GON 中山雅史 本能むき出しの点取り屋 ハットトリック男 熱血、不器用、猪突猛進、侍エースストライカー

GON 中山雅史 本能むき出しの点取り屋 ハットトリック男 熱血、不器用、猪突猛進、侍エースストライカー

Q.好きな言葉は?「力」 Q.欲しいものは?「膝の軟骨、半月板、テクニック」Q. 中山雅史にあるものは?「負けず嫌いとサッカーを愛する気持ちだけ。ほかになにもないから中山雅史だった。なにもないからなにかを得ようともがき苦しみ、もがき苦しむことから抜け出すために、手を伸ばし、その先をつかもうと努力した。ずっとその繰り返しだった」


鬼瓦ゴン蔵

静岡県中部、海から5㎞ほど入ったところに日本サッカー界のスーパーアイドル:中山雅史が生誕した藤枝市岡部町はある。
実家は築100年を超え、父;中山儀助は、300羽の鶏、ミカン畑、茶畑を保有し、町議会議員も務めたことがある名士。
中山雅史は小4で岡部サッカースポーツ少年団に入った。
火木土は家から10分の小学校のグラウンドで練習、日曜は試合だった。
小6のとき、チームが志太リーグで優勝。
中山雅史は得点王。
さらにさわやか杯(静岡県大会)で優秀選手となって表彰された。
「プロのサッカー選手になりたい」
まだJリーグなどないころからの夢だった。
岡部中学ではサッカー部に入部。
最終戦は3年生のときに地区予選。
チームは敗退し県大会にも進めなかった。
その他にもコーラス部でテナーを担当し、東日本大会で優秀校になった。
陸上部の駅伝にも助っ人出場し、志田駅伝2位、藤岡駅伝で優勝し、中山雅史は区間1位だった。

1983年、中山雅史は、藤枝高校に進学後もサッカー部に入った。
藤枝高校は、1924年に創設され、2年後に文武両道を目指した初代校長が蹴球部を設立。
サッカー部顧問となったのは、国語教師:長池實。
長池實は海外から書籍を取寄せ研究し、約20年間の指導で、全国大会(全国高校サッカー選手権大会)、インターハイ(全国高校総合体育大会)、国体(国民体育大会)で、1度の3冠達成を含む8回の優勝を経験した。
15歳の中山雅史は、パスやドリブルだけでなく、練習に対する態度も不器用で、まったく手を抜くことができなかった。
「放っておいてもいつも全力で練習し出し切ることができる子は初めて」
そういう鎌田昌治監督は、藤枝サッカー部出身で、1970年に高校サッカー選手権で優勝したときのキャプテンだった。
「個人の技術は大切だがそれを伸ばすのに3年間は短い」
と鎌田昌治監督は技術的なミスにはある程度目をつぶった
重視したのは、全力の姿勢。
「これだけやったのだから負けるハズがない」
勝負所で思えるだけの練習を部員に求めた。
特に中山雅史の代のチームは素質に恵まれておらず練習は激しさを増した。
練習試合で不甲斐ない負け方をしたとき、鎌田昌治監督はいった。
「走ろう」
ゴールラインから向こうのペナルティエリアまで約80mを13秒以内で走り、戻りは47秒。
合計1分。
そして合図に合わせて再びスタートする。
10本を過ぎた。
「もう1本」
15本が過ぎ
「もう1本」
中山雅史は思った。
(何本走るんだろう)
30本を終えた。
「あと10本」
(いつまで続くんだ)
部員は時間ギリギリに転がり込み、立ち上がり、もがくようにスタートに向かった。

