手と手を結びあって大きな輪に!「平成のKOキング」坂本博之さんが子供たちに届けたいこと。

手と手を結びあって大きな輪に!「平成のKOキング」坂本博之さんが子供たちに届けたいこと。

不動心を背負い「平成のKOキング」「和製デュラン」の異名でファンを魅了したプロボクサー坂本博之さん。2000年の畑山隆則(横浜光ジム)に挑んだWBA世界ライト級王座戦は、結果として敗けたとはいえファンにより同年年間最高試合に選ばれています。ボクシングに惹かれボクサーとして生き抜き、そして今彼が目指しているものは何か――編集部がインタビューしました。


不動心を背負い「平成のKOキング」「和製デュラン」の異名でファンを魅了したプロボクサー坂本博之さん。

2000年の畑山隆則(横浜光ジム)に挑んだWBA世界ライト級王座戦は、結果として敗けたとはいえファンにより同年年間最高試合に選ばれています。ボクシングに惹かれボクサーとして生き抜き、そして今彼が目指しているものは何か――編集部がインタビューしました。

「平成のKOキング」坂本博之さん

・第49代東日本ライト級新人王
・第39代全日本ライト級新人王
・第44代日本ライト級王座
・第30代OPBF東洋太平洋ライト級王座

1970年12月30日生、福岡県田川市出身。

壮絶な少年期、ボクシングとの出会い

編集 いつからボクシングに惹かれるように?

僕が幼少時代の頃に両親が離婚して、母に引き取られました。母子家庭ということもあり乳児院に預けられて。幼すぎてその当時の記憶は無いのですが6才~7才の頃に母と博多に引っ越して、そこの小学校に入学しました。



その後に母は再婚し、僕が小学校二年生の時に仕事に出るようになったため、僕と弟は知人宅に預けられることになったのですが、知人宅でも色々なことがありまして、ご飯を与えられるような余裕はなかったんですね。



平時、学校で給食があるときはいいんですが、休日が大変で。僕らも生きる為に近くの川のザリガニとか食べるんだけども、そういう生活をしていたら弟が栄養失調、僕自身も拒食症というのになってしまって。そんな状況で児童相談所が入って、和白青松園という養護施設に行くことになりました。そこでボクシングと出会うんです、テレビで。



施設には当時128名の子供が生活していました。幼稚園から小学生、中学生、高校生が全部で128名。どんな理由でここにいるのかなんて子供にとってはなかなか説明できないことだし、別に言わなくても平等じゃないですか。



施設の生活は当たり前のように三食ご飯がある、当たり前のように布団もあるでしょ。そうするとだんだん夢が見えてくるんです。「あれやりたい」「これやりたい」って、そう思える余裕が出てくる。ご飯たべるのに一生懸命だったり、叩かれないためにはどうしたらとか考えてきたのが、ここは当たり前のように食事があって、笑う余裕ができる。そんな時に128名が、みんなが食堂に集まってテレビを見るんですけども、そこでみんなでボクシングを見てた。それがボクシングと僕の出会いです。

編集 ボクシングの何に惹かれたのでしょうか。

「この人(選手)が好き」とか「この人(選手)がかっこいい」とかではなくて、ボクシングというスポーツに。きらびやかなガウンにチャンピオンベルト巻いて、あの大歓声で花道を通る姿に魅了されたんですね。



「うわあ、すごい、かっこいいな!」って。それが「プロボクサーになる!」っていう夢との出会いになりました。

編集 小学生の時に抱いた夢ですね。ボクシングを具体的に始めたのはいつ頃からなのでしょう?

