今の日本サッカーはデットマール・クラマーのおかげ!!
日本代表らと・・・
デットマール・クラマー(ドイツ語: Dettmar Cramer, 1925年4月4日 - 2015年9月17日)は、ドイツのドルトムント出身のサッカー選手、サッカー指導者。デトマール・クラマーと表記されることもあった。
クラマーは日本サッカー界初の外国人コーチであり、サッカー日本代表の基礎を作り日本サッカーリーグの創設にも尽力したことから「日本サッカーの父」と称されている。
知っているかな?「日本サッカーの父」呼ばれた日本代表監督を!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
高橋英辰と長沼 健の名称は「サッカー日本代表監督」だったが、実際はデットマール・クラマーが指揮
高橋英辰 元サッカー日本代表監督(1960-1962)
掲額者|日本サッカー殿堂|JFA|日本サッカー協会
高橋英辰は1960年正式に日本代表監督に就任。FIFAワールドカップチリ大会予選、第5回ムルデカ大会、第4回アジア競技大会などを戦い、D.クラマーコーチとともに2年間、東京オリンピックに向けた日本代表の強化に取り組んだ。在任中の通算成績は3勝2分9敗(これは監督だけのせいではないと思うけど・・・??)勝率=21.43%。
[右]長沼 健 元サッカー日本代表監督(1962-1969、1972-1976)と[左]デットマール・クラマー コーチ(1960-1964)
1962年、32歳の若さで日本代表監督に就任。第18回オリンピック競技大会(1964/東京)、同第19回大会(1968/メキシコシティー)に出場し、メキシコオリンピックではチームを3位・銅メダルに導く。技術委員長、専務理事、副会長を経て、1994年会長就任。1996年、FIFAワールドカップ初の共同開催を決定する。1998年FIFAワールドカップフランス大会では、日本代表のワールドカップ初出場を果たす。同時に、2002年FIFAワールドカップの日本招致委員会副会長、日本組織委員会副会長をつとめ、ワールドカップの招致と開催にも尽力。日本代表監督在任中の通算成績は34勝12分27敗(ちょっとはまともな成績になってきたかな・・・??)。勝率=46.58%。
岡野俊一郎 元サッカー日本代表監督(1970-1971)は老舗和菓子店の社長と二足草鞋だった!!
岡野俊一郎 元サッカー日本代表監督(1970-1971)
1953年西独ドルトムント国際大学スポーツ週間(現ユニバーシアード競技大会)代表選手、1955年日本代表選手を経て、1961年日本ユース代表監督に就任。第18回オリンピック競技大会(1964/東京)、同第19回大会(1968/メキシコシティー)ではコーチとして参加し、メキシコ大会では銅メダルを獲得。1970~1971年には日本代表監督をつとめた。在任中の通算成績は11勝2分6敗(一応及第点だと思うけど・・・??)勝率=57.89%。
1965年、日本サッカーリーグの創設に関わり、1993年Jリーグの理事。また、日本サッカー協会では、理事、副会長として2002年FIFAワールドカップ招致に尽力。1998年会長に就任し、大会を成功に導いた。
FIFAでは、ワールドカップ組織委員会委員、オリンピックトーナメント組織委員会委員。また東アジアサッカー連盟初代会長をつとめた。
1975年から日本オリンピック委員会(JOC)、日本体育協会の役員をつとめ、特にJOCでは総務主事としてその独立に力を注ぎ、1989年独立認可と同時に初代専務理事に就任。
1979年国内オリンピック委員会連合(ANOC)理事、1990年国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任している。 1990年 藍綬褒章、NHK放送文化賞、1998年 IOC銀杯、2003年 大韓民国体育青龍章、2004年 旭日中綬章。
