城内FC ダメだよ、チームプレーばっかりしてちゃ。 最後は自分で勝負しなくちゃ。
「自分自身の原点は城内FCにある」
三浦知良は、伯父の納谷義郎が監督を務める城内FC(http://shizuokagoal.com/jonai/)に入った。
高校サッカーでは
「全国で勝つより静岡予選を突破するほうが難しい」
といわれ、
「日本のブラジル」
の異名を持つ静岡県だが、その中でも納谷義郎はトップクラスの指導者である。
一見、ヤクザみたいで言葉づかいもそれっぽいが、1978年のアルゼンチン大会から毎回ワールドカップを現地にいき生で観戦するなど、サッカーに対する情熱と意識は非常に高く
「サッカーとはこうだ」
「それははこうだ」
と明確でブレない。
また
「ブラジルでは個人技で敵を抜いていくんだ」
「ボールをとられるまでドリブルしろ。
1対1で負けるな」
「理想のサッカーは相手11人を全員ドリブルで抜いてゴールすることだ」
と通常の少年サッカーと違い、徹底して個人技を磨くことを教える。
三浦知良は、城内FCには小学1年生からブラジルに渡る直前の中学3年生まで所属した。
小学校1年のときから学校にはリフティングをしながら通い、近所の人たちから
「あの子は、いつか交通事故に遭う」
と噂されたが最後まで無事故で通した。
城内FCの練習は開放的で楽しく、失敗してもとがめられなかったが、パスに逃げたときだけ怒られた。
「ダメだよ、チームプレーばっかりしてちゃ。
最後は自分で勝負しなくちゃ。
俺はね、とにかく勝負している奴が好きなんだよ」
(納谷義郎)
キングファーザー&マザー
父:納谷宣雄は、サッカー選手として国体に出場した経験を持ち、日本初のサッカー専門のスポーツ用品店を経営していた。
1976年4月6日、三浦知良が9歳のときに覚せい剤取締法違反の疑い逮捕された。
『納谷から覚せい剤を買っていた盛岡市内の元暴力団員の自供から、納谷が韓国で覚せい剤を大量に買い込んで国内の暴力団員などに売りさばいていた事実がわかり、盛岡署員らが内偵を進めていた。
(中略)
納谷は、5年間は何度でも使える数次旅券を所持し、これまでに十数回も韓国へ渡っていることなどから、覚せい剤を買い入れるブローカーをしていたとみられ、同県警、同署では7日から納谷の覚せい剤密売ルートなどを追求する』
(静岡新聞)
皮革製品の安い韓国でボールを製造し、輸入していたため
『サッカーボールの中に覚せい剤を忍ばせ運んだ可能性もある』
ともいわれたが韓国でのボール製造、輸入と逮捕は無関係だった。
納谷宣雄は当時のことを聞かれると
『俺は捕まっても口を割らなかった』
と話す豪快な人だった。
1978年7月8日、再び麻薬取締法違反で逮捕。
1979年2月、懲役1年10月の実刑判決を食らった。
出所後、納谷宣雄はブラジルに移住。
ブラジルサッカーの映像権販売、日本人のブラジルに留学斡旋というサッカー好きらしいビジネスを始めた。
やがて外貨法関連で逮捕され留置場の中で殺し屋とも仲良くなった。
「俺を敵にすれば殺し屋がくるぞ」
母:三浦由子は夫の2度目の逮捕後、離婚し同じ町内、元の家から数百m離れた場所(静岡県静岡市葵区安東1丁目1-4)に「もんじゃや」をオープン。
知良は三浦性となった。
「変わった親子関係と思う人もいるかもしれないけど、自分のことだから、何が普通なのかよくわからないんだよね。
勉強やれっていわれた記憶もまったくない。
とにかくサッカーをやれる環境だけはずっと与えてくれた」
近所カズ
三浦知良は、サッカー同様、遊びも1日も休まなかった。
近所の子に
「もんじゃや集合!」
と電話して集合。
3分経っても来ないと
「まだか?」
と催促の電話。
野球では、ピッチャーのときは江川卓、バッターなら篠塚和典など巨人の選手になり切った。
テープで音楽を流して口パクで大好きシャネルズを歌う「マネルズ」を結成し、もんじゃやでコンサート。
ルパンごっこは、おもちゃのワルサーP38に赤いジャケットでルパン、そして次元、五エ門、銭形になり切って、静岡けんみんテレビの全フロアを使い、銭形役が鬼となる鬼ごっこだった。
