ヴァヒド・ハリルホジッチ(Vahid Halilhodžić)
昨日(2018年4月9日)、サッカー日本代表監督だったハリルホジッチ氏が電撃的にその職を解任された。日本サッカー協会はハリル本人とは極秘裏に交渉をしていたのだろうが、ついに昨日協会側の発表となり、日本国民全員が知るところとなった。W杯わずか2ヶ月前ということで特にサッカーファンには衝撃が走ったに違いない。私なんかやっとこの頃になって”ハリルホジッチ”という名前を噛まないで言えるようになったのに・・・!!。
ちなみに初めてこの人の名前を聞いた時、「ハナヲホジッチ(鼻をほじっち)」に聞こえてしまい、”にやり”としたことがある!!。
実は私も「サッカー少年」でした!!
秩父宮ラグビー場
1964年の東京オリンピック時にはサッカーはまだまだ日本ではマイナー競技でしたが、確実に人気は上昇傾向にあった。当時マスコミでもそんなに大きく報道しなかったが、日本代表がアルゼンチンを破って準々決勝に進出する健闘を見せたこともあって、その後の日本におけるサッカーの普及発展につながっていくことになった。1968年のメキシコ大会には東京オリンピック出場のメンバーが中心で出場し、見事に銅メダルを獲得している。その頃はそんな日本サッカー界に2人のスーパースターが君臨していた。MF杉山隆一とFW釜本邦茂である。
杉山隆一
釜本邦茂
私がサッカーをやろうとした理由は、勿論釜本や杉山の影響も大きかったことは事実であるが、当時一番人気だった”野球”がへただったことと、サッカーだったら玉も大きいし、野球と違い、手を使わないから”楽”なように見えたためだった(大体、動機は不純でした!!)。
ただ、動機は不純だったかもしれないが、中学以降は”サッカー漬け”の毎日を送るようになり、自分なりに充実した中高6年間を過ごしたのではないかと思っている。
キャプテン翼の必勝!サッカー (満点ゲットSPORTS)
だいぶ話がそれたので元に戻そう!!
「ウルトラの父」がいるように「日本サッカーの父」もいる!!
「日本サッカーの父」ことデットマール・クラマー元日本代表監督
1960年、クラマーは1964年東京オリンピックを控えたサッカー日本代表を指導するため、その代行監督として招聘された。日本サッカー協会は代表強化のために初めて外国人監督を招いた。
クラマーも、自ら手本となるプレーを見せて実技指導を行った。初歩的な練習の繰り返しに対しては批判もあったが、方針を変えることはなかったという。当時のクラマーの教え子に釜本邦茂、杉山隆一らがいた。
当時日本では知られておらず、専用の道具もなかったテーピングを岡野が入手した大きな絆創膏を代用して行ったり、自ら選手用の薬を調合することまでしていた。練習は厳しかったが選手を大事にしていたことから、選手達はクラマーに心酔していた。
1.強いチーム同士が戦うリーグ戦創設。
2.コーチ制度の確立。
3.芝生のグラウンドを数多く作り、維持すること。
4.国際試合の経験を数多く積むこと。代表チームは1年に1回は欧州遠征を行い、強豪と対戦すること。
5.高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。
クラマーのこれらの提言は、1965年の日本サッカーリーグ発足など長沼健らによって全て実行に移された。クラマーはその後も釜本のドイツ留学を実現させるなど、日本のサッカーに貢献した。そのクラマーの指導を受けた選手・コーチを中心に構成された長沼健監督率いる日本代表は、メキシコオリンピックで銅メダルを獲得した。
1975年から1976年、クラマーはFCバイエルン・ミュンヘンを率いてUEFAチャンピオンズカップで優勝した。その際、人生最高の瞬間ではないかと問われたものの、「最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときです。私は、あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがなかったのです。」と答えた。