それまで日本代表のミーティングはラモス瑠偉を中心に行われていたが、オフト監督はそれにとって代わった。
練習初日、選手を呼ぶときの指笛を吹くオフト監督にラモスは
「俺達はあんたの犬じゃない」
と抗議しつっかかった。
「冗談じゃないよ」
メディアにも公然と不満をぶちまけるラモスを呼び出しオフト監督は
「もう代表に来なくていい」
と言い渡した。
実際に外されることはなかったが、食堂でラモスは監督から1番遠い席に座った。
オフト監督とラモスはサッカー観も対立した。
オフト監督は、選手個々のタスク(役割)を徹底させ、サイド攻撃を重んじたが、ラモスは自由奔放な中央突破を理想とした。
三浦知良も規律を重んじるオフト監督に反発があった。
清雲栄純コーチ(古川電工、日本代表)は、オフト監督の命を受け、毎晩、選手がちゃんと寝ているかチェックした。
あるとき三浦知良だけ起きてマッサージを受けていたので
「もう寝ろ」
と注意すると
「俺の体は俺が1番知っているんだ」
と返された。
三浦知良は練習が終了してもなかなか戻らず、1番最後にシャワーを浴び、マッサージもタップリ行い、アイシングにも時間をかけた。
また高校まではラグビー(花園を経験)で大学からサッカーを始めた清雲栄純に
「清さん、サッカー知らないじゃん」
といったり
「キヨーッ」
と呼び捨てにしたり、頭を小突いたりした。
オフト監督は選手に疑心暗鬼の目でみられながら、それまで自由だった戦術に、
「アイ・コンタクト」
「トライアングル」
「サポート・ディスタンス(サポートの距離)」
「サポート・アングル」
「サポート・タイミング」
「チェンジ・リズム」
「チェンジ・サイド」
「スモール・フィールド」
「アグレッシブ・タックリング」
「リスタート」
などのルールを決めて落とし込んでいった。
チームの最大目標を「ワールドカップアメリカ大会出場」とし、海外遠征、国内に海外クラブを招いての試合、ダイナスティカップ(現:東アジアE-1選手権)、アジアカップなどは、その過程と言い切った。
また大きなリラックスルームとマッサージルームをつくって飲み物やサッカーのビデオなどを置くなど環境面も拡充させていった。
7月、日本代表はオランダ遠征を行った。
このとき三浦知良は中山雅史と公園の芝生の上で寝そべりながら
「ワールドカップいこうな」
などと熱く語り合っていた。
しかし周りがゲイのカップルだらけなのに気づくと日本代表のツートップはすぐに無言で帰った。
オフト監督の気さくな性格にやがて選手は打ち解け、
「まずは監督のいうとおりにやってみよう」
という柱谷哲二キャプテンに賛同し日本代表はまとまりつつあった。
しかしラモス瑠偉だけは自分のサッカーを曲げられずオフト監督と内戦状態になっていた。
柱谷哲二はキャプテンとして話をしにいった。
「この頃、オフトはラモスとぶつかって鬱陶しいなって感じていたと思う。
でもダイナスティカップで結果が出ればチームはまとまる。
ここが勝負どころだと思ったんでラモスに
『ここで結果が出なかったら文句をいいましょう。
それまでは監督が要求することをやってください』
っていいました」
(柱谷哲二)
三浦知良も柱谷哲二をフォローした。
「そのとおり。
プロは監督にいわれたことをやらないといけない。
プロってそういうもんだから」
8月22~29日、中国の北京でダイナスティカップが開催。
日本はグループリーグ初戦の韓国戦で引き分けたが、続く中国と北朝鮮に勝利しグループ1位。
2位韓国と戦った決勝は、2対2からPK戦で勝利し優勝した。
日本が海外の国際大会で優勝するのは初めてでチームは大きな自信を得た。
「技術、体力はすぐには向上しない。
理由は明らか。
戦術なんだよ。
中国、北朝鮮、韓国を連破できるなんてあり得なかった。
今ある選手の能力をいかにチームとして高めて勝負するか。
これぞプロ監督」
(川渕三郎)
「前回大会は、韓国、中国、北朝鮮に全敗だった。
負けて何もできない状態だったのが2年後に韓国に勝って優勝した。
オフトのいうことを守りつつ自分たちがプラスアルファでやっていけば十分にやれるんだって自信がついた。
結果が出たことでみんなオフトについていくみたいな感じになって一段と結束力が増した感じだった」
(柱谷哲二)
韓国相手に前を向いてプレーできたのは初めて」
(都並敏史)
だがラモスだけは納得していなかった。
大会中、ケガを抱えていたこともあって4試合すべて途中出場だったが、決勝の韓国戦の2得点はラモスがつくったチャンスから生まれたもので「違い」をみせつけた。
しかし中央突破にこだわって、攻撃のチャンスを潰されることもあった。
柱谷哲二は
「外!、ワイド、ワイド!」
と叫んだが、ラモスは聞こえないふりをして中央にボールを運んでいった。
「結果が出てもラモスだけは不満な表情だった。
なんか気に食わないんだろうね。
でも、現実はサイドで福田が活き活きとしていいプレーしている。
それなのにラモスはサイドを使わない。
それに『武田(修宏)はダメだから高木(琢也)に代えてくれ』とか、自分の使い勝手のいい選手を要求していた。
