韓国で開催される第14回アジア大会に出発する前に日本代表は成田で数日、宿泊。
そこで丸山桂里奈は、澤穂希と同部屋になった。
緊張はピークに達し、まず澤の荷物を部屋まで運び、澤が来ると直立不動。
そして
「何か失礼なことをいってしまったら大変」
と無言。
澤穂希に、
「私は体のケアがまだだから、桂里奈先に入って」
とお風呂を勧められても
「尊敬する先輩より先にシャワーを使うなんてとてもできません」
その後、何度もルームメイトになって
「桂里奈、シャンプー持ってきて。
私、リンス持っていくから。
同じもの使っているからいいでしょ」
と貸し借りをしたり、サッカーに関することやそれ以外のことでも、なんでも話せるほど親しくなった。
「夜、しゃべり足りなくて電気を消してもしゃべっていたこともあります。
私が澤さんをとてもすてきだと思っていることは、いつ誰に対してもフランクで親切なところ。
そしてちょっと天然なところもいいなと思います」
そして丸山桂里奈は、北朝鮮戦で日本代表デビュー。
日本代表は下着を自分で洗濯しなくてはならなかったが、丸山桂里奈は、下着を置きっぱなしの上、溜め込み、干し方も他の選手いわく
「いっちゃえば絞ってそのまんま」
2003年9月20日、第4回FIFA女子ワールドカップが開催。
当初、中国で行われるはずだったが、SARS(重症性呼吸器症候群)の大流行で、急遽、アメリカに開催地が変更。
日本は4大会連続参加となったが、ここまでの道のりは大変厳しかった。
まず予選を兼ねたアジア大会で韓国に敗れて4位。
準優勝の中国が開催国枠で出場権を獲得していたため、首の皮1枚でつながって大陸間プレーオフに進出。
北中米カリブ海3位のメキシコにアウェイで2対2、国立競技場で2対0と辛くも勝利を収め、本大会出場となった。
そして
アルゼンチン戦 6対0
ドイツ戦 0対3
カナダ戦 1対3
と2大会連続予選リーグ敗退。
大学3年生の丸山桂里奈は、この大会で初めて「ジョーカー」となった。
それは「切り札」という意味で、基本的に日本代表は組織力で勝負するサッカーだが、ゴール前の局面を打開し得点する個の力も必要で、後半、相手ディフェンダーが疲れた時間帯にドリブルで仕掛けて点をとる選手、最悪、倒されてもフリーキックを得るような選手が「ジョーカー」だった。
これまでどのチームでもスタメン、フォワードとして90分戦ってきた丸山桂里奈だが、チームメイトいわく、
「味方も読めないんで相手も読めない」
というドリブルでの打開力とシュート力で、この役割が定着し、後に「スーパーサブ」と呼ばれるようになった。
丸山桂里奈は、出番までベンチから相手ディフェンダーを観察し、自分が裏に回るイメージを繰り返した。
「本音をいえば、スタメンで初めから出て、前半からドンドン得点を狙っていきたいというきもちはあります。
でも代表で私に求められているのは、バテている相手にドリブルでゴール目指してひたすら突っ込んでいくこと。
そして得点につなげることです」
丸山桂里奈が、交代出場で決めた「10点」は、男女日本代表の歴代1位である。
2004年4月、アテネオリンピック、アジア最終予選が日本で開始。
出場11ヵ国中、オリンピックに出場できるのは2ヵ国。
まず3つのグループに分かれて総当たり戦を行い、グループ1位と2位の4ヵ国が決勝トーナメントを行う。
予選リーグを突破し、決勝トーナメント1回戦(準決勝)に勝てば、オリンピック行きのチケットを得ることができた。
日本は、ベトナム、タイと共に予選リーグC組に入り、順当にいけば、決勝トーナメント1回戦でA組の北朝鮮と当たるはずだった。
北朝鮮は中国に次ぐ、アジアの強豪で、フィジカルが強く、何より勝利への執念がズバ抜けていた。
アトランタ、シドニーと出場できなかったオリンピック。
「アテネに行きたい」
