GON 中山雅史 本能むき出しの点取り屋 ハットトリック男 熱血、不器用、猪突猛進、侍エースストライカー

GON 中山雅史 本能むき出しの点取り屋 ハットトリック男 熱血、不器用、猪突猛進、侍エースストライカー

Q.好きな言葉は?「力」 Q.欲しいものは?「膝の軟骨、半月板、テクニック」Q. 中山雅史にあるものは?「負けず嫌いとサッカーを愛する気持ちだけ。ほかになにもないから中山雅史だった。なにもないからなにかを得ようともがき苦しみ、もがき苦しむことから抜け出すために、手を伸ばし、その先をつかもうと努力した。ずっとその繰り返しだった」


1994年、新しいシーズンが始まった。
「ようやくスタートラインにたどり着けた。
ここから本当の戦いが始まる。
遠回りしていいる間に開いてしまった差を少しでも早く縮めたい」
充実した気持ちで練習をしていたとき、腹部に張りを感じ、やがて痛みとなり、シュートを放つと激痛が走った。
やがて腹部の痛みはひどくなり寝返りを打つのも苦痛になったが、やっと上がれたJリーグを休みたくなかったので我慢して練習を続けた。
3月12日、ヴェルディ川崎戦でジュビロ磐田がJリーグデビュー。
前半36分、中山雅史は左サイドからのセンターリングに反応し、ディフェンダーの間に走りこんでヘディング。
ゴールキーパーは1歩も動けず、ボールはその左横を通り抜けた。
しかし腹部の痛みはひどく試合翌日から3、4日はジョギングのみで、試合前々日、あるいは前日に全体練習に参加し、当日、痛み止めを打って出場。
そんなことを続けていたが、4月27日の名古屋グランパス戦を最後にチームを離れた。
病院の診断は、「恥骨結合炎」だった。
骨シンチグラフィ検査を行うと恥骨が疲労骨折寸前の状態だった。
積極的な治療法はなく安静にして炎症が消えるのを待つしかなかった。
毎日プールの中で水中歩行する以外は運動も禁止された。
しかし5ヵ月経っても痛みは消えなかった。
(一体いつ復帰できるのだろう?)
不安と腹立たしさの中、菊原志郎や福田正博が似たような痛みを経験しドイツで手術を受けて復帰したという情報が入り日本を離れた。
ドイツでの診断の結果は「グローインペインシンドローム(鼡径部痛症候群)」
中山雅史は、3ヵ所、腹膜から筋肉が飛び出ていた。
「恥骨結合炎」は痛みの本当の原因ではなかった。
グローインペインシンドローム(鼡径部痛症候群)は、骨盤の捻じれや歪みが原因で痛みが起こる障害。
日本では子供や妊娠や出産直後の女性に起こるものとされていたため見落とされてしまった。
キックやランニングの繰り返すサッカーでは、鼠径部、股関節周辺、骨盤にメカニカルなストレスが加わり、体幹から股関節、下肢の筋力低下、柔軟性低下、拘縮、そして鼠径部周辺の痛みが起こる。
手術を受けて、2ヵ月間のリハビリを重ねて帰国した。
結局、1994年は8ヵ月間、ピッチを離れシーズンを棒に振った。
1995年3月22日、中山雅史はガンバ大阪戦でヘディングでゴール右隅にボールを叩き込んだ。
そして大きく跳び上がり右拳を突き上げた。
343日ぶりのゴールだった。

1996年、中山雅史は、ジュビロ磐田のキャプテン、そして最年長になった。
練習では常に先頭に立ち、1番速く走り、1番激しくプレーした
1番早くグラウンドにいき1番遅く出た。
負けることは嫌いだが、いいわけはもっと嫌い。
ウォームアップのストレッチができないほど膝の状態は悪くても、絶対にケガのせいにしなかった。
「中山さんがあんなにやってるんだから俺らもやらないわけにはいかない」
名波浩、藤田俊哉、川口信男などの若い選手は自然に引っ張られた。
1997年、前年11月に手術で半月板を削った右膝のリハビリが始まった。
右膝は、まだ大きく腫れ、真っすぐ伸ばすことも深く曲げることもできなかった。
長いときは9時から22時までジムでリハビリが行われたが
『1時間休息をとりましょう』
「どうして?やろうよ」
と決して休もうとしない中山雅史に、トレーナーはどうしてそうしなければならないか、どうしてそうしてはいけないか、説明した
『明日は休みましょう』
「休み?どうして?」
『体を休めないとリハビリの効果は上がりません』
「いや、やろう」
『休みましょう』
「やらないよりやったほうがいい。
やろう」
『お願いです。
休んでください』
「僕はサッカーがしたいんだ」
決して休もうとしない中山雅史に、リハビリプログラムをみせ、1つ1つのメニューの理由を説明した。
3週間後、
『明日は休みましょう』
「わかった。やらないほうがいいっていうんなら休む」
そして中山雅史は悔しそうな顔で続けた。
「僕はやれると思うんだけど」
やがてピッチに復帰すると200%の力で走り始めた。
試合翌日、リカバリートレーニングで5000mのジョギングを行うと何人かは4000mでやめたが、中山雅史は10000mを走ろうとしてトレーナーに止められた。
第2ステージで中山雅史は初ハットトリック(1試合3得点)を決め、ジュビロ磐田も優勝した。

