サテライト
松岡修造は、サテライトの試合に出た。
サテライトとは、通常、衛星を指し、その意味は、本体から離れて存在するもの。
サテライトの試合には観客など1人もいない。
ボールボーイもいないからボールは自分で取りに行く。
ラインズマンもいないので自分でジャッジした。
松岡修造は、毎週、地方の小さな町をまわって、予選を7試合を勝ち抜き本戦に出場という試合を4週勝ち抜き、5週目に進出し8ポイント獲得した。
腕試しのつもりで出たサテライトだったが思わぬ結果にボブ・ブレッドはいった。
「シュウゾー、いっそのこと大学なんて行かずにプロになったら?」
こうして松岡修造はプロになった。
どの大会に出るかは選手の自由だが、交通費や宿泊費は自分持ち。
まずそのお金を工面しなければならない。
あるマネージメント会社と契約し年間300万円を確保。
アメリカ国内ならバスや電車、仲間とレンタカーをシェアし移動、海外の場合は格安チケットを探した。
目的地に着いたらモーテルで外国人選手とルームシェアし、ランキングが下の方が床に寝た。
そして予選に出場し、勝てればそれでいいが、負ければ次の週の大会に出るために移動しなければならなかった。
また練習用のコートは、あくまで試合に出る選手のもので予選で負けるとコートもボールも貸してくれない。
しかし松岡修造はたとえ予選で負けても練習をしたかった。
だからコートに行き試合の準備をしている選手に練習を申し込んだ。
しかし誰も負けた選手と練習したがらなかった。
断られるとコートの隅で独り黙々とトレーニングした。
誰も知らない田舎で、予選で負け、練習相手もいないなか、1人で黙々とトレーニングを繰り返し、日が落ちて暗くなるとハンバーガーを水で流し込んでモーテルの床で寝た。
誰も相手にされず、独りで戦う日が続くと「強くなりたい!」という思いはますます強くなった。
早朝、まだ鍵がかかったコートにネットをよじ登って入り、練習しに来た人たちを待っては声をかけた。
何度も何度も断られながら、たまに相手が見つけると必死に練習した。
相手は試合前。
できるだけ強くサーブを打って、必死に応戦した。
やがて
「いい練習ができる」
という評判が広まり、練習相手に困らなくなった。
そして格上に相手との練習で松岡修造自身もレベルアップしていった。
サテライトのツアーは、アメリカ、イギリス、ドイツ、スペイン、アラブ、タイ、香港、ナイジェリアなど世界各地の地方都市を巡った。
1人でツアーを回っていれば、練習を休もうと、夜遅くまで遊ぼうと、何をやろうと自由だった。
友のなく、お金もなく、やがて目標意識さえ薄れていき、多くの世界中から集まった若者がラケットを投げ出していく。
一方、試合に勝ちランキングを上げ、1試合1000万円、優勝賞金数億円という大会に出る者もいる。
資格試験などなく、誰でもプロになれるテニスの怖さがそこにあった。
テニスに対する情熱が異様に強い松岡修造は、生活のすべてをテニスに費やすことができた。
マイナスになると思うものは一切食べず、きれいな女性に誘われてもトレーニングの邪魔になる遊びは断った。
練習は普通の人の数倍行った。
どこか悪い点がみつかれば納得がいくまで徹底的に練習した。
トレーニングでパワーを強化し、体の柔軟性が足りないと、入浴後1時間ストレッチング。
漫画「エースをねらえ!」全18巻を世界中、持ち歩き読んだ。
試合中、コートチェンジの間に読むこともあった。
1986年10月、19歳の松岡修造は東京で行われたセイコースーパーテニスに出場。
1回戦で世界ランキング1位のイワン・レンドルと対戦し、まるで歯が立たず惨敗。
翌週の香港オープンでアジア代表として出場し、ジミー・コナーズと対戦。
いいところなく一方的に敗れた。
オリンピック日本代表、日本ランキング1位
1988年、20歳の松岡修造は、サテライトからはい上がり、世界ランキングは270位となり、上位クラスのチャレンジャーやグランプリの大会に出場するようになる。
1月、全豪オープンで予選を勝ち上がりグランドスラム初出場を果たす。
4月、ノーシードで出場したサントリー・ジャパン・オープンでは、1回戦で主催者推薦の土橋登志久を6-2, 6-3のストレートで、2回戦でジョナサン・キャンターを6-2, 6-4のストレートで、3回戦では世界ランキング7位のミロスラフ・メチージュを7-6, 6-3のストレートで破る番狂わせを起こす。
準々決勝ではジョン・マッケンローに敗れたものの、スコアは6-7, 6-7のストレートと善戦した。
