桑田真澄 桑田ロード、すなわち野球道 小さな体をした真のエース

桑田真澄 桑田ロード、すなわち野球道 小さな体をした真のエース

本来、「すみませんでした」という謝罪は「澄みませんでした」 ということ。そういう意味で桑田真澄はほんとうに澄んだ男なのかもしれない。数字や勝ち負けなどの結果や巨額の年俸がクローズアップされやすいプロ野球において、「結果はクソ」とプロセス主義を貫き、「試練や困難は自分を磨くための砥石」「努力している自分が好き 」と自分を磨くこと「人間力」を上げることを人生の価値とした。そしてライバル清原和博同様、スケールの大きな、そして好対照な野球道を歩んだ。


リアル巨人の星

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桑田真澄に初めて野球をやったのは小学低学年の頃。
教えたのは父親(桑田泰次)だった。
父親は、キャッチボールで、息子の返球を、自分の体の正面に来た球しか捕らず、外れたボールは
「取ってこい!」
と取りに行かせた。
トスバッティングも、自分が投げたボールを、息子がノーバウンドかワンバウンドで自分に打ち返さなければ、取りに行かせた。
桑田真澄は、うまく投げ返されなかったり、打ち返せないと、その度、ボールを取りにいった。
桑田真澄のグローブは、父親が綿を全部抜いたためペラペラだった。
ペラペラのグローブでは痛いので、ネットの部分で捕球すると父親は怒った。
痛くても、ちゃんと真ん中で
「パンッ」
と音が鳴るように捕るように教えた。
桑田真澄は、小学校2年からソフトボールチームに入り、いきなり6年生のAチームに入った。
小学4年からは少年野球に入り、ここでもすぐにAチームになった。
年上のチームに1人上がると、妬みからか、イジメに遭遇した。
桑田は小中高と通じて、常にイジメられ、そしてへこたれない一匹狼だった。
父親は野球が好きで好きで仕方ない人だったが、仕事は長続きせず、よく酒を飲み、ケンカもした。
家では食卓をひっくり返し、モノを投げつけた。
そしてやがて離婚し、姿を消した。
桑田真澄も小学校ではワルかった。
ケンカと野球ばかりして、勉強は全くせず、テストは0点ばかり。
母親はしょっちゅう学校に呼び出された。

中学進学時、成績は230人中、220番だった。
しかし桑田真澄は、ここから勉強をし始めた。
そして成績は上がっていった。
ケンカと野球ばかりだった小学生は、勉強と野球ばかりの中学生となった。
これは後にPL学園高校で進んでからも続き、成績は常にクラスで2番か3番だった。
中学の野球部でも1年生からAチームだった。
朝練は、まず、ランニングをグラウンド5周。
次に、タイヤを引いて5往復。
それからキャッチボール。
夕方の練習は、ランニングをグラウンド10周。
そしてタイヤを引いて走ってから野球の練習がは始まった。
部活が終わってヘトヘトで家に帰り、食事をして、素振りやランニングなど自主練習を行った。

