習グラウンドをみて
「このピッチは選手がサッカーをやる環境か」
とつぶやいた。
その後、練習後、選手が風邪を引かないように練習場の近くにシャワールーム、フィジカルトレーニング設備、ケガをしてもすぐに治療ができるメディカル面の整備など100%サッカーに集中できるようにフロントに要求。
選手には、まずボールを止める、蹴る、止めるを繰り返し、基本の大切さを説いた。
練習後、ロッカールームに散らばったシューズを見つけると
「明日もこんな状態だったら全部捨てる」
といって自分のスパイクの手入れを始め、お菓子を食べている選手には
「プロの体づくりにお菓子は必要ない」
と怒鳴った。
2月、1993年から始まるJリーグに加盟する10クラブが発表された。
ヤマハ発動機は加盟を希望していたが、自前のスタジアムがないことがネックとなって選ばれなかった。
中山雅史は清水エスパルスなどいくつかのJリーグ加盟クラブから移籍を誘われていたが直感的に
「ヤマハ発動機サッカー部に賭けよう。
Jリーグに這い上がろう。
最短でも3年の遠回りになるが、そこで戦いもがく経験が自分にとって必ず意味を持つはずだ」
と思った。
事実、その経験は、勝利に対する執着心を強め、苦境に負けない精神力を育み、そして中山雅史に努力を重ねさせ逞しくした。

オフトジャパン

1992年3月、サッカー日本代表監督に、1982年に当時2部だったヤマハ発動機に臨時コーチとして来日し2カ月で1部昇格および天皇杯初優勝に導いた経歴を持つ
44歳のオランダ人のハンス・オフトが就任。
そしてヤマハ発動機サッカー部からは副キャプテン:吉田光範と中山雅史が日本代表に召集された。
Jリーグ以外のクラブで日本代表を出したのはヤマハ発動機だけだった。
中山雅史は日本代表でも、いつも正面に「YAMAHA」のロゴが大きく入ったキャップをかぶった。
ハンス・オフト監督は最初の浜松のキャンプで
「選手の状態を知りたい」
と22時までロビーに居座り、誰が出入りし、誰と誰が仲がいいかなどをチェック。
22時30分になるとコーチに部屋をみてこいと指示し、誰が寝て誰が起きてるかチェック。
朝は必ず選手たちと握手し、トレーニングや個々の選手の情報などなんでも気がつけばメモを取った。
ミーティングは、準備のために1時間前からミーティングルームに入った。
集中しやすいようにイスを並べ、模造紙に字や図を書くのだが、
「見えるか?」
とスタッフに聞いた。
食事は「いただきます」から「ごちそうさま」まで全員一緒。
食堂の机はコの字に配置され、真ん中に監督とスタッフが入り、あとは自由。
オフト監督からはすべての選手と選手の食事がみえた。
「ちゃんと食事がとれないといいパフォーマンスはできない」
と食べ方や食べる量をチェックし
「私の近くに座る選手は私を信頼している」
と判断した。

それまで日本代表のミーティングはラモス瑠偉を中心に行われていたが、オフト監督はそれに代わった。
練習初日、選手を呼ぶときの指笛を吹くオフト監督に対しラモスは
「俺達はあんたの犬じゃない」
と抗議しつっかかった。
「冗談じゃないよ」
メディアにも公然と不満をぶちまけるラモスを呼び出しオフト監督は
「もう代表に来なくていい」
といい渡した。
実際に外されることはなかったが、食堂でラモスは監督から1番遠い席に座った。
オフト監督とラモスはサッカー観も対立した。
オフト監督は、選手個々のタスク(役割)を徹底させ、サイド攻撃を重んじたが、ラモスは自由奔放な中央突破を理想とした。