野球部に入った城内FCの仲間がいた。
三浦知良は外野で球拾いをしている仲間の周りをドリブルでグルグル回り囁いた。
「お前のいる場所はそっちじゃなくてこっちだぞ」
耐え切れず1週間で野球を辞めた仲間はサッカーに戻ったが、現在でも三浦知良にいろいろな場所で連れていかれたとき
「幼馴染で野球部のテッちゃんです」
と紹介されている。
僕にとってカズさんは「キングカズ」である前に「近所カズ」なんです。
カズさんは今でもチームの後輩、友人、その他いろいろな人を連れているところは昔を変わりませんね。
面倒見がよいというかわがままというかさみしがり屋というか・・・
みんなカズさんからの「集合!」の一言で集まっちゃうんですよね」
(テッちゃんこと松永哲佳)
進路希望「ブラジルでプロサッカー選手になる」
中学3年生のとき、ブラジルに行く以外考えていなかった三浦知良は、進路希望調査票に
「第一希望 ブラジルでプロサッカー選手になる」
と書き、担任の海野実に
「ふざけるな!」
と激怒された。
「当時、日本でプロスポーツといえば野球、ゴルフであり、サッカーのプロなど知らなかった。
勉強嫌いで授業中は居眠りばかり。
帰りの会を抜け出しサッカー練習に出かけるカズに困ったやつだと思っていたが、卒業後、ブラジルにいったときケガだけはしないようにと祈っていた。
私の話の最中に教室の中央でカズが投げ上げたサッカーボールをゴミ箱に捨てた私に向かって叫んだカズの言葉は
『何をするんだ。
サッカーボールは僕の命だ』
私も負けじと胸倉をつかんで廊下に引っ張り出した。
ブラジルから帰国したカズの報道番組へビデオ出演依頼が舞い込んできた。
『生出演するカズさんには内緒ですよ』と。
その折、テレビ局のスタッフに託したカズの中学時代の学級だよりの最後のページに「俺の負けだ」と書き添えた。
中学3年時の進路希望調査票に「ブラジルでサッカー選手になる」と書いてきたカズを職員室で怒鳴りつけ追い返した私の負けです。
テレビ出演後、スタジオからかかってきたカズの電話にビックリ。
『先生、負けだなんていわないでくださいよ』
泣けるセリフでした」
(海野実)
15歳で単身ブラジルに
1982年、静岡学園高校を8カ月で中退。
15歳で単身ブラジルに乗り込んだ。
誰もがブラジルでプロのサッカー選手になるのは無理だろうと思っていた。
「ブラジルでプロになるなんて100%無理だっていわれた。
でも俺は成功するとかしないとか、まったく考えていなかった。
俺自身にとっても勝負だったから。
考えるよりやらなきゃしょうがないだろって感じだった。
知良がどうなるかより日本のサッカーがブラジルで通用するか、俺の教えたことが本場で通用するか、そっちのほうが大事だった。
ブラジルに対する挑戦だったんだよな」
(納谷義郎)
ブラジルはサッカーの国だった。
ワールドカップ大会中、ブラジル代表の試合がある日は仕事が休みになり、ブラジル代表が点を入れると街中で花火が鳴り、試合後は国旗を持って車に乗って振り回された。
裕福な家で育ってサッカー選手を目指す子供は少なく、サッカーは貧しい子供たちがストリートでやるものだった。
そこで目立てばクラブにスカウトされ、小学生でも交通費やボールやスパイクがもらえた。
サッカーは生活のため、お金を稼ぐ手段だった。
ブラジルではまずCAジュベントスのユースに所属し、2年目にECキンゼ・デ・ノヴェンブロのユースへ移籍。
やはり困難は多かった。
家族や友人から離れて生活し、練習場には誰よりも早く行き、全体練習の後も独りで練習し、誰よりも遅く帰った。
他の選手とのコミュニケーションや監督に指示を理解するためにも学校に通ってポルトガル語を学ばなければならなかった。
選手同士の競争は激しく、困難を乗り越えるために強い意志でひたすら練習を重ねた。
3年目には夢を諦め日本に帰ることを本気で考えていた。
ブラジルには自分よりもはるかに才能がある人間がたくさんいて、それでもプロになれずドロップアウトしていく人間もたくさんいた。
「言葉や食事の違いなんて何ともない。
悩みのすべては試合に出られないことだった」
ある日、公園にいくとサッカーをしている少年たちがいた。
