スイスでの直前合宿に代表候補25人として選出され、これまで何度も読み心の糧にしていた尊敬するモハメド・アリの自伝を持参し参加し奮闘した。
しかし北澤豪、市川大祐と共に、本大会の出場メンバーには選ばれなかった。
「俺たちがやってきたことは間違いない。
大事なのはこの後だ」
といい、落選翌日には北澤豪と合宿先のスイスからイタリア・ミラノへ移動。
2人でホテルで一泊20万円の部屋を借りて、思い切り発散した。
(ホテル代金は、後日日本サッカー協会に請求した。)
そして金髪に染め上げて帰国し成田国際空港で会見を行った。
「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」
(三浦知良)
また森下源基(ヴィッセル川崎社長)は
「非情なる采配というより非礼なる采配」
とコメントした・。
その後、日本代表は、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと同組になり、1次リーグ3戦全敗1得点という結果に終わった。
「予選ではカズを選んだことで協会に多くの抗議が来た。
調子が悪かったから。
でもいざW杯行きのメンバーから落とされたら、どうしてカズを外すんだって、その何倍もの抗議が来たんだ。
カズを成田空港まで迎えにいって記者会見を開くことになった。
そのときカズがどんなコメントするか少し心配だった。
協会を非難したり監督を非難することは当然あるだろうし、あってもしょうがないなと思っていた。
でも実際はまったくそのことに触れず言い訳や泣き言も一切いわず、夢をフランスに置いてきたと。
ああいう言葉はどう探したって出てこないよね」
(川淵三郎)
Jリーグではヴェルディ川崎は2年連続2桁順位となり、親会社が事業撤退を表明。
高年俸のベテラン選手達のリストラが敢行され、三浦知良にも年俸ゼロ円が言い渡された。
ワールドカップにいけなかった31歳の三浦知良に対し「限界説」「引退説」が囁かれた。
クロアチア ザグレブ
クロアチアのクロアチア・ザグレブへ2年契約で移籍。
これは戦力としてよりも背後のジャパン・マネーを狙った経済的な期待が大きいという見方もあった。
「クロアチアへの移籍を具体的に考え出したのは1998年の秋だった。
いくつかのクラブが興味を持っていてくれたけど、最終的にスイスのチューリッヒとクロアチアのザグレブの2つの絞込み12月に視察に向かった。
ザグレブのホームスタジアムに入った瞬間、『ここだ』と思った。
ちょうどチャンピオンズリーグの試合日でお客さんは満員。
ものすごく寒かったけど会場の雰囲気は素晴らしかった。
クロアチアの人たちは、自国への強烈な誇りと愛情がある。
1991年にユーゴから独立して色々な苦労がクロアチアにはあった。
そういう社会情勢の中、クロアチア代表は国際舞台へのデビュー戦となった1996年の欧州選手権でベスト8に、そして1998年のワールドカップでは3位になった。
この結果が国民に与えた自信は本当に大きかったはずだ。
まだまだ世界的には小さな新しい国だけどみんなで盛り上げていこう、そういう心意気が選手からも町の人々からも感じられた」
たしかに環境面は恵まれていなかった。
ピッチは凸凹でぬかるんでいたしロッカールームも狭かったが、
「未来に向けて頑張ろう」
そんな希望に溢れた国の雰囲気もあって三浦知良は、サッカーを楽しんだ。
「伝説のノゴメト(サッカー)プレイヤーが俺たちの国にやってきて俺のプレーするクラブに入団するって聞いたときは嬉しかった。
でも世界でもあまり知られていなかったクロアチアが選ばれたことは少し不思議だった。
なにしろ金が無いから。
でもミウラが来てくれたことは選手たちにとってだけでなくクロアチアにとって最高だった。
合宿では言葉が出来なくても優秀な選手であることを証明したし、コミュニケーションはとれていた。
君が心強い補強だってことはしっかり伝わった。
あまりこの話はしたくないが、君があまり試合に出してもらえなかったのは監督が悪かったんだよ。