PL学園

桑田真澄は、PL学園高校に進学した。
PL学園の受験は、英語や数学などの試験もあったが「21ヵ条のPLの教え」を丸暗記すれば合格だった。
PL学園野球部員は、全員、寮(研志寮)に入らなければない。
家には年末年始以外、帰れず、電話も手紙も禁止だった。
そして年末年始以外は練習日だった。
入寮式後、27名の1年生は、「指導員」の3名の2年生の先輩から、「絶対にしてはいけない3ヵ条」を含む多くの決まり事についてレクチャーを受けた。
絶対してはいけないことの3ヵ条は、嘘、ケンカ、陰口だった。
入寮して1週間後に入学式があったが、初練習は入寮翌日からだった。
1年生は指導員と一緒に別メニューをこなした
研志寮は、8人部屋が8室あり、1、2、3年生が共同生活をするため、特に1年生は安らげない。
また1年生には仕事があり、
「炊事当番」
「ロッカー当番」
「風呂当番」
の3班に分けられた。
炊事当番は、練習が終わると基本的に食堂にいき、食事中の世話やが食後の片付けを行い、全員が食事を終わるまで食堂を出られない。
基本的に、食事は事前に用意されている通常メニューがあったが、先輩に
「チャーハンつくって!」
といわれたら
「はい!」
とつくらなければならない。
1年生は、追加メニューを作ることはできても食べることは許されず、通常メニューしか食べられない
醤油とソースは常備されていたが、砂糖とマヨネーズは2週間に1度の買い物のときに入手しなければならず、1年生が強制的に買わされた。
買い物は2週間に1度、PLの敷地内にある小さなスーパーに全員揃っていく。
所持金は2000円。
先輩は、お菓子やアイスクリーム、ウインナー、カップラーメン、卵、ジュースなど、好きなものを買えるが、1年生は、マヨネーズ、塩こしょう、テーブルガーリック、砂糖などを買わなければならない。
また1年生はよく便箋を買った。
ポケベルも携帯電話もない時代。
寮の電話が使えるのは先輩だけで、1年生の外部との連絡法は手紙しかない。
親や友達に手紙を書いては返事を心待ちにした。
ロッカー当番は、練習終了後、ボールがグラウンドに落ちてないかチェックし、ノック用、バッティング練習用などボールに分け、内野ノック用ボールなどは、ユニフォームにこすりつけるなどして、ビカビカに磨かなければいけなかった。
風呂当番は、全員が風呂に入ったあと、掃除をした。
ちなみに1年生は、お風呂に入っても湯船につかること、シャンプーを使うこと、バスタオルを使うことは禁じられ小さなタオルでふいた。
この仕事は、毎週、ローテーションで変わった。
また寮内では「付き人制度」がしかれ、1年生は、毎日、数名の担当の先輩のユニフォームの洗濯、スパイク磨き、ご飯の用意、夜間練習の相手を行った。
仕事は深夜にまで及ぶこともあった。
先輩後輩の上下関係は厳格で、下級生はちょっとした言葉遣いで厳しく怒られ、基本的に1年生は、上級生に対して「はい」と「いいえ」しか使えなくなった。
寮内で何かをしでかしたり、やらかすことを「事件」、事件が重なり集合がかかることは「説教」と呼ばれ、1つの部屋に集められ全員正座。
V字腹筋、空気イスなどのトレーニング、手や足が飛ぶこともあった。
まだ体力的に未熟で練習にも慣れていない下級生は、グラウンドでは意識朦朧で練習し、学校では死んだように寝て、寮では熟睡すらできない緊張の日々を繰り返した。
当然、脱落者も出たが、去っていく戦友より、自分の仕事の量が増えることが気になった。

「起床、起床、起床の時間です。
皆様おはようございます。
起床の時間です。
5分後に全員Bグラウンドに集合してください」
6時、寮にアナウンスが響き、PL学園野球部の1日が始まる。
1年生は、起床コールの前に起きて、洗濯物をたたんだり、朝ご飯の準備を行う。
コールが鳴った時点で布団の中にいたら大事件となるので、目覚まし時計で起きるが、その音で同部屋の先輩を起こしてしまうとこれも事件となった。
起床コールから5分後、サブグラウンドで朝練が始まり、体をほぐしながらグラウンドを走る。
その後は朝食。
ご飯、味噌汁、漬物。
たまに納豆。
7時30分、2㎞離れた学校に登校。
その後、5時間、授業を受ける。
野球部員は体育の授業以外は睡眠に充てた。
しかし桑田真澄だけは真面目に授業を受けていた。
14時、授業が終了すると寮まで帰る。
1年生は、グラウンド整備があるので走って帰った。
まず鉄のとんぼで土を柔らかくし、その上から木のとんぼをかけ、ラインを引き、水をまいた。
そして15時、練習開始。
練習時間は、冬は3時間、夏は4時間程度。
まずはウォーミングアップとして、ランニング、体操、ストレッチ、腹筋、背筋、スクワット、バービー、腕立て伏せなどのトレーニング、キャッチボール。
それらが終わればシートノック(各選手が各守備位置につき、ノックを受ける守備練習)。
各ポジションに4~5人くらい選手がいて、順番にボールを受ける。
続いて2ヵ所にゲージ(バッティングピッチャーを打球から保護するネット)を置きバッティング練習。
ウォーミングアップやバッティング練習では、リラックスするためにグラウンドに音楽が流された。
バッティング練習が終わると全員でグラウンド整備。
最後にランニングをして終わる。
このランニングは、
「100mmダッシュ17秒以内を20本」
「5周走6分以内5本」
と周回数やタイムが日替わりで決められた。
例えば、グラウンドを5周を6分と設定されると、全員がその時間内にゴールできないと何周か追加された。
19時、寮に戻り食事。
20時半、全員で寮内掃除。
その後は自由時間となるがほとんどの部員が、素振り、ティーバッティング、筋力トレ、ランニングなど自主練習を行った。
レギュラーは9人、大きな大会でベンチに入れるのは18人。
熾烈な争いにみんな必死だった。
そして2、3年生は23時頃に就寝。
1年生は先輩が寝た後、担当のユニフォーム洗濯。
寮にある洗濯機の数が限られているので、激しい洗濯機争奪戦が繰り広げられ、敗れると深夜まで順番待ちをして、洗濯物を干して乾燥室を出るのは24時を過ぎた。