高校を卒業してからです。高校は埼玉の小松原高等学校(以下高校)でした。今は名称が変わり「叡明高校」になっていますが。ただ、僕がいた時の小松原高校にはボクシング部は無かったんです。ぼくらが卒業した後にはできたんですが。

編集 なんと!そういえば、以前私たちがインタビューさせていただいた西島洋介さんも確か小松原高校ご出身とおっしゃってました。

孤高の求道者は今なおボクシングの夢を追う、西島洋介山! - Middle Edge(ミドルエッジ)

そうそう。あと、ボクシング部がないのに細野雄一がいて。彼も日本チャンピオンを2階級(ストロー級、ジュニアフライ級)制覇してますね。で、僕でしょ。で、西島洋介。あと渡嘉敷ボクシングジムの山口真吾も小松原高校。あとワタナベジムの福原力也も。



ボクシング部がないのにここまで日本チャンピオン、東洋チャンピオン、世界タイトルマッチをやるような連中が小松原高校にいるということは・・・という話が出て、後にボクシング同好会ができたんですよ。

編集 そして高校を卒業してからボクシングを始められた、と。

はい。僕、高校の時はアルバイトしながら、高校通ってましたし。小松原高校は私立高校だから決して(学費は)安くはないんでね、アルバイトしながらね。



でもその間も、というか中学生の頃から自主トレはしていました 。ボクシングの本を読んで左フックの角度とかそういうのをやって、あと鉄アレイとか腕立てとか。部活は無くても、そうやって自分で練習をやっていましたね。

編集 アルバイトをしながら自主トレはされて、そして高校を卒業されていよいよボクシングジムに、という。

そうですね。だから18歳で本格的にボクシングの世界に入りました。練習してデビューしたのは勝又ジムです。18歳で入門して2年間練習して20歳(1991年)でデビューです。

プロデビューから一気にスターダムへ

編集 デビューまでの2年間は。

アルバイト一色、ボクシング一色。江戸川区小岩にある焼き鳥屋でアルバイトをしてそこから勝又ジムに向かう、というね。



ボクシングが出来る時間とトレーニング時間を作りたいから、それを考えて生計を立てられるようにしました。アルバイト先の焼き鳥屋は昼の営業だったので昼から焼き鳥を焼いて、18時までそうやってアルバイトをやって、18時半くらいからジムに入って21時~22時とか、そのくらいまでボクシングという日々です。

編集 この生活のままでいいのか、などと悩んだ事などはありましたか?

僕は目的があったんで、ないですね。「プロになる」という目的がありましたから。



それに練習をしていく中でだんだん力が、自分に対しての自信がね、「あ、いいパンチあてられた」とか「いいパンチもらった、くそう」と思ってまた練習したりとかするでしょ。



そうすると思い通りの練習ができれば自信がついてくるんですね。その繰り返しだった。ようやくプロテストを受けられるラインになって、会長が、「じゃあそろそろ(プロテストを)受けてみようか」と。そこでプロに受かって、そこからが早かったですね。一気に、今までの思いが一気に噴き出した感じ。定期的に、一ヶ月二ヶ月ペースで試合をしていたこともありますが。

編集 世間的にはその試合間隔は早いペースだと思うのですが(汗)

早いですね、あまり例はないかも。新人王日本チャンピオンを獲りたいから、もう一気に19連勝したからね。その間わずか2年たらずですよ。日本チャンピオンになるまでね。東洋チャンピオンはもうちょい先だけど(1996年3月3日 OPBF東洋太平洋ライト級王座獲得)。2年以内で新人王と日本チャンピオンまで一気に。

編集 2年で!1991年にデビューされて翌92年には東日本ライト級王者、93年には全日本ライト級新人王、全日本新人王決定戦MVPというのは、ご自身でもビックリされたり?

いや「気がついたら」という感じです。だって一瞬一瞬、一戦一戦の積み重ねですから。試合が終われば次へ。新人王戦があって、そして(優勝に)なりました、そしたらまた二ヶ月後に試合、そして勝ってまた二ヶ月後に試合、はい東洋、はい、日本タイトルマッチが決まって試合して勝って、次は防衛戦、と休む暇なく積み重ね。



一ヶ月二ヶ月ペースと先ほど言いましたが、僕からしたら休みがない感覚。試合が終われば、次に向けて、もう、こうやってミット打ちをやって、と。

編集 プロボクサーになられて、試合で勝利を重ねると、回りの見方が変わってきたりして・・・?