ミウラは間違いなく俺たちのお気に入りだった。」
(プロシネチキ、ザグレブ、レッドスターベオグラード、レアルマドリード、バルセロナで活躍、1990年、1998年、2002年ワールドカップでバトレニ(炎という意味、クロアチア代表の別称)として出場)
このシーズン、ザグレブはクロアチア・リーグで優勝した。
シーズン終了後、新たに就任したオズワルド・アルディレス監督は、三浦知良を戦力外としたため、熱望していたUEFAチャンピオンズリーグへの日本人初出場は叶わなかった。
そして1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国した。
京都サンガ
1999年、Jリーグは、J1とJ2の2部制となった。
(2014年にはJ3が創設され3部制になった)
7月、三浦知良は加茂周(元日本代表監督)監督の京都パープルサンガに移籍した。
単身赴任で、1週間だけ寮に入り、その後はマンションに入る予定だったが、居心地が良すぎて居ついてしまった。
そして1試合目のヴィッセル神戸戦で2ゴールを決めた。
「正直、加茂さんが声をかけてくれたからというのが大きかった。
京都にいったとき僕は32歳だった。
5年前に27歳の僕に日本代表のときとは違うやり方だったけど加茂さんは32歳の僕に点をとらせる方法を考えてくれた。
2シーズン目には17ゴール決めてその信頼に応えることができた」
「よ~し、祝勝会にいくぞぉ」
と勝った試合後は、みんながカラオケで盛り上がった。
負けた試合の後も、
「よ~し、残念会にいくぞぉ」
となる。
「気が乗らない」
という選手がいても
「なにいってんだ」
と強引に連れて行かれた。
残念会といってもやっていることは祝勝会と同じでカラオケで騒いで負けた悔しさを発散させる。
「カズさん、なんで負けても遊びに行けるんですか?」
「次の試合がある。
次が始まるから切り替えるんだよ。
後ろを振り返ってもしょうがねえだろ」
試合の結果に関わらずストレスを発散させて、次の日から再び規則正しい生活に戻り練習をして試合に臨む。
プロとして当たり前のことを伝えた。
祝勝会や残念会にの翌日、三浦知良は練習グラウンドで先頭に立ってトレーニングに励んだ。
パク・カンジョ(朴康造、滝川二高からパープルサンガ)は、子供の頃から部屋にポスターを貼っていたほど三浦知良のファンだった。
そして試合前のアップから100%の力で行う姿に
「本物のプロはこれだけ手を抜かんのか」
と驚き、真面目な人と思っていたのにメッチャクチャ面白いことに2度驚いた。
食事のとき、三浦知良は試合のビデオを見直しながら
「これはいい」
と自分のプレーを何度も巻き戻してみた。
そしてたまにパク・カンジョを含めて他の選手のプレーも巻き戻してみた。
自分のミスでチームが負けてしまい落ち込んでいると
「そんなの関係ねえよ。
俺なんかこの前オウンゴールしたけどスッカリ忘れちゃったよ」
2軍落ちしたり、肉体的につらくてサッカーを辞めようと思ったときも
「辞めるな。
がんばれるだけがんばれ」
と励まされた。
そして韓国代表に選ばれフリーキックを決めたとき、パク・カンジョは思わずカズダンスを踊ってしまい、後で怒られた。
「寮に入ることになったんだけどカンジョは毎日僕の部屋に歌いながら入ってくるんだよ。
朝、昼、夜と暇さえあれば『カズカズカズカズ、ゴール』って。
練習の後、食事に出かけることもあるんだけど、最初、カンジョの車でいったときガソリンスタンドで
『1000円入れてください』っていうからビックリしてね。
僕はブラジル時代の習慣で必ず満タンにしていたから。
だから満タンにしてあげた。
そらからだよ。
カンジョは必ず『僕の車で行きましょう』っていうんだ。
で、車に乗るといつも燃料メーターはいつもエンプティになっている・・・
カンジョはサッカーに関してハングリーだけどプライベートでもハングリー、一言でいえばドケチだった。
お金を貯めるのが生きがいみたいなところがあって、ずっと慎ましやかな生活をしていた」