中には裸足の子や片足がない子もいて、ボールも古い汚いものだったが、みんな楽しそうにそれを追っていた。
(自分には両足もスパイクも、きれいなボールもある。
何を贅沢なことをいっているんだ)
(逃げて日本に帰るようなことはしたくない)
三浦知良は思い止まり、挑戦を継続した。
同年8月、キンゼ・デ・ジャウーの一員として日本へ行き、中山雅史や武田修宏らがいた静岡高校選抜と対戦。
中学生だった川口能活もサイン会で初めて三浦知良と出会った。
ブラジルに帰国後、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ(U-21)に日本人として初出場した。
キング・ペレ O Rei do futebol 比類なきサッカーの王様
ある日、ロッカールームのドアを開けると、そこにシャワーを浴びたばかりの裸のペレがいた。
「カモモトを知ってる?」
ペレは、1940年、15歳で入団して以来、1974年までサントスでプレーし、2度のクラブ世界一。
ブラジル代表としてもワールドカップで3度優勝。
合計5度、世界チャンピオンを経験。
1975年からニューヨーク・コスモスに移籍。
1977年に引退。
22年の現役中、1363試合に出場し1283ゴールを決めた「20世紀最高のサッカー選手」「サッカーの神様」
「ペレ。
この短い言葉の響きは幼いころの僕にとって世界で1番すばらしいもの。
夢そのものを指していたようにさえ思える。
誰から聞いたというわけではなく気がついたときには自分の意識の奥深くに彼の名とプレーが刻み込まれていた・・・
そんな感じなんだ。
特に70年メキシコW杯のビデオをみたときの衝撃は忘れられない
ペレのプレーは一言でいうとすごくシンプル。
難しいことはほとんどしていない。
それなのに相手を抜けるしゴールを決められる。
マネできそうでできないんだ」
18歳でサントスとプロ契約
1986年2月24日、18歳の三浦知良はサントスFCとプロ契約を結んだ。
するとベッドのシーツは真っ白になり、長距離移動もバスから飛行機に変わり、ステーキの厚みも全然違い、トイレの便座でさえ違った。
「成り上がろう、ビッグになってやろうみたいな気持ちが自然と湧き出てきた。
日本ではそういう格差が少ないからね」
サントスは、セルジーニョ・シュラッパ(1982年のワールドカップスペイン大会ブラジル代表)、ゼ.セルジオ(柏レイソル監督)、ロドリフォ・ロドリゲス(ウルグアイ代表ゴールキーパー)など、すごいメンバーが集まっていた。
サントス所属のブラジル人選手の半数以上がブラジル代表経験者だった。
メキシコ遠征のとき、試合に後半から出たとき
「ジャポネイス!」
と後ろ(味方)から怒鳴られた。
「これは一生懸命やらないと・・」
気合を入れて最初のプレーで思い切りタックルにいったら1発退場になった。
試合が終わって恐る恐る部屋に戻ると
「カズ、なに食べに行く?」
と笑顔でいわれた。
しかし試合になるとまた
「サントスの先輩はほんとに怖かった。
味方への厳しさが半端じゃない。
コーナーキックを蹴ろうとする僕の足がビクつくほどプレッシャーをかけてくる。
ちょっとヘマをすれば
『へたくそ日本人! 帰れ!』
試合中、しかも味方のコーナーキックにですよ」
やがてポルトガル語ががうまくなるとみんなでふざけあうようになった。
懸命にフィジカルを鍛え、全体練習の後も独り残ってフリーキックやクロスの練習を行う姿に他の選手も刺激を受けた。
サントスのセンターフォワードはセルジーニョ・シュラッパだった
1982年のワールドカップスペイン大会においてブラジル代表は、、トーニョ・セレーゾ、ファルカン、ソクラテス、ジーコという屈指のミッドフィルダー4人で「黄金のカルテット」または「黄金の4人組」と呼ばれる中盤を形成し、そのサッカーは多くの人を魅了した。
セルジーニョ・シュラッパは、そのチームでもセンターフォワードだった。
高い技術と重戦車のような突破力を併せ持つストライカーだった。
そしてすごく熱くて破天荒で、レッドカード、退場、出場停止、お構いなく暴れた。
