あなたは何人、歴代の「サッカー日本代表監督」を覚えているかな??②【1980年代前半~1990年代後半】

あなたは何人、歴代の「サッカー日本代表監督」を覚えているかな??②【1980年代前半~1990年代後半】

「あなたは何人、歴代の「サッカー日本代表監督」を覚えているかな??①【1960年代~1980年代初期】」の続編です。若い読者の方には、そろそろ見覚えのある歴代監督たちが登場してくると思われますので、こうご期待下さい。


「浦和レッズ生みの親」と称されている森 孝慈

森 孝慈(もり たかじ、1943年11月24日 - 2011年7月17日)は、広島県福山市出身のサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF。サッカー日本代表として56試合に出場し、1968年のメキシコシティオリンピックで銅メダルの獲得に寄与した。

広島・修道高校、早稲田大学を経て三菱重工入り。知的なプレーぶりは指導者向きと、長沼健ら日本サッカー協会(JFA)幹部から早くから見込まれ、現役引退後はJFAの指導者としてエリートコースを歩むことになる。

森 孝慈 元サッカー日本代表監督(1981-1985)

1980年10月、渡辺正日本代表監督が病気で倒れたため、予定より早く同年11月、川淵三郎監督下でコーチに就任した。川淵は強化部長兼任で名目上の監督、事実上チームの指揮は森が担った。1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選の敗退で、翌1981年4月からは川淵の後を受け日本代表監督に就任、アマからプロへの端境期だった1980年代に一時代を築く。1985年、FIFAワールドカップメキシコ大会アジア予選最終戦では惜しくもワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが、韓国に敗れ本大会出場を逃した責任を取り代表監督を辞すが、着実に日本の競技力を引き上げ、進むべき道を示した。日本代表監督在任中の通算成績は22勝5分16敗(随分まともな成績になっていますね・・・??)。勝率=51.16%。

1992~93年浦和レッズ監督、1995~97年横浜マリノスGM、1998年アビスパ福岡監督、1999~2001年同GM、2001~06年浦和レッズGM。

フジタ工業を栃木県4部リーグから僅か4年でJSL1部に昇格させる離れ業を実現させた石井 義信

石井 義信(いしい よしのぶ、1939年3月13日 - )は広島県福山市出身の元日本代表サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはMF。元フジタ工業(旧、藤和不動産/現、湘南ベルマーレ)監督、元日本代表監督。2001年よりFC東京アドバイザー。
1975年、元フジタ工業(旧、藤和不動産/現、湘南ベルマーレ)の監督を引き受け、栃木県4部リーグのスタートから僅か4年でJSL1部に昇格させ、1977年シーズンを史上最多得点(64得点)でJSL1部を初制覇すると1979年も優勝。1977年と1979年には天皇杯も2度制覇した。

石井 義信 元サッカー日本代表監督(1986-1987)

フジタでの手腕を買われ、1986年日本代表監督に抜擢される。異例の抜擢だったため当初は固辞していたものの、岡野俊一郎から熱心に口説かれたのだという。1987年、ソウル五輪・最終予選に進出するも、中国に1勝1敗ながら得失点差で予選通過ならず。オリンピック本大会には攻撃的なチームで臨む構想を持っていたものの、急遽の監督就任で石井には十分なチーム作りの時間が無かったことや予選突破のための信念から、当時日本最高のプレイヤーと言われた木村を外して、守備的で面白くないサッカーをやった上での敗退には大きな批判を浴びて、大会終了後に代表監督を辞任した。日本代表監督在任中の通算成績は11勝2分4敗(もしJリーグのチームの監督に就任していたら、今よりもっと名を馳せていたに違いない・・・??)。勝率=64.71%。

ファンによる解任署名運動も起こってしまった不運の監督!!

横山 謙三(よこやま けんぞう、1943年1月21日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはGK。現日本オリンピアンズ協会理事。埼玉県立川口高校、立教大学を経て三菱重工入り。終始安定したセービングと分析力でゴールを守り、東京オリンピックのベスト8、メキシコオリンピックの銅メダル獲得に貢献。

横山 謙三 元サッカー日本代表監督(1988-1991)

1976年から三菱重工の監督に就任、1978年には日本サッカーリーグ、JSLカップ、天皇杯と当時の3冠を全て制覇した。
1988年からは日本代表の監督に就任。当時の世界最先端である3-5-2システムを採用し、ウイングバック(両サイドのMF)を攻撃の基点とする戦術を採ったが、ワールドカップイタリア大会アジア予選は1次予選敗退という結果となった。前回大会を下回る結果にサッカーファンの不満が高まり、ファンによる解任署名運動やスタジアムにおける解任を要求する横断幕の掲示が行われたが、その地位に留まり続けた。その後、総監督としてU-23代表を率い1992年3月のバルセロナ五輪アジア最終予選に挑むが惨敗を喫し、遂に辞任する結果となった。
この前の森監督時代はW杯予選決勝進出、石井監督時代は五輪出場まであと1勝と迫っていただけに、W杯アジア地区予選の1次予選であっさり敗退してしまったことに、結果として逆行しており、ファンを失望・落胆・激怒させたのも無理はなかった。日本代表監督在任中の通算成績は5勝7分12敗(数字的に見てもやはり酷いものです!!)。勝率=20.83%。

ご存知、ドーハの悲劇の指揮官、ハンス・オフト 元サッカー日本代表監督!!