ワールドカップフランス大会「ジョホールバルの歓喜 」日本代表ワールドカップ初出場

1997年、加茂茂が日本代表監督となった。
ワールドカップフランス大会アジア1次予選グループ4、第4戦マカオ戦で三浦知良が6得点を挙げ勝利。
最終予選B組第1戦のウズベキスタン戦でも三浦知良は4得点を挙げ、日本代表は6対3で勝利。
しかしその後、UAE戦(アウェイ)を0対0で引き分け、韓国戦(ホーム)は、1対2で負け、カザフスタン戦(アウェー)はロスタイムに追いつかれ1対1の引き分け。
試合後、加茂周監督は更迭された。
この時点で

1位 韓国 勝ち点13
2位 UAE 勝ち点7
3位 日本 勝ち点6

UAEがカザフスタンに勝てば絶望的だったが負けたため、日本はホーム(国立競技場)でUAEに勝てば2位浮上という希望が生まれた。
前半3分、呂比須が豪快なシュートで先制。
しかし前半のうちに同点に追いつかれ、試合はドローに終わり、自力での予選突破の可能性は消滅した。
一部のサポーターが暴徒化し罵声を浴びせた。
「お前なんてやめちまえ」
「腹を切れ」
イスを投げつけられ応戦する三浦知良の姿が放映された。
その後、1位通過が決まっている韓国とソウルで対戦し2対0で勝利。
カザフスタン戦も5対1。
3勝1敗4分でUAEを抜いて2位となった日本は、アジア地区の第3代表決定戦をイランと戦うことになった。
試合前日の練習で、イランのフォワード、ダエイ選手とアジジ選手が病院に直行し車椅子でホテルに姿を現した。
(おそらく心理的な作戦)
11月16日、日本代表は、中山雅史と三浦知良が2トップを組んだ。
前半40分、中田英寿のスルーパスで中山雅史はゴールキーパーと1対1になった。
そして左足のインサイドで左に流、先制点。
後半1分、アジジに同点弾を決められ、次いでダエイに逆転ゴールを奪われた。
ここで岡田武史監督は中山雅史と中山雅史を下げ、城彰二と呂比須ワグナーを入れた。
交代理由は、試合前のミーティングで
「フリーキックは中田(英寿)、もしくは名波(浩)が蹴る」
と決めていたのに三浦知良が、それを無視して蹴って大きく外したためだったが、このとき
「オレ?」
と三浦知良は自分を指差した。
「ゴン(中山雅史)? 俺? どっち?」
というジェスチャーだったが多くの人は
「まさか俺?」
というように解釈した。
試合は代わって入った城彰二が2点目を叩き出して延長戦へ突入。
最後は中田英寿のパスから野人:岡野雅行が劇的ゴールを決めた
日本代表が初めてワールドカップ本大会出場を決めたこの試合は、
「ジョホールバルの歓喜」
といわれている。
また
「カズからヒデへ」
世代交代が鮮明になった試合でもあった。
帰国後、中山雅史は鹿島アントラーズとのチャンピオンシップで3ゴールを挙げてMVPとなる活躍をみせ、磐田のリーグ初制覇に貢献した。

ハットトリック男

1998年、1993年の発足時、10クラブだったJリーグは18クラブまで数を伸ばした。
日本代表もFIFAワールドカップフランス大会に向け準備を進めた。
中山雅史は、
4月15日 セレッソ大阪戦で5得点
4月18日 サンフレッチェ広島戦で4得点
4月25日 アビスパ福岡戦で4得点
4月29日 コンサドーレ札幌戦で3得点
と4試合連続ハットトリック。
しかし浮かれることはなかった。
「フランスのメンバーに選ばれる保証はない。
津波が引くのは早い。
この調子をワールドカップまでに落としたくない」
実際、代表の最終メンバー争いはし烈を極めた。
スイスでの本大会直前合宿に代表候補25人が招集された。
三浦知良も、これまで何度も読み心の糧にしていた尊敬するモハメド・アリの自伝を持参し参加した。
しかし北澤豪、市川大祐と共に、本大会の出場メンバーには選ばれなかった。
「俺たちがやってきたことは間違いない。
大事なのはこの後だ」
落選翌日、三浦知良は北澤豪と合宿先のスイスからイタリア・ミラノへ移動し一泊20万円を借りてで豪遊した。
(ホテル代金は、後日日本サッカー協会に請求)
そして金髪に染め上げて帰国し成田国際空港で会見を行った。
「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」
(三浦知良)