そうですね。回りの目も、「あ、ここまでいくようになったか」とか、「なると思ったよ」とか「お前すげえな、早えな」「ちょっと応援いくよ」とか増えましたね。あと「タイトルマッチを見たい」と言ってくださるファンが。



またボクシングマガジンにも取り上げられるじゃないですか、無敗ですから。デビューから12戦無敗のまま日本ライト級王者のリック吉村選手(石川ジム)に挑戦することになって。リック吉村選手は非常に有名な選手で、しかも22回の防衛記録を持っています。



このリック吉村選手に勝って日本チャンピオンになりましたが、当時は「まだ坂本には早いいだろう」っていう空気もありました。リック吉村さんが一番上で、まだ(坂本には)早いだろう、と言われたんだけれども勝ちまして。しかもKOで勝ったものから、防衛戦もファンが「あいつ面白いよ」って他の人も連れてきてくれてくれるようになって、後楽園ホールは常に満員でした。

編集 怒濤の戦績なんですが、この試合に一番思い入れがあるとか、あるいは一戦一戦一生懸命やったとか・・・

そうですね、もう本当に一戦一戦、負けたくない負けたくないって。「負けたらまたあの生活に戻る」とかね、自分に自分との約束というか、線を引いたんです。戻る戻らないは別にしても、「惨めな生活に戻るのは嫌だ、幼少時代に戻るのは嫌だい。負けたらそうなるから、みんな離れていってそうなるから絶対嫌だ」と。



そういう思いがあったから、一戦一戦を僕なりに妥協をせずに練習していって。そして、試合が終わって、勝って、それで「ああ良かった、戻らなくて済んだ」という安心感を持てて。でもそれも本当につかの間で、次の試合が決まるわけですよ。そしてまたジムに練習に来て、そうしたら、気が付いたら新人王になって日本チャンピオンになっていた、という感じでした。



日本チャンピオンになると、次は世界大会、という事になったりもするから、そこでまたフンドシを締め直して・・・だから、終わりはないんです。僕の中で作った目的を果たしても、次の目的が出てくる。それが叶ったら次の夢がある、で、そこでつまずくじゃないですか(1995年5月6日 元WBA世界ジュニアウェルター級王者ファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン)と。10回判定負け)。敗けたらまた悔しいから、またやるんですよ。



そうやって気が付いたら16年です。デビューから2年で日本チャンピオンになって、世界タイトルマッチになって。5年で初挑戦からタイトルマッチまで、そうやって16年。

編集 初めて敗けた時は。

そうですね、敗けたら勿論くやしいですよ。僕、20戦目で初めての敗北を味わったんです。それまでは19戦19勝。20戦目で初めて敗けて・・・「昔のあの惨めな生活に戻るのか」と、自分なりにやってきたことが、敗けたことで小さい頃に戻るのかと。



それは嫌だから、勝ち続けるしかないんだと、自分で思ってきていましたし、それによってファンの応援があったり、施設の子供たちも応援してくれりしてくれてると思っていたんですよね、その頃はね。だから「敗けたらその子たちがみんな僕から引いてしまうんじゃないか」とか思っててね。だから敗けられんと・・・でも、実際に敗けた時、惨めな生活に戻るかっていうと、戻らなかったんですよ。



その理由はというと、そういう子供たちが色んな激励の言葉をくれたからなんです。「兄ちゃん、世界チャンピオンになるってゆうたやん。兄ちゃん諦めるな。絶対に諦めたらダメだ」と、子供たちが書いてくれたんです、手紙に。



僕はその手紙を書いてくれている子が、なぜ児童養護施設で暮らしているかというのを手紙のやりとりをしているから知っていたんです。その状況の中で誰かを応援できるような、誰かを見て感動するとかそういう余裕があるかというと・・・僕も経験があるんで、ね・・・。



でも、その子はそれよりも何というか「生きる気力」って言うのか、そういうのを僕の試合を見て「力が沸く」って言ってくれて。それなのに自分がここで止まっていたら、人生の先輩として申し訳ないなという気持ちになって、だから、また腰をあげて夢に向かって走っていけました。そんな中で勝ったり負けたりの繰り返しだけども、そういう16年間でした。

