1983年3月26日、丸山桂里奈は、東京都大田区大森北で生まれた。
父、母、兄、桂里奈さんの4人家族。
妻を「ネコ」と呼ぶ父、夫を「ウサギ」と呼ぶ母、丸山桂里奈が2004年アテネオリンピックに出場しているとき、家で
「アレッ、桂里奈いないけどどこいったの?」
という兄に囲まれて育った。
幼少期の丸山桂里奈について、母は
「活発で元気な子」
といい、父は
「元気で明るく、子猫を引き連れて歩くような子供」
といっている。
丸山桂里奈が小学1年生のとき、日本女子サッカー界に大きな変化が起こった。
それまで真剣勝負の場は、年1度の全日本女子選手権(現:皇后杯)だけだったが、
読売サッカークラブ・ベレーザ(東京)、
清水フットボールクラブ(静岡)
田崎真珠神戸フットボールクラブ・レディース(兵庫)
日産FCレディース(東京)
新光精工FCクレール(東京)、
プリマハム・FC・くノ一(三重)
という1都3県6チームが参加する「日本女子サッカーリーグ(現:なでしこリーグ」が誕生。
選手はプロではなくアマチュアだったが、サッカー女子の大きなモチベーションとなった。
開幕戦は、全日本選手権2連覇中のベレーザ vs 日本代表選手に加えて台湾代表の周台英を擁する清水。
このときはベレーザが2対0で勝利したが、翌1990年1月にシーズンが終わったとき、優勝し初代女王に輝いたのは清水だった。
3ヵ月後には第2回日本女子サッカーリーグが開幕し、1年後にはベレーザが初優勝。
16ゴールを挙げて得点女王&MNPを獲得したキャプテンの野田朱美、高倉麻子、手塚貴子、本田美登里、松永知子という日本代表選手を並べる布陣で、14勝1分無敗という圧倒的な強さだった。
このとき丸山桂里奈は小学校2年生。
元々仲良しだった大島君にクラスに転校してきた福田君が加わって、毎日、3人で遊んだ。
陸上クラブに所属し、短距離でも長距離でも1番をとり、4年生になると400mを走り始め、区大会で優勝して国立競技場でも走った。
「興味があることはトコトン集中して頑張るけど興味がなくなるとどうでもよくなるタイプ」
という丸山桂里奈は、剣道、テニス、水泳、バスケットボール、バレーボールとスポーツは何でも
「かじった」
が、母親に勧められて始めたピアノだけはまったく合わず、レッスンにいったフリをしてサボった。
すぐにバレて怒られたが、
「やりたくないことはやりたくない」
とハッキリいい、それ以降は強制されなくなった
母親は、バレリーナにしたかったが、あまりの活発さにあきらめた。
同時期、
鹿島アントラーズ
ジェフユナイテッド千葉
浦和レッズ
東京ヴェルディ
横浜マリノス
横浜フリューゲルス
清水エスパルス
名古屋グランパス
ガンバ大阪
サンフレッチェ広島
という10クラブによって日本初のプロサッカーリーグ、「Jリーグ」がスタート。
開幕戦は、東京ヴェルディ vs 横浜マリノスで、国立競技場は6万人近い観衆で埋め尽くされ、翌日も4試合が行われ、鹿島のジーコがハットトリックを達成。
ラモス・ルイ、三浦知良、都並敏史、武田修宏、北澤豪、井原正巳など国内選手に加え、ジーコ(鹿島)、リトバルスキー(市原)、カレカ(柏)、ディアス(横浜M)などワールドクラスの選手も参戦したJリーグに日本中が熱狂。
サッカーへの関心が爆発的に高まり、空前絶後のサッカーブーム、Jリーグブームが起こり、この年の新語・流行語大賞の年間大賞は「Jリーグ」、新語部門金賞は「サポーター」
スポーツをみるだけでなくチームを支える人を指す「サポーター」は、それまで日本に存在していなかった新しいスポーツの楽しみ方だった。
5年生の終わり、福田君と大島君が大田区立入新井第一小学校サッカークラブに入団すると、丸山桂里奈も一緒にいたい一心で入った。
今でもサッカーを始めたきっかけを聞かれると
「好きな男の子と一緒にいたかったから」
と答える丸山桂里奈だが、それとは別にサッカーが大好きになった。
「技術を習得して自分ができなかったことができるようになっていったら楽しくなって、気づいたらサッカーが好きになっていました」
ポジションは最初からフォワード。
ゴールを決めるのが楽しいのはもちろん、プレー中にみんなが1つになれること、同じことを目指して頑張れること、選手や指導者だけでなく応援している人たちも一緒に喜びを分かち合えるところが大好きだった。
「これは私の持論なんですけど、ボールって丸いじゃないですか。
私、丸いものが好きで、集まっている人はみんな良い人なんだと思うんですよね」
家の近所の路地裏で暗くなるまで壁に向かってボールを蹴り、学校もボールをリュックに入れ、スパイクを履いて登校し、授業中も
「サッカーしたいな。
早く放課後にならないかな」
とサッカーのことばかり考えていた。
学校でサッカーをやっている女子は自分だけだったが、男子に混ざって試合で活躍し、ドンドン自信をつけていった。
体格や体力の差でひっくり返されることもあったが、
「それ自体、悔しくて、ますます練習にのめり込みました」
Jリーグでは、ジェフユナイテッド市原のドイツ出身のドリブラー、ピエール・リトバルスキーが大好きだった。
「今思うとなんでそんなに好きだったか謎」
というが、とにかくリトバルスキーに夢中。
知名度ではジーコが優っていたが、ワールドカップの実績ではリトバルスキーの方が上。
(リトバルスキーは、ドイツ代表として、ワールドカップ決勝の舞台を3度踏み、1度優勝を経験。
ジーコも、ブラジル代表として3度ワールドカップに出ているが、決勝に進んだことは1度もなかった)
最も特徴的だったのは、170cmに満たない体でのドリブル突破。
ボールをガニ股にスッポリと収めて、足に吸いつくようなドリブルで相手を抜き去る姿は
「オクトパスドリブル」
と呼ばれた。
「カッコイイ」
「リトバルスキーみたいになりたい」
と思う丸山桂里奈は、自然と歩き方もガニ股に。
結果、真っ直ぐだった脚は、母親に
「お願いだから素足でスカートはかないで」
といわれるほどO脚になった。
「サッカーって脚を使う競技なので、すごく細かい技術が必要ですし、ちゃんと練習しないとうまくなりません。
それを積み重ねてきたからこそ、これは絶対に誰にも負けないって自信があったんです」
リトバルスキーのプレーをビデオで繰り返しみて、雑誌についていたポスターを部屋に貼り、グッズや文房具も集めた。
中でも1番お気に入りは、リトバルスキーが表紙になったノート。
勉強に使うのはもったいないので
「「サッカーのことを書くノートにしよう」
と思いついた。
これが「サッカーノート」の始まりだった。
その日の体調、練習メニュー、練習でうまくいったこと、うまくいかなかったこと・・・・、サッカーに関することなら何を書いてもOK。
フォーメーションの絵を描いたり
「やる」
「勝つ」
「絶対に」
「一丸となって」
「・・・・のために」
など自分の気持ちを盛り上げたり、自分に対する誓いのような言葉も書いた。
すごく細かく書くときもあれば、超アバウトに書いたり、しばらく書かなくなったり、そんなことを繰り返しながら、サッカーノートは何冊にもなっていった。
「長く書き続けたサッカーノートは、私にとって貴重な資料になっています。
例えば練習していると、昨日までできていたプレーが突然うまくできなくなってしまうことがあります。
そんなとき昔のノートを振り返ってみると、できていた頃の体調や練習メニューがわかって、あのときはこんな練習していたんだとか、毎日続けていた腹筋をやめたから調子が落ちたのかななどと比較して考えることができます。
体調や練習内容だけでなく、そのときの気持ちまで思い出してヒントになることもあります。
サッカーノートは、私を迷いから救ってくれるバイブルです」
5年生の終りからサッカーを始めた丸山桂里奈は、小学校卒業が近づくと
「この先どうしようかな」
と悩んだ。
50m走、6秒3の丸山桂里奈は、ある中学校から陸上で推薦がきていたが、サッカーの方が好きだった。
「人間ってごはんを食べるじゃないですか。
それと同じですよ」
というくらい、サッカーは生活の一部と化していたが、女子サッカー部がある中学校など聞いたことがないので
「サッカーやめなくちゃいけないのかな」