ラモスには、プロとしてのプライドと共に、こういうサッカーをして勝つんだという勝ち方に対してもプライドを持っていた。
この人は自分のサッカー観を曲げない。
でもプロの監督としてオフトは結果を出した。
結果を出した以上、わがままは許されない。
みんなもオフトを信頼し始めていたんで、この空気を壊すわけにはいかないと思い、ラモスにキャプテンとして釘を刺しに行ったんです」
(柱谷哲二)
ダイナスティカップで祝杯をあげる前、柱谷哲二はラモスに最後通告をしようと決めた。
しかし相手はラモス。
かなりいいにくい。
自分の部屋をウロウロ歩き回った末、自分で自分に気合を入れ、ラモスの部屋に向かった。
「ラモスさん、話があります」
「何?、テツ」
「今回、ダイナスティで優勝しチームがまとまりつつあるし戦う集団になってきました。
みんなオフトについていけば結果が出ると信用するようになってきたけどラモスさんだけはそうじゃない。
秋にはアジアカップがあるし優勝しないといけない。
俺らはずっとラモスさんと一緒にやりたいけど今後、代表で集まったとき、オフトのことでウダウダいうようなら自分から代表を辞退してください」
いうだけいって返事を聞かずに部屋を出る柱谷哲二をみてラモスはキョトンとなった。
「テツがいうなら仕方ないか」
オフトのサッカーは嫌いだったが、仲間の声は信じられた。
ダイナスティカップ終了後、ラモスの監督批判が雑誌に掲載され、オフト監督とラモスは1対1で話し合った。
その後、2人の雰囲気は変化した。
「ずっと2人で話をしていて、いきなり仲がいいわけ。
変な感じだけど、まあよかったなってホッとしました」
(柱谷哲二)
足に魂込めました
10月29日~11月8日、第10回アジアカップ広島県で開催。
20ヵ国が6グループにわかれ予選に参加し、各グループの1位が本大会に出場するというシステムで、強豪国の韓国は予選で敗退し、日本代表は2大会連続2回目の出場を決めた。
そして本大会は、グループリーグA組(日本、アラブ首長国連邦(UAE)、イラン、北朝鮮)、B組(サウジアラビア、中国、カタール、タイ)にわかれ総当たり戦を行い、各組上位2チーム、合計4チームが決勝トーナメントに進む。
グループステージ第1戦、日本はUAE戦を0対0で引き分け。
第2戦の北朝鮮は、前半29分に先制された。
後半、24分にPKのチャンスを得たが三浦知良が決められず、後半35分に交代出場した中山雅史が三浦知良のコーナーキックにヘッドで合わせ、1対1で引き分けた・
第3戦のイラン戦。
グループステージを突破するために勝つしかない日本と引き分けでも突破が決まるイランの試合は0対0で前半を終えた。
ハーフタイム、オフト監督は
「残り20分を切ったら前線からプレスをかけ、残り10分になったら後ろ(最終ライン)には3人だけ残して守備陣も攻めに出ろ」
と指示を出した。
後半8分、イランは退場者が出し、日本は数的優位に立ったが得点を奪えなかった。
後半35分、残り10分になり、主将の柱谷哲二は3人だけ残すという監督の指示を破り、2人だけを残して攻めに参加させた。
後半40分、井原正巳のスルーパスを三浦知良が右足でシュートした。
「思い切って、魂込めました、足に」
劇的なゴールにスタンドは総立ち。
歓声が広島ビッグアーチ(現:エディオンスタジアム広島)の背後の山に反響し、学園祭が行なわれていた付近の大学は騒然となった。
決勝トーナメントは準決勝、決勝と2回勝てば優勝。
日本はまず中国と対戦。
開始30秒で先制され、0対1のまま前半は終わった。
後半3分、福田正博が同点ゴール。
後半12分、北澤豪が逆転。
後半15分、ゴールキーパー:松永成立がコンタクトプレーの後に相手選手を蹴ってしまい退場。
ゴールキーパーの前川和也が入り、北澤豪がベンチに下がった。
後半25分、前川和也が何でもないボールを後ろにこぼし同点とされる。
後半39分、ラモス瑠偉 - 堀池巧 - 福田とつないで中山雅史がヘッドで決め、3対2で勝った。
決勝戦はこの大会2連覇中のサウジアラビアと対戦。
しかし序盤から主導権を握り、前半37分、都並敏史からパスを受けた三浦知良がセンタリング。
これを高木琢也が胸トラップからのボレー。
この先制点を守り抜き、アジアカップ2大会連続2回目で初優勝した。
三浦知良はMVP(最優秀選手)に選ばれた。
「最初はハッキリいってアジアカップの、なんてていうのかな、重みみたいなものを感じずにやっていた気がしますね。
やっぱり頭の中ではW杯予選が93年から始まるという意識のほうが強くて、そのための調整というか。
自分たちがどれくらいの位置にいるのかを知るための大会という気持ちでしたね」
読売クラブはJリーグカップで優勝を遂げ、三浦知良は大会MVPにも選出され、またフットボーラー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手賞)も受賞した。
日本で開催されたアジアカップで優勝したことでサッカー日本代表は俄然注目されるようになった。
翌年のJリーグ開幕に向けての呼び水となり、サッカーが大きなムーブメントになろうとしていた。
Jリーグ
1993年、Jリーグが発足した。
参加したクラブは
