勝利を決めた後、松岡修造は我を忘れて喜びを爆発させガッツポーズでコートの中を走った。
しかし相手への礼を忘れていたことに気づき、すぐに走っていってマイケル・ジョイスに非礼を詫び握手した。
そしてその後、コートに大の字に倒れこんだ。
刀がラケットにかわっただけ 松岡修造はサムライ
準決勝の相手は世界ランキング1位、この大会を2年連続優勝中のピート・サンプラスだった。
松岡修造は、次々とサービスエースを決め第1セットを取ったが、第2、3、4セットを取られ負けた。
松岡修造はコートに礼をしてウィンブルドンを去った。
シュウゾウ・マツオカルール
ウインブルドンの翌週にはアメリカで試合が始まった。
松岡修造は、全米オープンの前哨戦、ニューヨークでのチャレンジャーの大会で優勝。
ロングアイランドのハムレット杯でベスト8。
そして1995年のグランドスラム第4弾である全米オープンに向け調子を整えた。
1回戦は全豪オープンの優勝者のコルダ。
第1セットは取られたが、第2セットを逆転で奪い返し、第3セットも攻め続け勝った。
期待された第4セットだったが、第12ゲーム、松岡修造は両脚が痙攣し倒れた。
大腿から足首までがつった状態だった。
ルールでは、痙攣はケガとは認められず3分間のMTO(メディカルタイムアウト)の対象外。
誰も手を貸せないまま苦痛に苦しむ松岡修造はコートに放置された。
それどころか
「ウォーニング・マツオカ!」
と25秒ごとに延行為に対して警告が出され続け
「ポイントペナルティ、マツオカ!」
と最後には2分以内に試合を再開しなかったとして失格を宣告された。
主審がゲーム終了を告げ、トレーナーが松岡修造を抱き起した。
対戦相手のコルダも松岡修造の脚をアイシングするために氷を運んだ。
この模様は世界各国で放映され、翌日、松岡修造の痙攣による敗戦は全米でトップニュースとなった。
「痛がって倒れている選手に一方的にペナルティを課すなんて、こんな悲惨なことがあっていいのか?」
世論が起こり、その後、ルールが改正され、通称「シュウゾウ・マツオカルール」として試合中の痙攣治療にも認められるようになった。
しかしルール改訂後、これを悪用し試合中の大事な局面において痙攣を主張し戦略的にメディカルタイムアウトを取得する選手が現れたため、2010年シーズンからは「シュウゾウ・マツオカルール」は廃止され、新ルールでは痙攣を理由としたゲーム中のMTOは試合中に2回だけゲームチェンジかセット終了になるまでのゲームポイントを没収した上で治療を認めるという規則となった。
憧れのウィンブルドンのセンターコート
1996年、憧れだったウインブルドンのセンターコートがミヒャエル・シュティヒ戦で実現した。
卒業、そしてチャレンジ!
1997年、29歳の松岡修造は記者会見を開き、プロテニス界からの卒業を発表。
引退ならぬ卒業としたのは、一生テニスで生きていきたいという気持ちから。
また同時に「修造チャレンジ」プランを発表した。
それはテニスを子供から大人、高齢者まで家族みんなで楽しむことのできるレジャースポーツとして全国に普及していき、家族のより良いコミュニケーションの場を提供するとともに、テニスの普及・活性化を通じて全国的なスポーツ文化の定着に寄与していく活動である。
また「修造チャレンジ」の活動の1つとして「トップジュニアキャンプ」がある。
日本のテニス人口は約1500万人。
これはアメリカに次いで世界2位。
しかし世界で活躍できる日本人選手は少ない。
12~14歳のジュニアの大会では日本人選手は世界と互角に戦えているが、それ以上の年齢になると世界と差が出てくる。
だから10歳以下の子供から選手育成を始め、12~14歳のジュニア選手の強化を進め、そのための指導者やトレーナーを育成し、設備が充実した施設をつくられた。
そして2001年には錦織圭もこれに参加した。