と思っていた。
そんなある日、
「これ、受けてみたら?」
といってチームメイトのお父さんが新聞の切り抜きを持ってきてくれた。
切り抜きに書かれてあったのは、超名門女子サッカーチーム「ベレーザ」の下部組織「メニーナ」の入団テスト開催のお知らせで、丸山桂里奈は、すぐに
「受けてみよう」
と思った。
テスト会場に着くとたくさん中学生、高校生が集まっていて、
「サッカーやってる女の子って、こんなにいるんだ」
と驚いた。
テストは、監督やコーチが見守る中、50m走、リフティング、ドリブル、パス、シュート、ゲームなどを行った。
「足がものすごく速い子や守備が抜群にうまい子、明らかに自分よりうまいと思う子もたくさんいて、私と同じように地元で男ばかりの中でプレーしてきた、サッカーが大好きな子たちだと思いました」
サッカーを始めて1年の丸山桂里奈は、他のサッカー少女と一緒にテストを受けて、200人中10人の合格者の1人となった。
大好きな男の子2人を追いかけてサッカーを始め、
「大島君のことがちょっと好きになっていました」
という丸山桂里奈だが、大島君は違う中学生に行き、福田君は、同じ大田区立大森第二中学校に入ったがラグビーを始めた。
そして自分は、サッカー漬けとなった。
メニーナは、ベレーザのジュニアチームで、ベレーザがポルトガル語で「美人」という意味なのに対し、メニーナは「少女」
出来上がった選手を集めるのではなく才気ある中学生、高校生を鍛えようというベレーザの育成システムでもあった。
両チームは同じ時間、同じ場所で練習し、クラブハウスのロッカールームも同じだった。
ベレーザが第2~5回まで4連覇した後、日本女子サッカーリーグは「L・リーグ」に改称。
公式イメージソング「OH OH OH We are the Winners」を発表し、メインボーカルは酒井法子、そしてリーグの10クラブから1選手ずつがバックコーラスを行った。
各クラブもイメージソングを製作し、日興證券は早見優、新光FCクレールはマルシア、そしてベレーザは和田アキ子だった。
メニーナの練習は、週6回。
週末はベレーザの試合があり、その翌日が休みとなるので、月曜日だけが休み。
丸山桂里奈は、学校があるため、丸一日休める日はなかった。
練習場所は、川崎市のよみうりランドの中にある専用グラウンド。
選手は基本的に社会人なので、学校の部活動より遅めの18時30分に練習が始まり、21時30分に終了。
丸山桂里奈は、電車、バスを乗り継いで1時間半かかるので、毎日、中学校の授業が終わると
「乗り遅れると間に合わない!」
とダッシュで駅へ。
18時20分に練習場に着いて21時までミッチリ練習。
練習後、片づけと着替えを済ませて帰路につくのは22時。
コンビニで買ったおにぎりやカップラーメンを電車の中で食べて、走行する振動に揺られながら、ボーっと景色を眺めるのが、心安らぐ大好きな時間。
駅に着くといつも母親か父親が自転車で迎えにきてくれていて
「いいことも、何かイヤなことがあったときも、とにかく自分からなんでも話しました」
帰宅は24時を過ぎることもあったが、
「話を聞いてもらえたという満足感もあってスッキリし、家に着く頃にもうは元気になっていました」
そして布団に倒れ込んだ。
よみうりランドでは男子チームであるヴェルディも練習していて、練習をまじかでみることができ、丸山桂里奈は、
「すごい人がいっぱいいる」
と感動。
ベレーザでは、野田朱美や大竹奈美などに圧倒されたが、中でも4歳上、東京都立南野高校に通う澤穂希は特別な存在だった。
澤穂希は丸山桂里奈と同じく中1でメニーナに入ったが、1ヵ月でベレーザに昇格。
さらに数ヵ月後、日本女子サッカーリーグにデビューし、3戦目で初ゴールを含む2得点。
中3の冬、日本代表デビュー戦で、いきなり4得点。
まさに天才であり、丸山桂里奈は、メニーナに入る前から
「澤さんのすごさは日本中誰もが知っていますが、私たちサッカー選手にとっては澤さんは神様みたいな存在でした」
と思っていたが、実際に会ってみると
「澤さんは地蔵だと思っていて、地蔵様くらい温厚なんです。
神様、仏様ってありますけど、私は地蔵様が1番上にいるんです。
その位置にいるのは澤さんしかいないんです
と崇めていた。
丸山桂里奈がメニーナに入った直後、第2回FIFA女子ワールドカップがあり、前回大会が無得点予選敗退の日本代表は
ドイツ戦 0対1
ブラジル戦 2対1
スウェーデン戦 0対2
とブラジルに勝って、グループリーグ3位で決勝トーナメント進出。
決勝トーナメント初戦で、アメリカに0対4で負けたものの、オリンピック出場権をGET。
ベレーザの先輩で日本代表キャプテンの野田朱美 は、ブラジル戦で2ゴールを挙げ、澤穂希は、体力差のある外国人に果敢にアタックして脚を負傷し病院送りとなった。
ワールドカップが終わった後、Lリーグは8~12月という超短期間で開催し、プリマハム・FC・くノ一が優勝し、ベレーザは4位だった。
メニーナの練習に通うのはキツかったが、イヤだと思ったことは1度もなく、サッカーをするのが楽しくて仕方なかった。
早めに練習場に着いた日は、壁に向かって1人でひたすらボールを蹴り続けた。
「キャプテン翼じゃないけど、本当にボールは友達という感じ」
ある年の大晦日、大雪が降ると、丸山桂里奈はボールを持って近所の公園へ。
「雪がクッションになって倒れても痛くない」
とオーバーヘッドシュートを
「ここぞとばかりにめちゃくちゃやりました」
ひたすら練習し続け、気がつくと24時を過ぎていて、文字通り年もオーバーヘッドしてしまった。
「サッカーが生活の中心にあるのが当たり前だったんですよ。
サッカーのためなら、何もツラくないんです。
本当にごはんを食べている感じで。
とにかく点を獲りたいという気持ちしかなかったから、自主練も勝手にやるし、ご飯にもまったく興味がなくて、ただ良いプレーをするためだけに栄養を摂取している感じでした」
中学校に
「Kちゃん」
という同級生がいた。
髪を染め、制服も着崩し、タバコも吸う、いわゆる不良といわれている女の子だった。
中2の夏、丸山桂里奈はKと仲良くなり、一緒に遊ぶようになった。
門限18時、長時間のテレビ禁止、お笑い番組は一切禁止、炭酸ジュース禁止、駄菓子禁止などのルールを設けていた丸山家は驚愕。
元モデルで福祉関係の仕事をしている母は、礼儀や挨拶について厳しく、
「1度決めたことは途中で投げ出さずに最後まで続けなさい」
「小さいことでも1つ1つ積み重ねていけば絶対に自分のモノになるから」
と教えていたが、娘がKと一緒にいるのをみると、
「遊んじゃダメ」
「あの子といるとあなたまで悪く思われるよ」
といった。
丸山桂里奈は、友人を悪くいわれ、
「うるさい」
「私がよければいいでしょ」
と反抗。
挙句、売り言葉に買い言葉で
「そんなこというならサッカーやめてやる」
といってしまい、そのままメニーナの練習に行かなくなってしまった。
そして堂々とKと遊んだ。
2人ともジャニーズJr.が好きで追っかけや出待ちをやった。
「京都まで行ったこともあります。
Kちゃんと遊ぶのはスポーツばかりしてきた私にとって、とても新鮮な体験で、新しい世界が開けたみたいでやたら楽しく、夢中になってしまったのです」
夜遅くなると自分の家に戻るのが面倒でKの家に泊まることもあり、Kの家に母親が迎えに来ると居留守を使った。
夏祭りの後、Kの家に向かって夜道をふざけながら歩いていると前方から自転車に乗った母親が突進してきた。
丸山桂里奈は、母親が自転車を降りて停めた瞬間、自転車を蹴飛ばして逃走した。
一方、練習には出なかったものの、クラブハウスにはときどき顔を出していて、そこで指導者やチームメイトと話をしているうちに、だんだん
「こんなことしてていのかな?」
「追っかけや夜遊びは楽しいけど、これが本当に自分のやりたいことなんだろうか?」
大勢のファンに応援されるジャニーズJr.をみて
「私も応援される側になりたい」
と思うようになり、
「私はサッカー選手として応援されるようになろう」
と一念発起。
3ヵ月の貴重なブランクを経てメニーナに復帰した。
