スイス 日本に似てる?日本より進んでる!?
アンディ・フグが生まれたスイスは、ヨーロッパのほぼ中心に位置し、ドイツ,フランス,イタリア,オーストリア,リヒテンシュタインに囲まれた九州と同じくらいの大きさの小国。
人口は約804万人。
首都のベルンは旧市街全体が世界遺産になっている他、チューリッヒ、ジュネーヴ,ローザンヌなど世界的に有名な都市がたくさんある。
マッターホルンをはじめ、国土の7割を「ヨーロッパの屋根」、アルプス山脈が占めている。
連なる美しい山でのスキーやドライブ、ハイキングはスイスならではの魅力のひとつ。
またアニメ「ハイジ」の舞台もスイスのアルプスの山村で、アニメのなかで登場するチーズフォンデュやラクレットなどのチーズ料理は実際に人気がある。
また「ミルクチョコレート」も19世紀にスイス人によって発明された。
世界最大の時計生産国で多くのトップブランドがあり、チューリッヒ,ジュネーヴに次ぐ第3の都市:バーゼルでは,年に1度、世界最大の時計・宝飾品の国際見本市が開かれている。
時計の他にも、精密機器や産業用機械,製薬,化学等の多くの分野において非常に高い技術水準を有している。
ノーベル賞受賞者は、赤十字社を創立したアンリ・デュナンをはじめ27名で人口当たりのノーベル賞受賞者数は世界トップクラス。
芸術の分野でも、ルツェルン音楽祭,モントルー・ジャズフェスティバル、ロカルノ国際映画祭,ローザンヌ国際バレエコンクールなど,毎年数多くの国際的なイベントが開催されている。
スイスは永世中立国であり、国際人道主義発祥の地であり、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)や世界貿易機関(WTO)など,多くの国際機関がスイスに本部を置いている。
また国際オリンピック委員会(IOC)や国際サッカー連盟(FIFA),国際バレーボール連盟(FIVB),国際アイスホッケー連盟(IIHF)など多くのスポーツ関連団体の本拠地にもなっている。
これは中立国であるため,テロや紛争によってその機能が停滞する危険性が少なく、ホスト国としての中立と公正を保つことができるからである。
ヨーロッパにおいて非EU加盟国ということからも国際社会において独自の存在感を発揮している。

国内の政治は、国民が代表者などを介さず、共同体の意思決定に直接参加し、その意思を反映させる直接民主制で、日本などの代表民主主義と違って、国民が直接、権力を行使し、政治決定に関わることができる。
有権者は一定数の署名を集めれば国レベルの国民投票を要求できる。
近年、世界中で選挙で選出された議員に政治を任せるのではなく、自分で直接政治に参加したい人が増え、スイスを羨望のまなざしで見つめている。
スイスの歴史の影 傭兵

資源が少ないスイスは、アルプス観光、時計など精密機械工業が盛んになる以前は、戦争が絶えない周辺国に山岳地帯で鍛えられた精神と体力を売って生きてきた。
険しい山岳の谷間の狭い土地で耕作を行うだけでは足りず出稼ぎに出るしかない男たちは、外国での戦争に傭兵として参加した。
国も傭兵制度をつくり兵の輸出を推した。
中世ヨーロッパは、領土拡張を狙う国家間の戦乱が絶えなかった。
自国民の犠牲をなるべく少なくするために外国人の傭兵の需要が高かった。
険しい山岳地帯の暮らしに耐え抜く体力、忍耐力。
雪の絶壁断崖を恐れぬ胆力。
山登りで培われた強い意志。
田舎特有の律儀な性格。
スイス兵は戦士としての要件を満たしていた。
1315年にはハプスブルク家、1478年にはブルゴニューの軍という当時最強といわれた職業軍人団をスイス傭兵軍が壊滅させた。
フランス王朝はスイス兵に月10ポンドを支払った。
これは現在の20万円に相当し、衣食住はあてがわれるため、この給料はそっくり国の家族に送金できた。
アルプスの暮らしは潤い、それにより派遣した国も財政再建できた。
1799年2月10日、フランス革命でパリのチュイルリー宮殿でルイ14世一家を革命軍から守ろうとした786名のスイス傭兵は全滅した。
各国がスイス兵をとり合ったため派遣されたさきでスイス兵同士が戦う場合もあった。
スイス兵は国を経済的に潤したが、同じ国の兄弟がお金のために殺し合う悲劇に、海外への派兵に反対する意見が大きくなっていった。
また契約期間がすぎて帰国した傭兵が、派遣先でできたネットワークを使ってヨーロッパ中で
で時計などをセールスした。
こうしてスイスの産業の構造の変化すると共にと傭兵制度は衰退してゆき、19世紀後半には完全に撤廃された。
犠牲になった傭兵は30万人といわれ、スイスは彼らの血によって国土の安全と中立を守ってきた。
世界でもトップクラスの経済成長をとげたスイスにとって傭兵制度は苦肉の策であり歴史の闇となった。
一目惚れ