編集 我々世代が記憶に強い試合に2000年の畑山隆則さんとの世界タイトル戦があります。日本人同士ということでも話題になった記憶が。
※2000年10月11日 WBA世界ライト級王者・畑山隆則(横浜光ジム)に挑戦。

もう19年前になりますね。始めての世界挑戦が1997年ですからね。97、98、そして2000年に2回だから、全部で3年間のあいだに凝縮された世界戦4回と防衛戦もありましたが、確かに日本人同士ということでこの試合は話題になりましたね。



これはもう日本の、日本人同士の世界タイトルマッチで、読者が選ぶ試合になったという。日本人ということだと畑山隆則君や薬師寺保栄さんや辰吉丈一郎さんとか・・・。色んな見方があると思いますが、でもベストの試合は入っていると思います(※畑山選手と坂本選手のタイトルマッチは2000年年間最高試合に選ばれている)。



でも僕は負けた側なので、ベストという訳でもないのですが・・・ただやっぱりそういう敗けた経験があって今がある。だからこそ今の若者たちに教えれることがあるんじゃないかと思います。僕が勝てなかった理由とかボクシングの苦しさや喜びを。そういったことも教えられるので、それを今このジムでやっている訳です。

編集 ちなみにご結婚は・・・?

2001年かな、畑山さんとの試合が終わった後です。もともと世界チャンピオンになってから結婚しようっていう気持ちがあったのですが、それがだんだん現実になっていくじゃないですか。で、30歳になった頃に色々なことを考えて。



昔の言葉に「15にして学に志す、30にして立つ、40して惑わず」(孔子『論語』)とあるなと考えた時に、30にしてちょうど畑山さんと闘ったから、ここで大人になるというか、一家の主じゃないですけど、「共に生きよう」という証で結婚しました。

16年間の現役生活にピリオド、SRSボクシングジムを設立

編集 2007年に現役を引退され2010年に荒川区西日暮里にSRSボクシングジムを設立されましたが、ジム設立は昔から考えておられたのですか?

ジムを作ろうと思うようになったのは引退してからです。



僕は引退してから3年間は角海老ジムでトレーナーをやったんです。その前の現役時代、僕は児童養護施設の子供達の関わりってのは、僕の出身である福岡の和白青松園の子供達との関わりだったんですよ。引退してトレーナーになってからは僕にも時間が出来てくるじゃないですか、日曜祭日とか。だから、引退した年からその休みを利用して全国の施設の子供たちを訪問したんです。



夢を叶えるためにはどうしたらいいか、夢がまだ見つかっていない・わからない子に対しては、どうやったら夢を見つけていけるのかを、その経験者・当事者として、先輩として伝えたくて回り始めようと思って、引退してから全国の施設に行き始めたんです。今まで北は北海道、南は沖縄の児童養護施設を訪問しています。

編集 全国津々浦々ですね!

ちょっと見ますか(と、写真集を見せてくださる坂本さん)。



これは現役時代、児童養護施設の子たちが作ってくれたチャンピオンベルト(の写真)です。僕、全国の施設を回って、準備体操とか色々をするんですが、僕ひとりではできないので、手伝ってくれるみんなと行くんです。僕のジムから生まれたプロ第一号の選手は鹿児島の施設出身で、彼も手伝ってくれます。ただ、こういう活動は、今のジムができる前までは僕の自宅でやっていたんです。で、色々な子供たちと出会っていく中で「ああそうだ、だったら拠点となるジムを作ろう」と。



この全国の児童養護施設の子供たちを訪問する活動の名前が「スカイハイリングス」と言うんです。スカイハイリングス。スカイハイっていうのは高いという意味、リングスは輪です。エス(複数の意味)を付けることで「輪になって、団体になって繋がっていく」という意味を込めました。



