「浦和レッズ生みの親」と称されている森 孝慈
森 孝慈 元サッカー日本代表監督(1981-1985)
1980年10月、渡辺正日本代表監督が病気で倒れたため、予定より早く同年11月、川淵三郎監督下でコーチに就任した。川淵は強化部長兼任で名目上の監督、事実上チームの指揮は森が担った。1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選の敗退で、翌1981年4月からは川淵の後を受け日本代表監督に就任、アマからプロへの端境期だった1980年代に一時代を築く。1985年、FIFAワールドカップメキシコ大会アジア予選最終戦では惜しくもワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが、韓国に敗れ本大会出場を逃した責任を取り代表監督を辞すが、着実に日本の競技力を引き上げ、進むべき道を示した。日本代表監督在任中の通算成績は22勝5分16敗(随分まともな成績になっていますね・・・??)。勝率=51.16%。
1992~93年浦和レッズ監督、1995~97年横浜マリノスGM、1998年アビスパ福岡監督、1999~2001年同GM、2001~06年浦和レッズGM。
フジタ工業を栃木県4部リーグから僅か4年でJSL1部に昇格させる離れ業を実現させた石井 義信
石井 義信 元サッカー日本代表監督(1986-1987)
フジタでの手腕を買われ、1986年日本代表監督に抜擢される。異例の抜擢だったため当初は固辞していたものの、岡野俊一郎から熱心に口説かれたのだという。1987年、ソウル五輪・最終予選に進出するも、中国に1勝1敗ながら得失点差で予選通過ならず。オリンピック本大会には攻撃的なチームで臨む構想を持っていたものの、急遽の監督就任で石井には十分なチーム作りの時間が無かったことや予選突破のための信念から、当時日本最高のプレイヤーと言われた木村を外して、守備的で面白くないサッカーをやった上での敗退には大きな批判を浴びて、大会終了後に代表監督を辞任した。日本代表監督在任中の通算成績は11勝2分4敗(もしJリーグのチームの監督に就任していたら、今よりもっと名を馳せていたに違いない・・・??)。勝率=64.71%。
ファンによる解任署名運動も起こってしまった不運の監督!!
横山 謙三 元サッカー日本代表監督(1988-1991)
1976年から三菱重工の監督に就任、1978年には日本サッカーリーグ、JSLカップ、天皇杯と当時の3冠を全て制覇した。
1988年からは日本代表の監督に就任。当時の世界最先端である3-5-2システムを採用し、ウイングバック(両サイドのMF)を攻撃の基点とする戦術を採ったが、ワールドカップイタリア大会アジア予選は1次予選敗退という結果となった。前回大会を下回る結果にサッカーファンの不満が高まり、ファンによる解任署名運動やスタジアムにおける解任を要求する横断幕の掲示が行われたが、その地位に留まり続けた。その後、総監督としてU-23代表を率い1992年3月のバルセロナ五輪アジア最終予選に挑むが惨敗を喫し、遂に辞任する結果となった。
この前の森監督時代はW杯予選決勝進出、石井監督時代は五輪出場まであと1勝と迫っていただけに、W杯アジア地区予選の1次予選であっさり敗退してしまったことに、結果として逆行しており、ファンを失望・落胆・激怒させたのも無理はなかった。日本代表監督在任中の通算成績は5勝7分12敗(数字的に見てもやはり酷いものです!!)。勝率=20.83%。
ご存知、ドーハの悲劇の指揮官、ハンス・オフト 元サッカー日本代表監督!!
ハンス・オフト 元サッカー日本代表監督(1992-1993)
そうした実績が評価され、1992年3月、「日本をワールドカップに出場させること」を目標に掲げ、日本代表監督に就任。「アイコンタクト」「トライアングル」「コンパクト」などの言葉を用いて、現代サッカーに必要な基礎技術を徹底、代表のみならず日本サッカー界に広く浸透させ、日本のスタイルの礎を築いた。同年8月には、第2回AFCダイナスティカップで優勝し、1930年極東選手権以来の公式国際大会タイトルを獲得。続く10月には、第10回AFCアジアカップ(広島)で優勝、日本代表チームを、悲願であった初のアジア王者へと導いた。翌1993年10月のワールドカップアジア最終予選では惜しくも初の本大会出場を逃した(ドーハの悲劇)が、初の外国人監督(実際は2人目)として、1年半足らずで、選手の力を最大限に引き出し、代表チームを確実にレベルアップさせた。それまで日本が乗り越えられなかったアジアの壁を打破し、日本をアジアの強国に押し上げ、その地位を強固なものにした功績は計り知れない。日本代表監督在任中の通算成績は17勝6分4敗(オフトマジックを数字的に表すとこうなるんですね・・・??)。勝率=62.96%。
理想と現実のギャップを埋められなかったパウロ・ロベルト・ファルカン
パウロ・ロベルト・ファルカン 元サッカー日本代表監督(1994)
オフト監督の次に代表監督になったファルカンは数年後を睨み、オランダ2部SBVエクセルシオールから帰国した小倉隆史や前園真聖ら多くの若手選手を代表に抜擢するも、前任代表監督であるハンス・オフトの細かい戦術的指揮から、ほぼ選手の自主性に任せたファルカンの指導法に選手らが戸惑い、「オフトと違う」と監督としてのファルカンを疑問視する声が出始めた。
そして、就任直後のキリン杯においてフランス代表に惨敗、広島で行われたアジア大会準々決勝で韓国代表に敗れると、これらの責任を問われ解任された。敗戦後に会場を去るとき、サポーターの一人に「ブラジルに帰れ。二度と来るな」と叫びながら空き缶を投げられるも、「日本にも一人だけ本物のサポーターがいたな」と話したそうだ。代表監督としてはわずか7カ月あまりとかなり短い期間でした。日本代表監督在任中の通算成績は3勝4分2敗(ブラジルみたいな個人技は日本にはないもんな・・・??)。勝率=33.33%。
日本人としては初となる「プロ」サッカー監督になった加茂 周
加茂 周 元サッカー日本代表監督(1994-1997)
日本代表監督には、いくつものクラブチームで好成績を残していた加茂周に白羽の矢が立ち、ファルカン氏の解任後、12月に代表監督に就任し、次のワールドカップ予選を戦うチーム作りを担っていましたが、1997年に開催されたFIFAワールドカップ・アジア予選での成績が芳しくなく、現地で解任される異例の事態となった。ホームゲームの日韓戦で1-2の逆転負けを喫してしまい、一騎に加茂批判の声が高まったのが主な原因!!。とにかく古今東西、日本も韓国も日韓戦が監督の命を左右するのだ!!。日本代表監督在任中の通算成績は24勝8分14敗(日韓戦で勝っていれば、他の3試合に負けても良い位だったもんな・・・??)。勝率=52.17%。