ハンス(Hans)の愛称で知られるマリウス・ヨハン・オフト(Marius Johan Ooft、1947年6月27日 - )は、オランダ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはFW。ドーハの悲劇時の日本代表監督。
オランダ協会の育成部門でユース年代の指導や指導者養成にあたっていた1980年、ヨーロッパに遠征中の高校日本選抜チームを指導したことが縁となり、1982年7-8月にヤマハ発動機のコーチとして来日。短期間でチームの再建を図り、ヤマハを、日本サッカーリーグ2部優勝、1部復帰とともに天皇杯初優勝に導いた。1984-88年には、マツダを率いてJSL1部昇格、天皇杯準優勝の結果を残した。

ハンス・オフト 元サッカー日本代表監督(1992-1993)

そうした実績が評価され、1992年3月、「日本をワールドカップに出場させること」を目標に掲げ、日本代表監督に就任。「アイコンタクト」「トライアングル」「コンパクト」などの言葉を用いて、現代サッカーに必要な基礎技術を徹底、代表のみならず日本サッカー界に広く浸透させ、日本のスタイルの礎を築いた。同年8月には、第2回AFCダイナスティカップで優勝し、1930年極東選手権以来の公式国際大会タイトルを獲得。続く10月には、第10回AFCアジアカップ(広島)で優勝、日本代表チームを、悲願であった初のアジア王者へと導いた。翌1993年10月のワールドカップアジア最終予選では惜しくも初の本大会出場を逃した(ドーハの悲劇)が、初の外国人監督(実際は2人目)として、1年半足らずで、選手の力を最大限に引き出し、代表チームを確実にレベルアップさせた。それまで日本が乗り越えられなかったアジアの壁を打破し、日本をアジアの強国に押し上げ、その地位を強固なものにした功績は計り知れない。日本代表監督在任中の通算成績は17勝6分4敗(オフトマジックを数字的に表すとこうなるんですね・・・??)。勝率=62.96%。

理想と現実のギャップを埋められなかったパウロ・ロベルト・ファルカン

パウロ・ロベルト・ファルカン(Paulo Roberto Falcão、1953年10月16日 - )は、ブラジル・サンタカタリーナ州出身で、元同国代表のプロサッカー選手、サッカー指導者。元日本代表監督。現役時代のポジションはMF。1970年代後半から1980年代中期のブラジルを代表するボランチ。下がり目の位置から放つ正確なロングパスを駆使して中盤を操り、機を見て前方へ進出しミドルシュートを放つ、またトリッキーなパスを使って攻撃に変化を与えることを得意とした。ブラジル代表では1976年に代表デビューを飾り、当初は攻撃的MFとしてプレーしていたため、ジーコの控えであったが、1982年ワールドカップでは、ボランチとしてジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾとともに黄金のカルテットを形成した。

パウロ・ロベルト・ファルカン 元サッカー日本代表監督(1994)

オフト監督の次に代表監督になったファルカンは数年後を睨み、オランダ2部SBVエクセルシオールから帰国した小倉隆史や前園真聖ら多くの若手選手を代表に抜擢するも、前任代表監督であるハンス・オフトの細かい戦術的指揮から、ほぼ選手の自主性に任せたファルカンの指導法に選手らが戸惑い、「オフトと違う」と監督としてのファルカンを疑問視する声が出始めた。
そして、就任直後のキリン杯においてフランス代表に惨敗、広島で行われたアジア大会準々決勝で韓国代表に敗れると、これらの責任を問われ解任された。敗戦後に会場を去るとき、サポーターの一人に「ブラジルに帰れ。二度と来るな」と叫びながら空き缶を投げられるも、「日本にも一人だけ本物のサポーターがいたな」と話したそうだ。代表監督としてはわずか7カ月あまりとかなり短い期間でした。日本代表監督在任中の通算成績は3勝4分2敗(ブラジルみたいな個人技は日本にはないもんな・・・??)。勝率=33.33%。