自分のマークについたディフェンダーは威嚇し、判定をめぐりラインズマンを暴行、相手ゴールキーパーを踏みつけ、試合後、相手選手を相手チームのロッカールームまで追っていったこともあった。
ある日の試合で、セルジーニョはベンチスタートだった。
ピッチでは若い味方選手が相手チームにかなり削られていた。
セルジーニョは戦闘体勢で何度もベンチを飛び出しそうになった。
後半になってもその若い選手は激しくやられていた。
「俺は38歳でもう引退だから止めないでくれ」
そう監督にいい残し、飛び出した。
2人の相手につかみかかり、引きずり回し、回し蹴りを入れ、3ヶ月出場停止になった。
そしてその復帰戦でゴールを決め、また退場させられた。
また練習はしなかった。
朝のランニングは1人だけ歩いた。
「今日は用事があるから早めに練習を切り上げたい」
と監督に申し出てOKが出ると私服のままグラウンドを2周走ってそのまま帰った。
「最低でもトレーニングウェアに着替えるとかするでしょ。
彼はジーパンのまま走ってたからね」
問題は多かったがみんなに愛され慕われていた。
三浦知良にとって憧れの選手でもあった。
体の使い方などサッカーの技術はもちろん、どんなときでも動じない精神力を学んだ。
決勝戦や大舞台では必ずゴールを決めていた印象があった。
どんな状況、どんな相手でも関係ない。
自分は自分。
俺はセルジーニョ・シュラッパだ。
そんな姿勢が勉強になった。
「すべては自信という裏づけがあるからできるんだよね」
中野登美雄(日本サッカー協会事務局長)は、毎年、ブラジルのチームを日本に呼ぶためにサンパウロを訪れていた。
そして三浦知良に出会った。
「スピード、瞬発力、判断力、すべてが日本人のレベルとは段違い。
ブラジル人と比べても勝っていた。
カズの雄姿を是非日本のファンにみてもらいたい」
そしてパルメイラスに期限つきで移籍させ日本に呼んだ。
1986年5月11~18日、キリンカップ(日本で4月から6月ごろに開催されているサッカーの国際親善大会)が開催され、ブレーメン(西ドイツ)、アルジェリア代表、パルメイラス(ブラジル)、日本代表の4チームが参加。
三浦知良はパルメイラスの一員として来日し、ゴールこそなかったが、ドリブル突破や精度の高いクロスで味方の得点をアシストした。
4チームの総当たり戦後、上位2チームが決勝戦で当たるシステムで、ブレーメンとパルメイラスが対戦した。
ブレーメンには奥平康彦がいた。
この試合後、帰国が決まっていた奥平康彦はキャプテンを任された。
先制点はパルメイラスだったが、ブレーメンは追いつき延長に持ち込み、オルデネビッツ(後のJリーグ得点王)の2得点などで逆転勝利で優勝した。
19歳の三浦知良は、この決勝戦には出場しなかったが、試合後の夜の食事会で34歳の奥平康彦と話した。
「19歳のカズと奥寺の対決に日本のファンは盛り上がっていたけど僕自身は複雑だった。
というのもカズ自身のパフォーマンスは悪くなかったけど連携が不十分なところがあったから。
カズはこんなもんじゃないと声を大にしていいたかった」
(中野登美雄)
「体つきが子供で印象に残らなかったが、
『日本に帰ろうと思っています』
というから
『残ったほうがいい。
もう少し修行しなさい』
と助言した。
そのほうが成長できると思ったからね」
(奥平康彦)
奥平康彦(横浜FC会長)は、1977年、25歳のとき古川電工サッカー部からドイツのブンデスリーガのケルンに移籍し日本初のプロサッカー選手となった。
日本代表として西ドイツで合宿を行っていたとき、代表20人は5人ずつ4グループに分かれ、ブンデスリーガの練習に参加した。
奥平康彦はケルンの練習に参加し、そのプレーがバイスバイラー監督に気に入られ、帰国前に直接オファーを受けた。
事情を聞いた古川電工は快く移籍を認めた。
古川電工サッカー部は名門だったが、全員が社員選手だった。
それがいきなり世界最高峰のリーグでプロ契約することになり、収入も激増した。
基本給は、手取り10万円台だったものがが10倍になり、試合に勝つと2000マルク(約24万円)の勝利給も出た。
