反骨の御曹司
松岡修造 家系図
修造の長女・松岡恵さん、宝塚合格…高祖父は創始者“華麗なる一族” : スポーツ報知
松岡修造の高祖父:松岡修造は、松岡汽船創業者。
曾祖父:松岡潤吉は、松岡汽船社長、貴族院議員。
曾祖父:小林一三は、阪急東宝グループ創業者。
曾祖叔父:田邊七六は、衆議院議員。
曾祖叔父:田邊宗英は、第4代後楽園スタヂアム社長。
祖父:松岡辰郎は、松岡汽船社長、東宝社長。
義祖父:小林米三は、阪急電鉄社長。
従祖叔父:田邊圀男は、第31代総理府総務長官、第12代沖縄開発庁長官、第3代山梨県知事。
父:松岡功は、第11代東宝社長。
母:千波静は、宝塚歌劇団の星組男役スター。
兄:松岡宏泰は、東宝東和社長。
義兄:辻芳樹は、 辻調理師専門学校校長。
義伯父:三村庸平は、三菱商事社長・会長。
義伯父:三村亮平は、阪急不動産副社長。
義伯父:小林公平は、阪急電鉄社長・会長。
従叔父:鳥井信一郎は、サントリー社長・会長。
従兄:小林公一は、阪急阪神ホールディングス取締役,宝塚歌劇団理事長。
このように松岡修造の家族は、まさに華族。
元々、松岡家は摂津国有馬郡塩瀬村(兵庫県西宮市塩瀬町)の有力な一族だった。
高祖父:松岡修造は大阪で松岡汽船を興し財を成した
その養子となり家督を継いだ松岡潤吉は、松岡汽船など父の遺した会社の経営を続けながら呉羽紡績(東洋紡)の設立などにも携わり、1933年には兵庫県で第5位の資産家になり兵庫県選出の貴族院議員にもなった。
松岡潤吉の娘は、阪急東宝グループ(阪急阪神東宝グループ)を率いる小林一三の次男、辰郎と結婚し、辰郎は婿養子として松岡家に入った。
こうして松岡家と小林家は縁戚関係を結び関西財界の名門一族になった。
そんな家に生まれ育ち、エリートコースを捨ててテニスのトッププロとなった松岡修造は「反骨の御曹司」とも呼ばれる。
妻はアナウンサー、娘は宝塚。
そして松岡修造の妻:田口恵美子は、元テレ東アナウンサー。
東京新富町出身、日本女子大学文学部英文学科卒業後、ハーバード大学教育大学院メディア専攻修士課程で修士を取得し、テレビ東京の看板アナウンサーとなり、32歳のとき松岡修造と結婚した。
2人には3人のお子さんがおられ、長女の恵さんは1998年に今年宝塚音楽学校に合格した。
テニスの王子様
松岡修造は、小さな頃から自分の人生は自分が主人公主義。
目立ちたがり屋で、何か人とは違うことをやりたがった。
小学校2年生のとき、その何かと夢がぶつかった。
姉がテニスをしているのをみてラケットを握ったのがその始まりだった。
兄とテニスクラブに入り、漫画「エースをねらえ!」がバイブルとなった。
通っていた慶応幼稚舎は小学校4年生から落第制度があった。
松岡修造は、1、2学期、授業中、教師の話を聞かず、宿題もせず、3学期に何とか挽回し落第を免れるというパターンを繰り返した。
しかし幼稚舎にテニス部ができたときは初めて行われた校内試合で優勝した。
周りの期待に応えることと自分が目立つ場面ではすごい力を発揮した。
1974年、全日本女子ダブルスで優勝した野村貴洋子・飯田藍ペア
慶応の中等部に進むとますますテニスに熱中し、学校が終わると90分電車に乗ってジュニアのトップ選手が集うテニススクール:桜田倶楽部(東京都 調布市 深大寺元町2-32-1) に直行。
帰宅は23時を過ぎた。
勉強は落第しない程度にやってテニスにのめりこみ中学2年生時に全国大会や14歳以下のジュニアの大会で優勝した。
飯田藍コーチは、かつて全豪オープンにも出場した選手だった。
世界のテニスを知る彼女は、必死にボールを打ち追い続け、思い切りボールを打つ松岡修造を愛した。
そのスタイルは日本国内で主流のラリーテニスではなく世界のパワーテニスだったのだ。
松岡功
松岡修造は、ある試合で最初勝っていたが、接戦の末に相手に主導権を奪われるとやる気を失い、試合を投げてしまったことがあった。
その試合のスコアボードをみた父親は激怒した。
「こんな負け方をしよるなら、はよ、テニスなんかやめてしまえ」
松岡功は、第11代東宝株式会社(映画・演劇の製作配給・興行や不動産賃貸を行う映画会社)社長だが、大学時代に日本一となり、デビスカップに日本代表として出場したテニス選手でもある。
(兄も慶応大学テニス部キャプテン。)
だからスコアをみただけで息子が投げやりになったことを見抜いた。
「もうええ。
テニススクールの月謝は払ってやらん。
やりたかったら自分で働いて金を貯めてからにせい」
松岡修造は必死に頼み、テニススクールの月謝分として、毎日食後、皿洗いをすることで許しを得た。