日本人としては初となる「プロ」サッカー監督になった加茂 周

加茂 周(かも しゅう、1939年10月29日 - )は、兵庫県芦屋市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、元サッカー日本代表監督。
兵庫県立芦屋高校でサッカーを始め、関西学院大学を経て、ヤンマーディーゼルに入社。1967年に同部のコーチとなり、1969年に日本で開催された「第1回FIFAコーチングスクール」を受講。スクールマスターだったデットマール・クラマーの薫陶を受け、プロコーチになることを志す。
1974年に当時、神奈川県リーグだった日産自動車(現・横浜F・マリノス)の監督に就任。その後、チームを日本サッカーリーグ(JSL)1部に昇格させると、1983年度の天皇杯全日本選手権で初優勝。1988/89年シーズンには、JSL、JSLカップ、天皇杯優勝の三冠を達成した。また、マネジメント専門家の養成、選手のプロ化(契約選手化)の促進、ワールドクラスの選手の獲得など、チームマネジメントの面でも手腕を発揮し、チームの環境改善に努めた。

加茂 周 元サッカー日本代表監督(1994-1997)

日本代表監督には、いくつものクラブチームで好成績を残していた加茂周に白羽の矢が立ち、ファルカン氏の解任後、12月に代表監督に就任し、次のワールドカップ予選を戦うチーム作りを担っていましたが、1997年に開催されたFIFAワールドカップ・アジア予選での成績が芳しくなく、現地で解任される異例の事態となった。ホームゲームの日韓戦で1-2の逆転負けを喫してしまい、一騎に加茂批判の声が高まったのが主な原因!!。とにかく古今東西、日本も韓国も日韓戦が監督の命を左右するのだ!!。日本代表監督在任中の通算成績は24勝8分14敗(日韓戦で勝っていれば、他の3試合に負けても良い位だったもんな・・・??)。勝率=52.17%。

あえて「火中の栗を拾う」勝負師の才覚に恵まれた岡田 武史

岡田 武史(おかだ たけし、1956年8月25日 - )は日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現在はFC今治運営会社「株式会社今治.夢スポーツ」代表取締役、日本エンタープライズの社外取締役、城西国際大学特任教授、日本サッカー協会参与(名誉役員)。選手時代のポジションはDF。
古河電気工業サッカー部(現・ジェフユナイテッド千葉)でプレーし、サッカー日本代表として国際Aマッチ24試合に出場。現役引退後は指導者の道に進んだ。

岡田 武史 元サッカー日本代表監督(1997-1998、2007-2010)

岡田の一大転機は日本代表チームコーチとして勤しんでいた1997年10月、フランスW杯最終予選にて代表チームがアジア予選で敗退濃厚の窮地に陥り、加茂周の更迭に伴って監督に昇格。当初は「急場凌ぎ」との見方が大勢を占めていたが、加茂によって代表から外されていた中山雅史らをチームに再招集するなどのテコ入れも功を奏し、日本代表は息を吹き返す。この頃はW杯アジア枠は3.5だったが、最終的にはイラン代表との第3代表決定戦の末、予選を突破し土壇場から日本代表初の本選出場を果たした。これを『ジョホールバルの歓喜』と呼んでいる。この歴史的な結果を受け、本選に向けての正式に監督に任命される。日本代表を初のFIFAワールドカップ出場に導き、1998 FIFAワールドカップ本大会でも指揮を執った。1998年の本選直前に不振だった三浦知良や北澤豪をメンバーから外した事で、当時その是非がマスメディアやサッカーファンや世論の間で議論を呼んだ。日本代表監督在任中の通算成績は7勝4分6敗(急拵えだった割には良い方じゃない・・・??)。勝率=41.18%。
ちなみに、2007-2010にも日本代表監督でしたが、その時の通算成績は26勝12分12敗(チームの育成が順調に続いたようだ)。勝率=52.00%

"迷言"の量が半端なく多く、マスコミや関係者からは悪い噂もあり、評価が分かれるフィリップ・トルシエ

フィリップ・トルシエ(Philippe Troussier、1955年3月21日 - )はフランス出身のサッカー指導者、サッカー選手。本名・ムスリム名:オマル・トルシエ(Omar Troussier)、旧名:フィリップ=ベルナール・ヴィクトル・トルシエ(Philippe-Bernard Victor Troussier)。
フランス・パリで6人兄弟の長男として生まれたフィリップ・トルシエは、1983年に28歳でサッカー選手としての現役を引退。翌年からは、U-15フランス代表の監督を務め、指導者としての道を歩み始める。その後、各国のクラブチームや代表監督を経て、1998年フランスW杯後、日本代表監督に就任した。

フィリップ・トルシエ 元サッカー日本代表監督(1998-2002)