「桑田だけもう200回」

PL学園高校の野球部に入る中学生は、みんな全国的なチームのエースか4番バッターだった。
桑田真澄は、中学時代、チームのエースとして大阪の田舎の地区大会で優勝したが、PLではピッチャーとして目立たず外野手に回され球拾いをしていた。
ある日、ノックを受けて、外野から返球する桑田をみて、再びピッチャーに戻すよう監督に進言したのは、清水一夫だった。
清水一夫は、報徳学園などで監督をし、PL学園高校野球部には、臨時コーチとして来ていた。
フェンス際をベルトに手を突っ込んで前かがみで歩いている清水一夫を桑田は
(けったいなおじんやな)
と思っていた。
清水一夫は、投手陣が集まりスクワットを100回やり終えたときも、
「はい、桑田だけもう200回。
他の者は数を数えてやれ」
と指示した。
投球練習では自らキャッチャーとなり桑田に200球も300球も投げさせた。
そして構えた位置からミットを動かさず、コントロールが狂うとボールはキャッチャーの後方にいく。
すると桑田はダッシュで拾いに行き、ダッシュでマウンドに戻る。
桑田は、投げる、外す、走るをフラフラになるまで繰り返した。
練習後、1年生の桑田には、炊事や洗濯の仕事があったが、それが終わると清水一夫に呼ばれ、全身をマッサージさせられた。
マッサージの後は、ローソクに火をつけ、それが消えるまで、タオルを握ってのシャドーピッチング。
最初は殺意を抱いた桑田だったが、やがてマッサージは「指の力」を養うためのものだと気づく。
握力ではなく指の力。
握力が強いから肩を壊さないということはないが、指の力が強いと肩を壊しにくい。
「コントールが良ければ変化球はいらん。」
と清水一夫は、桑田に、ストレートのコントロールをつけることだけを教えた。
こうして指も腕も脚も鍛えられた桑田真澄は、やがて1年生でレギュラーとなり、ストレートとカーブだけで、3年間、甲子園を沸かせることになる。

ライバル 清原和博

桑田真澄も清原和博も中学まではエースで4番で、それまで自分よりすごい選手に会ったことはなかった。
しかし清原は桑田のピッチングをみて衝撃を受けた。
(こいつには勝てない)
監督からいわれるまでもなくピッチャーは諦めた。
桑田も清原に同様のことを思った。
「僕は、清原君より体が小さい。
同じことをやっているようではダメだ。
2倍も3倍も練習しないと……」
そして1年生としての仕事や先輩のパシリが終わった後、深夜、1人黙々とグラウンドを走った。
清原も素振りを行った。
「あいつが先にあがるまで、バットを振り続けてやる……」
お互いに思っていた。
(負けられん)
桑田真澄と清原和博は、3年間、すっと同じ教室で席は隣同士だった。
野球部の寮の部屋も隣同士。
仲は良く、共に野球バカだったが、性格は正反対。
清原は明るく、桑田は無口。
清原は番長、桑田はケンカの止め役。
桑田は勉強好きで熱心に授業を受けたが、清原は寝ていた。
清原を中心に同級生がみんなでワイワイしていても、桑田は1人ポツンとしていた。