荒んだ気持ち、ウジウジした気持ちを空高くぐんと高くあげていこう、そして人間は輪になって生きていくんだ、手と手を結びあって大きな輪にしていこう、という願いをこめて「スカイハイリングス」。この活動を通していろんな子たちをうちのジムで受け入れたい、そうであれば、坂本ボクシングジムとか僕の名前じゃなくて、「スカイハイリングス」のアルファベットをとって「SRS」、これが最善だと。



そうやって9年前にSRSボクシングジムを作りました。この子たちをプロデビューさせるためにもジムをつくってプロ加盟して。そうこうしながら、プロ一号になる子も出て。こうやって、この子たちの笑顔を止めない。続けていく。繋がっていこうという気持ちです。

ジムでの練習風景

不動心をいまも背負う

編集 これもまたボクシングのリングとは違うけど同じ「リング」ですね。

施設に入る子供たちには色々な、様々な理由があります。全国の施設の園長さんの話を聞きますと本当にそうなんです。そういう子供たちに対して「確かに君たちのことを傷つけたのは大人、人かもしれない。けれども、その傷ついた気持ちを受け止めるのも大人、人なんだよ」と。「こういう笑顔を引き出していくのも人なんだ」と、だからリング「ス」だと、みんな繋がっていくんだと、手と手を結びあっていくんだと。そういうことをこの活動の中で、ジムで伝えていけたらなと。この、子供たちの笑顔は、止めない。



子供って、年齢関係なく、想いを込めて言葉に出して相手に伝えることが難しい。我々大人でもそうじゃないですか、意思を相手に伝えるのは難しい。例えば嬉しかったこと、悲しかったこと、怒ったこと・・・そういうのをイチから説明するのってすごく難しいと思うんです。



だから僕は子供たちにはもう一言、「年齢関係なしに、君たちのこれまで生きてきた人生の中で一番嬉しかったことを頭の中で考えてごらん」と聞いています。「嬉しいことなんか無いや」って言われたら、「じゃあ今日おじちゃんと出会ってどうだい?」って聞くと、笑うんですよ。だから「その思い出で良いよ」って。



「ごはんの時に好きなものが出たらちょっと嬉しい、それで良いよ」と。で「一番悲しかったこと辛いこと、忘れたいこと・・・色々なことがあるけど、その思いは説明しないで良いよ」と。それを言う必要はないよ、と。「怒ったことは説明しなくていい。それを拳でめいっぱい打ってくれ」って、するとその子はすっきりした気持ちをした顔になるんです。



そりゃ本当は誰かに伝えたいし、キャッチボールしたいんですよ、言葉に出してね。でも言葉に出さなくてもキャッチボールはできる、その行動で相手に伝えることはできる、と伝えたくて。傷つくのも人だけど、受け止めるのも人なんだよ、と。



自分がされて嫌だったことは人にしない人間になれば、辛い連鎖は自分で止められる。逆にされて嬉しいことは周りにしていこう、と。そうしたらその良い連鎖は止まらない。僕はそういうことをボクシング精神を通して話しています。

編集 子供さんもですが、この活動に関わる子供さんも大人たちも、みんな笑顔になりますね。

そうなんです! 手伝ってくれる人の中には現役時代の時はライバル同士だった人もいます。お互いリングを引退して今は友達として一緒に手伝ってくれます。また、ボクサーだけじゃなくて、僕の周りにいるボクシング以外の方々も手伝ってくださって。



「私に出来ることは何ですか」と芸能人の中川翔子さんなども言ってこられて。だからボクシングが苦手な人のために「じゃあ歌を招待してほしい」と。ザ・ぼんちさんは漫才芸を披露してくださいました。みんな出来る範囲で色々です。腕相撲とかね、抱き締めたりとか、色々です。



最後の時、僕、子供たちが作ってくれたチャンピオンベルトをリングにあげて引退試合したんです。これもこの活動ですね。SRSです。ボクシングセッションですね。言葉で説明することはしなくていい、拳ひとつの想いを相手に伝えるんだ、と。

杉浦貴選手(プロレスリングノア)やS-KEEP PROMOTIONの神谷亨代表なども「輪」に。

幅広い交流もリングスに繋がっています

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