ロッド・スチュワート
特徴的な女泣かせのハスキー・ボイス。セクシーな男性ボーカリストの代名詞でもあるロッド・スチュワートは、泣く子も黙る、押しも押されぬスーパースターです。
ロッド・スチュワート
彼のファースト・アルバムは1969年リリースの「アン・オールド・レインコート・ウォント・エヴァー・レット・ユー・ダウン」で「ロッド・スチュワート・アルバム」とも呼ばれています。
残念ながら翌年のセカンド・アルバム「ガソリン・アレイ」ともども商業的にはあまり芳しいものではありませんでした。
しかし、1971年にリリースされたサード・アルバムの「エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー」及びシングル・カットされた「マギー・メイ 」は共に全英、全米でナンバー・ワンとなる大ヒットを記録しています。
いい曲ですよねぇ。そして、流石、流石の歌いっぷり。ロッド・スチュワートの輝かしいソロ・キャリアはここから始まるわけですが、それ以前には下積みといいますか、なかなか厳しいバンド時代があったんです。
スターになる前のロッド・スチュワートの事を知りたいという人が居るのかどうか分かりませんが、コアなファン以外には余り知られていないソロ・アーティストとして成功するまでのロッド・スチュワートをご紹介します。
ザ・ファイブ・ディメンションズ
様々な仕事を転々とした後、ロッド・スチュワートはスペインのフォーク歌手ウィズ・ジョーンズと2人でヨーロッパ各地を回ります。これが音楽活動の始まりですね。しかし、それは決して恵まれたものではなかったようです。
イギリスに戻った彼は、後のジミー・パウエル・アンド・ザ・ファイブ・ディメンションズであるザ・ディメンションズに参加することになります。ザ・ディメンションズはセミプロバンドです。
イギリスの関係者からは、ジミー・パウエル・アンド・ザ・ファイブ・ディメンションズは「間違いなく60年代半ばの最も過小評価されているイギリスのリズムとブルースバンドの1つだ」という高い評価も聞かれますが、過小評価もなにも日本ではま~ったく知られていませんね。
ザ・ディメンションズ
ロッド・スチュワートが参加したのは1963年7月のことで、ザ・ディメンションズの第4期になります。
それまでのザ・ディメンションズは、ビートルズ風の音楽をやっていました。が、メンバーのゲイリー・レポートがブルースやジャズを演奏したかったため、友人だったブルース好きのロッド・スチュワート(ボーカル、ブルースハープ)を迎え入れたのです。
ザ・ディメンションズに転機が訪れたのは1963年9月。それまでプロのソロ歌手として活動していたリズムアンドブルース歌手のジェームズ(ジミー)・パウエルとチームを組むことになります。チームとは言ってもバックバンドですよねぇ。そして、それを機にバンド名をザ・ディメンションズからザ・ファイブ・ディメンションズへと変更しています。
プロになれたとはいえ、ジミー・パウエルとザ・ファイブ・ディメンションズではロッド・スチュワートがリード・ボーカルをとることは出来ないということで、1963年11月にあえなく脱退。半年にも満たない活動でした。
ジミー・パウエルとザ・ファイブ・ディメンションズの唯一のシングル「THAT'S ALRIGHT」は1964年6月にイギリスでのみリリースされました。
フーチー・クーチー・メン
クラブでブルースを歌った最初のイギリスのボーカリストの1人と言われているのはロング・ジョンことジョン・バルドリーです。彼はイギリス系カナダ人のブルース歌手兼声優で、フーチー・クーチー・メンというバンドを率いていました。
フーチー・クーチー・メンは、日本でもザ・ファイブ・ディメンションズよりは随分と有名ですよ。ロング・ジョンは「Let the Heartaches Begin」という全英1位曲を放っていますからね。
で、そこにロッド・スチュワートが参加したのは1965年のことで、シングル「グッド・モーニング・リトル・スクールガール」をリリースしています。
しかし、まぁ、この曲はヒットせずロッド・スチュワートは早々に脱退、というかバンドは解散することに。
フーチー・クーチー・メンをはじめ、この時期(64年から68年)のレコーディングをまとめた便利なアルバム「A SHOT OF RHYTHM & BLUES」が後にリリースされています。
A SHOT OF RHYTHM & BLUES
1967年のP.P. ARNOLDとのデュエット「COME HOME BABY」や1968年にシングルとなったソウル・ポップ「LITTLE MISS UNDERSTOOD / SO MUCH TO SAY」など、なかなか興味深い曲が収録されていますよ。
スティームパケット
スーパースターになるのは楽じゃない。まだまだロッド・スチュワートの苦悩の日々は続きます。
1965年、フーチ・クーチー・メンで一緒だったロング・ジョン・バルドリーに、ジュリー・ドリスコール、ブライアン・オーガー(オルガン)とともにスティームパケットを結成。