ワールドカップ日本人初ゴール

ワールドカップ本大会初出場を果たした日本代表の平均年齢は25歳。
最年長は、32歳のゴールキーパーの小島伸幸。
次いで、30歳の中山雅史と井原正巳だった。
予選グループリーグで、日本は、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと同組になった。
総当たり戦を行い上位2チームが決勝トーナメントに進むことができる。
第1戦、アルゼンチン戦は0対1で敗退。
第2戦、クロアチア戦。
前半34分、右サイドでボールを奪いかけ上がった中田英寿が、ディフェンスの裏をとって中央に走りこんだ中山雅史にスルーパス。
中山雅史は見事なトラップでボールを足元に収めた。
最高の舞台で最高のトラップだった。
「もし入っていれば、これ以上のゴールは望めないし、僕のサッカーへの挑戦はもっと早く終わっていたかもしれない」
右足のシュートはゴールキーパーのファインセーブにゴールを阻まれた。
試合は0対1で敗退。
第3戦、ジャマイカ戦。
日本はすでに予選敗退が決まっていたが、中山雅史は目の前の戦いに勝つことを忘れなかった。
セオドア・ウィットモアに2点をとられ、0対2でリードされた後半29分、呂比須ワグナーがヘッドでヘッドで返し、それに中山雅史が右足で合わせゴールを決め1対2に迫った。
ワールドカップ日本人初ゴールにスタジアムは沸いた。
中山雅史は険しい表情で、ボールを拾い上げた呂比須ワグナーと共にセンターサークルに走り、どこまでも勝つ姿勢を貫いた。
その直後、相手選手と接触し、右足腓骨を亀裂骨折したが、顔を歪めながらも試合終了まで走り抜いた。
しかし試合は1対2で負け、日本人代表のワールドカップ初挑戦は、1次リーグ3戦全敗1得点という結果に終わり、中山雅史は松葉杖で帰国した。
2ヵ月後、復帰。
ワールドカップでの骨折のためナビスコカップの優勝はピッチで味わえなかったが、Jリーグの後半戦も1試合1点のペースで得点し続けた。
1998年シーズンは、27試合36得点。
得点王、MVP、ベストイレブンなど個人タイトルを総ナメ。
しかしジュビロ磐田はチャンピオンシップで前年の雪辱を期する鹿島アントラーズに敗れ、ーグ優勝を逃した。

「黙らせてやる」

1999年4月30日、アジア最強クラブを決定するアジアクラブ選手権の決勝で、ジュビロ磐田はイランの強豪クラブ:エステグラル・テヘランと対戦した。
ジュビロ磐田は、成田から30時間かけてテヘランに移動。
標高1300mの希薄な空気と10万人を収容したアザジスタジアムには、機関銃を持った兵士に守られながら入った。
日本からかけつけたジュビロ磐田サポーターもいたが、女人禁制のため女性はスタジアムに入れねかった。
薄暗い通路を抜けるとまぶしいピッチがあった。
歓声、怒号、口笛、爆竹、発煙筒、青色(ジュビロ磐田のユニフォームカラー)に塗られ飛べないよう縛られた鳩、石・・・
さまざまなものが観客席から降ってきたが、コインがヤマハフットボールクラブ社長:荒田忠典の額に当たり出血した。
「やってやろうぜ」
「黙らせてやる」
中山雅史の声が響いた。
ジュビロ磐田は、エステグラル・テヘランの個人技とスピードに押された。
しかし前半、鈴木秀人と中山雅史が得点し2対0.
後半もこの差を守り切って勝利、
アジアチャンピオンは機関銃にガードされながらロッカールームに駆け込んだ。
3時間後、スタジアムを出ると、5日後の鹿島アントラーズ戦のために急いで荷物をまとめた。
テヘランからドイツのフランクフルトに飛び、2時間の乗り継ぎ時間を挟んで日本へ。
約24時間後、5月3日の夜更けに磐田市に帰った。
5月4日、午前中軽く練習してから東京のホテルに移動。
5月5日、国立競技場で鹿島アントラーズと対戦。
鹿島アントラーズは7位。
ジュビロ磐田は首位だったが、
1997年、レギュラーシーズン全敗
1998年、チャンピオンシップも含め全敗。
と対戦成績ではアントラーズに圧倒されていた。
前半37分、鹿島アントラーズ、20歳の小笠原満男がJリーグ初ゴール
後半もアントラーズペースで進んだが、試合残り時間6分、ジュビロ磐田、名波浩がフリーキックを決めて同点。
15分ハーフの延長戦へ入ると両チームとも疲労が濃く足が止まり、仕掛けも崩しもなくなり、ひたすらシュートを打ち、ひたすら跳ね返す展開が続いた。
延長後半6分、腕にキャプテンマークをまいた中山雅史が相手ディフェンダーと競り合ってヘッドで落としたボールを藤田俊哉がシュートし決勝ゴールを決めた。
藤田俊哉はピッチに大の字になり、そこに中山雅史が飛びつき、川口信男と名波浩が続いた。
10日間30000㎞の旅は2つの勝利で終わった。

