三浦知良 15歳でブラジルへ 近所カズはキングカズになった 「ビッグになってやろうみたいな気持ちが自然と湧き出てきた。日本ではそういう格差が少ないからね」

三浦知良 15歳でブラジルへ 近所カズはキングカズになった 「ビッグになってやろうみたいな気持ちが自然と湧き出てきた。日本ではそういう格差が少ないからね」

息子が「お前の親父、キングなんていわれてるけど補欠なんだろう?」なんていわれることもあるらしい。そういうとき大事なことは一生懸命頑張ることなんだって思う価値観を身につけて欲しい。


1990年7月、三浦知良は、日本サッカーリーグ(JSL)の読売サッカークラブ(現:東京ヴェルディ)に移籍した。
日本のプロサッカー(Jリーグ)の発足、また日本代表のW杯出場を見据えた移籍だった。
デビュー戦は、味方からパスを受けて相手ゴールキーパーと1対1になり、抜こうとしたがひっかけられて右足首を捻挫し、前半15分で負傷退場した。
ブラジルでは背番号固定制ではなく先発選手がポジションごとに1番から11番をつけるシステムで、左ウィングは11番だった。
帰国後も11番を希望したがすでに使用されていたので24番になった。
(翌シーズンからは11番になった)
またブラジルでは左ウイングだったが、帰国後はセンターフォワードとしてゴールを量産するようになった。
「フォワードに必要なのは一瞬のキレと判断力、冷静さといい加減さ。
試合で何本シュートを外してもめげずに次のパスを要求で切るような精神的な強さ、周りに何をいわれようと一切気にしない図太さが絶対に必要になる。
自分の失敗を棚に上げられるいい加減さというのが日本人フォワードに1番足りない部分じゃないかと思っている」
また攻撃だけのフォワードではなく、守備もしっかりこなし、献身的なプレーもみせる。
「サッカーに対する考え方として「ゴールがすべてじゃない」と思っている。
攻撃も守備も、ドリブルもパスもゴールもアシストも等しく価値があるもんなんだ」
パス、トラップ、シュートなどの基本的なプレーは高いレベルにある。
そして何より強力なドリブル、そしてフェイントとスピードで相手ディフェンスを一瞬で置き去りにした。
左右両方で蹴れるスイッチキッカーでその精度は高かった。
177cm、72kgの体は、決して大きいものではなく、しかも硬かった。
身体的な素質はあまり恵まれていないかもしれないが精神的な強さは並外れ、なにがあろうとビクともせずココ一番ではゴールを決めた。

しかし日本でサッカーはマイナーだった。
三浦知良といっても、ロス疑惑の容疑者:三浦和義と勘違いされることもあった。
サッカーも常に全力で走り回ってガチャガチャとやりあうような、監督に「あいつをマークしろ」といわれれば全然関係ないところでもついていくような、ある種異様なスタイルだった。
当然、練習法も違い、かなり戸惑うことも多かった。
「日本に戻ってきたとき、日本サッカーには本当に何もなかった。
ある程度予想はしていたけどさすがに少し戸惑った。
ブラジルではドクターやマッサージ師はもちろんホペイロ(用具係)や洗濯係まで選手を支える各ポジションにプロがいた。
読売クラブは当時の日本ではプロフェッショナリズムが1番進んでいたと思うけど、それでもクラブハウスはプレハブの域を出ていなかった。
スパイクの手入れもユニフォームの洗濯も選手が自分でやるのが当然のことだった」
日本代表に選ばれ、北京で行われるアジアカップに向けて合宿に入ったが、小さなホテルに泊まり、練習は芝生がはげて凸凹になった公園のような場所で行われた。
スタッフ数も少なく、練習器具や設備も貧相だった。
ブラジル代表との差、日本代表のショボさに三浦和良は驚いた。
またラモス瑠偉や三浦和良は、日本代表として出場給や勝利給をサッカー協会に要求した。
しかし認められず、
「じゃあ俺たちは北京にいかない」
とゴネた。
2人はその後も環境や待遇の改善を求め、どんどん要求を出していった。
サッカー協会の強化部長だった川淵三郎は対応に手を焼いた。
「日本代表にも本当のプロが入ったんだなという印象を持ったと同時に、ラモスやカズのような選手をまとめていくには日本人監督では無理なんじゃないかとも思った」