・鹿島アントラーズ
・東日本JR古河サッカークラブ(現:ジェフユナイテッド千葉)
・三菱浦和フットボールクラブ(現:浦和レッズ)
・読売日本サッカークラブ(現:東京ヴェルディ)
・日産F.C.横浜マリノス(1999年、全日空佐藤工業サッカークラブと統合。現:横浜F・マリノス)
・全日空佐藤工業サッカークラブ(横浜フリューゲルス)
・清水FCエスパルス(現:清水エスパルス)
・名古屋グランパスエイト(現:名古屋グランパス)
・パナソニックガンバ大阪(現:ガンバ大阪)
・サンフレッチェ広島F.C
の10クラブ(オリジナル10)だった。
本来、開幕は3月だが、この年は4~5月までワールドカップのアジア一次予選が開催され、Jリーグの成功に日本代表の成功は不可欠と考えたJリーグ事務局は5月15日に開幕を遅らせた。
またラモス・ルイ、都並敏史、武田修宏、北澤豪、井原正巳など国内の有力選手に加え、ジーコ(鹿島)、リトバルスキー(市原)、カレカ(柏)、ディアス(横浜M)など世界的な選手が海を渡ってきて参戦した。
そのサッカーは豪快で華麗で芸術的で観客を見惚れさせた。
「彼らの華麗なフェイントやパスを真似する人はたくさんいると思う。
でも僕が本当に「すごい」と思うのは、むしろ勝利に徹底的にこだわって戦い抜く姿勢のほうなんだ。
ドリブルしててボールを奪われたときものすごい形相で後ろから追いかけてってボールを奪い返そうとする。
ラモスさんなんかもそうだったけど、ボールを奪い返すためにはファウルも辞さないという覚悟を持っていた。
大切な試合を勝ち抜いていくために必要なのは実は華麗なテクニックではなくてそういう姿勢なんだ。
テクニックを真似るのはもちろん大切だけど今の若い選手たちには彼らのファイティングスピリッツだとか泥臭さのほうをまず学んでほしいね」
5月26日、鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴール。
7月17日、神戸ユニバー記念競技場で行われたJリーグオールスターサッカーでは、2得点でJ-EASTの勝利に貢献し、大会MVPに選出された。
7月31日、自身の結婚式の前日のガンバ大阪戦からは6試合連続得点。
12月8日、浦和レッズ戦ではJリーグでの初ハットトリックを決めた。
三浦知良は、ゴールを決めるとカズダンスというゴールパフォーマンスが行った。
両足で細かいステップを踏みながら両手をぐるぐる回し、最後に左手で股間を押さえて右手で前方または天を指さす。
またガッツポーズや投げキッスなど、フィニッシュはバリエーションがある。
ブラジルのFWカレッカが得点後、コーナーフラッグ付近でサンバを踊ったのを真似たのが始まりだったが、カズダンスはゴール後のパフォーマンスを日本に定着させ、以後各選手、各チームがパフォーマンスを行うようになった。
三浦知良がゴールを決めると選手もサポーターもみんなこぞってカズダンスした。
城彰二も一時期カズダンスをしていたが、そのことを聞いた三浦知良に呼び出され説教され、以降踊れなくなった。
こうしてJリーグ開幕シーズンは合計20得点を挙げ、第1回のMVP、前年に続いてフットボーラー・オブ・ザ・イヤー(日本年間最優秀選手賞)、そしてアジア年間最優秀選手賞も受賞した。
Jリーグが発足、開幕した1993年はサッカーが日本を席巻した。
新語・流行語大賞の年間大賞には「Jリーグ」、新語部門金賞に「サポーター」が選ばれた。。
スポーツをみるだけでなくチームを支える人を指す「サポーター」は、それまで日本に存在していなかった新しいスポーツの楽しみ方だった。
空前絶後のJリーグブームだった。
神様( ジーコ)が唾を吐いた
ラモス、ペレイラ、ビスマルク、三浦知良などスターぞろいのヴェルディは、チャンピオンシップでも鹿島アントラーズ戦を破って年間優勝に輝いた。
第1戦でヴェルディは2対0で勝ったが三浦知良はPKを外していた。
そして第2戦は、0対1で負けていたが、残り10分を切ったところでPKが与えられた。
すると三浦知良が蹴ろうとするボールにアントラーズのジーコは唾を吐いた。
そして退場させられた。
2人は共に腕にキャプテンマークを巻いていた。
1989年に現役選手を引退しブラジルでスポーツ担当大臣を務めていたジーコは、Jリーグが開幕する2年前の1991年に、日本リーグの2部リーグに所属していた住友金属に入団し現役に復帰した。
初めて住友金属の練習グラウンドが土なのをみて
「このピッチは選手がサッカーをやる環境か」
とつぶやいた。
その後、練習後、選手が風邪を引かないように練習場の近くのシャワールームやフィジカルトレーニング設備、ケガをしてもすぐに治療ができるメディカル面の整備など100%サッカーに集中できるようにフロントに要求していった。
選手には、まずボールを止める、蹴る、止めるを繰り返し、基本の大切さを説いた。
練習後、シューズが散らばったロッカールームにシューズをみると
「明日もこんな状態だったら全部捨てる」
といって自分のスパイクの手入れを始めた。
お菓子を食べている選手をみつけると
「プロの体づくりにお菓子は必要ない」
と怒鳴った。