6月15日、パラグアイでコパアメリカが開幕された。
日本は、グループリーグで、パラグアイ、ペルー、ボリビアと同組に入った。
そして
ペルー戦 2対3
パラグアイ戦 0対4
ボリビア戦 1対1
と2敗1分で敗退した。
中山雅史は、大会直前のルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折で帰国し、手術を受けた。
失明寸前の重傷で
「復帰まで1年近くはかかる」
と医師にいわれたが2ヵ月で復帰。
その後も手の骨折などケガに苦しみながらも、清水エスパルスとのチャンピオンシップで2ゴールを挙げジュビロ磐田の制覇に貢献。
11月、Jリーグ選手協会副会長に就任。

2000年1月、約1ヵ月のオフが終わり、選手はチームに戻った。
多くの選手は脂肪を増やしていたが、中山雅史も体重が1㎏増えていたが7%だった体脂肪率は0.2%減っていた。
オフの間に脂肪を減らして筋肉の量を増やしていた。
「勝負に100%の状態で臨みたい。
そのためにウォームアップをしっかりやりたい。
いいウォームアップをするためにストレッチを十分にやりたい。
いいウォームアップ、ストレッチをやるためにコンディションを整えておきたい。
天才は感覚で準備の方法を変える。
あるいはまったく準備をしなくても試合に入ることができるが僕にはできない。
だから走る。
コンディションを整え、いいストレッチ、いいウォームアップをして100%で勝負に挑むために、毎日走る。
もしかしたらやり続けることで安心したいのかもしれない。
それが僕の弱さかもしれないとも思うが、でも走らないと気持ちが落ち着かない。
昨日の夜から今日走ることを考えていた。
今日の夜、明日走ることを考える。
明日の終わりに明後日走ることを考える。
疲れていても雨が降っていても走りたくなくても走る」
32歳の中山雅史の体力はまだ上昇していた。
筋力、持久力など、ある特定の能力が突出しているのではなく、ジュビロ磐田が定期的に行う15項目のフィットネステストですべてがチームトップレベルだった。
2月16日、アジアカップ予選のブルネイ戦で、試合開始3分15秒で3点を入れハットトリック。
国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された。
2000年シーズンは、故障や、日本代表からも外されるなど不本意なことも多かったが、20得点で2回目のJリーグ得点王となった
2001年、ジュビロ磐田のキャンプ中に行われた持久力テストで、2年目の前田遼一がトップの数字を出した。
すると33歳の中山雅史は、負けん気だけでその数字を上回ってみせた。
そして前年からの好調を続け、日本代表にも復帰した。
ジュビロ磐田は第1ステージを圧勝し、第2ステージも2位。
しかしチャンピオンシップで鹿島に敗れ、ナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦で敗れ、無冠に終わった。
11月、中山雅史は井原正巳の後を継いで3代目Jリーグ選手協会会長となった。