1991年、三浦知良の推薦で読売クラブの監督となったペペは、ブラジルでも有数のホペイロであるベハーゼ氏をブラジルから招聘した。
日本サッカー初のプロのホペイロ(用具係)だった。
彼の最初の仕事は、ロッカールームに1人1人の用具を入れる棚をつくることだった。
1人、徹夜でその作業を行った。
これによって例えば雨に日に履いたスパイクが翌日には同じ状態で戻せるようになるからだ。
「最初は僕が信用されていないことがわかった。
最初の試合はヤマハ戦だった。
試合が終わった後、僕のところにスパイクやユニフォームを置いていったのは19人の選手で8人だけだった。
僕は自分の仕事を認めてもらおうと全力で仕事をした。
スパイクの泥を落とし手入れをして磨いた。
ユニフォームは洗濯しアイロンをかけた」
三浦知良は、みんなが集まったときベハーゼ氏を紹介し、ホペイロがチームでどれだけ大切か、その仕事の重要性を話した。
「チームのためにできることをやる」
ベハーゼ氏はプロとして黙々と働いた。
やがて日本人の弟子もでき、日本にその仕事を根づかせた。
当初8ヶ月の契約だったが結局8年間も日本で仕事をした。
三浦知良はスポーツクラブに入った。
当初はジャグジーに入ったりくつろぐためにいっていたが、半年くらい経つと真剣にトレーニングをするようになった。
以後数年間、週2、3回、チーム練習後にジムに行き、筋力アップを意識してトレーニングを行った。
トレーナーの岩崎朗子(ベンチプレスでアジア選手権1位、世界選手権3位)はジムで三浦知良に出会った。
最初は
「チャラいやつだな」
と思っていたが、やがて一緒にトレーニングをするようになり、ジム以外でもクラブなどで遊ぶようにもなった。
サッカー選手のトレーニングに関わるのは初めてで、練習や試合を見学にいき動きをみたり、サッカーのトレーニング本を読み漁りメニューを組んだ。
「30代のとき『あんたが引退するまで結婚しない』っていったことがありました。
それは『姉御、ちょっと来てくれ』といわれたときにポンッと出かけていける自由な身でいたかったから。
おかげで今も独身です」

オフトJapan

1992年3月、サッカー日本代表監督に史上初の外国人監督として44歳のオランダ人のハンス・オフトが就任した。
1982年に当時2部だったヤマハ発動機(現:ジュビロ磐田)に臨時コーチとして来日し2カ月で1部昇格および天皇杯初優勝に導いた経歴を持つ。
最初の浜松のキャンプでは
「選手の状態を知りたい」
と22時までロビーに居座り、誰が出入りし、誰と誰が仲がいいかなどをチェック。
22時30分になるとコーチに部屋をみてこいと指示し、誰が寝て誰が起きてるかチェックし、朝は必ず選手たちと握手した。
そしてトレーニングや個々の選手の情報などなんでも気がつけばメモを取った。
ミーティングは準備のために1時間前からミーティングルームに入った。
集中しやすいようにイスを並べ、模造紙に字や図を書くのだが、
「見えるか?」
とスタッフに聞いた。
食事は「いただきます」から「ごちそうさま」まで全員一緒。
食堂の机はコの字に配置され、真ん中に監督とスタッフが入り、あとは自由。
オフト監督からはすべての選手と選手の食事がみえた。
「ちゃんと食事がとれないといいパフォーマンスはできない」
と食べ方や食べる量をチェックし
「私の近くに座る選手は私を信頼している」
と判断した。
三浦知良はいつもしっかり、しかもバランスよく食べていた。

それまで日本代表のミーティングはラモス瑠偉を中心に行われていたが、オフト監督はそれにとって代わった。
練習初日、選手を呼ぶときの指笛を吹くオフト監督にラモスは
「俺達はあんたの犬じゃない」
と抗議しつっかかった。
「冗談じゃないよ」
メディアにも公然と不満をぶちまけるラモスを呼び出しオフト監督は
「もう代表に来なくていい」
と言い渡した。
実際に外されることはなかったが、食堂でラモスは監督から1番遠い席に座った。
オフト監督とラモスはサッカー観も対立した。
オフト監督は、選手個々のタスク(役割)を徹底させ、サイド攻撃を重んじたが、ラモスは自由奔放な中央突破を理想とした。
三浦知良も規律を重んじるオフト監督に反発があった。
清雲栄純コーチ(古川電工、日本代表)は、オフト監督の命を受け、毎晩、選手がちゃんと寝ているかチェックした。
あるとき三浦知良だけ起きてマッサージを受けていたので
「もう寝ろ」
と注意すると
「俺の体は俺が1番知っているんだ」
と返された。
三浦知良は練習が終了してもなかなか戻らず、1番最後にシャワーを浴び、マッサージもタップリ行い、アイシングにも時間をかけた。
また高校まではラグビー(花園を経験)で大学からサッカーを始めた清雲栄純に
「清さん、サッカー知らないじゃん」
といったり
「キヨーッ」
と呼び捨てにしたり、頭を小突いたりした。
オフト監督は選手に疑心暗鬼の目でみられながら、それまで自由だった戦術に、
「アイ・コンタクト」
「トライアングル」
「サポート・ディスタンス(サポートの距離)」
「サポート・アングル」
「サポート・タイミング」
「チェンジ・リズム」
「チェンジ・サイド」
「スモール・フィールド」
「アグレッシブ・タックリング」
「リスタート」
などのルールを決めて落とし込んでいった。
チームの最大目標を「ワールドカップアメリカ大会出場」とし、海外遠征、国内に海外クラブを招いての試合、ダイナスティカップ(現:東アジアE-1選手権)、アジアカップなどは、その過程と言い切った。
また大きなリラックスルームとマッサージルームをつくって飲み物やサッカーのビデオなどを置くなど環境面も拡充させていった。