そして5月16日のJリーグ開幕戦、対名古屋グランパス戦では、前半25分に強烈なミドルシュートで先制点を決めると、5分後の前半30分にも芸術的なフリーキックで2点目。
後半18分にもアルシンドのクロスをボレーで合わせJリーグ初のハットトリックを達成した。
そして試合は5対0で快勝した。
鹿島アントラーズはその勢いのまま第1ステージで優勝した。
ジーコがJリーグでプレーしたのは1993年の開幕から1994年の6月までで、23試合に出場し14得点を奪った。
その間、普段の練習から紅白戦、サブ組の試合、すべて全力を尽くして勝つために戦う。
そんな勝利への執着心、勝利へのメンタリティを植えつけた。
現在、鹿島アントラーズは
「常勝軍団」
と呼ばれ、選手も
「鹿島でプレーするということはタイトルを獲ること」
と言い切る。
チームには未だジーコ魂が根づいる。
そんなサッカーの神様らしからぬ行為はある意味、大事件だった。
「その試合はJリーグのチャンピオンを決める最初のファイナルだったが、私は何かがおかしいと感じていた。
2戦ともヴェルディのホームでプレーするということやロッカールームの問題などすべてにおいてヴェルディが保護されていたからだ。
さらにいえばPKを与えたレフリーはヴェルディで働いたことのある人間だった。
とはいえ私の行為は反スポーツマン的だったと後悔している。
私がレフリーに抗議して退場となったのは初めてのことだったし規律上の問題でピッチを去ったこともそれまで1度もなかった。」
(ジーコ)
当時の日本ではまだホーム&アウェイも定着しておらず、第1戦、第2戦とも国立競技場で行われた。
サッカー先進国から来たジーコが異議を唱えるのは当然だった。
「正直、ラッキーだと思ったね。
ジーコは敵にするととても怖いプレーヤー。
40歳を超えて運動量は少なくなっていたけどイザというとき決める力があったから。
そんな中でジーコが退場となりピッチを去ったのだからヴェルディの勝利にグッと傾いたなと。
僕がこのPKを外しても勝敗に影響はない。
だから楽な気持ちで蹴れた」
(三浦知良)
ワールドカップアメリカ大会アジア予選
1993年、翌年に行われるワールドカップアメリカ大会に向け、アジア予選が開始された。
1次予選はA~F組にわかれ6ヵ国が通過。
最終予選はその6ヵ国が総当たり戦を行い、上位2ヵ国がワールドカップの出場権を得る。
日本は1次予選F組を7勝1分けで通過。
カタールの首都:ドーハに移動し最終予選に挑んだ。
通常は各国代表は別々のホテルに分けられるが、湾岸戦争
(1990年8月2日、イラク軍がクウェート侵攻。
1991年1月17日、多国籍軍がイラクを空爆。
3月3日、暫定停戦協定。
2006年12月30日、サダム・フセインの絞首刑執行)
の影響で日本、韓国、北朝鮮、イラン、イラク、サウジアラビアのそれぞれの代表が1つのホテルの同フロアに宿泊し、厳しく警備された。
日本はスタッフが9階、選手が8階。
別棟7階にキッチンと食堂、ミーティングルームを確保した。
オフト監督は食事を大事にしたが、UAEで行われた1次予選のときはホテルの厨房の使用許可が下りず、ドーハでは自分たちのキッチンを用意した。
日本から同行したシェフは、朝、昼、晩、毎食バイキング形式で食事を用意した。
納豆などは無事空港を通ったが、米など持ち込めなかった食材は現地で調達された。
日本は
第1戦、サウジアラビア 0対0
第2戦、イラン 1対2
第3戦、北朝鮮 3対0
第4戦、韓国 1対0
と第5戦を残し1位。
2位 サウジアラビア
3位 韓国
4位 イラク
5位 イラン
6位 北朝鮮
と続いた。
キング誕生
初戦のサウジアラビアで、ボランチのアミンという中心選手がケガをしているという噂があった。
ホテルだったので試合前日、フロントに
「アミンは泊まっているか」
と聞くと、
「来てない」
といわれた。
しかし当日のスターティングメンバーだった。
情報戦において日本は正々堂々としていた。
非公開練習もまったくせずオープンだった。
第2戦のイラン戦で1対2で負けた時点では6位だった。
試合後、オフト監督は選手にメッセージを送った。
「3win(残り3試合全勝)」
そして第3戦の北朝鮮戦では、三浦知良の2ゴール1アシストで日本は3対0で勝った。
翌日、開催地:カタールの英字紙:ガルフ・タイムズは見出しで
「King Kazu」
と書いた。
「94年アメリカW杯のアジア地区最終予選には6ヵ国が参加していたが、湾岸戦争などで政治が暗い影を落とすことが懸念されていた。
大会の雰囲気を明るく華やいだものにするためにもスターを必要としていた。
そこに登場したのが「カズヨシ・ミウラ」という名の選手だった。
特に素晴らしかったのは北朝鮮戦だ。
あと1敗でもすれば本大会への夢が事実上絶たれる状況だったにも関わらず、カズは日本代表に再び希望の灯を灯した。
数千人の日本人サポーターがカズに熱狂する光景は今でもハッキリと目に焼き付いている
試合が終わるや否や僕はカメラマンと共にアルハリスタジアムからガルフタイムズに車で直行。
約30分でオフィスにつくと一気に原稿を書き上げ、最後に『King Kazu』とい大見出しをつけた。
