2020年、東京で第32回のオリンピックが開催されますね。国を挙げて盛り上げ機運が高まっているなか、これまでのオリンピック(夏季)の歴史を、総まとめしてみます。
第1回 アテネ五輪(ギリシャ:1896年)
| 参加国 | 男子選手 | 女子選手 | 種目 |
|---|---|---|---|
| 14 | 241 | 0 | 43 |
記念すべき近代オリンピックの第1回大会は19世紀末のギリシャ。この大会は男子のみの参加でした。メダル獲得数上位国はアメリカ、ギリシャ、ドイツ。記念すべき男子100mの記録はアメリカのトーマス・バークで12秒0。
第1回大会の優勝メダル
第2回 パリ五輪(フランス:1900年)
| 参加国 | 男子選手 | 女子選手 | 種目 |
|---|---|---|---|
| 24 | 975 | 22 | 85 |
同年に開催されたパリ万博の付属大会として、第2回パリオリンピックが開催されました。メダル獲得数上位国はフランス、アメリカ、イギリス。
ボート競技舵手付きペア種目ではオランダチームの舵手だったヘルマナス・ブロックマンが重量オーバーで外され、その代役としてたまたま観客席にいた7歳から10歳くらいと見られるフランス人の少年が飛び入りで参加、チームは優勝しました。この少年はいまだに史上最年少のオリンピック金メダリストの可能性があると推定されています。
フランソワ・ブラント(左)、ルロフ・クレインと身元不詳の少年
第3回 セントルイス五輪(アメリカ:1904年)
| 参加国 | 男子選手 | 女子選手 | 種目 |
|---|---|---|---|
| 12 | 645 | 6 | 94 |
初の北米開催となった第3回は前回同様、同年に開催されたセントルイス万博の付属大会として開催。前回から参加国が半減したのは、折しも日露戦争の勃発による国際関係の緊迫化が原因でした。メダル獲得数上位国はアメリカ、ドイツ、キューバですが、全メダルの8割以上をアメリカが独占するという大会でした。
前代未聞の「キセルマラソン」事件
アメリカのフレッド・ローツが高温と疲労のため20キロ過ぎで道に倒れ、たまたま通りかかった自動車に乗せてもらい競技場に戻ることに。ところが競技場に向かう途中で車がエンストで止まってしまい、そこから再び走り出してゴールするという不正をしました。1着でゴールしたもののゴール直後に車の運転者の告発により即座に不正が発覚し優勝ははく奪、後に「キセルマラソン」事件と呼ばれるようになりました。
セントルイス五輪のポスター
特別 アテネ五輪(ギリシャ:1906年)
| 参加国 | 男子選手 | 女子選手 | 種目 |
|---|---|---|---|
| 21 | 848 | 6 | 78 |
「特別」と括られるこの大会は第3回と第4回の間で開催されました。当時、近代オリンピック提唱者のクーベルタン男爵はオリンピックは世界各地で順に開催されるべきだと考えていましたが、ギリシャ王のゲオルギオス1世がオリンピックは恒久的にギリシャで開催されるべきとの考えを持っており、通常のオリンピックは4年ごとに世界各地で、その中間年にギリシャで開催することとしました。結局この計画は潰えてしまい、1906年の大会のみが実現することに。メダル獲得数上位国はフランス、アメリカ、ギリシャ。
第4回 ロンドン五輪(イギリス:1908年)
| 参加国 | 男子選手 | 女子選手 | 種目 |
|---|---|---|---|
| 22 | 1,971 | 37 | 110 |
第4回は前回までと同様、同年に開催されていた英仏博覧会との同時開催。ただ、本来はローマで開催される予定だったものが、ヴェスヴィオ火山の大噴火によって開催地変更となった経緯があります。この大会からオリンピックの参加が各国のオリンピック委員会を通じて行われるようになり、出場者数は前回大会の3倍に増加しました。メダル獲得数上位国はイギリス、アメリカ、スウェーデン。
ドランドの悲劇
