日韓戦とは
古くは1954年の試合から始まっており、2017年12月16日までに78試合が行われ、戦績は日本の14勝、韓国の41勝、23引き分けとなっています。
韓国が圧倒的な強さを見せてますねぇ
しかし、1993年の日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設以降は7勝8敗(10引き分け)となっています。日本サッカーのレベルが格段に向上したことがよく判りますね。
そんな歴史ある日韓戦を、印象的な出来事を中心に振り返ってみたいと思います(^^)/
暗黒の1950年代~1970年代
年齢制限のない、その国最強の代表である男子A代表の試合は、1954年のFIFAワールドカップ予選から始まりました。
1970年代の最後まで数えると、33試合しているのですが、日本は3試合しか勝つことが出来ませんでした・・・
まさに暗黒の時代だったと言えると思います。
1985年 木村和司のフリーキック
1980年代には11試合行われました。
その内、日本が勝利したのは2試合のみ。
まだまだ苦しい時代だったんですねぇ
そんな中、試合に負けはしたものの、今でも往年のサッカーファンには語り草となっている、木村和司さんのフリーキックがありました。
それは1986 FIFAワールドカップ・アジア予選での出来事です。
NHKアナウンサーの山本浩さんの名実況「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」で知られる1985年10月26日の日韓戦です。
試合の前半で既に2点差となり、絶望的な状況で木村和司さんが距離のある位置からフリーキックを蹴ります。すると枠の左上ギリギリを捉え、値千金のゴールを叩き込みました。
このフリーキックには、日本の魂が宿っていたのではないでしょうか?
試合に負けはしましたが、この後日本はサッカーのプロ化に突き進むことになります。
木村和司《プロフィール》
Jリーグが無かった時代、木村さんは日産に所属していました。
木村和司さんのバナナシュートは、当時のサッカー少年達の憧れになったのではないでしょうか?
今では多く見られるシュートかもしれませんが、この時代の出来事としては、やはりセンセーショナルだったと思います。
余談ですが、木村和司さんはピッチの外でも素晴らしい方ですよね!
豪快で人間味があって、皆から愛され尊敬される方だと思います(^^)/
伝説のフリーキック
ここからもまた黒星の連続
1992年の「ダイナスティカップ1992」では韓国に2-2で引き分け、その後のPK戦で勝利するまで、日本はずっと負け続けてしまうんですねぇ・・・
なかなか勝てません。辛い時代が続きました。
しかし、この頃から日本のサッカーに変化が生じてきます。
それが皆さんもご存じのJリーグ発足です。
日本はどんどんサッカーのプロ化を進めていきました。
それに伴い、国内でのサッカー熱が沸き上がり、レベルも上がっていくんですねぇ(^^)/
そして、われらがヒーローが活躍しましたよ!
1993年 カズ率いる日本が韓国に勝利!
1994 FIFAワールドカップ・アジア予選。
ここからです。
ここが起点となって、日本は韓国と渡り合える様になったんだと思うんですよねぇ
この最終予選で日本は、最終戦のイラク戦でロスタイムに同点に追いつかれたために、ワールドカップ初出場を逃した「ドーハの悲劇」はありましたが、キングカズこと三浦知良さんが韓国戦で魂のゴールを決め、ワールドカップ予選で初の対韓国戦での勝利に導きました。
1-0で勝利した日本はこの時点で、首位に立ちますが前述のドーハの悲劇によって初となるワールドカップ出場は逃しました。一方の韓国では、諦めかけていた出場権を獲得したことから半ばあきらめていた本大会進出が思わぬ形で決まったため「ドーハの奇蹟」と呼ばれているそうです。
日本のサッカーにとって余りある収穫のあった1994 FIFAワールドカップ・アジア予選だったと思います。
三浦知良《プロフィール》
この当時の三浦知良さんは、まさに全盛期を極めており、日本を背負って立つサッカー選手だったと思います。
もちろん、今でも三浦知良さんの活躍が支えとなっているファンは大勢居ると思いますねぇ
まだまだ現役続行して頂きたいですね(^^)/