このタイトルはまさにピッタリだったと思う。
だが印刷所に原稿を送る前に最後の作業が残っていた。
当時の中東諸国には検閲制度があった。
僕はエジプト人検閲官による原稿チェックが終わるのをジリジリとした気持ちで待っていた」
(デイヴィッド・ジェイムズ記者)
以後、「キング」は日本のメディアでも使うようになった。
移動バスで三浦知良が座る左最後尾の座席は「キングシート」と呼ばれた。
「僕の中ではキングといえばペレ。
偉大過ぎる大先輩の愛称をいただくのは光栄だけど・・・・
さすがに言い過ぎじゃない?」
40年間の壁を打ち破った韓国戦
第4戦の韓国戦でも三浦知良は決勝ゴールを決め、日本は1対0で勝った。
日本はこれまで40年間、韓国に勝てなかった。
それをワールドカップ予選で初めて破るという快挙だった。
宿敵韓国に勝利したことで日本代表にはワールドカップ行きが決まったような雰囲気が生まれた。
本当はあと1つ勝たなければならなかったが・・・
「まだ終わっていない」
ラモスは選手たちにしつこくいった。
実際、第5戦の結果次第で北朝鮮以外の5ヵ国に本大会出場のチャンスが残されていた。
第4戦までは全試合がハリーファ国際スタジアムで行われてきたが、第5戦は、同日同時刻にキックオフとなり3会場に分けられた。
その組み合わせは
日本 - イラク
サウジアラビア - イラン
韓国 - 北朝鮮
だった。
日本は勝てば、他の試合の結果にかかわらずワールドカップ本大会出場が決定。
引き分けても
・サウジアラビア - イラン戦が引き分け
・イラン勝利、
・韓国 - 北朝鮮戦が引き分け、
・北朝鮮勝利
・韓国が1点差以下で勝利
の場合は本大会出場が決定するという、かなり有利な立場だった。
3位の韓国は自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で北朝鮮に勝っても日本とサウジアラビアが勝てば本大会出場ができない状況だった。
ドーハの悲劇 最終予選最終戦ロスタイムで同点にされ本大会出場ならず
1993年10月28日、日本 - イラク戦はアル・アリ競技場で開催された。
両国の対戦は9年半ぶりで、過去の対戦成績は日本の0勝3敗1分け。
この試合から出場停止中だった主力2名が復帰するはずだったが、試合当日朝にペナルティーの延長が決まった。
イラクは最終予選を通して不利な判定を受けていた。
イラクとワールドカップ開催国:アメリカは湾岸戦争で敵国。
イラクがアメリカ大会に出場することを阻止する配慮があったのではないかとまことしやかに囁かれていた。
にもかかわらずここまで最終予選を1勝2分け1敗。
イランに勝ち、韓国、サウジアラビアと引き分け、北朝鮮戦も2対0でリードしていたが途中退場者を出て負けた。
しかも得点数は6ヵ国中1位。
間違いなく強かった。
日本の前線には三浦知良、中山雅史、長谷川健太が立った。
イラクは出場停止処分が重なり主力数名を欠いていた。
前半5分、中山雅史のポストプレーから長谷川健太がシュート。
クロスバーに弾かれたボールを三浦知良がヘディングで押し込んだ。
勝利しか本大会出場の望みがないイラクは、ボールを奪うとカウンターを仕掛ける展開。
前半は1対0で終了。
このとき他の2会場は
『サウジアラビア 2対1 イラン』
『韓国 0対0 北朝鮮』
このまま勝敗が進めば日本とサウジアラビアが勝ち抜けとなる。
ハーフタイムではオフト監督が
「Shut Up(黙れ)」
と何度も怒鳴らなければならないほどロッカールームに引き上げてきた選手たちは興奮状態で、各々勝手に話し合っていた。
選手たちの会話がどこで起こっているのかわからない異様な状況が続き、オフト監督が
「U.S.A. 45min(アメリカまであと45分)」
とホワイトボードに書いて説明しようとしたら後半のブザーが鳴ってしまった。
後半、日本は運動量が落ち、イラクがボール支配率を高め攻勢を強めた。
後半15分、アーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ1対1の同点。
他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねていて、日本は勝たなければ予選敗退となる。
後半24分、ラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドラインぎりぎりで抜け出した中山雅史が受け、ゴール右角にショートを決め、2対1。
ゴールシーンをベンチ正面から見ていた都並敏史は
「こりゃオフサイドだ。
これ、くれるか」
とつぶやいた。
ラモスは主審の笛が日本寄りな雰囲気を感じ、微妙な判定ならなら流すと予想していた。
この勝ち越しゴールも中山雅史がオフサイトポジションに出た瞬間を狙ってスルーパスを出した。
その後、両チームとも疲労が激しく膠着状態が続き日本勝利かと思われた。
後半44分50秒、武田修宏がまだ味方が詰め切れていないイラクゴール前へセンタリング。
このルーズボールをラモスが回収し、最終ライン裏へ浮き球のスルーパスを通そうとした。