マラソンは、国王の住むウィンザー城からシェファードブッシュ競技場の約40kmで行われました。この際、王妃アレクサンドラが、「スタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前に」と注文したために42.195kmという半端な数字になったとする逸話があります。この大会で最初に競技場に到達したイタリアの選手ドランド・ピエトリはゴール直前で倒れ、役員の助力でゴールしたため失格扱いに。ゴール地点が競技場の入り口からボックス席の前に伸びていることを知らなかったためともいわれ「ドランドの悲劇」とされています。
ドランドの悲劇
第5回 ストックホルム五輪(スウェーデン:1912年)
| 参加国 | 男子選手 | 女子選手 | 種目 |
|---|---|---|---|
| 28 | 2,359 | 48 | 102 |
日本がはじめて参加したオリンピック。メダル獲得数上位国はアメリカ、スウェーデン、イギリス。男子マラソン競技は参加68人中33人が途中棄権、近代オリンピックの競技で初めて死者が出てしまった過酷な環境下での実施でした。
54年8か月6日5時間32分20秒3
この大会にマラソンで出場した日本人選手の金栗四三は途中で行方不明扱いとなりました。1967年3月21日、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典が開催された際、開催に当たって当時の記録を調べていたスウェーデンのオリンピック委員会は、金栗が「(棄権の意思が運営者側に届いていなかったため)競技中に失踪し行方不明」となっていたことに気付き、オリンピック委員会は金栗を記念式典でゴールさせることにして式典に招待します。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場内に用意されたゴールテープを切った瞬間、場内には「只今のタイムは54年8か月6日5時間32分20秒3、これをもちまして第5回ストックホルム大会は総ての競技を終了しました。」とのアナウンスが響きました。決して破られる事がないであろう不滅の金字塔となっており、金栗はゴール後のスピーチで「ここまで、長い道のりでした。この間に妻をめとり、子供6人と孫10人ができました。」とコメントしました。
初参加の日本選手団
第6回 ベルリン五輪(ドイツ:1916年)
1912年7月4日にスウェーデン・ストックホルムで開催された第14回IOC総会でアムステルダム(オランダ)、アレクサンドリア(エジプト)、クリーブランド(アメリカ合衆国)、ブダペスト(ハンガリー)、ブリュッセル(ベルギー)などの候補都市を破り選ばれたものの第一次世界大戦により中止。
第7回 アントワープ五輪(ベルギー:1920年)
| 参加国 | 男子選手 | 女子選手 | 種目 |
|---|---|---|---|
| 29 | 2,561 | 65 | 156 |
第一次世界大戦の敗戦国だったドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、トルコは大会に参加することを禁止されました。メダル獲得数上位国はアメリカ、スウェーデン、イギリス。
ベルギーは第一次世界大戦で戦場となり焦土となったところに8万人分の座席を持つ競技場が急造され、オリンピック開催はベルギーの国家再建に大きく貢献しました。日本人選手として男子テニスの熊谷一弥が、シングルスおよび柏尾誠一郎と組んだダブルスで史上初めてのオリンピックメダル(銀メダル)を獲得。
アントワープ五輪のポスター
第8回 パリ五輪(フランス:1924年)
| 参加国 | 男子選手 | 女子選手 | 種目 |
|---|---|---|---|
| 44 | 2,954 | 135 | 126 |
2度目の開催となったパリ。参加国は急増し、女性の参加も増えてきました。メダル獲得数上位国はアメリカ、フィンランド、フランス。日本人選手として内藤克俊がレスリングフリースタイルフェザー級で銅メダルを獲得しています。
第9回 アムステルダム五輪(オランダ:1928年)
| 参加国 | 男子選手 | 女子選手 | 種目 |
|---|---|---|---|
| 46 | 2,606 | 277 | 109 |