自由と自主性が1番と考える三浦知良も規律主義のオフト監督に反発があった。
清雲栄純コーチ(古川電工、日本代表)は、オフト監督の命を受け、毎晩、選手がちゃんと寝ているかチェックした。
あるとき三浦知良だけ起きてマッサージを受けていたので
「もう寝ろ」
と注意すると
「俺の体は俺が1番知っているんだ」
と返された。
三浦知良は練習が終了してもなかなか戻らず、1番最後にシャワーを浴び、マッサージもタップリ行い、アイシングにも時間をかけた。
また高校まではラグビー(花園を経験)で大学からサッカーを始めた清雲栄純に
「清さん、サッカー知らないじゃん」
といったり
「キヨーッ」
と呼び捨てにしたり、頭を小突いたりした。
オフト監督は選手に疑心暗鬼の目でみられながら、それまで自由だった戦術に、
「アイ・コンタクト」
「トライアングル」
「サポート・ディスタンス(サポートの距離)」
「サポート・アングル」
「サポート・タイミング」
「チェンジ・リズム」
「チェンジ・サイド」
「スモール・フィールド」
「アグレッシブ・タックリング」
「リスタート」
などのルールを決めて落とし込んでいった。
チームの最大目標を「ワールドカップアメリカ大会出場」とし、海外遠征、国内に海外クラブを招いての試合、ダイナスティカップ(現:東アジアE-1選手権)、アジアカップなどは、その過程と言い切った。

カズとゴン

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7月、日本代表はオランダ遠征を行った。
このとき三浦知良は中山雅史と公園の芝生の上で寝そべりながら
「ワールドカップいこうな」
などと熱く語り合っていた。
しかし周りがゲイのカップルだらけなのに気づくと日本代表のツートップはすぐに無言で帰った。
キングカズこと三浦知良と中山雅史は長らく日本代表で2トップを組んだ。
フェイントとドリブルで相手を抜き去る三浦知良。
少しでも得点の匂いがあれば、体を投げ打ってゴール前にダイブする中山雅史。
2人の相性は抜群だった。

「サブの生き様をみせてやる」

平均年齢29歳の日本代表の中で26歳の中山雅史はサブ組だったが、レギュラー組に負ける気はしなかった。
紅白戦には
・対戦相手のフォーメーションで戦うこと
・ケガをさせてはいけない
という約束事があったが
「勝ってはいけないというルールはないはず」
「紅白戦だろうがなんだろうがやる以上は勝ちにいく」
「サブの生き様をみせてやる」
と思っていた。
そして清雲栄純コーチも入ったサブ組はレギュラー組との紅白戦で2勝2敗。
サブ組の本気は日本代表の雰囲気を変えた。
レギュラー組は危機感と緊張感を高め、その姿勢にサブ組は納得し、チームはより一体となった。
8月22~29日、中国の北京でダイナスティカップが開催。
日本はグループリーグ初戦の韓国戦で引き分けたが、続く中国と北朝鮮に勝利しグループ1位。
2位韓国と戦った決勝は、2対2からPK戦で勝利し優勝した。
日本が海外の国際大会で優勝するのは初めてでチームは大きな自信を得た。
「技術、体力はすぐには向上しない。
理由は明らか。
戦術なんだよ。
中国、北朝鮮、韓国を連破できるなんてあり得なかった。
今ある選手の能力をいかにチームとして高めて勝負するか。
これぞプロ監督」
(川渕三郎)
4対1でリードしていた北朝鮮戦の80分に、中山雅史は準備を命じられ立ち上がった。
そして歩き始めたとき、オフト監督の声が聞こえた。
「行くぞ!」
(えっ、もう?)
81分、この試合2ゴール高木琢也と交代。
あわててピッチに入ったが、その後のパフォーマンスは最悪だった。
3日後の韓国戦では、試合開始直後から走り始めた。
0対1でリードされた前半42分、オフト監督に呼ばれ、後半38分、日本代表初ゴールを決め、試合を振り出しに戻した。