パク・チソン(朴智星、明知大からパープルサンガ、2005年からマンチェスターユナイテッド)も、
「自らの原点は京都にあり、その中で最も規範となり刺激を与えてくれた選手は間違いなくカズである」
と語っている。
試合はもちろん練習でも率先してチームの先頭に立ってチームを鼓舞する三浦知の姿にプロとは何かということを学んだ。
また練習中、
「疲れていないか?」
と声をかけられ、練習後
「おいしい韓国料理屋があるからいってみよう」
と誘われ、19歳で単身外国に来たパク・チソンにとって日本サッカーの英雄の気遣いに驚くと同時にうれしかった。
2000年、高校を卒業した松井大輔が京都サンガに入団。
ドーハの悲劇のとき青いユニフォームを着た三浦知良をみたのは小学生だった。
初日
「おう、よろしくな」
と声をかけられ
(オオ、カズさんや)
と感動した。
その後、同じ寮で生活した。
毎朝、部屋まで三浦知良起こしに行き、7時から食事。
その後、午前の練習。
午後の練習のために部屋に呼びにいくと必ず
「今日の服どう?」
と聞かれ
「いいんじゃないっスか」
と答えた。
練習後、みんなで銭湯にいき、寮でご飯を食べて寝た。
「カズさんとサッカーをするのは本当に楽しかった。
その楽しさを一言でいうと「一生懸命やるからサッカーは楽しい」ということだと思ってます」
(松井大輔)
波長が合った2人は、いつも一緒に練習し、食事し、オフの日は神戸まで遊びに行き、バカ話で盛り上った。
三浦知良にとって松井大輔は、怖いもの知らずで生意気で、若い頃の自分をみているようだった。
松井大輔のサッカーに対する姿勢は真摯でたくさん質問を受けた。
「君は周りから『ファンタジスタ』と呼ばれて自分でもそう思っているフシがあるけど勘違いしないように。
僕は松井大輔は『さすらいのドリブラー 』だと思っています。
もうしばらくはヤンチャでいてほしい。
持ちすぎるくらいでちょうどいい。
いつかもいったようにドリブルはとられるから文句をいわれるわけで、相手を全部抜けば神様になれる」
トルシエJapan ついにワールドカップ本大会出場ならず
ワールドカップフランス大会(1998年)での惨敗後、日本代表監督にはフィリップ・トルシエが就任した。
当初、トルシエは三浦知良を日本代表に呼ばなかったが、1999年12月の静岡キャンプで初めて参加を求めた。
1年半ぶりの日本代表だった。
「若い選手たちの模範になってもらいたかった。
彼はその役割を見事に果たしてくれた。
チームづくりのはじめの段階で本当にいい仕事をしてくれた」
(トルシエ)
そして2000年6月、ハッサン2世国王杯のジャマイカ戦で、中田英寿からのパスからゴールを決めた。
結果的にこれが代表として最後のゴールとなった。
それ以降、韓国戦にも招集され、サポーターからカズコールも起きたが、トルシエは出場させなかった。
トルシエは2002年の日韓ワールドカップへスタッフとしての帯同を望んだが、三浦知良は選手としての参加を望んだため実現しなかった。
「選手として2002年のワールドカップに出場したのはわかっていた。
だが私はロッカールームの責任者になって欲しかった。
私と選手の間に立って選手たちをまとめアドバイスを与える人間、それも選手の気持ちがよくわかる人間が必要だった。
彼らに尊敬され人望が厚い彼は、最適だと思った」
(トルシエ)
こうして予選では通算27得点のキングが本大会へ出場することは、ついになかった。
2000年5月13日、京都パープルサンガでJリーグ通算100得点を達成。
33歳でシーズン17得点を挙げ得点ランキング3位に入った。
しかしチームはJ2に降格。
2度目のゼロ円提示を受けた。
ヴィッセル神戸
2001年、ヴィッセル神戸に移籍し、以後、4年間キャプテンとして最前線に立った。
そして1年目は11得点を挙げた。
2002年、城彰二や播戸竜二が加入したり、ケガもありフル出場が徐々に減り始めた。