その後、ヘルタ・ベルリンやブレーメンでもプレーし、正確なキックは「東洋のコンピューター」といわれた。
そしてキンリンカップを最後に9年ぶりにドイツから日本の戻った。
日本サッカー協会は、「スペシャルライセンスプレーヤー制度」を導入し、奥平康彦は古川電工と日本初のプロ契約を結んだ。
「サラリーマンサッカーの時代は終わった」
しかし帰国後、感じたのは歯がゆさだった。
まずドイツと日本のレベルの差は大きさを痛感した。
そしてアドバイスしても
「奥寺さんはプロだからいいよね」
という声が返ってきたときは唖然とした。
向上心がないわけではないが、プロと社員選手では懸かっているものが違った。
1987年、日本代表としてソウルオリンピックのアジア最終予選に進出。
最終的に中国との決戦となり、アウェー戦を1対0で勝った後、ホームを0対2で負け、最後の最後でオリンピック出場を逃した。
日本の1968年のメキシコオリンピックの銅メダル以降、5大会連続予選敗退に、古川電工で奥平康彦の上司だった川渕三郎(Jリーグ初代チェアマン)は危機感を抱いた。
「早くプロリーグをつくらないとアジアからも遅れる」
1988年、奥平康彦は引退。
Jリーグがスタートしたのは5年後だった。
設楽りさ子にひと目ぼれ
またこの帰国時、JALのキャンペーンガールとして週刊誌のグラビアを飾っていた設楽りさ子をみてひと目ぼれ。
「『こんな女性がいるのか』と僕の胸が震えたのは19歳。
伴侶のあの美しさを超える女性は僕の中で見当たりません」
すぐに知り合いの記者に頼んだ。
「この子の連絡先、調べてきてよ」
記者は所属芸能事務所の電話番号しかわからなかったが、数日後、三浦知良を訪ねた。
「設楽さんの連絡先ですけど・・・」
「もう大丈夫。
さっき一緒にお茶していたから」
三浦知良はファッション雑誌に掲載されている情報から設楽りさ子が通っている大学をつかみ、同じ大学の同級生の女性にコンタクトし設楽りさ子の電話番号を手に入れた。
「会ってくれなければブラジルに帰れない」
ブラジルからも毎週手紙を書き、1990年に日本に本格的に帰国後も交際を続け、1993年に結婚した。
プロポーズの言葉は
「どんな事があっても僕についてきてくれるか?」
だった。
2人の息子ができて、三浦知良は家でも家族を笑わせた。
幼稚園に通っていた長男に
「8+6」
を聞かれ、間違え、妻に長男一緒に怒られた。
ジャイアント・キリング ジーコと対戦
ブラジルに帰国した三浦知良はタッチサンパウロというサンパウロ州の20歳以下の大会で、負けていた試合で同点に追いつくPKを決め、初めて「カズコール」を受けた。
翌日、新聞に見出しが躍った。
『Kazu e um heroi japones”(カズは日本のヒーローだ)』
しかしサントスFCで活躍できたのは8ヵ月後だけで、SEマツバラへ移籍した。
そしてSEマツバラではレギュラーとして南部3州リーグ優勝に貢献した。
バスで22時間かけて移動して土のグラウンドで試合し、また24時間かけて帰ったり、2部に落ちかかった試合で後半40分くらいまで勝っていたらスタジアムのライトを消してゲームを終わらせたり、苛酷な環境や生存競争の激しさ、いい悪いは別にして絶対に負けないという勝負根性などプロのサッカー選手であるために何が必要なのかを思い知らされた。
1987年10月、クルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(CRB)に移籍。
このクラブでもレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした。
1988年、キンゼ・デ・ジャウーへ再移籍。
格上のSCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人として、リーグ戦初得点を挙げ、3対2で勝った。
このジャイアント・キリングによってブラジル全土に「三浦知良」という名が知れ渡り、ブラジルのサッカー専門誌:プラカーの年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位となり、ジャウー市からは名誉市民賞が贈られた。