イラクはこのパスをカットし、自陣からカウンターアタックを仕掛け、最後はコーナーキックのチャンスを得た。
試合時間は後半45分を超えてロスタイムに突入した。
ロスタイムに入り、いつ主審が試合が終わらすかわからない状況ではコーナーキックはゴール前へ直接センタリングを蹴るのが常識。
しかしキッカーのライト・フセインは、意表を突きショートコーナー。
三浦知がプレスに走りスライディングをかけた。
しかしフセイン・カディムは振り切らりセンタリング。
オムラム・サルマンがヘディングでシュート。
ボールはゴールキーパー:松永成立の頭上を放物線を描いてゴールに吸い込まれた。
2対2。
イラクはすぐにセンターサークルにボールを戻し、最後まで勝利を目指す姿勢をみせた。
日本はキックオフから前線へロングパス。
しかしをボールがタッチラインを割った時点で笛が鳴り試合は終了した。
日本代表選手の多くがその場にヘタリ込み動けなかった。
両手で顔を覆って号泣していたキャプテン:柱谷哲二をハンス・オフト監督と清雲栄純コーチが起こし支えながら歩いた。
他の選手も控え選手やスタッフに声をかけられ夢遊病者のようにヨロヨロと立ち上がり歩いた。
最終的に日本は3位に転落。
1位のサウジアラビアと2位の韓国が本大会出場権を獲得した。
この試合はテレビの生放送されていたが、
「決まった!」
と現地で実況中継していたアナウンサーが叫んだ後、同じく現地にいた解説者も、東京のスタジオでゲスト出演していた釜本邦茂(ガンバ大阪監督)、森孝慈((浦和レッズ監督)、柱谷幸一(浦和レッズ、日本代表キャプテン:柱谷哲二の兄)らも誰も一言も発せず、まるで放送事故のようだった。
「仕方ないですね」
沈黙が30秒近く続いた後、なんとかアナウンサーが続けた。
試合終了後、画面がスタジオに戻っても釜本邦茂も森孝慈も柱谷幸一も何もいうことができない。
柱谷幸一は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。
深夜にもかかわらず番組の視聴率は48.1%を記録。
ワールドカップ出場を直前で逃した日本代表には、帰国後、厳しい批判にさらされることが予想された。
日本の多くのファンは、日本代表を好意的に受け止めていて、成田国際空港に到着した日本代表は多数のファンに温かく迎えられた。
しかし数日後、日本サッカー協会強化委員会は
「修羅場での経験不足」
を理由に翌年5月まで契約が残っていたオフト監督の解任を決定した。
三浦知良はアジア1次予選9ゴール、アジア最終予選4ゴールと素晴らしい活躍だった。
イタリア セリエA アジア人初
1993年12月、ACミラン主催のチャリティーマッチに先発出場しウーゴ・サンチェスの得点をアシスト。
1994年、イタリアのセリエAのジェノアCFCに1年の期限付きで移籍。
アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。
セリアAは世界最高峰のサッカーリーグだった。
欧州、南米を問わず世界中のトップ選手がイタリアに集結していた。
外国人枠が3枠しかないのに、トマス・スクラビー(チェコ)、ジョン・ファントシップ(オランダ)、三浦知良(日本)とわざわざ日本人を獲得したジェノバに疑問の声が起こった。
「(ジェノアのユニフォームの胸部分の広告権をケンウッドが獲得したこともあり)スポンサーを得るために獲得したといわれているがどう思う?」
加入会見で辛辣な質問も浴びせられるなど、現地でこの移籍は商業的なものとみる傾向が強く、またアジア人に対する偏見も相当強かった。
当時のイタリアは、「日本人なんかにサッカーができるわけがない」というのが共通認識で、まるで異星人のような扱いを受けた。
フランコ・スコーリオ監督も外国人、特にアジア人である三浦知良には厳しかった。
「例えばJリーグにいきなりパキスタンとかベトナムの選手が来る感じ。
いやもっと開きがあるかもしれない。
なんで日本人がわざわざイタリアにサッカーしに来るの?って思われてたんだ」
厳しい状況の中だったが、誰よりも練習場に現れ誰よりも遅く去った。
自分の実力を疑うイタリア人に囲まれ、まるで1人ぼっちのようなストレスまみれの毎日を過ごした。
デビュー戦で負傷退場
9月4日、ACミランとのセリエA開幕戦でセリエAデビューを果たした。
試合前、前年のリーグチャンピオンであるACミランより三浦知良の方がカメラマンが多かった。
しかし前半途中、ボールを競り合ってフランコ・バジーレと激突し、グラウンドに倒れ、担架で運ばれた。
その後、なんとか戻ったが後半は出場することが出来なかった。
「今思うと少し力が入りすぎていたのかもしれない。
センターサークル近くでバレージとハイボールを競り合って顔面を骨折してしまった。
普通の精神状態ならゴールチャンスでもないのにあんな競り方はしなかったかもしれない。
ぶつかった瞬間はハンマーで殴られたような感じで、そのまま地面に落ちた。
治療を受けた後、なんとか復帰したが後半は試合に出場することはできなかった」