という気持ちが強い日本は、サッカー協会と各所属チームの強力なバックアップもあって、年間約100日というかつてないほど長い期間、代表合宿を実施し、上田栄治監督を始め、代表スタッフは徹底的に北朝鮮を分析し、練習の多くの時間を北朝鮮対策に費やした。
4月18日、日本代表は駒沢競技場でベトナムに7対0で大勝。
4月20日、澤穂希が、2人対1人の練習中、右足アウトサイドでパスを出した瞬間、
「痛いっ」
と倒れ込んだ。
いったんピッチの外へ出て右膝にテーピングをして戻ったが、立っているのもやっとで仕方なく練習を諦めて宿舎へ。
安静にしていれば痛みが引くと思ったが、まったく治まらなかった。
チームは、 澤穂希のケガを極秘扱いとし、かん口令を敷いた。
このとき丸山桂里奈は、澤穂希と同部屋だった。
4月22日、タイ戦を6対0で勝ち、日本代表はグループリーグを1位で通過。
澤穂希が出場しなかったことについては
「ベトナム戦で左太腿を負傷したので大事をとった」
とまるで温存したかのように発表された。
そして決勝トーナメント1回戦(準決勝)の相手は予想通り、北朝鮮に決まった。
澤は、マスコミの前では明るく振舞い、自分のケガが北朝鮮に伝わらないように細心の注意を払ったが、自力でベッドから立ち上がることもできず、
「北朝鮮船は無理かもしれない・・」
と思うとくジンマシンが出るなど精神的にも追い詰められた。
そんな澤に、丸山桂里奈を含め、チームメイトは
「ケガなんかに負けるホマじゃないでしょ」
「絶対、大丈夫だよ」
「平気だよ。
治る、治る」
と励まし、控えの選手でさえ、出場のチャンスだというのに
「ピッチに立っていてくれるだけでいいんだから」
といった。
その言葉を聞いて、澤は
「やるしかない」
と決意した。
4月24日、澤穂希がケガをして4日後、運命の北朝鮮戦の日を迎えた。
起床後、日本代表は澤を含め、全員でホテルの周りを散歩。
途中、熊野神社に寄り、
「絶対に勝ちますように」
と祈願し、八咫烏(ヤタガラス、3本足のカラス、日本サッカー協会のシンボルマーク)のお守りを全選手、全スタッフ分購入。
するとそこにカラスがやってきて、八咫烏様のメッセージのように感じ、
「勝つ気がする」
とみんなで言い合った。
出発する時間となったとき、丸山桂里奈は、同部屋の澤穂希に
「ここに戻ってくるとき、泣いているか笑っているか、もうどっちか運命は決まってるんだね。
怖いよね。
でも絶対、アテネ行けるね」
と笑顔でいわれた。
足を引きずりながら歩く澤穂希の荷物を持って一緒にバスへ向かった。
「勝てばオリンピック出場が決まる一戦でした。
北朝鮮は本当に強くて。
何が強いって、気迫や気持ちの面でとても強く、いつも私たち日本の前に立ちはだかってきたチームでした。
当時の日本女子代表は上田栄治監督を中心に、先輩方がひとつひとつ積み上げてきていて、私はまだ大学生で若手でしたが、このチームは強いと感じていました。
チーム全体でこの試合にかける思いも強くて、相手に負けないくらいの気合いが入っていました」
(丸山桂里奈)
国立競技場に着くとモチベーションビデオをみた。
モチベーションビデオとは、選手たちの気持ちを最大限引き出すためにスタッフが編集しつくった映像のことで、通常、過去の試合などで構成された。
佐々木紀夫監督が担当者に意図とイメージを伝え、完成したものをスタッフ全員で確認してから選手にみせた。
「いつも映像をみせればいいという話ではない。
あまりみせすぎると慣れてしまって感動が薄れますからね。
ここぞというタイミングを常に意識していました」
この日のモチベーションビデオは、2003年のメキシコ戦。
BGMは、ベリンダ・カーラエルの「ヘブン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」
「♪ああ、ベイビー、それが何の価値があるか知っていますか?