サッカー日本代表監督を辞した後、欧州三菱自動車・代表取締役にまで昇り詰めた二宮 寛
二宮 寛 元サッカー日本代表監督(1976-1978)
1976年に日本代表監督に就任。ドイツのクラブでトレーニングさせて選手個人のレベルアップを図るなど、先進的な思考と行動力で新しいアイデアを実践した。プロフェッショナルな厳しさと代表としての矜持が持てるような待遇改善などにも尽力して、日本代表の価値を高めた。日本代表監督在任中の通算成績は6勝6分15敗(1977年、釜本の代表チームからの引退、10月には期待の若手FW奥寺が西ドイツの1FCケルン[皮肉な事に同チームの監督は二宮自身が師事していたバイスバイラーだった]への移籍が決まってしまい、慢性的な得点力不足だったのだ)。勝率=22.22%。
サッカー指導者を退いてからは、三菱自動車に移籍し、後に欧州三菱社長にも就任する。持ち前のインテリジェンスで国際派ビジネスマンとして主に欧州を股にかけ活躍した。
被爆者というハンディーにもめげず、GKから日本代表監督になった下村幸男
下村幸男 元サッカー日本代表監督(1979-1980)
日本サッカーリーグ(JSL)が創設された1965年に東洋の監督に就任。小城得達、松本育夫など多くの俊英を集め、攻守にわたる組織的なプレーでチーム力を安定させた。「第3の動き」と呼ばれるコンビネーションプレーを叩き込むなど優れた手腕を発揮し、JSL初年度から4連覇を達成。Jリーグまで続く日本のトップリーグで4年連続優勝はこの時の東洋のみである。1970年度にも5回目のリーグ優勝を果たし、天皇杯も3回優勝するなど功績を残した。70年のJSL優勝の時は歴代最少の14試合でわずか5失点という強固なディフェンスをつくり上げた。
1979年、メキシコ五輪の偉業から既に10年が経過しJSLも低迷、銅メダルメンバーは引退し若いタレントも少ない時代、前年のアジア大会惨敗の後を受け技術委員会の投票で、ゴールキーパー出身として初の日本代表監督に就任。翌年に迫ったモスクワ五輪まで間が無く短期間で結果が出せる、という評価での抜擢だった。しかし打倒韓国を掲げ戦うも敗れて僅か1年で辞任した。メキシコ五輪メンバーが、一握りの選手で長期強化を図り結果を出したが、この時代は非常に選手層が薄く空白期となってしまった。若いタレントが少なかったとは言え、木村和司や川勝良一らを代表に初抜擢した。日本代表監督在任中の通算成績は8勝4分2敗(銅メダルメンバーは引退し若いタレントも少ない時代でよく頑張ったと思う)。勝率=57.14%。
代表監督就任から5か月で病に倒れた”闘将”渡部正
渡辺 正 元サッカー日本代表監督(1980)
渡辺 正は1968年に八幡製鐵コーチ、1969~75年には監督をつとめる(1971年まで選手兼任)。1971年からは、日本代表Bチーム、日本ユース代表(1973年第15回アジアユース大会準優勝)、日本ジュニア代表、日本選抜などの監督を歴任。1979年、下村監督のもと日本代表コーチをつとめ、翌1980年5月、代表の再建を目指して日本代表監督に就任。しかしながら同年秋、病にたおれ、志半ばで監督を退いた。
日本代表監督在任中の通算成績は2勝0分1敗(道半ばで交代を余儀なくされ、さぞかし悔しかっただろうと思ってしまうのは私だけかな・・・??)。勝率=66.67%。
Jリーグ初代チェアマンと言った方が知られている川淵三郎
川淵三郎 元サッカー日本代表監督(1980-1981)
会長退任後は日本サッカー協会の名誉職を歴任しており、名誉会長を経て、2012年6月より最高顧問、日本トップリーグ連携機構代表理事会長。2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会評議員会議長。国際バスケットボール連盟JAPAN 2024 TASKFORCEチェアマン。日本バスケットボール協会エグゼクティブアドバイザー。元公立大学法人首都大学東京理事長。実業界では、古河グループの古河産業の取締役を務めた。