これにより世界ランキングは一気に150位に上昇。
8月、ノーシードで本戦から出場した全米オープン1回戦を突破し、グランドスラム初勝利を挙げる。
9月、ソウルオリンピックアジア予選では、アジア強豪たちを次々とストレートで破り、オリンピック初出場を果たす。
(オリンピックはソウル、バルセロナ、アトランタと3大会連続出場。)
10月第1週、クイーンズランドオープンで準決勝まで進出。
10月第2週、スワン・プレミアム・オープンで準々決勝まで進出。
10月第3週、セイコー・スーパー・テニスで準々決勝まで進出。
世界ランキングは82位と大幅に上昇。
1976年に76位でシーズンを終えた九鬼潤以来12年振りの年間トップ100入りを果たした。
日本ランキングも1981年から7年連続トップだった福井烈を抜き1位となった。
1度目の大ケガ 復帰後、King of Qualifire(予選の王)と呼ばれる
1989年、ニュージーランドのウェリントンで開催されたBPナショナル・チャンピオンシップで準優勝。
自身、初のグランプリトーナメント決勝進出、日本人選手としても九鬼潤以来13年振りの快挙だった。
しかしその直後、両膝が痛み出した。
両膝の半月板が損傷していた。
1989年4月、チューリッヒで手術を受け、その後、3ヵ月間、リハビリに専念した。
7月に試合復帰した。
しかし膝の痛みは消えていなかった。
術後の説明が、言葉の違いによって完全に理解できなかったことへの後悔、手術そのものへの不信感、そして何より膝の不安などネガティブな気持ちに支配され、何試合かしたがすべて1回戦負け。
世界ランキングは60位から120位へ転落。
再度、日本で内視鏡検査を受け、医師に
「痛みは出るだろうが症状はこれ以上悪くならない」
と説明を受けやっと安心できた。
10ヵ月間、1度も勝っていない松岡修造の世界ランキングは445位にまで落ちた。
1990年1月、松岡修造は全豪オープンに出場。
これに負けたら世界ランキングは900位まで落ち、ランキング1000~2000位のサテライトまで一歩手前となってしまう。
松岡修造は膝の痛みとテニスができる喜びを感じながら予選を勝ち抜いた。
その後、ウインブルドン、全米を含む11大会の予選をすべて勝ち抜き、世界ランキングを100位台に戻し「King of Qualifire(予選の王)」と呼ばれた。
2度目の大ケガ さあ、またこれで強くなれるぜ
1990年10月、セイコースーパーテニス1回戦で左足足首靱帯断裂。
しかも3本ある靱帯がすべて切れていた。
すぐに手術を行った。
「さあ、またこれで強くなれるぜ、修造!」
22歳の松岡修造は、前回の大きなケガの経験からより強く、より前向きな人間になっていた。
手術の翌日からベッドの上で上半身のウエイトトレーニングを開始した。
1991年2月、左足首塵埃断裂から4ヵ月後に復帰し、2ヵ月で世界ランキングを100位以内に上げた。
7月のカナディアンオープンでは強豪のサンプラスを破ってベスト8進出。
1992年4月、韓国オープンで日本人初、もちろん自身も初のグランプリ大会優勝。
その後、6月のクイーンズクラブ大会準決勝で世界ランキング2位、ウインブルドンで2回優勝しているエドバーグと対戦し、魂を込めたボールを打ち、粘りに粘って最後はとうとう逆転勝利した。
ウェイン・フェレイラとの決勝戦ではフェレイラに敗れたが、世界ランキングは46位に上がった。
(これは2011年10月17日に錦織圭が更新するまで日本の男子選手が記録したシングルス最高位だった。)
2度の大きなケガから立ち直った松岡修造は一回りも二回りも大きくなっていた。
3度目の悲劇
1992年11月、フロリダのキャンプへ移動中、機内で寒気を感じた。
風邪くらいでは休めないので気にせずキャンプインしたが、しばらくすると喉が腫れ、口内炎ができ、発熱し、悪寒で震えが止まらなかった。
医師の診断は伝染性単核球症。
機内で空気感染したと思われるウイルス性の奇病だった。
あと少しで世界のトップに近づけるという矢先、松岡修造は東京に戻り入院した。
治療方法は安静しかなかった。
医者はいった
「完全復活は7か月後です。
安静にしていれば治るけど、ここで完全に治しておかないと、いつぶり返すかわかりません」
過去の膝や足首のケガは、手術翌日から患部以外のトレーニングができた。
だが今回はトレーニングできないので、退院後、もう1度体をつくり直さなければならない。
2ヵ月間、入院し、ランキングは200位近くまで落ちた。