結局、試合は0対1でジェノアが負け、三浦知良は、鼻骨骨折と眼窩系神経損傷によって1ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。
「1度治療のためにピッチの外に出てすぐに戻ったんだけど、照明が全部つながってみえるし吐き気がして走っているのが精一杯だった。
それでも前半終了までは何としてもピッチに立っていたかった。
これだけ騒がれたデビュー戦で、日本のファンからもすごい期待と応援をもらっていながら、前半半ばで退場なんて恥ずかしかったしね。
冷静に考えれば交代したほうがよかったのかもしれないけど「出たい」という気持ちを強く持って、残り15分を走り抜いたのは大事なことだったと今でも思えるんだ」
激突したフランコ・バジーレは1977~97年までACミラン、1982~94年までイタリア代表で活躍した名ディフェンダーだった。
日本代表のドーハの悲劇と同様、イタリア代表はブラジル代表にPKで負けてワールドカップアメリカ大会出場はできなかった。
1次予選の早々に半月板を痛めたフランコ・バジーレは、代表キャプテンの誇りと責任感から手術を強行し、なんとかブラジル戦に間に合わせロマーリオやベベトを完全に抑え込んだ。
ハーフタイムで三浦知良の容態を聞き、手術後には電報を送った。
復帰戦でセリアA初、そして唯一の得点
1994年12月4日、9月4日の開幕戦で負傷退場となって以来、3ヶ月ぶりに三浦知良は復帰した。
それはサンプドリアとのダービー戦だった。
ビッグクラブ同士の対戦を、ブラジルでは「クラシコ」、イタリアでは「ダービー」といい街はお祭り騒ぎとなり、一部のサポーターは殺気立つ。
「我々とサンプの戦いが始まる」
こうして選手もサポーターもリーグ戦の1試合でありながらリーグの順位に関係なく絶対に勝たなくてはならない試合となる。
スタジアムは真ん中からジェノアの赤とサンプの青に分かれた
2週間前に監督がフランコ・スコーリオからジュゼッペ・マルキオーロに代わり、新監督は2戦目で三浦知良を復帰させた。
そしてチームのトップフォワードであるトマス・スクラビーの後ろに配置した。
「スコーリオの考えは多少違っていたようだが、私にとってフィールドに立つ資格を持つ選手は仲間のために走ることを厭わない者に限る。
年間20ゴールを決める能力を持つ選手は往々にして他者のために自らを犠牲にできない。
だけど真の一流選手ってものはそうじゃない。
エゴを封印し、年間10ゴールに留まろうとも、その分をチームのために走ろうとするものだ。
果敢に走ることを知る者は一方で同じように走る者への労りの心があるから必然的にパスの質も他との違いがあるものだ。
そういう心のあるパスを送れるものこそが私のいう「本物のプロ」ということになる。
カズはその点、本物だった」
(ジュゼッペ・マルキオーロ)
試合前半13分、アントニオ・マニコーネが浮かせたボールを長身のトマス・スクラビーがヘディングで落とし、走りこんだ三浦知良がシュートを決めた。
トマス・スクラビーは1990年のワールドカップではハットトリックを含む5ゴール、ジェノアでも59ゴールのクラブ最多記録を持つ選手だった。
ガッチリした大型のフォワードで、周りを目を気にせず、酒もタバコもガンガンする破天荒な男だった。
「お前(三浦知良)はあの難しい状況の中で本当によくやったよ。
開幕のACミラン戦でフランコ・バジーレと激突して頬骨を折ったにもかかわらずフィールドを去ろうとしなかった。
それから監督のアジア人に対する偏見を前に、常に変わらない姿勢でトレーニングを続けていた。
だから『俺はこいつのために何をしてあげられるんだ?』って思ったんだ。
そして迎えたのがサンプドリアとのダービーだった。
ケガから回復して来たお前と2人で前線に立ち、チャンスが来たのは前半の開始すぐだったと思う。
右からのクロスを受けた俺はボールを頭で捉えながら心の中で叫んでいた。
後ろから詰めて来ていたお前の眼をみながらね。
『いけ、カズ!決めてみせろ』って
ボールがネットを揺らした瞬間、1人の日本人が欧州に渡りスター達の前で確かな存在を示した瞬間を、俺は忘れないだろう」
これが三浦知良のセリアA初得点、そして唯一の得点となった。
(トマス・スクラビー)
森下源基(ヴィッセル川崎社長)は三浦知良をセリアAから呼び戻した。
読売新聞社会部記者を経て読売クラブへ入り、1994年からヴィッセル川崎社長となった森下源基は、ブラジルにいた三浦知良を
「君の力で国立競技場を満員にしてくれ。
君ならそれができる」
と口説き、金銭的にも破格の条件を提示し日本に移籍させた経歴を持つ。
今回ももう1年、セリエAにチャレンジしたいという三浦知良を強引に呼び戻した。
「Jリーグができて3年目。
日本にカズが必要だった。
もう1度、ヴェルディのサッカー、日本のサッカーを引っ張っていって欲しかった」
シーズン終了後、三浦知良はジェノア一員として来日し、横浜スタジアムでヴェルディ川崎との親善試合に出場。
この試合を最後にジェノアを離れヴェルディに復帰した。
J復帰
1995年8月12日、ヴェルディに復帰しベルマーレ平塚戦で2ゴールを決めた。
9月2日、アントラーズ戦、9月13日、横浜フリューゲルス戦でハットトリックを決めるなど、26試合で23ゴールを挙げた。