2003年、ベンチスタートとなる試合が増え、オゼアス&播戸の2トップのバックアップ的な役割を担うことが多かったが、J1残留を争うことになったシーズン終盤にオゼアスを出場停止となり、久々にスタメン出場した鹿島戦では、相手ゴール前で素早いターンから先制点を決め、ホームでの3ヶ月か月ぶりの勝利に貢献した。
2004年、エムボマ、平瀬智行らが加入しポジション争いは激化。
チームは残留争いに巻き込まれたが、シーズン終盤にはスタメンを奪取し、3試合連続ゴール。
2005年、自身は開幕3試合連続ゴールを決めたが、チームは低迷し、エメルソン・レオン監督が辞任。
パベル・ジェハークが新監督に就任すると、メンバーから三浦知良を外し、キャプテンも三浦淳宏にチェンジした。
2005年7月26日、シーズン途中で三浦知良は神戸を退団し、横浜FCに移籍した。
オーストラリア シドニーFC
2005年11月、横浜FCに移籍し数ヶ月後、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCに期限付き移籍。
シドニーFCは、元Jリーガーのピエール・リトバルスキーが監督で、2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権にオセアニア代表として出場を決めていた。
三浦知良はオーストラリアAリーグで4試合に出場し、首位を走るアデレードとの試合では、0対2でリードされていたが2ゴールを挙げ同点に追いついた。
(試合は最後には負けた)
そしてシドニーFCは初代Aリーグ王者となった。
FIFAクラブ世界選手権では、1回戦と5位決定戦の2試合にフルタイム出場し、シドニーFCは(6クラブ中)5位となった。
FIFAクラブ世界選手権への出場は(同大会の前身であるインターコンチネンタルカップを含め)日本人として初だった。
「カズはサッカー選手のお手本。
シドニーFCの選手達はカズからプロ精神を 学んだ」
(ピエール・リトバルスキー監督)
横浜FC
2006年2月、横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任。
1998年秋、横浜フリューゲルスと横浜マリノスが合併された。
フリューゲルスサポーターは、チーム存続のために立ち上がり、45万人の署名と6,700万円を集めた。
1999年元旦、チームはそんなサポーターの熱い想いに押されるように天皇杯優勝を遂げた。
その間、存続の望みがなくなった状況の中、サポーターは新会社を設立。
企業に頼らない市民の、市民による、市民のためのチームづくりを目指した。
日本サッカー協会は準会員ながらJFLへの参加を認め、1999年4月25日、新チーム:横浜FCとして最初のキックオフを迎えた。
当初、横浜FCは専用練習場がなく、一般にも開放されている人工芝のグラウンドで練習していた。
また練習後のシャワーは10分100円のコインシャワーだった。
「みんな100円しか使わないけど、俺は200円使っている」
年齢を重ね、若手選手と親子ほどの年齢差になっても朝一番にグラウンドに訪れ、別メニューでなく一緒にこなすだけでなく、ランニングでは常に先頭に立った。
練習開始15分前までスマートフォンをイジッていたが改心する選手もいた。
「他の選手は『カズさんだからできるんだよね』って思ってしまったらおしまい」
(奥平康彦会長)
1日に何度も体重を量り、フィジカルトレーナー、マッサージトレーナー、栄養士は個人で雇い、徹底的に体調を管理した。
「何が成功と失敗の分かれ目になるのか。
もちろん運は大事なんだけど、イザその運が向いてきたとき、ターニングポイントになったときだけ頑張ろうと思ってもできないんだよね。
日頃からサッカーに対して謙虚でなければ運さえ向いてこない」
孤高の存在でありながら積極的に食事会、通称「カズ会」を開くなど積極的にコミュニケーションをとる。
その人柄はカズ会で隣の席の争奪戦が起きるほどに慕われている。
テキーラを
「走るためのガソリンのようなもの」
と愛飲し一晩でボトル1本半から2本空けることもあるという。
そしてこのシーズンは39試合に出場し6得点を挙げ、横浜FCはJ1に初昇格した。
