マイヤー(オランダ)‐ヴェルディ川崎・1993年シーズン在籍
ヘニー・マイヤー…。彼の名は、1993年5月15日、日本サッカー史に未来永劫語り継がれることとなりました。なぜなら、この日行われたJリーグ開幕戦「ヴェルディ川崎vs横浜マリノス」において、記念すべきJリーグ第1号ゴールとなる豪快なミドルシュートを叩き込んだからです。
しかし、それ以降は目立った活躍もなく11試合2得点という成績を残し、わずか半年あまりで退団。重要な“始点”となる得点を記録したがため、1000ゴール、5000ボール、10000ゴール、20000ゴールと、メモリアルゴールの達成が近づくたびに、この無名外国人について言及されることになったのでした。同じ外国人でも、せめて、ラモン・ディアスあたりが決めてくれればよかったのですが…。
ウーベ・ラーン(ドイツ)‐浦和・1993~1994年シーズン在籍
ブンデスリーガ通算106得点。ドイツ年間最優秀選手賞(1986年)、ブンデスリーガ得点王(1986~87シーズン)も獲得…。元ドイツ代表FWウーベ・ラーンの実績は、とにかく抜群でした。
しかし鳴り物入りで入団した浦和レッズにおいては、13試合出場で得点はわずか1。シーズン途中からは、故障者続出のチーム事情により、ボランチやセンターバックをやらされるという散々な扱いを受け、1994年シーズンは1試合も出場することなく、そのまま退団&現役引退してしまいました。
ゲーリー・リネカー(イングランド)‐名古屋・1993~1994年シーズン在籍
ご存じ、Jリーグ初期を彩るダメ外人の代名詞的存在。当時のJリーグ最高年俸となる3億円をもらっておきながら、2年間の通算成績は18試合出場・4得点。でも、ワールドカップメキシコ大会(1986年)や、プレミアリーグの異なる3つのクラブ(レスター・シティ、エヴァートン、トッテナム)で得点王に輝くなど、昔はすごい人だったんです!

ゲーリー・リネカー
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ミューレル(ブラジル)‐柏レイソル・1995年シーズン在籍
ブラジル代表として、56試合に出場して20得点。1986年、1990年、1994年のワールドカップにも出場したその実力は、間違いなく本物でした。1993年から柏に所属するカレッカとの「セレソンコンビ」で得点量産が期待されていたものの、リーグ戦11試合出場で5得点。しまいには、「妻がホームシックだから」とか適当な理由をつけて辞めていきました。

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マッサーロ(イタリア)‐清水・1995~1996年シーズン在籍
イタリアの名門ACミランから、清水エスパルスへやってきたダニエレ・マッサーロ。当時世界最強リーグと謳われていたセリエAで、通算77ゴールをたたき出した実力者ゆえに、さぞかし大暴れするんだろうと期待されましたが、2年間で20試合10得点と今一つ。移籍初年度の途中からはベンチ入りすらできなくなり、華々しかった現役生活を異国の地・日本で、寂しく終えることとなったのでした。

ダニエレ・マッサーロ
7/8(土)清水エスパルス vs ガンバ大阪 クラブ創設25周年記念マッチとして開催|清水エスパルス - 公式WEBサイト
ゴイコエチェア(スペイン)‐横浜・1998年シーズン在籍
1990年代前半、ヨハン・クライフ監督の哲学を体現したFCバルセロナ、通称“エル・ドリーム・チーム”における右サイドのスペシャリストとして躍動したのが、このゴイコエチェアです。1998年に横浜マリノス移籍後は、バルサ時代の同僚でFWのフリオ・サリナスとのコンビが期待されましたが、サリナスが得点を量産してチームの勝利に貢献する中、ゴイコエチェアは存在感を示せず。結局、わずか1年でスペインへ去っていきました。
シーラス(ブラジル)‐京都パープルサンガ・1998~1999年シーズン在籍
ジーコ、レオナルドの系譜に連なるブラジル代表の元10番がやってくる!…そう言われて期待されていたシーラスでしたが、そもそもこの人、1990年のイタリアワールドカップでNO.10を背負ったもののまったく活躍できず「セレソン史上最低の10番」と酷評されたプレイヤー。まぁ、カナリア軍団のエースナンバーを任せられるだけで、すごいことなのですが、如何せん、この京都時代も「史上最低の10番」の二つ名にふさわしい、低調なパフォーマンスに終始したため、あっさり解雇されています。

パウロ・シーラス
J1通算350得点メモリアル|京都サンガF.C.オフィシャルサイト
ベベット(ブラジル)‐鹿島アントラーズ・2000年シーズン在籍
言わずと知れたロマーリオの恋人。得点能力に優れているだけではなく、前線でタメ・起点をつくれるという万能屋であり、所属するどのチームでも重宝されていました。
しかし、プレイヤーとしての最盛期はとうに過ぎていたにもかかわらず、まったくトレーニングせずに来日したものだから、身体がついていかず、鹿島における実績は、7試合出場で1ゴールだけ。こんな怠惰なベベットですが、当時の監督トニーニョ・セレーゾがジーコと共に1982年W杯を戦った元セレソンメンバーだったこともあって、この同郷の後輩を贔屓。まったく結果が出ていないのにベベットを使い続けたため、チームの雰囲気が悪くなったというエピソードもあります。
(こじへい)