7月、日本代表はオランダ遠征を行った。
このとき三浦知良は中山雅史と公園の芝生の上で寝そべりながら
「ワールドカップいこうな」
などと熱く語り合っていた。
しかし周りがゲイのカップルだらけなのに気づくと日本代表のツートップはすぐに無言で帰った。
オフト監督の気さくな性格にやがて選手は打ち解け、
「まずは監督のいうとおりにやってみよう」
という柱谷哲二キャプテンに賛同し日本代表はまとまりつつあった。
しかしラモス瑠偉だけは自分のサッカーを曲げられずオフト監督と内戦状態になっていた。
柱谷哲二はキャプテンとして話をしにいった。
「この頃、オフトはラモスとぶつかって鬱陶しいなって感じていたと思う。
でもダイナスティカップで結果が出ればチームはまとまる。
ここが勝負どころだと思ったんでラモスに
『ここで結果が出なかったら文句をいいましょう。
それまでは監督が要求することをやってください』
っていいました」
(柱谷哲二)
三浦知良も柱谷哲二をフォローした。
「そのとおり。
プロは監督にいわれたことをやらないといけない。
プロってそういうもんだから」

8月22~29日、中国の北京でダイナスティカップが開催。
日本はグループリーグ初戦の韓国戦で引き分けたが、続く中国と北朝鮮に勝利しグループ1位。
2位韓国と戦った決勝は、2対2からPK戦で勝利し優勝した。
日本が海外の国際大会で優勝するのは初めてでチームは大きな自信を得た。
「技術、体力はすぐには向上しない。
理由は明らか。
戦術なんだよ。
中国、北朝鮮、韓国を連破できるなんてあり得なかった。
今ある選手の能力をいかにチームとして高めて勝負するか。
これぞプロ監督」
(川渕三郎)
「前回大会は、韓国、中国、北朝鮮に全敗だった。
負けて何もできない状態だったのが2年後に韓国に勝って優勝した。
オフトのいうことを守りつつ自分たちがプラスアルファでやっていけば十分にやれるんだって自信がついた。
結果が出たことでみんなオフトについていくみたいな感じになって一段と結束力が増した感じだった」
(柱谷哲二)
韓国相手に前を向いてプレーできたのは初めて」
(都並敏史)
だがラモスだけは納得していなかった。
大会中、ケガを抱えていたこともあって4試合すべて途中出場だったが、決勝の韓国戦の2得点はラモスがつくったチャンスから生まれたもので「違い」をみせつけた。
しかし中央突破にこだわって、攻撃のチャンスを潰されることもあった。
柱谷哲二は
「外!、ワイド、ワイド!」
と叫んだが、ラモスは聞こえないふりをして中央にボールを運んでいった。
「結果が出てもラモスだけは不満な表情だった。
なんか気に食わないんだろうね。
でも、現実はサイドで福田が活き活きとしていいプレーしている。
それなのにラモスはサイドを使わない。
それに『武田(修宏)はダメだから高木(琢也)に代えてくれ』とか、自分の使い勝手のいい選手を要求していた。
ラモスには、プロとしてのプライドと共に、こういうサッカーをして勝つんだという勝ち方に対してもプライドを持っていた。
この人は自分のサッカー観を曲げない。
でもプロの監督としてオフトは結果を出した。
結果を出した以上、わがままは許されない。
みんなもオフトを信頼し始めていたんで、この空気を壊すわけにはいかないと思い、ラモスにキャプテンとして釘を刺しに行ったんです」
(柱谷哲二)
ダイナスティカップで祝杯をあげる前、柱谷哲二はラモスに最後通告をしようと決めた。
しかし相手はラモス。
かなりいいにくい。
自分の部屋をウロウロ歩き回った末、自分で自分に気合を入れ、ラモスの部屋に向かった。
「ラモスさん、話があります」
「何?、テツ」
「今回、ダイナスティで優勝しチームがまとまりつつあるし戦う集団になってきました。
みんなオフトについていけば結果が出ると信用するようになってきたけどラモスさんだけはそうじゃない。
秋にはアジアカップがあるし優勝しないといけない。
俺らはずっとラモスさんと一緒にやりたいけど今後、代表で集まったとき、オフトのことでウダウダいうようなら自分から代表を辞退してください」
いうだけいって返事を聞かずに部屋を出る柱谷哲二をみてラモスはキョトンとなった。
「テツがいうなら仕方ないか」
オフトのサッカーは嫌いだったが、仲間の声は信じられた。
ダイナスティカップ終了後、ラモスの監督批判が雑誌に掲載され、オフト監督とラモスは1対1で話し合った。
その後、2人の雰囲気は変化した。
「ずっと2人で話をしていて、いきなり仲がいいわけ。
変な感じだけど、まあよかったなってホッとしました」
(柱谷哲二)

