90年代のヤクルト黄金期を守備で支えた「飯田哲也」
1990年、ヤクルトスワローズの監督に野村克也が就任。1992年には14年振りの優勝に導きました。
以降、常勝軍団となっていくヤクルトスワローズですが、外野の守備を支えたのが飯田哲也でした。
俊足を生かした広い守備エリアで、安定した守りを築き、1991年から1997年までゴールデングラブ賞(外野手部門)に輝いた球界屈指の名手として知られています。

1998プロ野球チップス第1弾「飯田哲也」
【ポジション】外野手、二塁手、捕手
【生年月日】1968年5月18日
【身長】173cm
【体重】72kg
【所属球団】ヤクルトスワローズ (1987 - 2004)、東北楽天ゴールデンイーグルス (2005 - 2006)
1993年の日本シリーズ第4戦、飯田哲也のバックホームがヤクルトスワローズを救った!
ヤクルトスワローズ対西武ライオンズという前年と同じ顔合わせとなった1993年の日本シリーズ。ヤクルトスワローズにとっては前年3勝4敗で惜しくも日本一を逃しているので、雪辱戦となりました。
ヤクルトスワローズの2勝一敗で迎えた10月27日の第4戦で、飯田が強肩ぶりを発揮してチームの勝利に繋げた印象的なシーンが生まれました。
試合はヤクルトスワローズ・川崎憲次郎と西武ライオンズ・石井丈裕による投手戦となりました。3回まで0が並ぶ緊迫した試合でしたが、4回に均衡が破れます。レギュラーシーズンで12勝を挙げていた石井からヤクルトが1点を奪い、貴重な先制点を獲得します。
その後、7回まで再び0行進が続くなか、今度は西武ライオンズが逆転のチャンスを得ます。二死一、二塁の場面で鈴木健が打席に立ちます。鈴木は川崎の146Km/hの初球をセンター前へと打ち返し、球場の誰もが西武ライオンズが1点を返すのを確信しました。

1993年、日本一に輝いたヤクルトスワローズ
しかし、前進守備していたセンターの飯田がこのボールに素早く反応し、正確なバックホームを見せ、二塁走者・笘篠誠治を刺す事に成功します。結局、この後も西部ライオンズは得点を奪えず、1-0でヤクルトスワローズが勝利。日本シリーズに王手を掛けました。
この70m近いダイレクトのバックホームで、俊足の笘篠を刺したプレーは飯田の守備力を象徴するシーンとして語り草となっています。また、飯田自身も生涯での守備のベストプレーに挙げています。
90年代ヤクルトを代表する選手のひとり
拓殖大学紅陵高等学校では捕手を務め、3年次には春夏続けて甲子園に出場。俊足と強肩、ホームランを打つなどの打撃力が認められ、1986年 のドラフトでヤクルトに4位指名され、プロ入りを果たしました。
入団後、徐々に出場機会を増やした飯田でしたが、1990年に野村克也監督により外野へとコンバートされます。これが転機となり頭角を現し始めます。

野村克也著書 「ノムダス 勝者の資格」
同年はレギュラー陣の怪我もあり、センターにショート、セカンドとポジションが固定されないシーズンを送りますが、翌年にセンターに固定され、直後から「天職」と呼ばれるほどの巧みな外野守備を見せ、打撃の好調さも手伝って1番打者としてレギュラーを任されました。
以降も27連続盗塁のセリーグ記録を樹立しての盗塁王獲得や勝負強いバッティングを見せるなど、優れた1番打者として、黄金期を迎えるヤクルトにとって欠かせない選手となっていきます。

飯田哲也 直筆サインカード
しかし、脱臼や骨折などを繰り返すようになり、シーズンを通しての活躍を出来ない年が度々続くなど、怪我との闘いを強いられました。それでも高い守備力は健在で、試合終盤の守備固めで出場するなど、「飯田=守備」をより印象付けました。
TBS「スポーツマンNo.1決定戦」で俊足ぶりを披露!
俊足のプレーヤーは数多くいますが、飯田ほど本業以外で目立った選手はそう多くないのではないでしょうか。
90年代のTBS系人気番組「スポーツマンNo.1決定戦」で、飯田は初出場だった第1回でスピード系2種目を含む3種目制覇で総合No.1を獲得。翌年筋肉番付にて行われた、スピードバトルではSHOT-GUN-TOUCHで12m50cmの初代世界記録を樹立するなど、強烈なインパクトを残しています。

スポーツマンのイメージ
同番組の人気種目(コーナー)で「DASH/ダッシュ」という50m走があり、飯田はそこでも活躍します。第1回プロスポーツマン大会のNo.1タイム出叩き出した6秒29は、陸上競技用スパイクを履けば5秒台に相当すると言われ、野球のグラウンドを飛び出してもなおその俊足ぶりを見せつけてくれました。

俊足を活かした走塁も見ものだった!
2006年に楽天で引退
2002年に左ひざ後十字靱帯を故障し、シーズンの大半を棒に振ると、野球協約を超える50%減の年俸5,000万円で契約更改。2004年には出場がわずか3試合と、前年の66試合と比べても激減します。するとチームの構想から外れてしまいます。
そして、指導者の誘いを断り、当時新規参入チームであった東北楽天ゴールデンイーグルスに引退後のコーチ就任を条件として無償トレードで移籍しました。

野村監督のID野球を体現した飯田
2005年の初年度の東北楽天ゴールデンイーグルスは、開幕前からささやかれていた「シーズン100敗」こそ免れたものの、最終成績は38勝97敗1分(勝率.281)と低迷します。
飯田は54試合に出場。規定打席には届かなかったものの331の打率を残しています。
東北楽天ゴールデンイーグルス時代は二軍生活も長かったものの、2006年のシーズン終盤にはここぞの勝負強さを発揮。適時打でチームの勝利に貢献するなど、いぶし銀の働きを見せました。また、経験値の低い若手選手に自身の経験を伝える役割も担うなど、ベテランとして振る舞います。
そして、翌シーズンからヤクルトスワローズ時代の恩師である野村克也が監督を務める事が決定。その野村の勧めもあり、同年限りで引退を決意します。2007年から古巣のヤクルトスワローズの二軍外野守備・走塁コーチに就任しています。
各データ
【タイトル】
盗塁王:1回 (1992年)
【表彰】
ベストナイン:1回 (外野手部門:1992年)
ゴールデングラブ賞:7回 (外野手部門:1991年 - 1997年)
JA全農Go・Go賞:2回 (好走塁賞:1995年4月、強肩賞:1995年9月)
日本シリーズ優秀選手賞:2回 (1992年、1993年)
ゴールデンスピリット賞 (2002年)
【現役時代の背番号】
「58」 (1987年 - 1990年)
「2」 (1991年 - 2006年)