「それからの私は、今まで以上にサッカーに打ち込みました」
この間、アメリカのアトランタでオリンピックがあった。
伝説的ストライカー、釜本邦茂の活躍もあって1968年のメキシコで銅メダルを獲得したものの、それ以降、72、76、80、84、88、92年と予選敗退していた男子サッカー日本代表は、グループリーグ第1戦で、優勝候補のブラジルに1対0で勝利し、日本では「マイアミの奇跡」、ブラジルでは「マイアミの屈辱」といわれた。
しかしナイジェリアとハンガリーに連敗し、グループリーグ3位で予選敗退。
日本に負けたブラジルは、銅メダル獲得した。
一方、女子サッカーは、男子より96年遅れて正式採用され、これが初のオリンピック。
ドイツ戦 2対3
ブラジル戦 0対2
ノルウェー戦 0対4
でグループリーグ4位敗退。
1997年になるとシドニーオリンピックに向けて、女子日本代表監督が58歳の鈴木保から36歳の宮内聡に交代。
最初の合宿に招集された23人中、アトランタ経験者は8人だけで、選手も世代交代が進み、通常、1日に90~120分が1回行われていた練習を、午前、午後の2回、ときに夕食後に3回目を行うなど量を増やし、内容も濃くなった。
メニーナで心を入れ替えた中学3年生の丸山桂里奈は、第18回全日本女子サッカー選手権大会に出場登録された。
チームメイトによると、パジャマや馬マスク姿で練習に来たこともあったというが、中学3年間で100ゴールを決め、不良少女からエースストライカーに復活した山桂里奈は、
「横道にそれてもいい。
戻ったところが自分の進む道」
という人生訓を持っている。
中学卒業後はベレーザに入ることになっていたが、
「上手な選手の中で自己鍛錬するより、普通のチームをどう強くできるかを試したい」
と思い、
「普通の高校のサッカー部に入りたい」
と打ち明けた。
するとメニーナの監督は激怒。
母親は
「本当にそれでいいの?」
と聞き、娘の意志が堅いのがわかると知ると一緒に監督に謝りにいった。
こうしてメニーナを退団し、文京区にある村田女子高等学校に進学し、女子サッカー部に入部。
クラブでプレーに専念すると共に1人で自主トレ。
連日、大田区山王2丁目12番と3丁目31番の間を北西に上がる急坂、通称「闇坂(くらやみざか)」を
「全力だと最後まで持たないため、6割で」
100回ダッシュ。
闇坂以外にも都内の坂道をほぼ走破した。
メニーナの練習で遅くなると駅まで迎えにきてくれた父親は、この自主トレにも毎日付き添った。
ちなみに丸山桂里奈は学校に行くときに、高級住宅街である山王を
「金持ち気分を味わいたい」
とわざわざ遠回りして通っていて、大森にある実家については
「中の中」
「一軒家といえば一軒家だしそうじゃないといえばそうじゃない」
といっている。
トラックの運転手に憧れ、 テレビドラマ「古畑任三郎」をみて西村まさ彦演ずる「今泉」の大ファンになった丸山桂里奈は、美容院に雑誌の切り抜きを持っていって同じような短髪にしてもらった。
ボーイッシュな風貌で同じ高校の女子たちにモテ、バレンタインデーはチョコレートを30個もらい
「高校の3年間が一番モテていた」
という。
高2のとき、1999年6月、第3回FIFA女子ワールドカップがアメリカで開催。
ベスト8に入れば翌年のシドニーオリンピック出場権が得られる大会で、日本代表は、
カナダ戦 1対1
ロシア戦 0対5
ノルウェー 0対4
と予選リーグを最下位で敗退。
優勝したのはアメリカだった。
この後、20歳、大学2年生の澤穂希は、ベレーザからアメリカ、コロラド州デンバーにあるデンバーダイアモンズへの移籍。
日本の丸山桂里奈は、高校3年生のとき、第9回全日本高等学校女子サッカー選手権大会で第3位となった。
丸山桂里奈は、サッカー推薦で日本体育大学体育学部体育学科に進学。
海外に追いつけ追い越せのサッカーは先進性が高く、年上を「・・・先輩」と呼んだり年下を人呼びにする日本の伝統的な上下関係をなくし、「・・・さん」「・・・くん」、あるいはあだ名やニックネームで名で呼び合うフラットな雰囲気のクラブも多い。
しかし当時の日体大女子サッカー部はゴリゴリの体育会系。
先輩後輩の礼儀が厳しく、丸山桂里奈は普段から先輩の顔色をうかがい
「歯をみせないように先輩と話さないといけなかったです」
というが、先輩の藤巻藍子は
「空気の読めない後輩でした」
といっている。
日本体育大学 女子サッカー部監督、芦原正紀は、高校時代は関東選抜として活躍し、初代監督として日体大をゼロから指導し、丸山桂里奈が入った前年に優勝へと導いていた。
丸山桂里奈をみて
「ワガママなプレーヤーだから自分の好きなときは動くけど、そうでないときはサボる。
そういう浮き沈みの激しいスタイルを直せば、もっと伸びる」
と分析し、1年間、フォワード一筋だった丸山桂里奈に様々なポジションを経験させた。
また上級生に遠慮しているのをみて
「もっと自分の持っているものを出せ」
とアドバイス。
丸山桂里奈は、さらに自分をさらけ出すようになった。
フィールド上では学年に関係なく平等で、実力さえあれば1年生でもレギュラーになれるという環境に、必死に練習を重ねた丸山桂里奈は、日本代表に初召集された。
丸山桂里奈は、日本代表に呼ばれたといわれ、最初は信じられなかった。
「マジっすか?マジっすかって100回くらい聞いたもん」
そして本当だとわかると、まず思ったのは
「うわっ、超ヤだ」
それまで
「日本代表にいったらボコボコにされるよ」
という噂を聞いていたので
「日本代表=超コワいところ」
と思っていた。
日本代表に入ったことを周りの同級生に
「めっちゃスゲーじゃん」
「マジで選ばれたの?」
と驚かれながら、1番最初に報告したのは彼氏。
続いて家族に報告すると大喜びされてうれしかったが、
「本当に?」
「本当に?」
「本当に?」
と何度も聞く母親に、少しイラつきながら自分と同じだと思った。
このとき大学生で日本代表になったのは、神奈川大学の矢野喬子(現:帝京平成大学女子サッカー部)と丸山桂里奈だけだった。
「私たちが1番年下で・・・
結構黄金世代っていうか、フォワードは澤(穂希)さんとか荒川荒川(恵理子)さんとか井坂(美都)さんとか大谷(未央)さんとか、むっちゃうまい人ばっかりで。
エッ、こんな中で本当に入れるのかって。
それまでアンダー18とか選ばれてましたけど、やっぱりA代表って全然違うから。
ほんと子供が大人に入ったみたいなイメージだったから。
むちゃくちゃうれしいんだけど、あの中でできるかなって、怖ェーッてのはあった」
実際、初招集された日本代表の練習はハードだったが、それ以上に
「めっちゃコワかった。
イヤッ、コワかったっス。
コワすぎて記憶がない。
年下はサッカーやってるだけじゃねえぞみたいな、お前運べよみたいなのはあって、そういうものに気を遣いすぎて疲れてしまって、正直いってサッカーはちゃんとできなかった」
しかし日本代表で得た刺激は大きかった。
全員が例外なくサッカーが大好きで、勝ちたい、もっとうまくなりたいと努力する人間ばかり。
試合に出られない選手もいるがフテ腐れたり、集中力も切らしていい加減に過ごす選手は1人もおらず、悔しいはずだが文句ひとついわずに練習やミーティングだけでなく準備や片づけにも主体的に参加し、チームのプラスになることを見つけて貢献しようとしていた。
日本女子サッカー代表は、試合後のユニフォーム交換は
「もったいないからダメ」
と禁止令が出るなど、男子に比べて金銭的は恵まれていなかったが、
「サッカーが好き」
「サッカーを続けたい」
「サッカーで夢を叶えることはお金で買えるものではない」
という思いであふれていた。
そのためプレーの迫力で劣るかもしれないが、逆境にも決して明るさを失わない精神的な逞しさは男子を凌いでいだ。
「代表チームに入ると1日あたり1万円の日当が支払われるので、『サッカーしてお金がもらえるなんて夢のようだね』と選手たちはみんな話していました」
日本代表から大学に帰ると1年生だったので同じように下働きをしたが、代表に選ばれたことで先輩に
「浮ついている」
「あなた5年生ですか?」
などといわれることが増えた。
丸山桂里奈は、目下として対応しながら、