「俺はお前を信じている。お前も俺を信じろ!」

10月29日~11月8日、第10回アジアカップ広島県で開催。
20ヵ国が6グループにわかれ予選に参加し、各グループの1位が本大会に出場するというシステムで、強豪国の韓国は予選で敗退し、日本代表は2大会連続2回目の出場を決めた。
そして本大会は、グループリーグA組(日本、アラブ首長国連邦(UAE)、イラン、北朝鮮)、B組(サウジアラビア、中国、カタール、タイ)にわかれ総当たり戦を行い、各組上位2チーム、合計4チームが決勝トーナメントに進む。
グループステージ第1戦、日本はUAE戦を0対0で引き分け。
第2戦の北朝鮮は、前半29分に先制された。
後半、24分にPKのチャンスを得たが三浦知良が決められず、後半35分に交代出場した中山雅史が三浦知良のコーナーキックにヘッドで合わせ、1対1で引き分けた・
第3戦のイラン戦。
グループステージを突破するために勝つしかない日本と引き分けでも突破が決まるイランの試合は0対0で前半を終えた。
ハーフタイム、オフト監督は
「残り20分を切ったら前線からプレスをかけ、残り10分になったら後ろ(最終ライン)には3人だけ残して守備陣も攻めに出ろ」
と指示を出した。
後半8分、イランは退場者が出し、日本は数的優位に立ったが得点を奪えなかった。
後半35分、残り10分になり、主将の柱谷哲二は3人だけ残すという監督の指示を破り、2人だけを残して攻めに参加させた。
後半40分、井原正巳のスルーパスを三浦知良が右足でシュートした。
「思い切って、魂込めました、足に」
劇的なゴールにスタンドは総立ち。
歓声が広島ビッグアーチ(現:エディオンスタジアム広島)の背後の山に反響し、学園祭が行なわれていた付近の大学は騒然となった。
決勝トーナメントは準決勝、決勝と2回勝てば優勝。
日本はまず中国と対戦。
開始30秒で先制され、0対1のまま前半は終わった。
後半3分、福田正博が同点ゴール。
後半12分、北澤豪が逆転。
後半15分、ゴールキーパー:松永成立がコンタクトプレーの後に相手選手を蹴ってしまい退場。
ゴールキーパーの前川和也が入り、北澤豪がベンチに下がった。
後半25分、前川和也が何でもないボールを後ろにこぼし同点とされる。
後半39分、ラモス瑠偉 - 堀池巧 - 福田とつないで中山雅史がヘッドで決め、3対2で勝った。
決勝戦はこの大会2連覇中のサウジアラビアと対戦。
しかし序盤から主導権を握り、前半37分、都並敏史からパスを受けた三浦知良がセンタリング。
これを高木琢也が胸トラップからのボレー。
この先制点を守り抜き勝利
日本代表はアジアカップで初優勝した。

中山雅史は北朝鮮戦の同点弾、中国戦の決勝弾をいずれも途中出場で叩き込んで「スーパーサブ」と呼ばれた。、
「チームが下痢のときと便秘のときにだけ僕に出番が回ってくるんですよ」
下痢は大差がついている試合、便秘は拮抗している試合。
先発を望んでいた中山雅史は、日本代表を取材していたテレビカメラに向かって大声でいった。
「オフト、俺はお前を信じている。
お前も俺を信じろ!」
日本で開催されたアジアカップで優勝したことでサッカー日本代表は俄然注目されるようになった。
翌年のJリーグ開幕に向けての呼び水となり、サッカーが大きなムーブメントになろうとしていた。
中山雅史の熱意溢れるプレーは話題となった。
そのトーク、中山節も人気でニッポン放送のサッカー番組でレポートコーナーが常設されるなど、全国的にブレイクした。