ワールドカップ日韓大会 日本代表のワールドカップ初勝利

2002年、日本代表監督となったフィリップ・トルシエは、35歳の中山雅史を代表候補合宿に招集した。
しかしJリーグ開幕後、わずか1得点と不調の中山雅史は、海外遠征メンバーから外された。
5月14日、ノルウェーとの親善試合で日本代表は0対3で完敗。
5月17日、フィリップ・トルシエ監督は、最終登録メンバーに34歳の中山雅史と31歳の秋田豊を加えることを発表。
こうして中山雅史は、アメリカ大会、フランス大会、日韓大会と4年に1度行われるワールドカップ3大会連続出場を決めた。
背番号は10だった。
中山雅史の普段から高いモチベーションはさらに上がった。
チームの先頭に立って体を動かし声を出し続けた。
たとえ体が痛んでも、いつも
「痛い」
というときの傷みを100とすれば150の傷みでも
「全然大丈夫」
といった。
2002年6月14日、大阪の長居スタジアムで、ワールドカップ日韓大会グループリーグH組、日本 vs チュニジア戦が行われた。
後半30分、右サイドから市川大祐がセンタリング。
中田英寿がダイビングヘッド。
ボールはゴールキーパーの股間を抜け、日本代表のH組1位での決勝トーナメント進出が決まった。
その瞬間、ウォームアップをしていた中山雅史は拳を握り両腕を突き上げた。
秋田豊、服部年宏、三都主アレサンドロ、福西祟史、西澤明訓、小笠原満男らもウォーミングアップを中断し、翼を広げた中山雅史の下に集まった。
そして輪になって肩を組んで跳びはね、喜びを爆発させた。
ひとしきり騒いでから中山雅史がいった。
「よし、ここからだ。
油断せずいこう」
10秒ほどで輪は解けた。

6月9日、横浜国際総合競技場で日本 vs ロシア戦が行われた。
前半は0対0.
後半6分、稲本潤一がゴール。
後半15分、ペナルティエリアにドリブルで迫る稲本潤一にロシアが確信的ファウル。
中田英寿はフリーキックを外した。
そのボールが外れたロシアゴールの裏では、背番号18をつけた中山雅史がウォーミングアップをしていた。
10分後、ベンチに呼び戻され、トルシエ監督は中山雅史に耳打ちされた。
「守るために入ってもらうんじゃない。
相手の裏を狙ってほしい」
後半27分、中山雅史がピッチに入った。
ロシアディフェンダーに激しくプレスをかけコーナーキックを獲得。
後半46分、後方からのスライディングタックルで中山雅史に警告。
直後、レフリーのホイッスルが試合終了。
日本代表のワールドカップ初勝利が決まった。
「ナカヤマはこのチームのシンボルだ。
誰もが彼に畏敬の念を抱いていた。
ピッチに立てば仲間たちの闘争心を掻き立て、練習でもいいムードをつくってチームをいい方向へ導いてくれた。
彼が他の選手に与えた影響は計り知れないほど大きい。
ナカヤマは不可欠な存在だと認識させられた」
(フィリップ・トルシエ)

やるしかない。絶対に下を向かない。

2002年シーズン、16得点でリーグ2位の中山雅史とリーグ得点王の高原直泰のコンビはゴールを量産し、ジュビロ磐田はJリーグ史上初の両ステージ制覇で完全優勝した。
2003年、中山雅史はJリーグ開幕前日の左大腿の裂傷を皮切りに重いケガが続いた。
6月には下腹部にそれまで経験したすべての痛みを上回る激痛に見舞われ、1歩も動けなうなり車椅子で病院に運ばれた。
10年ぶりのグローインペインシンドローム(鼠径部周辺痛症候群)だった。
結局このシーズンはほとんどをリハビリに費やした。
長年の過負荷のリバウンドだった。
「1度、ゆっくり休めば・・・・」
そう勧められても中山雅史はサッカーから離れることを嫌った。
「サッカーをやるためにはリハビリをやるしかない」
「やるしかない。
がんばるぞ」
「今悪いということはこれから必ず良くなるということだ」
「絶対治る」
と絶対に下を向かなかった。
サッカーのために100%の努力を続ける。
当たり前のことだが実は1番難しいことを中山雅史は継続し続けた。
半年のリハビリの末、復帰。
復帰初戦、東京ヴェルディ1969戦で中山雅史がユニホーム姿になると場内が騒然とした。
「あれは異様な雰囲気だった」
(東京ヴェルディ1969DF:米山篤志)
「当初はこの試合では起用しないつもりだった。
エリア内では仕事をするのでそこに賭けた」
(ジュビロ磐田の柳下正明監督)
中山雅史投入直後のコーナーキックで同点に追いつき、その勢いのまま逆転勝利した。
ジュビロ磐田は、横浜F・マリノスに敗れリーグ優勝は逃したが、天皇杯ではヤマハ発動機時代以来の優勝を果たした。