ああ、天国は地上の場所だ彼らは天国では愛が最初にあるといいます。
私たちは天国を地上の場所にします。
ああ、天国は地上の場所です夜が明けたら私はあなたを待っています。
そしてあなたは戻ってきます。
そして世界は生きています。
・・・・・・・・
外の通りで子供たちの声あなたが部屋に入ってくるとあなたは私を引き寄せて私たちは動き始める。
そして私たちは上空の星たちと一緒に回転している。
そしてあなたは私を愛の波に乗せて持ち上げてくれる。
ああ、ベイビー、何か知ってる?
それは価値がありますか?」
という歌詞をバックに、選手1人1人のプレーの映像が流れた。
すると真っ暗な部屋のあちこちから鼻をすする音がして、みんな感極まって肩を震わして泣いていた。
気持ちが最高潮に達し、ウォーミングアップのためにピッチへ出ると、スタジアムの3万人を超えるサポーターの大歓声に驚いた。
普段、あまり客が入らない女子サッカーの選手にとって信じられないほどの大音量の声援だった。
アップを終えてロッカールームへ戻って、試合に向けて準備。
スタッフを含め、チーム全員が八咫烏のお守りを身につけていた。
19時20分、試合開始。
キックオフ直後、味方がいいディフェンスでボールを奪取。
しかしすぐに北朝鮮のエース、リ・クムスクに奪い返された。
すると痛み止めの注射をうって、痛み止めの薬を飲み、座薬を入れた澤穂希が、リ・クムスクをショルダータックルで突き飛ばし、尻もちをつかせ、再び奪い返すと、すぐにボールを前線へ。
日本は、そのボールを展開してシュートまで持ち込んだ。
澤穂希は、
「無意識だった。
膝のことはまったく気にしていなかった。
体が勝手に動いた感じ」
というが、このワンプレーでチームは大きく鼓舞された。
控え選手としてベンチにいた丸山桂里奈は、
「あれでイケる!と思いました」
同じくベンチの安藤梢も
「あの澤さんのプレーを見た瞬間、ああ、やっぱり今日は私たちが勝つんだと確信しました」
ゴールキーパー、山郷のぞみも
「穂さんが1発目でガツンと相手にぶつかって。
痛かっただろうし怖かったと思うのですが、あのタックルをみせてくれたおかげでチーム全体がイケるぞっていう雰囲気になりました」
上田栄治監督も
「開始直後、相手のエース、リ・クムスクをショルダーチャージで突き飛ばしてボールを奪うんです。
とてもケガをしているとは思えないプレーです。
あれをみて今日はやれるかもしれないと思いました」
勢いを得た日本は、前半11分とロスタイムに荒川恵理子がゴールを決め、2対0でハーフタイムに入った。
しかし安心している選手は1人もおらず、後半攻めてくるであろう北朝鮮に対して、
「守りに入ってしまっては防戦一方になる」
「相手陣地でプレーしよう」
と声をかけあった。
後半序盤、丸山桂里奈は、大活躍の荒川恵理子と代わってピッチイン。
「点をとってやろうというよりも、せっかくのよい流れを切らないために変なボールの失い方をしないで長い距離を走ろうとか、相手陣地で仕掛けようとか、とにかくチームメイトを楽にさせたい一心でした。
澤さんとは同部屋だったので、彼女が足を痛めてコンディションが良くないのもみていました。
試合中はそれがわからないくらいのプレーをみせていて。
澤さんの負担を減らさないとという思いが特に強かった記憶があります。
北朝鮮は身体の当たりもすごくて、ユニフォームが破れるかというくらい引っ張られましたが、私はとにかく気持ちで負けませんでした」