Jリーグ

1992年シーズン、ヤマハ発動機は13勝無敗。
中山雅史は13得点でジャパンフットボールリーグ得点王となった。
「同じボール、同じ状況は2度と来ない。
経験がそのまま次に生きることはない。
だがだからといって経験を曖昧なままにしておけば次はない。
天才は経験に頼らずひらめきでプレーできるだろうが、僕は天才ではない。
常に目の前の練習に集中するしかない。
やり続け、やり続け、やり続け、やり続けること。
1本1本を体に刻み込み、100万分の1の確率を50万分の1に、50万分の1を25万分の1に変え、偶然を必然に追い込みたい」
1993年、Jリーグが発足した。
参加したクラブは
・鹿島アントラーズ
・東日本JR古河サッカークラブ(現:ジェフユナイテッド千葉)
・三菱浦和フットボールクラブ(現:浦和レッズ)
・読売日本サッカークラブ(現:東京ヴェルディ)
・日産F.C.横浜マリノス(1999年、全日空佐藤工業サッカークラブと統合。現:横浜F・マリノス)
・全日空佐藤工業サッカークラブ(横浜フリューゲルス)
・清水FCエスパルス(現:清水エスパルス)
・名古屋グランパスエイト(現:名古屋グランパス)
・パナソニックガンバ大阪(現:ガンバ大阪)
・サンフレッチェ広島F.C
の10クラブ(オリジナル10)だった。
ジュビロ磐田は開幕参加を望んでいたが、スタジアムを保有していなかったことがネックとなり、1994年からの参戦となった。
本来、開幕は3月だが、この年は4~5月までワールドカップアメリカ大会のアジア一次予選が開催され、Jリーグの成功に日本代表の成功は不可欠と考えたサッカー協会は5月15日に開幕を遅らせた。
Jリーグにはラモス・ルイ、三浦知良、都並敏史、武田修宏、北澤豪、井原正巳など国内の有力選手に加え、ジーコ(鹿島)、リトバルスキー(市原)、カレカ(柏)、ディアス(横浜M)など世界的な選手が海を渡ってきて参戦した。
そのサッカーは豪快で華麗で芸術的で観客を見惚れさせた。

1993年5月16日のJリーグ開幕戦、名古屋グランパス戦で、前半25分に強烈なミドルシュートで先制点を決め、5分後の前半30分にも芸術的なフリーキックで2点目。
後半18分にもアルシンドのクロスをボレーで合わせJリーグ初のハットトリックを達成。
そして5対0で快勝した。
鹿島アントラーズはその勢いのまま1stステージで優勝した。
2ndステージは、ラモス、ペレイラ、ビスマルク、三浦知良などスターぞろいのヴェルディ川崎が優勝。
両チームはチャンピオンシップで年間優勝を争った。
チャンピオンシップ第1戦、ヴェルディが2対0で勝った。
第2戦は、0対1でヴェルディ川崎が負けていたが、残り10分を切ったところでPKが与えられた。
すると三浦知良が蹴ろうとするボールにジーコは唾を吐、退場させられた。
まるでジーコらしくない行為だった。
「その試合はJリーグのチャンピオンを決める最初のファイナルだったが、私は何かがおかしいと感じていた。
2戦ともヴェルディのホームでプレーするということやロッカールームの問題などすべてにおいてヴェルディが保護されていたからだ。
さらにいえばPKを与えたレフリーはヴェルディで働いたことのある人間だった。
とはいえ私の行為は反スポーツマン的だったと後悔している。
私がレフリーに抗議して退場となったのは初めてのことだったし規律上の問題でピッチを去ったこともそれまで1度もなかった。」
(ジーコ)
当時の日本ではまだホーム&アウェイも定着しておらず、第1戦、第2戦とも国立競技場で行われた。
サッカー先進国から来たジーコが異議を唱えるのは当然だった。
ジーコは、1993年の開幕から1994年の6月までJリーグでプレーし、23試合14得点。
その間、普段の練習から全力を尽くし、紅白戦、サブ組の試合でも勝つために戦うという勝利への執着心をチームに植えつけた。
現在でも鹿島アントラーズは
「常勝軍団」
と呼ばれ、所属する選手は
「鹿島でプレーするということはタイトルを獲ること」
と認識している。
まだジーコ魂は健在である。