1989年2月、コリチーバFCに移籍し、パラナ州選手権優勝に貢献した。
またフラメンゴ戦では、ジーコと初対決した。
「僕の人生の中には宝物といえる試合がある。
フラメンゴのジーコと対戦したことは間違いなくその1つだといえる。
これは僕の自慢であり誇りだと言い換えてもよい」
試合はコリチーバのホームスタジアムで行われ、45000人のファンで超満員にだった。
試合前の握手のとき、21歳の三浦知良にジーコは
「成功を祈っている」
と声をかけた。
「初めてカズのことを耳にしたのは80年代後半だった。
プロになりたくてブラジルに来た日本人の少年が1部リーグのキンゼ・デ・ジャウーと契約したというのはちょっとしたニュースだった」
(ジーコ)
ジーコは、セルジーニョ・シュラッパ同様、1982年のワールドカップスペイン大会にブラジル代表として出場し、黄金の4人の1人として中盤を形成した。
シュート、ドリブル、パス、フリーキック、すべてが華麗で強力、何よりクレバーで、その存在は4人の中でも別格だった。
24歳のベベト、21歳のジーニョ、19歳のレオナルドという若いタレントと38歳のジーコを配したフラメンゴは前年、ブラジル全国選手権で優勝していた。
コルチーバは前半は0対2でリードされたが、後半に2対2に追いつき、最後はPK戦で勝った。
23歳でサントスのレギュラー
「Kazu Miura」の名前が雑誌や新聞のベストイレブンに掲載されるようになった。
「こんな雑誌に載るなんて夢だよな」
数年前にはそう思っていたことが現実になった。
1989年、テレビ朝日「ビートたけしのスポーツ大将」に出演。
番組内の企画のサッカー対戦で、助っ人としてゴールを決めた。
このときラッシャー板前のマンションに同居させてもらっていた。
「彼が19~20才で、まだ有名じゃなかったときです。
カズさんと一つ屋根の下でたぬきそばとカツ丼を分け合って食べたりしていましたね。
同居のよさは気遣いが染みつくこと。
率先してお酒をつくるようになるし、冷房の温度は妥協するようになるし、聞かれたくない電話は聞かないふりができるようになるし、人との距離が上手になりますよね。
それは社会でも生かせるスキルです」
(ラッシャー板前)
1990年2月、サントスFCへ4年ぶりに再移籍。
4月29日、パウリスタ選手権においてアウェーのパルメイラス戦はアウェーでサントスは苦戦していた。
ペペ監督になんとか状況を打開してくれとピッチに送り出された三浦知良は、1得点1アシスト、チームは2対1で勝った。
ブラジルの新聞はスポーツ紙、一般紙共に三浦知良の活躍を伝え、そのゴールシーンはプラカーの表紙となった。
「カズの優れた点は、ヴェロシダージ(スピード)、フォルサ(パワー)、デテルミナソン(決定力)だ」
というペペ監督は、現役時代1951年にサントスに入団して以来1969年に引退するまでサントス一筋だった。
現役時代、三浦知良同様、左ウィングで
「ペレは1000ゴール決めたが、俺は500ゴール決めた」
と自慢し
「どうやったらセンタリングうまくできますか?」
と質問されると
「ペペのようにやれ」
と答えた。
サントスはビッグクラブで、サポーターの数が多く、メディアの注目度も高く、試合で選手には大きなプレッシャーがかかったが
「お前がよいプレーをしたらお前の手柄。
お前がよくないプレーをしたら俺の責任。
お前の責任じゃない。
心配するな」
と送り出した。
三浦知良は18歳でサントスとプロ契約し、23歳でレギュラーとなった。
現在までブラジルで活躍し有名になり成功した唯一の日本人サッカー選手であり、その永住権を更新するため最低でも2年に1度はブラジルを訪れている。
ブラジル留学にいっていた北澤豪は、たまたま足を運んだスタジアムでブラジル人を翻弄する三浦知良をみて、そのプレーに衝撃を受けた。
そして同じ日本人というだけで、相手チームのサポーターから小便をかけられた。
数日後、日本人街のサウナで偶然、三浦知良と会い
「もうすぐ日本に帰るよ」
といわれた。