自信を持つこと、感謝すること、謙虚におごらないこと、三位一体。

野球の試合で、大差で勝っていて楽勝ムードが漂うと、笑顔と楽しい会話が行われやすい。
しかし桑田真澄は、味方が点数をとればとるほど気を引き締める。
点差が開くほど笑顔をみせない。
おごりや油断を恐れる。
自信を持つこと、感謝すること、謙虚におごらないこと。
この3つの気持ちの三位一体を強調する。
自信を持ちながら、おごらず、謙虚な気持ちを持ちながら・・・
この3つが、うまくかみ合うときにいい野球ができるという。
例えば、バッターに打たれたときも、桑田真澄は、
「ボールが甘いところに行ったから打たれた。」
とは思わない。
「バッターをなめてかかったからミスをした。」
と反省する。
すべては自分の気持ちのミスだと反省するのだ。

1年生で甲子園出場 KKコンビ誕生

1年生の5月、沖縄の興南高校との練習試合に清原和博は代打で出場。
ピッチャーは、後に阪神タイガースに入る仲田幸司だった。
1打席目はデッドボール。
カーブが全然みえず足に当たった。
2打席目は、とにかくストレートを狙い、2塁打を放った。
6月に入ると夏の甲子園に向けて、練習は量も質も上がっていった。
練習中は一滴も水を飲むことは禁じられた。
レギュラー陣の練習が苛烈になり、その他の者はそのサポートに徹した。
7月中旬、夏の甲子園の大阪地区予選が開始。
1回戦から入学約3ヵ月、1年生の清原はレギュラー、しかも4番に大抜擢された。
桑田も4回戦で吹田高校を2安打に抑え完投。
それまでは控え投手だったが、この試合以後、事実上のエースとなった。
7月31日、決勝戦が行われ、PL学園は大阪予選を制した。
翌日、8月1日にはPLの花火大会が行われた。
夏の甲子園大会が始まると、PL学園は、1回戦で所沢商業、2回戦で中津工業、3回戦で東海大一高、準々決勝で高知商業を下し、ベスト4に進出。
準決勝の相手は、夏春2連覇中の池田高校だった。
清原は、水野雄仁(後に巨人)に4打席4三振だったが、桑田は、ホームランを打った上(この大会で桑田は2ホーマー)、池田高校に1点も与えず、PL学園は7対0で圧勝した。
1983年の夏の甲子園の決勝戦は、PL学園 vs 横浜商業となった。
清原は1打席目でホームランを打った。
甲子園第1号だった。
そしてチームも3対0で勝ち優勝した。
清原と桑田は、「KKコンビ」と呼ばれ、練習グラウンドには、たくさんのマスコミと観客、女性ファンが来るようになった。
しかし清原も桑田もレギュラーになったからといって特別扱いはなく、1年生として寮での雑用や仕事をこなし、試合に出るということを繰り返した。
決勝戦の前日も夜の洗濯をしていた。

熱闘甲子園

夏の甲子園が終わると9月上旬の春のセンバツの予選に向けて練習が始まった。
大阪大会の3位以内に入り近畿大会に進み、大阪、兵庫、奈良、京都、和歌山、滋賀から選ばれた16校の中から7校が甲子園行きの切符を手にする。
11月にすべての大会が終わり2月1日にセンバツ出場校発表。
3月下旬から、春のセンバツが始まる。
こうして地獄のような1年が過ぎ、2年生のなると新入部員が入ってきて仕事から解放される。
洗濯もスパイク磨きも食事の用意も、全部後輩がしてくれる。
「3年神様、2年平民、1年奴隷」
といわれ耐えて続けていれば部屋でお菓子を食べたり、ウォークマンを聴いたりできるようになっていく。
ただしレギュラー争いは激化し、焦りと不安は増大していく。
清原と桑田は、1年生の夏の甲子園から3年間、春夏すべての甲子園に出場し、優勝2回、準優勝2回というすごい戦績を残した。
しかし1983年、1年生の夏に優勝した後は
1984年春 - 決勝敗退
1984年夏 - 決勝敗退
1985年春 - 準決勝敗退
と2年生の春から3年生の春までは頂点に立つことはできなかった。
1年生は抑圧され、必死に耐え、気づかないうちに優勝していたが、2年生になり解放されると逆に甲子園で勝つことが難しくなった。