アンディ・フグは、1964年9月7日にスイスのチューリッヒで生まれた。
父親は、傭兵として各地を転戦しほとんど家にはいなかった。
母親も一家の生活を支えるために家を出た。
2歳のアンディ・フグは、姉と兄と共に、2年間、親戚にたらい回しになった後、母方の祖父母に育てられるようになった。
祖父は左官職人をしていたが、3人の孫を養うのは大変で、アンディ・フグは靴がなく裸足で生活していた時期もあった。
しかし幸せな家庭だった。

アンディ・フグは6歳でサッカーをはじめ、数年後には州のU16(16歳以下のジュニアユース代表)に、さらにその後にはスイス代表にも選ばれた。
あるとき、友達に誘われ極真空手の道場に見学に行った。
スイス人が東洋の服を着て突きと蹴りで戦い、戦いの始めと終わりにはキチンと礼をしていた。
この東洋の神秘的光景にアンディ・フグは一目惚れ。
(この格闘技には戦い以上に何か奥深いものがある)
すぐに入門を決めた。
しかし家の経済状況を考えると言い出すことができず、内緒で道場に通った。
月謝は大人が路上でやっていたカード賭博に参加して捻出した。
道場は大人ばかりで、小学生のアンディ・フグは彼らの重い突きや蹴りを食らって何度も転ばされた。
そして何度も立ち上がりムキになって立ち向かっていった。
そして休まずに道場に通い続けた。
自分より大きな人間に向かっていく姿は、後の極真空手の世界大会やK-1のリングにおいても同じだった。
アンディ・フグはずっとチャレンジャーだった。
極真空手は、「牛殺し」大山倍達が創始した空手。
既存の寸止め空手に異を唱え、実戦、直接打撃(フルコンタクト)制の空手を行った。
大山倍達の強さ、理想、精神は、世界で支持され広まった。
アンディ・フグも大山倍達を尊敬していた。
空手着で登校

12歳の誕生日、アンディ・フグが学校から帰ると部屋にプレゼントが置いてあった。
開けてみると純白の空手着が入っていた。
それまでは道場でも体操服で練習していた。
アンディ・フグは跳び上がって喜んだ。
その日は空手着を着て寝て、次の日は空手着で登校した。
最初で最後にみた父

久しぶりに父親が帰ってきたと聞き、アンディ・フグと兄は、父親がいるというバーへ向かった。
緊張しながらソッとドアを開けると、1人の男が数人の男たちから暴行を受けていた。
「あ、パパだ」
兄がつぶやいた。
それがアンディ・フグがみた最初で最後の父親の姿だった。
アンディ・フグは、一方的に殴られる父親を助けることもできず、立ちすくみ、やがて泣きながら走って帰った。
その夜、父親は家に帰ってこなかった。
15歳のとき、アンディ・フグは、国際大山杯で初優勝した。
同年、アーサー・フグが戦死したことを伝える手紙が届いた。
プロサッカー選手ではなく、極真空手を選んだ

スイスでは、9年間の義務教育の最後の3年間、日本でいえば中学校は、学校の成績や家庭環境、個人の希望や特性などに応じ、進学に向けたクラス、普通クラス、また実務クラスにわかれる。
そして卒業後どんな道を進むべきかを決め、親や学校、国がサポートする。
高校や大学への進学を目指す者もいるが、中学卒業後、職業訓練の道に進む者が7割を占める。
国は22の分野、約230種類の職種を公式に認め、若者はその中で自分に合う職種を選ぶ。
それぞれの職種にどんなスキルや知識が必要なのか各州が定め、能力資格試験がある。
それに合格すれば職人としての第一歩を踏み出すことができる。
どの職業訓練にも現場での見習いと学校での授業が必須で、現場での仕事に加え、1週間に1日は職業訓練学校に通い学ぶ。
労働市場に直結した知識や技術を学んだ職業訓練修了生は需要が高く、職業訓練修了生が応用科学大学などに進学すれば社会的・経済的地位の高い資格が得られる。
アンディ・フグは、スポーツトレーナーになりたかった。
成績的にも進学コースへ進むこともできたが、結局、中学を卒業すると兄が働いていた肉屋で修業しながら学校に通い空手の修行に熱中した。