丸山桂里奈は、攻撃はもちろん、果敢に前線でチェイシング(ボールを持っている選手を積極的に追いかけること)
結果、北朝鮮の選手たちが次々に足をつった。
そしてセットプレーから大谷未央がゴールを奪い、1991年以降、7連敗している北朝鮮に3対0の完勝。
この試合は生中継され、16.3%(瞬間最高31.1%)という高視聴率を記録。
優勝候補筆頭の北朝鮮に勝ってオリンピックへの出場権を獲得しただけでなく、魂あふれる戦いが日本中に感動を呼んだ。
このときの日本代表選手の多くが、この試合を
「サッカー人生で最高のゲーム」
といっているが、丸山桂里奈も同じだった。
「本当に奇跡的な瞬間でした。
北朝鮮がスーパー強くて。
いやアジア国が強くて、中国、韓国も強かったんだけど、北朝鮮はもはや頭ひとつ抜けてて。
北朝鮮に勝たないとアテネ行きの切符は手に入らなかったけど、3対0で勝利した試合でした。
その後のFIFA女子ワールドカップで、さらに多くの観衆も経験しましたが、やはりこのときの国立競技場の雰囲気は忘れられません。
当時は代表戦でもスタンドにいるお友達や知り合いを見つけることができるほど観客が少なかったのですが、この日は誰も見つけられませんでした。
北朝鮮の応援席もいつもよりも気合が入っていたように思いました。
在籍していた日体大サッカー部の仲間たちがバックスタンドに横断幕を出してくれているのを見つけて、とても心強かったのも覚えています。
ピッチに入ってからも、前に仕掛けると歓声が沸き、たとえ話ではなく本当に背中を押されました」
アテネ行きは決まったが、大会は継続。
北朝鮮戦から2日後、広島で中国との決勝戦が行われ、
「ここまで来たら優勝」
と澤穂希はケガを押して出場したが、0対1で負けた。
酷使してパンパンに腫れた右膝は、
「右膝半月板損傷、全治2ヵ月」
と診断され、3ヵ月後のオリンピックに出場できるかどうかはわからなかった。
丸山桂里奈は澤のケガが半月板損傷と知って、とてもプレーできる状態ではなかったはずと驚いた。
北朝鮮戦を観客席で観ていた日本体育大学 女子サッカー部1年生の川澄奈穂美は、
「澤さんが大きなケガをしていたのだと後から知りました。
そんな状態ですから、いい訳をしようと思えばいくらでもできたと思うけれど、澤さんはそうじゃなかった。
戦い抜く澤さんたちの姿をみて、私の心は震えました」
と感動した。
4年生の丸山桂里奈は、アテネオリンピックのためにあまり日体大の練習には来なかったが、川澄奈穂美は、そのプレーをみて、
「ウウッとなった」
「衝撃の存在だった」
という。
そして話してみて、
(全っ然、人の名前覚えない!)
と驚いた。
例えば丸山桂里奈に、
「〇〇高校出身の、あの子いるじゃん」
といわれ、
「えっ、誰?
〇〇ですか?」
と聞き返すと
「そうそうそうそう」
というので、
(出身校わかるなら名前覚えろよ)
と思った。
さらに
「ウチさあ、こうやってサナホとさあ、超しゃべってんじゃん。
あんまりさ、なんていうの、下の子にちゃんとしてよってさ、タメから怒られるんだけど、ヤバくない?」
といわれ、
(私にそれいう?)
と思いながら
「そうですね」
と答えた。
あまりにフランクな丸山桂里奈に、本当は『・・・先輩』といわなくてはならないのに、すぐに
「桂里奈さん」
と呼ぶようになり、最終的には
「かりちゃん」
になった。
とにかく丸山桂里奈には笑わせてもらい、地獄の1年生時代を救われた川澄奈穂美は、
「ホント、まんま。
ホント、いいと思う」
といっている。