桑田真澄は、、高校3年間で5回しかチャンスがない甲子園に5回出場、優勝2回、準優勝2回、ベスト4を1回という経験をしたが、春の甲子園は50日前から、夏は100日前からお参りを行った。
通常は6時30分起床だが、この期間は5時30分に起床し、まずトイレ掃除をし、グラウンドの草ぬきをしてからお参りに行った。
このトイレ掃除が楽しく、すごく気持ちよかった。
だからその後も桑田真澄は、機会があればトイレ掃除をした。
プロになっても、負けたら便器を磨いた。
便器を磨いて、練習して、便器を磨いて、練習して・・・
そんな自分が好きだった。

1985年の夏の甲子園は、最後のチャンスだった。
すさまじい執念をもって乗り込んだ甲子園でPL学園は爆発した。
1回戦はシードで不戦勝。
2回戦、東海大山形、29対7。
3回戦、津久見高校、3対0。
準々決勝、高知商業、6対3。
準決勝、甲西高校、15対2。
そして決勝戦は、宇部商業高校だった。
春の選抜大会の2回戦で対決し6対2で勝っているチームだった。
宇部商業の先発は、エースの田上昌徳ではなく、「背番号11」の古谷友宏。
初回、古谷は1死2塁のピンチで迎えた清原をセンターフライで抑えると、2回表、宇部商業が1点を先制。
4回裏、清原は第2打席でレフトのラッキーゾーンに飛び込む同点弾。
6回表、宇部商業が3対2と逆転。
直後の6回裏、清原が第3打席でバックスクリーン左横に飛び込む、この試合2本目の同点ホームラン。
試合を実況していた植草貞夫は叫んだ。
「甲子園は清原のためにあるのか」
3対3のままで試合は進み、9回裏Pl学園の攻撃も既に2アウト。
このまま延長戦突入かと思われたとき、2番の安本選手がセカンドとセンターの間に落ちるポテンヒットで出塁。
打席に3番、キャプテンの松山選手が入ると、ランナーは盗塁で2塁に進塁。
カウントは2-3。
古谷投手は投げる前に振り返って後方の味方に声を出した。
「2アウト―」
ネクストバッターズサークルには清原がいる。
この日ノーヒットの松山を歩かせるわけにはいかない。
そんな意識が働いたのか、古谷投手の投げた速球は真ん中寄りに入った。
松山が打った打球は右中間を抜けていった。
こうしてPL学園は、サヨナラ勝ちした。

運命のドラフト会議

清原と桑田は卒業後も野球を続けるため、甲子園の後に行われた国体後もPL学園のグラウンドで練習を続けた。
そのときに1度だけ進路について話し合った。
「俺はプロ野球に行く。
第1志望は巨人や」
清原がいうと、桑田は
「早稲田大学に進む」
といった。
清原は、巨人に入ることを望んでいた。
このときの巨人は王貞治監督の2年目。
1983年に優勝したが、王貞治が監督になった1984年、1985年は2年連続で3位に低迷していた。
清原は子供のころから目標だった王が監督になったことに運命を感じていた。
「オレが王監督を助ける!」
王貞治が
「清原君が木のバットで打つ姿が見たい」
とコメントしたことを知ると国体で清原は監督の許可を得て木のバットを使用した。
そして国体後、巨人への入団希望を報道陣の前で発表した。
11月のドラフト会議までに各球団のスカウトが清原に接近したが、その中には巨人もいた。
「もしウチが1位指名したら来てくれますか?」
「はい、よろしくお願いします」
うれしくて飛び上がりそうになりながら清原と両親は3人で頭を下げた。
ドラフト会議において、ある選手を複数の球団が指名した場合、交渉権はクジ引きで決まる。
仮に12球団が指名すれば、その確率は1/12となる。
指名された選手は意中の球団でなければ入団を拒否できる。
例えば、江川卓は、1973年に阪急ブレーブスに1位指名されたが拒否して法政大学へ進学。
1977年に福岡クラウンライターライオンズに1位指名され拒否してアメリカ留学。
1978年に巨人に入団した。
清原は、もし巨人が交渉権を獲得できなければ、阪神。
それもなければ社会人野球(日本生命)に進むつもりだった。
桑田真澄は、春の甲子園は50日前から、夏は100日前からお参りを行ったが、
同様にドラフトの100日前からお参りをした。
(巨人に指名されたらプロ入り。
指名されなければ早稲田大学へ進学)
そう決めていた。
「僕にとって最高の道をください」