そしてアンディ・フグは、17歳で極真空手のスイスチャンピオンになった。
また空手と並行して続けていたサッカーでもプロチームからスカウトされた。
アンディ・フグは、迷わずに高額のギャラも期待できるプロサッカー選手ではなく、極真空手を選んだ。
そして見習いを修了して大きな肉屋に就職した。
しかし海外を含めよく試合の出たり、ケガをしてよく仕事を休んだため、2年後で辞めた。
初来日 ホテルのドアを壊す
1984年、19歳のアンディ・フグは初来日。
2年連続スイスチャンピオンの肩書をひっさげ第3回極真空手世界大会に出場した。
1回戦から足技で勝ち進み、3回戦は速攻秒殺で「1本勝ち男」と呼ばれたイギリスのグレン・シャープに延長戦まで粘り強く戦い判定勝ち。
アンディ・フグの空手の特徴は、回し蹴り、後ろ回し蹴り、後ろ蹴り、前蹴りが、左右どちらの脚からも、しかも上段中段下段に繰り出せること。
相手は、速くて多彩な蹴りに翻弄された。
そしてベスト16に進んだアンディ・フグは、不屈の精神力と華麗な組手で不世出の天才空手家といわれる松井章圭と対戦。
下段回し蹴りで足を刈られ倒れそうになったところを松井章圭の道着をつかんでしまい「掴み」の反則をとられ判定負け。
ベスト16に終わった。
そしてその夜、アンディ・フグが泊まっていた池袋のメトロポリタンホテルの部屋でトイレのドアがブチ抜かれた。
そして4年後、別人のように生まれ変わって世界大会に戻ってくる。
オリジナル技 「踵落とし」

世界大会に負けたアンディ・フグは、ナニクソ根性でハードトレーニングを開始。
17時まで働いた後、道場で22時まで稽古。
家に帰ってすぐに寝る。
そして深夜2時に起きてトレーニングを開始した。
その足技は芸術的なほど華麗で強力だった。
特に「踵落とし」は、独自に編み出したオリジナル技だったので、誰もまともに受けることができず、崩され倒されていった。
アンディ・フグの踵落しは、左右両方から出され、内側から回す内回し踵落としと、外側から回す外回し踵落しがあるため4種類の踵落しがある。
その踵は自分より大きな相手の顔面にさえも落とされた。
このナニクソ根性こそアンディ・フグが「青い目のサムライ」と呼ばれる理由の1つであり、また現在社会が失いつつあるものなのかもしれない。
精鋭部隊

スイスは永世中立国なので他国に攻め入ったり、他国同士の戦争に干渉しないが、他国が自国に攻め入ってきたときは、6時間以内に徴兵期間中、または徴兵制を終えた男子が30~40万の兵士となって動員される。
路・橋・橋梁・堤防などの公共施設は、有事には破壊して障害化できるようにつくられ、民間の飛行場も軍用に転換できる。
農地も機関銃の陣地や対戦車陣地がいつでも造れるような形になっている。
住宅も、腰から下は小銃弾の貫通に耐えることができるくらい強い壁になっていて、地下に核シェルターもある建物も多い。
スイスは非武装中立で平和が守れるとは思っていないのである。
男性は、18歳で兵役を務められる能力があるかどうかを調べる身体検査が義務付けられている。
(女性の兵役は志願制)
そこで不合格と診断されると兵役免除となるが、代わりに年収の3%の税金を30歳まで納める。
また介護、警備、医療などの代替役務を行えば減免または免除となる。
合格者は20歳になると、15~17週間、隊列の組み方、銃や化学兵器の取り扱いなどの初任訓練を受けてライフル(実弾は支給されない)など個人装備一式が支給される。
これは徴兵終了まで自己管理となる。
それから10年間、毎年3週間の補充講習を受け、通算で合計260日間の兵役に就かなければならない。
学業や海外赴任などの理由で延期は可能だが免除はされない。
近年、兵役に就く男性は60%で、40%は何らかの理由で免除となっている。