ジュビロ磐田 Jリーグ昇格

1993年、ヤマハ発動機はJリーグに上がるためにはJFL(ジャパンフットボールリーグ)を2位以内でシーズンを終えなければいけなかった。
「なにがなんでも勝つ!」
チームは狂気に包まれた。
キャプテンでゴールキーパーの森下申一は、富士通(現:川崎フロンターレ)戦で、オフサイドのジャッジに納得できずゴールマウスから飛び出し線審に迫り、中央防犯(現:アビスパ福岡)戦では、試合終了直後に右足でグラウンドの立て看板を蹴り倒した。
勝ちさえすればプロセスはどうでもよかった。
森下申一は中盤でボールを奪われるリスクを避けロングボールを前線に蹴りこんだ。
そのボールをワントップの中山雅史は待ち受けた。
開幕から7試合6ゴール。
1試合5ゴールもあった。
1993年8月、神奈川県の海老名公園陸上競技場で行われたJリーグの下部組織:JFL(ジャパンフットボールリーグ)1部、ジュビロ磐田 vs 東芝(現:コンサドーレ札幌)戦が行われた。
観客数は2500人。
3日前に東京の国立競技場で行われたJリーグ、ヴェルディ川崎 vs 名古屋グランパス戦は、54977人だった。
この時点でJFLの順位は
1位 フジタ(現:湘南ベルマーレ)
2位 ジュビロ磐田
3位 東芝
4位 ヤンマーディーゼル(現:セレッソ大阪)
Jリーグに昇格するためには2位以内でのシーズン終了が必要だった。
ジュビロ磐田のフォワードは、中山雅史とアントニオ・カルロス・アンドレ。
前半11分、アンドレの得点でジュビロ磐田が先制。
35分、東芝が同点に追いつく。
44分、中山雅史がペナルティキックを決めた。
89分、ジュビロ磐田の勝利かと思われたが東芝が同点ゴール。
延長戦に入り、ジュビロ磐田陣内でのボール争奪戦が続いた後、ボールは大きく蹴り出された。
明確な意図のあるパスではなく、とりあえず東芝陣内に蹴りこんでおこうというロングキックだった。
ボールはハーフラインの向こう5mに落ちた。
1番近くにいたのは東芝の石崎信弘。
2番目に近かったのは中山雅史。
2人は東芝ゴール方向に弾むボールを追いかけた。
中山雅史は石崎信弘を背中から追いかけ、ボールのツーバウンド目で追いつき、少し背中を丸め低い姿勢で石崎信弘の前に頭をこじ入れヘッドでボールを東芝ゴールに向けて押し進めた。
石崎信弘は中山雅史の腰に腕を回ししがみつきラグビータックル。
中山雅史はそれを引きずりながら前進。
振り切られた石崎信弘は地面に落ちて1回転した。
中山雅史はペナルティエリアに侵入。
再びゴールキーパーのラグビータックルを足首に受けながら左にかわしてシュートを決めた。
「俺がジュビロの中山だ~」
1993年シーズン、ジュビロ磐田は14勝4敗でフジタに次いで2位。
中山雅史は18試合18ゴール。
11月3日の夕方、磐田市に放送が鳴り響いた。
「ジュビロ磐田がJリーグに昇格しました」
市内数か所で花火が上がり、県道磐田停車場、愛称ジュビロードは人々で埋め尽くされた。
中山雅史は合宿を行っていたヤマハリゾートでマイクの前に立った。
「負けられない試合ばかりの本当に厳しい1年でした。
このチームでJリーグに入れたことが本当にうれしいです。
このシーズン、日本代表で活躍できたのもジュビロ磐田に残ってがんばった結果だと思います」