父親は松岡修造がテニスをやることに反対で、その試合を1度も観に行ったことはなかった。
ことあることに
「テニスなんてやめてしまえ」
といい、松岡修造が高校で日本一になったときも
「やめるなら今だ」
といった。
プロとなった松岡修造が海外から家に電話をかけると父親が出たときがあった。
「修造です」
というとガチャンと切られたこともあったという。
麻雀にハマり悟る
あれほどテニスに夢中だった松岡修造だったが、中学3年生で麻雀を覚えるとハマってしまった。
一瞬一瞬に勝負のエッセンスが凝縮した緊迫感、危険な牌を捨てるときのスリル、高い手で上がったときの恍惚感。
朝から晩までずっと頭の中に牌が並び、犬の吠える声は「ロン!」に聞こえた。
学校が終わるとテニスに行かずに友人と卓を囲んだ。
ただただ麻雀が面白く夢中になれた。
しかしやがて自問自答し始めた。
「こんなことばかりしていていいのか?」
「もっとテニスが強くなりたかったんじゃないのか?」
「目標のないまま大学を出てなりゆきで就職して社会人になるのか?」
「そんな人生でいいのか?」
自分に語りかけるこの癖は、後にプロ選手になって「修造、ガンバレ」などと自分に励ましたり言い聞かせる自己暗示にまで発展していく。
日頃の練習でも自問自答することでポジティブな意志を強固にさせる効果があった。
しかしこのときはなかなか麻雀の魔力、怠惰な自由の誘惑に勝てなかった。
ただ深層心理で「ほんとうに自分がやりたいことは何だ?」という自らへの問いは消えることはなかった。
そしてやがて松岡修造は再びラケットをケースから取り出した。
「そうだ、この感触!
コレだ!」
現在、松岡修造はこの時期の自らの怠惰を、垂直跳びをするときに1度屈むように、人生のバネの力をためた時期だといっている。
柳川高校
1984年の春。
怠惰、堕落、惰性、無気力、倦怠・・・
この甘え地獄を抜け出るために、また慶応高校の落第を回避するため、何よりテニス一色になるため松岡修造は決意した。
必ず大学に行くことを条件に父を説得し、慶応高校から福岡県の博多から1時間くらいの場所にある柳川高校に転校した。
柳川高校は数多くの選手を輩出した高校テニスの名門。
スパルタで生徒を鍛え、そのハードな練習と上下関係の厳しさは全国的に恐れられていた。
選手はみんな丸坊主。
軍隊のように先生の号令一下、キビキビと行動する。
松岡修造は、経済的に恵まれていたが心は希望に飢えていた。
夢に向かって一直線に頑張りたいというハングリー精神が旺盛だった。
都会のテニスボーイがこれまでと正反対の練習をさせられ、どんな苦しい目にあわされようと、慶応大学卒業という安心感を捨てようとテニスができるならかまわなかった。
桜田倶楽部の仲間は、ジュニアの試合で柳川高校の様子知っていたので、まるで戦場に行くように友を見送った。
松岡修造は柳川高校に2年で転入し、すぐに練習を始めた。
学校の授業が終わると毎日ハードな練習をこなし、日曜も6~18時まで練習だった。
その指導と練習は厳しく過酷だった。
ミスをすればラケットで頭をゴツン。
「アレ?」
といっても
「修造、なんで柳川弁使わんと?」
とゴツン。
太腿の後ろをシングルポール(ネットの高さを調整する器具)で叩かれると椅子に座れなくなり風呂にも入れなかった。
柳川高校に来て松岡修造のテニスは攻撃的になった。
それまではどちらかというと敵のミスを誘うラリーテニスだったが、積極的にエースを狙うパワーテニスへと変化した。
サーブは160km/hあった。
またあれほど勉強や作文は嫌いだったのに、強くなりたい一心から日記をつけはじめた。
毎日、自分の気持ちを文字にして省みることが心の糧となった。
柳川高校に入って2か月後、「ウインブルドンへの道」という大会に出場。
全日本ジュニアランキング1位の太田茂を破って優勝した。
この大会で勝つと、イギリスのウインブルドンやフランスのフレンチオープンのジュニア選手権に出場できた。
しかしこの海外遠征の時期がインターハイと重なっていたので松岡修造は辞退した。
そしてインターハイで柳川高校はシングルス、ダブルス、団体戦の3冠となった。
単身渡米
ボブ・ブレッド
3年生になった松岡修造は再び「ウインブルドンへの道」で優勝した。
ウインブルドンのコートに立つことは夢だった。
しかしインターハイでチームに迷惑をかけたくなかった。
悩んだ挙句、柳川高校を1年休学し、1年後戻るという条件でウインブルドンへ行った。
松岡修造を欠いた柳川高校はインターハイでベスト4。
連覇を逃した。
