60年代~70年代の歌謡界を席捲した「ベンチャーズ歌謡」の魅力!!
60年代、日本の音楽界を席巻した「エレキサウンド」。中でもベンチャーズの人気は凄まじく、日本中でギター小僧が「テケテケ~♪」を出来るようになるよう練習に励んだものです。そして、このエレキの波は歌謡曲にも進出。そんな中生まれたのが「ベンチャーズ歌謡」と呼ばれる楽曲群です。
ベンチャーズが自ら日本の歌謡曲を作曲!!
今回ご紹介するベンチャーズ歌謡ですが、これは“ベンチャーズ風の”歌謡曲ということではなく、“ベンチャーズが自ら作曲した”歌謡曲です。当時ベンチャーズは加山雄三と交流があり、彼を通じて日本の芸能界とパイプを築き上げました。その結果、日本の歌謡曲の作曲に携わるようになったのです。
1966年、「二人の銀座」がいきなりヒット!
ベンチャーズ歌謡の第一弾とも言われているのが、1966年に和泉雅子・山内賢が発表した「二人の銀座」です。元はベンチャーズが「Ginza Lights」として発表したもので、永六輔が日本語詞を付けてリリースしたところ100万枚を超える大ヒットを記録。第12回日本レコード大賞・企画賞を受賞しました。

貴重なカラー映像!!
翌年の奥村チヨ「北国の青い空」も大ヒット!
「二人の銀座」の大ヒットにより、ベンチャーズには他の歌手からも作曲の依頼が殺到。そんな中、1967年に発表されたのが奥村チヨの「北国の青い空」です。1969年の「恋の奴隷」で有名な奥村ですが、黛ジュンや小川知子とともに並び称された“東芝3人娘”として、本格的に知名度を上昇させたのは「北国の青い空」の影響が大きいです。

渚ゆう子「京都の恋」がオリコンで8週連続1位!
70年代に入ると、ハワイアン歌謡などを歌っていた渚ゆう子に「京都の恋」を提供。元々はベンチャーズ自身が「EXPO'70」として発表していた同曲は、オリコンのシングルチャートで8週連続1位を獲得する快挙となり、80万枚を超えるヒットとなりました。

翌年には「京都慕情」で紅白出場!!
さらに1970年には「京都慕情」、翌1971年には「長崎慕情」といったシングルを提供し、「京都慕情」によって渚は1971年の第22回紅白歌合戦に出場を果たしました。


「雨の御堂筋」がミリオンセラーに!!
1971年には、台湾の新人歌手・欧陽菲菲に「雨の御堂筋」を提供。大阪の御堂筋をテーマとしたご当地ソングであった同曲は、オリコンのシングルチャートで9週連続1位を獲得、ミリオンセラーとなりました。同年の第13回日本レコード大賞で新人賞も受賞しています。

これだけじゃない!ベンチャーズ歌謡の数々!!
ベンチャーズ歌謡として必ずと言っていいほど取り上げられるのは上記の楽曲ですが、もちろんベンチャーズが歌手に提供した楽曲はこれだけではありません。1972年に元ザ・ゴールデン・カップスのドラマー、マモル・マヌー(三枝マモル)に提供した「北国の別れ」など、特筆すべきシングルがいくつかありますので、ここでご紹介したいと思います。
三枝マモル「北国の別れ」(1972年)

桐山和子「雨降る雨降る港町」(1972年)

青木リカ&アルファード「ひとりゆく さすらい旅」(1972年)

里見洋と一番星「明日へ走る」(1972年)

李朱朗「マジックナイト」(1972年)

牧葉ユミ「回転木馬」(1972年)

お聴きになればわかる通り、ベンチャーズの作る楽曲はどれも日本人好みのメロディであり、楽曲内でフィーチャーされるエレキギターの音色も、当時の歌謡曲と良く合っています。この絶妙な和洋折衷が、ベンチャーズ歌謡の醍醐味と言えるでしょうね。
ベンチャーズ歌謡を堪能し尽くしたい方はこちらで!
おすすめの記事はこちら!
もしあの時、マイルス・デイビスのセッションの誘いに応えていれば、渡辺香津美は今以上に世界で知られたギタリストになったかもしれない - Middle Edge(ミドルエッジ)
「ライオンズ」「ジャイアンツ」「ドラゴンズ」・・・球団と同じ名前のバンドの魅力! - Middle Edge(ミドルエッジ)
1980年、世界を震撼させたジョン・レノン射殺事件の犯人「マーク・チャップマン」とは? - Middle Edge(ミドルエッジ)