「そういうことをいう人はヘタな人が多い」
「試合に出てナンボ。
ピッチで結果を残す!」
と燃えた。
2年生になって日本体育大学 女子サッカー部の監督は清原伸彦に代わった。
丸山桂里奈は悩みを、よく相談たが中でも
「どんなときでも自分らしく」
というアドバイスは大きな力になった。
「そのおかげで私はどんな状況下でも自分と誰かを比べずにすんだし、私らしくいられたのだと思います」
韓国で開催される第14回アジア大会に出発する前に日本代表は成田で数日、宿泊。
そこで丸山桂里奈は、澤穂希と同部屋になった。
緊張はピークに達し、まず澤の荷物を部屋まで運び、澤が来ると直立不動。
そして
「何か失礼なことをいってしまったら大変」
と無言。
澤穂希に、
「私は体のケアがまだだから、桂里奈先に入って」
とお風呂を勧められても
「尊敬する先輩より先にシャワーを使うなんてとてもできません」
その後、何度もルームメイトになって
「桂里奈、シャンプー持ってきて。
私、リンス持っていくから。
同じもの使っているからいいでしょ」
と貸し借りをしたり、サッカーに関することやそれ以外のことでも、なんでも話せるほど親しくなった。
「夜、しゃべり足りなくて電気を消してもしゃべっていたこともあります。
私が澤さんをとてもすてきだと思っていることは、いつ誰に対してもフランクで親切なところ。
そしてちょっと天然なところもいいなと思います」
そして丸山桂里奈は、北朝鮮戦で日本代表デビュー。
日本代表は下着を自分で洗濯しなくてはならなかったが、丸山桂里奈は、下着を置きっぱなしの上、溜め込み、干し方も他の選手いわく
「いっちゃえば絞ってそのまんま」
2003年9月20日、第4回FIFA女子ワールドカップが開催。
当初、中国で行われるはずだったが、SARS(重症性呼吸器症候群)の大流行で、急遽、アメリカに開催地が変更。
日本は4大会連続参加となったが、ここまでの道のりは大変厳しかった。
まず予選を兼ねたアジア大会で韓国に敗れて4位。
準優勝の中国が開催国枠で出場権を獲得していたため、首の皮1枚でつながって大陸間プレーオフに進出。
北中米カリブ海3位のメキシコにアウェイで2対2、国立競技場で2対0と辛くも勝利を収め、本大会出場となった。
そして
アルゼンチン戦 6対0
ドイツ戦 0対3
カナダ戦 1対3
と2大会連続予選リーグ敗退。
大学3年生の丸山桂里奈は、この大会で初めて「ジョーカー」となった。
それは「切り札」という意味で、基本的に日本代表は組織力で勝負するサッカーだが、ゴール前の局面を打開し得点する個の力も必要で、後半、相手ディフェンダーが疲れた時間帯にドリブルで仕掛けて点をとる選手、最悪、倒されてもフリーキックを得るような選手が「ジョーカー」だった。
これまでどのチームでもスタメン、フォワードとして90分戦ってきた丸山桂里奈だが、チームメイトいわく、
「味方も読めないんで相手も読めない」
というドリブルでの打開力とシュート力で、この役割が定着し、後に「スーパーサブ」と呼ばれるようになった。
丸山桂里奈は、出番までベンチから相手ディフェンダーを観察し、自分が裏に回るイメージを繰り返した。
「本音をいえば、スタメンで初めから出て、前半からドンドン得点を狙っていきたいというきもちはあります。
でも代表で私に求められているのは、バテている相手にドリブルでゴール目指してひたすら突っ込んでいくこと。
そして得点につなげることです」
丸山桂里奈が、交代出場で決めた「10点」は、男女日本代表の歴代1位である。
2004年4月、アテネオリンピック、アジア最終予選が日本で開始。
出場11ヵ国中、オリンピックに出場できるのは2ヵ国。
まず3つのグループに分かれて総当たり戦を行い、グループ1位と2位の4ヵ国が決勝トーナメントを行う。
予選リーグを突破し、決勝トーナメント1回戦(準決勝)に勝てば、オリンピック行きのチケットを得ることができた。
日本は、ベトナム、タイと共に予選リーグC組に入り、順当にいけば、決勝トーナメント1回戦でA組の北朝鮮と当たるはずだった。
北朝鮮は中国に次ぐ、アジアの強豪で、フィジカルが強く、何より勝利への執念がズバ抜けていた。
アトランタ、シドニーと出場できなかったオリンピック。
「アテネに行きたい」
という気持ちが強い日本は、サッカー協会と各所属チームの強力なバックアップもあって、年間約100日というかつてないほど長い期間、代表合宿を実施し、上田栄治監督を始め、代表スタッフは徹底的に北朝鮮を分析し、練習の多くの時間を北朝鮮対策に費やした。
4月18日、日本代表は駒沢競技場でベトナムに7対0で大勝。
4月20日、澤穂希が、2人対1人の練習中、右足アウトサイドでパスを出した瞬間、
「痛いっ」
と倒れ込んだ。
いったんピッチの外へ出て右膝にテーピングをして戻ったが、立っているのもやっとで仕方なく練習を諦めて宿舎へ。
安静にしていれば痛みが引くと思ったが、まったく治まらなかった。
チームは、 澤穂希のケガを極秘扱いとし、かん口令を敷いた。
このとき丸山桂里奈は、澤穂希と同部屋だった。
4月22日、タイ戦を6対0で勝ち、日本代表はグループリーグを1位で通過。
澤穂希が出場しなかったことについては
「ベトナム戦で左太腿を負傷したので大事をとった」
とまるで温存したかのように発表された。
そして決勝トーナメント1回戦(準決勝)の相手は予想通り、北朝鮮に決まった。
澤は、マスコミの前では明るく振舞い、自分のケガが北朝鮮に伝わらないように細心の注意を払ったが、自力でベッドから立ち上がることもできず、
「北朝鮮船は無理かもしれない・・」
と思うとくジンマシンが出るなど精神的にも追い詰められた。
そんな澤に、丸山桂里奈を含め、チームメイトは
「ケガなんかに負けるホマじゃないでしょ」
「絶対、大丈夫だよ」
「平気だよ。
治る、治る」
と励まし、控えの選手でさえ、出場のチャンスだというのに
「ピッチに立っていてくれるだけでいいんだから」
といった。
その言葉を聞いて、澤は
「やるしかない」
と決意した。
4月24日、澤穂希がケガをして4日後、運命の北朝鮮戦の日を迎えた。
起床後、日本代表は澤を含め、全員でホテルの周りを散歩。
途中、熊野神社に寄り、
「絶対に勝ちますように」
と祈願し、八咫烏(ヤタガラス、3本足のカラス、日本サッカー協会のシンボルマーク)のお守りを全選手、全スタッフ分購入。
するとそこにカラスがやってきて、八咫烏様のメッセージのように感じ、
「勝つ気がする」
とみんなで言い合った。
出発する時間となったとき、丸山桂里奈は、同部屋の澤穂希に
「ここに戻ってくるとき、泣いているか笑っているか、もうどっちか運命は決まってるんだね。
怖いよね。
でも絶対、アテネ行けるね」
と笑顔でいわれた。
足を引きずりながら歩く澤穂希の荷物を持って一緒にバスへ向かった。
「勝てばオリンピック出場が決まる一戦でした。
北朝鮮は本当に強くて。
何が強いって、気迫や気持ちの面でとても強く、いつも私たち日本の前に立ちはだかってきたチームでした。
当時の日本女子代表は上田栄治監督を中心に、先輩方がひとつひとつ積み上げてきていて、私はまだ大学生で若手でしたが、このチームは強いと感じていました。
チーム全体でこの試合にかける思いも強くて、相手に負けないくらいの気合いが入っていました」
(丸山桂里奈)
国立競技場に着くとモチベーションビデオをみた。
モチベーションビデオとは、選手たちの気持ちを最大限引き出すためにスタッフが編集しつくった映像のことで、通常、過去の試合などで構成された。
佐々木紀夫監督が担当者に意図とイメージを伝え、完成したものをスタッフ全員で確認してから選手にみせた。
「いつも映像をみせればいいという話ではない。
あまりみせすぎると慣れてしまって感動が薄れますからね。
ここぞというタイミングを常に意識していました」
この日のモチベーションビデオは、2003年のメキシコ戦。
BGMは、ベリンダ・カーラエルの「ヘブン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」
「♪ああ、ベイビー、それが何の価値があるか知っていますか?