2007年、内山篤がジュビロ磐田の監督となった。
内山篤はいつも誰よりも早くクラブハウスに入った。
そして玄関を通る選手を監督室のモニター越しにみていたが、自分の次にやってくるのはいつも中山雅史だった。
40歳の中山雅史は出会った頃とまったく同じだった。
「もっとうまくなりたい」
といつも全力でプレーしていた。
「ゴンの中には、常に100%でやり続けたからここまで来られた、やり続ければもっとよくなるという思いがある。
だからどうすればやりすぎを抑えられるのか、よく頭を抱えました。
全然抑えてくれないんだ。
わかりましたと口ではいうけれど・・・」
(内山篤)
8時半、クラブハウスに入った中山雅史はトレーナーによるコンディションチェック、ストレッチ、ホットパック、マッサージを受け、練習の準備をする。
そして練習が終わるとすぐにアイシング。
昼食を挟み、15時、午後の練習のに備えて再びストレッチ、ホットパック、マッサージ。
誰よりも早くグラウンドに入り、誰よりも前を走り、誰よりも懸命に練習した。
練習後、治療とマッサージを受けると21時を過ぎた。

1994~2009年まで治療のため100回以上、戦線を離脱。
腰痛、下肢肉離れ、グローイングペインシンドローム(鼠径部周辺痛症候群)、半月板損傷、膝内側側副靱帯損傷、両足首捻挫、眼窩底骨折、肩脱臼、指骨折、肋骨骨折、腓骨亀裂骨折、無数の切り傷・・・・、
サッカーで考えられるほとんどすべてのケガをして、重度のものも多かった。
無事なのは足の甲と第5中足骨と前十字靱帯くらい。
特に大きな問題は両膝だった。
X気味の脚は、両膝とも大腿骨と下腿骨の間でクッションの役割を果たす半月板がほとんどなく、大腿骨と下腿骨の先端を覆う軟骨もほとんどなかった。
そのため骨と骨が直にぶつかり、激痛が走り、炎症を起こし腫れた。
普通ならば身動きが取れないほどの痛みを伴うケガをしていても強行出場し、いつもと同じくリスクを求めるかのように激しくプレーし多くの試合で得点を挙げた。
そしてまたケガをする、
ケガを治すためには休むしかないが、決して休もうとしない。
ケガが治りきらないうちにプレーするため、古いケガが新しいケガを生んで重なった。
それでも休もうとしなかった。
背筋が肉離れを起こし、走ることも跳ぶこともできず、前屈みでしか動けなくなっても
「明日は筋が切れてもやるよ」
といった。
そして
「いやすでに切れてます」
といわれた。
安静ししていれば2、3週間で治るが無理をすれば2ヵ月かかるかもしれないという。
肉離れは筋肉が部分的に断裂している状態だが、強い負荷を加えると決定的に切れてしまうかもしれない。
しかしこのときも中山雅史の意志は恐怖とメディカルスタッフを振り切った。
「とにかく監督に行けといわれたら行く。
大丈夫だろう?」

5月28日、中山雅史はに2001年から続けてきた選手協会の会長職を藤田俊哉に譲り名誉会長に就任。
9月15日、ジュビロ磐田 vs 大宮アルディージャ。
中山雅史はここまで24試合中10試合に出場し、先発4、途中出場6、フル出場0。
前回、後半44分に交代出場して以来、7試合出場がなかった。
この試合、ジュビロ磐田は、後半26分と40分に得点し2対0。
終了間際、内山篤監督はレフリーに選手交代を告げた。
「ゲームをしっかり終わらせてほしい」
監督の指示に中山雅史はうなずいた。
84日ぶりの出場機会に与えられた時間は36秒だった。
味方の頭に当たって転がるボールを中山雅史は猛追。
ラインギリギリで追いつき左足でクリア。
大宮アルディージャのキーパーがそのボールを蹴り返した。
直後、大宮アルディージャのコーナーキックをジュビロ磐田がクリア。
ボールはセンターラインを越えて飛んでいった。
中山雅史は追った。
ディフェンダーはゴールキーパーのみ。
加速する中山雅史の目の前にボールが落ちた。
このままドリブルでいけばシュートを打てる。
期待が膨らんだ瞬間、試合終了のホイッスルが鳴った。
中山雅史はボールを両手でつかんで悔しそうにピッチに投げつけた。
2008年5月25日、ナビスコカップ清水戦後半43分、コーナーキックをヘディングで決めた。
この得点が中山雅史が挙げた最後の得点となっている。