横浜FCの試合の平均観客動員数は6,079人だったが、三浦知良の加入後、10,293人に増えた。
記者に
「客寄せパンダ的な利用のされ方をするのは嫌じゃないですか」
と質問をされ
「J2でも横浜FCでもよくそういわれるし書かれているじゃないですか。
でもパンダじゃなきゃ人は来ないですから。
その役割は自負していますよ。
僕は客寄せパンダで十分ですよ。
だって普通の熊じゃ客は来ないんだもの。
パンダだからみに来るんだもの。
熊はパンダになれないんだから」
と答えた。
2007年、全39試合中24試合に出場し3得点。
12月1日の最終戦、浦和レッズ戦では、引き分けか、負ければ浦和の優勝が決まるという試合だった。
横浜FCはすでにJ1最下位でJ2降格が決まっていたが、左サイドで相手ディフェンスを抜き去り、センタリングから根占真伍の決勝点をアシストして浦和の優勝を阻んだ。
9歳の長男に
「日本代表の伝説的な背番号11番は誰か知ってるか」
と聞いたら
「巻(誠一郎)」
と答えられた。
この長男は15歳の春休みに、父親同様ブラジルでサッカー留学を敢行した。
2008年2月、サイパンでロス疑惑の三浦和義が逮捕されたニュースが流れると、ロス疑惑事件を知らない若手選手は
「カズさんが逮捕された!」
と勘違いした。
このシーズン、全42試合中30試合に出場。
得点は10月25日、愛媛FC戦の1点だけだったが最年長得点記録を更新した。
2009年、ロアッソ熊本戦のPKで1得点を挙げ最年長得点記録を更新。
2010年、横浜FCのキャプテンに指名された。
キックオフの円陣で発破をかけた。
「内容はどうだっていい。
絶対に勝つんだ。
割り切ったサッカーをしようぜ」
しかし右脚のケガで10試合、合計188分の出場となったが、8月7日のファジアーノ岡山戦でゴールを決め、9月26日のカターレ富山戦では、フリーキックを決め、12月4日の大分トリニータ戦はフル出場し得点を挙げた。
これで最年長得点記録を43歳9カ月8日となった。
横浜FCの「サポーターが選ぶ年間MVP」に選出された。
映画「ゴッドファーザー」が好きで、趣味はマフィアを研究。
よく行く店ではBGMで「ゴッドファーザーのテーマ」をかけてもらい
後輩に
「この曲がかかってたら必ず俺がいるから」
といった。
ファッションも影響を受け、スーツが好きで都内に服の収納用のマンションを持っている。
バスローブも好きで試合後のロッカーでもバスローブを使う。
朝起きてコーヒーを飲みに行くにもスーツに着替え、帰宅後にまた着替えて寝ることもある。
「海外旅行にはスーツ9着、靴7足を持参し、朝昼晩と1日3回お色直しするのも当たり前」
武田修宏との待ち合わせに全身白(帽子、スーツ、靴)にサングラスでいきうろたえさせた。
しかし横浜FCの空気がそうさせるのか、ジャージで出歩くことも多くなった。
それでもサングラスとマフラーは忘れない。
2011年3月29日、東日本大震災の日本代表のチャリティマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」においてJリーグ選抜に選出。
試合前、カズダンスについて
「やってもいいんじゃないですかね。
いろんな意見があると思うけど、やるのも1つの手だと思う」
といっていた。
そして後半17分から出場。
後半37分に田中マルクス闘莉王の落としたボールに反応して得点を挙げ、カズダンスを披露した。
しかしJリーグでは得点を挙げることができず、「J連続得点記録」は18年でストップした。
2011年12月、横浜FCに所属しながらFリーグ・エスポラーダ北海道にJリーグ選手枠として登録。
翌年1月15日、北海道対府中戦の1試合限定で公式戦に出場した。
フットサルワールドカップ日本代表
2012年10月、2012 FIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出された。
10月24日、国立代々木競技場第一体育館で行われたフットサルブラジル代表戦に出場。