岡田武史が退任した後、次のワールドカップを目指して白羽の矢が立てられたのが、アフリカのナショナルチームで好成績を残していたフィリップ・トルシエだった。
このころの日本代表は、初めてW杯に出場し、若い世代には中田英寿、小野伸二など将来有望なメンバーが揃っていた。それに加え、2002年W杯の日韓共催が決まっている状況は、トルシエジャパンへの期待を大きく膨らませた。
代表監督以外にも、U-20と五輪代表の監督も務めており、ワールドユースで準優勝を収め、シドニー五輪では32年ぶりとなる決勝トーナメント進出を果たした。
そして迎えた日韓W杯では、2勝1引き分けで初の決勝トーナメントへと導き、フランスW杯の3戦3敗から大きな飛躍を遂げた。

また、彼はユーモアのセンス、勤勉さ、そして口の悪さには定評があり、歯に衣着せぬ物言いから、協会や選手と確執が生まれることも多かった。そのせいであろうか、悪い噂が絶えなかったが、四六時中サッカーのことばかり考えている無頼の「サッカーおたく」という面も持ち合わせていたことで、日本サッカーと世界との距離を縮めた功労者として、評価してる人も多い。

トルシエ元サッカー日本代表監督といえば数々の名言・迷言

・私たちは組織で戦っている。応用は許すが、原点を忘れることは許さない。
・3人の個性派に、8人の明神がいればチームは出来る。
・私は、監督が60%以上の勝利に対する責任を負っていると思っています。まず人間を選び、そして戦術を選び、コーチングをする。
・日本には守りの文化がない。
・スター気取りになってはいけない。でないと、城や前園のように地獄に落ちることになる。
・負けは認めなくてはいけない。それでも自分たちのサッカーを信じ、自分たちの哲学を貫き通したことに誇りを持ちたい。
・組織プレーが60%以上を占めるサッカーでは互いのコミュニケーションが大事。だからこそ彼らに自己表現を求めた。
・赤信号でも車が来ないと分かっているなら渡ってしまえ。信号を守るのは身の安全を確保するためであって、規則を守ること自体が目的ではないはずだ。
・特に最近気づいて驚いているのは、ほとんどのスポーツ新聞の一面は一緒だということ。
・哲学が一致しないなら、胸を張って日本を去る。
・彼ら(マスコミ)は監督というものが、魔術師か何かだと思っているようだ。
・日本人がサッカーの観戦後、ビールを飲みながら飲み屋でその試合を振り返るような雰囲気を作れたとき、初めてサッカーは国民の間に浸透したことになるだろう。
・うまい選手を選ぶだけなら、私でなくてもできる。ジャーナリストでも、ファンでも、街の誰かでもできる。
・以前は私も選手の部屋でポルノ映画を一緒に見ていたが、今は自由に見てもらっている。ふたりだと危険なので、3人で見てもらっているが。
・試合後は誰でも監督になってあれこれ言える。しかし試合前の決断を下すのは監督である私ひとりだけだ。
・サッカーで起きることは、予想できないし、論理的解説もできない。しかし唯一、監督だけがこれを予想し、自分の読み通りになったときは、一瞬天才ではないかと思える。
・選手と、協会と、メディアと…日本とフランス異なる価値観の衝突が、日本代表をどんどん強くした。それはサッカーが、機械やロボットではなく、まさしく人間のスポーツだから。
・私はみんなと仲良く、みんなと仲が悪かった。監督の仕事は選手から好かれることではない。常に殴り合いをしながら前進する感じだった。
・あれは新聞が書いた「連載恋愛小説」。どんな選手でも問題があればメンバーから外しベンチに置く。それで嫌いということになるのかい?
・レギュラーは一人もいない。強いていえば、私だけだ。
・中田(ヒデ)は携帯電話のCMに出てるけど、30回かけても全然つながらない。
・おまえはパリの街をなめてるのか!(フランス遠征の時、ジャージ姿で外出しようとした中村俊輔を呼び止めて)
・彼は1230年代に生まれて、ずっと冷凍保存されて、ある日突然見つけられた。だからまだ現代文明のコミュニケーションに慣れていない。(なかなか代表チームに打ち解けない久保竜彦について)
・ナカムラがいるとベンチが暗くなるから。(2002年のワールドカップで日本代表メンバーから中村俊輔を外した理由を聞かれて)
・足を手術しろ。(ボールコントロールに不安のあった中澤に対して)
・(鈴木の)目を見て決めた。(コンフェデレーションズカップのカメルーン戦で鈴木隆行を初スタメンに抜擢した理由を聞かれて。鈴木はこの試合で2ゴールを決めた)
・ここパラグアイは美人も多いので、柳沢を呼んでいたら大変なことになっていたと思う。呼ばなかったことは良かったかもしれない。(1999年にパラグアイで行われたコパアメリカ出場時に)

今でもクスッとくる言葉である。まさにフランス流のブラック・ジョーク!!

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