筋力が落ちてしまうことを恐れた松岡修造は、医者の「7か月間、安静」という忠告を無視し3ヵ月後からトレーニングを再開した。
体を動かすと発熱したが、松岡修造という男は、必ず自分で決めたことをやり通そうとする。
マイナスの言葉を口にすることを禁止した。
猛暑の日も「暑い」とはいわず「暑いけどがんばろう」、体が痛い時も「痛いけど痛さを忘れることが自分を強くするんだ」と自分にいい聞かせた。
やがて体は順調に回復し本来の明るさも戻ってきた。
結局、闘病中、闘争心はまったく衰えなかった。
松岡修造は再々度、立ち上がった。
1995年のウィンブルドン 日本人の心理的な壁を壊した
1995年6月30日、全英オープン5日目、プロ9年目、27歳、世界ランキング108位の松岡修造はウインブルドンの13番コートに立っていた。
6度目のウインブルドンは予選からの挑戦予定だったが、ケガで棄権した選手が出たため本戦からの出場となった。
過去5度のウインブルドンの成績は2回戦止まり。
しかし今回は1回戦で世界ランキング28位、チェコのノバチェク、2回戦ではバハマのノールズに勝ち、日本人として22年ぶりの3回戦進出を果たしていた。
3回戦の相手は世界ランキング34位のアルゼンチンのハビエル・フラナだった。
「修造、大丈夫だ」
2回戦で切れた腹筋にテーピングを施し松岡修造は自分に言い聞かせ右拳を握りしめた。
1週間前、フラナはノッティンガムの大会で優勝していた。
同じ大会で松岡修造は3回戦で敗れていた。
格下だった。
松岡修造は最初から全力で攻め、第1セットは取った。
しかしその後、第2セット、第3セットをフラナに取られた。
もし第4セットを取られたら負けである。
第4セット、松岡修造は粘り第6ゲームを終えて3-3。
第7ゲームはフラナのサービスゲーム。
テニスはいかに自分のサービスゲームをとり、そしていかに相手のサービスゲームをリターンし破るかというゲームで、基本的にサービス側が有利である。
しかし松岡修造はなんとか耐えて30-30に持ち込んだ。
しかしその後、一気に2本サービスを抜かれてしまい、セットカウントは3-4にされた。
松岡修造はあきらめてしまいそうな自分の心を奮い立たせた。
「ここからだ!」
そのとき観客席から日本語で応援の声が聞こえた。
「松岡ぁー!」
松岡修造は大きく拳を上げてほほ笑んだ。
そして第8ゲームを取ってセットカウント4-4。
第9ゲームは松岡修造のサービスゲームだったが、フラナはすさまじいリターンをみせ松岡修造も必死に返した。
「ウッ」
と打ち返すたびに声が出た。
松岡修造の打ったボールがフラナの横を鋭く抜いて5-5となったときフラナが主審に抗議。
「ラリーの間、スタンドの皆さんは静かにしてください」
とアナウンスされた。
それほど松岡修造への声援が大きかった。
11ゲームはサービス権を持つフラナが取り5-6。
12ゲームも松岡修造のサーブをフラナが強烈にリターンし15-30とリード。
そして松岡修造はファーストサーブを外した。
「大丈夫、大丈夫」
ボールにむかっていい、セカンドサーブも安全を捨てて攻めた。
そのサーブをフラナはとどめを刺すようなリターンを返した。
「ウッ」
松岡修造はそれを打ち返した。
この後、ボールが松岡修造のラケットーに吸い込まれるように面白いようにボレーが決まり、6-6。
松岡修造は苛立つフラナを強気で攻め勝負をファイナルセットに持ち込んだ。
ファイナルセットの4ゲーム目、松岡修造のリターンがフラナを抜き、この試合で初めてフラナのサービスゲームを破った。
ノリノリの松岡修造は1球1球に魂を込め思い切り打った。
ボールに触れることができないフラナは両手を上げた。
ファイナルセット、5-3で迎えた第9ゲーム。
松岡修造のマッチポイント。
打ち込んだサーブはフラナに打ち返されたがアウトとなり、3時間を超えたフルセットの試合を松岡修造はモノにした。
この1球は絶対無二の1球なり
4回戦の相手はマイケル・ジョイスだった。
ランキングは100位前後で松岡修造と同クラスの選手。
そしてお互い勝てばウインブルドンのベスト8である。
松岡修造は攻撃的テニスを続けた。
全力のファーストサーブが外れても、セカンドサーブも安全には打たない。
当然、ダブルフォルトが増えるが、エースも増える。
松岡修造が世界を相手に戦うとき武器になったのが、この攻撃的サーブだった。
ジョイスは吠える松岡修造の闘志に押されミスを連発した。
「この一球は絶対無二の一球なり。
されば、身心をあげて、一打するべし。