10月27日、旭川大雪アリーナでフットサルウクライナ代表と対戦しフットサル初ゴール。
11月、タイで行われたFIFAフットサルワールドカップに日本代表として出場した。
Jリーグでもガイナーレ鳥取戦でゴールを決め最年長得点記録を45歳3カ月に更新した。
2013年1月15日、横浜FCと2年契約を結び、7月3日、栃木SC戦、開始16秒で初得点。
11月3日、松本山雅FC戦でゴールを決め、最年長得点記録を46歳8ヶ月8日に更新。
2014年、ワールドカップブラジル大会のJFAアンバサダーに任命され、6月16日の日本対コートジボワール戦を観戦し、17日に高円宮妃久子JFA名誉総裁と共にイベントに参加。
Jリーガーとして2014年シーズンは、2試合のみの出場となった。
ギネス記録 J1昇格
2015年3月9日、J2開幕戦ザスパクサツ群馬戦で、9年ぶりの開幕スタメンとして出場。
4月5日、ジュビロ磐田戦では、ヘディングで先制ゴールを挙げ、最年長得点記録を48歳1か月10日に更新。
現役世界年長となったこのゴールは、海外のメディアも取り上げた。
イタリアでも
「ミウラが日本で奇跡を起こした」
「元ジェノアのカズ・ミウラは48歳にもかかわらず日本の2部リーグであるJ2リーグの横浜FCでプレーしている」
と報じた。
2015年4月12日、TBSの「サンデーモーニング」で、張本勲が、
「カズファンには悪いけど、もう辞めたほうが良い」
とコメント。
それに対して
「激励と前向きに受け取っています」
と反応。
4月19日、1週間後の「サンデーモーニング」で張本は
「カズにアッパレ!
普通なら文句をつける。
それを先輩からの助言と受け止める。
男らしい。
腹が据わっている」
と絶賛した。
6月29日、水戸ホーリーホック戦で最年長ゴール記録を再び更新した。
2016年1月11日11時11分、横浜FCが三浦知良の契約更新を発表。
2005年の途中加入以来、13季目も背番号11が託され、史上初の50歳Jリーガーの誕生が内定した。
50歳の誕生日に迎えるJ2開幕戦、松本山雅FC戦は、15000人分のチケットがクラブ初の前売り完売となった。
「1番いいのはカズがゴールを決めて勝つこと」
(奥平康彦会長)
(背番号11に因んで)11月11日11時11分、横浜FCとの契約延長を発表された。
この契約延長は海外でも話題になり、イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト紙は
「時代を超越した存在」
と称賛した。
前園真聖は
「還暦(60歳)までやるっていっていましたけど、本当にやるんじゃないか(笑)」
とコメントしている。
2016年8月7日、C大阪戦69分、0対2で負けている状態で途中出場し、75分にゴールを決め、最年長得点記録を49歳5カ月12日に更新。
この得点後、チームは勢いを取り戻し、逆転勝利した。
2017年1月11日11時11分、横浜FCのクラブ公式サイトで契約延長が発表された。
シーズン開幕日は誕生日の2月26日で、開幕と同時に50歳となり、初の50代Jリーガーとなった。
「49歳から1つしか年をとっていない。
実際は数字的なもので大した変化はない」
「少しずつ全部が衰えていくのが普通。
でもサッカーは11人の連動。
基礎体力と技術があれば組み合わせ次第で新しい自分がみせられる。
ゴール前の動き次第で点が取れる」
そして2月26日の開幕、松本戦で先発。
3月12日の群馬戦ではゴールを決め、最年長得点記録を50歳14日に更新。
イングランドのスタンリー・マシューズの50歳5日という記録を上回る世界最年長ゴールとなり、イギリスのガーディアン紙をはじめ世界で報じ、後に
「リーグ戦でゴールを決めた最年長のプロサッカー選手」
としてギネス世界記録に認定された。
2019年11月24日、愛媛FC戦で途中出場し最年長出場記録を52歳8カ月29日に更新。
横浜FCは、この試合に勝利してJ1昇格を決めた。
2020年1月14日、チームと契約を更新し、13年ぶりJ1となった。