アンディ・フグは兵役中に行われた体力測定で多くの新記録を出した。
それは現在でも破られていないものもある。
そしてその身体能力から山岳パラシュート部隊に選ばれた。
世界中の軍隊で、パラシュート部隊は精鋭と呼ばれる。
敵と味方が陣地を奪い合う最前線を輸送機で密かに越え、敵の支配地域の中にパラシュートで降下する。
輸送機から飛び降りるとき、主傘と予備傘が20㎏、小銃や背嚢など個人装具を30㎏をつけている。
1000m以上の高さから飛び出すスカイダイビングと違い、パラシュート部隊の高度設定は敵から発見されるのを防ぐために300m。
それは333mの東京タワーから50㎏以上の装備を身につけ飛び降りるようなもので、通常の降下訓練でも死傷者が出ることもある。
その着地の衝撃はすごくて、長くパラシュート部隊を続けると膝がおかしくなってくるという。
着地はあくまで始まりで、敵の支配地域に降り立ち、少人数軽装歩兵のままで作戦を遂行しなければならない。
そういう精鋭部隊にアンディ・フグはいた。
極真空手 第4回世界大会2位
1987年、第4回極真空手世界大会は、ミッシェル・ウェーデル、ピーター・スミット、ジェラルド・ゴルドー、アデミール・ダ・コスタなどの海外の強剛が空手母国に集った。
アンディ・フグも「アルプス最強の男」といわれた。
そして4回戦で闘将と呼ばれた木元正資と対戦。
パンチから叩き落とすようなローキックで棒立ち状態にさせて、ダウン寸前に追い込み、文句なしの判定勝ち。
試合後、木元正資は、アンディ・フグの突きについて
「あまりに強烈なので死ぬかと思った」
といった。
5回戦は、同年の全日本中量級で優勝し、翌年の体重無差別の全日本大会で優勝することになる桑島靖寛にローキックで一本勝ちした。
準々決勝でアンディ・フグはアデミール・ダ・コスタと対戦。
アデミール・ダ・コスタは、かつて130㎏の中村誠に対して、68㎏(当時)の体とフットワーク、変則的な蹴りで戦い判定勝ちしたことがあった。
ちなみに中村誠は2度も世界大会で優勝する選手である。
前回の世界大会では4位、100人組手も完遂したアデミール・ダ・コスタは、さすがにアンディ・フグの踵落としをうまくディフェンスしたが、踵落としからのローキックで技有り。
さらに右のミドルキックをもらい、合わせ技で一本負けした。
アンディ・フグの準決勝の相手は、爆発的な攻撃力で「爆撃機」と呼ばれた増田章だった。
試合開始早々、パンチとローキックでラッシュする増田章に
「優勝するためには、脚にダメージを抱えると次の試合に勝てないから、1試合で3本以上いいローキックをもらわないように徹底的に脛受けの練習をしてきた」
というアンディ・フグは冷静にカット。
そして踵落としで牽制し、増田章に間合いに入らせないようにしながら、軽く速いパンチから強いローキックで増田章をグラつかせ、フットワークで後ろに下がりながら、下段後ろ回し蹴りで追ってくる増田章にで脚を蹴り、さらにグラつかせた。
増田章の脚のダメージは明白だった。
2人は、3回の延長戦を戦い抜き、判定でアンディ・フグが勝った。
過去に極真空手の世界大会で決勝に進んだ外国人はいなかった。
決勝戦は松井章圭 vs アンディ・フグ。
この大会前に100人組手を達成した松井章圭も得意技はアンディ・フグ同様、足技だったため、両者の戦いは危険で華麗な足技の応酬となった。
アンディ・フグより身長が低い松井章圭には、踵落としがヒットしやすいはずだったが、松井章圭は下段後ろ回し蹴りで迎え撃つという超のつく天才っぷりを発揮した。
また再延長戦では、アンディ・フグが、故意ではないが松井章圭の顔面に突きを入れてしまう反則を犯してしまった。
そして判定で、4年前同様、松井章圭の勝ちだった。
しかしアンディ・フグの強さを疑うものはいなかったし、世界大会2位は外国人初の快挙だった。
vs 緑健児