1985年11月20日、ドラフト会議当日、3時間目の授業中、教師から知らせが入った。
「巨人の1位指名は桑田や!」
桑田は、うれしかったが清原を傷つけないように下を向いた。
清原は校長室に呼ばれ、ドラフト会議の録画をみながら説明を受けた。
清原は6球団から1位指名を受けたが、その中に巨人はいなかった。
そして巨人が1位指名したのは桑田だった。
清原と桑田は別々の部屋で記者会見を行った。
巨人に指名されなかったこと、大学に行くといっていた桑田が実は巨人を志望し、それを教えてくれなかったことが悔しくて悲しくて、清原は涙を流した。
その後、密かに桑田が巨人を蹴ることを期待していたが、早稲田大学進学を取り消して巨人と契約を結んだことを聞いて再びショックを受けた。
卒業式のとき、桑田はしゃべりかけようとしたが清原は無視。
マスコミに2ショット撮影をリクエストされ、握手をしながらも2人は目は合わせなかった。
この後、桑田真澄は、ダーティーなイメージを植えつけられてしまう。
裏切られたヒーロー、清原。
したたかな桑田。
巨人入団発表の日、桑田真澄は、
「200勝します。」
といった。
そして
「君は平喘と嘘をついたね」
という記者に対しては
「そう思うなら思ってください」
といった。
この後も、裏金疑惑、野球賭博疑惑、土地投機失敗による借金地獄など、いろいろなスキャンダルに見舞われるが、桑田真澄は、一言も弁解しなかった。
言いわけはせずに密かに闘志を燃やした。

プロ入り

1986年、甲子園で通算20勝、防御率1点台の高校野球のヒーローは、それなりの自信をもってプロ1年目を迎えた。
しかし結果は、登板回数:15回、投球イニング数:61回1/3、2勝1敗、防御率:5.14。
桑田は、プロの凄さに圧倒され、絶望的な気持ちになった。
そしてトレーニング本を買い込み勉強を始めた。
そしてジムに通い、ウエイトトレーニングを行い、正月も走り込んだ。
2年目(1987年)は、登板回数:28回、投球イニング数:207回2/3、15勝6敗、防御率:2.17。
防御率は1位(最優秀防御率)だった。
ゴールデングラブ賞、ベストナイン、最優秀投手、沢村賞も獲得した。
桑田真澄には、常に1つのイメージがある。
理想のボール。
理想のフォーム。
そんな「理想の感覚」がある。
「理想の感覚」を、シーズン(1年)を通して維持できたのは、高校1年、1987年、1994年シーズンだけ。
昨日は出たのに今日は出なかったり、ずっと出ず、ずっと不安だったのに、何気ない練習中の1球で急に出たり、「理想の感覚」は波があった。
出ないときは
「俺の球じゃない。」
と悩みながら練習を続け、出たときは、狙ったところにボールが行くため、楽しくて仕方なかった。

KK対決

清原と桑田はオールスターや日本シリーズで数度対戦した。
キャッチャーのサインに桑田は何度も何度も首を振った。
キャッチャーが諦めて直球のサインを出すまで首を振り続けた。
そして勝負を挑んだ。
そして清原は桑田に対して、オールスターで8打数1安打1本塁打、日本シリーズで12打数7安打3本塁打という成績を残した。
2人は試合の合間に言葉を交わすこともあったが、お互いにドラフトのことだけは触れなかった。
桑田真澄は、「第一感」を大事にする。
ここはカーブでいきたいと思ったら、キャッチャーのサインが違っても、カーブ。
勝負どころだと思えば逃げずに勝負、勝負したくないと思ったら勝負しない。
日記にも、
「・・・・年にゴールデングラブ賞」
「・・・・年に年棒・・・・・円」
「・・・・年に最多勝」
など大目標を第一感で思いついたままに書いた。

桑田は金に汚い?