1984年、中山雅史は、2年生のとき第63回全国高校サッカー選手権大会静岡県予選決勝で東海大学第一と対戦。
戦前の「東海大一有利」の予想通り、藤枝高校は押され続けたが、前半30分、縦パスに反応した中山雅史がディフェンダーを振り切ってゴール。
ワンチャンスをモノにし試合の流れを引き寄せた藤枝高校が3対1で勝ち、5年ぶり18回目の全国大会出場を果たした。
全国大会準決勝で長崎県立島原商業高等学校と対戦しPKで負けた。
藤枝高校は、4試合で0失点、中山雅史は4試合2得点だった。
チームが苦しいときに流れを変えるゴールを決めてくれる選手だったが、後にJリーグで157ゴールを決めワールドカップでも得点する選手になろうとは、鎌田昌治監督は想像もしなかった。
「もし中山が器用で高校でテクニックを評価されていたら今の中山はいないかもしなれい。
自分がうまくないことを中山は自覚していた。
足りない部分を何で補い周囲にどのようにアピールしていけばいいか。
そういうことを高校のときからすでに理解し実践していた・
トコトン頑張る選手であることは確かだが、それ以前にすごく賢い選手だった」
1986年、中山雅史は、筑波大学体育に入学してサッカー部に入部。
俺たちひょうきん族」でビートたけしが演じる鬼瓦権蔵に似ていると「ゴン」と呼ばれるようになった。
ヤマハ発動機との練習試合で筑波大学は3対0で負けたが、中山雅史は、どんな相手にも恐れず競り合い、1タッチ、2タッチ、早く、高く、ボールと相手の間がないに等しい空間に鼻先をこじ入れようとし、何点負けていようと最後まで全くあきらめようとしなかった。

うまい選手や速い選手はたくさんいるが、ゴンのようないい選手はそうはいない

1990年4月、中山雅史は静岡県磐田市のヤマハ発動機に入社し、サッカー部に入部。
サッカー部員の出社を免除する部署もあったが、中山雅史が配属された人事部は、現役を終えた後のために少しでも仕事をしていたほうがいいと仕事をさせた。。
1日の仕事ははラジオ体操から始まった。
朝礼が終わると机に向かった。
「もしもし人事部の中山です。
主査はいらっしゃいますか?」
「はい、私ですが」
「先日のセミナーの提出書類がまだのようですがどうなっていますでしょうか?」
「あれっ、出していなかったっけ」
「はい、まだなんですが」
「・・・・・・・・・・・・ああ、あったあった」
「早急に人事部に提出していただけますか」
引き出しに入った封筒をサイズごとにそろえ、中間管理職に電話をかけ受講したセミナーや講習会のレポートの提出を促し、青年海外協力隊の希望者の面接を行った。
業務は11時半で終了。
やり切れなった仕事は寮に持ち帰ることにして、社食で昼食をとって練習に向かった。
ジュビロ磐田の前身であるヤマハ発動機サッカー部は、1972年に設立され1978年に自前のグラウンド:ヤマハ発動機東山グラウンド(現:ヤマハスタジアム)をつくり、1982年、後に日本代表監督にもなるハンス・オフトをコーチに迎え、日本サッカーリーグ(JSL)1部へ昇格、天皇杯全日本サッカー選手権で優勝。
国内では読売クラブ、日産自動車に次ぐ3番手のクラブとして認知されていた。
ヤマハ発動機の練習グラウンドは、かつて野球場だったので通常のサッカーグラウンドより広かった。
しかし中山雅史が入団したての頃は、まだ内野の部分は土のままで練習は外野で行われた。
クラブハウスもなく、車で10分ほどの誠和寮で着替えてからグラウンドにいかなければならなかった。
そして練習後は誠和寮に戻り風呂に入ってから家に帰ったが、夏はグラウンド脇の水道からホースを引いて水浴びをした。
やがて更衣室とシャワーがグランドの隅に建てられると「部室」と呼ばれた。