松井章圭は、大会後、選手を引退した。
アンディ・フグは、友人と共同出資で「Sports Freaks」というスポーツショップを始めた。
また雑誌の撮影で、トップモデルのイロナと出会いアンディ・フグは一目惚れ。
仕事のためにアメリカにわたるというイロナに猛チャージし、イロナはアメリカ行きをやめ、2人は小さなアパートで同棲を始めた。
スイスで行われた国際大会の準優勝で、アンディ・フグは、前回の世界大会で、165cm、70kgの体でベスト16に入った緑健児と対戦し判定勝ち。
決勝でも勝って優勝した。
緑健児は、世界大会のある試合で、気持ちが弱くなってしまい負けた。
どうしようもなく自己嫌悪に陥り引退した。
そして田舎に帰って家業を手伝い、ダンプの運転手をしていた。
しかしダンプを運転していても考えるのは空手のことばかり。
ある日、大山倍達の命でスイスで演武を行うことになった。
現地にいくと試合の出場も依頼され参加。
そしてアンディ・フグに負けたことで火がついた。
帰国後
「もう1度やってみよう」
と1日8時間、ハードトレーニングを開始した。
第5回世界大会 アンディ包囲網
1991年、第5回極真空手世界大会に出場したとき、アンディ・フグは27歳だった。
その肉体はさらにビルドアップされ、ニックネームも「アルプス最強の男」から「ヨーロッパ最強の男」とグレードアップ。
優勝候補と目された。
しかし3度目の世界大会挑戦は、非常に険しい山(トーナメント)登りとなった。
1回戦:ビガーゼ・タリエル、194㎝112㎏。
2回戦:ヨハン・ブプセライネン、201㎝115㎏。
3回戦:ウラジミール・クレメンテフ、196㎝105㎏。
この明らかに作為的なトーナメントの組み合わせは「アンディ包囲網」と呼ばれた。
しかし80㎏台アンディ・フグは勝ち進んでいった。
vs フランシスコ・フィリョ 反則? 生涯初の失神KO負け
そして4回戦、事件が起こった。
前回の世界大会の準決勝で、アンディ・フグはアデミール・ダ・コスタを踵落としからローキックというコンビネーションで破った。
今回は、アデミール・ダ・コスタの弟弟子となるフランシスコ・フィリョと対戦。
20歳のフランシスコ・フィリョは、世界大会初出場だったが、圧倒的な強さをみせて勝ち上がっていた。
それに比べると今大会のアンディ・フグはオーラが少なかった。
3回戦終了後に行われた試割り審査で、隣で失敗したフランシスコ・フィリョをみてガッツポーズをとったのもアンディ・フグらしくなかった。
試合は、共に蹴りが得意なもの同士、パワフルで華麗な殺人的な蹴りが飛び交うスリリングな展開となった。
しかし明らかにアンディ・フグのフランシスコ・フィリョの蹴りに対するディフェンスには問題があった。
しっかり顔面をガードし、あまり動かすべきでない腕を伸ばしてしまい、フランシスコ・フィリョの蹴りに体をのけぞらせてしまう。
しかし試合は両者よく攻め合い一進一退で進んだ。

「ヤメ」
審判が試合を止め両者を分けようとした瞬間、ガードを下したアンディ・フグの顔面をフランシスコ・フィリョの左ハイキックが蹴り抜いた。
アンディ・フグは意識を失いマットに落ちた。
生涯初の失神KO負けだった。
フランシスコ・フィリョの反則かとも思われたが、審判委員長である大山倍達は
「たしかに試合はスポーツだが、それ以前に極真空手は実戦を想定した武道である。
武道である以上、たとえ第3者が「止め」を宣告してもスキをみせてはならない。
これは倒されているアンディの明らかな負けである」
とした。
見事な裁定かもしれないが、アンディサイドからみれば、まさに
「アンビリーバブル」
再びアンディ・フグは悲劇の主人公となった。
この大会で、黒澤浩樹の激烈な下段回し蹴りが、大型の外国人選手を戦闘不能や戦意喪失させた。
緑健児に体重判定敗れたものの、間違いなく最強だった。
岩崎達也とジャン・リビエールが同時に後ろ回し蹴りを放ち、岩崎達也がノックアウトされ、
アンディ・フグはフランシスコ・フィリョの上段回し蹴りでノックアウトされた。
そして増田章との壮絶な決勝戦に勝ったのは、スイス大会でアンディ・フグに負けた緑健児だった。
極真空手の世界大会はいつもそうだが、この大会もドラマチックだった。