1989年、プロ3年目の夏。
週刊誌が桑田のスキャンダルが報じた。
それは1988年12月にアドバイザリー契約を結んでいたカドヤスポーツから不明瞭な金が桑田真澄の口座に振り込まれているというものだった。
振り込みを知らなかった桑田はすぐに返金した。
そして球団からは、200万円の罰金を科された。
世間には
「桑田は金に汚い」
という者もいたが、桑田真澄は一切弁解せずに野球に集中した。
そして1989年は、登板回数:30回、うち完投20回、投球イニング数:249回、17勝9敗、防御率:2.60。
ジャイアンツは8年ぶりに日本一になった。
そして桑田真澄は念願だった自分の家を建てた。

さらば桑田真澄、さらばプロ野球

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1990年のシーズン直前、中牧昭二の著作『さらば桑田真澄、さらばプロ野球』(年間売上げ19位、ノンフィクション部門8位)が刊行された。
この中で、カドヤスポーツ販売促進課長だった中牧昭二は、桑田真澄にアドバイザリー契約を結ぶ見返りに多額の裏金を要求され、それを支払ったと主張した。
桑田が
「昭ちゃん。
裏金で月に20万くれたら(カドヤスポーツの製品を)使ってもいいよ。」
「裏金を20万から30万にしてくれないか。」
といい、1987年11月にカドヤスポーツと桑田が2年500万円で正式契約を結んだときは
「本契約以外に、裏金で500万円ほしい。」
「車が欲しい。
ソアラがいい。」
などと要求したと書かれてあった。
こうした裏金疑惑以外にも、親しくしている会員制メンバーズクラブの社長に登板日を教えたという記述があり、桑田真澄が野球賭博に関与した疑いも持たれた。
それ以外にも
「ソープランドへ連れて行ってほしい」
「(ドラフトの時、清原和博に対して)ザマアミロと思ったね。
ぼくが1位指名されるのはわかっていたから、いまに泣き面が見られるぞと楽しみにしていたんだ」
「ぼくが入団発表をする日、あいつ(清原)のお母さんがぼくのお母さんにイヤミの電話をしてきたんだ。
あそこはどうもそういうところがある」
「あいつ(清原)のことをすごいというけど、何かタイトルを獲ったのか。
あいつにぼくのことをいう資格はない。
タイトルを獲ってから、ものをいえっていうんだ」
などという内容も掲載されていた。
まず賭博疑惑については、ジャイアンツの寮の近くに中華料理屋があり、桑田真澄は何度か通ううちにオーナーと親しくなった。
そして
「桑田君、明日、投げるんでしょ?」
といわれ
「頑張ります。」
と答えた。
これを中牧昭二はみていたという。
そしてこのオーナーには賭博で有罪判決を受けた過去があった。
もちろん桑田は情報を渡すことで、このオーナーからお金をもらったことはなかった。
カドヤスポーツの裏金疑惑については、中牧昭二は、大阪、広島、名古屋など桑田の遠征に必ず帯同したとし、接待費として毎月、何百万円もの経費を会社にあげていた。
しかし桑田真澄は、試合前に、酒を飲まない。
たとえ飲む場所に行っても、牛乳かミネラルウォーター。
カドヤスポーツが、その領収書の日付と店名、桑田真澄の遠征先を照らし合わせて調査してみると、それが虚偽であることがわかった。
このスキャンダル後も、桑田真澄の契約は継続された。

桑田真澄は、中牧昭二を訴えた。
中牧昭二は、拓殖大学からカドヤスポーツに入社し、販売促進課に勤務し、1990年に『さらば桑田真澄、さらばプロ野球』を出版しベストセラーとなった。
1992年、大仁田厚率いるFMWに入団しプロレスラーデビュー。
その後、プロレス団体を転々とし、2003年、参議院議員になった大仁田の秘書となった。
この疑惑とは別件で、高級時計や小遣いをもらったことがあると桑田真澄が認めたため、1990年のシーズン開幕から1ヵ月間の試合出場停止と罰金1000万円が科された。
桑田真澄は、なにも弁解せず、毎日、2軍の練習場に通った。
しかしマスコミは尾行し続けた。
謹慎中から謹慎が解けた後も、裁判も続いた。
人間不信、電話恐怖症となり、自殺まで考えた。
こうして散々叩かれ、嫌な思いをしながらも、1990年の成績は、登板回数:23回、うち完投17回、14勝7敗、防御率:2.51。
ジャイアンツはセ・リーグ優勝、2連覇を果たした。

借金地獄

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