入団当時、シュートを外すとよくうつむいていた中山雅史に内山篤は声をかけた。
「大丈夫。
誰だって外すんだ」
「顔を上げよう」
「次のチャンスに入れることを考えよう」
内山篤は、1982年にヤマハ発動機サッカー部に入り、3年後には日本代表に選ばれ、1986年から3年間、ヤマハ発動機サッカー部キャプテンとなり、1988年には日本サッカーリーグ初制覇にチームを導いた。
1991年、中山雅史が入団して2年目、長澤和明監督にコーチ就任を請われ、引退。
「チームが苦境に立たされたとき頑張れない選手は、『俺はやっている。悪いのはアイツだ』と人のせいにする。
いい選手は人のせいにしない。
チームが苦しくなればなるほど頑張る。
うまい選手や速い選手はたくさんいるが、いい選手はそうはいない。
ゴンのようないい選手を育てたい」
(内山篤)

ヤマハ発動機 Jリーグに入れず 「最短でも3年の遠回りになるが・・・」

1991年、ブラジルで2年前に現役を引退しスポーツ担当大臣をやっていたジーコが日本リーグの2部リーグに所属していた住友金属に入団し現役に復帰。
初めて住友金属の土の練習グラウンドをみて
「このピッチは選手がサッカーをやる環境か」
とつぶやいた。
その後、練習後、選手が風邪を引かないように練習場の近くにシャワールーム、フィジカルトレーニング設備、ケガをしてもすぐに治療ができるメディカル面の整備など100%サッカーに集中できるようにフロントに要求。
選手には、まずボールを止める、蹴る、止めるを繰り返し、基本の大切さを説いた。
練習後、ロッカールームに散らばったシューズを見つけると
「明日もこんな状態だったら全部捨てる」
といって自分のスパイクの手入れを始め、お菓子を食べている選手には
「プロの体づくりにお菓子は必要ない」
と怒鳴った。
2月、1993年から始まるJリーグに加盟する10クラブが発表された。
ヤマハ発動機は加盟を希望していたが、自前のスタジアムがないことがネックとなって選ばれなかった。
中山雅史は清水エスパルスなどいくつかのJリーグ加盟クラブから移籍を誘われていたが直感的に
「ヤマハ発動機サッカー部に賭けよう。
Jリーグに這い上がろう。
最短でも3年の遠回りになるが、そこで戦いもがく経験が自分にとって必ず意味を持つはずだ」
と思った。
事実、その経験は、勝利に対する執着心を強め、苦境に負けない精神力を育み、そして中山雅史に努力を重ねさせ逞しくした。

オフトジャパン

1992年3月、サッカー日本代表監督に、1982年に当時2部だったヤマハ発動機に臨時コーチとして来日し2カ月で1部昇格および天皇杯初優勝に導いた経歴を持つ
44歳のオランダ人のハンス・オフトが就任。
そしてヤマハ発動機サッカー部からは副キャプテン:吉田光範と中山雅史が日本代表に召集された。
Jリーグ以外のクラブで日本代表を出したのはヤマハ発動機だけだった。
中山雅史は日本代表でも、いつも正面に「YAMAHA」のロゴが大きく入ったキャップをかぶった。
ハンス・オフト監督は最初の浜松のキャンプで
「選手の状態を知りたい」
と22時までロビーに居座り、誰が出入りし、誰と誰が仲がいいかなどをチェック。
22時30分になるとコーチに部屋をみてこいと指示し、誰が寝て誰が起きてるかチェック。
朝は必ず選手たちと握手し、トレーニングや個々の選手の情報などなんでも気がつけばメモを取った。
ミーティングは、準備のために1時間前からミーティングルームに入った。
集中しやすいようにイスを並べ、模造紙に字や図を書くのだが、
「見えるか?」
とスタッフに聞いた。
食事は「いただきます」から「ごちそうさま」まで全員一緒。
食堂の机はコの字に配置され、真ん中に監督とスタッフが入り、あとは自由。
オフト監督からはすべての選手と選手の食事がみえた。
「ちゃんと食事がとれないといいパフォーマンスはできない」
と食べ方や食べる量をチェックし
「私の近くに座る選手は私を信頼している」
と判断した。

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