霜田正浩(Jリーガー、コーチ、日本サッカー協会技術委員)も、高校を卒業後、ブラジルに留学した。
海岸で三浦知良と日本人留学生数人でサッカーをしていたときブラジル人に
「日本人にサッカーなんてできるのか?」
とからかわれトラブルになった。
大きな体をしたブラジル人だったが、三浦和良は1人
「ふざけるなよ」
と立ち向かっていった。
「しょっちゅうそんなことがあったから。
殴り合いとまでいかなくてもいわれたらいい返す。
いつもブラジル人には挑戦的だった。
当時、サッカーの世界では日本人は1番下だったから、扱い、みる目、すべてが下。
よくバカにされることもあった」
ある休日、都並敏史は、家族と読売クラブのサッカー場に隣接する遊園地を訪れ、観覧車に乗って楽しんでいた。
するとグラウンドで同じくオフで日本で帰ってきて自主トレをしている三浦知良を見つけ、その激しさに驚いた。
自主トレを終えた頃、集まり出した選手たちに
「ボール回しやりませんか?」
と誘われ
「今ケガできないからやめとく」
とキッパリ断るのをみて再び驚いた。
「本物のプロはここまで注意するのかとガーンと頭から熱湯かけられたような気がした」
日本サッカーのショボさ
1990年7月、三浦知良は、日本サッカーリーグ(JSL)の読売サッカークラブ(現:東京ヴェルディ)に移籍した。
日本のプロサッカー(Jリーグ)の発足、また日本代表のW杯出場を見据えた移籍だった。
デビュー戦は、味方からパスを受けて相手ゴールキーパーと1対1になり、抜こうとしたがひっかけられて右足首を捻挫し、前半15分で負傷退場した。
ブラジルでは背番号固定制ではなく先発選手がポジションごとに1番から11番をつけるシステムで、左ウィングは11番だった。
帰国後も11番を希望したがすでに使用されていたので24番になった。
(翌シーズンからは11番になった)
またブラジルでは左ウイングだったが、帰国後はセンターフォワードとしてゴールを量産するようになった。
「フォワードに必要なのは一瞬のキレと判断力、冷静さといい加減さ。
試合で何本シュートを外してもめげずに次のパスを要求で切るような精神的な強さ、周りに何をいわれようと一切気にしない図太さが絶対に必要になる。
自分の失敗を棚に上げられるいい加減さというのが日本人フォワードに1番足りない部分じゃないかと思っている」
また攻撃だけのフォワードではなく、守備もしっかりこなし、献身的なプレーもみせる。
「サッカーに対する考え方として「ゴールがすべてじゃない」と思っている。
攻撃も守備も、ドリブルもパスもゴールもアシストも等しく価値があるもんなんだ」
パス、トラップ、シュートなどの基本的なプレーは高いレベルにある。
そして何より強力なドリブル、そしてフェイントとスピードで相手ディフェンスを一瞬で置き去りにした。
左右両方で蹴れるスイッチキッカーでその精度は高かった。
177cm、72kgの体は、決して大きいものではなく、しかも硬かった。
身体的な素質はあまり恵まれていないかもしれないが精神的な強さは並外れ、なにがあろうとビクともせずココ一番ではゴールを決めた。
しかし日本でサッカーはマイナーだった。
三浦知良といっても、ロス疑惑の容疑者:三浦和義と勘違いされることもあった。
サッカーも常に全力で走り回ってガチャガチャとやりあうような、監督に「あいつをマークしろ」といわれれば全然関係ないところでもついていくような、ある種異様なスタイルだった。
当然、練習法も違い、かなり戸惑うことも多かった。
「日本に戻ってきたとき、日本サッカーには本当に何もなかった。
ある程度予想はしていたけどさすがに少し戸惑った。
ブラジルではドクターやマッサージ師はもちろんホペイロ(用具係)や洗濯係まで選手を支える各ポジションにプロがいた。
読売クラブは当時の日本ではプロフェッショナリズムが1番進んでいたと思うけど、それでもクラブハウスはプレハブの域を出ていなかった。
スパイクの手入れもユニフォームの洗濯も選手が自分でやるのが当然のことだった」
日本代表に選ばれ、北京で行われるアジアカップに向けて合宿に入ったが、小さなホテルに泊まり、練習は芝生がはげて凸凹になった公園のような場所で行われた。