ああ、天国は地上の場所だ彼らは天国では愛が最初にあるといいます。
私たちは天国を地上の場所にします。
ああ、天国は地上の場所です夜が明けたら私はあなたを待っています。
そしてあなたは戻ってきます。
そして世界は生きています。
・・・・・・・・
外の通りで子供たちの声あなたが部屋に入ってくるとあなたは私を引き寄せて私たちは動き始める。
そして私たちは上空の星たちと一緒に回転している。
そしてあなたは私を愛の波に乗せて持ち上げてくれる。
ああ、ベイビー、何か知ってる?
それは価値がありますか?」
という歌詞をバックに、選手1人1人のプレーの映像が流れた。
すると真っ暗な部屋のあちこちから鼻をすする音がして、みんな感極まって肩を震わして泣いていた。
気持ちが最高潮に達し、ウォーミングアップのためにピッチへ出ると、スタジアムの3万人を超えるサポーターの大歓声に驚いた。
普段、あまり客が入らない女子サッカーの選手にとって信じられないほどの大音量の声援だった。
アップを終えてロッカールームへ戻って、試合に向けて準備。
スタッフを含め、チーム全員が八咫烏のお守りを身につけていた。
19時20分、試合開始。
キックオフ直後、味方がいいディフェンスでボールを奪取。
しかしすぐに北朝鮮のエース、リ・クムスクに奪い返された。
すると痛み止めの注射をうって、痛み止めの薬を飲み、座薬を入れた澤穂希が、リ・クムスクをショルダータックルで突き飛ばし、尻もちをつかせ、再び奪い返すと、すぐにボールを前線へ。
日本は、そのボールを展開してシュートまで持ち込んだ。
澤穂希は、
「無意識だった。
膝のことはまったく気にしていなかった。
体が勝手に動いた感じ」
というが、このワンプレーでチームは大きく鼓舞された。
控え選手としてベンチにいた丸山桂里奈は、
「あれでイケる!と思いました」
同じくベンチの安藤梢も
「あの澤さんのプレーを見た瞬間、ああ、やっぱり今日は私たちが勝つんだと確信しました」
ゴールキーパー、山郷のぞみも
「穂さんが1発目でガツンと相手にぶつかって。
痛かっただろうし怖かったと思うのですが、あのタックルをみせてくれたおかげでチーム全体がイケるぞっていう雰囲気になりました」
上田栄治監督も
「開始直後、相手のエース、リ・クムスクをショルダーチャージで突き飛ばしてボールを奪うんです。
とてもケガをしているとは思えないプレーです。
あれをみて今日はやれるかもしれないと思いました」
勢いを得た日本は、前半11分とロスタイムに荒川恵理子がゴールを決め、2対0でハーフタイムに入った。
しかし安心している選手は1人もおらず、後半攻めてくるであろう北朝鮮に対して、
「守りに入ってしまっては防戦一方になる」
「相手陣地でプレーしよう」
と声をかけあった。
後半序盤、丸山桂里奈は、大活躍の荒川恵理子と代わってピッチイン。
「点をとってやろうというよりも、せっかくのよい流れを切らないために変なボールの失い方をしないで長い距離を走ろうとか、相手陣地で仕掛けようとか、とにかくチームメイトを楽にさせたい一心でした。
澤さんとは同部屋だったので、彼女が足を痛めてコンディションが良くないのもみていました。
試合中はそれがわからないくらいのプレーをみせていて。
澤さんの負担を減らさないとという思いが特に強かった記憶があります。
北朝鮮は身体の当たりもすごくて、ユニフォームが破れるかというくらい引っ張られましたが、私はとにかく気持ちで負けませんでした」
丸山桂里奈は、攻撃はもちろん、果敢に前線でチェイシング(ボールを持っている選手を積極的に追いかけること)
結果、北朝鮮の選手たちが次々に足をつった。
そしてセットプレーから大谷未央がゴールを奪い、1991年以降、7連敗している北朝鮮に3対0の完勝。
この試合は生中継され、16.3%(瞬間最高31.1%)という高視聴率を記録。
優勝候補筆頭の北朝鮮に勝ってオリンピックへの出場権を獲得しただけでなく、魂あふれる戦いが日本中に感動を呼んだ。
このときの日本代表選手の多くが、この試合を
「サッカー人生で最高のゲーム」
といっているが、丸山桂里奈も同じだった。
「本当に奇跡的な瞬間でした。
北朝鮮がスーパー強くて。
いやアジア国が強くて、中国、韓国も強かったんだけど、北朝鮮はもはや頭ひとつ抜けてて。
北朝鮮に勝たないとアテネ行きの切符は手に入らなかったけど、3対0で勝利した試合でした。
その後のFIFA女子ワールドカップで、さらに多くの観衆も経験しましたが、やはりこのときの国立競技場の雰囲気は忘れられません。
当時は代表戦でもスタンドにいるお友達や知り合いを見つけることができるほど観客が少なかったのですが、この日は誰も見つけられませんでした。
北朝鮮の応援席もいつもよりも気合が入っていたように思いました。
在籍していた日体大サッカー部の仲間たちがバックスタンドに横断幕を出してくれているのを見つけて、とても心強かったのも覚えています。
ピッチに入ってからも、前に仕掛けると歓声が沸き、たとえ話ではなく本当に背中を押されました」
アテネ行きは決まったが、大会は継続。
北朝鮮戦から2日後、広島で中国との決勝戦が行われ、
「ここまで来たら優勝」
と澤穂希はケガを押して出場したが、0対1で負けた。
酷使してパンパンに腫れた右膝は、
「右膝半月板損傷、全治2ヵ月」
と診断され、3ヵ月後のオリンピックに出場できるかどうかはわからなかった。
丸山桂里奈は澤のケガが半月板損傷と知って、とてもプレーできる状態ではなかったはずと驚いた。
北朝鮮戦を観客席で観ていた日本体育大学 女子サッカー部1年生の川澄奈穂美は、
「澤さんが大きなケガをしていたのだと後から知りました。
そんな状態ですから、いい訳をしようと思えばいくらでもできたと思うけれど、澤さんはそうじゃなかった。
戦い抜く澤さんたちの姿をみて、私の心は震えました」
と感動した。
4年生の丸山桂里奈は、アテネオリンピックのためにあまり日体大の練習には来なかったが、川澄奈穂美は、そのプレーをみて、
「ウウッとなった」
「衝撃の存在だった」
という。
そして話してみて、
(全っ然、人の名前覚えない!)
と驚いた。
例えば丸山桂里奈に、
「〇〇高校出身の、あの子いるじゃん」
といわれ、
「えっ、誰?