同年、震災後の神戸の小学校に行き、激励イベントを開催した。
この小学校に1年生だった香川真司がいた。
スーツを着てサングラスをかけ、シャツの胸元をあけた三浦知良のオーラに感動した。
そして一緒に写真に収まり、抽選ではサイン入りカズバッグを当てた。
「確かあのとき僕は神戸の知人の家に遊びに行っていたんだ。
阪神大震災の被害にあった地域の近くだったので、子供たちを励ましてくれませんかと頼まれて小学校にいくことになった。
そこで後に日本代表の10番を背負うことになる少年がいたというわけだね」
1996年年、1シーズン制となったJリーグで得点王となり、FIFAの世界選抜に選出され、ブラジル代表と対戦した。
ワールドカップフランス大会 日本代表 ワールドカップ初出場 ジョホールバルの歓喜
1997年、日本代表監督となった加茂周は、チームを三浦知良を中心に考えた。
大袈裟にいうと「カズと心中する」つもりだった。
三浦知良は誰よりも早くグラウンドに出て、ウォーミングアップから必死で行い、誰よりも真剣にボールを追う。
スピードなどはピークではなかったが、その経験と姿勢はチームの大きな力となっていた。
そばでみていた加茂周は
「お前、サッカー好きやな!」
と思っていた。
1997年6月22日、FIFAワールドカップフランス大会アジア1次予選グループ4、第4戦マカオ戦で三浦知良は6得点を挙げた。
(釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録)
最終予選B組第1戦のウズベキスタン戦でも4得点を挙げ、日本代表も6対3で勝利。
しかしその後、のUAE戦(アウェイ)を0対0で引き分け。
韓国戦(ホーム)では、1対2で負けた。
この試合で三浦知良は徹底的にマークされた上に、ゴール前でキーパーに背後から蹴られ尾底骨を骨折した。
カザフスタン戦(アウェー)はロスタイムに追いつかれ1対1の引き分け。
試合後、加茂周監督は更迭された。
この時点で
1位 韓国 勝ち点13
2位 UAE 勝ち点7
3位 日本 勝ち点6
UAEがカザフスタンに勝てば絶望的だったがUAEが負けたため、日本はホームの国立競技場でUAEに勝てば2位浮上という希望が生まれた。
そして前半3分、呂比須が豪快なシュートで先制した。
しかし前半のうちに同点に追いつかれ、試合はドローに終わった。
日本代表の予選自力突破の可能性は消滅。
一部のサポーターは三浦知良に罵声を浴びせた。
「お前なんてやめちまえ」
「腹を切れ」
イスを投げつけられ、応戦する三浦知良の姿が放映された。
日本代表での三浦知良の必要性を疑う声が急増した。
その後、1位通過が決まっている韓国とソウルで対戦し2対0で勝利。
カザフスタン戦も5対1。
3勝1敗4分でUAEを抜いて2位となった日本は、アジア地区の第3代表決定戦をイラン戦と戦うことになった。
試合前日の練習で、イランのフォワード、ダエイ選手とアジジ選手が病院に直行し車椅子でホテルに姿を現した。
(おそらく心理的な作戦)
11月16日、三浦知良は先発し、中山雅史と2トップを組んだ。
前半40分、中田英寿のパスから中山雅史が先制点を挙げた。
しかし後半1分、アジジに同点弾を決められ、次いでダエイに逆転ゴールを奪われた。
ここで岡田武史監督は2トップを組む三浦知良と中山雅史に交代を命じ、城と呂比須を投入した。
交代理由は、試合前のミーティングでの
「フリーキックは中田(英寿)、もしくは名波(浩)が蹴る」
と決めていたのに三浦知良が、それを無視して蹴って大きく外したためだったが、このとき
「オレ?」
と自分を指差したことが話題となった。
「ゴン(中山雅史)? 俺? どっち?」
というジェスチャーだったが多くの人は
「まさか俺?」
というように解釈した。
試合はその後、代わって入った城が2点目を叩き出して延長戦へ突入。
最後は、中田英寿のパスから野人:岡野雅行が劇的ゴールを決め、日本代表はワールドカップ初出場を決めた。
(ジョホールバルの歓喜)
「カズからヒデへ」
「世代交代」
三浦知良は、日本代表として評価されず、Jリーグでも1997年シーズンの成績は出場試合14(全試合数の半数以下)、得点4。
ヴェルディも初めて2桁まで順位を落とした。
代表落ち
1998年、1993年の発足時、10クラブだったJリーグは18クラブまで数を伸ばした。
日本代表もFIFAワールドカップフランス大会に向け準備を進めた。
2月のオーストラリア合宿で、中村俊輔は初めて日本代表入りした。
現場は6月の本大会に向けてピリピリしていた。
1番年下なこともあってかなり緊張していた中村俊輔は、すぐに肉離れを起こして別メニューとなった。
そんなとき三浦知良に声をかけられ、スッと肩の力が抜け
「さあやるぞ」
と前向きな気持ちになれた。
「初めて代表に召集されてコンディションもできてないのに張り切りすぎたのかもしれない。
ただそのテクニックは当時からずば抜けていて若くても十分に代表でやれる選手だとみていた。
だからこそリラックスして普段通りの力を発揮できるよう声をかけたんだ」