ワールドカップアメリカ大会 「ドーハの悲劇」 日本代表 最終予選最終戦ロスタイムで同点にされ本大会出場ならず

1993年、翌年に行われるワールドカップアメリカ大会に向け、アジア予選が開始された。
1次予選はA~F組にわかれ6ヵ国が通過。
最終予選はその6ヵ国が総当たり戦を行い、上位2ヵ国がワールドカップの出場権を得る。
日本は1次予選F組を7勝1分けで通過。
カタールの首都:ドーハに移動し最終予選に挑んだ。
通常は各国代表は別々のホテルに別れるが、湾岸戦争(1990年8月2日、イラク軍がクウェート侵攻、1991年1月17日、多国籍軍がイラクを空爆、1992年3月3日、暫定停戦協定)の影響で日本、韓国、北朝鮮、イラン、イラク、サウジアラビアは1つのホテルの同フロアに宿泊し厳しく警備された。
日本はスタッフが9階、選手が8階。
別棟7階にキッチンと食堂、ミーティングルームを確保した。
オフト監督は食事を大事にしたが、UAEで行われた1次予選のときはホテルの厨房の使用許可が下りず、ドーハでは自分たちのキッチンを用意した。
日本から同行したシェフは、朝、昼、晩、毎食バイキング形式で食事を用意した。
納豆などは無事空港を通ったが、米など持ち込めなかった食材は現地で調達された。
そして

第1戦、サウジアラビア 0対0
第2戦、イラン 1対2
第3戦、北朝鮮 3対0
第4戦、韓国 1対0

と第5戦を残し、日本は1位。
2位 サウジアラビア
3位 韓国
4位 イラク
5位 イラン
6位 北朝鮮
と続いた。
第4戦で、これまで40年間勝っていなかった韓国を1対0で破ったことで、第5戦が残っているのにまるでもうワールドカップ本大会出場が決まったような雰囲気が生まれた。
「まだ終わっていないよ」
ラモスが選手たちにしつこくいった。
実際、第5戦の結果次第で北朝鮮以外の5ヵ国に本大会出場のチャンスが残されていた。
第5戦の組み合わせは
日本 vs イラク
サウジアラビア vs イラン
韓国 vs 北朝鮮
だった。
日本は勝てば、他の試合の結果にかかわらずワールドカップ本大会出場が決定。
引き分けても
・サウジアラビア vs イラン戦が引き分け
・イラン勝利、
・韓国 vs 北朝鮮戦が引き分け、
・北朝鮮勝利
・韓国が1点差以下で勝利
の場合はワールドカップ本大会出場が決定するという、かなり有利な立場だった。
3位の韓国は自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で北朝鮮に勝っても日本とサウジアラビアが勝てば本大会出場ができない状況だった。

1993年10月28日、日本 vs イラク戦がアル・アリ競技場で開催された。
両国の対戦は9年半ぶりで、過去の対戦成績は日本の0勝3敗1分け。
この試合から出場停止中だった主力2名が復帰するはずだったが、試合当日朝にペナルティーの延長が決まった。
イラクは最終予選を通して不利な判定を受けていた。
イラクとワールドカップ開催国:アメリカは湾岸戦争で敵国。
イラクがアメリカ大会に出場することを阻止する配慮があったのではないかとまことしやかに囁かれていた。
にもかかわらずここまで最終予選を1勝2分け1敗。
イランに勝ち、韓国、サウジアラビアと引き分け、北朝鮮戦も2対0でリードしていたが途中退場者を出て負けた。
しかも得点数は6ヵ国中1位。
間違いなく強かった。
日本の前線には三浦知良、中山雅史、長谷川健太が立った。
イラクは出場停止処分が重なり主力数名を欠いていた。
前半5分、中山雅史のポストプレーから長谷川健太がシュート。
クロスバーに弾かれたボールを三浦知良がヘディングで押し込んだ。
勝利しか本大会出場の望みがないイラクは、ボールを奪うとカウンターを仕掛ける展開。
前半は1対0で終了。
このとき他の2会場は
『サウジアラビア 2対1 イラン』
『韓国 0対0 北朝鮮』
このまま勝敗が進めば日本とサウジアラビアが勝ち抜けとなる。
ハーフタイムではオフト監督が
「Shut Up(黙れ)」
と何度も怒鳴らなければならないほどロッカールームに引き上げてきた選手たちは興奮状態で、各々勝手に話し合っていた。
選手たちの会話がどこで起こっているのかわからない異様な状況が続き、オフト監督が
「U.S.A. 45min(アメリカまであと45分)」
とホワイトボードに書いて説明しようとしたら後半のブザーが鳴ってしまった。