〇〇ですか?」
と聞き返すと
「そうそうそうそう」
というので、
(出身校わかるなら名前覚えろよ)
と思った。
さらに
「ウチさあ、こうやってサナホとさあ、超しゃべってんじゃん。
あんまりさ、なんていうの、下の子にちゃんとしてよってさ、タメから怒られるんだけど、ヤバくない?」
といわれ、
(私にそれいう?)
と思いながら
「そうですね」
と答えた。
あまりにフランクな丸山桂里奈に、本当は『・・・先輩』といわなくてはならないのに、すぐに
「桂里奈さん」
と呼ぶようになり、最終的には
「かりちゃん」
になった。
とにかく丸山桂里奈には笑わせてもらい、地獄の1年生時代を救われた川澄奈穂美は、
「ホント、まんま。
ホント、いいと思う」
といっている。
アテネオリンピック出場を決めた後、日本では女子サッカーブームが起き、日本代表は取材やテレビ出演のオファーが殺到。
日本サッカー協会は、
「もっと親しみを感じるような名前があるといい」
と愛称を募集。
7月7日、七夕の日に日本女子代表チームの新しい愛称の発表イベントを開催。
丸山桂里奈を含む浴衣姿の5人の日本女子代表選手が持つ大きな紙には、地獄のリハビリを経て復活したキャプテン、澤穂希の筆で
「なでしこジャパン」
と書いてあった。
逆境に強い、凛々しく清々しい女性を表すネーミングだった。
「それまで「A代表」と呼ばれていた私たちのチームの愛称が「なでしこジャパン」となりました。
正直、最初はしっくりこなかったのですが、徐々に好きになり、いまではこれ以外にないと思うくらい好きです」
1ヵ月後、なでしこジャパンは、ギリシアに移動。
男子代表がビジネスクラスなのに比べ、女子はエコノミーで、積める荷物も限られ、ボールやウェア、トレーニング用具を優先し、個人の荷物は最小限にとどめ、男女格差を感じながら港町ボロスへ。
丸山桂里奈は、日本代表キャプテン、大部由美と同部屋になった。
上田栄治監督以下代表スタッフがライバルを徹底的に研究した結果、陣形は3バックから右サイドハーフを置かず、右サイドを大きく開けた変則的な4バックに変わり、レギュラーだった大部由美は控えに回っていたが、
「サブが強いチームは強く、サブが弱いチームは弱い」
と声をかけ、
「メンバー全員で五輪の切符をとる」
という一体感につなげていた。
そんな大部由美を
「大変規則正しい方」
「練習以外にも厳しい方」
と思っていた丸山桂里奈は、絵葉書を書いたり本を読んで静かに過ごした。
8月11日、予選リーグ第1戦、スウェーデン戦に1対0で勝利。
翌12日、アテネの選手村に移動し、男子のパラグアイ戦を応援し、世界の有名アスリートを目の当たりにして盛り上がった。
14日、予選リーグ第2戦、ナイジェリア戦。
アフリカのチームと対戦経験がないなでしこジャパンは、独特の身体能力の高さと何をやってくるかわからないプレーに翻弄され、0対1。
その上、攻守の要、ボランチの宮本ともみが負傷。
なでしこジャパンは予選リーグ3位だったが、その内容でなんとか決勝トーナメントに進出し、予選で敗退し帰国する男子代表をカップラーメンなどをもらった後、お見送りした。
20日、決勝トーナメント初戦(準々決勝)で、世界ランキング2位のアメリカと対戦。
上田栄治監督は、ナイジェリア戦で負傷した宮本ともみが強行出場させ、北朝鮮戦と同じ布陣を敷いた。
丸山桂里奈は、小林弥生、柳田美幸、安藤梢、山岸靖代らとベンチで途中出場に備えた。
前半43分、ゴール前に上がったボールをキャッチに出たゴールキーパー、山郷のぞみが、アメリカの選手と交錯してファンブルし、押し込まれ、0対1。
後半3分、日本は山本絵美のフリーキックで1対1。
後半14分、ゴール前にロングボールが飛んできた日本は、思い切ってオフサイドトラップを仕掛けたが、副審のフラッグは上がらず、フリーな選手4人を相手に山郷のぞみはゴールを奪われ、1対2。
交代で入った丸山桂里奈は、得点を目指してボールを追いかけたが、アメリカの巧みなゲームコントロールの前にタイムアップ。
日本は、1対2で敗れ、アテネオリンピックが終わった。
大学4年間で、
・全日本大学女子サッカー選手権大会を4年連続優勝(日体大は5連覇)
・日本代表(なでしこジャパン)として、FIFA女子ワールドカップ、アテネオリンピックに出場
という華々しい活躍をひっさげ丸山桂里奈は、東京電力へ就職。
配属先は福島第一原子力発電所。
担当は「管理職付」で、上司は2年後に起こる震災で原子炉の暴走をギリギリで回避させる吉田昌郎だった。
東京電力の社員となると同時に「東京電力女子サッカー部マリーゼ」に入団。
マリーゼは、非鉄金属メーカーであるYKKの東北工場で創設され、L・リーグでも好成績を残したYKK東北女子サッカー部フラッパーズが東京電力が移管されてできたチームで、丸山桂里奈が入ったとき、まだ創部7ヵ月。
当初、ベレーザ入団が決まりかけていたが、挑戦好きな丸山桂里奈はマリーゼを選んだ。
「中学を卒業するときもベレーザに上がれたんですけど、自分が高校サッカーがいいなと思ったんです。
メニーナから高校にいった人にもいろいろ話を聞いて、高校サッカーっていいなと思って。
それにあんまり上手くはないけど、そういう高校サッカーを強くしたいという気持ちもありました。
いつもそういう感じなんです。
マリーゼに入ったときも、本当はベレーザに行く予定だったんですが、それをやめてマリーゼに行ったので。
YKK東北女子サッカー部フラッパーズが移管してきてマリーゼになるというタイミングで、だからそのときもすごく弱かったけど、新しいチームになるから強くしたいという気持ちが出てきて。
自分にはそういうのが合っているというか、信念みたいなものなんですかね」
マリーゼの由来は、
「海(マリーン)のように力強く、風(ブリーズ)のように颯爽と」
選手、スタッフは全員、東京電力の社員で、午前は福島第一原子力発電所で働き、午後は双葉郡楢葉町にあるJヴィレッジスタジアムで練習するというL・リーグ唯一の実業団チーム。
マリーゼの選手は、全員、社員寮に入り、1人1部屋、8畳ほどの個室がもらえ、風呂、トイレは共同。
毎朝、一緒に「マリーゼバス」に乗って発電所へ向かい、それぞれ部署で仕事。
基本的に午前中で仕事は終わり、午後、マリーゼバスで移動し、Jヴィレッジスタジアムで練習。
そして練習後、一緒にマリーゼバスで寮に戻った。
「1番戸惑ったのは仕事でも練習でも寮でもずっと同じメンバーと行動を共にしなくてはいけなかったこと。
いつも一緒なのでさみしくはなかったけど、どんなに仲が良くても仕事でもプライベートでもずっと顔を合わせていると、さすがに息が詰まる。
それにずっと一緒にいることで緊張感がなくなってプレーに影響が出てしまうことが心配でした」
マリーゼには、アテネオリンピックのとき日本代表キャプテンだった大部由美がいて、丸山桂里奈ら新人は練習以外に寮生活でもよく注意を受けていた。
あるとき練習が19時から始まる日があった。
いつも軽く食べてから練習に行く丸山桂里奈だが、この日は用事があってそれができない。
そうなると夕食は寮に帰ってから22時くらいになってしまう。
考えた結果、仲の良かったチームメイトとパンを買いに行き、練習後、寮に帰る前に食べた。
チームが食堂で食事しているとき、2人だけで風呂に入っていると、大部由美が入ってきて、
「あなたたち何考えてるの!」
と怒られ、その場で正座。
寮ではみんなで一緒に食事をとるというルールがあることをコンコンと説教された。
ずっと東京の下町で暮らしてきた丸山桂里奈は、福島県がどんなところかまったく知らなかったが、美しい土地と人の善さに感動した。
「マリーゼ時代、たくさんの地域の方に支えていただきました。
あの時期に教わったことは、人への敬意や感謝、思いやりの大切さです。
福島の最大の魅力は「人」。
人がいいからおいしい野菜やハイレベルな日本酒ができる。
そして人をおもてなしして地域に受け入れる心がある。
たくさんの方にそういう「福島人」の輝きや温かさに触れてほしいです。
良い意味で福島の人ってとてもシャイですよね。
その分、私が大きな声で地域の魅力を叫びます。
福島にはそれくらいすてきなものや場所がたくさんあるから、自信を持ってほしいです!」
最初、自転車しか移動手段がなかったが、運転免許を取得すると県内外へドライブへ出かけた。
川内村の「かわうちの湯」という温泉は
「寮から車で30分くらい山道を走らせないといけないので、あまりみんないけないし、ここまでくるとマリーゼの選手を知っている人も少ないので思い切り羽を伸ばせる」
と常連に。
五色沼や猪笛代湖など県内の観光地は
「ほとんど行き尽くした」
海沿いの道や山奥の道など自然の中を車で走るのが爽快で、中でも富岡町の「夜の森公園」はお気に入り。
2.5㎞にわたり1500本以上の桜が続き、開花中は桜のトンネルとなり、夜はライトアップされ、さらに幻想的な風景になった。
「私はドライブが好きで、特に1人で運転していると、誰もいない空間なのでいろいろ考え事もできるし、気分が変わって気持ちに余裕が出てきます。
車の中では爆音で音楽を聴いています。
音楽とドライブというのは最強のカップリングで寮に帰る頃にはすっかりリフレッシュして頑張ろうという気になっていました。
どんなにイライラしても、凹んでも大丈夫!