前回大会よりも更に女性選手への門戸開放が進んだ大会。日本からも800mで人見絹枝が出場し日本人女性選手初の銀メダルを獲得しました。また、織田幹雄(陸上男子三段跳)と鶴田義行(競泳男子200m平泳ぎ)が悲願だった日本初の金メダルを獲得した大会でした。メダル獲得数上位国はアメリカ、ドイツ、フィンランド。
なお、この大会でコカ・コーラが史上初の大会スポンサーになりました。
五輪史上初のスポンサーとなったコカ・コーラ
第10回 ロサンゼルス五輪(アメリカ:1932年)
| 参加国 | 男子選手 | 女子選手 | 種目 |
|---|---|---|---|
| 37 | 1,206 | 126 | 117 |
私たちの記憶には1984年のロス五輪が残っていますが、最初のロス五輪は1932年のことでした。開催招致に際してはロサンゼルス以外に立候補した都市がなかったので無投票で決まりました。1929年10月の世界恐慌の影響で、選手及び役員の派遣を見送った国が続出して前回大会の約半分にまで減り、失業者達がスタジアムに向けてデモを行うという環境下での開催でもありました。メダル獲得数上位国はアメリカ、イタリア、フランス。日本も金7、銀7、銅4でメダル数5位と躍進した大会でした。
馬術で飛躍
馬術のグランプリ障害飛越競技では、日本の西竹一中佐が愛馬のウラヌス号を駆って金メダルを獲得。当時の馬術競技は大会最終日にメイン・スタジアムで行われる花形競技で「バロン・ニシ」の名前は一躍有名に。また同じく総合馬術競技耐久種目に出場した城戸俊三中佐は愛馬久軍号の疲労が著しく、どうしても障害を飛越しなかったため、完走直前でやむなく途中棄権しました。これが「競技より馬を優先した」と受け取られ、動物愛護の観点から勝者に劣らぬ賞賛を受けることとなりました。
障害飛越の西とウラヌス
第11回 ベルリン五輪(ドイツ:1936年)
| 参加国 | 男子選手 | 女子選手 | 種目 |
|---|---|---|---|
| 49 | 3,632 | 331 | 129 |
開催地投票でバルセロナ(スペイン)を下しての開催地となったベルリンが2度目の開催(中止でも記録上カウントされる)。この大会から、約半月という現在と同様のオリンピック開催期間となりました。1度目の開催が第一次世界大戦で中止となったベルリンですが、この大会の後にドイツは再び第二次世界大戦への道を進んでいくこととなります。「ヒトラーのオリンピック」と呼ばれ、ドイツにとって国威高揚のプロパガンダの色彩が強かった大会です。
メダル獲得数上位国はドイツ、アメリカ、ハンガリー。サッカーでは初出場の日本チームが優勝候補のスウェーデンを破る歴史的番狂わせを演じ(ベルリンの奇跡)ベスト8に進出しています。
初の聖火リレー
この大会において、プロパガンダ効果を高めることを目的に古代オリンピックの発祥地であるギリシャのオリンピアで聖火を採火し、松明で開会式のオリンピアシュタディオンまで運ぶ「聖火リレー」が初めて実施されています。これは彼らゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシャの後継者であるというヒトラーの思想に適った物でもありました。
聖火リレーのコースは、オリンピアを出発してブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由してドイツ国内へ入るというものでしたが、1939年に勃発した第二次世界大戦においてドイツ軍がこのルートを逆進する形で侵攻を行ったという逸話が残っています。
スタジアム中がナチス式敬礼を行った開会式
第12回 東京五輪(日本:1940年)
ヘルシンキ(フィンランド)を破って開催地に決定した東京五輪でしたが、支那事変の影響等から日本政府が開催権を返上しました。
なお、本来は次点となったヘルシンキでの開催予定だったものの、第二次世界大戦の影響で結局は中止となりました。
東京五輪のポスター
第13回 ロンドン五輪(イギリス:1944年)
2度目の開催地となったロンドンですが、第二次世界大戦によって中止に追い込まれました。4年後、繰越開催となります。