42歳 戦力外通告

2009年夏、ジュビロ磐田は中山雅史に来シーズンは契約を更新しないことを告げ、フロントスタッフ入りを打診した。
42歳の中山雅史はあくまで選手であることを望み、フロント入りをキッパリ断り、かつプレーで戦力外通告を覆そうとした。
2009年11月28日、ジュビロ磐田の残る試合は今日と明日の2ゲームのみ。
試合当日の練習は10分走×2本とミニゲームだった。
中山雅史は、文句はいわないが、話したり笑ったりしながらの練習は嫌いだった。
「今日はキツかったなあ」
そう思いながら夕暮れに寝転んぶのが大好きだった。
この日も勢いよく芝生を蹴ってスタートし、アッという間に抜け出し、グループは後方に置き去りになった。
「おっ」
前方に本田慎之助の背中を発見。
23歳下の本田慎之助もグループには加わらず1人で走っていた。
中山雅史は本田慎之助を抜き去り、本田慎之助は中山雅史を追いかけた。
6周し終えたところで10分走の1本目が終了。
中山雅史は歩きながら呼吸を整えた。
インターバル中でも話したり笑ったりしているグループには近づかなかった。
2本目が始まると、また最初から飛び出した。
本田慎之助が追った。
6週目中盤で残り時間がわずかになった。
どうしても1本目より1周多く走りたかった。
中山雅史は振り返り本田慎之助にいった。
「ラストもう1周いくぞ!」
「はい」
スパートした中山雅史は7周を走り切った。
少し遅れて本田慎之助もゴールした。
「中山さんの前を走っちゃいけないっていうことですね」
「それはそうだよ」

14時、ジュビロ磐田 vs サンフレッチェ広島戦が開始。
中山雅史はベンチに座った。
前半22分、サンフレッチェ広島の佐藤寿人が先制点。
後半7分、ジュビロ磐田のイ・グノが決定的チャンスを逃す。
後半34分、船谷圭祐に代わって村井慎二が出場。
直後、中山雅史がウォームアップ開始。
後半35分、中山雅史がベンチの選手1人1人とハイタッチし、柳下正明とは握手を交わした。
そしてラインの外側に立ち右手でユニフォームの心臓付近をつかみ、両拳で胸を叩いた。
後半37分、イ・グノと中山雅史が交代。
後半40分、味方のクロスを頭で合わしたがボールはバーの上へ。
後半48分、時間は容赦なく過ぎ、ゲーム終了のホイッスルが鳴った。
0対1。
ジュビロ磐田は負けた。
試合後行われたセレモニーで壇上に上がった中山雅史は四方に向かって丁寧に礼をした。
「俺がジュビロの中山だ!
サンキューサンキューサンキュー!」
2009年11月29日、前日同様、中山雅史は10分走を単独行で終えた。
前を走る選手も後を追う選手もいなかった。
「ありがとうございました」
シャワーを浴びて体のメンテナンスを終えクラブハウスを出た中山雅史は、いつものようにグランドに頭を下げた。
ヴィッセル神戸との最終戦で出場機会はなかったが、試合後両チームのサポーターの声援に応え1万5000人の拍手を浴びながら最後の試合を終えた。
こうして20年間在籍したジュビロ磐田を退団した。
「先に何が待ち受けていようと走り続け維持を張り通すだけだ」

トライアウトに参加


2009年12月10日、大阪の長居陸上競技場で日本プロサッカー選手会と日本プロサッカーリーグによるJリーグ合同トライアウトが行われ、所属チームから戦力外通告を受け、新しい所属先が決まらず、それでもどうしてもサッカーが続けたい選手が52人集まった。
それを各チームのスカウトや関係者173人が見守った。
中山雅史に対しては、すでにいくつかのチームが獲得を表明していたためトライアウトに参加する必要はなかったが、自身がプロサッカー選手会会長時代に
「戦力外になった選手には各チームに出向き練習に参加するしか新しいチームを探す方法がない。
野球のように選手と関係者が1ヵ所に集うトライアウトを行うべきではないか」
と提案し実現させたことだったし、1選手として公平に勝負し、スカウトや関係者にい評価をしてもらいたかった。
集まった選手はポジションなどを考慮しながら、ランダムにチーム分けされ、前半15分、後半15分の紅白戦が行われた。
初めてチームとなって組む同士、チームプレーは難しかったが、サッカーへの思いを込めてガチンコでぶつかり合った。
中山雅史は他の選手にとって自分をアピールするために最高の敵だった。
積極的に絡み挑んでいった。