足に魂込めました

10月29日~11月8日、第10回アジアカップ広島県で開催。
20ヵ国が6グループにわかれ予選に参加し、各グループの1位が本大会に出場するというシステムで、強豪国の韓国は予選で敗退し、日本代表は2大会連続2回目の出場を決めた。
そして本大会は、グループリーグA組(日本、アラブ首長国連邦(UAE)、イラン、北朝鮮)、B組(サウジアラビア、中国、カタール、タイ)にわかれ総当たり戦を行い、各組上位2チーム、合計4チームが決勝トーナメントに進む。
グループステージ第1戦、日本はUAE戦を0対0で引き分け。
第2戦の北朝鮮は、前半29分に先制された。
後半、24分にPKのチャンスを得たが三浦知良が決められず、後半35分に交代出場した中山雅史が三浦知良のコーナーキックにヘッドで合わせ、1対1で引き分けた・
第3戦のイラン戦。
グループステージを突破するために勝つしかない日本と引き分けでも突破が決まるイランの試合は0対0で前半を終えた。
ハーフタイム、オフト監督は
「残り20分を切ったら前線からプレスをかけ、残り10分になったら後ろ(最終ライン)には3人だけ残して守備陣も攻めに出ろ」
と指示を出した。
後半8分、イランは退場者が出し、日本は数的優位に立ったが得点を奪えなかった。
後半35分、残り10分になり、主将の柱谷哲二は3人だけ残すという監督の指示を破り、2人だけを残して攻めに参加させた。
後半40分、井原正巳のスルーパスを三浦知良が右足でシュートした。
「思い切って、魂込めました、足に」
劇的なゴールにスタンドは総立ち。
歓声が広島ビッグアーチ(現:エディオンスタジアム広島)の背後の山に反響し、学園祭が行なわれていた付近の大学は騒然となった。
決勝トーナメントは準決勝、決勝と2回勝てば優勝。
日本はまず中国と対戦。
開始30秒で先制され、0対1のまま前半は終わった。
後半3分、福田正博が同点ゴール。
後半12分、北澤豪が逆転。
後半15分、ゴールキーパー:松永成立がコンタクトプレーの後に相手選手を蹴ってしまい退場。
ゴールキーパーの前川和也が入り、北澤豪がベンチに下がった。
後半25分、前川和也が何でもないボールを後ろにこぼし同点とされる。
後半39分、ラモス瑠偉 - 堀池巧 - 福田とつないで中山雅史がヘッドで決め、3対2で勝った。
決勝戦はこの大会2連覇中のサウジアラビアと対戦。
しかし序盤から主導権を握り、前半37分、都並敏史からパスを受けた三浦知良がセンタリング。
これを高木琢也が胸トラップからのボレー。
この先制点を守り抜き、アジアカップ2大会連続2回目で初優勝した。
三浦知良はMVP(最優秀選手)に選ばれた。
「最初はハッキリいってアジアカップの、なんてていうのかな、重みみたいなものを感じずにやっていた気がしますね。
やっぱり頭の中ではW杯予選が93年から始まるという意識のほうが強くて、そのための調整というか。
自分たちがどれくらいの位置にいるのかを知るための大会という気持ちでしたね」
読売クラブはJリーグカップで優勝を遂げ、三浦知良は大会MVPにも選出され、またフットボーラー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手賞)も受賞した。
日本で開催されたアジアカップで優勝したことでサッカー日本代表は俄然注目されるようになった。
翌年のJリーグ開幕に向けての呼び水となり、サッカーが大きなムーブメントになろうとしていた。

Jリーグ

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