後半、日本は運動量が落ち、イラクがボール支配率を高め攻勢を強めた。
後半15分、アーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ1対1の同点。
他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねていて、日本は勝たなければ予選敗退となる。
後半24分、ラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドラインギリギリで抜け出した中山雅史が受け、ゴール右角にショートを決め、2対1。
ゴールシーンをベンチ正面から見ていた都並敏史は
「こりゃオフサイドだ。
これ、くれるか」
とつぶやいた。
ラモスは主審の笛が日本寄りな雰囲気を感じ、微妙な判定なら流すと予想していた。
この勝ち越しゴールも中山雅史がオフサイトポジションに出た瞬間を狙ってスルーパスを出した。
その後、両チームとも疲労が激しく膠着状態が続き日本勝利かと思われた。
後半44分50秒、武田修宏がまだ味方が詰め切れていないイラクゴール前へセンタリング。
このルーズボールをラモスが回収し、最終ライン裏へ浮き球のスルーパスを通そうとした。
イラクはこのパスをカットし、自陣からカウンターアタックを仕掛け、最後はコーナーキックのチャンスを得た。
試合時間は後半45分を超えてロスタイムに突入した。
ロスタイムに入り、いつ主審が試合が終わらすかわからない状況ではコーナーキックはゴール前へ直接センタリングを蹴るのが常識。
しかしキッカーのライト・フセインは、意表を突きショートコーナー。
三浦知がプレスに走りスライディングをかけた。
しかしフセイン・カディムは振り切らりセンタリング。
オムラム・サルマンがヘディングでシュート。
ボールはゴールキーパー:松永成立の頭上を放物線を描いてゴールに吸い込まれた。
2対2。
イラクはすぐにセンターサークルにボールを戻し、最後まで勝利を目指す姿勢をみせた。
日本はキックオフから前線へロングパス。
しかしをボールがタッチラインを割った時点で笛が鳴り試合は終了した。
ベンチに下がっていた中山雅史は頭を抱えながら崩れ落ちるように倒れこんだ。
この試合はテレビの生放送されていたが、
「決まった!」
と現地で実況中継していたアナウンサーが叫んだ後、同じく現地にいた解説者も、東京のスタジオでゲスト出演していた釜本邦茂(ガンバ大阪監督)、森孝慈((浦和レッズ監督)、柱谷幸一(浦和レッズ、日本代表キャプテン:柱谷哲二の兄)らも誰も一言も発せず、まるで放送事故のようだった。
「仕方ないですね」
沈黙が30秒近く続いた後、なんとかアナウンサーが続けた。
試合終了後、画面がスタジオに戻っても釜本邦茂も森孝慈も柱谷幸一も何もいうことができない。
柱谷幸一は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。
深夜にもかかわらず番組の視聴率は48.1%を記録。
ワールドカップ出場を直前で逃した日本代表には、帰国後、厳しい批判にさらされることが予想された。
日本の多くのファンは、日本代表を好意的に受け止めていて、成田国際空港に到着した日本代表は多数のファンに温かく迎えられた。
しかし数日後、日本サッカー協会強化委員会は
「修羅場での経験不足」
を理由に翌年5月まで契約が残っていたオフト監督の解任を決定した。

負けることは嫌いだが、いいわけはもっと嫌い。

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