生まれて初めて体が走ることを拒絶

2009年12月24日、ロアッソ熊本(J2)、横浜FC(J2)、コンサドーレ札幌(J2)、FC町田ゼルビア(JFL)、V・ファーレン長崎(JFL)、藤枝MYFC(東海リーグ)の6クラブが中山雅史獲得の意思を表明。
中山雅史は、年俸提示は最も低いが
「グラウンドに立つための体のケアを一番に考え」
施設や医療体制が充実しているコンサドーレ札幌への移籍を決断した。
「現役生活が1番幸せ。
やめたりあきらめたりはいつでもできる。
無様な姿を晒すかもしれないが、それが僕のサッカー人生」
2010年、中山雅史はコンサドーレ札幌に入団。
J2で12試合に出場し無得点。
11月に両膝を手術。
2011年、昨年の手術後、両膝は悪化の一途をたどった。
2011年7月、痛み止めの飲み薬が効かなくなり、直接膝に注射を打つようになった。
その効き目も、最初は3日持ったが。やがて2日に、そして1日になった。
9月、練習前のウォームアップの最中、膝が痛み動けなくなる。
初めて経験する痛みで中山雅史は崩れるように芝生に倒れこんだ。
2週間安静にしチームに復帰したが、1歩踏み出すごとにうめき声が出た。
ウォームアップを兼ねたランニングは何とか走り切ったが、続く1000m走はどうにもならなかった。
(ダメだ)
生まれて初めて身体が走ることを拒絶した。

「このまま運動を続けると骨が壊死するかもしれません」

病院に行くと
「このまま運動を続けると骨が壊死するかもしれません」
といわれた。
膝の半月板と軟骨がほとんどないため大腿骨と下腿骨が直接ぶつかって重度の骨挫傷を起こしていた。
ドクターストップがかかって走ることをやめても痛みは消えず、なかなか寝つけず、立っているだけでフラつき、階段はまともに下りることができなかった。
東北の大学病院でMRI検査を受けると
「患者の名前と年齢を伏せて、この画像を10人の整形外科医にみせたら、おそらく9人は人工関節を勧めるでしょう。
この状態では手の施しようが・・・」
医師は声をひそめた。
12月、軟骨再生治療を行っている大学病院でへいった。
「まだ臨床研究中で、膝の軟骨がある程度残っていることが再生の条件です。
再生には1年かかります」
「両脚同時に再生できますか?」
「それはできません。
それから再生された軟骨の強度は日常生活に耐えられる程度です」
治療に2年もかけられないし、求めているのはサッカーをやるための軟骨だった。

軟骨再生は断念した。
以後、リハビリに取り組んだ。
もう膝が元に戻ることはないが、目標はプレーできるようになることだった。
チームメイトがピッチでサッカーをしているのをみながら1日中1人で自転車をこぎ続けた。
問題はX脚だと考えられ、それを矯正するために歩き方、足裏の接地の仕方を練習した。
足裏の接地を変えるためには、体の使い方を変える必要があった。
44年間続けてきた歩き方を変えるというのは、簡単そうで実はすごく大変なことで、うんざりするほどの反復練習を行わなければいけなかった。
膝の痛みは続き、朝目覚めてもすぐに起き上がることはできなかった。
床に置いたベッドマットの端に座り、10本の指を床をつかむように動かし足裏をほぐす。
そして壁に向かって四つん這いになって、椅子の上に膝立ちになって、後ずさりするようにゆっくり脚を伸ばして立ち上がった。
痛みを迂回するための儀式だが、それでも完全に避けることはできない。
立ち上がると、膝が絶対痛いので、いつも勇気が必要だった。
ウォーキングからジョギングへ。
ジョギングからスプリントへ。
膝に負担にならない歩き方と走り方に変えて距離と時間を少しずつ増やしていった。
新しい歩き方に取り組んで5ヵ月、20mほどならトップスピードで走れるようになった。
しかしブレーキをかけたり方向を変えたりターンすることはできなかった。
2011年シーズン、中山雅史は公式戦無出場に終わったが現役続行の意志を示した。
またコンサドーレ札幌はJ1に昇格した。
2012年3月29日、中山雅史は、東日本大震災の日本代表のチャリティマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」でファン投票で13万票を獲得し、Jリーグ選抜に選出された。
2012年11月24日、サンフレッチェ広島がリーグ初優勝を決めたこの日、ホーム最終戦でコンサドーレ札幌は横浜F・マリノスと対戦。
試合終了直前、中山雅史が交代出場。
試合前に痛み止めを6本打った。
それは本来あり得ない量だった。
痛みは体が発するシグナルなので、無理に痛みを抑え過ぎると、気づかずに限界を超えてしまい、かえって危険なので、痛み止めの注射を打つのはできるだけ避けなければならない。
1週間後のアルビレックス新潟との最終戦をあきらめたわけではなかったが、この試合が最後になるかもしれないとも思っていた。
そして1分間プレーし、J1最年長出場記録を45歳2ヵ月1日に更新。
2年ぶり、そして2012シーズン唯一の試合出場だった。

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