スタッフ数も少なく、練習器具や設備も貧相だった。
ブラジル代表との差、日本代表のショボさに三浦和良は驚いた。
またラモス瑠偉や三浦和良は、日本代表として出場給や勝利給をサッカー協会に要求した。
しかし認められず、
「じゃあ俺たちは北京にいかない」
とゴネた。
2人はその後も環境や待遇の改善を求め、どんどん要求を出していった。
サッカー協会の強化部長だった川淵三郎は対応に手を焼いた。
「日本代表にも本当のプロが入ったんだなという印象を持ったと同時に、ラモスやカズのような選手をまとめていくには日本人監督では無理なんじゃないかとも思った」
1991年、三浦知良の推薦で読売クラブの監督となったペペは、ブラジルでも有数のホペイロであるベハーゼ氏をブラジルから招聘した。
日本サッカー初のプロのホペイロ(用具係)だった。
彼の最初の仕事は、ロッカールームに1人1人の用具を入れる棚をつくることだった。
1人、徹夜でその作業を行った。
これによって例えば雨に日に履いたスパイクが翌日には同じ状態で戻せるようになるからだ。
「最初は僕が信用されていないことがわかった。
最初の試合はヤマハ戦だった。
試合が終わった後、僕のところにスパイクやユニフォームを置いていったのは19人の選手で8人だけだった。
僕は自分の仕事を認めてもらおうと全力で仕事をした。
スパイクの泥を落とし手入れをして磨いた。
ユニフォームは洗濯しアイロンをかけた」
三浦知良は、みんなが集まったときベハーゼ氏を紹介し、ホペイロがチームでどれだけ大切か、その仕事の重要性を話した。
「チームのためにできることをやる」
ベハーゼ氏はプロとして黙々と働いた。
やがて日本人の弟子もでき、日本にその仕事を根づかせた。
当初8ヶ月の契約だったが結局8年間も日本で仕事をした。
三浦知良はスポーツクラブに入った。
当初はジャグジーに入ったりくつろぐためにいっていたが、半年くらい経つと真剣にトレーニングをするようになった。
以後数年間、週2、3回、チーム練習後にジムに行き、筋力アップを意識してトレーニングを行った。
トレーナーの岩崎朗子(ベンチプレスでアジア選手権1位、世界選手権3位)はジムで三浦知良に出会った。
最初は
「チャラいやつだな」
と思っていたが、やがて一緒にトレーニングをするようになり、ジム以外でもクラブなどで遊ぶようにもなった。
サッカー選手のトレーニングに関わるのは初めてで、練習や試合を見学にいき動きをみたり、サッカーのトレーニング本を読み漁りメニューを組んだ。
「30代のとき『あんたが引退するまで結婚しない』っていったことがありました。
それは『姉御、ちょっと来てくれ』といわれたときにポンッと出かけていける自由な身でいたかったから。
おかげで今も独身です」
オフトJapan
1992年3月、サッカー日本代表監督に史上初の外国人監督として44歳のオランダ人のハンス・オフトが就任した。
1982年に当時2部だったヤマハ発動機(現:ジュビロ磐田)に臨時コーチとして来日し2カ月で1部昇格および天皇杯初優勝に導いた経歴を持つ。
最初の浜松のキャンプでは
「選手の状態を知りたい」
と22時までロビーに居座り、誰が出入りし、誰と誰が仲がいいかなどをチェック。
22時30分になるとコーチに部屋をみてこいと指示し、誰が寝て誰が起きてるかチェックし、朝は必ず選手たちと握手した。
そしてトレーニングや個々の選手の情報などなんでも気がつけばメモを取った。
ミーティングは準備のために1時間前からミーティングルームに入った。
集中しやすいようにイスを並べ、模造紙に字や図を書くのだが、
「見えるか?」
とスタッフに聞いた。
食事は「いただきます」から「ごちそうさま」まで全員一緒。
食堂の机はコの字に配置され、真ん中に監督とスタッフが入り、あとは自由。
オフト監督からはすべての選手と選手の食事がみえた。
「ちゃんと食事がとれないといいパフォーマンスはできない」
と食べ方や食べる量をチェックし
「私の近くに座る選手は私を信頼している」
と判断した。
三浦知良はいつもしっかり、しかもバランスよく食べていた。