この一球一打に、技を磨き、力を鍛え、精神力を養うべし。
この一打に、いまの自己を発揮すべし。
これを庭球する心という。」
第1回全日本テニス選手権の男子シングルスで優勝しウィンブルドンやオリンピックにも出場した福田雅之介の言葉である。
プロテニスプレーヤーは1球1球に、さまざまな気持ちや願いを込めて打ち込むという。
どちらかというと力むタイプの松岡修造はまさに渾身の力と気持ちを込めて打った。
「この1球は絶対無二の1球なり!」
松岡修造は、この言葉を叫んでサービスを放ち、ウインブルドン、ベスト8進出を決めた。
1933年の佐藤次郎以来62年ぶりの快挙だった。
勝利を決めた後、松岡修造は我を忘れて喜びを爆発させガッツポーズでコートの中を走った。
しかし相手への礼を忘れていたことに気づき、すぐに走っていってマイケル・ジョイスに非礼を詫び握手した。
そしてその後、コートに大の字に倒れこんだ。
刀がラケットにかわっただけ 松岡修造はサムライ
準決勝の相手は世界ランキング1位、この大会を2年連続優勝中のピート・サンプラスだった。
松岡修造は、次々とサービスエースを決め第1セットを取ったが、第2、3、4セットを取られ負けた。
松岡修造はコートに礼をしてウィンブルドンを去った。
シュウゾウ・マツオカルール
ウインブルドンの翌週にはアメリカで試合が始まった。
松岡修造は、全米オープンの前哨戦、ニューヨークでのチャレンジャーの大会で優勝。
ロングアイランドのハムレット杯でベスト8。
そして1995年のグランドスラム第4弾である全米オープンに向け調子を整えた。
1回戦は全豪オープンの優勝者のコルダ。
第1セットは取られたが、第2セットを逆転で奪い返し、第3セットも攻め続け勝った。
期待された第4セットだったが、第12ゲーム、松岡修造は両脚が痙攣し倒れた。
大腿から足首までがつった状態だった。
ルールでは、痙攣はケガとは認められず3分間のMTO(メディカルタイムアウト)の対象外。
誰も手を貸せないまま苦痛に苦しむ松岡修造はコートに放置された。
それどころか
「ウォーニング・マツオカ!」
と25秒ごとに延行為に対して警告が出され続け
「ポイントペナルティ、マツオカ!」
と最後には2分以内に試合を再開しなかったとして失格を宣告された。
主審がゲーム終了を告げ、トレーナーが松岡修造を抱き起した。
対戦相手のコルダも松岡修造の脚をアイシングするために氷を運んだ。
この模様は世界各国で放映され、翌日、松岡修造の痙攣による敗戦は全米でトップニュースとなった。
「痛がって倒れている選手に一方的にペナルティを課すなんて、こんな悲惨なことがあっていいのか?」
世論が起こり、その後、ルールが改正され、通称「シュウゾウ・マツオカルール」として試合中の痙攣治療にも認められるようになった。
しかしルール改訂後、これを悪用し試合中の大事な局面において痙攣を主張し戦略的にメディカルタイムアウトを取得する選手が現れたため、2010年シーズンからは「シュウゾウ・マツオカルール」は廃止され、新ルールでは痙攣を理由としたゲーム中のMTOは試合中に2回だけゲームチェンジかセット終了になるまでのゲームポイントを没収した上で治療を認めるという規則となった。
憧れのウィンブルドンのセンターコート
1996年、憧れだったウインブルドンのセンターコートがミヒャエル・シュティヒ戦で実現した。
卒業、そしてチャレンジ!
1997年、29歳の松岡修造は記者会見を開き、プロテニス界からの卒業を発表。
引退ならぬ卒業としたのは、一生テニスで生きていきたいという気持ちから。
また同時に「修造チャレンジ」プランを発表した。
それはテニスを子供から大人、高齢者まで家族みんなで楽しむことのできるレジャースポーツとして全国に普及していき、家族のより良いコミュニケーションの場を提供するとともに、テニスの普及・活性化を通じて全国的なスポーツ文化の定着に寄与していく活動である。
また「修造チャレンジ」の活動の1つとして「トップジュニアキャンプ」がある。
日本のテニス人口は約1500万人。
これはアメリカに次いで世界2位。
しかし世界で活躍できる日本人選手は少ない。
12~14歳のジュニアの大会では日本人選手は世界と互角に戦えているが、それ以上の年齢になると世界と差が出てくる。
だから10歳以下の子供から選手育成を始め、12~14歳のジュニア選手の強化を進め、そのための指導者やトレーナーを育成し、設備が充実した施設をつくられた。
そして2001年には錦織圭もこれに参加した。