車と音楽があればいい!」
また広い海と建屋しかみえない福島第一原子力発電所の展望台も
「将来、ここで結婚式を挙げたい」
と思うほど大好きな場所だったが、震災後、誰も近づけない場所となってしまった。
ちなみに
「初体験は2005年、22歳」
といい、マリーゼ1年目に夜のデビューも果たした丸山桂里奈だが、クリスマスイブに一緒にドライブしていたとき、かかってきた電話に出ただけで激怒され、監禁状態となり朝まで車から出られなかった。
「好きなことなら恋愛もサッカーも全力でできます。
アスリートはオン・オフが大事なんていいますけど、私はオン・オフなんてないんですよ。
起きているときは常にオンです。
だからサッカーも全力だったけど恋愛だって全力で向き合っていたんです。
例えば彼氏の家に泊まった次の日の練習は「イチャついたんだからメッチャ頑張ろう!」って誰よりも熱心に練習に励んでいました。
ケンカしたりトラブったり失恋しても「なんだよーっ!」って思って、どっちみちエネルギーになるんで。
アスリートってモチベーションが大事なので、私の場合は恋愛がサッカーのパワーにもなっていたんです」
創設1年目、マリーゼは、L・リーグ4位と好発進。
ホーム観客動員数が平均4,000人を超えるなど、地元が盛り上がる中、丸山桂里奈は、8得点を挙げて、新人賞を獲得した。
「社会人1年目にいいスタートを切ることができて、とてもうれしかった。
生活のペースもつかみ、福島がどんどん好きになりました。
いいところがあるのはもちろん、何より福島の人たちが大好きで、地元のチームということでどれほど皆さんにお世話になったか。
それになんといっても会社の人たち。
日本代表に試合のときも熱心に応援してくれました」
この年、日本代表としては、真夏の韓国で第1回東アジア女子サッカー大会があり、中2日で3試合が行われ、丸山桂里奈は、2試合(北朝鮮戦と韓国戦)に途中出場。
チームは
北朝鮮 0対1
中国 0対0
韓国 0対0
と無得点で3連敗。
マリーゼ2年目、昨年、優勝争いに絡んだマリーゼだったが、負けと引き分けが続き、最終的に1勝8敗5分と1勝しかできず、2部リーグに降格。
監督は引責辞任し、年末の全日本女子サッカー選手権大会は、大部由美が選手兼監督に。
丸山桂里奈は日本代表として、7月に真冬のオーストラリアで行われたAFC女子アジアカップと12月にカタールで行われたアジア競技大会に参加したが、無得点。
「ドン底だ。
はい上がるしかない」
と誓った。
3年目、新監督を迎えたマリーゼは「2部リーグ優勝」、丸山桂里奈は「得点王」に目標に掲げた。
この年は、
3月 FIFA女子ワールドカップ予選、大陸間プレーオフ
4~8月 北京オリンピック最終予選
9月 FIFA女子ワールドカップ
という日本代表戦があり、これに加え、4~12月までL・リーグの試合があった。
丸山桂里は、週2回、マッサージに通い、なにかあればすぐに治療にいくなど体のケアに努めていたが、シーズン序盤に「グローインペイン症候群」を発症。
グローインペイン症候群は、股関節周辺筋肉のオーバーユースによって起こる股関節障害で、手術や薬で治せるものではなく、とにかく安静にして休ませるしかなかった。
しかし日本代表に入ることをあきらめられない丸山桂里奈は、
「まだ可能性はある」
と股関節に過剰に負担をかける蹴り方から体全体を使って蹴るようにフォームを改善。
すると最初、利き足である右足の股関節が痛み出し、左で蹴るようにすると左の股関節も痛くなった。
左をかばうと右、右をかばうと左が痛くなるという悪循環を繰り返した末、くしゃみをしたり座っているだけで骨盤周辺に激痛が走るまでに悪化。
結局、日本代表は辞退。
大泣きした後、
「本腰を入れて休むしかない」
と気持ちを切り替えた。
するとその後、症状は改善し、プレーできるようになった。
最終的にマリーゼは、2部リーグで優勝し、1部復帰。
丸山桂里奈は、17試合22得点という驚異的な記録をを挙げたが、ベレーザの大野忍の23得点に及ばず、得点王にはなれなかった。
しかし
「ドン底を自覚すれば怖いものナシ」
ということと
「そのとき、その場でできることを精いっぱいやる」
ということを学んだ。
丸山桂里奈がL・リーグで活躍している間、日本代表は、北京オリンピック最終予選で、ベトナム、タイ、韓国とホーム&アウェイで戦い、5勝1分で無事、出場権利をGET。
しかしFIFA女子ワールドカップでは、
イングランド 2対2
アルゼンチン 1対0
ドイツ 0対2
で予選グループリーグ敗退。
ワールドカップが終わった後、代表コーチだった「ノリさん」こと佐々木則夫が代表監督に就任。
北京オリンピックは9ヵ月に迫っていた。
2008年2月4日、佐々木ジャパンが静岡県で初合宿を行い、丸山桂里奈は日本代表に復帰。
最初のミーティングでシステムの変更が告げられた。
これまでは
中盤をダイヤモンド型にする4-4-2
2トップの下に攻撃的MFを置く3-5-2
だったが、
中盤を4人を横一列にする4-4-2
守備スタイルも、人をマークする「マンマーク」ではなく、エリアをマークする「ゾーンディフェンス」
になった。
合宿から2週間後の2月18日、中国で東アジア女子サッカー選手権が開催。
短い準備期間でのいきなりの公式戦だったが、佐々木監督は、
「北京オリンピックで勝つために新しいサッカーに取り組もうとしている。
最初から新しいシステムがうまく機能するとは思っていない。
東アジア選手権は北京オリンピックへ向けての通過点。
恐れずにやればいい。
課題が出た方が今後のためになるから逆に失敗するくらいでいい。
結果にはこだわらなくてもいい」
といい、それを聞いて選手は無駄な力が抜け、
「とにかく自分たちのサッカーをやろう」
と思い切りプレーすることに専念。
そして宿敵、北朝鮮に3対2で勝利。
佐々木監督は、修正点を書いた紙をホテルのエレベーターに貼り、次の日からチーム全員が、その課題を意識して練習。
2戦目、韓国戦も2対1で勝利。
3戦目、決勝戦の相手は、中国。
「結果にはこだわらなくてもいい」
といっていた佐々木監督が
「優勝狙っていくぞ」
といい出したので丸山桂里奈は、
「ノリさん、いってること全然違うじゃーん」
と笑った。
そしてなでしこジャパンは、中国サポーターで埋め尽くされて真っ赤になったスタジアムで激しいブーイングを浴びながら、3対0で勝利し、アジアナンバー1になった。
1ヵ月後、第1回キプロスカップがあり、アメリカ、オランダ、スコットランド、カナダ、ロシア、日本が参加し、なでしこジャパンは3位。
その2ヵ月後のAFCアジアカップでは、ここまで出番がなかった丸山桂里奈が、2戦目、台湾戦でゴールを決め、なでしこジャパンは4位。
さらに1ヵ月半後、アジアカップの3位決定戦で敗れたオーストラリアと親善試合で再戦し、3対0で勝利。
その3点目は丸山桂里奈だった。
その直後、北京オリンピックが始まった。