松岡修造は、フレンチオープンジュニアでは、2回戦に進出。、ダブルスでも2回戦進出。
ウィンブルドンジュニアでは、3回戦進出。
そして2ヶ月間の遠征で終えた松岡修造は、東京に戻った。
高校は休学中なので毎日桜田倶楽部で練習した。
フレンチオープンでプレーする松岡修造を世界的な名コーチ、ボブ・ブレッドがみて興味を持った。
その話が日本人カメラマンを通じて桜田倶楽部に伝わり、来日していたボブ・ブレッドにコンタクトをとった。
すると来てくれるという。
柳川高校に戻り大学推薦入学を目指すだけで終わってしまうことに不安を感じていた松岡修造は有頂天になった。
ボブ・ブレッドは松岡修造の練習をみた。
30分ほど打ち合い
「OK」
と手を差し出した。
そしていった。
「明日、アメリカに帰る。
サヨナラ」
もっとアドバイスが欲しかった松岡修造は拍子抜けしたが、それでも満足だった。
翌日、ボブ・ブレッドを空港まで送った日本人カメラマンから電話があった。
「修造、ボブからの伝言だ。
明日にでもアメリカに来い。
日本にいたら強くなれないよだって・・」
18歳の松岡修造は、柳川高校を中退し、単身、アメリカに渡った。
ボブ・ブレッドの手配でパーマーアカデミーハイスクールに通いながらホップマンキャンプで練習をみてもらった。
外国人の中に混じってひたすらボールを追いトレーニングを積んだ。
英語習得のために、自分の周囲から辞書以外の日本語をすべて捨てた。
本や雑誌、音楽まで捨て、日記も英語で書き始めた。
数ヵ月後、相手のいっていることがわかるようになり、自分のいいたいことも伝えられるようになった。
渡米1年後、ハイスクールを卒業し大学に進もうとしたときボブ・ブレッドがいった。
「腕試しにプロの試合に出てみよう」
「勝てないよ」
「つまらない恐怖心を持つな
人間は自分では思いもよらない能力がある
5年間頑張ってみろ
運がよけりゃシュウゾーは世界100位以内に入る力がある」
(世界100位以内?
よし!やってみよう!)
プロテニスは弱肉強食のピラミッド
ATP(世界男子プロテニス選手会)の制度では、全豪、全仏、全英、全米という4大グランドスラム大会を頂点に、世界ランキング100位くらいの選手だけが出場できるグランプリ、チャレンジャー、そして世界ランキング1000~2000位の下位選手が競うサテライト(現:フューチャーズ)というようにピラミッド型に構成されている。
選手は、とにかく試合に勝つことでランキングを上げていくことを目指す。
サテライトの大会には世界中からエントリーがあるのでその出場者数はすごく、本戦の前に予選があった。
予選は7試合勝ち抜き本戦に出れるのは4人だけだった。
そこで勝つと5週目にその前の4週で優秀な成績を残した者たちだけのトーナメントに出られた。
そしてここではじめてポイントがもらえる。
このポイント数でランキングが決まった。
格上のトーナメントに出るにはポイントをたくさん稼がなくてはならなかった。
ウインブルドンなど4大大会に出るためには700ポイントが必要だといわれる。
グランドスラム
全豪オープン・全仏オープン・ウィンブルドン(全英オープン)・全米オープンというテニス界の世界4大大会をグランドスラムと呼ぶ。
また、1人の選手が同じ年の4大大会を全て制することもグランドスラムという。
グランドスラム大会の主要な試合や決勝戦が行われるセンターコートに立つことは、テニス選手にとって最高の憧れであり夢である。
毎年1月にオーストラリアのメルボルンにて開催される全豪オープンテニス。
センターコートは開閉式屋根を持つ「ロッド・レーバー アリーナ」。
サーフェスはハードコート。
初夏、フランスのパリ郊外ブローニュの森近くのローランギャロスで全仏オープンは開催される。
ボールボーイやアンパイアの服装から観客の装いまでお洒落なフランスならではの雰囲気である。
センターコートはコート フィリップ・シャトリエ。
サーフェスはクレーコート。
イギリス・ロンドンの郊外ウィンブルドンで開催されるテニス界の権威ともいえる大会。
120年以上の歴史と伝統を誇り、白いウェアの着用が義務付けられているなど、独特の雰囲気の中で行われる。
センターコートには、2009年に開閉式の屋根が取りつけられた。
サーフェスはグラスコート。
全米オープンテニスは、真夏のアメリカ・ニューヨーク郊外フラッシングメドウズにて開催される。
ニューヨークだけにセレブリティーが真夏の夜を過ごしにナイトセッションに数多く訪れる。
2万3千人以上を収容する世界最大のセンターコート「アーサー・アッシュ スタジアム」を擁する。
サーフェスはハードコート