ここで丸山桂里奈は、同年齢、同ポジションの「アンチ」こと安藤梢と同部屋になり、以降、なでしこで1番の仲良しとなった。
「同じ部屋でいても、まるで1人でいるような錯覚に陥るくらいお互い、素のままでいられるし、会話があってもなくても平気だし、必要がない。
私にとってアンチは、唯一、目の前でオナラをしても平気な相手」
一緒にいるとあまりに楽なので
「彼氏彼女を超えているよね」
「長年連れ添った夫婦みたいだよね」
といい合っていたが、安藤梢はマイペースなところがあって、例えば眠れないと部屋の電気をつけ、
「寝れないじゃない」
と抗議しても平気な顔をして自分が寝るまで消さなかった。
家に電話していた安藤梢が母親に
「桂里奈ちゃんにかわって」
といわれたのでかわると丸山桂里奈は
「桂里奈ちゃん、あそこはパスしたらダメだよ」
といわれ、
(安藤のお母さんに怒られる私って・・・)
と悩んだこともあった。
そんな離婚の危機は何度もあったが、2人の仲は現在でも続いている。
よく
「何にも考えてなさそう」
「何も悩みがなさそう」
「なんでそんなに明るいの?」
といわれるくらい、いつも明るい丸山桂里奈だが、自分で
「人より涙腺が大きいんじゃないか」
と思ってしまうくらい涙もろく、悲しいニュースやドラマ、映画、動物モノのドキュメンタリーをみるとすぐに泣いてしまい、そして周りに、
「そこで泣く?」
といわれてしまう。
自分が浮き沈みが激しいことを自覚し、日本代表にいるときは、
「浮くのはいいが沈むのは許されない」
と決めている丸山桂里奈が気をつけているのが
「たくさん笑うこと」
お笑いDVDは必須アイテムで、特にTKOの木本のファンでDVDを全部持っており、「人志松本のすべらない話」やとんねるずの「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」などもコンプリート。
遠征時には、それを持っていき、ホテルでずっとTKOをみていた。
ある日、安藤梢に、
「なんでそんなにTKOばっかりみてるの?」
とあきれられたが、その後、自分がいないときにTKOのDVDをみている安藤梢を発見し、
「きっとTKOさんのよさがわかったに違いない」
と思った。
日本は、予選でグループGに入り、ニュージーランド、アメリカ、ノルウェーと総当たり戦を行った。
第1戦、前半37分、ニュージーランドに先制点を奪われ、後半16分にもPKで追加点を奪われ、0対2。
しかしここから勝負強さをみせた。
後半27分、背番号8、宮間あやがPKをキッチリ決めて、1対2。
後半37分、丸山桂里奈が投入され、攻勢を強め、後半41分、宮間のフリーキックに澤穂希がボレーで合わせて2対2。
土壇場で引き分けに持ち込んで勝ち点1をもぎ取った。
第2戦、FIFA女子世界ランキング1位のアメリカに0対1。
第3戦、前半27分、ノルウェーに先制されたが、4分後に同点。
後半開始直後、相手オウンゴールで2対1。
さらに大野忍、澤穂希、原歩が決めて、5対1。
なでしこジャパンは、グループリーグ3位で予選を突破。
決勝トーナメント初戦(準々決勝)で、開催国の中国と対戦。
完全アウェイで苦戦が予想されたが、2対0で勝利。
すでに世界ベスト4。
次、勝てばメダル確実という状況で準決勝、アメリカ戦も臆することなく挑み、前半16分に先制点。
しかし前半41分、44分、後半25分、45分と失点。
試合終了間際に1点を返したものの、2対4で敗北。
ドイツとの3位決定戦戦は、前半から圧倒的に攻め込んだが得点を奪えず、0対0で迎えた後半23分、試合の流れを変えるために丸山桂里奈が投入された。
しかし
「準備運動は疲れるだけで意味がない」
と思い、全く動いていなかった丸山桂里奈は、試合に入ると動きにキレがなく思い通りに走れない。
得点を奪うどころか、ドイツに2点を奪われ、0対2で敗北し、初のメダル獲得は先送り。
試合後、普段温厚な澤穂希から
「おい、お前さ、もっと走れよ!!」
と激怒され
「このとき初めて誰にも相談せずに思いつきで行動すると大きなミスを生むことがわかりました」
また試合中、得点を狙って敵のゴールポストに隠れていて、試合終了後、怒られたことがあった。
佐々木紀夫監督は、丸山桂里奈が
「オフサイド」
というルールを理解していないことがわかったが
「丸山は感覚的な選手。
細かいことを教えたら動けなくなる」
と野性を保護するために放置。
これについて丸山桂里奈は、
「そこにボールがあるから蹴っていました」
「ルールを知らなかったところで、ボールを持てばとられることがない」
「サッカーは団体競技なので誰かのために何かをするのは当たり前で足りないところをチームで補い合うところも魅力」
といっている。
しかし男子代表が3戦全敗に終わったのに比べ、なでしこジャパンは世界ベスト4。
6試合で11得点という攻撃力、しかもひたすら守備を固めてカウンターを繰り出すのではなく、組織的な守備とパスワーク、献身的なランニングで攻勢をとるサッカーは世界から注目を集めた。
決勝戦は、アメリカ vs ブラジルとなり、1対0で勝ったアメリカが驚異のオリンピック3連覇。
日本ではL・リーグが「なでしこリーグ」に名前に変え、8チーム総当たり戦を行い、マリーゼは5位。
1位は、ベレーザで4連覇を達成。
ベレーザに所属していた澤穂希は、アメリカのワシントン・フリーダムから国際ドラフト1位で指名を受け、2度目の渡米を行った。
一方、マリーゼの丸山桂里奈は、グローインペイン症候群が再発し、さらに坐骨神経痛併発。
東京の国立スポーツ科学センターでリハビリを行うため、福島を離れる時間が増え、チームとの間に溝が生まれていった。
試合に出られず、チームに貢献できず、肉体的にも精神的にも追い詰められ、結局、シーズン途中にチームメイトへ挨拶することもできないまま、5年間いたマリーゼを退団。
同時に東京電力を退職した。
「東電の社員だったので、待遇は他の社員と同じ。
私は大卒だったから給料は手取りで22万円ぐらいで、その他にボーナスが年3回ありました。
日本の女子サッカー選手は、男子とは違い、働きながらサッカーをしている選手がほとんど。
他のチームには、チームの試合でも休みを取りづらかったり、1日中働いてから夜に練習をするという選手もいました。
ただ私のいたマリーゼでは、勤務は午前中3時間のみ。
午後はサッカーの練習に没頭できたし、試合の次の日は休ませてもらえたりと、とても恵まれていました」
ケガをした上、所属チームと収入を失った丸山桂里奈は
「本当にピンチ!」
「このままサッカーができないのだろうか?」
と不安を抱えながら目の前の治療とリハビリに黙々とこなした。
そうやって過ごしているとアメリカから
「トライアウトを受けないか?」
とオファーが来た。
日本代表として58試合13得点、26歳の丸山桂里奈は、それを受けて合格。
2010年3月、27歳の誕生日に単身渡米し、アメリカ女子サッカープロリーグ「WPS」に参戦しているフィラデルフィア・インディペンデンスに入った。